四
俺が快復するのと入れ違いで、ペーやんに上半期決算のなんとかかんとかが襲ってきた。エアコン。電話でか細く伝えると、低く呻く声と、頭をガリガリ掻き回す音が聞こえてくる。煮え切らない返事から察するに、今月都合をつけるのは、もう難しいのだろう。そもそも、俺が体調を崩しさえしなければ、こんなことにはならなかったのだ。頭を切り替えて「いい、別のヤツ、あたってみる」と伝えて電話を切った。
耳から携帯を離すと、画面はもう暗くなっている。ほう、ため息を吐きながら、カコカコとボタンに指を押し付けた。アドレス帳には、たくさんの名前が入っている。昔馴染みから、専門で知り合ったヤツ、それにデザイン関係のツテがちらほら。専門に入って、ようやく半年だというのに、随分と増えたものだ。デザインについて聞ける人は、たくさんいる。ただ、エアコンのことは、誰に聞くのが手っ取り早いだろう。同期で、家電に詳しい奴はいたろうか。
『ペーやんより詳しかねえけど、俺で良ければ付き合うよ』
「う」
十字キーを押しているうちに、頭にふわりと男の声が響く。
熱に魘されている時に聞いた、男の声だ。性根は短気で血の気が多いけれど、懐に入った人間にはとことん甘い、あの男。あいつに声を掛けるのが、きっと一番良いのだろう。
「……でもなあ」
わかっているが、気乗りしなかった。
零れ落ちたため息には、妙な熱が籠る。気を落ち着かせようと瞼を閉じれば、夢で見た光景がぷかりと浮かんできた。
「なんであんな夢」
思い出すと、ぼおっと頬の高いところが熱くなる。
夢の中で、自分はあの男に頭を撫でられていた。それは、現実でもあったこと。面白半分で、あいつは俺の頭を撫でていた。残り半分には、正しく労わりの気持ちが込められていたのだと思う。具合の悪さ故に、当時の自分は心細さも抱えていた。となったら、撫でられて、悪い気はしない。むしろ、心地いいとすら、思っていた。
それで留まれば良いものを、どうして自分は、あいつとキスをする夢を見たのだろう。輪郭の曖昧な世界の中で、熱くなった唇を何度もふわふわと啄まれた。ぴったりと押し当てられもした。それどころか、もっと深い口付けだって。
アドレス帳は、いつの間にかラ行に辿り着いていた。もう一つ、二つ、下向きの矢印を押せば「龍宮寺堅」の文字に辿り着く。
ゴクリ、気付くと生唾を飲み下していた。
「た、のめる、かよ……」
あんな夢を見た後で、真っ当にドラケンと顔を合わせられる自信がない。自分の特技はポーカーフェイス。表情を取り繕うのはお手の物。……それはあくまで、然程親交の無い奴が相手の時だ。一番長い付き合いのあいつを前にしたら、見抜かれることは想像に容易い。当然、嘘で誤魔化しきる自信だってない。
いざ問い詰められたとき、「お前に組み敷かれて、キスをしまくる夢を見たから気まずい」などと言えようか? 言えるか、そんなもん。
ぷるぷると首を振って、もう一度アドレス帳を、下から上へと戻っていった。誰か、誰でも良い、エアコンを買いについて来てくれそうな、その上で建設的な助言をくれそうなヤツ、誰かいないか。いるだろ、一人くらい。いてくれよ、頼むから。
―― 結局、エアコンを買いに行けたのは九月の終わり。大家も立ち合いの上で、エアコンを取り付けたのが十月半ば。「これからまた季節の変わり目になるんだから、風邪には気を付けなよ」とルナに釘を刺されたのが十一月の暮れで、半強制的に出させられた学生コンペの結果が来たのが十二月三日のこと。
相変わらず、慌ただしい日々が続いてはいるものの、経済的な不安が萎んだからか、体はすこぶる調子が良かった。病は、気から。よくできた諺である。
コンペでの評判が良かったおかげで、雑用みたいな案件だけれど、ちょっとした仕事も貰えそう。もういくらか余裕ができたら、先送りにしていたアトリエを契約し直せる。母と一緒に家出していたツキが、戻って来た。大丈夫、自分の未来は、それほど悪いものにはならない。
根拠のない自信を胸に、林田組を再訪した日、「忘年会しようぜ」と誘われた。断る所以は一つもない。二つ返事で頷いて、家の壁掛けカレンダーに赤丸を付けた。その日は、ちょうどクリスマス。土曜日というのもあって、妹の予定の青丸も書きこまれていた。
目覚めは、最悪だった。
夜中に飛び起きた瞬間、纏わりつく不快感に顔を顰めてしまう。慌ててべたべたと体を触り、間違いなく服を着ていることを確かめた。上も、下も、冬用のスエットを纏っている。ちょっと腹のあたりは捲れているが、この程度を「脱げた」と表現する者はいないだろう。
浅い呼吸を繰り返しながら、ドカドカと騒ぐ胸の上に、ぎゅうと右手を押し付ける。空いている左手は、捲れを直した腹の上に乗せた。
自分は今、なんて夢を見たんだ。……なんて、夢を、見たんだっけ。
夢というのは不思議なもので、見ている最中はくっきりと世界を認識できるのに、目が覚めた途端朧気になる。覚えている光景は、途切れ途切れの断片的。それすらも、時間が経てばコロッと忘れてしまうことが多い。夢とは、そういうもの。逆に、夢で起きたことを現実と同じくらいはっきり覚えていたら、生活に不便だ。だって、夢の話か、現実の話か、わからなくなってしまうから。
それでも、覚えていないなりに、まずい夢を見たということだけは、はっきりとわかった。
目覚めて早々に強烈な後ろめたさを感じるなんて、いつぶりだろう。いや、そこまで、久々というわけでもないか。夏の終わりにぶっ倒れた時、ドラケンとキスをする夢を見た。アレを見た直後に、心境は近い。アレもアレで酷かったな。具体的にどんな夢だったかはもう忘れてしまったが、とにかくキスをしまくった、というのだけは覚えている。
今見た夢は、それに近い内容だったのだろうか。額を押さえて考え込んでみるが、ヤバい内容だった、という以上の答えは出てこない。
飛び起きるほど、凄まじい夢だ。忘れて、正解。仰々しいため息を吐きながら、背中を丸めた。
「ン……?」
なんだか、腹が落ち着かない。下したのだろうか。左手で、違和感を放つ下腹を擦った。
痛い、というわけではない。腹を壊したときの、不穏な腸の動きも感じなかった。しかし、何かがおかしい。この状況を適切に表す言葉が思いつかないが、とにかく変だった。
一種の食あたりだろうか。もしそうなら、同じものを食べている妹二人にも症状が出ているはず。そっと部屋を区切っているカーテンを覗いてみるが、……こんもりと膨れた布団からは、穏やかな寝息しか聞こえてこない。呻いている素振りもなかった。耳を澄ましたところで、トイレを使っている音もしない。腹がおかしくなっているのは、おそらくこの家で自分だけ。
まさか、風邪の前兆か? それだけは勘弁してほしい。なんたって今晩は、昔馴染みとの忘年会があるのだ。クリスマスに忘年会というのも愉快な話だが、今年最後のクリスマスが土曜日だったのだから仕方がない。明らかに混む日だというのに、よくもまあ店の予約ができたものだ。もそもそと布団に戻りながら、幹事をしているペーに畏敬の念を送った。
「……んん」
腹を押さえたまま、ごろんと横向きに寝転がる。体を真っ直ぐに伸ばしていると、どうもそわそわしてしまって、仕方なく両脚を抱えた。体を縮めると、いっそう腹の奥にある違和感が際立っていく。ズキズキはしない。キリキリも、しない。シクシク、は、ちょっと近いかもしれない。ジクジク、これがいちばん、それらしい気がする。
ぐヂュ、り。
「ェ」
意識を集中させた先で、一際妙な感触が襲ってくる。それも、腹ではなく、尻の方に。
やはりこれは、腹が下っていたのか。だって今、尻の方から何か出た。いや、冷静に受け止めている場合じゃない。このまま寝転がっていては、駄目だ。絶対、駄目。この歳になって、漏らす? そんなの、絶対にしたくない。
そろりと布団から抜け出した。背中を丸め、腹を押さえた姿勢のまま、静かに襖に手を掛ける。その間だって、尻には力を入れていた。うっかり漏らすなんて真似、してなるものか。
廊下は当然冷え切っている。つま先で触れれば、畳とは異なる冷えが伝って来た。必然的に、背筋が冷える。……と、思ったのだが、そこまでの寒気はしない。むしろ、さりげない冷たさが、心地よくもあった。熱い・冷たいの感覚が鈍る程、自分は焦っているらしい。
なんにせよ、さっさと便所に辿り着かなくては。ほとんど足の裏を持ち上げないまま廊下を急ぐ。
錆びた蝶番の音を聞きながら、芳香剤の匂いの中に滑り込んだ。
「ヒ」
途端、再び尻に濡れるような感触が走る。これはいよいよまずい。少なくとも、下着の手洗いは必須だろう。気付かずに眠っていたら、大事故になるところだった。
奇妙な緊張で体を強張らせながら、スエットと下着とをまとめて引き下げた。
「……あれ」
ほとんど同時に便座に座る。けれど、腹の奥から何かが出てくる様子はない。加えて、汚れたと思ったパンツにだって、シミはできていなかった。
どういう、ことだろう。首を傾げたところで、腹から尻にかけての違和感はなくならない。試しに下腹を丸く撫でれば、奥の方がなんとなく疼いた。もう一度、首を捻って、ひとまずトイレットペーパーをカラカラと巻き取る。そっと尻を拭うと、薄く水を吸った線ができたが、そりゃあケツを拭いたらいつだってそうなるだろ、という程度。
襲ってきた違和感も、気のせいだったのだろうか。変な夢を見た、冷や汗を勘違いしたとか。釈然としないまま、トイレを流し、よろよろ手を洗って布団に戻った。
二度寝して起きると、今度は頭が重かった。その上、腹の奥には、夜中に気付いた違和感がまだ佇んでいる。このまま、布団の中に籠りたい。もそりと布団をかぶると、扉の向こうから妹たちの足音が聞こえてきた。忙しなく動き回るのを思うに、出かける準備をしているのだろう。二人が家を出る前に、せめて顔くらいは見せないと。兄としての矜持で、どうにか布団から這い出た。緩慢な動きで立ち上がり、そばにある襖に手を掛ける。
「ッわ」
「うお」
すると、自動ドアかのように、襖が開いた。廊下には、目を大きく開いたルナが立っている。タイツを履いた足の上で、プリーツスカートが揺れていた。上にはもうコートを羽織っている。まさに今、家を出るところだったらしい。
「……ごめん、ねぼうした」
「それは別に。っていうか、なんか顔赤いよ」
「そお? 寝起きだからじゃね」
「だったらいいけど。今日忘年会って言ってなかった、大丈夫なの」
「んー、んー……。様子見て、ヤバそうだったら休もっかな」
「具合悪い自覚あるんじゃん」
調子を取り繕う暇もなかったせいで、早速妹にバレてしまった。誤魔化そうとルナの頭にトンと手を乗せると、据わった視線を返される。
そこでようやく、髪が綺麗に編み込まれていることに気付いた。表面は、整髪剤で固められた感触がする。これは確かに、触ったらまずい。崩れないようそっと手を持ち上げ、ついでに降参と両手を上げた。
しかし、ルナのムッとした顔は崩れない。
「……寝起きなだけだってほんと。今日は夕飯も食べてくるんだろ、楽しんで来いよ」
「っあのさあ、……なんか、あったら、電話してよ」
「なんかってなんだよ。ヘーキヘーキ。時間いいの、間に合う?」
「まにあう」
「びみょーだよ。おねえ、準備終わったあ? 早く行こうよお」
「今行く!」
膨れっ面のまま、ルナは玄関の方を睨んだ。ひょいと顔を覗かせれば、おめかししたもう一人の妹が座り込んでいる。向こうも俺に気付いたらしく、マイペースに「おはよ!」と手を振られた。おはよう、朝から元気だなお前。朝と言っても、二人が出かけるということは、もう十時過ぎる頃なのだろうけれど。
ひらひらと手を振り返しながら、こっそりとルナを盗み見る。白い指先が、肩掛けポーチの紐をきゅっと握り込んでいた。行きたいと、兄を放っておきたくない、その二つがせめぎ合っているのが手に取るようにわかる。
本当に大丈夫なんだけどな。違和感はあるけれど、この間のように熱で朦朧とする程具合が悪いわけではない。倒れたり、いなくなったりしないから、安心して行っておいで。いよいよまずいと思ったら、ちゃんと忘年会は休むから。そんな意図を込めて、コートを纏った背中を押してやった。
「ッ」
「うん?」
「……なんでも、ない。いってきます」
「いってらっしゃい」
ルナの口から出かけたのは、どの諫言なのだろう。好きなだけ罵倒してもいいのに。言われたら言われたで、妹に説教された、と凹む自分が目に浮かぶ。パーちん相手に愚痴って、ペーやんに「自業自得だバァカ」と罵られるところも想像できた。話のネタはある、やっぱり行きてえな、忘年会。
後ろ髪引かれているルナの背をもう一度叩いて、二人のことを見送った。
天気予報曰く、今日は夜に雨が降るらしい。寒気が流れ込んできているため、夜中にかけて雪に変わる恐れがある、とも言っていた。本当に雪になってしまったら、足がなくなる。お開きまで粘らないで、まあまあ楽しんだら帰ることにしよう。なにより、あまり遅くなっては、心配性のルナに叱られてしまう。
頭痛薬を一粒飲んで顔を出した飲み屋には、もうほとんど全員が揃っていた。
「遅かったじゃねーか」
「ギリ間に合ってんだろ」
「おめーがギリっつーのが珍しいんだろうが」
下座にいるのは一個下の連中。ひょいと掻い潜って、ペーやんの隣に腰を下ろすと、いつものガラの悪い顔を向けられた。とはいえ、頭痛薬がなかなか効かなくて、とは言えない。ちょっとな、と口を濁せば、ふぅんと素っ気ない相槌が返って来た。それ以上の追及はない。横顔を見た限り、そもそも気にも留めていないのだろう。
ドラケンだったら、こうはいかない。……そう思ったところで、あの金髪がいないことに気付いた。乾もいない。あの二人が欠席するとは思えないから、仕事で遅れているのだろう。なぜか、胸をほっと撫でおろしてしまった。
飲み物はすぐに届く。俺が到着する前に、一旦注文をしていたらしい。およそ半分がビール、残り半分がウーロン茶。自分の元には、当然のようにビールグラスが回って来た。気を利かせた千冬がビールを追加しておいてくれたらしい。
ウーロン茶でも、良かったんだけどな。ふわふわの白い泡を見下ろしていると、唇には苦笑いが浮かんでくる。
上座では、パーが下手くそな挨拶を始めた。連ねられる単語は、普段のパーちんなら考え付かないような語彙ばかり。最初こそ、たどたどしさを応援するガヤが飛んだが、ビールの泡が溶けるにつれ、声援は煽りに変わっていった。
「そんなんいらねーんだよ、さっさと飲ませろ!」
「あぁあうるせえなあッ!」
止めは、ナホヤの野次だったと思う。ドスンとパーちんは地団太を踏んだ。逞しさを携えた腕は、やけくそ気味にグラスを突き上げる。
「乾杯ィッ!」
勢いあまって、放たれた音頭は裏返った。つい、クッと喉で笑ってしまう。別のところからは、ゲラゲラと派手な笑い声が聞こえてきた。部屋の中は、あっという間に騒々しさで満たされる。
体調は、万全とは言い難い。でも、来て良かった。気心知れた連中と顔を合わせるのは、やっぱり楽しい。
そっとビールグラスに口を付け、小気味のいい炭酸を口に含んだ。舌に乗った冷たさは、喉を過ぎると熱へと変わる。飲み下したのはたったの一口、しかし、そのアルコールは胃の中で確かな存在感を放っていた。今日は、酔うな。一杯飲み切ったら、それだけで酔っ払ってしまいそう。普段なら喉を鳴らして最初の一杯を飲み切るところだが、早めにグラスをテーブルに置いた。
乾杯を皮切りに、がらんとしていたテーブルは、みるみるうちに料理で埋まっていく。お通しと思しき小鉢に、しっかりあたたかい茶碗蒸し。深皿にはローストビーフが乗ったサラダが入っており、刺身盛りのボリュームもかなり良い。鍋用と説明された肉は、明らかに牛とわかる赤みをしていた。
会費、いくらだっけ。小ぶりな匙で茶碗蒸しを掬いつつ、ちらりと首を隣へ向けた。
「なあ、ぺーやん」
「あー?」
「会費、二千円って聞いてたけど」
「おう、お前は二千円」
「……俺は、ってなに」
「学生組は二千円。社会人組からはもっと貰ってる」
「は」
ちゅるっと吸い込んだ茶碗蒸しからは、卵と出汁のやさしい味がする。口の中には、海鮮の風味がふわりと残った。
おそらくこの店は、林田家御用達。となると、二千円で飲める価格帯ではない。なぜ、今の今まで気付かなかった。頭が重たかったから? なるほど。いや、納得している場合ではない。
「おい、それ、おいっ!」
「あーあーうるせえな、学生なんだから大人しくオンケイにアヤカッとけ」
「つったって学生なの、俺だけじゃん!」
「千冬と千堂も学生だろうが」
「あいつらは年下だし、……まさか八戒も社会人枠!?」
「おう。あいつガッコー行ってねえし。モデルで稼いでんだろ? だから社会人枠」
「~~ッふざけんな!」
「ふざけてね~ワ、社会人の経済力舐めんなよコラ!」
カッとなって噛みつくと、向こうも同じだけの熱量で唾を飛ばしてくる。確かに、学生と社会人じゃ、経済力が違う。それはわかる。
だが、イコールで弟分より金を出せない扱いをされるのだって、癪。頭の中で、プライドがキィーッと叫びをあげた。
貧乏なのは認める。金の工面で日々頭を抱えがちなのも否定しない。けれど、事前に教えてくれれば、飲み会くらいの都合はつけた。つけれンだよ、俺だって。コンペの賞金も貰ったし!
ムキになってペーに食いかかると、あちこちから煽りが飛んできた。血の気の多い連中だ、喧嘩があれば、当然花が咲く。宴会場の熱気が、ワッと大きく膨れ上がった。
「お、早速喧嘩か?」
胸倉を掴み掴まれたところで、部屋に新たな声が加わる。パッと振り返れば、入口にニヤリと笑う乾が立っていた。立ったまま、器用にブーツを脱いでいる。
姿こそ見えないが、もう一人の気配も、そのそばにはあった。
「っ、」
ひく、り。ペーやんの柄シャツを握る手が震える。背筋にはぴりりと電気が走った。はくん、熱気を食むと、膝立ちになっていた体は座布団に戻る。力んでいた手は、ぽとりと脚の横に落ちた。
「あ? おい、どうした」
俺と睨み合って膝立ちになっていたペーやんが、顔に胡乱を浮かべる。かかって来るんじゃねーのかコラ。喧嘩腰に、戸惑いが混じった。手指は、様子を見るように、ちょいちょいとこちらを煽る。
いつもの俺なら、「上等だ」と乗っかるところ。けれど、へたりこんだ体は、もうペーやんに意識を向けていられなかった。引き戸の影にいるだろう男のことを、食い気味に見つめてしまっている。目を、逸らせない。瞬きすらもできなくなって、目元には熱が集まり出した。
「なに、もう喧嘩? 酔うの早すぎだろ」
「ぁ」
間もなくその男は顔を見せた。ダウンで膨れていた乾と違って、線の綺麗なコートを着ている。けれど、口元はボリュームのあるスヌードで隠れていた。
声なんて、届くわけがない。そう思うのに、騒々しさの向こうにある声を、鼓膜は確かに聞き取った。微細な呼吸の音まで捉えてしまう。
咄嗟に、息を潜めた。このまま浅い呼吸をしていては、気取られる。下唇をそっと噛んで、脇を締めた。両手の拳も、ぎゅっと握り込む。
「おーい、三ツ谷ぁ?」
「っぁ」
隣から、肩を揺すられる。ぎくりと体を震わせて振り返れば、顰められたペーやんの顔が映った。眉間には皺が刻まれ、いっそう困惑が滲み出ている。ハ、と見やった左肩には、まだペーやんの手が乗っていた。
まずい。何がまずいのかはわからないが、これはまずい。
今、あの男以外に、触れられるのは、なんだかまずい気がする。
「三ツ谷?」
耳には、その男の声が、やっぱり届いた。
気配が迫ってくる。畳の上を、足が交互に進んでくる。人を掻い潜り、着実に距離を縮めてくる。どうしよう、か細く息を漏らしながら隣を見上げると、ペーやんの口が「エ」という形を作った。黒目には、ぼんやりと俺の顔が映り込む。……未だ嘗てないくらいに、その顔は、情けない表情を浮かべていた。
「おい」
「ッ」
熱に、左腕を掴まれる。いや、熱いのは自分の方だ。握り込まれている二の腕が、カッカと熱を放っている。
狼狽えながら見やると、もう左肩にペーやんの手は乗っていなかった。代わりに、血管の浮き出た手の甲が見える。骨ばった指は、ぐるりと俺の腕を捉えていた。
全身の毛が逆立つ。なのに、体の力は抜ける一方。口の中には唾液が溜まり、そのくせ上手く飲み下すことができない。苦しい、熱い、辛い、それとちょっぴり、怖い。
打ち震えていると、すぐそばにやってきた気配がしゃがみ込んだ。
「―― 帰るぞ」
お前、今日具合悪いだろ。
低い声が、耳元で響く。心臓はこれでもかと騒ぎ、くらりと頭が傾いた。こつん、と触れた先には、柔らかなアイボリーがある。好みの肌触りではないはずなのに、頬に擦れる感触が気持ち良かった。
「かえる……?」
「そう、帰んの。悪い、ペーやん、コイツ今日だめだワ。家まで送ってくる」
「お、おう、いや、エッ、なん、俺なんかしたか、突然三ツ谷が、は、へ?」
「……気にすんな。最近こいつ、なんか疲れてるみてーで、急に熱出すんだよ」
「あ、そういや夏にもンなことあったな。エアコンとき」
意識が、ゆっくりと蕩けていく。
ドラケンがいる。そのせいで、体は強張った。なのに、今はすっかり緩んでいる。とろとろと力が抜けて、表情一つ取り繕うことができない。ここは、家じゃない。周りには昔馴染みも、弟分もいる。しゃんとしなくちゃ。思いはすれども、蕩けた理性は傍らの体温に甘えたがった。
「会費どうすりゃいい、もう貰った?」
「まだだけど、ンな状態のヤツから貰えっかよ。どうせ二千だし、こっちで持つワ」
「あれ、六千つってなかったか」
「学生は二千円。足りねえ分は俺とパーちんで折半」
「……一万ありゃ足りるな」
「あ、おい、いいって」
隣にある体温が、身じろぎをする。そうだ、二千円。せめて最低限は渡して行かないと。ボディバッグを探そうと腕を持ち上げた。だが、あまりの怠さにすぐ座布団の上に落ちてしまう。呻きながらもう一回。しかし、テーブルの下にある鞄まで、なかなか腕は届かない。ぱすん、ぽすん、徒に座布団の端を叩いて終わった。
「鞄は。ソレ?」
「あ」
そのうちに、ドラケンの手が鞄を引きずり出す。そうそう、それ。受け取ろうと手を浮かせたが、鞄のベルトはひょいとすり抜ける。あれ、と首を傾げた頃には、きっちり斜めにかけられていた。なんでもいいや、財布、財布。もたもたと金具を摘んでいると、今度は腕を取られてコートを着せられる。おい、財布取り出せないだろ。文句を言おうと顔を上げると、着せられたコートの前をキュッと上まで留められてしまった。とろんと見下ろした胸は、ボディバッグの形に膨らんでいる。
「さいふ……」
「何言ってんだ、行くぞ」
「わ」
改めて腕を回されて、重怠い体を立たせられた。仕方なく踏み出した足は早々にもつれ、ぐわんと体が傾いてしまう。ワッと叫んだのは、後輩の誰だったろう。ごめん、と声をかける前に、体はドラケンに抱え上げられた。横抱きでは、ないと思う。親が幼子を抱えるようなソレ。……どちらにせよ、成人男性が容易くする格好ではない。
奇異の視線が、あちらこちらから飛んで来る。素面だったら、ワーッと叫んでいたことだろう。ひと暴れして、ドラケンの腕から落下していたとも思う。そもそも、平静を保っていたら、抱きかかえられることもなかったのだろうが。
「み、三ツ谷君、それ大丈夫なんすか」
「あー、悪い、さっき蹴っ飛ばされたろ、こいつに」
「いえ! 俺は平気なんで」
ちらりとドラケンの肩から顔を覗かせると、困惑顔の千堂が見えた。
さっきぶつかってごめんな、あつし。
頭に浮かべた台詞は、全部ドラケンの肩に吸われてしまう。むにゃむにゃとした音をどう捉えたのだろう、さらに眉尻を下げながら、千堂は「お大事に」と言ってくれた。良いヤツである。会費、二千円じゃなく千円にしてやって。もごもごと口を動かしたが、結局声はドラケンの肩に吸われて終わった。
俺を抱えた体は、来た道をその通りに引き返す。ブーツを履いて、俺の靴を引っ掛けて、ぼんやり明るい廊下をのしのし進んだ。
自分は、一口飲んで、一口食べた。しかし、ドラケンは文字通り顔を出しただけ。こいつだって、昔馴染みとの忘年会、楽しみにしていたはず。こんなことなら、自分のことを過信しないで、欠席すれば良かった。そしたら、ドラケンの手を煩わさせずに済んだのに。
今からだって遅くない、頬を叩いて、気合いを入れ直したら、どうにか一人で帰れるのでは。家まで歩くのは難しいかもしれないが、タクシーを捕まえれば、なんとかなる気もする。俺が一人で大丈夫なら、ドラケンは忘年会に戻れる。それが、いい。そう、しよう。ふわふわとした心地の頭で結論付けて、ぽすんとドラケンの肩を叩いた。
「どらけん」
「あー?」
「おれ、ひとりでもいいよ、かえれるよ」
「……馬鹿、一人で歩けもしねえ奴が何言ってんだ」
「ひとりになったら、あるけるかもしれないじゃん」
「どうだか。ほら、乗った乗った」
「う」
ぴゅ、と顔に北風が吹きつける。尻はタンデムの上に着地した。服越しに、じんっと冷たさが伝ってくる。ぶるりと震えるのに合わせて、尻の辺りがじゅわりと違和感を訴えた。足を開く姿勢は、なんだか落ち着かない。下腹に佇むもどかしさと相まって、もぞもぞと身じろぎしてしまった。その上、顔は、火照りを増す一方。
一人で帰るの、無理だな。頭の冷静な部分は、ようやく自分の情けなさを認めた。
「へ、わ」
「これつけて。首出てると、寒いだろ」
そのうちに、柔らかな塊がこちらに被せられる。ぶわりとドラケンの匂いが襲ってきて、一拍してからスヌードを貸されたのだと気付いた。大ぶりなそれは、首筋どころか鼻先まで埋もれさせる。目元の熱が、さらに増した。
どうして自分は、こいつの前でばかり弱ってしまうのだろう。つるんでいた頃は、情けないところを見せて堪るかと気張れていたのに。昔から、いざというときは頼りにしていた。けれど、近頃のコレは、目に余る。頭を撫でられると嬉しくなるし、キスをされる夢も見てしまった。あまつさえ、抱かれる夢だって。……抱かれる夢も、見たんだっけ? 記憶には、ない。記憶にはないが、見たような、気がする。忘れているのか、なにかと勘違いをしているのか。
うんうん呻いている俺に、ドラケンはぼすんとヘルメットを乗せた。自身の頭にも被せ、大柄な体躯はひょいとゼファーに跨る。
「ちゃんと捕まってろよ、落ちたら洒落になんねえから」
夜の中で、アイボリーの色味はグレーに映る。けれど、匂いのせいか、柔らかな風合いに見えた。吸い込まれるように、上体は背中に近付く。くるくると回っていた思考は、いつの間にか停止していた。
腕が、そいつの腰に回る。背中に沿うように、火照った身体を寄せていた。
「ッおい」
くっついた途端、ドラケンはぎくりと体を強張らせる。肩越しに振り返った鼻先は、寒さのせいか赤くなっていた。こんなにぴったりと抱き着かれたら、走りにくい。自分もバイクは運転する、それはよくわかっていた。けれど、絶対に無理な姿勢ではないことも、知っている。
だめ? おれは、これが、いい。
ぴたりとくっついたまま、見つめ返していると、ドラケンの存外厚い唇がむにゃりと波打った。
「……まあ、いいけど」
その唇は、ぽとぽと煮え切らない言葉を落としたところで前を向く。馴染んだエンジン音がかかり、やがて車体は走り出した。
腰にはバイクの振動が響く。ぎゅっと密着しているおかげで、男の鼓動もよく聞こえた。脈打つ音は、安心感と焦燥感、両方を与えてくる。なんで、俺、こんなにドキドキしてるんだろ。二ケツするのなんて、初めてってわけでもないのに。運転の邪魔にならない程度に身じろぎをすると、下腹の、さらに奥が疼いたような気がした。
家につく頃には、すっかり熱が上がっていた。頭重感や腹の違和感も増している。そんな状態で真っ当に歩くことなど、できるわけがない。バイクから降りようとしただけで、べたんと地べたにへたり込んでしまった。立ち上がろうにも、足腰はさっぱり言うことを聞かない。うわ、どうしよう。ドラケンを見上げると、ため息一つ吐いたあと、俺の体を抱き上げてくれた。
「ルナちゃんたちは?」
「……出かけてる、親父さんと、クリパ。帰ってくるのたぶん、九時過ぎ」
「ふぅん」
鍵、どこ。玄関の前に辿り着くと、視線だけでそう尋ねられる。鍵は、鞄の、中。覚束ない手付きでコートの前を開いた。じ、じじじ、ファスナーを下ろすだけでも、手が震える。やっとの思いで取り出した鍵は、さっとドラケンの手に奪われた。
ガコンと錠の外れる音。間もなく、錆び付いた玄関扉は手前に開く。敷居を跨ぐと、住宅街の灯りは遠ざかり、そばにいる男の表情は読めなくなった。電気を付けないと、さっぱりだなあ。体を下ろされながら男のことを眺めていると、わずかな空白のあと、鍵をかける音がした。それから、パチンと電気のスイッチを入れる音も聞こえる。
「ワ」
辺りが、暖色灯で照らされた。暗く陰っていた男の顔も、よく見える。鼻先は、やっぱり赤い。頬の高いところも、じんわりと赤みを帯びていた。スヌード、無理して貸してくれなくても良かったのに。風を受けていた分、さぞ冷えたことだろう。都合のいいことに、今の自分は、体のどこもかしこもカッカと熱を持っている。俺のコト、湯たんぽにしていいよ。そんなつもりで、ン、両腕を伸ばした。
「なに、また抱っこしてほしいって」
「うん」
「……素直かよ。靴脱がすぞ。あとコートも」
しかし、腕を取っては貰えない。俺の前に跪いたドラケンは、恭しい手付きで俺の足から靴を脱がした。剥がすように、コートも取られる。中に籠もっていた熱気が、ぼおっと玄関の空気に溶けた。
「ぅ」
「どらけん?」
「……なんでもねー。ほら、抱っこしてやっから」
「んふふ」
「嬉しそうにしやがって」
だらしなく笑っていると、体がぐんっと持ち上がる。あっという間に、頭はドラケンより高いところに移動した。この男の脳天を見る機会なんて、そうそうない。きちっと結われた髪の流れを眺めてから、こっそり口元を寄せた。唇が触れたのは、ちょうど龍の刺青の上。ぴく、触れた肌が、引き攣ったような気がした。
「三ツ谷」
「んー」
「それ、だめ」
「ヤ?」
「……イヤってことねーけど」
「じゃあ、いいじゃん」
「良くねぇ」
ドラケンのムッとした声を聞いていると、部屋の襖が開かれる。体を屈めるのに合わせて首を縮めると、脳天が鴨居を掠めた。初めての経験に、そわりと胸が高鳴る。ドラケンにしがみつく腕にも、力が入った。
「ンッ」
すると、腕の中から上ずった声がする。咄嗟に顔を覗き込むが、灯りから遠ざかったせいで、顔色を窺うことはできなかった。
「どらけん、」
「降りて、布団敷く」
「ねえ」
「電気どこだ、まあ見えるからいいか」
「どらけん」
ドラケンは俺を畳に降ろすと、布団の方に体を向ける。廊下から差し込む光を頼りに、俺の寝床を整えてくれた。けれど、俺の声には反応してくれない。振り向いて、くれない。
さっきの声、なに。あと、構って、ほしい。切なさが、胸の中で蜷局を巻いた。重怠い体は、四つん這いになって布団を広げる男に迫る。揺れるコートの裾を、きゅ、柔く握った。
「っなん、だよ」
「なんだろう、なんとなく」
「……今、敷き終わったから、ほら」
パッとドラケンは振り返ってくれる。ぽてりとした唇は、ヘの字を描いているように見えた。俺のぼんやりした物言いに、呆れているのかもしれない。
会話が転がることはなく、骨ばった手の平はぽんぽんと布団を叩いた。抵抗する気は、沸いてこない。手に引き寄せられるまま、体は布団の中に潜り込んだ。
「じゃあ」
「じゃあ?」
「帰るワ。ルナちゃんたちによろしく言っといて」
「エ、かえっちゃうの」
横向きに転がると、綿布団を肩までかけられる。ずしりと重みが乗って、スヌードの嵩が減った。コートは脱がしてくれたけれど、これは外してくれなかったな。どうしてだろう。首元を覆っているとなんだか落ち着くから、巻いている分には構わないのだけれど。
薄暗いせいか、逆光のせいか、ドラケンの表情は窺い知れない。ただ、ムッとしてそうだな、とは思った。先ほど見えた表情が、そうだったから。今朝のルナと、似たような顔をしている気がする。呆れが半分、心配が半分、そこに一つまみの焦りが混じった顔。妹たちが帰ってきたら、謝らないとな。兄ちゃんは無理をして忘年会に行きました、明日と明後日、使い物になりませんって。
「おまえ、さあ」
「うん?」
ドラケンから、掠れ気味の声がする。ピントを定め直したが、やはり表情はよく見えない。代わりに、鬱憤の混じったため息が聞こえてきた。
「……俺、帰んない方が良いの?」
「うん」
「そお」
「ん」
声色には、不機嫌が混じっている。いや、不機嫌というよりは、何かの感情を抑え込んでいる声だ。それを世間は、不機嫌と呼ぶのか。
なんにせよ、俺を蔑ろにする様子はない。ドラケンはもう一つため息を吐いてから、鈍い動きで戸襖を閉めた。差し込んでいた灯りが途絶え、世界が濃いグレーに染まる。程近いところから、布擦れの音がした。空気がじわりと動き、気配は枕元に腰を下ろす。だんだんと目が慣れてくると、胡坐をしている塊が見えてきた。
んふ、スヌードに埋もれた口からは、吐息を過分に含んだ笑みが溢れた。
「なに笑ってンだ、早く寝ろって」
「うん、んー、どらけん」
「あー」
「手、かして」
「……手ぇ?」
「うん」
布団からわずかに腕を伸ばし、手探りで男の膝を叩く。そのままぺちぺちと遊んでいると、一回り大きな体温に包まれた。緩く開いていた手指が、きゅっと一握りにされる。自分の方が、幾何か熱いだろうか。けれど、重ね合わせているうちに、体温の境目は溶けていった。混じり合う感触が心地いい。あわよくば、手だけじゃなく、他のところとも混ざりたい。欲が滲んで、絡めた手を頬の近くに引き寄せた。
「なにしてんの」
「うん? ふふ、」
「ふふじゃねーから」
頭の上から、男の声が降ってくる。相変わらず、呆れ半分の心配半分。そこに焦りが一つまみ。なのに、肌には甘さが伝わってきた。連れて来た手を頬に当てると、甘美はいっそう色濃くなる。
男の体温に耽っていると、乾燥気味の指先がはたりと動いた。俺にされるがままだった手指に、自我が宿る。手始めに、火照った頬の表面を丸く撫でて来た。汗ばんだ肌を何度か擦ると、指先は俺のこめかみに滑る。髪で隠れている龍の頭が、ツツツと擽られた。やがて手指は髪を潜り、ゆったりと頭を掻き混ぜてくる。
ドラケンに撫でられるのは、心地が良い。胸いっぱいに安心感が広がり、とろんと意識がぼやけてきた。このまま眠ったら、さぞ気持ちが良いことだろう。そう思う一方で、もう少し、この心地よさを味わっていたい気もする。
男の手は、俺の良いところに触れてくれる。いや、こいつに触れられるのなら、どこだって気持ちが良いのかもしれない。
後頭部を擦っていた指は、じんわりと頭の付け根へ下っていく。
そして、指先は、項に辿り着いた。
「―― あっ」
「うん?」
「なん、でもなぃ」
「そお」
「んっ、ゥ」
スヌードに埋もれた口から、高い声がまろび出る。咄嗟に唇を噛みしめたものの、もどかしさを伴った声は鼻の方から抜けていった。
ずっと、気持ちが良かった。湯船に浸かっているような心地で、安らぎすら覚えていた。しかし、今は違う。指先が首筋を掠める度、目の奥で白い光が爆ぜていた。
それは、駄目。やめてほしい。伝えようにも、舌は上手く回らない。それでも必死に口を開けば、あ、あ、と情けない音が溢れてしまった。
はくん、空気を食むと、男の匂いで肺が満たされる。そうじゃないと首を振れば、鼻が何度もスヌードに擦れた。顔を埋めるから良くないのだろうか、一旦首を退けば落ち着く? 朦朧とした頭が閃くが、後ろには男の手指が構えている。ツ、と項を抓まれてしまい、結局顔を布地に埋めてしまった。
「ん、っふ、ぁ」
項を擽る手は、なかなか大人しくなってくれない。それどころか、指の腹を押し付ける力が増している。ぎゅ、ぎゅう。肌が沈む度、痺れが背骨を伝っていった。その先には、違和感を放つ下腹がある。
酷なくらい、最奥に痺れは効いた。
「っぁ、」
疼きはひたすらに煽られる。腹の奥に心臓が移動したみたい。ドクドクと熱が震え、いくら内腿を擦り合わせても、もどかしさは止まなかった。触られているのは項なのに、どうして腹の奥を掻き回されている心地になるんだろう。尋ねたら、ドラケンは答えを教えてくれるだろうか。……曖昧に笑って、誤魔化される気がする。
「~~ッ」
ついに項は、五指で噛まれた。
その瞬間、体が一際大きく跳ねる。足の先まで、ピンと張り詰めた。強張った身体に、未だ嘗てない程の熱が襲ってくる。なんだ、この熱は。この疼きは。―― この快感は、一体。
絶頂に達したところで、ぶつりと意識が途切れた。
意識を取り戻したとき、傍らに男はいなかった。その代わり、首元には男のスヌードが巻き付いている。すん、鼻を鳴らすと、あいつの匂いは薄らいでいた。おそらく、自分の汗を吸ってしまったせいだろう。洗濯をして、返さないとな。……でも、返したく、ないな。熱でぼおっとした頭は、平生の自分なら考えないようなことを思いつく。ふるりと首を振って、布の塊を取り払った。
「あ、起きた」
ふと、視線を感じる。顔を上げると、カーテンから下の妹が頭を覗かせていた。
「マナ……」
「おはよ。忘年会で倒れたんだって?」
「ドラケンは」
「そうだ、ドラケン君心配してたよ。最近熱出してばっかだろって」
目を擦る妹の頭では、ぴょんと髪が一束跳ねている。細い毛先は、絡まっているようにも見えた。昨日、髪乾かさずに寝ただろ、お前。ほとんど無意識に、手招きをしてしまう。一拍ぽやっとしたマナは、すぐにニコッと破顔して、ちょこちょこと俺の枕元にやってきた。
「ねぐせ、すげえぞ」
「えー、おにいよりマシだよ」
「……俺そんなひどい?」
「ぼーんってしてる」
「ぼーんかあ……」
跳ねた辺りを撫でてやると、妹の手が俺の後頭部に添えられた。ちょうど、あの男にかき混ぜられた辺りだ。掻き回すだけ掻き回して、整えずに行ったのかよ、あの野郎。八つ当たり染みた文句が、胸の内側に滲む。
「―― お兄ちゃん」
「ッ」
ぎくりと、体が強張る。カッ開いた目は、跳ねるように入口に向いた。
そこには、もう一人の妹が顔を覗かせている。マナとは違って、その髪に寝癖はない。さらりとしたストレートが、重力に従って垂れていた。
前髪の向こうにある目と視線が重なっても、ルナが部屋に入ってくる様子はない。距離を保ったまま、ムと唇を歪めていた。
「聞いたよ。また、熱出したって」
「……うん、ごめんな、心配かけて」
「あのさあ、いくらなんでも多すぎない? 月曜、病院行こうよ」
「んん、ただの風邪だって」
「そんなの、わかんないじゃん。病院行って、それでも本当になんでもないんなら、それででいいから」
妹の口調は、徐々に早口になっていく。焦りはもう、一つまみなんかじゃない。どっさりと山を作っているらしかった。
年末の病院か。考えるだけで、気が遠くなる。けれど、妹にいつまでもこんな顔をさせるわけにもいかない。いい加減、腹を括るべきなのだろう。
「……お兄ちゃんまで突然いなくなっちゃったら、ヤだよ、あたし」
か細く付け加えられた言葉を聞くと、いよいよ意地を張ってもいられなくなる。
わかったよ。そう答えれば、やっと妹は、怒らせていた肩を下ろした。