七
来る三月、いつもの頭重感がやってきた。頭の芯が、ぼぉっとする。吐く息も熱を孕んでいた。ただの風邪か、高温期か。考えるまでもない。けれど、風邪であってほしいと思う自分もいた。
ぐるぐる思い悩んでいても、体調は良くなってはくれない。これから悪化して、二日目がピーク。三日目はいくらかマシになるけれど、怠さが完全に落ち着くのは四日目以降。
勝手に滲んでくる涙を拭って、薬箱を取り出した。中に入っているのは、これまで飲んでいた市販の解熱鎮静剤。それから、先日処方された薬の袋が二つ。
飲んだら効く。飲めば、きっと楽になる。でも、それはつまり、間違いなく自分の体がオメガだと認めるということ。逆に効かなかったら、自分はオメガじゃないという証明になるのだろうか。……その時はその時で、別の薬をあてがわれる気がする。なんたって自分は、そういう器官があると確認されているのだから。
変に熱い息を吐き出してから、ぷつりと錠剤を取り出した。口の中に放り込むと、たちまち舌の上で溶けていく。そういえば、水なしでも服用できると言っていた。緊急時でも飲めるように、と。薬が溶けるのに合わせて、口内には苦いとも甘いとも言いがたい味が広がっていく。その味がどうも好きになれなくて、すぐに水を取りに台所へ向かった。
体に纏わりついていた不調は、ゆったりと遠ざかっていく。昼を過ぎる頃には、普段と変わらないくらいにまで良くなっていた。しいて、違うところを上げるとすれば、なんとなく眠いくらい。けれど、その眠気だって、デザインと向き合えば些細なもの。授業を受けるのにも、課題をするのにも、不自由は感じなかった。学校を出て、買い物をして、夕飯を作っていても不調が帰ってくることはない。俺の調子に敏感なルナでさえ気付かなかった。当然、ドラケンが聞きつけて顔を出すことだって、ない。
「薬って、すげえ……」
一粒でこれほど改善するのなら、もっと早くに知っておけば良かったろうか。楽になった身体は、朝とはすっかり違うことを考える。
自分がオメガと、完全に受け入れることはまだできていない。でも、ちょっとは前を向ける気がした。これならきっと、大丈夫。大丈夫だ。何度か自分に言い聞かせて、体温が上がる前にもう一錠飲み下した。
夏も、秋も、同じ薬を飲んで過ごした。インターンと被ろうが、卒制の時期と被ろうが、妙な味の薬を口に含めば、それなりにやり過ごせる。効きが弱くなるということも、この一年の間にはなかった。量だって、増やさずに済んでいる。
高温期の真っ最中にドラケンに会っても、顔が顰められることはなかった。あれほど気がかりだった、アルファとオメガの引力も、大それたものじゃあなかったらしい。
「三ツ谷さんは、そもそもオメガ性ホルモンの働きが強くないのかもしれませんね」
「……あれで、ですか」
「ええ。オメガ性ホルモンが強く働くと、妊娠出産に適した、骨盤の形や腰回りの脂肪量がイメージしやすいですかね、そういう体格に成長することが多いんです」
「あ、でも自分はもう男の体になってるから」
「はい。タイミングもあるかもしれません。成長期にオメガ・アルファのホルモンが活動を始めると、それに応じた体付きになりやすいので」
何を聞いても、主治医の越智先生は物腰穏やかに教えてくれる。前に通院したときに聞いたことでも、呆れることなく丁寧に説明してくれた。声を荒げられたことも、早口でまくしたてられたことも一度だってない。ドラケンも「オチサンはそういう人だから」と言っていた。説明が長いから、最初はいいけど、だんだん煩わしくなってくる。患者のその様子が透けて見えたら、この先生から別の医師に担当がかわるらしい。そっちの先生はもっと事務的で淡々としていて、ドラケンは楽でいいと言ってた。
自分はまだしばらく、この先生のままがいい。知らないことが、自分には多いから。
「……他に、何か、三ツ谷さんの方で気になっていることはありますか?」
いつもなら、ここで「いえ、何も」と答えて、診察を終えている。会計をして、処方箋を貰って、病院の向かいにあるでかい薬局に薬を貰いに行く。舌には、いつもとおなじ、「いえ」が乗った。
気になっている、こと。薬の効き具合を答えながら、ずっと胸に引っ掛かっていたことがぷかりと浮かぶ。聞こうか、聞くまいか。頭の中がぐるりとかき混ぜられる。
「あー、っと」
口からは、迷う呻きが零れ落ちた。
「なんでも構いませんよ」
「う、あの」
「はい」
老眼鏡越しに、穏やかな視線が向けられる。いつ見ても、越智先生の顔色は良くない。今日はとびきりくすんでいるように見えた。酷く忙しいこの人の時間を、俺がこれ以上貰って良いのだろうか。ぐっと躊躇いが込み上げてくるが、迷っている時間の方が無駄だ。
意を決して、気がかりだったことを尋ねた。
「オメガって、遺伝するんですかね」
「ええ、遺伝性です。ほとんどの場合は両親のどちらかが、少なくとも、祖父母にオメガ、またはアルファの方がいらっしゃいます」
「あの、じゃあ、自分、妹が二人いるんですけど、ケンサ、って」
早いうちに、した方がいいんでしょうか。
強張った声は、最後の方まで発音しきれず、尻切れトンボに終わってしまう。それでも、先生には伝わったらしい。ふむと一つ頷いた後、こちらを安心させるように静かな笑みを浮かべた。
「症状が出ている場合は検査をお勧めします。ですが、オメガであっても、一切症状が現れないこともありますので」
「……無理に、しない方がいい」
「そう、なりますね。不必要に薬を飲むのも勧められませんし。妹さんたち、何か気になることを言っておられましたか?」
「それは全然! この間、下の妹の生理が、始まったみたいで、オメガとかも、気にした方がいいのかって、思って」
「生理痛が重いだとか、その時期に合わせて高い熱が出るなどがあれば相談してください。こちらの分野でなくても、婦人科が身近というのは、妹さんたちにとって悪いことではないでしょうし」
「……はい」
こくんと頷くと、医師の目が眼鏡越しに細められる。お大事に。決まり文句を聞きながら、診察室の扉を潜った。
妹が、オメガかもしれない。その傾向が見られているわけではないが、ずっと自分の中で気がかりになっていた。
無理に調べるものではないと、あの先生に言われたら、そうするしかない。だからこそ、その時が来たら、ちゃんと自分がフォローしよう。まだ、アルファだオメガだといった説明をできてない自分が、何をできるんだとも思うけれど。
踵を引きずるようにして、院内のリノリウムを踏みしめる。珍しく人が少ないのもあって、会計も薬を貰うのもスムーズに終わった。
昼にするには、まだ随分早い。今日はこれからどうしよう。卒業式まで授業はないけれど、学校に顔でも出してみようか。だったら、やっと契約し直したアトリエで作業した方が集中できる気もする。どうせ四月からは社会人、一から十まで自分の好きなものを作ることは、難しくなる。決めた、腹ごしらえをしてアトリエに行こう。
午後の予定を頭に浮かべて、地下鉄に向かう階段をトトンと降りた。
その後ろ姿を見つけたのは、本当に偶然だった。
病院から一旦家に帰って、お茶漬けを一杯啜って、行きつけの手芸用品店でごっそり布を買ったあとのこと。店を出るなり、覚えのある匂いが鼻を掠めた。咄嗟に振り返るも、匂いの元は見当たらない。というか、この匂いってなんだったっけ。首を傾げながらアトリエに行こうと足を踏み出した途端、―― 見つけた。
華奢な体付きだった。そのくせ、腰回りはふっくらと曲線を帯びている。全身から、確かな色気を放っていた。服のせいもあるかもしれない。体の線がはっきりとわかるワンピースで、ほっそりとした手は春のトレンドカラーのバッグを持っている。背中の真ん中辺りまで伸びた髪は、嫋やかなウェーブを描いていた。キャラキャラと高く笑う声は、頭の奥にキンと響く。
見覚えが、ある。あるも、なにも、あの後ろ姿は。
ドッと心臓が跳ねた途端、その女が隣にいる男の方を見やった。おかげで、横顔が見える。ツンと伸びた睫毛に、とろりと垂れた目元、あざとさすらあるチークが頬を彩り、唇は粘膜色のリップでぽってりと熟れていた。
「かあさん」
口から、か細い声が落ちる。あまりに小さくて、雑踏の騒めきに溶けて、瞬く間に消えていった。
そうだ、あれは母だ。自分の、自分達の母親だ。この匂いだって、あの母のもので間違いない。
彼女は、最後に見た記憶より、ずっと煌びやかな格好をしていた。夜の仕事をしていた頃は、ああいう見目でよく出かけていたっけ。そりゃあ、家出をした時だって、スナックには勤めていた。けれど、目線の先にいる彼女は、俺たちの前から去って行ったあの日よりも、ずっとキラキラと輝いている。屈託なく笑う横顔なんて、幸せに満ちてすらいた。うっとりと蕩けている。見ようによっては、恍惚と表現したって良いだろう。
俺に初めて、運命を語った時。それとすっかり、同じ表情を浮かべていた。
「ぁ」
あれは、オメガだ。
何を根拠に、と聞かれると答えあぐねてしまうが、直感がそう語っていた。あの女は、オメガである。意中のアルファを前にした時の、オメガの顔をしている。
ふと、病院で聞かされた「遺伝性」という単語が過る。そりゃ、そうだ。俺がオメガということは、両親か祖父母がオメガということになる。可能性が高いのは、両親で、母親がオメガであっても、なにもおかしくはない。
頭の中で、ジグソーパズルのピースが嵌っていった。自分は、母親の運命の証明として産み落とされた。母の都合のいい存在として、生まれたのだ。それはつまり、生まれる前から、オメガに縛られているということ。そしてこれからも、自分はオメガ性に縛られて生きていく。
あれも、これも、それも、なにもかも、あの母のせいではないか。脳裏に、かつての友人の筋違いな恨み言が過る。あいつも、こんな気分だったのかな。あの時は、一体何を言っていると思ったものだけれど、今日、この瞬間、少しだけ理解できた気がした。
いても、たっても、いられない。縺れるようにして、足が前に出た。あの女の、胸倉を掴まないと気が済まない。男とか女とか、どうだって良かった。今すぐに、その横っ面をぶん殴らないと。この二年、どこをほっつき歩いていたんだ。隣にいる男はなんなんだ。アンタの都合で俺をこれだけ苦しませておいて、のうのうと幸せを享受してんじゃねえ。
人ごみを縫うようにして、華奢な肩に手を伸ばした。
「―― うん?」
ふと、視線が振ってくる。
急いでいた足が、ぴたりと止まった。母に追いついたわけではない。どころか、彼女は軽やかに歩みを進めていた。迫り来る息子のことになど、一切気付いた様子はない。
じゃあ、この視線は何だ。ばくばくと心臓をかき鳴らしながら、視線をわずかに動かした。首を動かすほどではない。眼球だけの動き。……それでも、がちりと目線が重なる。交わった瞬間、火花でも立ったかのような衝撃に襲われた。今すぐ、その男から目を逸らしたい。そう思うのに、ピクリとも動かせない。いくら頭が指示を送ったって、体は言うことを聞かなかった。
「ねぇ、どこ見てるの」
「ん、ああ、ごめんごめん」
聞き慣れた声が、ねっとりと甘く放たれる。こちらに向いていた視線が、ふいと母の方に戻った。宥めるような言葉を吐いて、男は骨ばった手を華奢な腰に回す。指先がぱたり、ぱたりと絡む様からは、嫌でも色事を彷彿させられた。
そこでようやく、母の隣にいる、アルファの男に、値踏みされたのだと気付いた。
立ち止まる俺を置いて、二人は一歩、二歩と遠ざかっていく。雑踏の中、突然立ち止まった自分は、大衆の中でさぞ浮いていたことだろう。胡乱だとか、迷惑だとかが混じった視線を次々に向けられる。けれど、そんなの痛くも痒くもない。
あのアルファの視線に比べたら。
「ッ」
思った瞬間、数メートル先にまで離れた男が振り返る。これだけ距離が開いているのに、自分を見つめられている気がした。勘違い? いや、違う。確かにあのアルファは、俺のことを見ている。俺をオメガだと認識して、視線を送ってきている。
やがて男は、切れ長の目をすぅと細めた。唇には三日月が浮かび、何かを囁く。
あ、俺、今、誘われている。アルファの男に、食い物にされそうになっている。隣に、別のオメガを侍らせているっていうのに。なんて傲慢な奴だ。……そう思うのに、自分の中にはさっぱり嫌悪感が浮かんでこない。どころか、腹の奥深いところが、無性に疼いた。きゅ、きゅう、勝手に身体が悲鳴を上げ、体温が燻ぶっていく。
「ぅ」
このままじゃ、今に食われる。
かろうじて残った理性で、踵を返した。買ったばかりの布の袋を、目一杯の力で胸に抱く。あれは、気持ちが悪いもの。悍ましいもの。自分には、不要なもの。そう言い聞かせながら、慌ただしく足を動かした。とにかく、ここから離れないと。あのアルファから逃げなくてはならない。じゃあ、どこへ行こう。家? もうすぐ妹たちが学校から帰ってくる、熱に狂い出したところを見られるわけにはいかない。それなら、ええと、アトリエ。アトリエにしよう。それがいい。
走って、走って、転びそうになって、咳き込んで、それでも構わずに走り続ける。息が乱れて、苦しかった。頭に重怠さが襲ってきて、立ち止まりたくもなった。けれど、止まったらあのアルファに捕まってしまう。それだけは、嫌だ。
駆け抜けた道中、馴染みの店の前を通ったことなど、気付きもしなかった。
アトリエに飛び込むと同時に、体はぐしゃりと崩れ落ちた。暴れ回っていた頃ぶりの全力疾走、それを何分続けたのだろう。溢れる息はゼエゼエと苦しさを露わにした。汗は全身から噴き出してくる。肌に服が貼り付く感触が、やけに鬱陶しかった。
「ッ、はぁ、ァ」
これは、本当に走ったせいだろうか。
ゴホッと空気の塊を吐き出したところで、やけに下腹が重いことに気付いた。歪に震える足腰は、やがてもどかしさを覚え始める。落ち着くはずの熱さは、いくら待っても冷めてくれなかった。腹の辺りなんて、カッカと火照り続けている。少しでも、冷まさないと。ほとんど夢中になって、ベルトに手を掛けていた。中途半端に緩め、慌ただしく前を寛げる。ばたばたと宙を蹴って、下肢に纏わりついている布を脱ぎ捨てた。上半身も野暮ったいけれど、ひとまずのところは、これで、いい。
謎の達成感を得たところで、腕は後ろに回った。ぐずぐずと疼く一点、ソコを目指して指が伸びる。
指を突き立てることに、抵抗感は一切浮かんでこなかった。
自慰に耽り始めて、どれほど経ったろう。最初は、掻き回した分、楽になった。けれど、ほっと息を吐けるのはひとときだけ。すぐに熱は蘇り、腹の中で疼きが蜷局を巻く。
一体、いつまでこれを続ければ楽になるのだろう。半ば泣きながら、襲ってきた幾度目かの高揚感に身を任せた。
その時だ。遠くから、呼び鈴の音がする。どこの家だろう、隣かな。荒い呼吸を繰り返していると、もう一度チャイムの音が聞こえてきた。泣きすぎて腫れぼったい目を、のろりと玄関扉に向ける。すると、三度目の電子音が響いた。ピンポンという音は、右隣でも左隣でもなく、この家から鳴っている。
こんな時に誰だよ。悪態を浮かべながら、再び指を後ろに伸ばした。
「ぁえ」
視界の端で、ドアノブ、その取っ手が下がっていた。そういえば、鍵を閉めていなかった気がする。ぼんやりと眺めた先で、一度取っ手は元の位置に戻り、またゆっくりと下がった。扉の向こうにいる誰かが、開いているということを確かめ直したらしい。
このまま扉を開かれたら、自分の痴態が晒される。学校の知り合いだったら困るなあ。赤の他人に見られても、困るには困るか。強盗の類だったら、そのまま殺されるかもしれない。どうせなら、一発くらい犯してくれたらいいのに。熱に浮かされた頭は、馬鹿なことを考え始める。
床に、肘をついた。火照った重怠い体を、のろのろと起こしていく。足を投げ出したまま、玄関扉を睨んだ。
わずかに、扉が震える。蝶番が、一瞬軋んだ。アトリエの扉は、いつもそう。開ける瞬間だけ音を立てる。わずかな錆びた音が止むと、ようやくスチールと、扉の枠との間に、隙間ができた。夕暮れと思しき柔い光が、ツウと玄関に入ってくる。
「ぁ、」
合わせて、まろい香りが流れ込んだ。甘さすら感じる匂いは、瞬く間に脳髄に辿り着く。理性の芯に、じゅわりと染みた。
扉の向こうに、恋焦がれたものがある。自分が今、一番欲しているものがいる。気付くと同時に、あれほど重たかった体が跳ねるように起き上がった。縺れながらも裸足の裏が三和土に擦れる。汚れた指先は、力任せにスチールを押した。
「うわッ!」
「ンっ」
扉を開け放すや否や、胴体は壁にぶつかった。無機質なコンクリートではない。無意識のうちに、飛び込んだ先の胸板に縋りついていた。硬さのある作業着の奥に、しっとりとした体温がある。顔を埋めたままたっぷりと息を吸い込めば、心地のいい匂いで頭がいっぱいになった。ぶわりと全身の毛が逆立つ。忙しなく巡る血液は、毛細血管の先の先、すみずみまで巡った。
「みつ、や」
「ぁ」
頭上から、微かな声が降ってくる。たちまち、聴覚は男の声に囚われた。たどたどしく名前を呼ばれただけだというのに、背骨を快感が下ってくる。腰の一番下まで到達すると、今度は内腿がガクガク揺れだした。体の中心なんて、濡れそぼる一方。
「三ツ谷、お、まえ」
アルファだ。アルファが、ここにいる。すぐそばにいる。
重怠い腕を必死に伸ばして、逞しい体に抱き着いた。その間も、腰は妄りがましく揺れてしまう。剥き出しの足はみっともなく震え、今にも崩れてしまいそう。それでも必死に、誰ともわからぬアルファにしがみついた。
胸板に顔を埋めると、男の逸る鼓動が聞こえてくる。耳に届く呼吸も、浅く、そして早くなっていた。やがて、がっしりとした腕が、こちらの背中と腰を捉える。大きな手の平に撫でられると、それだけで達してしまいそうだった。生身だったら、間違いなく絶頂している。どうして自分は、上を脱ぎ捨てなかったのだろう。面倒くさがらず全部取り払っていたら、素肌に触れてもらえたのに。
「ックソ、」
びく、びくんと打ち震えていると、ギリリと軋む音がする。なんだろう。蕩けた意識の中、首を後ろに倒した。男の胸元から目元を覗かせると、存外厚みのある唇が見える。垣間見えた歯は、食いしばられていた。ああ、奥歯が鳴った音か。頭のかろうじて冷静な部分が判断していると、……グッと体が押される。アルファの体が、アトリエの敷居を跨いだ。この城の最初の客人が、得体のしれないアルファだなんて。素面の自分が知ったら、怒り狂いそうだ。
まあ、気持ちが良いんだから、なんだっていい。
息を吸おうと、口を開けた。はくん、アルファの纏う香りごと、空気を食む。
「ぁ……?」
背中にあったはずの熱が、失せた。かわりに、大ぶりな指で顎を掴まれる。ぐるりと目玉を動かせば、何かに食らいつこうとする犬歯が見えた。
「んンッ」
ガチリと歯がぶつかった。口内に、鉄の味が滲む。
けれど、体は痛いとも苦しいとも思わなかった。むしろ、歓喜に打ち震えている。
長いベロは、一切の遠慮なく口内に入り込んだ。歯列を掠めたあと、ねっとりと俺の舌に絡みつく。きゅ、と吸われたり、裏側を擽られたり。雑に犯される感触が、あまりにも気持ちが良かった。腰を抱く手には力が込められるし、顎を掴まれるのだって痛いくらい。それでも、体は悦に染まるばかり。
目まぐるしく襲ってくる悦楽で、足腰は砕けた。必死にしがみついていた腕からも、力が抜けていく。嫌だ、もっとくっついていたい。この体温に触れていたい。欲は声高らかに叫ぶが、弛緩した体は言うことを聞いてはくれなかった。
「ん、ッむ、ァ」
「っは、あ、」
やがて、大袈裟な水音と共に、唇が離れる。離れて、しまった。名残惜しいと言わんばかりに、互いの口を銀糸が繋ぐ。とはいえ、それも一秒そこらのこと。すぐにとぷんと途切れて、こちらの下唇に落ちてきた。
重力に従って、体はずるずると沈んでいく。ぺたんとへたり込んだところで、ガチャン、扉の閉まる音がした。
「ぁれ」
そこで、ようやく、目線はアルファの顔を捉える。
片側にだけ引き出された金髪が、さらりと垂れていた。
「ど、らけん……?」
あれ、ドラケンだ。アルファだと思ったのに。
いや、こいつもアルファだ。だから、間違ってはいない。でも、なんでドラケンがこんなところにいるんだろう。知らないアルファじゃなくて良かった。だけど、こんなだらしのないところを晒すなら、見ず知らずのアルファの方が良かったのでは。
目の前の光景を受け止められず、頭は混乱の一途を辿っていく。そのくせ、肉体にある欲は、着実に膨らんでいた。
息を荒げたそいつは、眉間に皺を寄せながら深く息を吐きだした。深呼吸をしたらしい。けれど、揺れる肩が落ち着く様子はない。それどころか、顔全体がぼんやりと赤らんでいるように見えた。
具合、悪いのか。震える手で、男の作業着の裾をツと引く。すると、ドラケンは喉仏を上下させながら、ゆっくりと膝を曲げてくれた。
骨ばった手が、おそるおそる伸びてくる。汗ばんだ指が、俺の頬を捉えた。皮膚同士が擦れる、そんな細やかな感触すらも気持ちが良い。蕩けた思考のまま、男の右手に擦り寄った。
「三ツ谷、薬は」
「ごめん、どらけん、へんなとこ、みせて、」
「いいから、薬、飲んでねえの?」
「くす、り……?」
「そう薬。高温期来た時、飲むのあるだろ」
丁寧に浴びせられる声にすら、うっとりと意識を引かれる。聞き慣れている声が、こんなにも心地良い響き方をするなんて、知らなかった。いや、兆候はあったのだ、オメガとわかる前、なにかにつけてこいつは俺の不調に気付いたし、その時の柔らかな声に自分は聞き入っていた。
蕩けている場合じゃあない。薬、薬はどうしたと聞かれているんだ。熱に浮かされた頭を軽く振って、薬のありかを思い浮かべた。病院から処方されている抑制剤。アレがどこにあるかというと、……家の、部屋の、薬箱の中。本来は持ち歩くものなのだろう。しかし、これほど急に熱に襲われたことは、これまでなかった。「おや」と思うことがあっても、家まで無事に帰りつける程度。
つまるところ、自分にとって、あの薬は家で飲むものだった。
「いま、もって、なぃ」
「ハ」
どうにか言葉を紡ぐと、ドラケンは目を見開いた。
自分のこの熱は、高温期によるものらしい。確かに、症状はあっている。発熱、頭痛、眩暈、脱力感、そして性欲の増進。特に性欲については、これまでで最も酷い。普段、抑制剤を飲んでいるから気付かなかったのか、たまたま今回が著しいだけなのか。というか、高温期が来るの、些か早いのではないか。周期通りならあと半月は先だと思っていたのに。
どうして、なぜ。考えれば考えるほど、頭の重さが増していく。情けなさで、涙の膜も厚みを増した。
「ごめん……」
「いや、俺も、悪かった。……薬ってどこにある、家?」
「うん、家。おれの部屋の、くすりばこ、さいほーばこの、下にある、缶」
「ん、……わかった」
たどたどしく伝えると、ドラケンはこくんと頷いてくれる。それから、指で俺の頬を擽って、ぐっと腰を持ち上げた。自分も倣うように立ち上がる、ということができれば良かったのだが、へたり込んだまま動けない。
仕方なく視線だけで追いかけると、男の手はドアノブに掛かる。取っ手が下がり、ギィ、蝶番の音が聞こえた。
「ッぁ、やだ、待って」
「は、って、なンッ」
たちまち、空虚感が襲ってくる。恐怖にも近いその感情を、抑え込むことはできなかった。すぐそばにある脚の片方にしがみつき、ふるふると首を振る。目尻からは涙が溢れ、鼻からはズッと啜る音がした。
「やだ、いかないで」
「……つったって、薬飲まねえと辛いのは、お前だろッ」
「そう、だけど、そうなんだけど、やだ」
「三ツ谷、」
「ごめん、でも、イヤなんだ」
どこにも行かないでほしい。すぐそばに居て欲しい。慰めてくれとは言わないから。
……嘘、本当は、腹の中を暴いてほしい。疼く腹の中を、無遠慮に掻き回して欲しくて仕方がなかった。
「……みつや、」
縋りついている脚が、ゆっくりと曲がった。片膝をつくようにしゃがんだ男は、俺の頭にそっと手を乗せる。
自分の顔は、涙と鼻水とでぐちゃぐちゃになっていることだろう。なんなら、自慰に耽っている間に零した涎のあとだって、ついている。みすぼらしい顔付きになっているのは間違いない。
けれど、男がそれを笑うことはなかった。眉間に皺を刻みながらも、口元には気遣うような微笑みを乗せてくれている。頬は、なぜかまだ、火照っていた。
「あんまり、俺と一緒にいるのも、良くないからさ」
「どうして」
「俺が飲んでる薬も絶対じゃない。このままじゃ、俺、お前に酷いことしちまう」
正直、結構きついんだワ。
困ったように、ドラケンは付け足した。よくよく見れば、額には汗が浮いている。息だって、荒いまま。走ってここまで来たんだとしても、こいつの体力ならもう落ち着いていたっておかしくないのに、だ。
この男は、アルファ。自分は、オメガ。オメガが高温期に放つフェロモンに、アルファは誘われる。そうならないよう、俺たちオメガは抑制剤を飲むのだけれど、今、自分は飲んでいない。で、アルファもアルファで、自衛を兼ねてフェロモンを感じ取らないようにする薬を飲んでいる。オメガと違って、毎日飲む薬だそうだ。ドラケンは、それを、飲んでいるはず。ところが、今この状況下で、ドラケンは確かに、俺のフェロモンを、感じ取っている。
薬を飲んでいるから、大丈夫、では、ないのだ。
不完全だから、アルファもオメガも、どちらも服薬しなくちゃならないのだ。
理解が、やっと追いついた。離れなきゃ。このまま、一緒にいたら、まずい。……そう、思うのに、胸の空虚感は、こいつと一緒にいたいと叫び続ける。
「ごめん、どらけん、」
「謝んなよ、こればっかりは、仕方ねえことなんだから」
「ちがう、ごめん、そうじゃないんだ」
震える手は、改めて足元の裾を掴んだ。オイル染みのできている硬い布地が、手の中で拉げる。あわせて、ドラケンの体も布の向こうで強張った。
「いかないでほしい」
「三ツ谷、」
「たのむ」
一つ、瞬きをすると、涙の雫が頬を伝っていった。情けない。みっともない。恥ずかしい。負の感情が、胸の中をぐるぐる駆け回る。
それでも、この体は、欲していた。
「―― 抱いてほしい」
この男に抱かれたいと、希っていた。
「そ、れは」
「ごめん」
言ってみただけ、言ったら楽になれるかと思って。そう付け足せれば、いちばん良いのだろう。しかし、唇は思うように動かないし、舌だって回らない。
「ほんとに、ごめん、」
せいぜい発せるのは、謝る言葉だけ。ごめん、ごめんなドラケン。背中を預けて貰ったこともあるのに、俺はこんなに弱っちくなっちまった。こんなんじゃ、お前の相棒は名乗れない。ずっと背中を追いかけるばかりで、隣に並べたこともないのだけれど。
「ごめん、ドラケン」
ああ、また視界がぼやけて来た。瞬きをしてみても、涙は引っ切り無しに溢れてくる。おかげで、そばにいる男がどんな顔をしているのか、確かめることはできなかった。
でも、きっと困った顔してんだろうなあ。
それで、この男は、優しいからさ。駄々を捏ねられたら、最終的には、きっと折れるんだ。
「こんなこと、お前にしか、」
頼めないからさ。
縋ろうとした手は、流暢に絡め取られ、ついに身体は組み敷かれた。