終
母が見つかった。
そりゃあ自分も、一度だけ街で見かけてはいた。けれど、その時に声を掛けられたかというと、否。逃してしまい―― もとい、こっちの方が逃げ出してしまい―― 連れ戻すには至らなかった。
そんな母が、正しく見つかった。行方不明届けを取り下げるくらい、居所が明らかになった。
まあ、家に帰って来たわけでは、ないのだが。
「今日もキレッキレだったねえ」
「キレキレっていうか、日に日に悪化してない?」
「一応先生は、入院直後よりは落ち着いてきてるって言ってたけど」
世話になったのは、警察、保健所、それから病院。
町中で交際相手と口論になり、常軌を逸するまでに暴れ回ったらしい。対応した警察が違和感を察知し、保健所へ連絡。精神保健福祉に明るい職員を伴って、病院へ搬送された。呼び出されて診断名を聞いた時、オメガじゃなかったのかと頭を抱えたのだが、……そのあと様々な検査を経て、自分も通っている大学病院へ転院となった。
母は、確かにオメガだった。それも、過去にアルファと番になったものの、そのアルファと疎遠になり、番関係が解消状態になったオメガ。非常に不安定で重篤な高温期障害を抱えており、在宅での治療は困難と診断された。
一応、面会はできるものの、俺・ルナ・マナ、誰のことも覚えていない。今日の面会だって、「誰よあんたたち、あの人に会いたい、会わせなさいよ」の一点張り。最終的には、泣き叫ばれてしまい、病室から追い出された。
あの母は、今後、家で生活できるようになるんだろうか。そこまで回復したとしても、運命の人を追い求める性分は変わらない気がする。帰ってきたら、どうしよう。俺たち三兄妹の目下の悩みは、それである。
「……ところでさ、お兄ちゃん」
「んー?」
「入院費用って、大丈夫なの」
「治験も兼ねるらしいから、そこは安心していいよ」
いや、ルナは入院費用の方が気がかりらしい。それもわからなくはない。入院とは、金がかかるものである。自分が暴走族をして散々やらかしてきたから、よく知っている。
とはいえ、母に関してはどうにかなる目途が立っていた。彼女の主治医となった越智先生が、未だ嘗てないほどの朗らかさで教えてくれたから間違いはない。あんな笑顔の先生、初めて見た。俺からしたら、高温期の症状が揃い踏みで、明日は我が身とゾッとする事態なのだが、先生にとっては違うらしい。それほど、オメガで試したい治療があったということか。もしかすると、自分も被検体候補と思われていたりして。……主治医、そろそろ変えてもいいのかな。あとで、ちゃんと考えよう。
「……オメガって、ほんと大変なんだね」
ぽとりとルナが呟いた。
この妹がオメガについて知ったのは、だいたい半月前のこと。母の状態を理解するために、どうしても説明が必要だった。
とはいえ、俺が偏りなく話すのも難しい。そこで、俺が初めて知った時のように、越智先生が丁寧に対応してくれた。ルナが混乱していたのは、ほんの数時間だったように思う。家に帰る頃には、「お兄ちゃん、そういうことだったんだね」と冷静に話しかけてきた。敏い、妹である。ちなみにマナは「あっ、それ知ってる!」と声をあげていた。なんでも、最近の教科書、いや資料集だったろうか、には、載っている内容らしい。
「オメガっていうか母さんがな」
「お兄ちゃんだって一時酷かったじゃん」
「今は安定してんだろ」
「それでも、生理みたいに環境変わると乱れたりするんでしょ。今大事な時期なんだから、気を付けなよ」
「こっちのセリフだ、受験生」
「ま、まだ受験生じゃないもん!」
「四月なんてすぐだすぐ」
「~~ッ入試は秋からだから!」
制服姿の妹は、わかりやすく顔を顰めて胃の辺りに手を当てる。
それを覗いて、下の妹はニヤリと笑った。茶化すように、ルナのことを真似して、腹に手を当てる。わざとらしい裏声が、「ニュウシハ、アキカラダカラッ」と喋った。
すぐさまルナは、マナのことをギロリと睨みつける。けれど、下の妹が怯む様子はない。ワッと声をあげた程度で、タッタカタカタカ駅の方へと走り出した。般若を背負ったまま、ルナも大きく一歩、アスファルトを蹴り飛ばす。
「ちょっとマナ!」
「……ルナ、じゃあ俺、寄るとこあるから」
「あっ、うん、夕飯は?」
「それまでには帰る!」
慌ただしく走る妹に叫ぶと、大きく腕を振り返された。
―― 自分のもう一つの性別を知ってから四年、母が見つかって一か月が過ぎた日のことだった。
四年もあれば、自分の中のオメガとの付き合いも慣れてくる。抑制剤はいつだって持ち歩くようになったし、周りにいるアルファ―― 当人がアルファであることを認知している、いないにかかわらずだ―― を見分けられるようになった。あいつが言ったように、確かにアルファはそこら中にいる。アルファにとっても、オメガはそうなのだろう。だからこそ、意識してしまうし、意識もされやすい。
「オメガはアルファを求めるし、アルファはオメガに執着する……」
随分と前に教わった言葉を、もごもごと呟いた。
「なんか言った?」
「いや、なんでも」
素っ気なく返すと、向こうも「そお」と言ってバイクに向き直る。束ねられた黒髪が、とろりと揺れた。
長らく乗って来た愛機は、寿命が近いらしい。近頃、しょっちゅう不調を訴える。十年以上乗っているし、そもそも当時の不良の先輩から譲ってもらった機体だ。それを思うと、買い替え時なのかもしれない。
とはいえ、愛着が失せるわけではない。走れる限りは、一緒にいたいと思っている。
「ンー……」
「どお、あんまり良くない?」
「うん、ちょっと、かなり、んー、結構」
「ヤバイってことじゃん」
「ま、そうなるな」
ほうと息を吐いた男は、工具を置いてゆったりと立ち上がる。両手はハンドルに伸び、一拍してからエンジンが掛かった。さすがバイク屋、うちの仔猫ちゃんがこんなに素直に鳴いてくれたの、いつぶりだろう。胸にじんわりと安堵が広がり、いそいそと丸椅子から立ち上がった。
「やった」
「やったじゃねー」
「え、だめなの」
「ちょっとな。あとで説明する」
「……うん」
トトトと駆けよるうちに、エンジン音は止まってしまった。ぷすんと大人しくなるインパルスを男の隣でじいと見下ろす。どこが悪いのだろう。パーツの交換で、対応できるのだろうか。それともやっぱり、もう買い替えの時期なのか。
掛ける言葉を思いつかないまま唇を波打たせていると、隣からほのかに視線が降ってくる。顔自体はバイクの方を向いている、目線だけがこちらに流れてきているのだろう。ちく、ぷす、側頭部に細やかに突き刺さる。スルーしてもいいのだが、もどかしさが勝った。
「……なに」
「いや」
「なんかあるって顔してたじゃん」
「こっち見てもねえくせに」
「見なくてもわかんだよ」
一体、何年の付き合いだと思っているんだ。肘で脇腹を小突くと、そいつは吐息多めの笑い声を零した。こういう笑い方を見ると、大人になったと感じる。ガキの頃は、大きく口を開いてガハハと笑い声をあげていたっけ。それを言ったら、自分も口元だけで笑うことが増えた。今だって、唇を細い三日月型にした笑みを乗せている。最後にゲラゲラと笑い転げたのは、いつ頃だったろう。ぐるりと記憶を遡ってみるが、パッと閃くのは学生の頃のことばかり。いや、二年くらい前に、ペーやんが安田さんに告白する・しないで大騒ぎした渋三飲みで目一杯笑ったような気もする。酷く酒が回っていたから、記憶は曖昧だが。
少なくとも、この男の前で大口を開けて笑ったのは、馬鹿やってた頃まで遡らないとなさそうだ。
本当に、お互い大人になったもんだ。静かに息を吐いてから、十数センチ高いところにある目を見やった。それから、ことりと首を傾げて見せる。言いたいコトあるんなら、言えよ。皆まで言わずに目で訴えかけると、そいつは再び、ほうと丸いため息を吐いた。
「お前さ」
「うん」
「今日、ただ、こいつを看てくれって、来たわけじゃねえんだろ」
男の骨ばった指が、緩く曲がった。中指の関節が、トントンと愛機のシートをノックする。
つい、目を瞠ってしまった。
「なんでわかんだよ」
「なんかあるって顔してたじゃん?」
「はは、ムカつくなあ」
ツンと唇を尖らすと、すぐにそいつは俺と同じセリフで返してくる。意趣返しのつもりらしい。気取った顔が生意気で、もう一度脇腹を小突いてやった。
「まったくさあ……」
悔しいが、ドラケンに指摘されたとおりである。もちろん、俺の可愛い可愛いインパルスの機嫌を取ってほしかったのもある。でも、本題は別のところにあった。メンテが終わって、店を閉めて、飲みに行きがてら話そうと思っていたのに。
むにゃりと唇を波打たせつつ店内を見渡した。閉店まであと三十分。こいつの共同経営者は、今日は早番らしく、俺と入れ違いに帰っていった。飛び込みがない限り、誰かに邪魔されることは、ない。
それなら、まあ、今切り出しても良いか。
自分を納得させ、もにゃもにゃ喋りたがっている唇を開いた。
「……自分の事務所を、立ち上げることにしたんだ」
努めて、何でもないことのように、言いたかった。
しかし、零れ出た声には上機嫌が滲み出ている。自慢話を聞いてほしい小学生みたいだ。そわそわと落ち着かないのも、子供と同じ。反応が気になって、つい、盗み見るように隣の男に目線を送ってしまった。
「独立すんの」
「うん、そう」
「いつから」
「今度の四月から」
「すぐじゃん!」
「まあ、そうだな」
「聞いてねえ」
「だって、今初めて言ったから」
俺だって、もう少し早めに言ってしまいたかった。けれど、タイミングが合わなかったのだ。最後の最後ということで浴びせられた案件は、一体いくつあったのやら。名前を売るには都合が良かったけれど、ヘビーすぎる餞別にてんてこ舞い。結局、有休消化を始めるまで、時間を作れなかった。だったら、電話やメールを入れておけばいい、という話になるのだけれど、それだとどうも風情がない。この男には、―― 俺のいちばんの男には、顔を合わせて聞いてほしかったのだ。
緩く笑ってから、癖のようにこめかみを指で引っ掻く。隣の男は、何かを叫ぼうと大きく息を吸い込んで、しかし、存外穏やかに空気だけを吐き出した。早く言えよ、って、デカい声で言おうとしたんだろう。想像がつく。込み上げてくる笑みをなんとか喉で堰き止めていると、そいつの唇が改めて開いた。
「……おめでとう」
「ありがとう」
告げられたのはたった五文字。されど五文字だ。色々な人にその言葉を言ってもらってきたが、この男に言われるのがいちばん身に染みる。単純に嬉しい。この嬉しさは、絶対に端末越しでは味わえない。顔を突き合わせて言われるからこそ、一入なのだ。
ついに、笑みは喉を越えた。ふっふっふ。細切れになった吐息が、にんまりとした口から零れだす。
傍らでは、男が指の関節で側頭部を掻いていた。
「四月、四月な。わかった」
「……お祝いでもしてくれんの」
「するに決まってんだろ。門出だぜ?」
「ええ、じゃあ何してもらおっかなあ」
「なんか欲しいもんある? あ、流石に新車まるっと一台は勘弁な」
「あはは、ンな高価なもん強請らねえよ」
ぱ、と手が離れると、龍の上の辺りがぼんやりと赤くなっているのが見える。爪先で掻いていたわけではないから、すぐに色味は落ち着くだろう。思っているそばから、ただの肌色へと戻っていく。
丸椅子に戻ろうか。男も片付けを始めた。踊るようにくるんと踵を返して、店の床を靴底で叩く。
「そうだな」
折角のお祝い、何を貰おう。正直、おめでとうの一言で満ち足りてはいる。でも、自分は貧乏性だから、貰えるものがあるなら貰っておきたい。それも、この男からの贈り物。そんなの、とびきり嬉しいに決まっている。たとえ、アルファがオメガに贈る、という意味合いが含まれていようと、嬉しいものは嬉しいのだ。
「そーだなあ」
人は順応する生き物である。かつて抱えていた強い抵抗感は、四年を経て大分角が取れていた。これはきっと、仕事越しに幾度となくアルファに口説かれたせいだろう。おかげさまで、連中を利用するスキルまで習得してしまった。逆に自分が振り回されて、キツめの高温期に悩まされることもあったのだが、……自分としてはいい勉強になったということで折り合いをつけている。
独立したら、もっと俺に付け入ろうとする輩は増えるのだろう。もちろん、上手くいなして、利用し返すつもりでいるけれど、煩わしいことに変わりはない。
丸椅子まであと三歩。そこまで辿り着いたところで、もう一度、体を翻させた。
「俺さあ」
「んー?」
「事務所の立ち上げに合わせて、考えてることが一つあって」
「へえ、なに、どんな」
工具箱の閉まる音がする。ほとんど同時に、男は立ち上がった。指先には、閉めたばかりの工具箱がぶら下がっている。慣れた様子で棚に向かい、定位置に箱を置いていた。
今の自分とドラケンは、俺の愛機を中心に、ちょうど等間隔の位置にいる。
自身の性に振り回されずに話すには、都合が良かった。
「―― 番に、成ってもらいたい人がいるんだ」
ぎくり、男の肩がかすかに上がる。けれど、跳ねるように振り返ることはなかった。なんでもないような素振りで、ゆったりと肩越しに振り返ってくる。あわせて首も傾げたのか、後ろで束ねている髪がくたりと揺れた。
「独立するってなったとき、やっぱ体調面で不安なとこは、どうしたってついて回るから」
「あー、ウン」
「華やかな業界だからかな、意外とそうだってオープンにしてる人もいて、絡まれることも増えて来たし」
「……大丈夫なのか、ソレ」
「それなりにあしらってる。でも、何かと囲まれるオメガって、アルファ的には、どうなんかなって思うこともあって、……この際だから、話聞いてほしい」
体の前で、そっと手を組んだ。絡んだ指先が、変に冷えている。自分はどうやら、緊張しているらしい。
それもそうか。この男と、アルファだオメガだという話をするのは、数年ぶり。あの日以来とも言える。俺がその手の話題を避けていたのもあるし、こいつ自身も蒸し返さないように気を遣ってくれていたのだろう。
いつの間にか下がっていた視線を持ち上げると、ドラケンはこちらに向き直っていた。その顔には、平坦な表情が乗っている。無表情という程強張ってもいなければ、朗らかと言えるくらいの笑みがあるわけでもない。その代わり、瞳は真摯な色で染まっていた。
棚に寄り掛かりながら、男は「いーよ」と口にする。
穏やかに頷くのも見届けると、組んだ手は勝手に力みだした。
「番になったら、アルファって、変わること、ある?」
「変わるっていうと」
「結婚したからこその安心感、みたいな精神的な変化じゃなくね。それは、アルファとかオメガとか関係ないだろうし」
「うん」
「……番関係って、それで受けられる恩恵も、逆に解消された時のリスクも、全部オメガだけのものだろ」
そこまで言い切ったところで、息継ぎを挟んだ。その間に「そうじゃない」とか「違う」とかって声が入ることはない。番についての俺の認識と、この男の認識は、おおよそ重なっているのだろう。否定されなかったことに、安心と世知辛さ、両方を感じながら、急ぐように舌を動かした。
「俺たちオメガは、番になれば、不特定多数のアルファを誘わずに済むようになるし、高温期の症状だって軽くなるって言われてる。でも、アルファの生活はどう?」
これは、番という関係を知った時から、引っかかっていたことでもある。
番・番というけれど、示されるのはどれもオメガにとってのメリットばかり。アルファの視点での番については、ろくに話をされなかった。最初こそ、自分がオメガだから話題にならないのだと思っていた。けれど、蓋を開ければなんてことはない。アルファにとってプラスになる要素が、一つも判明していないだけのことだった。
現代において、番の仕組み自体、明らかになっていない。とはいえ、アルファに項を噛まれたオメガは、高温期の症状が和らぐし、……逆にそのアルファと疎遠になるほど高温期は悪化する。だから、便宜、項を噛まれたオメガと噛んだアルファの関係性を番と呼んでいるのだ。
「番になってもさ、アルファは何も変わらないんじゃない? むしろ、番ったオメガの発情に付き合わされるんだから、時間を奪われるって意味では、デメリットなのかも」
オメガにはプラスでも、アルファにとってはマイナスにしかならない関係。それが、俺の認識している番関係だ。
「それなのに、大事な人を、俺の人生の道連れに選ぶのって、どうなかなあって」
向こうは慈善活動程度の軽い気持ちで手を出せるのに、こっちには一生涯という重たいものを差し出すしかない。これがオメガじゃなかったら、捨てられても次に向かうことができるのに。俺たちには、次など無い。その番が、最初で最後になるのだ。
苦難しかない。でも、一生隣にいてくれ。
こんな告白、アルファはどう思うんだろう。番になってほしいアルファは、どう、感じるのだろう。
無感動に俺の言葉を受け止める男の顔を、だんだん見れなくなってくる。
自分は、実は見当違いなことを言っているのではないか。でも、ずっとこんなことを考えてしまうんだ。必死に悩んで辿り着いた思考を、全否定されたら、怖いな。こんな恐怖にかられるくらいなら、話さなきゃ良かった。頭の中に、後悔が渦を巻く。力み過ぎた両手は、すっかり白くなっていた。
「俺は」
「ッ」
「そのアルファじゃないから、あくまで俺の考えになっちゃうけど」
それでもいーい?
言外に付け足された声に頷くと、そいつは背を棚から離した。一歩、二歩と俺の愛機に近付き、床に落ちているタオルを拾い上げる。手拭き用のそれには、黒いオイル染みができていた。今も、指先についた汚れを拭っているのだろう。布の中で、指が何度も擦りつけられている。
手の動きを止めないまま、男の厚みのある唇が静かに開いた。
「三ツ谷が都合良く生きるために必要だっていうなら、メリットとかデメリットとか、考えなくていいんじゃねえかな」
「そうかな」
「そうだろ」
布を退けた右手が、ぎゅっと握られ、すぐに開かれる。同じように左手のことも確かめた。汚れが取れたかどうかは、自分の位置からは確認できない。けれど、腕を下ろしたあたり、最低限綺麗にはなったのだろう。
ブーツの靴底が鳴る。かたん、こつん。硬い床に踵を引っ掛けるようにして、ドラケンはゆったりとこちらに歩み寄ってきた。
「自分が嫌いで仕方ないオメガの部分を、委ねられるってくらい信用した相手なんだろ? そんなふうに頼ってもらえるっていうのは、アルファにとっては光栄なことだよ」
あっという間に俺のそばにやってきて、そして横を通り過ぎていく。目で追いかけると、ドラケンは事務用デスクのそばで止まった。椅子に掛けるのかと思ったが、そのまま机の方に軽く寄り掛かる。横顔が傾いて、やがて口元だけに笑みを浮かべた。
「まあ、アルファ・オメガ差し引いても、惚れた相手に甘えてもらえるのは、フツーに嬉しい」
穏やかな声色が、じんわりと鼓膜を震わす。
「ドラケン」
「んー」
「ありがと」
「どーいたしまして。上手くいくと良いな」
「うん」
こくんと頷くと、向こうも一つ頷いた。向けられる視線は相変わらず穏やかで、優しくて、……少しだけ寂寥感を孕んでいる。このアルファも、一つまみ程度は俺に執着してくれているらしい。
いや、これは、アルファもオメガも関係ないか。慕ってきた兄弟分が、新たな門出を迎えるからこそ物寂しさを覚えている。そう思うことにしよう。実態がどうであれ、想うことは、自由だろう?
「上手くいくよう、応援しといて」
「ふ、どうすっかなあ」
「頼むよ、俺ちゃんと考えたんだから」
「冗談だって。お前が選んだ相手だ、きっといいアルファなんだろ」
「うん。すごくね。とびっきり良い奴だよ。アルファとか、そういうの抜きにして」
「ベタ褒めじゃん。羨ましいくらい」
「……そう言ってられんのも、今のうちだぜ」
「うん?」
一歩、男がいる方へ踏み出した。
俺はオメガだ。オメガ男性として、この先の人生も生きていく。
「これまでも、この先も、俺の人生はきっと困ってばかりだ。普通になんかきっと生きられない」
この性別に振り回されること、この先いくらでもあるだろう。自分の根っこの部分を、完全に制御できるなんて思っちゃいない。母のように、正気を失う可能性だって、ゼロじゃないのだ。その仄暗い未来が見えてから、自分がありふれた幸せを享受する様は想像できなくなった。
「それでも、」
自分は、オメガである以前に、人間という生き物だから、どんなに挫けても、社会の中で生きて行かなくてはならない。その時、自分の手綱を握るのは、感情じゃなく理性だ。理性でもって、オメガとして生きる道を、考えた。大多数のベータの中で、たまにアルファに絡まれて、稀にオメガの話も聞いて、一番自分に都合良く生きる方法を、よおく考えたのだ。
オメガの男として生きるにも、三ツ谷隆として生きるにも、不可欠なものは何か。
敏い男だ、俺が何を言わんとしているか、気付いたらしい。切れ長の目は見開かれ、唇には小さな隙間ができている。ふ、間抜け面。茶化したい気持ちを一旦心の内側にしまい込んで、目の前に立つ男のことをへにゃりと見上げた。
「俺のこの先の人生、―― お前に貰って欲しい」
こんなこと、お前にしか頼めないからさ。
はにかみながら付け足すと、くしゃりと顔を歪めたそいつに、力いっぱい抱きしめられた。