月曜日には、体の重怠さは失せていた。二、三日で治るのならば、やはりただの風邪ではないか。やんわりと妹に伝えてみたものの、いいから病院に行けと財布を握らされてしまう。
 観念して、顔なじみの爺ちゃん先生の元に足を運んだ。あんれ、今日はマナちゃんでねえのかい。今日はマナじゃねーんすよ、俺のことで来たんです。そう前置きをして、老眼鏡をかけた先生に近頃の調子を伝えてみる。出た結論は「腹に何かいるのかもね」。とはいえ、小さな診療所でその検査はできない。すまねえなあと言いながら、爺ちゃん先生は消化器内科のある病院を紹介してくれた。
 翌日、ルナに釘を刺されてしまったがために、渋々病院を受診した。かかりつけ医に言われたことと、季節の変わり目に引く風邪のことを伝えたあと、待たされること三時間。再度、診察室に呼ばれる頃には、昼はとっくに過ぎていた。やっと検査をしてもらえるのだろうか。待ちくたびれた気持ちで椅子に掛けると、担当の男性医師は神妙な顔をする。不穏な様子に顔を顰めると、大学病院での精密検査を勧められてしまった。なんでも「難病の可能性がある」んだとか。俺が、難病だって? 難病って、そもそもなんだ。いまいち納得できないまま、紹介状を渡されてその日は終わった。
 何の成果も得られないまま、たらい回しにされている。なるほど、これは気分が悪い。家に帰って紹介状を見下ろしていると、大学病院でも匙を投げられるんじゃないかと、心がやさぐれていった。いっそ、受診をバックレてしまおうか。紙切れを抓んで、ちょいとゴミ箱の方に腕を伸ばした。……その瞬間、ルナに通りかかられる。何も言わず、紹介状を手元に戻した。

 年明け、さっぱり気が乗らない中、馬鹿でかい大学病院を受診した。
「……帰りてえな」
 正月休み明けだからか、院内は人で溢れている。外来窓口は、騒々しさすら携えていた。念のため、もとい逃げ道を断つため、予約の電話を入れたのは正解だったらしい。
 案内されて辿り着いたのは、総合診療内科の待合場所。診察室は全部で三つあるらしい。一、二、三と大きく数字が振ってある。今日の担当医の名前も番号の下に掲示されていた。
 ええと、自分は確か、三番。三番の診察室前で待つように言われた。辿り着いた辺りには、自分の他に三人が掛けている。顔色の悪い女性と、中性的な顔立ちが二人。この人たちも、難病かもしれないと言われてきたのだろうか。不安のあまり、尋ねて回りたくなってくる。それを堪えると、今度は足が貧乏ゆすりを始めた。落ち着きがないったら。キッと我が身を見下ろして、投げ出していた脚をぴたりと揃えた。
「ん?」
 忙しなく辺りを見渡すと、四番診察室はこちら、という張り紙が視界に入る。もう一つ診察室があるらしい。総合診療内科とやらに、医者はたくさんいるんだな。張り紙の向こうには通路が伸びており、なんとなく、病棟もそっちの方と繋がっているんだろうなと思った。
 見舞い帰りらしき親子連れが、ぱたぱたと歩いてくる。目が合ってしまわぬよう、ふいと顔を背けた。かといって、診察室のドアを見つめる気にもなれない。ぴったりと閉じた両脚を、ぼんやりと見下ろした。
 院内には、音が溢れている。人の声に、歩く足音、何かの機械が動く音。そのどれも、自分の耳には馴染みがない。昔、頭を殴られて入院した時も、病院は落ち着かないところだと思ったっけ。基本静かで、たまに騒々しくなったとしても、血が躍るような騒ぎはない。大体の場合、騒がしさは緊迫を伴っている。
 早く、帰りてえな。実はなんでもなかったって言われて、家に帰りたい。膝の上で、祈るように両手の指を組んだ。
―― 三ツ谷」
「え」
 鼓膜に、男の声が届く。聞き覚えがある声だ。どころか、親しんだ声と言っても良い。
 俯いていた顔が持ち上がる。あわせて、かこん、靴底がリノリウムに擦れる音がした。
 その長身は、クリスマスと同じ、綺麗な印象のコートを羽織っている。髪は普段と違って、低い位置で束ねられていた。トレードマークの刺青が、金糸越しにぼやけて見える。ポケットに突っ込んでいる手には、白いレジ袋が引っかかってた。
「ドラケン……?」
「おー、あけおめ」
「あ、けおめ……」
 広がっていた非日常に、突如日常が混ざり込む。ぽっかりと口は開き、気が乗らない瞼もカッと持ち上がった。そのくせ、肩から下はすとんと力が抜ける。
 どうして、こんなところにドラケンが。呆気に取られていると、かつかつと靴底を鳴らしながら、男は近寄って来た。クッと喉で笑う声も聞こえる。
「すげー間抜けな顔してんぞ」
「いてっ」
 隣にやってきたそいつは、指先を俺の額に向けた。そしてすぐに、バチンと弾かれる。爪先がぶつかる感覚に、顔のパーツがぎゅっと真ん中に寄った。ぐしゃりと潰れた顔つきは、さぞ愉快に映ったのだろう。今度は吐息多めに笑う声が聞こえてくる。もしここが外だったら、ガハハと大声を上げられていたに違いない。病院で良かった。いや、笑われたのは、どっちにしろ癪なのだが。
「なにすんだよ」
「だって、お前、オバケでも見たような顔するから」
「……こんなところで会うと思わなかったんだよ」
 恨めしさをたっぷり込めて睨むと「あーね」とわずかに肩を竦められた。俺とは対照的に、そいつは一つも驚いた様子をしていない。まるで、ここで会うのを見越していたかのよう。そんなまさか。だってここは病院だ。それも、先端医療も扱う大学病院。なにより、自分達が普段暮らしている辺りからは、そこそこ離れている。俺があまりにも驚いた顔をするから、逆に冷静になったのだろうか。
 改めて、じとりとドラケンをねめつけた。ここにいる、ということは、こいつも何科かを受診したのだろうか。頭のてっぺんから足の先まで視線を向けるが、ドラケンはなぁにと首を傾げるだけ。体調が悪いようには見えない。
 そもそも、自分はドラケンが風邪を引いたところ、見たことがあったろうか。真冬にガタガタと震えているのは、知っている。けれど、熱を出すくらいに具合が悪くなったところは、見たことないかもしれない。少なくとも、ここ一年は、そう。
 自分ばかり、弱ったところを晒しているのか。細やかなプライドが、ツンと唇を尖らせた。
「ドラケンは」
「あ?」
「なんで、こんなとこにいんの」
「……まあちょっと」
「お見舞い?」
「そんなとこ」
 素っ気ない態度でドラケンは言う。
 はぐらかされた、気がした。大学病院に入院するほどの知り合いって、誰だよ。それとも、見舞いというのは嘘で、本当はどこかにかかったのか。ちらりと目を向けたレジ袋には、水のペットボトルが二本入っていた。誰かに持っていくようにも見えるし、自分で飲むもののようにも思える。
 詮索したい気持ちが、ぼこりと胃の辺りから込み上げてくる。丸くせり上がってきたソレを舌に乗せ、……けれど、口を開く前に飲み込み直した。どうせ、一度はぐらかされている。詰め寄ったって、話してはくれないだろう。ドラケンには、そういうきらいがある。
 見舞いに行くくらい大事な人が入院しているのか、はてまた俺に隠している持病があるのか。本人の中で区切りがついたら、ぽろっと話してくるだろう。そう言い聞かせて、強引に自分を納得させた。
「三ツ谷は」
「えっ」
 おもむろにボールを返される。パッと目線を擡げると、相変わらずドラケンは緩く首を傾けていた。
「なんで病院なんかに」
「あ、うん。ほら、俺今年、……もう去年か、なにかと熱出してたろ。だから、ルナに心配されちゃって」
「あー、クリスマスん時も、ルナちゃん顔青くしてたっけな」
「エ、そうなの」
「お兄ちゃんになんかあったらどうしよーって、久々に女のコに泣かれたワ」
「……な、泣かしてんじゃねーよ」
「泣かしたのお前だから」
 咄嗟に舌を回すと、間髪入れずに小突かれる。言葉尻は茶化すような音をしていたが、顔には気遣わしげな表情が乗っていた。
 甘さの滲む顔つきに、くらり、頭の奥が揺れる。この顔と目を合わせていたら、ぼたりと弱音を漏らしてしまいそう。俺、悪い病気にかかっちまったのかな。疲れているだけじゃ、ねえのかな。なんで俺ばかり、こんな目に遭うんだろう。次々と浮かぶ言葉は、ドラケンにぶつけたって、解決はしない。内心で首を振って、泣き言を強引に飲み下した。
 ちょうど診察室の扉が開いたのもあって、都合が良いと視線を逸らした。中からは、痩身の男性が出てくる。一旦引き戸は閉まり、わずかな空白の後、中性的な見目の片方が呼ばれた。改めて見渡した待合場所には、一人減って、二人増えている。自分の番がくるまで、あと何分だろう。早く呼ばれたい気もするし、いつまでも呼ばれたくない気もする。
 気付くと、顔を俯けていた。口元は、上着の襟首に埋まる。唇の表面が、柔い繊維に擦れた。
「あ、そうだ」
「うん?」
 柔らかさで思い出す。そう言えば、借りたスヌードも、このニットと似た素材をしていた。逸らしていた視線を、パッとドラケンに向け直す。切れ長の目が、「どうした」とゆっくり瞬いた。
「スヌード。悪い、借りっぱなしで。クリーニング出してるから、もうちょい待って」
「クリーニング? そのままでも良かったのに」
「良くねーよ、どれだけ汗吸ったと思ってんだ」
「ああ、お前、汗っかきだもんなあ」
「俺がっつーか、熱出したら誰だってそうなるだろ」
「そお? 三ツ谷の代謝の良さは、頭抜けてると思うけどなあ」
「うるせーな、代謝が良いのは良いことだろ」
「ふ、違いねえ」
 すっとぼけた物言いに、今度はこっちが脇腹を小突く。ウッとわざとらしくよろめいた後、ドラケンはニッと笑った。調子、出てきたんじゃねーの。言外に、そう伝わってくる。
「……ドラケン」
「んー」
「さんきゅ」
「なんのこと?」
「腹立つなぁ」
 もう一度腹に肘をめり込ませていると、早くも診察室から人が出てくる。次に呼ばれたのは、俺から二つ空けた隣にいる女性だった。青白い肌には、迫真が乗っている。もしかすると、自分も同じくらい、切羽詰まった顔をしていたのかもしれない。じゃれ合っていた手を、そっと自身の頬に持ってきた。丸みの失せた頬に、手の平が沈む。ぐるりと円を描いて、顔の形を確かめた。
「たぶんさあ」
「おー」
「今日、色々検査するんだけど」
 むぢりと頬を潰したまま、視線だけをドラケンに向ける。拉げた顔が可笑しかったのだろう、その口元がむにゃりとにやけた。それでいい。そのまま、何でもないって顔をしていてほしい。そしたら、必要以上に甘えずに済むから。
「凹むだろうから、その時は連絡していい?」
「凹む前提かよ」
「だって、なんでもねーのに大学病院まで呼ばれるわけねえじゃん」
「そうかな。なんでもないってのを証明できるのが、こういう病院だけなのかもよ」
「だったらいいけど。俺はどっちかっていうと、最悪の事態を考えちまう方だから、保険がほしいわけよ」
「保険ねえ……」
「そう」
 自分がくじけた時、へこたれてんじゃねえよと、声を掛けてもらえるくらいの、保険が欲しい。自分のことだ、何を言い渡されたとしても、いずれ割り切ることはできるだろう。ただ、割り切るまでのちょっとの間、凹んでから立ち上がるまでの短い期間くらいは、隣で誰かに見守られたい。できたら、肩か手を貸してほしい。支えてくれたら、本当に助かる。
 そういうのをまるっと頼める相手と言ったら、きっとこいつしかいないのだ。
―― たのむよ、どらけん」
 ぱ、と頬から手を離した。声を発したタイミングが悪かったのか、わずかに甘えが混じってしまう。ああやだな、情けねえ。誤魔化すように、へにゃりと笑えば、穏やかに男の手が伸びてきた。
「俺で良いなら、いくらでも」
 骨ばった手が、雑っぽく俺の頭を撫ぜる。熱を出したときの、ただただ優しい手付きではない。その違いに、無性に安心した。いざというとき、こいつは俺を手放しに甘やかしはしない。きっと、立ち上がるための支えだけ、請け負ってくれる。
 ほっと息を吐いて、もうやめろと髪を乱す手を突っぱねた。
「あーあ、ピロリ菌で済めばいいのになあ」
「ピロリ菌?」
「うん。近所の爺ちゃん先生にさ、腹になんかいるんじゃねえかって言われたんだよね」
 跳ねた毛先を整えつつ、もう片方の手を腹に乗せる。おおよそ胃の辺りから、熱が出た時に違和感を放つ下腹まで。その細菌は、胃にいるというイメージがあるのだが、これくらい深いところにもいるのだろうか。医療には詳しくないから、さっぱりだ。
 とん、とん。何の気なしに、下っ腹の上を叩いた。
「三ツ谷さん、三ツ谷隆さーん」
「あ」
 とん。手の平を着地させたところで、診察室から声がする。ぱ、と顔を上げると、眼鏡をかけた看護師と目が合った。
 行かなくちゃ。ソファから立ち上がると、ドラケンはひらりと手を振る。
「じゃあな、……連絡、待ってる」
「ン。じゃあ」
 同じくひらりと手を振り返したあと、小走りで診察室の扉を潜った。

 診察室に入って、簡単な問診を受けた後、妙齢の医師は少し考えた素振りを見せた。これまで会った医者のような「わからない」というポーズではない。むしろ、思い当たる節がある様子だった。
 検査、というのでイメージすることは、何一つしていない。大学病院の医師は、問診だけでこの症状を判断できるのだろうか。
 訝しみながら見つめていると、医師は穏やかに口を開いた。
「三ツ谷さんは、―― abo式性分類をご存知ですか?」
 なんだって? ぶつけられた言葉が、真っ直ぐに頭に入ってこない。眉間に、皺を寄せてしまった。何の話だ。AとBとOと言われて、思いつくのなんて一つしかない。
「血液型の、ことですか」
「……そうですね、aboと聞くと、皆さん、そちらの方が身近ですよね」
 医師は小さく苦笑を浮かべると、引き出しから眼鏡を取り出した。一瞬、レンズ越しに覗いた世界が歪む。老眼鏡らしい。丁寧な手付きでかけると、医師はそばにあるファイルボックスから厚紙を一枚取り出した。
 差し出されたそれに、目を向ける。表面には、カラーで六つの枠が印刷されていた。タイトルに当たる部分には、[alpha/beta/omega Dynamics]という英字が並んでいる。そのすぐ下には、「abo式性分類」というラベルテープが後付けされていた。
「これは」
「まずは、概要からお話しましょうか」
 医師は、相変わらず穏やかに口を動かす。縦に線の入った爪先が、端に書かれている男性・女性の文字を指した。
「一般的に、身体の性別は男性・女性の二つに分かれています」
「はあ」
「しかし、それだけでは説明できないケースがかねてから指摘されており、さしあたって提唱されたのが、このabo式性分類です」
 続いて医師は、アルファ女性、オメガ男性と書かれた二か所を順番に指す。ただの男女ではない身体特徴を持つのが、その二つなのだろう。
 へえ、ふぅん。自分が男だというのもあって、視線はオメガ男性の欄に留まった。箇条書きされている説明に、ぽつり、ぽつりと目を通す。
 すぐに、自分の目は、他の欄に向いた。残り五つの枠の中も、慌てたように頭の中で読み上げていく。

 alpha/beta/omega Dynamics.
 近年、欧米で提唱された新たな性別の分類方法で、現在、明確な和訳はない。なので、便宜「abo式性分類」と呼ばれているらしい。この考え方では、身体的性別は六つに分けられることになる。ちなみに、学校で習うような男女は、ベータ男性とベータ女性のこと。ほとんどの人間はベータのため、習った通りの内容で過ごして支障はない。不都合が出てくるのは、他の四つの性別の場合だ。
 まずは、アルファ。アルファが持つ性器は、男性器と似ているらしい。男性の場合は男性器がアルファ性器を兼ね、女性の場合は会陰の内側に精嚢を作る。男女ともに、長身・筋肉質といった身体的特徴が見られ、元来持ち合わせている自然治癒力が非常に高い。事故などで大怪我を負った時でも、後遺症なく回復できる個体が多いという。その一方で繁殖力には偏りがあり、オメガ性と性交したときの受精率は高いが、その他の女性が相手だと逆に著しく低いそうだ。
 そして、オメガ。こちらの持つ性器は、女性器と近い特徴を持つ。子宮や卵巣があるのだ。妊娠・出産に必要な機能があるといってもいい。女性であれば、女性器がオメガ性器の機能を果たし、男性だと、会陰部にオメガ性器を形成する場合と、直腸から分かれるようにしてオメガ性器を形成する場合とがある。
 オメガ性には、その性質故に、女性で言うところの月経がある。周期はおおよそ九十日。三か月に一回訪れるこれは、「高温期」という。高温期中には、発熱の他、頭痛、眩暈、脱力感が症状として現れるらしい。また、日常生活が困難になるほどの著しい性欲の増進が見られることから、「高温期」は「発情期」とも呼ばれている。

 自身の目は、もう一度、オメガ男性の欄に戻って来た。気付くと、呼吸が浅くなっている。胸の内側では心臓が激しく震えていた。
「ヒトの多くはベータで構成されています。また、アルファ、オメガだったとしても、その機能が現れないまま一生を終える人がほとんどです」
「……ほとんどって、ことは」
「ええ、中には、この表にあるような特性が発現される方もいらっしゃいます」
 突拍子の無い話だと思った。この医師に、大法螺を吹かれている気にもなってくる。しかし、顔を上げた先にある目は、酷なくらいに真摯だった。
 この嘘みたいな話は、確かに現実である。開示された情報に、眩暈がした。
 かといって、ここで倒れるわけにもいかない。新たな知見を広げました、では、済まないのだ。自分はこの病院に何をしに来た。季節の変わり目、おおよそ三か月に一回やってくる、風邪のような症状の原因を、明らかにしに来たのだ。
 こくりと唾を呑み込んだ。
「俺は、」
 開いた唇は、勝手にわなわなと震えだす。それでも、尋ねなくては。聞かなくては。痺れかけている舌に檄を飛ばして、どうにか言葉を声にした。
「この説明を、されたってことは、俺はベータ男性ではないってことなん、ですよね」
 ここまでお膳立てをしてもらって「自分はベータなんですよね」なんて聞けない。それほど鈍く、生きてはいない。頭を鉄パイプやコンクリートブロックでぶん殴られても回復したんだから、アルファなのかも、くらいは言ってみても良かったかな。いや、さすがにそれは、調子に乗りすぎか。冗談を言う場面じゃないことくらい、よおくわかっている。
 医師の、血色の薄い唇が、静かに動き出した。
「お話しいただいた症状ですと、―― オメガ男性の可能性があります」
 くん、と、喉元で空気が詰まる。けれど、生きている限り、呼吸を止めることはできない。口を震わせているうちに、空気が細く漏れて、浅く酸素も取り込まれた。
 まだ、可能性を示されただけだ。仮にそうだったとしても、ここに書かれている症状が発現しないことだってあるのだ。自分が、間違いなく妊娠・出産ができる体だと決まったわけじゃない。いや、高温期、もとい発情期の症状は出ている。出ているならば、妊娠も出産もできる体なのではないか。この先ずっと、自分は発情期に苦しめられるし、その人生の中で、望まない妊娠をすることだってあるかもしれない。……だから、可能性の話だ。そんな事件が絶対に起きるかというと、そうではない。わかっていても、たらればの恐怖が次々と押し寄せてくる。
 自分が見知った世界が、あっけなく崩れていく。覆された先では、仄暗い絶望が渦巻いていた。
「あくまで可能性の話です。検査してみて、偶然似通った症状という場合もありますし」
「……検査って、どういう、あの保険効きますか」
「もちろん。では、検査の具体的な説明をしましょうか」
 放心しつつもか細く尋ねると、医師は一つ頷いてくれる。それから、もう一枚、別の厚紙をファイルボックスから取り出した。写真が印刷されている。不思議な形の椅子だ。歯医者の椅子に似ているけれど、それぞれの足を置く部分がついている。なんとなく視線を横にずらすと、角度の変わった椅子が載っていた。その写真の方では、足置き部分が大きく開いている。
 オメガ男性だと、会陰部にオメガ性器を形成する場合と、直腸から分かれるようにしてオメガ性器を形成する場合とがある。覚えたての知識が、頭の芯を冷えさせた。
「検査の際は、専用の検診台で行います。産婦人科だとかではよく使われているものなのですが、……身近ではありませんよね」
「う」
「また、男性ですと直腸の触診、それから肛門から専用の器具を入れて検査することになります」
「あ、エ」
 脳裏に、その椅子に掛ける自分が浮かぶ。この顔色の薄い医師に、尻を触れられる光景も過って、情けない話だが、ゾッとした。検査だ、医療行為である、怯えることじゃない。言い聞かせたところで、心の自分はヤダヤダと我儘を叫んだ。
「検査自体は今日でなくても構いませんので」
 今の俺のような態度をとる男性患者は、きっと初めてではないのだろう。穏やかな口調を崩さずに、医師は寄り添ってくれる。
 尻穴を使った、検査。自分の中で、もう一度繰り返す。怖い。やりたくない。結果を知りたくないという意味でもそうだし、恥部を大きく曝け出さないといけないという意味でもそう。
 また今度にしてもらおうか。心の準備をしてから、出直すことにしてさ。頭の中で、ぐずる自分と相談する。うん、それがいいよ。今日はやめよう。半泣きで縋ってくる自分の頭を、ぽんぽんと脳内で撫でた。
「検査って」
「ええ、ご予約されていきますか?」
「……今日、やっても、いいんですよ、ね」
「え、ええ、はいそれは」
「じゃあ、して、ください、コレカラ」
 エッ。頭に、困惑の悲鳴が上がる。また今度にするんじゃねえの。泣き言も聞こえてきた。
 そりゃあ、ショックは大きい。正直、ビビっている。けれど、検査をしないと、何もわからないのも事実だ。どうせ検査する必要があるのなら、早い方が良い。というか、極力退路をなくしたかった。今日、このままおめおめと帰ったら、二度と受診はしないだろう。予約も反故にして、徹底的にこの病院を避ける自分が目に見える。
 だからこそ、今日やる。やらなければ、ならない。
 ギギギと首を持ち上げると、老眼鏡の向こうにある目が、ぱちりと瞬いた。
「よろしいのですか。心の準備をしてからという方も、多いですよ」
「アノ、逆に心が折れそうなんデ、できるだけ早く、はっきりさせたい、デス」
 あっ、じゃあまた今度に。そう口走りたい自分を押し殺す。必死になって、片言で返事をした。
 緊張を露わにする俺を眺めた後、医師は、小さく息を吐く。やがて、こちらに見せていた検診台の説明資料をファイルボックスへ戻した。両手はキーボードに乗り、相変わらずの穏やかな顔つきだけがこちらに向けられる。
「では、検査の準備が出来たら、ご案内します。待合室でお待ちください」
 こっくんと大袈裟なくらいに頷いた。力んだ体は、ぎこちなく腰を持ち上げる。診察室を出ようと踵を返して、早速、足を診察用の丸椅子に引っかけた。