自分のことを吹聴して歩くのは、好きじゃない。
 とはいえ、限度と言うものがある。自分はわざわざ言う程の事ではないと思っていても、他にとってそうとは限らない。報連相って、友人関係でも、必要なものだったんだな。
 あまりにも、自分は言わなさ過ぎた。
 今日食らったのは、そのしっぺ返しなんだろう。
「……」
 事務所の鍵を、静かに開ける。合鍵はポストに入っていたから、柚葉も帰ったのだと思う。そろりと敷居を跨いで、居室を覗いた。案の定、人気はない。来客用のテーブルには、ファイルが重ねられていた。そうだ、昼飯、どうしたんだろう。日当は朝に渡したから良いものの、こういう事務仕事を頼むときはこっちで飯代を持っていた。今度会った時に払うので良いだろうか。次回にまとめて渡した方が、都合良いかな。スリッパを引っ掛けないままテーブルまで行き、ファイルをまとめて持ち上げた。雑多な棚に、そのドッチファイルを戻していく。
「あ、」
 ぺらり、綴じそびれたものがあったのか、ファイルの間から一枚滑り落ちてくる。四角い枠が書かれたそれは、いつかの仕様書だった。しまったな、どこに挟んでいたものだろう。たどたどしい手つきでファイルを開き、それらしい辺りを探してぱらぱらと捲る。紙だと、この作業が煩わしいんだよな。昨今、ペーパーレスを推奨されているし、いい加減電子への切り替えも考えてみようか。いつまでも、機械音痴を言い訳に逃げるわけにもいかない。
 拾い上げた紙切れを、ぼぉっと眺めた。
「あー……」
 そのうちに、指先に力が入る。紙の下が親指の形に合わせて歪んだ。
 困ったものだ、仕事に頭を切り替えないとならないのに、あの男の顔がちらついてしまう。
 区役所に出したのは、この紙の倍の大きさをしていたな。難しい項目はなかったし、二十歳そこそこでも問題なく埋められた。……けれど、それは俺が男で、彼女が女だったから、不自由なく書いて提出できたのだ。異性ならば、ある種のいちばんを示す届出は、簡単に出すことができる。
 しかし、同性だと、現状それは叶わない。
 まあ、そもそもの話。俺はあいつに何もかも話すのを不精したし、あいつだってもう俺に全てを語ってはくれない。自分とあの男は、その程度の友人に留まる。……あの紙切れで生まれるつながりを求めるのは、自分勝手かつ烏滸がましいのかもしれない。

 長い夏がようやく終わったかと思うと、秋をすっ飛ばして、冬がやってきた。季節感はどこへ行ってしまったのだろう。折角拵えた秋物は、ほとんど活躍することなく、クローゼットで眠っている。あの子たちは、いつか日の目を浴びれるだろうか。トレンド色の強いものではないから、着回そうと思えば、できないこともないはず。さすがに、十二月となった今、着ようとは思わないが。
 もう、十二月だ。今年も残すところ二週間ぽっち。昨日今日は特に冷えた。晴れていたのに、とびきり寒かった。明日はもっと、冷えるらしい。
「はぁ……」
 息を吐くと、空気が白く濁った。とはいえ、紫煙のようにその場に佇んではくれない。すぐに冬の澄んだ空気に溶けていった。晴れた視界の先には、ぞろぞろと駅の大階段を上っていく背中がいくつも見える。どいつもこいつも酔っぱらって、陽気な笑い声をあげていた。
 こうして集まったのは、ええと、武道の結婚式ぶりだろうか。揃って祭好きな連中だ、飲み会を開けば、そりゃあもう盛り上がる。二次会三次会とはしごすることだって珍しくない。
 気付くと、二度目のため息を吐いていた。
「……三ツ谷さあ」
「ん?」
 すると、斜め前にいた一虎が足を止めてこちらを振り返る。つられて立ち止まると、三段ばかり高いところにいるそいつの、呆れかえった顔が見えた。
「やけに辛気臭い顔してんじゃん。萎えるんだけど」
「あ? してねーワ」
「してんだよ、すげーぞお前の顔。隈やべーし、目ぇ半分になってるし、表面なんか粉ふいてるし!」
「……なんか今月、意味わかんねえくらい忙しくって」
「よく今日来れたな」
「忘年会だし、それにパーが選んだ店だぜ? 絶対旨い酒飲めるじゃん」
 重い瞼を気持ち持ち上げてキリッと言えば、一虎の整った顔が噴き出した。それから「この酒クズ!」と叫ばれる。失敬な、そこは酒好きと言え。浴びるように飲むこともなくはないが、近頃は自制しながら飲むことの方が多い。今日だって、本当はあれこれ手を出したい気持ちをぐっと堪えて、ビール一杯と日本酒一合で我慢した。今度、あの店に行くときは、万全の体調で行こう。そして、浴びるほど飲むのだ。
 引き攣るように笑う一虎に追いついて、ぶすりと脇腹を小突いた。
「笑い過ぎ。階段落ちんぞ」
「この程度で落ちるかよ。お前こそ、今に眩暈で踏み外すんじゃねえの」
「そこまで疲れてねえっつの」
「あっそ! マ、程々にな。そろそろ過保護がキレッから」
「はぁ?」
 カラッと言ってのけたそいつは、軽やかに階段を駆け上っていく。途中、千冬の背中を叩いていた。破裂音のような大袈裟な音がする。いってえ、なんて叫び声が階段に響いたあと、二人の追いかけっこが始まった。あんな調子で、仕事は回るんだろうか。あの顔に出やすい千冬が、金に困った素振りを見せないのだ、どうにかなっているのだろう。
「……ったく」
 何が程々にだ。毎度毎度、千冬に絡みやがって、程々にするのはお前の方だろ。第一誰だよ過保護って、ぺーやんのこと? 今日はパーちんにつきっきり、俺のことまで目に入っているとは思えない。
 はあ、三度目のため息を吐き出して、のろりと一段上った。
 明日は月曜日だ。だからなに、と言って、二次会に行くのがいつもの自分。
 けれど、今日はどうも、気乗りしなかった。
 一虎に言われたみたいに、眩暈がするわけじゃない。が、体調が良くないのも事実。隈がヤバイ、だって寝不足だから。目が半分、そうだろうね、ここ数日慣れないパソコンと睨み合っている。表面に粉、は、今日知った。それとなく頬を撫でてみると、確かに乾燥してざらついている。貰い物の化粧水、まだあったろうか。さり、ざり、指の腹に、荒れた肌の感触がした。
「ぁ」
 ふと、瞼が落ちる。おもむろに意識が揺れた。
「あ、」
 浮かせた足は、次の段にかろうじて引っかかる。けれど、次の一歩に向けた体重までは、支えきれない。靴底が滑る。足が傾く。体に浮遊感が纏わりついて、頭も視界も、真っ白く染まった。
「ッ!」
 あ、落ち、る。
 ぎくりと体が強張った。
―― っぶね」
「ぁ」
 しかし、身構えた衝撃はやってこない。
 代わりに、心地の良い体温に包まれた。かすかに甘い匂いがする。見知った匂いだ、しばらく前まで毎週嗅いでいたのに似ている。でも、夜な夜な纏っていたソレよりはずっと控えめ。すん、意識して鼻を鳴らすと、石鹸と、幾何かのアルコールが香った。
「どらけん」
「おい、大丈夫かよ」
「おかげ、さまで」
 体重は、今もなお男に支えられている。滑らせた足は、変に震えたままだった。いつまでも、もたれかかっているわけにはいかない。そう思って、両足の裏に意識を向けてみたものの、……どうも真っ直ぐに立てなかった。まるで、泥に足を突っ込んでいるみたい。
 もしかして、俺、結構酔ってる? あれしか飲んでいないのに、体は酩酊を示していた。
「……お前さあ、そんなんで二次会行く気?」
 依然として、体はドラケンの腕の中にある。おかげで、男の声が耳元で響いた。恐る恐る目を向けると、キスできてしまいそうなくらい、近い。浅く繰り返されるこちらの呼気は、間違いなく向こうの唇に当たっていた。
 心臓が、跳ねる。そのくせ、きゅうと切なさも訴えてきた。さぞ、自分は情けない顔をしているのだろう。
 そう思ったそばから、男の瞳に映った、自分の面に気付いた。はは、うわ、マジで覇気の無い顔、してやがる。
「大人しく帰った方、良いんじゃねえの」
 ドラケンの、柔らかな声が体に染みる。ぬるま湯に浸かったかのような、心地よさがあった。それでいて、傷口を濡らしたときのような痛みも覚える。
 こいつは、俺を心配してくれているだけ。そこに下心は、残念ながらない。少なくとも、自分には見出すことができなかった。
 もう、好きじゃないのかな。前に会った時も、平然としてたしな。俺のこと、どうでもよく、なったの、かも。
「やだなぁ……」
 気付くとぽつり、零していた。
 どう捉えたのか、ドラケンの眉間に皺が寄る。それから「そんなに行きたいのかよ」と吐き捨てられた。なるほど、俺が二次会に行きたがっていると思ったのか。二次会ね、まあ、行きたいって思うよ。元気だったなら、行きたい。でも、今日は気分じゃなかった。なんなら、しれっと帰ろうかと思っていたところ。
 ……欲が、出た。このまま、ただ、帰りたくはない。もう少し、一分一秒でも長く、この体温のそばに、いたい。
「じゃあさ、ドラケン」
 そっと、手指を男の胸元に伸ばした。きゅ、先を引っ掻けると、縋りつくような格好になる。こてんと頭も預けてしまえば、いよいよそいつに抱き着いているのと変わらなくなった。
「み、つや?」
 こんなこと、していい立場じゃないのはわかっている。自分勝手なのは、百も承知。それでも、この男が欲しかった。ただの友人なんて、つまらないものに収まりたく、なかった。
「おねがい」
 意図したわけではないのに、零した声は舌足らずになる。甘えるような響きにも聞こえた。ぴく、り。俺を支える腕、その先にある指が震える。
―― おくってって」
 あざとかったかな。酔った頭に不安が過るが、いつまで経っても額を弾かれることはない。それどころか、こちらに回っている腕の力が増したように思えた。
 しばらく睨み合った後、ドラケンは細く息を吐き出す。つり眉の間には、深く皺が刻まれていた。どことなく、目も据わっているように見える。お前は何を言っているのか、わかっているのか。おそらく、そういう内容の台詞を吐きたいのだろう。けれど、皆まで声にされることはない。
 瞳の奥が、揺らいでいた。俺の甘言に流されるか、聞かなかったことにして突っぱねるか。どれくらい飲んだのかはわからないが、ドラケンだって酔っている。酒が入っていて良かった、素面の時より、ちょっとだけ何を考えているのか読みやすい。
「おねがい、だから、さあ」
 ダメ押しに付け足すと、熱を纏わせた瞳が瞼に覆われた。呻きを伴ったため息も聞こえる。
「……送るだけ、だからな」
 たっぷり十秒待ったところで、諦めたようにそいつは吐き捨てた。背中の辺りにあった腕が、思わせぶりに腰へと下りる。くびれの無い平坦なそこに、男の指がかかった。
 そして二人、仲間の群れから、そっと離れる。タクシーを捕まえるのに、そう時間はかからなかった。

 鍵は。
 玄関の前に辿り着くと、淡々とした声を浴びせられた。
 俺を見下ろす目は、少し不機嫌に見える。何か、したっけ。していたことと言えば、タクシーに乗っている間、ずっと手を握っていたくらい。まずかったろうか。運転手から奇異の目は向けられていないし、なにより嫌だったならドラケンは振り払うはず。……そうされなかったから、許されたのだと、思ったのに。
「だから、鍵。どこ」
 ぽや、っとしていると、重ねて聞かれた。
 階段を踏み外したときも思ったが、今日は思いのほか酔いが回っている。頭がスムーズに働かない。鍵、鍵ね。ええと、どこだっけ。ドラケンにもたれかかりつつ、緩慢にボディバッグを開けた。
「かぎ」
「うん」
「これ」
「……ん」
 手さぐりでキーケースを引っ掴み、まるごとドラケンに渡す。受け取り際、またそいつは、顔を顰めたように見えた。なんだよ、寄越せって言ったの、ドラケンだろ。ああいや、寄越せとは言っていない。こいつが言ったのは「鍵」の一つだけ。自分で開ければ良かったのかな。まあ、渡してしまったのだし、開けてもらおう。
 じっとしているうちに、ガチャンと鍵の外れる音がする。俺より二回りは大きい手の平が、年季の入ったドアノブを掴んだ。スチールの重たい扉が、軋みながら開かれる。真っ暗な玄関が、俺たちを迎えた。
「んん、」
 よろり、体を傾ける。かくり、膝が折れた。ぺちょ、フローリングに手のひらを付きつつ、上がり框に座り込む。冷たい、寒い。腰掛けた体は、みるみるうちに傾き、ごろりとその場に転がった。
「ここで寝るなって」
「んんん」
「おい、三ツ谷」
 高いところから声が降ってくる。寝返りを打ちながら見上げるが、あまりにも暗くて何も見えなかった。眼鏡をかけていたら、輪郭くらいは捉えられたろうか。暗がりの中にある不鮮明な影が、身じろぎをする。やがて、錆びた蝶番の軋む音がした。街灯の灯りも断たれると、いよいよ辺りは真っ暗に染まる。すっかり見えなくなったせいか、布擦れの音がやけに耳についた。
「……ドラケン」
「あ?」
「いる?」
「いるよ、ちゃんと。靴脱がすぞ」
「……ん」
 大して考えもせずに頷くと、影が俺の足元に集まった。間もなく、靴紐を解かれる。恭しさすらある手付きで、ドラケンは右、左と俺の足から靴を脱がせていった。
 このままじっとしていたら、どこまで面倒をみてくれるのだろう。子供の我儘みたいな甘えが浮かんで来る。ぱたり、何というわけではないが、足をばたつかせた。
「わ」
 と、おもむろに背中に手を差し込まれる。寝転がっていた上体が、体温に寄り添うように起こされた。ほとんど同時に、投げ出していた膝の裏にも腕が入る。すん、鼻を鳴らすと、男の甘さが香った。今日の、控えめな匂いがわかるくらいに、ドラケンがそばにいる。甘えることを許されたみたいで、胸に熱が沁みた。
「よ、っと」
「ぅ」
 体が、浮く。不安定さが襲ってきた。咄嗟に、腕を回すと、男の垂れた前髪が頬に触れる。さらりとした束が、荒れた肌に擦れた。ようやく慣れてきた目は、男の切れ長なソレを捉える。……本当に、近い、な。自分からしがみついたのに、カッと頭に血が上ってきた。顔を上げていられなくなってくる。項垂れると、すぐにコツン、そいつの肩に額がぶつかった。
「そのまま掴まってろよ」
「ン」
 一音で答れば、浮遊感に揺れが加わる。時々、フローリングの軋む音がした。三つばかり床板の軋みを聞いたところで、ちらりと目だけ持ち上げる。丁度カーテンを開けたままの居室に辿り着いたところだった。外からの光を吸って、玄関よりはほのかに明るい。
「ほら、ベッドついたぞ」
 揺れが止まる。不安定な体が、もすん、マットレスに着地した。背中と膝に回っていた腕は、壊れ物でも扱うかのようにそぉっと離れていく。
 ありがとう。そう言って手を離したら、「おやすみ」とでも言って、ドラケンは出ていってしまうのだろう。
 おやすみって言ってもらいたい。けど、ここで帰られてしまうのは、ちょっと、な。
 さみしい。
「うん」
「うんじゃなく」
「ん」
「……離せって」
「やだ」
「帰れねえだろ」
 ほら、帰るつもりだった。
 最初から、送るだけと言っていたんだ。帰るに決まってる。でも、帰ってほしくない。まだ、この体温に、そばにいて欲しかった。今日は我儘ばっかりだ。飲む量は自制したのに、感情は自制できないなんてこと、ある? あるから、今、ドラケンから離れられないのか。
「帰ンないで」
「……」
「もうちょっと、いて」
 できたらその腕で、ぎゅうと抱きしめ返してほしい。言いかけて、やっぱりやめた。それを強請ったら、もっと先のことをせがんでしまう。キスしてほしいとか、直接肌に触れてほしいとか。体の内側を、無遠慮に暴いてほしい、とか。
 まったく、なんであの日、泣いてしまったんだろう。怖いのなんか、慣れっこだろ。しない後悔よりする後悔。だから結婚もしたし、離婚もした。あの夜、ちゃんと腹を括って、こいつとセックスできていたら。俺の世界は、今とは違っていたかもしれないのに。
「勘弁しろよ、」
 とにかく甘えたくて額を擦りつけると、掠れた声が聞こえた。押し殺しきれなかったそれには、苦々しさが混じっている。漂う甘さとのギャップで、やけに鼓膜にへばりついた。
「手ぇ、出したくなるだろ……」
 ―― ああ、今度こそ、怯んじゃいけない。
 離れるもんかと、抱き着く腕に力を込めた。
「出せばいいだろ」
「……出さねえよ、泣くじゃん、お前」
「がまんするから」
「我慢させたくもねえの、いいから離せって」
「……やだ」
「ッ三ツ谷!」
 声の不機嫌が色濃くなる。普段よりも少しだけ早口になって、ボリュームも増してきた。
 あのドラケンが、俺に声を荒げている。俺を説き伏せようって時は、いつだって静かに穏やかに語り掛けてくるこの男が、ついに感情を表に出した。
「っふ、」
「ンに笑ってんだ」
「ううん、ドラケンに怒鳴られたの、いつぶりだろって」
「……悪い」
「謝んないで、いいんだほんとに、嬉しいから」
 苛烈さを浴びているのに、嬉しくて堪らない。
 すぐそばの首筋に擦り寄ると、こくんと喉仏が上下した。真冬だってのに、汗ばんできている。耳をすませば、どくどくと脈打つ音も伝ってきた。もっとくっついていたい。できたら一つになってしまいたい。
 抱き着いたまま、深く息を吸い込んだ。ドラケンの、匂いがする。日曜日ほどの重い甘さはない。今日くらいの軽やかな甘さ、好きだな。安心する。
「俺さ、今のドラケンのこと、なんも知らない」
「なんもってこと」
「なんもだよ。俺よりみんなの方が、ずぅっと詳しい」
「……あんま会ってねえし、大人になったんだし、そんなもんだろ」
「ふふ、うん。そうだね、こうやって、いつか他人になっちゃうんだろうね」
 誰だってそうだ。大人になれば、疎遠になることくらいある。どうやったって、薄れる縁はあるものだ。昔、一緒に喧嘩をした奴の名前、自分はどれだけ覚えている? カッケェと思ったあの不良の先輩たちの事、どれだけ正しく思い出せる? ドラケンとの関係だって、それと紙一重。
「昔は、ドラケンがいちばんだったのに」
 この背中を、ずっと追いかけていた。隣に並ぶんだって、それこそ鼻息荒くして、毎日必死に生きていたっけ。
 いつからだろう、それを止めたのは。東卍が解散したから? デザイナーになると決めたから? 移り気して、結婚なんてしてしまったから? いくつもの転機が重なるうちに、この男への憧れを忘れてしまっていた。
「あんなに、ドラケンのいちばんになりたかったのに、」
 なんで忘れてたのかな、こんな大事なこと。
 思い出さない方が、幸せだったのかもしれない。今のドラケンのこと、知らないまま生きていた方が、このさみしさに苦しまずに済んだのかもしれない。
 でも、もう思い出してしまった。
 忘れていた頃には、戻れない。
―― いちばんだよ」
 ふと、掠れた声がした。深さのあるそれが、じんっと鼓膜を痺れさせる。
「ぁ、わっ」
 肩を、押された。声に気を取られたせいか、互いの間に隙間ができてしまう。いやだ、離れたくない。しがみつこうにも、向こうの力の方が強かった。
 あっという間に、背中がベッドに沈む。スプリングの軋む音がした。見上げると、馬乗りになった影が見える。肩の辺りが動き、大きな手の平が、こちらに伸びてきた。間もなく、顔のすぐ横に突き立てられる。また、ぎしり、ベッドのバネが呻いた。
「お前はもう、とっくに俺のいちばんだよ」
 不機嫌な声が降ってくる。ほとんど同時に、窓の外が明るくなった。月でも出たのだろうか。柔らかい光が、室内をぼぉっと照らしてくれる。……おかげで、苦虫を噛み潰したような表情が、よく見えた。
「うそ、」
「嘘じゃない」
「じゃあ、なんで」
「抱かないのかって? 抱いたらもう、手放せなくなるだろ」
 もう一方の手が伸びてくる。指先が、俺の頬を撫でた。硬い皮膚にぶつかると、荒れた頬がぴりりと痛む。慣れない痛みに、つい、小さく肩が震えた。それをどう捉えたのか、ドラケンの手がぴたりと固まる。見上げていた顔は、瞬き一つを経たあと、自嘲の笑みに切り替わった。
 違う、触れられたのが、嫌だったんじゃない。怖かったんじゃあない。
 離れようとする左手を咄嗟に掴んだ。かといって、なんと言って引き止めたら良いかも、閃けない。ぐずぐずと唇を震わせながら、縋るように男を見やった。
 ふ、なぜか男は、吐息ばかりで笑う。
「三ツ谷はさ、結婚だってできるし、子供だって、きっとちゃんと育てられる。良い父親っていうのに、なれると思うんだ」
 紡がれた声には、先程までの荒っぽさは感じられなかった。静かで穏やかなそれは、自分自身に言い聞かせているようでもある。
「でも、俺といたら、どれも叶えられなくなるよ」
「そんな、こと」
「少なくとも、同性婚はできないし」
「……養子、とか」
「俺が子供に嫉妬する。から、無理」
 くしゃりと笑った頭の中で、一体何を描いたのだろう。俺と一緒になった世界? それとも、俺がドラケンじゃない誰かと一緒になった世界? 尋ねたところで、きっと答えてはくれないだろう。曖昧に笑って、誤魔化されるのが目に見えている。
「俺のいちばんになるって、そういうことだよ」
 痛々しくも見える笑みのまま、男はわずかに首を傾げた。窓から差していた月明かりが、陰っていく。辺りがグレーに染まって、徐々に表情が濁っていった。
 見えるけど、見えない。わかりそうで、わからない。
 知っているけど、何も知らない。大人になった、今の関係みたいだ。込み上げてきたさみしさと悔しさに、左手を握る力がいくらか増した。
「それでもまだ、抱いてほしいって――
 言い切られるより前に、背を浮かせた。空いている方の手は、男の胸倉を掴む。服が伸びるのに忍びなさを抱きながら、力任せに引っ張った。灰色の顔が、目を瞠る。唇は、都合の良いことに半分開いていた。
 がぶりと噛みつく。擦れた表面は、どちらも乾燥で荒れていた。ちょっと角度が変わるだけでも、ざらりと擦れる。でも、内側は滑らか。濡れた粘膜が、柔く迎えてくれた。
 もう、怖くない。大丈夫。だって、今のこの男のことを何一つ知らないで生きるより怖いこと、ない。
 ぷちゅ、り。名残惜しくも、唇を離す。雲が切れたのか、部屋の中は、口付ける前よりも少しだけ鮮やかだった。
「思うよ」
「っ、」
「抱いてほしいって、思う」
「い、いの」
「うん」
「やっぱなし、って言われても、泣かれても、もう」
「往生際悪いな、良いってば」
 こいつが優柔不断になるなんて、明日は槍でも降るのだろうか。いや、俺が知らなかっただけで、ドラケンにはこういう一面もあったのかもしれない。
 他にも、知らないことは、たくさんある。山ほどある。だから、知らなくちゃ。
「今のドラケンのこと、ちゃんと教えて」
 そうしないと、すぐに他人に戻ってしまう。そんなの嫌だ。
「俺も全部、話すから」
 結婚したこと、離婚したこと。仕事のこと、生活のこと。もう「あえて言うほどでもない」は止める。
「ちゃんと、お互いのいちばん、やり直そう」
 今は、紙切れ一枚には頼れない。だから、代わりにできることはなんだってしよう。
 ね。念押しするように囁くと、目の前の男の顔が泣きそうに歪んだ。あ、どうしよう、泣かせた? 雫が落ちてくるのを捉える前に、我が身はきつく抱きしめられた。