六
病院を出る頃には、昼はとっくに過ぎていた。駅までの道中にある店は、悉くランチタイムを終わらせている。とはいえ、一軒もないということはないだろう。ランチタイム終了と看板を下げたところでも、滑り込む素振りを見せれば、融通を利かせてくれるかもしれない。ぽつりぽつりと考えてはみたものの、行動に移す気にはなれなかった。
だってなんだか、腹が苦しい。今の時間を思えば、腹が空いていてもおかしくないはず。しかし、食欲が一切沸いてこなかった。何かおかしなこと、したっけか。……検査と、その結果を聞いた。間違いなく、そのせいだ。人間、どんなに辛くたって、悲しくたって、腹は減る。そういう生き物だと思っていたのに、今日の自分は違うらしい。
斜め下に向けて吐いたため息は、白く空気を濁した。片手に提げているレジ袋は、歩くのに合わせて、ぷら、ぷらんと揺れる。そのビニールには、お薬手帳とかいう緑の冊子が透けていた。他の薬局にかかるときも出すように。薬の説明をしてくれた女性の薬剤師に、そう教わった。
今日貰った薬は、症状がある時にだけ飲むやつが六回分。それから、万が一の時に飲むやつが、六回分。
歩道のタイルを、ぼんやり蹴って、ああそうだとポケットに手を突っ込んだ。
「えー、と」
歩きながら携帯を操作できるほど、自分は器用じゃない。ぺったかぱったか鳴らしていた足を止め、そばにあるガードレールに寄り掛かった。
開いた携帯の画面を、しばし眺める。アドレス帳のボタンを押す、たったそれだけのことにすら、躊躇してしまった。でも、連絡をすると言った。あいつだって、待っていると言ってくれた。俯く角度を深くしながら、親指を動かす。あの男の名前は、五十音順で並んでいる最後の方。下矢印を押しっぱなしにして、つらつらと流れる文字を見送った。
心臓は嫌な音を立てている。決して逸っているわけではない。けれど、脈打つたびに肺の周りがツキツキと痛んだ。鳩尾の辺りもなんだか苦しい。
やっぱり、あの男に連絡するのは、この辛さが落ち着いてからにしようか。そう思ったところで、ラ行のリに辿り着いてしまう。
震える親指は、気付くとボタンを押し込んでいた。
「っ、」
小さく息を吐いてから、接続音を鳴らす携帯を耳元に持っていく。指だけじゃなく、手も、腕も、口も、瞼さえも、震えていた。それが無性に情けなくて、奥歯をぎゅうと噛み締める。
無機質な電子音は、一拍の間を作った後、コール音に切り替わった。
「……」
耳をそばだてながら、のろりと重心を両足に戻す。朝も足は重かったけれど、今はその比じゃない。この場に座り込みたい衝動にかられつつ、どうにか一歩、二歩と足を動かした。
「……はぁ、」
電話が繋がる様子は、まだない。コール音は五回目を鳴らし終えた。
待ってるって、言ったくせに。胸の内側に、靄が立ち始める。いや、単にタイミングが悪かっただけかもしれない。バイクを運転しているところとか、昼寝をしているとか。午後から仕事、という可能性だってある。出られないのならば、仕方がない。諦めよう。……そう思いはするものの、もう一回だけコール音を聞いたら、とずるずる呼び出し続けてしまう。
ああ、九回目が鳴り終わった。十回目になってしまう。こうなったら、留守電に切り替わるまで粘ってみる? それはさすがに、どうだろう。この十回目でだめだったら、掛け直そう。それが、いい。
指先が力み、端末がわずかに軋んだ。
『―― ……っ三ツ谷?』
「あ」
右耳に、ぽたりと声が染み込む。もたもたと動かしていた足が、ぎくりと止まった。
『悪い、待たせて』
「うぅん、あの、ごめん、忙しかった……?」
『客の相手してて。今イヌピーと変わったから、大丈夫』
「あ、そう」
どうやら、仕事だったらしい。じゃあ、昼からの出番か。半休扱いかもしれない。あの店の二人が、どういう休み方をしているかはよく知らないけれど。
わざと、電話を取らなかったわけじゃない。それに心底ほっとして、すぐに自分の勝手ぶりに嫌気がさした。どうも頭が自己中心的に回ってしまう。自分はもっと、人のことを気にできる性分のはずなのに。こんなの、俺らしくない。柄じゃない。
電話の向こうに聞こえないようため息を吐いて、足取りを再開した。
『……病院、どうだった?』
「んん」
どこから話そうか。鈍い頭を動かしていると、駅の塊から電車が顔を出すのが見えた。あの路線は、どこまで行くものだったか。地下鉄よりは、遠くに行けそうな気がする。
のろり、もたり、半ば足を引きずりながら、駅に近付いた。家に真っ直ぐ帰るのなら、メトロの方に行かないと。地下に降りる階段をちらりと見やって、足はそのまま地上の駅を目指した。
「ドラケン、」
『うん?』
電話越しに、耳に馴染んだ声がする。仲間と馬鹿やっているときの声色より、いくらか甘い。かといって、どろどろに蕩けているわけでもなかった。病院で会った時に、聞いたくらいの調子だ。
この、男は。どうして病院にいたのだろう。俺の前に現れたとき、病棟の方から歩いてきたようでもあったし、もう一つの診察室からやって来たようにも見えた。どちらであるかは、はぐらかされている。答え合わせはできていない。それでもいいと思った。だってドラケンなら、いつか話す気になった時、ちゃんと俺に聞かせてくれるだろうから。
でも、今は違う。すぐにでも、この男がなぜあの場にいたのか、問い詰めたくて仕方がない。
込み上げてくる「どうして」と「なぜ」を飲み込んで、今日覚えた言葉を脳みその引き出しから取り出した。
「abo式性分類って、知ってる?」
思いのほか、口からは滑らかに零れ出る。どこかの音で引っかかると思ったのに。あまりにも簡単に言葉にできたせいで、……そいつが息を呑む気配に気付いてしまった。きっと今頃、切れ長の目が見開かれていることだろう。電話越しでも、目に浮かぶ。
そっか、知ってるんだ。ハイともイイエとも返ってこないが、この沈黙は肯定で間違いない。ならば、話が早い。
「俺さあ」
足は駅の敷地に踏み込んだ。昼間を過ぎた構内は、がらんとしている。外からの風が吹き込むのもあって、寒々しくもあった。はやく電車に乗りたいなあ。重い足取りのまま、改札に向かった。
「―― オメガ、なんだって」
ピッと電子音が鳴る。改札機の扉に阻まれることなく、胴体は通り抜けた。三歩ばかり進んだところで、左右の階段を確かめる。エスカレーターはない。大人しく足を動かすしかなさそうだ。鬱屈とした気持ちで、階段の一段目に足を掛けた。
『……そういう、可能性があるってこと?』
「ううん、検査もした」
『今日、もう?』
「うん」
『結果って、すぐわかるもんなの』
「人によるらしいけど、まあ、俺は……」
一段一段、しっかりと踏みしめながら上っていく。左手は手すりを掴んでいた。そうやっても、息が切れそうになる。話しながら上っているせいだろうか。いや、ダチと駄弁りながら歩く階段は、こんなに辛くはない。今だって、ダチと駄弁っているようなもんだというのに、この体ときたら。
やっと真ん中まで辿り着いて、ほうと息を吐いた。携帯を耳に当て直しつつ、左手を体の真ん中に持ってくる。胃より下。腸よりも下。かろうじて腹と呼べるあたりを丸く撫でた。
「確かにあるんだって、子宮とかが」
声にしたそばから、手に力が入る。円を描くような動きに加えて、圧を掛けてしまった。
この皮と肉の下辺りに、その臓器はある。あると、知ってしまった。
そんなわけない。ありえない。そう否定する人の方が、多いらしい。愕然としつつも、比較的淡々と受け止める俺に、医師は感心した様子だった。そりゃあ俺だって、できることなら「ンなわけねえだろ、ふざけんな」って叫びたかったよ。でも、そういう体とわかって、納得してしまった自分もいたんだ。だから、決まった時期に熱が出て、体がくたくたになって、あの男に甘えたくなるんだって。
あーあ、本当に、情けないったら。ため息と一緒に、自嘲の笑みが零れ落ちた。
「はは、すごい検査だったよ。足開かされてさ、ケツに指とか、なんか広げる器具とか入れられて」
『……三ツ谷、』
「他に方法ないもんかね。レントゲンとか、あれ違うっけ、でもなんかあるよね、内臓の写真とか撮るやつ」
『三ツ谷、お前今どこ』
「妊娠とか出産って、女の子にしかできないモンだと思ってたんだけど。すごいね、ニンゲンの体って」
それまでの気怠さが嘘のように、口から言葉が溢れていく。喋るだけでも楽になる、とは、こういう状況なのだろうか。足も軽くなった気がして、残り半分の階段に足を掛けた。軽やかに、トン、トトンと体は上っていく。構内には、電車の到着を知らせるアナウンスが響いた。
「人によっては、摘出手術もできるらしいんだけど」
『病院、じゃあ、ねえんだよな』
「俺の体だと、直腸と繋がっちゃってるから、取り除く手術をしたら、今度は人工肛門になる可能性が高いんだって」
『~~ッ三ツ谷!』
ホームに辿り着くのと同時に、右耳がキンッと痛んだ。咄嗟に、携帯を遠ざけてしまう。そっと見やった画面には、通話時間を示す数字が並んでいた。
細く、長く息を吐きだすと、電車が空っ風を連れて来た。前髪が靡き、襟足も跳ねる。毛先は、必然的に項に擦れた。くすぐったくて、煩わしい。加えて今日は、悍ましい。
「どらけん、」
『ッなあ、今そっち行くから、』
自分は、自分のことを男だと思っていた。
いや、男性の体で、男性として生きていること自体はその通りだ。検査をしたところで、あなたは女性ですと言い渡されたわけではない。
しかし、この体には、女性にしかないと思っていた身体機能が、備わっている。それ故に、定期的に、この体は使い物にならなくなるという。頻度は三か月に一回。今のところは、熱を出して数日寝込む程度で済んでいるけれど、体の成熟に合わせて症状は変わっていくらしい。顕著なのが、性欲の、増進。焼けるような疼きに悩まされ、最悪、見境なく発情してしまう。その欲を満たしてくれるのは、身体能力の高いアルファだけ。
だから、―― オメガはアルファを求めるし、アルファはオメガに執着する。そういう体に、成っている。
この体である限り、自分はいつ社会から逸脱するかわからない。和らげる方法はあっても、その性質を変える手段は、存在しないという。
……こういう大事なことは、教科書に載せてほしい。学校で習うべきだろ、コレ。そりゃあ義務教育の間の自分は、教科書開いて真面目に勉強する性分じゃなかったけれど。
「おれ、」
どうしてこんなことになったのだろうか。俺が何をしたっていうんだ。不良をしていた時期もあるし、生まれた環境が憎くて仕方なくて、全部置いて逃げたこともある。だからこうなったって? じゃあ、どうしたらよかったんだ。
息を吐き出すような音を立てて電車の扉が開く。がらんとしているものの、乗客がゼロというわけではない。電話を、もう、切らないと。
「―― だいじょうぶじゃ、いられないや」
三ツ谷と、もう一度叫ばれる前に電話を切った。縺れるように電車に乗って、ぼすんと座面に腰を下ろす。握りしめている携帯は、そのままボタンを押し続けて、画面をぶつんと暗くした。これで、良し。良し、なのかな。良し、じゃないかも。
いきなり切られた、掛け直しても繋がらないって、今頃ドラケン、焦ってんだろうなあ。他人事のように思い浮かべてから、瞼を閉じた。
人が少ないのをいいことに、両足は投げ出してみる。深く息を吸おうとして、胸の辺りで突っかえた。ヒ、しゃっくりのように引き攣ってしまい、慌てて唇を引き結ぶ。閉じている目元は、じんわりと熱を持ち出した。鼻の奥は、なんだかツンとする。
ちょっと、遠くへ行こう。行けるところまで行って、落ち込んで、凹んで、何もかも諦めたら、家に帰ろう。なんたって「突然いなくなるな」と妹に釘を刺されている。あの顔のルナ、放っておけるかよ。だったら、逃げるなって話なのだけれど、自分と折り合いをつけるためにも、少しだけ逃げさせてほしい。ちゃんと、家には帰るから。
薄く瞼を持ち上げると、憎い世界が滲んで見えた。
この時期の海は、どこまでも黒い。自分が知らないだけで、夜なら夏でも黒いのだろうか。初日の出が差し込んできた時は、もうちょっとキラキラと輝いて見えたような、でもそれまではとぷんと暗かったような。
砂浜におろした腰は、淡々と冷えていく。ゾクゾクと震えも上ってきたので、折り畳んだ足を抱き寄せた。鼻先はピリリと痛むし、毛先が掛かっている耳も、キンと冷えている。指の先なんて、もうろくに感覚が残っていない。
吐き出した息は、おそらく、白い。よく、見えないけれど。
「あー……」
いい加減、帰らなくては。ここから家まで、何時間かかるだろう。夕飯時に間に合わないのは確実だ。となると、妹には一旦連絡を入れた方がいい。でも、そうするには携帯の電源を入れなくてはならなくて、どうも煩わしかった。最寄り駅に、公衆電話はあったろうか。あった気もするし、なかった気もする。仮にあったとしても、携帯をつけないとルナの番号、わかんねえや。ああもう、面倒だな。
立てている両膝に額を押し付けた。近いところにある国道からは、車の走る音がする。二、三台通ってから、トラックのような低い音がして、バイクが連なるエンジン音、そしてまた乗用車の走る音。夕方はもっと走っていたが、大分少なくなった。つまりそれだけ、ここに蹲っていることになる。ぶるり、腰元から再び震えがやってきた。
帰ろう。まだ落ち込み足りないし、凹めるだけ凹んでもいない。現状を諦めて受け入れるなんて、さっぱりだ。
だけど、帰らなくちゃ。この時間じゃ、妹の顔は歪んでしまうだろうけれど、今ならまだ、安堵させてやることもできるはず。
か細く息を吐きながら立ち上がった。ずっと縮こまっていたせいか、膝の関節がじんわりと痛む。その痛みにあっけなく負けて、足がもつれた。足元が砂のせいもあったのかもしれない。ぐらりと体はよろめき、一歩、二歩と波打ち際に傾いていく。片足は、湿った砂に沈み込んだ。今、ここで尻もちを付いたら、きっとまずい。過ったところで、押し寄せて来た波がつま先に擦れた。
「ぁ」
砂に、足を取られる。不意にまろび出た声は、波のさざめきですぐにかき消された。ゴォ、と潮風が吹いて、やけに遠くからクラクションが聞こえてくる。
月の見えない夜をスローモーションに見送りながら、他人事のように「転んだ」と思った。
「―― おいッ」
「え」
しかし、尻はいつまで経っても冷たくならない。背中が濡れることもなかった。その代わり、二の腕に、自分のものではない手が巻き付いている。耳には荒い呼吸音が届いていた。
誰、とは浮かばない。焦燥した男の顔が脳裏を過った。
「やっと、」
目を瞬いているうちに、頼りない体を絡め取られる。これは、抱きしめられると言った方が正しいだろうか。寒さを吸ったコートが、鼻の先に触れた。冷たい。そう思ったのは、三秒かそこら。すぐに、芯の方から体温が伝わってきた。
「やっと見つけた……ッ」
肩口には、男の頭を埋められる。呆然としながら腕を回した背中は、普段に比べていくらか丸くなっていた。この身長差だ、頭を預けたら、どうしたってこうなる。首、痛くないのかな。背伸びでもしたら、多少は楽になるだろうか。砂の上を、つま先で何度か蹴ってみた。しかし、柔らかな足元は思うように体を支えてくれない。
その細やかな身じろぎを、男はどう捉えたのやら。俺を抱きしめる腕に、力が籠った。
「あー、クソ、つかれた」
「お、お疲れ様?」
「誰のせいだよ……」
恨めしそうな声がする。肩に目線を向けると、ぐりぐりと額を押し付けられた。がっちりと回った腕が、緩められる様子はない。力強さのあまり、冷えた肉の下で骨の軋む音がした。さすがに苦しい。逃げるつもりはないから、力を抜いてもらえないだろうか。ぽすぽすと男の背中を叩いたが、反応は返ってこない。
「すげー、探した」
「そお」
「あんなこと、あんな声で言われて、電車の音まで聞かされて、そういう時に限って人身事故まで起きるし」
「……身投げ、したかと思った?」
「思った」
「即答かよ」
いくらなんでも、それはしないよ。したかったけど。それができたら、楽になれたかもしれないけれど。
ぽんぽんとあやすように背中を擦る。鼻を啜る音がしたのは、寒いせいか、別に理由があるからか。この男のプライドを思えば、前者にするのが良いだろう。
抱きしめられている時間が進むにつれ、冷えきっていた体に体温が戻り始める。手を動かしている分、指先にも熱は行き届いた。
「ドラケン」
「ん」
「なんで、ここまできたの。こんな、なんにもない海にさ。普通いると思わねえだろ」
「思わなかったよ、でももうここしか思いつかなかった」
「ここしか?」
とん、背中を叩く手を止める。ちらりと夜の色を吸った金糸を見やると、やっとそいつは顔を持ち上げた。眉間には皺が寄り、唇はムッと尖っている。怒っている、というより、拗ねている顔だった。
「あのあと、」
俺が電話を切った後、こいつは繋がらないとわかるや否や、あの路線沿いで俺が行きそうなところをしらみつぶしに探したらしい。そして、最後の最後に辿り着いたのがここ。昔、バイクで、仲間たちと走りに来た場所。ここにいなかったら、どうしようかと思った。そう呟く男は、また小さく鼻を啜った。
どうしよう、ね。もし、起点が病院の最寄り駅じゃなかったら、どうするつもりだったのだろうか。あるいは、俺が引き返している可能性だってあった。ろくな手がかりもない中、よくもまあ探したものだ。それで見つけられているのだから、大した男だとも、思う。
運も偶然も、全部この男の味方なのかもしれない。
「……なあ、ドラケン」
いや、―― アルファだから、運も偶然も、味方につけられるのだろう。
「今日、なんであの病院にいたんだ」
自分を診てくれた医師からは、検査結果を含む様々なことを教わった。abo式性分類。アルファの話。オメガの話。オメガの体に起こる話。アルファとオメガの関わり方の、話。
自分にも妊娠する機能があるというのは、ショックだった。三か月に一回に起きる高温期だって、嫌で嫌で仕方がない。けれど、その事実ぐらいなら、ショックを受けたなりに、どうにか付き合っていこうと思っただろう。
「ドラケンが、アルファだから、あそこにいたんじゃ、」
オメガはアルファを求めるし、アルファはオメガに執着する。番となる互いを探して、生きていく。
自分とこの男も、その性質ゆえに、作り上げられたのではないか。あの日出会えたのも、俺がオメガでこいつがアルファだったから。この背中に憧れたのも、いつまで経っても並び立てないのも、一度置いていかれたのも。二度目の不良から足を洗ったとき「なにもできなかった」と真っ先に俺のところに来たのだって、最近の俺の不調に真っ先に気付いてくれるのだって、……それに内心喜んでしまった自分のことすらも、全部、俺がオメガで、この男がアルファだったから、そう成ったのではないか。
何も知らなかったら、運命という言葉も使えたのかもしれない。でも、もう知ってしまった。知った以上、この疑いは、一生ついて回る。
「三ツ谷」
「ッ」
男は、恐ろしいほど凪いだ声をしていた。いつの間にか俯いていた俺の顔を、そいつの手がそっと包む。壊れ物に触るかのような手付きだ。無性に、腹が立つ。そんな、ガラス細工に触るような真似、やめてほしい。俺は男だ。オメガだけど。そんなにヤワじゃない。定期的に、熱を出してしまうけれど。
何もかもが癇に障る。込み上げてくる苛立ちに任せて、ギッと正面を睨み上げた。……途端、喉からは引き攣った呼吸音がする。息は吸うばかりで、昂った衝動を吐き出したいのに、待てど暮らせど出てこない。ヒ、ク。しゃっくりのように吸い込んでは、口の端が変に力んだ。凄んでいるはずの目は、熱を帯びた膜で覆われていく。
滲んだ視界の向こうに、苦渋が見えた。
「息、吐いて」
「ぅ、ッく、ヴ」
「ゆっくりでいいから」
「っ、ぅ、ッヒ」
「……ごめん、先、謝っとく」
「ぁに、っう、あ、ン」
鼻先が擦れる。ぐっと距離が近付いて、唇に吐息が掛かった。近すぎる熱にまた息を呑んでしまう。もう、胸の中はいっぱいなのに。混乱は頂点に達し、もう何も見たくないと、固く目を瞑った。
「んっ、ゥ」
唇を、塞がれる。
薄く開いた隙間には、触れられなかった。熱に侵されることもない。口と口とが重なった状態で、下手くそな呼吸を繰り返す。
何、してんだよ。友達同士は、こんなことしない。キスなんか、絶対にしない。したって、ゾッとするだけ。
なのに、自分の中の何かは、うっとりと悦んでいる。やっぱり自分はオメガで、この男はアルファなのだ。突きつけられた現実に、絶望が這い寄ってくる。心はほとんど、折れてしまった。
「……、ごめん、落ち着いた?」
呼吸が落ち着いた頃には、体に重たい諦念がのしかかってくる。相変わらず、男の声は優しい。右側頭部を撫でる手付きには、恭しさすら含まれていた。それが、やっぱり、癪。そのくせ、突っぱねられもしない。
何もかもが嫌で、下唇を噛みしめた。
「なあ、三ツ谷」
「……うん」
男の指が、髪に潜る。指の腹が、じんわりと眠っている龍を撫でた。この刺青だって、偶然ではなく、必然だったのでは。もう、この男との思い出すべてを穿った目で見てしまう。
オメガ性だって、自分の一つだ。そこまで否定する必要はない。何度も自分に言い聞かせる。しかし、心は抵抗し続ける。これが、心の性の不一致? こんなことを口にしたら、本当に苦しんでいる人たちに石を投げられそうだ。
どうして、こうなったんだろう。母が出て行ってから、こんなことばっかりだ。家出をした彼女は、今どこで何をしているのだろう。のうのうと幸せを享受していたら、文句の一つでも言ってやらないと気が済まない。これで同性だったらなあ、平手打ちくらい噛ませたのに。
「みつや、」
「ぇ」
とん。負の感情に呑まれかけた意識が、引き戻される。とん。どうやら、男の親指が、龍の頭を撫でたらしい。とん。いや、これは、首の辺りかな。
「お前の言う通り、俺はアルファだよ」
「っ」
「今日は、薬貰う日だったんだ」
「……くす、り」
「そう」
こめかみを撫でていた手が、ふわりと離れる。手の熱が遠ざかる、たったそれだけのことにさみしさを覚えた。本当に、この体は不快だ。いちいちこの男のことを求めやがる。
骨ばった手は、まず人差し指を宙に向けた。
「一つは、感覚を鈍らせる薬」
今日診てくれた医師も、そんなことを言っていたっけ。アルファは、高温期に入ったオメガが発するフェロモンに強く反応する。だから、そもそもフェロモンを感じ取らないよう、神経に働く薬を飲むことが多い、と。
男は、滑らかに中指も立ち上がらせた。
「それを飲むと、指先が痺れやすくなるから、痺れを軽減するための薬も飲んでる」
副作用が、あるのか。そりゃあ、あるか。オメガに中てられたアルファは、我を失うことが多い。心神喪失状態に近いと聞いた。そうならないように作用するのだから、何かしらの副作用があってもおかしくない。……指先の痺れは、こいつの仕事柄、さぞ厄介だろう。オメガだけじゃなく、アルファにも困ることは、あるらしい。
やがて、薬指もピンと伸びた。
「あともう一つが、アルファの機能自体を殺す薬」
「え」
「いざ、オメガを襲ってしまったとき、万が一が起きないように」
付け足された言葉の意味を、咄嗟に理解することができなかった。殺す、とは。機能を、殺す。アルファの機能とはなんだ。オメガが妊娠・出産に適応した体質で、アルファは確か、妊娠させる方の機能。
「ここまで飲んでる奴はほとんどいないって聞いたけど、俺は家が家だったから」
「あの、ぇ、ころす、って」
「不感症にする薬……、ああいや、勃起しにくくする薬って言った方がわかる? 昔は精巣の機能止めるのも飲んでたんだけど、そっちは一昨年から減らして、年末で飲むの止めたとこ」
今更止めたところで、どこまで機能が回復するかはわかんねえけど。
あたかも何でもないことのように、そいつは言う。早口にも、小声にもなっていなかった。アルファとして享受している弊害を、この男はちゃんと受け止めている。なのに自分ときたら。
「……あ、またお前悪い方に考えてンだろ。俺だって一日二日で納得したわけじゃねーからな」
「ぅえ」
「なんも知らねーで薬飲んでたから、声変わりはクソ遅ぇし、AV見ようがエロ本捲ろうがピクリともしねえし。中坊なってからそうだって知らされて、正道さんと大喧嘩よ」
「……そういや、あったな、俺ん家に泊まりにきたこと」
「あんとき最高に拗ねてたから。不満のありったけ全部喧嘩にぶつけて、東卍なかったらどうしてたんだか」
「そ、っか」
「そ。まあ、なんだ」
息継ぎを挟んで、ドラケンは腕を組む。目線は一旦、海辺を泳いだ。すぐに戻ってきた瞳にはほのかな甘さが溶けている。
「性別は違うけど、ふざけんなって気持ちくらいは、わかるよ」
優しい顔は、同情されているみたいで嫌だ。丁寧な手付きは、弱弱しいと決めつけられたようで腹が立つ。そう思うのは変わらないのに、真摯な声色が、じんわりと胸に沁みた。
最悪の気分にかわりはない。ただ、似通った苦しみを知っている奴が存外近くにいるというのは、心強かった。
「ドラケン」
「うん」
組まれている腕に、そっと指を添える。半歩近付いて、男の肩に額を預けた。コートの表面は、海風で冷えている。けれど、しばらく触れていると、中の体温がしっとりと伝わってきた。いや、俺の体温が移っただけかもしれない。
「ありがと」
「……どういたしまして。そろそろ帰ろうぜ、寒い」
「ふふ、うん」
顔の向きを変えると、男の口元に細い三日月が上っているのが見えた。いつの間にか、添えていた手は絡め取られている。緩く腕を引かれるまま、砂浜の上を歩いた。きしり、ぎしり、踏みしめるたびに不穏な足音が立つ。自分の未来みたいだ。嫌になるね、本当に。
「俺、」
「んー?」
「いつまで普通に生きられるかなあ」
「いつまでって」
「だって、高温期の発情乗り切れなくて、廃人になるオメガもいるんだろ」
「まあ。でも、その時はさ、」
男の足が、一歩早く石畳に乗る。追いかけるように自分も乗って、靴底についた砂を削った。走り回ったわけでもないのに、靴の中にも砂の感触がある。この不快感を家まで連れて行くのはちょっとな。絡めていた手を解いて、屈みながら踵に指を入れた。
ざり、男のブーツの底が、石畳に擦れる。道路に向かっていたつま先が、ほんのりと向きを変えた。それとなく目線だけ持ち上げると、腕を伸ばしているのが見える。俺の手に絡んでいた指先が、こめかみのそばを抜けた。
そして、トン。
「ッぁ」
二本の指が、項を叩く。
「―― お前の人生、俺が引き取るよ」
触れたのは、その一瞬のこと。すぐに腕は離れて、男の胴の横に垂れていた。
それでも、甘い痺れは脊椎に残っている。屈む姿勢を、保っていられないくらいには効いた。膝は脱力し、ごとっと尻もちをつく。脱いだ片方の靴は、手の中から転がって砂の上に落ちた。
「ふ、なに転んでんの」
「だって」
苦笑しながら、ドラケンは俺に手を伸ばしてくる。また、項を触られる? びくっと肩を跳ねさせながら首を両手で覆うと、もう触らねえよと吐息多めに囁かれた。鼓膜に届く声が、心地いい。差し伸べられた手には、縋りたくなってくる。この感情も、自分がオメガだから生まれるんだろうか。しばし迷ってから、そっと手に指先を引っ掛けた。
「どらけん、は」
「うん」
「おれを、番にえらんで、くれるの」
「……それを選ぶのは三ツ谷だろ」
「は、いま引き取るって」
「誰を選ぶかの判断も付かなくなったときは、俺が貰うよ。だから、そうなる前に、自分がいちばん信用できるアルファ、見つけろよ」
乗せた指先を辿って、ドラケンの手は俺のソレを捉える。ぐっと腕に力が籠り、崩れた体は起こされた。滑らかに腕は回り、尻についた砂を叩くように落とされる。そして、男の体は、流暢に俺の前に跪いた。手の中には、落とした俺の靴が収まっている。いつの間に拾い上げたんだ。ぽかんとしているうちに、つま先に靴が触れる。シンデレラって、こんな気分だったのかな。丁寧に履かせてくれるのを見下ろしながら、ふざけた夢想を頭に浮かべた。
「そんなアルファ、」
「うん?」
俺が、お前以上に信用できるアルファを見つけろって? 無茶を言え。後にも先にも、お前を越える奴は現れないだろうよ。……それはつまり、いつかくる将来、オメガとしてこのアルファを求めるということ。
本当に、嫌になる。三ツ谷隆という人格が溶けてなくなっていくようで、嫌だ。この男が、アルファとして振る舞うのだって腹が立つ。
恨めしく見上げたところで、「ほら、帰ろうぜ」としか男は言ってくれなかった。
家に帰って、ルナの説教を正面から受け止めた。マナの呻きも、全部シャツに吸わせる。そうして疲弊した二人に、自分の体のことを正しく説明することは、できなかった。伝えられたのは、重大な病気じゃないってことと、定期的に調子を崩す体質だってことくらい。どちらも納得はしていなさそうだったが、俺が上手く話せないというのも察してくれた。良くできた妹たちである。
布団に寝転がって、今日の出来事を順番に思い浮かべた。アルファのこと、オメガのこと、ドラケンのこと、自分のこと。考えれば考えるほど、頭は冴えていく。疲れているはずなのに、どうにも眠れそうになかった。やっと寝付いたと思ったら、すぐに朝。頭を爆発させたマナが、ヘアゴムとブラシを持って近寄ってくる。はいはい、いつもの通りに結べばいいのね。細い髪を丁寧に梳かしていると、嫌でも項が目に入る。
妹も、オメガだったら。
過った考えに、ゾッと肝が冷えた。指先からはぽとりとヘアゴムが落ちる。ブラシを掴む手も、震えだした。
おにい? すぐそばから、胡乱を露わにした声がする。慌てて拾い上げて、いつもの髪型にセットした。何でもないのを装って、舌先に「そろそろ自分で結えるようになれよ」という小言を乗せる。
妹の髪を結ってやったのは、それが最後になった。