体が痛い。肩と、背中、それから腰。足全体にも、怠さが纏わりついていた。このうち上半身の痛みは、硬い床に寝転がったが故の凝りと似ている。卒業制作が佳境に入った頃は、しょっちゅうこの痛みと戦っていたっけ。
 あー、俺、床に転がってんのか。フローリングの硬さを思い出しながら、寝返りを打った。
 打とうと、した。
「ッあ」
 甘い痺れが、体中に広がる。散々暴かれた腹の奥が、じゅわりと疼いた。かといって、自慰に耽るほどの熱欲ではない。いうなれば、そう、事後の倦怠感。
 そこまで思い当って、ようやく背後に寝そべる気配に気付いた。
「調子、どお」
「っう」
 耳元で、掠れた声がする。ハ、と首だけで振り返れば、気怠さを携えた男の顔があった。日頃、きちりと結われている髪は乱れている。鋭いくせに、甘ったるさを溶かした目元には、金糸が掛かっていた。鬱陶しいと言わんばかりに指で払う様が、やけに目に焼き付く。
 この男に、抱かれた。余すことなく、貪って貰った。体質特有の熱で溺れているところを、この男の体温で上書きしてもらった。
 ほんの数時間前の光景が、断片的に思い起こされる。カッと頭に血が上って、羞恥心が舞い戻ってきたことに、一抹の安堵を覚えた。
「……まだ、ぼーっと、する」
「そお」
 自分の声は、そばの男以上に嗄れている。酷く喘がされた記憶は、確かに残っていた。あられもない声を、アトリエいっぱいに響かせたことも、鮮明に覚えている。やらかした、と、思わないこともない。その一方で、頭は充足感を感じていた。
「……っ、」
 そいつと目を合わせていると、また熱がぶり返してきそう。おそらく、ピークは越えた。それでも、熟れた視線を受け止めていると、体は反応してしまう。ふいと顔の向きを戻して、背中を丸めた。
「どうする」
「ぇ」
 作った距離は、あっけなく縮められてしまう。素肌に、ぴったりと男が寄り添ってきた。汗ばんでいる肌が、どちらともなく吸い付く。片腕は、ひょいと腹に回された。何一つ纏っていない剥き出しの皮膚に、指の腹が触れる。仕事柄、この男の指の皮は、人よりもちょっと硬い。柔い肌にざらりと沈むそれは、戻り始めた理性を削りだした。
 あっ。口から、濡れた音がまろび出る。んっ。項に口付けられると、鼻から甘ったるい音が抜けていった。ふ。溢れた吐息は、俺のものでもあり、男のものでもある。
「続き、する?」
 首筋に触れたままの唇は、甘い声で囁いた。呼応するように、腹の奥が疼く。なんなら、表面にもヒクつく動きは出ていたのかもしれない。骨ばった手に、下腹を丸く撫でられた。
 うん、と言えば。あるいは、一つ頷けば。この男は、俺のことをもっと満たしてくれるだろう。俺の気が済むまで、体を暴いてくれる。この甘い倦怠感の中、さらなる悦楽に覆いかぶさられるのは、さぞ気持ちが良いことだろう。
 頭の中で、欲と理性の天秤が左右に揺れる。
 したい。されたい。この男の、好きにされたい。
 こくん、と、生唾を呑み込んだ。
「……やめとく」
「もう、体いいの」
「うん、だいじょうぶ、もう、がまんできる」
「そ」
 ふるりと首を横に振ると、項にやんわりと吸い付かれた。間もなく、腹に回されていた腕が離れ、背後にあった気配も遠ざかっていく。
 あ、離れ、ちゃうの。
 ……こんなことを口にしたら、男はどんな顔をするだろう。ばか、俺が我慢できなくなっちまうだろ。妄想の中にいるそいつが、困ったように言った。
 物寂しさを堪えているうちに、布擦れの音がする。脚が、布を纏っていく長い音。ころりと仰向けに寝転がれば、そいつは作業着のズボンに足を通していた。
 けれど、背中は剥き出しのまま。肩甲骨の上には、いくつもの赤い線が書かれている。あのすべてを、自分がつけた。そう思うと、なんだか胸がスッとする。満ち足りた気分になったあと、いや、何を考えているだとちょっと自分が嫌になった。
「どらけん」
「んー」
「かえるの」
「おう。一旦帰るワ。で、お前ン家行って薬取ってくる」
「……あ、そうだ、れんらく、」
「ルナちゃんにはメールしといたよ」
「エ、いつ、なんて」
「お兄ちゃん、久々に熱出してアトリエにこもってるよって。あと、連絡遅くなってごめんなっても」
「……返事、きた?」
「まだ。送ったの、夜中だったしな」
 のろりと上半身だけ起こしていると、Tシャツまで纏ったドラケンが背中を支えてくれる。視界に入った下肢には、体液が纏わり付いたままだった。乾いているところは変に引き攣っているし、湿っているところは不快にべたついている。臍の下に残っている透明な液体を、指先で無理やり肌になじませた。
「アー……、蒸しタオルとか、いるよな。悪い、気ぃ利かなくて」
「や、全然! 俺の方こそ、急に、いろいろ、ごめん」
「……それはいーんだって。仕方ねえんだから」
 背中に触れていた手は、流暢に肩へと移動する。脱力している俺の体を支えつつ、ドラケンは部屋の隅に丸まっている綿毛布を引き寄せた。雑に二つ折りにし、俺の下肢にふわりとかけてくれる。タオル地の細やかな毛羽立ちが、太腿の表面に擦れた。そのくすぐったさで、萎えてほしい疼きが一回り大きくなる。
 今、「まだ辛い・やっぱり疼く・思ったより、苦しい」と言ったら。この男は、俺に付き合ってくれるだろうか。服の裾を、ちょいと引くだけでも、察してくれるのかもしれない。
 片手でタオルケットを握りつつ、もう片方の手を伸ばした。指先は、すぐに男の服の裾を掠める。
 小さく抓もうとして、……すんでのところで堪えた。
「三ツ谷?」
「あー、っと」
 行き場の失った腕は、のろりと宙を彷徨う。大人しく引っ込めようかと思って、なんとなく、自身のこめかみに向けた。癖のように、かり、指先を髪に潜らせる。それからずるりと首筋に滑って、先程口付けられたところを撫でた。
「……あれ」
 指先に、頸椎の硬さが触れる。肌の上からわかる凹凸は、その骨の分しかなかった。
 噛まれた痕は、いくら触っても見つからない。
「どした」
「あの、さ」
「うん」
「噛まな、かった、の」
 最中は、執拗なくらいに舐られた。吸われた。甘噛みをされた記憶もある。だが、そういえば、強く噛みつかれた覚えはない。それとも、番というのは、甘噛み程度で成立するものなのだろうか。いや、主治医から聞いた話だと、傷跡ができるくらいに強く噛まないと成らないはず。
 なぜ、自分は噛まれていないのだろう。
「噛んで、くれなかった、の」
 これは、つまり、番になることを拒否された?
 いや、いやいや、いやいやいや。そもそも、自分は、番になってくれと頼んだか? そこまでは、言っていない。口にしたのは、抱いてくれ、だけだ。でも、前にこの男は言っていた。俺がどうしようもなくなったら、この先の俺の人生引き取ってくれるって。番にしてくれる、って。あれは、嘘だった? そんな、まさか。あんな真摯な顔しておいて、口から出まかせ? 違う、ドラケンは、そんなことする奴じゃない。
 はく、春先の冷えた空気を食むと、体の内側で燻ぶっていた熱が急に引いた。ぐずぐずと渦巻いていた欲も、まっさらになる。そのくせ、心臓はばくばくと騒ぎ立てていた。あまりの忙しなさに、胸の辺りが痛くなってくる。血が巡る度、肺が潰される心地がした。呼吸もしにくくなってくる。わなり、唇は震え、しかし放つべき言葉は見つからなかった。
 傍らで膝をついている男の眉が、静かに寄る。眉根は下がり、口の端も片方だけ下を向いた。けれど、逆の口角は上向きに。奇妙な苦笑が、顔の表面に乗っていた。
「俺が今、三ツ谷と番になるのは、違うと思って」
「ちがうって、なんだよそれ、俺はッ」
「だってお前さ、」
 俺の言葉を食うように、男は吐き捨てる。相変わらず、歪な笑みを浮かべていた。俺を散々貪った唇が、震えるように開かれる。覗いた粘膜が、やけにグロテスクに見えた。
「俺と番になるの、―― 本当は嫌なんだろ」
 一際深く、心臓が跳ねる。呼吸もぴたりと止まった。これは、小さくなる、というのが、正しいか。
「そんなことっ」
「ないって? ほんとにそう思ってる?」
 静かに、男は首を傾げる。たったそれだけの所作に、色気が滲んだ。
 手櫛を通しただけの金髪は、まだ束になっている。前髪として作っていたらしい一房が、とろりと垂れた。
「俺と会えたこと、一緒に喧嘩したこと、背中を預けたこと、それくらい信用してること、」
 厚みのある唇は、淡々と言葉を重ねてくる。その声に合わせて、脳は記憶を呼び起こした。
 初めて家出をして、あの壁の前でこいつと出会った。鮮やかに心の内を紐解かれて、自分の本質を見抜かれた気がした。あの日抱いた憧れは、褪めることなく胸の内で燻ぶり続ける。そして選んだ不良の道。この背中に追いつきたかった。並び立とうと、夢中だった。ついにそれは叶わなかったけれど、たった二十年そこらの人生で、いちばん信頼した男であるのは間違いない。なんせ、自分に何かあった時、最初に気付いて、手を貸してくれるのは、この男なんだから。
 しかし、それが、三ツ谷隆という個人が、龍宮寺堅という個人と対面して育った感情かというと、どうだろう。どうなん、だろうか。
「全部、―― 俺がアルファでお前がオメガだからこうなった」
 耳鳴りがした。オメガはアルファを求めるし、アルファはオメガに執着する。そういう体に、成っている。オメガとして生きていかなくてはならないとわかった日に、主治医に聞かされた言葉が頭の中で繰り返し鳴り響く。
「そう思ってるだろ、お前」
「ッ」
 そんなことない。言い返したいのに、半端に開いた唇からは荒い息しか出てこなかった。
 俺はオメガだ。そして、ドラケンはアルファだ。その性別の都合、どうやったって惹かれ合う。そういう、生き物だから。でも、人間は社会的な動物だ。現代で生きる以上、理性を手放すことはできないし、理性があるからこそ積み上げられる信頼関係だってある。
 俺とこの男との関係は、理性で築き上げたもの。兄弟分として悪名を轟かせたのだって、オメガのせいなんかじゃないって、信じたかった。
 しかし、今、番になってしまったら。
「俺を選んだのは、本能であって、自分の意思はそこにない」
 喉が引き攣った。
「あれこれ必死に考えて今があるはずなのに、考えたこと全てが無駄だったんじゃねえか」
 頭に引っ掛かっていたことが、全部言葉となって降ってくる。それも、自分の口ではなく、傍らにいる、アルファの口から。
「それを突きつけられるくらいなら、―― 番になんてなりたくない」
 図星だった。この男には、俺の考えていることが、全部お見通しらしい。それも、この男がアルファだから? それは、おそらく、違う。アルファとオメガは惹かれ合うだけだ。そこに理性は存在しない。そもそも、わざと手放して泳がせるなんて真似、あの執着心があったらできないだろう。
 ドラケンは、昔から敏かった。出会って数時間なのに、俺の内心を的確に読み取った程。それをなせるのはなぜか。
 たぶん、人を想う心を、持ち合わせているから。
「は、はは、」
 すとんと肩から力が抜けた。上半身が、ぐらりと傾く。一瞬、男の腕が力むが、すぐに丁寧な手付きで離れていった。おかげで背骨が硬い床に当たる。
「ドラケンって、俺より俺のことわかってんだな」
「そりゃあ俺とお前の仲だからな」
「昔言ってたよなあ、兄弟分とかって。タメなのに兄と弟ってなんだよって、なんか癪だった」
「はあ? そうやって紹介する度、ちょっと嬉しそうにはにかんでたの、知ってんだからな」
「はにかんでねーし」
「いーや、はにかんでたね」
 頭はすっかり冴えた。熱が引いたわけでもないようだから、あとで薬はちゃんと飲もう。なんなら、このまま待っていれば、ドラケンが持ってきてくれるという。仕事は、良いのだろうか。定休日っていつだっけ、水曜だったか、木曜だったか。というか、今は何時なんだ。ころりと横向きになって、壁掛け時計を探した。
「そういうことだから」
「ん、ワ」
 すると、頭に手を乗せられる。目線だけを擡げれば、真上からこちらを覗き込んでくる顔が見えた。その表情に、もう歪さはない。穏やかで、涼し気で、―― もったいないことしたな、と書いてあった。
 アルファとしてのこいつは、きっと俺のこと、奪い取りたかったのだろう。
「お前のこと、今は引き取れない」
「うん」
「番はさ、この先の人生、都合良く生きるために必要になったら、その時よーく考えて選べばいい」
「ふふ、選ぶほどいるかな」
「いるいる。気付かねえだけで、アルファもオメガも、そこら中にいるんだから」
 まるで見て来たようにドラケンは言う。そこら中になんか、いるもんかよ。仮にいたとしても、番を欲するほどのアルファやオメガが、どれだけいるのやら。一生その性質に気付かない奴だって、多いっていうのに。
 自分が、番を選ぶ将来は、いつやってくるのだろう。もしやってきたとして、こいつ以外のアルファを、自分は選べるのだろうか。
 悔しいけど、選べないんだろうなあ。
「……なあ」
「ん?」
「もし、よーく考えて、……お前が良いってなったら、どうする」
「そうだなあ」
 ふわふわと人の頭を掻き混ぜる手を捕まえる。仰向けになって、じっと見つめれば、はたりと男の目は瞬いた。それを三回ばかり繰り返したところで、くしゃりとそいつは破顔する。
「そのときは、―― 三ツ谷の人生、貰おうかな」
 さも当然のように迫って来た唇は、ちゅっと軽く額に触れて、満足げに離れていった。