窓を開けたところで、暑さは和らいではくれない。灯りに引かれた小さな羽虫が、ひょいと網戸を潜ってくるだけ。それでも、閉め切っているよりはいくらかマシと、ガラス窓を開けていた。
 こんな家にも、一応エアコンはある。歪な音と、ろくに涼風を吐き出さないエアコンだ。使わなくなって、何年だろう。そもそも、このエアコンがまともに動いているところを、自分は見たことがあったろうか。頬杖をしながら、その黄ばんだ塊を睨んだ。我が家の買い替え最優先家電は冷蔵庫。……それはそれとして、今年の猛暑は死ぬかと思った。この歳で夜中に足が攣ったのだ、あれは命の危機である。自分より体力のない妹二人にとっては、この夏が酷な夏休みになったのは間違いない。
「あー……」
 項垂れるにつれて、手の付け根は、頬から額へと辿り着いていた。薄く目を開けば、今月使ったレシートと、光熱水費の切符が見える。それから、家計費を管理している通帳も。
 母はまだ、帰ってこない。だから、通帳に加わるのは、自分の細やかなバイト代のみ。当然のことではあるが、―― 底が見え始めていた。
 後期分の学費は、先月払った。三月までは、ひとまず通える。けれど、その先はどうだろう。バイト代を増やした程度じゃ賄うにも限界がある。女の子って、金がかかるんだな。不穏なフレーズが浮かんで、すぐに首を振った。
―― お兄ちゃん」
 聞こえて来た声に、肩が跳ねる。勢いそのまま振り返ると、素足のルナが見えた。風呂から上がったところらしい。バスタオルで挟むようにして、髪の水気を拭いていた。
「お風呂」
「ん、わかった」
「……あと、」
「うん?」
 今の自分は、なんでもない兄の顔を取り繕えているだろうか。もう一人の妹曰く、最近の俺は目が三角になっているらしい。そのくせ、マナは起きている間、俺の周りをちょろちょろしている。なんでも、俺を一人にしたら、もっと怖い顔をするから、と。よく見てるよな、あいつ。
 こいつも、だけど。
 どうした。努めて穏やかに、首を傾げて見せた。
「明日、お父さんと会う日だから」
 化粧をしているわけでもないのに、この妹の睫毛は長い。伏し目がちになると、その長さはいっそう際立つ。水気を含んでいるからか、まだ十三だというのに不思議な色気があった。
 ええと。貼り付けた笑みのまま、壁掛けのカレンダーを見やる。明日の、八月最後の土曜日には、青い丸がついていた。ツツツと視線を上にずらすと、今月の最初の土曜日にも、同じ丸がついている。
 ええ、と。再び浮かんだつなぎ言葉は、声になっていたらしい。バスタオルを被っている妹から「うん」と素っ気ない相槌が返ってきた。
「月始めじゃないっけ、いつも」
「まあ。でも、新学期始まってからより、夏休み中の方がいっかって話になって」
「そう」
「いつもみたく、お昼食べて、買い物して、夕方には帰るから」
「……ゆっくりしてきてもいいんだぜ」
「何言ってんの。明日トイレットペーパー買うんでしょ、一人一個のアレ」
「買う」
 作り笑いから真顔に戻して答えると、妹はぷっと噴き出す。どこか得意げな横顔をしたまま、稼働音を立てる冷蔵庫に近寄った。やたらと重たい扉が開き、麦茶を注ぐ涼やかな音が聞こえてくる。
 ぼんやり眺めていると、彼女は二つのコップを持って戻ってきた。片方は俺の前に、もう片方は自分の口元に。おやすみ。その一言にこっちが返事をする前に、妹は部屋へと引き上げていった。
 壁何枚か隔てた向こうから、ドライヤーの音が鳴り始める。何の気なしに見やった外からは、すっかり暗くなったというのにアブラゼミの声がした。

 妹と自分は、父親が違う。
 俺のソレは、いつか母に聞かされたロクデナシ。
 一方、妹二人の父親は、苛烈さとは無縁の穏やかな人だ。その人と一緒に暮らしたのは、ルナが生まれるちょっと前から、マナが母親の腹の中にいるとわかった頃まで。戸籍上は、どちらの妹もあの人の子供ということになっている。けれど、正しくあの人の血を引いているのは、おそらくルナだけだろう。なんせ、あの人と離婚したとき、母には懇意にしている別の男がいたから。思えば、その男のことも「運命の人」と言っていたっけ。都合のいいロマンチストだよ、本当に。
 どうせ都合のいい生き方をするのなら、親権だって取らなければ良かったろうに。淡い記憶の中では、ルナの父親も親権を主張していたような気がする。まあ、あくまで「ルナの」親権だけ。どうなろうと、自分はあの母と暮らしていただろうし、当時お腹の中にいたマナもそう。あのあと、どういうやりとりがあったか知らないが、結果的にルナも俺たちと母の元で暮らすことになり、月に一度、実父たる男と顔を合わせている。
 スーパーからの帰り道、顎から汗が伝い落ちた。安いところを回ったせいで、普段より体が疲れている。日が暮れたら、いくらかこの暑さも和らぐだろうか。そうでないと、困る。折角妹たちがドラッグストアについて来てくれると言うのだ、わずかにでも、過ごしやすくなっていてくれないと。
 日差しでクラクラと頭を揺らしながら、やっとの思いで古アパートに辿り着いた。
「あ、っつ」
 取り出した鍵は、体温を吸って温くなっている。人間染みた温度感が気持ち悪くて、つい雑な手付きで鍵を捻じ込んでしまった。安っぽいシリンダーを睨みながら、開錠の方向に手首を捻る。
「……うん?」
 しかし、鍵の外れる感触はしなかった。向きを戻して、そっとドアノブに手を乗せる。蝶番が鳴らないよう、努めてゆっくり手前に引くと、施錠したはずの扉があっけなく開いた。
 鍵を、掛け忘れたのか。いや、間違いなく閉めたはず。ならば、まさか、空き巣? こんな金品のなさそうなところに、入る奴がいるのかよ。……いるから、今こうして扉が開いているのか。一旦閉じて、交番に引き返すか、殴り飛ばす前提で中に入るか。意識をヒリつかせつつ、そっと中の様子を窺った。
「あ」
 まず目に入るのは、薄暗い玄関。見下ろした三和土は、一昨日掃き掃除をしたのもあって綺麗な状態を保っている。
 その手狭な空間に、小さいサンダルと、女性らしい大きさのサンダル、そして、明らかに男物の靴が並んでいた。一つはマナ、もう一つはルナのもの。じゃあ、このシックなデッキシューズは、誰のもの?
 こくんと唾を飲みながら、足音を潜めるようにして廊下を進んだ。
「た、だいま……?」
「おかえり」
「おかえりー」
 恐る恐る、居間を覗き込む。足音は、確かに抑えたはず。しかし、中にいる三人は、俺に気付いていたらしい。声を掛ける前から、視線がこちらに向いていた。
 戸口に、背中を向ける角度で座っているその人すらも、俺の方を向いていた。
「お邪魔しています。ええと、……大きくなったね、隆君」
 その男は、人の良い笑みを浮かべる。左手の指先は、小さく頬を掻いていた。見覚えのある仕草だ。かつての、三年にも満たない期間の記憶が呼び起こされる。記憶と違うのは、年嵩と、薬指にある指輪くらい。
 僕のこと、覚えているかな。不安そうに付け足された言葉を聞くと、己の口はぽかりと開いた。
「リオンさん」
 零れ出た音は、和名にしては洒落ている。おそらく、充てられた漢字もあるのだろう。だが、自分は知らない。それを知るくらいまで、一緒に暮らさなかったから。一緒に暮らすことなく、この古アパートに、引っ越してしまったから。
 どうして、ルナの実父が、こんなところにいる?
 狼狽えた視線は、おろおろとよろめきながら、妹を捉えた。
「るな、」
「……言ったの。お母さんが、家出したこと。三月から、今日までずっと帰ってきてないって、コト」
「え」
「そしたら、お兄ちゃんとも話がしたいって言うから、来てもらった」
 彼女の両手は、麦茶を注いだガラスコップを包んでいる。隣にいるマナも、真似をしてガラスコップを触っては、冷えた両手を頬に当てていた。結露した水がついたからか、そもそも汗ばんでいるからか、丸い頬に透明なツヤが乗る。普段通りなら、そこに暑さが原因の疲れが滲んでいるのだが、今日はまだ元気そうだった。きっと、涼しいところにいたのだろう。
 ルナのやけに白い指先が、静かにコップを持ち上げる。薄く色のついた唇に、ちょん、ガラスの縁が触れた。伏し目がちの顔付きには、マナとは異なる艶がある。中学に入って、まだ半年も経っていない。なのに、色気だけが増していく。女の子の成長って、こんなに早いんだ。妙なさみしさが過って、やっぱりおろおろと視線を逸らした。
 そこでやっと、もう一人が俺に向き直っていることに気付く。足は正座を作っており、かしこまった雰囲気を纏っていた。やがて、その人の骨ばった両手の先が、床につく。ピンと伸びていた背中が、ゆっくりと前に倒れていった。
「まずは気付かなかったこと、お詫びさせてほしい。申し訳ない」
「え、いやッ」
 深々と下げられた頭。旋毛どころか、後頭部まで見えてしまう。こっちが突っ立っているのもあって、かつて、シメた有象無象が頭を過った。いや、あれは不良で、この人は一般人。一緒にしては、いけない。
 ぷるっと首を振ってから、慌ただしく床に膝をついた。その人の肩に手を掛けて、なんとか起こそうと試みる。
 しかし、びくとも、しない。穏やかそうに見えたのだが、強情な一面も持っていたようだ。筋肉には、厚みがある。ドラケンも、そういえばこんな体格してたっけ。明後日に向かいそうになる意識の手綱を、もう一度首を振って、握り直した。
「やめてください、そんなことされたって、つーか、そういうのは俺じゃなく」
「あたしらはもうされた」
「すごかったよね、机にガンッておでこぶつかったんだもん」
「……もうあのカフェ行けないなあ」
 動転気味に飛び出た言葉は、妹にぶった切られる。咄嗟に目を向けると、その先では二人揃って曖昧な笑みを浮かべていた。つまり、俺は、外でこうされていないだけマシ、ということらしい。
 困惑を拭えないまま狼狽えていると、ようやく男の肩が持ち上がり始める。
「それで、……本当に今更な話には、なってしまうんだけれど」
 背中は、まだ丸みを帯びている。立ち上る気配にも、申し訳なさがたっぷりと籠っていた。けれど、その目付きは真摯だ。血が繋がってないのに、慈しまれているような心地にもなる。
―― 家族として、みんなで一緒に暮らさないかい」
 え。
 ぽとりと声を落とした後、顎からもぽとりと汗の雫が伝い落ちた。

 ドラッグストアに行きそびれた。それくらい、今日与えられた情報量は多かったと言えよう。なんなら、まだ頭が混乱しているくらい。
 一緒に暮らさないか。今更一緒に生活したくないというのなら、それでも構わない。ただ、これからは、なにかあっても・なくても、頼ってほしい。もちろん、養育費の支払いも続ける。一つ二つと浴びせられた情報のうち、かろうじて食いつけたのは養育費の話だけだった。
 窓から、生温い風が入ってくる。テーブルの上には、今日の買い物のレシートと、通帳が乗っていた。家計費の通帳は、昨日と同じ。その他に、ルナ名義の通帳と、マナ名義の通帳がある。……母が家出する際に、ルナが死守した通帳だ。てっきり、たいして中身は入っていないと思っていた。
 けれど、それは入っていないように見えていただけ。
 震える手で、ルナの通帳を開いた。それから、マナ名義の方も。どちらも、今日、あの父親を見送りがてら、記帳したものだ。未記帳の明細は、それぞれ十年分。最初のページにしか印字されていなかった文字は、ほとんど最後のページに辿り着いてしまった。養育費として振り込まれていたそれらは、不思議なことに、一円も引き出されていない。あの母も、手を付けなかったらしい。いや、カードを作っていないから、気軽に下ろせなかっただけかもしれないが。
 月曜日は、銀行に行こう。印鑑を確かめに、妹二人と一緒に行こう。もしこれで、印鑑が違うとなったら、どうすればいいのだろう。この家の箪笥を端から端まで引っくり返すしかないか。クソ暑いこの時期に、それは嫌だなあ。
 深くため息を吐きながら、開いていた通帳を閉じた。
「お兄ちゃん」
「っう」
「お風呂」
「……わかった」
 掛けられた声に、肩が跳ねる。パッと顔を持ち上げると、昨日と同じ姿のルナが立っていた。同じ、ではないか。寝巻にしているTシャツが、昨日とは別。俺のおさがりを着ているのもあって、いつにもまして華奢に見える。ほっそりとした体躯は、布一枚の下をよろよろ泳ぐ。間もなく、ぺたり、俺の向かい側に腰を下ろした。
「ごめん」
「へ」
「急に、お父さんのコト、連れてきて」
「いや、それは全然」
「……ああいうこと言われるの、初めてじゃないんだ。前に、お兄ちゃん怪我して入院したことあるでしょ、その時が、最初」
「そ、っか」
「うん」
 伏し目がちにルナは言う。
 月に一回会う生活、それを十年続けているのだ。この妹は、あの人のことをそれなりに信用している。それに、毎月のコレを嫌がったことは一度もない。
 あっちの家で暮らしたい、もしかすると、ずっとそう思っていたのかもしれない。「気付かなかったこと、お詫びさせてほしい。申し訳ない」。それを言うなら、俺だって同じだ。妹が、悩んでいたこと、気付きもしなかったのだから。
 じっとりと絡みついてくる暑さが不快で、細く長く、息を吐き出した。
「ルナは、どうしたい?」
 こんなこと、できれば考えたくはない。けれど、後回しにしたって、いつかは向き合わなくてはならないことだ。
 この家にいるはずの母は不在。いくら養育費があるといえども、俺の収入は不安定。こんな家じゃ、安心して過ごせる環境とは、言い難い。
 妹には、できるだけ将来、困らない道を選んでほしい。進んでほしい。後悔の少ない生き方をしてほしい。
 努めて静かに尋ねると、ルナの長い睫毛がじんわりと持ち上がった。
「お父さんと暮らすのが、良いんだろうなって思ってる」
「……じゃあ、」
「でも、お兄ちゃんは、―― 一緒に来てくれないでしょ。それは、ヤだな」
 髪を拭く手を止めて、ツゥとルナは目を逸らす。淡い色味の唇は、ちょっと拗ねたふうに尖っていた。
「お父さんにも、お母さんにも悪いけど、あたしの一番はお兄ちゃんとマナなんだよ。その二人がいなくなるなら、どんなに裕福な暮らしができるって言われても、したくない。行きたくない」
 今が良い。
 妹の声色は、きっぱりとしている。迷いは、いくら探しても見つからなかった。
 説得するのが、一番良いのだろう。この先のことを考えたら、向こうで暮らす方がずっと幸せになれる。今はさみしくなったとしても、いずれ慣れるはずだ。人間は、その時々に適応できる生き物なのだから。
 喉元まで込み上げてきた言葉を、舌に乗せるか、否か。三秒ばかり迷って、きゅ、唇を閉じてしまった。だって、大事な妹だ。突き放せる、もんかよ。
 兄の態度を悟ったのだろう、バスタオルを被っている妹はほのかに口元を緩める。
「ねえ、そのお金、ちゃんと使ってね」
「当たり前だろ。お前らの養育費なんだから」
「そういう意味じゃなく。生活費、ヤバいんでしょ」
「は」
「生活費には使えないって思ってる? 生活費だって、あたしらの養育に必要なお金だよ」
「つったって……」
「あーもー強情だな、自分の学費削れば~とか思ってんでしょ? やめてよね、自分だけ悲劇のヒロイン面するの」
「ッ悲劇のヒロインはしてないだろ!?」
「してる。あたしらの前ではしなくても、ドラケン君の前ならする」
「ゼッテーしねえ!」
 ドンッとテーブルを叩くと、すぐさまルナは鼻で笑う。生意気な顔には「この間してたくせに」と書いてあった。この間っていつだ。身に覚えがない。目をカッ開いて睨んでいると、いっそうルナは悪い顔で笑った。
「ちょっと前、熱出して送られてきたじゃん」
「熱?」
「まさかほんとに覚えてない? ドラケン君に、お姫様抱っこで車から降ろされたんだよ」
「……うそ」
「ほんと。さすがに羽みたいに軽いっては言ってくんなかったけど」
「言、わねえだろ、あいつはそういうの」
「代わりに、お兄ちゃんナニ食って生きてんの、霞? って言ってた」
「米も肉も野菜も食ってんだよなあ!」
 再度、拳はテーブルを叩く。あわせて、頬の上の辺りが熱くなってきた。涼もうにも、窓からは生温い風しか入ってこない。変に火照った顔を、仕方なく手で扇いだ。
「冗談はさておき」
「……エ、今の冗談なん? どっから嘘」
「ああ、ううん、話したのは全部ほんと」
「冗談じゃねえじゃん!」
「ごめんってば! とにかく、そのお金使ってよね、ちゃんと!」
「……」
「返事」
「はぁい……」
 渋々頷くと、ルナは満足そうに笑う。あわせて、ひょいと自分の方の通帳を摘んだ。ぱらぱらと捲って、最後のページを開く。頬杖を突きながら、指先は明細の最後の行を撫でていた。
「もう一つ提案なんだけどさ」
「……なんだよ」
「エアコン、買わない?」
「そ、そのお金で?」
「それでもいいし、……あのあと、お父さんとメールしたんだよね。そしたらなんか、強請れそう」
「コラコラコラコラ」
「いいじゃん別に。どっちにしろ、熱中症で倒れるよりマシだって」
 ねっ、と言うルナの中では、もうエアコンを買うのは確定事項なのだろう。
 確かに、欲しい。あるだけで、夏の生活は大きく変わる。それに、冬場に暖房として使ったって良い。灯油を買うのと、どっちが安上がりだろう。現金な脳みそは、既に妹の提案につられ始めていた。
「それこそドラケン君連れてさ、今度電器屋さん行こうよ」
「なんでドラケンが出てくるんだよ」
「だって機械に詳しいじゃん」
「バイクにな。エアコンだったら、ペーやん」
「ペーやん君?」
「そ。間取りに合わせた一番いいやつ、教えてくれるから」
「あ、不動産屋さんっぽい」
「不動産屋さんだからな」
 ―― 世間は、これを不幸中の幸いと呼ぶのだろうか。それとも、棚から牡丹餅と言うのだろうか。
 エアコン代は、本当にルナの父親が出してくれることになった。ただ、機械には詳しくないから、もし相談できる人が身近にいるならそっちを頼った方が良いかもしれない。メール本文に書かれた文字を読み取って、俺はペーやんに電話をした。
 生活費の方はというと、二人分の養育費から、毎月決まった額を使わせてもらうことで決着。贅沢ができないことには変わりはないが、これまで通りの生活なら充分送れる見込みになっている。二人が将来使うだろう金額に、今後振り込まれる養育費の推定額、自分のバイト代で稼げる額だって、大真面目に計算した。自分が生きて来た中で、これほどシビアに金勘定をしたのは初めてのことである。既に経営者として生きている友人知人のすごさが身に染みた。そりゃあもう、染みた。
 染みすぎて、熱も出たくらい。
 知恵熱って、本当に出るんだな。ちょうど、ペーやんと約束した日だったのもあって、泣く泣く断りのメールを作文した。
 我が家のエアコンは、いつ買い替えられるのだろう。早めにどうにかしたい。しないとな。送信ボタンをぎゅうと押したところで、意識は発熱に屈した。

 柔らかく、頭を撫でられている。髪を撫でつける手付きは、酷く心地が良い。顎下を撫でられる猫の気分だ。ごろごろと喉が鳴らない代わりに、鼻の奥から変に甘える呻きが抜けていった。
 すると、なぜか手の動きが止まってしまう。折角、気持ちが良かったのに、どうして止めてしまうんだ。強張った様子のある手の平に、そろりと擦り寄った。しかし、手は動いてくれない。じ、っと固まったまま。骨ばった手の平から、男の体温だけがじんわりと伝って来た。
 熱い。熱が出ているのだ、熱いに決まっている。けれど、そばにある体温は、とても気持ちが良かった。もっと、触れてほしいくらい。なんなら、素肌のまま包まれたい。身に纏っている布が、鬱陶しくなってきた。布団も服もいらない、その体温さえあればいい。
 呻きながら手に甘えていると、傍らにある気配が身じろぎをする。微かに布の擦れる音がした。頭を乗せている枕、その端が、なんだか拉げる。ぎゅうと手で押し潰したみたい。傾く枕につられて、頭が転がった。と、こつん、ぶつかる。枕についた手首に、ぶつかったらしい。この体温も気持ちが良いな。それに、なんだかいい匂いがする。すん、と嗅ぎながら、己の唇を誰かの手首に押し付けた。
 押し当てたソレは、間もなく親指に掬い取られる。ふに、むにり。下唇の表面を、二回ばかり押された。その動きに合わせて、薄く開いた口からは熱の籠った息が漏れる。
 熱い。本当に、熱い。熱いし、苦しい。だけど、そばにある体温は、もっと、欲しい。
 はふ、吐き出そうとしたため息は、柔らかな何かに塞がれて、堰き止められた。おい、誰だ、人の口を塞いだのは。これじゃあ息ができない、苦しくなるだろうが。ぽこぽこと細やかな憤りが浮かぶが、それ以上に触れている熱の気持ち良さに意識が引かれる。
 やっぱり、苦しくても、良いかもしれない。強請るように、唇を塞いでいる誰かのことを、掻き抱いた。
「あ、起きた」
 ―― 掻き抱いたと、思った。
 しかし、目を開けた時、自身の両腕は布団の中にある。眼前と呼べるような位置には、何もなかった。そこにあるのは空気だけ。浅い呼吸の音が、やけに耳につく。
 熱を持った目を、ぐるんと動かした。最中、視界に金糸が掠める。もう一度、目を動かしながら、首の向きも傾けた。
「え」
「おはよ。まあ、夕方だけど」
「なん、へッ」
「うん? 水? 便所?」
「はっ」
「あれ、吐きそう?」
 こてんと首を傾けたそいつは、俺の側頭部から手を離す。俺の頭を撫でていたのは、ドラケンだったのか。いや、頭を撫でられていたのは、夢の中のはず。……現実で撫でられていたから、夢の中でも頭を撫でられたんだろうか。ぼんやりと気持ち良さが思い起こされて、変な気分になる前に首を振った。
「だい、じょうぶ」
「ほんとに?」
「うん。つーか、それよりさ、なんでドラケンがいんの」
 一旦横向きになってから、布団の中に手を付く。シーツは大量の汗を吸ったらしい、顔を顰めるくらいに表面は湿っていた。シーツでそうなのだ、寝巻だってじっとりとしている。Tシャツの背中には、汗染みができているかもしれない。いくら綿一〇〇パーセントでも、これだけ汗を吸ったら不快なのは明らか。夢の中で脱ぎたくなったのは、このせいか。起き上がり、肌から布地を剥がしがてら、襟や裾から風を送った。
「んー……、虫の知らせ? なんとなく、三ツ谷倒れてそうな気がして」
「なんだよそれ」
「まあ、マジで倒れてるってのは、ペーから聞いた」
「ペーやん?」
「そ。三ツ谷から奇怪文が届いた、解読してくれってメール転送されてさ」
 ぱたぱたと仰いでいると、額からぼとりと冷却シートが落ちてくる。指で突いた水色のジェルは、体温を吸ってすっかり温くなっていた。それに、粘着力もほとんどない。一応、もう一度額にくっつけてみたが、汗ばんだ皮膚にはうまく貼り付きそうにない。どころか、斜めに滑って、鼻先に着地した。これはもう、駄目である。仕方なく、半分に折り畳んで、ゴミ箱の方に放った。あ、外れた。くそ。
 そのうちに、ドラケンは携帯を取り出す。畳まれているそれをパチンと開き、小さなボタンをカコカコと押し始めた。手が大きいせいか、携帯が小さく見える。俺が携帯を握っても、そう見えるのだろうか。
 冷却シートを放り投げて拗ねた手を、もたりと伸ばす。骨ばった手の甲に、ちょん、触れてみた。
「ほら、これ」
 浮いた血管をなぞりつつ、向けられた画面を覗き込む。白く光る画面には、文字が羅列されていた。文章でも単語でもない。文字だ。ひらがなと漢字と記号が、どう読んでも無意味に並んでいる。
「なにこれ」
「お前がペーに送ったメール」
「はあ? 俺ちゃんと送った」
「本文、読み返した?」
「……おぼえてねえ」
「次からは読み返そうな」
 幼子に聞かせるような声色に、つい腹の奥がムッとする。触れている血管を、きゅっ、指で押し潰した。けれど、ドラケンにダメージは一つもない。擽ったいとすら思っていなさそうだ。いっそう、気分がむしゃくしゃとしていく。
「はいはい、拗ねない拗ねない」
「拗ねてねーし」
「そういうのは、尖った口なんとかしてから言え」
「ンッ」
 小気味のいい音と共に、携帯が閉じられた。
 あわせて、ドラケンの指先が俺の唇に沈む。ツンと尖っていた部分に、人差し指が押し当てられていた。下唇が、ぐにゅりと歪むのがわかる。さぞ不格好な口元になったのだろう、ドラケンはクッと喉で笑った。笑うな、不細工な顔になったのはお前のせいだぞ。むすっとした俺のせいでもあるけれど。
「で、ルナちゃんに聞いてみたら、まぁた熱出して寝込んでるって言うから。様子見に来たとこ」
「……そらどーも」
 何度か人の唇を弄んだあと、やっとドラケンは指を離した。その右手は、流れるように俺の額に向かう。指先が、ちょいと肌の表面を擦った。貼り付いた前髪を払ってくれたらしい。緩慢に自分の手も持っていけば、変に滑る感触がする。これじゃあ冷却シートも貼り付かないだろう。それくらいに額は汗ばんでいた。汗だくと言っても良い。
 そして、当然、熱い。
「ぅ」
 改めて熱を自覚すると、頭が揺れた。体を起こしているのが、辛くなってくる。ぐらん、と頭の重さに負けると同時に、背中は煎餅布団へと叩きつけられた。ちょっと、痛い。打った腰から背骨にかけてが、じりじりと熱を持った。……いや、これは、倒れ込んだ衝撃のせいではなく、風邪で怠いせいか。
 梅雨に引いて、もう引くまいと思ったのに、また引いた。ままならないものである。天井に向かって、ずっしりとしたため息を吐きだした。
「大丈夫か、色々」
「……この間、大丈夫そうになったとこ」
「お袋さん、帰ってくる目途立ったん?」
「そっちは全然。でも、金の方がなんとかなった」
「……サラ金じゃねえだろうな」
「学生じゃ借りれねえだろ。……ルナの父親がさ、養育費とか、色々工面してくれることになって、っていうか、そうだってわかって」
「それ、マジで大丈夫な人なのか」
「あの人は大丈夫、ほんとにね。びっくりするくらい、いい人だよ。あいつらのこともちゃんと可愛がってるし」
「ならいいけど」
 倒れ込んで早々に、ドラケンの手が伸びてくる。追いかけてきた、というのが正しいか。緩く曲げられた人差し指と中指の、関節の辺りが俺の額を撫でる。目にかかった前髪も横に流してくれた。決して、冷たくはない。けれど、自分の体温よりは、いくらか低い。目を瞑ると、じゅわりと心地よさが染み込んできた。
「……三ツ谷、」
「んー」
「大丈夫でも、そうじゃなくても、言えよ。俺にできることがあったら、いつだって手ぇ貸すから」
 やがて、手の平に裏返り、穏やかな手付きで頭を撫でられる。ドラケンは、人の頭を撫でるのが好きらしい。思えば、短髪だった頃も、何かにつけて撫で回してきたっけ。あの頃は、身長を馬鹿にされているのだと思って必死に足掻いていた。もったいないことを、した気がする。だって、ドラケンに撫でられるのは、気持ちが良い。安心する。体の全てを委ねても良い、と思えるくらい、ほっとする。
 甘ったれてンなあ。具合が悪くなると、どうも気持ちも弱くなってしまう。素面だったら「そん時は頼むワ」くらいで済ませられるのに、今日は目の奥が熱くて仕方がない。薄く瞼を持ち上げると、分厚い涙の膜で、世界が滲んで見えた。
 壁の向こうからは、とたとたと走る音がする。この軽やかさは、マナの方かな。ちょうどそう思ったところで、部屋の襖が開いた。
「ただい、あっ! ドラケン君だ!」
「や。おかえり、マナちゃん」
「ふふ、ただいま。おにい生きてる?」
「……生きてるよ」
「うわあ、まだ顔真っ赤じゃん」
「今日もお前、ルナの部屋で寝ろよ」
「そうする」
 少し前までは、妹たちが部屋の手前で、カーテンを挟んだ向こうが自分のスペースだった。けれど、今は諸々並び替えをして、俺が手前、奥がマナになっている。そして、ルナは元・母の部屋。マナが中学に上がる頃には、自分はどうしようか。家に未成年だけというのもまずいが、マナも一人部屋にするには部屋数が足りない。アトリエを本契約して、俺の寝起きは居間でするというのが、妥当な気がする。
 考えることは、いくらか減った。その分、頭は別のことに向き始める。結局、考えることだらけ。ただ普通に生活したいだけなのに、思った以上に普通とやらは大変だ。
 頭は熱で満ちている。体だって、そう。指先に至るまでカッカと火照っている。考えることはたくさんあるが、まずは体調を整えてからにしよう。
 再び天井に向かってため息を吐くと、マナがランドセルを奥に向かってブン投げた。そういう、音がした。鈴のキーホルダーのリンリン鳴る音のせいで、嫌でもわかる。おい、大事に、使え。頼むから。吐き出した息を回収するように大きく空気を吸うも、その頃にはマナはもう部屋にいなかった。居間に向かったらしい。
「あいつ……」
「ちょー元気じゃん、見習わねえとな、お兄ちゃん」
「いまに元気になってやるからな」
「そーして。でないと、エアコン買いに行けねえだろ」
 ペーやんより詳しかねえけど、俺で良ければ付き合うよ。穏やかに付け足される言葉を聞いていると、妹への小言は萎れていく。仕方がない、今日のところは、ドラケンに免じて大目に見てやろう。
 うん、どうにか頷いたあと、意識はとろとろと蕩け落ちた。

 その日の夜、夢を見た。―― ドラケンに組み敷かれて、口付けられて、ただただ気持ち良くなる、夢を見てしまった。