二
雨が降っていた。雨は、あまり好きではない。どうしたって靴は汚れてしまうし、服に泥水が跳ねることも多いから。今日くらいの小雨ならまだ耐えられるが、一週間二週間、なんなら一か月と続くと思うと憂鬱になってくる。
はあ、丸く吐き出したため息は、湿った空気に溶けていく。湿度は相当高いらしい、首筋にはやたらと襟足が張り付いた。伸びてきた前髪は、額や頬にへばりつく。本当に、鬱陶しいな。ビニール傘を差しながら、不快感を放つ髪の一房を払った。
「あ、」
指先に、違和感が掠める。邪魔な毛先を耳にかけてから、改めて指の腹で頬をなぞった。毛穴が開いているのか、表面は凸凹している。とん、とん、確かめるように指を乗せていると、間もなく丸い膨らみに辿り着いた。中央にツンとできた芯、これはニキビだ。気付くと同時に指が力んでしまい、慌てて頬から手を離す。潰すのはまずい、擦るのだってよろしくない。……わかってはいるが、どうも気になって、中指の先でちょんと突いてしまった。
肌のコンディションは最悪。原因はなんだろう、一番の心当たりは削りに削った睡眠時間。そういえば、ルナもニキビができたと騒いでいた。となると、食生活のせいか? どうだろう、間食は控えめ、脂質はむしろ摂っていない方。じゃあ、住環境? 確かに、梅雨に入ってから、思うようにシーツを洗濯できていない。
雨は、好きではない。むしろ、嫌いだ。今、大嫌いになった。
ぱちゃん、浅い水たまりを、左足が擦る。ちらりと傘越しに振り返った建物は、五、六年前まで何が何でも近寄りたくないモノだった。
「へへへ、初めて警察署に入っちゃった」
「そんなに楽しいとこじゃなかったろ」
「楽しかったよ。行ったことないとこはどこも楽しい!」
気付くと、妹は三歩ばかり先に進んでいる。トトン、トン。大股で追いついて、鮮やかなオレンジ色の傘に並んだ。
「……ごめんな、どこも連れてけなくて」
「そお? この間、おっきいスーパー連れてってくれたじゃん」
「そんなんで良いの?」
「おかあは連れてってくんなかったもーん」
マナの足が、わざと深い水たまりに入り込む。傘と同じ色をした長靴に踏まれて、濁った水がぴちゃりと跳ねた。水を踏む感触が楽しかったのか、マナはその場で何度か足踏みをする。あんまりはしゃぐと、折角のワンピースが汚れるぞ。小言を吐きかけて、まあ洗えばいいかと頭を振った。
―― 母親が家出して、三か月。電話は今日も繋がらない。電源が入っていないか、電波が入らないところにいる、というアナウンスは流れるから、解約まではしていないのだろう。それでも、実の親である彼女と連絡がとれない状況に変わりはない。
ついこの間、自分は二十歳になった。成人が一人いれば、大家も文句は言うまい。そう結論付けて、今日、行方不明届けを出してきた。
「マナ、帰るぞ」
「うん。……あれ、おにい」
「うん?」
「ニキビできてる」
「……俺もさっき気付いた」
「そのせいかなあ、なんか顔、全体的にチョット赤くなってるよ」
「うぇ、マジ? 化粧覚えた方、良いかなあ……」
「お化粧すんの! いいなあ、そんときはあたしにもやらせてね」
どんよりとした天気の中、末の妹が屈託なく笑う。ルナは思うところもあるらしいが、マナはこの通り、いっそ怖いくらいに母失踪前と変わらない。これはこれで、まずいのだろうか。それとも、そもそもまずい状態だったのだろうか。なんにせよ、成人した以上、自分が保護者だ。二人の妹が、生活に困らないようにしないと。
眠気で熱を持つ目元を、手の甲で雑に擦った。
雨は、今日も降っている。
中学生の妹は「髪、最悪!」と喚きながら学校に行ったし、小学生の妹はオレンジの傘と長靴で上機嫌に出掛けていった。自分も、のんびりしている場合じゃない。早く、学校に行く仕度をしないと。
思いはするものの、体が重かった。なんとなく触った額は、少し熱い気がする。鏡の前に立つと、肌全体がぼやっと火照って見えた。そのくせ、体温計は平熱の範疇しか示してくれない。これはなんだろう、風邪の引き始めだろうか。……風邪だとして、どこまで酷くなったら病院に行くべきだろう。熱は平熱、喉の痛みも、鼻水が垂れることもない。ただ頭が重いってだけで、病院に行くのも、いかがなものか。いや、これが妹だったら、すぐに病院に連れていく。この程度でかかったらダメ、という線引きは、たぶんない。
半日休んで近所の内科に行くか、今日耐えきって明日行くか。どちらにしようかな。頭の中で遊び歌を唱えながら、壁掛けのカレンダーに目を向けた。
「ゲッ、そうだ車検」
途端、赤い丸が目に留まる。そうだ、そうだ、予約していたんだった。まさか今日の今日まで忘れていたとは。気付けて良かった。いや、ここは、それほどまでに疲れている自分に頭を抱えるべきなのかもしれない。
熱っぽいため息を吐きながら、ぐしゃりと前髪を掻き上げた。
「あぁあ、どうすっかな……」
車検を頼んだのは夕方だ。授業が終わってからでも、十分間に合う。
それはそれとして、あの店に行ったら、昔馴染みのあの男と顔を合わせてしまう。その時、自分はあいつに、何と言われる?
『どうした、顔色やべーぞ』
懐に入れた人間には、とことん甲斐甲斐しい男である。つかつかと迫ってきて、ぺたんと顔を包むように頬を触られるところまで想像できてしまった。人の頬を散々揉んで、火照っているのに気付いて、そして、顔を顰めるのだ。
『なぁに無茶してんだ、お前は』
ムッとしながらも気遣ってくる様が、まざまざと浮かぶ。
―― 正直なところ、母が家出をしてからというもの、自分の疲れは溜まる一方。おそらく、その疲れは気疲れだ。体の疲れもないことはないが、考えることがあまりにも多くて、滅入ることも増えてきた。
妹にこれからかかる金、自分の将来のためにかけたい金、目先の生活費。貧乏暮らしには慣れているが、それにしたって出費が多い。多すぎる。
このバイクの車検だってそうだ。金は天下の回りものというけれど、ゼロになるのも心許ない。今は、家計費の口座に多少の蓄えがある。でも、それも時間の問題だ。尽きた時、次にどこに手を付けるかというと、自分が定時制に通っている間に貯めた預金。アレを生活費に充てるのなら、しばらくは困らないだろう。代わりに、自分の学費が消し飛ぶことになる。
デザイナーになりたい。そのためには知識もいるし、コネクションもいる。専門学校に通わずして、手に入れられるだろうか。無理ではないが、一筋縄ではいかないのも、確か。
本当に、考えることばかりだ。あれほどふわふわした母親でも、いなくなると困るんだな。今になって、彼女の存在の重さを噛みしめていた。
『三ツ谷』
そのうちに、耳元には幻聴が響く。
『そういう時は頼れよ、俺とお前の仲だろうが』
聞こえないはずの音が、鼓膜にこびりついた。わんっと鳴り響くソレは、ただでさえ重たい頭をぐらぐらと揺らす。あまりに揺れるものだから、もう片方の手も使って頭を抱えた。けれど、揺れは落ち着いてくれない。重力に従って膝は折れ、ずるずると壁伝いに体は沈んでいった。土踏まずには、居間と廊下の敷居が擦れる。じわりと当たる凹凸が、不思議と気持ち良かった。
「どう、しよ、」
いつか諦めなければならないのなら、少なくとも通えるうちは、できるだけ授業に出たい。その時点で、病院に行くという選択は自分の中から失せた。
じゃあ、車検はどうしよう。理由を付けて、日程をずらしてもらう? 今、電話をすれば、わざわざ預けに行かなくとも、車体を引き取りに来てくれるかもしれない。なんにせよ、一度連絡は必要だ。それらしい理由を伴った連絡が、要る。ドラケン相手に、自分は取り繕えるだろうか。今の疲弊を思うと、どうしたって見抜かれてしまいそう。だったら、パッと預けて、パッと帰るのが、ベスト。
『は、頼らねえのかよ、頼れって言ってんだろ』
脳内にいる男が青筋を立てるが、知ったことではない。これは、俺の家族の問題だ。できるだけ、あいつに迷惑はかけたくない。
しゃがんだ姿勢のまま、薄く目を開けた。踏んでいる敷居の端には、小さな埃がついている。掃除もしないとな。確か日曜日には一旦晴れる予報だった。洗濯は日曜日。決めた、家事は日曜こなすことにして、明日は寝込もう。一日くらいなら、妹二人もどうにかやりくりできるはず。
頭は重いが、働かないわけではない。大丈夫、今日一日、自分は頑張れる。二回、三回と瞬きをしたところで、意を決して立ち上がった。
昼休み、とびきり化粧の上手い同級生に顔面を取り繕ってもらった。
『まあやるけどさあ、フツーに帰った方がいいッスよ、三ツ谷君』
呆れながらも、健康的な顔色を作り出してくれたそいつには頭が上がらない。頬にできていたニキビすら、跡形もなく隠してくれた。なのに、厚塗り感はない。すっぴん風メイクというらしい。あまりの変化に感動して、頬を擦ったらまんまとファンデーションがヨレた。
「はあ」
授業を乗り切ったのは、ほんの一時間前のこと。何かにつけて「大丈夫?」と声をかけられた午前中に比べて、気遣われない午後は快適だった。どんなに言葉数が少なくても、集中していると思ってもらえる。唯一、化粧を施した当人だけが「はよ帰れや」という顔をしていたが、なんのプロ意識が働いたのか、放課後にはお直しまでしてくれた。良い奴である。近いうちにお礼をしよう。何が良いかな、食い物系か、コスメ系か。限定品購入行脚に付き合うのもアリかもしれない。
「ぁ、やっと、つく……」
相変わらず頭は重い。体も怠い。しかし、顔色は健康そうに見えるはず。念のためカーブミラーで確かめてから、バイクショップの扉を押し開けた。
「ちわ」
「しゃあせー……、お、来たか」
ゆっくりとインパルスを押すと、すぐに店員が近付いてくる。金髪だが、一番親しい方の金髪ではない。視線だけで店内を見渡すが、そっちの金髪は見当たらなかった。
「車検の予約してた三ツ谷です」
「なにかしこまってんだ?」
「念のため」
「いーよそういうの。とりあえず、その辺置いといて。説明の紙渡すから、サインだけよろしく」
「ウス」
言われた通りに、愛機のスタンドを立てる。ちらと肩越しに振り返れば、小テーブルに何やら書類を広げているのが見えた。手袋を外した手が、何本かのボールペンを試し書きしている。その度に、眉間の皺が深くなっていった。インク切れだろうか。自分は学校帰りだ、ボールペンくらいリュックの中に入っている。のろりと鞄を下ろしつつ、テーブルの方に近寄った。わずかに開けた間口に、腕を突っ込む。筆箱、筆箱。使い慣れたペンケースを頭に思い描きながら、首は再び店内を見渡していた。
「ドラケンなら」
「エ」
こつん、膝に丸椅子がぶつかる。ハッと向き直ると、もう一つの丸椅子に乾が掛けたところだった。鞄に捻じ込んだ手は、ようやくペンケースを探し当てる。
ドラケンが、なんだ。一つ瞬きをすると、じんわりと眼球が熱を帯びていく。意識の外に押し退けていた熱さが、突然目元に戻って来た。涙の膜は、勝手に厚くなり始める。これは、まずい。忙しなく瞬きを繰り返して、どうにか涙が溢れるのは堪えた。その代わり、丸椅子に腰かける、たったそれだけの動作すら歪になってしまう。ペンケースを取り出すのだって、自分でもわかるくらいにぎこちなかった。
「今、出張修理に出てる。そろそろ戻ると思うけど」
「……そう」
「あ? 用事あんじゃねえの」
「ううん。いると思ったのにいねえから、拍子抜けしただけ」
自分は、何でもない素振りをできたろうか。努めて丁寧に微笑んで見せると、乾はふぅんと頷いた。それ以上の反応は、ない。違和感をスルーしてくれたのか、そもそも関心がないのか。自分と乾との間柄を踏まえると、後者だろう。
そっと胸を撫でおろしていると、ぺらりと数字の書かれた紙を差し出された。見出し部分には、見積書と書いてある。金の、話だ。どこかぼんやりしていた頭が冴えわたり、示された額面に意識が集まる。
「じゃあ、車検費用の説明すっけど、いい?」
「よろしくお願いします」
「おー、よろしくお願いされます」
始まりこそ雑ではあったが、各項目の説明は端的でわかりやすかった。
浮かんだ疑問を投げかければ、ちゃんと丁寧に返ってくる。愛想が良いとは言い難い。それでも、これだけ安心感のある説明をしてもらえるのなら上等だろう。整備の腕は、二人とも文句なし。そりゃあ、繁盛するに決まっている。
うん、うん、と頷いて、最後の本人確認欄にサインをした。今日は、「三」も「ツ」もバランスよく書けた気がする。自前のボールペンをしまって顔を上げると、乾の指先が卓上カレンダーに向くのが見えた。あのコが帰ってくるのは水曜日。それ以降の平日なら、いつ取りに来ても構わない。ただ土日に来るのなら、目安の時間を前日までに連絡してほしい。やはり端的な説明にもう一度こくんと頷いて、いつにしようかと思考を巡らせた。
来週の天気は、どうだったろう。日曜日が晴れるということしか、覚えていない。雨の中より、せめて曇りの日に引き取りたいものだ。それなら、乾の言葉の通り、都合のいい平日に来させてもらおうか。
ショーウィンドウに目を向けると、ガラスに雨粒が付いていた。止んでいた雨が、また降り始めたらしい。耳を澄ますと、ぱちぱちと地面で弾ける音もする。雨音に意識を引かれながら、なんとなく視線をガラス扉の方に移動させた。
ばしゃ、り。視界に、ブーツが入り込む。その足は、軒先にある水たまりを、踏みつけていた。間もなく、作業服を纏った腕が、扉を開ける。外の雨音が、わんっと耳に届いた。湿気た空気が、どんよりと中に入り込む。帰ってきた男は、雨の日独特の生臭さを纏っていた。けれど、それも二秒か三秒足らずのこと。雨の匂いはあっという間に店の空調にかき混ぜられて、そいつの気配が剥き出しになった。
「ぃ」
目元に、熱が集まってくる。意識から離れていた頭重感も返って来た。ヒ、喉が引き攣って、空気を吸いそびれる。いや、吸わない方が、良い。深く吸ったら、まずい、気がする。わなわなと震えそうな唇を、咄嗟に噛み締めた。
「おけーりー」
「おー、ただいま、」
打ち震える自分を余所に、帰って来た男に乾は声をかける。この店では、ごく普通のやり取りなのだろう。視界に映る所作に、おかしなところはない。
しいて不自然を挙げるとすれば、自分の存在くらいのもの。……向こうも、それに気付いたらしい。切れ長の目が、じんわりと見開かれた。
まずい。何がまずいんだろう。わからない。けれど、まずい気がする。
これが、虫の知らせ? それを感じられるのならば、後頭部をぶん殴られるタイミングで察知できるようになりたかった。
舌の裏に溜まった唾は、上手く飲み下すことができない。もう少し、口内にゆとりを持たせれば不自由なく飲めるのだろう。感覚としての理解はあるが、体自体が言うことを聞かなかった。
ただただ、息が苦しくなっていく。立ち上がって、逃げ出したい。なのに、足はぴくりとも動かない。ほとんど腰は、抜けていた。丸椅子に座っていられるのすら、不思議に思えてくる。
「三ツ谷、」
鼓膜に、低い声が届いた。聞き慣れた声だ。もう十年近く―― 出会った頃、この男は声変わりしていなかったから、厳密には八年だが―― 聞いている声である。
にもかかわらず、頭には初めて味わう衝撃が走っていた。
「―― お前、具合悪いだろ」
いつの間にか、男の体がすぐそばにある。あえて鼻を鳴らさなくても、汗の匂いが漂った。雨と混じった、水の匂い。するりと鼻の奥に入り込み、目の裏辺りをジクジクと蝕んでくる。
待って。ストップ。これ以上は、止めてくれ。何もされていないのに、朦朧とした頭には制止を求める言葉が浮かんだ。
それを知ってか、知らずか、骨ばった手が伸びてくる。爪の切り揃えられた五指が、当然のように、頬に触れた。
「ッ」
「やっぱり。熱あるな」
指の腹は、ほとんど迷うことなく頬肉に沈み込む。成長するにつれてシャープになっていった輪郭は、決して柔らかいものではない。しかし、その男に触れられると、どうも自分が真綿のように思えてしまった。ふわふわと浮いた心地がして、張り詰めさせていた表情筋が緩んでいく。噛みしめていた下唇も解れ、はふ、体温の移った吐息が溢れた。
「な、ンで」
「うん?」
「なんで、わかるんだ、よ」
やっとの思いで絞り出した声は、情けなくなるくらいに震えている。傍らからは、乾のぽかんとした視線が突き刺さった。それから「気付かなかった」と呟く声もする。
どうしてこの男はわかったのだ。まさか、化粧が崩れ始めているのか? いや、もしそうなら、遠慮を知らない乾が指摘してくるはず。乾のことだって、学校の連中だって、欺くことができたのに。なんで、お前は気付けたんだ。
店に戻って、こちらを一瞥する。そのたった十数秒で、この男は、俺の異変を察知した。
単にタイミングが悪かったのだろうか。思えば、ドラケンが帰って来た頃、この体は妙な悪寒を覚えていた。なんなら、ゾワゾワとした震えは今も背骨に纏わり付いている。背もたれの無い椅子に腰掛けているのが、辛いくらい。
背筋に叱咤を送りながら、キッと隣に立った男を睨んだ。けれど、ドラケンが怯む気配はない。全く、ない。それどころか、呆れたと言わんばかりのため息を吐く始末。
俺の頬に触れていた手は、ゆったりとこめかみへ移動していった。
「昔馴染みが見りゃ、誰だってわかんだろ」
「う、うぅ~」
ぐぅ、奥歯を噛みしめると、頭が揺れる。ついでに、肩が下がった。かろうじて保たれていたバランスは、ずるずると崩れていってしまう。傾いた上体は、当然のようにドラケンの腕で受け止められた。勢いあまって、顔の半分が男の脇腹に埋まる。ヒュッと鼻から入った空気には、オイルと、汗と、おそらくこの男自体の匂いが混じっていた。
「……どうすんだ、そのぐでぐでの三ツ谷」
「あー、車使って良いか? ちょっくら家まで送ってくるワ」
頭上から、密やかな声がする。脳天には、確かに二人分の視線が刺さっていた。
こんな風に上から見下ろされるのは、好きではない。馬鹿やっていた頃の習性だ。当時のように、身長を理由に舐めてくる奴はいない。滅多に、いない。わかっていても、真上から見下ろされるのは、嫌だった。
嫌な、はずだった。
「ぅ……?」
しかし、なぜか今日は、腹の中に嫌悪感はやってこない。ムッと膨れた自分も、カチンと青筋を立たせる自分も、出てこなかった。
相手が、ドラケンだからだろうか。頭を預けた姿勢はそのまま、角度だけ緩慢な動きで変えた。硬めの生地に埋まっていた方の目が、空気に触れる。
ぼんやりと持ち上げた視線は、流暢に傍らの男に絡め取られた。
「三ツ谷、立てる?」
「ぅん……」
「うんじゃなくって。おぶった方が良いか」
「だいじょ、ぶ、あるける」
「ほんとかよ」
「うん」
頭の重さに任せて頷くと、がくんと首に衝撃が走る。おかげで、項の辺りがぴりりと痛んだ。しまった、筋を痛めたかもしれない。あたかも寝違えた時のように。今日は首が痛いまま過ごすことになりそうだ。ただでさえ熱っぽいのに、首も痛いだなんて、踏んだり蹴ったり。
不甲斐ない自分に惨めさを覚えながら、脱力しつつある足に、どうにか体重を乗せた。
高さのあるバンの助手席に、足を掛けられなかった。
駐車場まで歩いて行くことこそできたものの、意識して太腿を持ち上げることまではできなかったのだ。座面に手を付いて、もたもたと足踏みをしては、疲れて両足を揃える。ソレを三回ばかり繰り返したところで、ついにドラケンに腰を持ち上げられた。
あっ。
途端、裏返った声がまろび出る。慌てて口を押さえたが、時既に遅し。狼狽えながら振り返ると、俺を車に押し込んだ男は、あんぐりと大口を開けて固まっていた。
恥ずかしい。まあ、恥ずかしい。キュッと唇を噛みしめているうちに、ドラケンはがしがしと頭を掻く。ちょうど指先が髪に掛かっていたのもあって、編まれた髪が緩んでいく。ほつれた三つ編みは、当人にとっても不快だったらしい。バンッと助手席のドアを閉め、運転席に回り込むまでの間に、キチッとした辮髪は緩い一つ結びに変化していた。
「ご、ごめん」
「なにが」
「いろいろ」
「いーよ。具合悪いと、調子も狂うだろ」
仰々しい音と共に、ドラケンも車に乗り込む。淡々とエンジンをかけるのを見つめていると、ゴオッと冷風に襲い掛かられた。跳ねるように根源を睨めば、今度は冷気が鼻先にぶち当たる。この湿度だ、エアコンをかけないと、やっていられなかったのだろう。理解はするが、共感には辿り着けない。強い風を送ってくる吹き出し口に、手の平を押し付けた。
「寒い?」
「……ちょ、っと」
「ん」
控えめに頷くと、ドラケンはすぐに強弱の抓みを捻った。おかげで、手の平に当たる冷気が弱くなる。……それでも、背中にはぞわぞわと妙な悪寒が残っていた。暑がりの自分は、一体どこへ行ってしまったのだろう。体の芯は熱を持っているのに、表面は冷えている。こんな厄介な風邪、どこで拾ってしまったのやら。腕を組んで、剥き出しになっている肘から下を擦った。
「……悪い、ちょっと待ってて」
「え」
と、ドラケンがドアを開ける。一瞬、雨音が強く聞こえた。しかし、バンッと扉が閉まると、雨粒のぶつかる音はエンジンのそれにかき消される。窓ガラスの向こうに、店へと走る背中が見えた。
忘れ物、だろうか。免許とか、財布とか。あいつは外から帰って来たばかりだった、同じものを持っていれば、免許も財布も持っていそうなものなのだが。
スン。鼻水が垂れて来たわけでもないのに、鼻を啜った。車内は、バイクショップと似た匂いがする。のろりと視線をずらすと、後部座席を取っ払った、がらんとした車内が見えた。これくらいの広さには、心当たりがある。昔、妹二人が寝転がっていたスペースに似ている。もしかすると、アレよりも広いかもしれない。瞬きをしているうちに、幼い頃の二人が転がって遊ぶ様が浮かんだ。
「待たせた」
「っうあ」
ぎくりと肩が持ち上がる。慌ただしく視線を戻すと、黒い布地が視界いっぱいに広がった。そっと両手で掴んでみる。ポリエステルと、綿。割合はきっと、七対三だ。やわやわと感触を確かめているうちに、バタン、またドアの閉まる音がした。
「寒いんなら使って。ないよりは良いだろ」
「あっ、ハイ」
素っ気なく言いながら、ドラケンはシートベルトを締める。それを眺め終えてから、渡された布を広げてみた。全体的に黒色ではあるが、この男が好んで選ぶ模様が入っている。
おずおずとそのカーディガンの袖に手を通した。長袖ではないのだろう。この男が着れば、おそらく七分丈になる。けれど、自分のリーチでは手首の近くまで覆えてしまった。肩幅がずれているせいも、あるかもしれない。はたり、はた、はた。自分じゃ選ばない、ゆとりのある袖を揺らすと、ほのかに男物の香水が香った。嗅ぎ慣れない重さが、怠い体に沁みていく。
「三ツ谷」
「え」
「シートベルト、して。じゃないと、俺、捕まる」
「う、はい」
「で」
「え」
「最近、なんかあった?」
もたくたとシートベルトの金具を引っ張れば、高い視界が動き出す。静かに発進した車体は、揺れることも、呻くこともなく、車道へ合流した。
ハンドルを操作する手は滑らかだ。二輪を走らせるのも上手いが、四輪も上手いんだな。取り立てて見てこなかった横顔に、つい、見入ってしまう。
「なんか、って」
「なんもなきゃ、お前が風邪引くもんかよ」
「……ちょっと疲れただけだよ」
「春から専門通ってんだっけ」
「うん」
「順調?」
「……うん」
「含みがあんなあ」
バンはきっかり法定速度で走っていた。青信号に間に合わせようと、無暗にアクセルを踏み込む気配はない。そっとフロントガラスの向こうを見ると、歩行者信号は赤なのに、ばたばたと横断歩道に踏み込む高校生が見えた。こういうのを見落としたドライバーが事故を起こすのだろうか。彼らが向こう側に辿り着く頃には、車道の信号も黄色に変わった。必然的に、バンが穏やかに減速する。
「俺には、言えないこと?」
前の車に続いて停まると、ぱちり、ドラケンと目が合った。切れ長のそれは、多くの場合冷たい印象を与える。厳つい見てくれと相まって、この男はその傾向が強かった。
けれど、俺を射抜くソレは、一般論に反して柔らかい。
「……お袋が、家出、して」
隠したかった弱音が、ぽとりと漏れる。
「そういや前にも言ってたな、ふらっといなくなって、ふらっと帰ってくるって」
「前は、そう。でも、最近は、そうじゃなくて」
「うん?」
「もう、三か月、帰ってきて、ない」
一つ口を滑らせてしまえば、次、その次、と言葉が溢れてくる。
こんなこと、本当は言いたくはない。だって、ドラケンに言ったって、解決することじゃないから。それでいて、言葉を堰き止めることも、できなかった。
母がいないこと。生活が変わったこと。ルナが中学生になったこと、マナの身長が日に日に伸びていること。経済的な不安と、家族のために、自分の夢を後回しにしなくてはならないかも、しれないこと。
一つ、二つと言葉を重ねるにつれて、頭は下へ下へとくたびれていく。生白い自身の両手は、貸してもらったカーディガンを、きゅっと握り込んでいた。
「……ごめん、どらけん」
「は?」
「こんな、こと言って」
「……いやこっちこそ、話したくなかったんなら、ごめん。だけど、」
咄嗟に顔を上げると、ドラケンの目はもうこちらを見てはいなかった。信号が変わったからだ。やっぱり緩やかかつ穏やかに車が動き出す。
その代わり、ハンドルを離れた左手が、ぽすんと俺の頭に乗った。
「え」
大ぶりなそれは、二回ばかり湿気を含んだ髪を撫で付ける。触れた部分が、じんわりと熱を持った。その熱さは、やがて額、鼻先と落ちていく。
「俺ができることなんて、たかが知れてる。でも、弱音くらいなら、いくらでも聞けるからさ」
言えよ。言って、気が済むことも、たまにはあるだろ。
運転する所作と同じくらい、そう言った横顔は穏やかだった。
「ドラケン」
「おう」
「―― ありがとう」
か細く返すと、くしゃりとそいつは破顔する。それから、俺の頭を撫でた方の手で、照れくさそうに鼻を擦った。
その日の夜は、久方ぶりに熱で苦しんだ。熱いのに、寒気もする。おかげで、借りたカーディガンを手放せなかった。風邪のピークだったのかもしれないし、弱音を吐いた安堵で気が緩んだのかもしれない。妹二人には、母が使っていた部屋に移動してもらい―― その後、母の部屋はルナの部屋となり、子供部屋だった和室は俺とマナとで二分することになる―― 結局土曜も日曜も寝て過ごした。
妹たちの前で、外傷以外でダウンしたのは、初めてのこと。それ故に、二人も危機感を覚えたのだろう。栄螺さんは愉快だな、のフレーズが流れたあと、ルナに「明日は病院行きなよ」と釘を刺された。
―― にもかかわらず、寝て起きると、頭痛は落ち着いている。月曜日だというのに、晴れやかさすらあった。あの頭重感と火照りは、なんだったのだろう。不思議なくらい、体調は全快を遂げていた。