日曜日は、出歩かなくなった。
 そもそも翌日は平日で、仕事があるのだ。事務所だって開けないとならない。日付を越しても起きているのはしょっちゅうだし、睡眠不足はお手の物。それでも、休日くらい、ちゃんと身体を休めた方がいいよな、と意識を改めた。
 なんせ、心が参ってしまった。となると、残る資本の体の方は、大事にせざるを得ない。
 男に抱かれるなんて、もってのほか。
「ほんとすげえな……」
「なに突然。褒めてもなにも出ないよ」
「素直にそう思っただけだって」
 ぽつりと口から零れ出た言葉は、胡乱な態度で一蹴された。
 顔を上げると、溜め込んだ書類物を鮮やかに裁いていく柚葉が見える。封こそ開けたもののパラパラ捲った程度で放置していたパンフレット、応募したコンペの通知、各種依頼書・受領書・納品書。自分で真っ当に管理できているのは請求書くらいで、三か月に一回、彼女の世話になっていた。もちろん、事務労働費は払っている。正当な額を示せば、ちゃんと都合をつけてくれる柚葉には、本当に頭が上がらない。
 小さく息を吐いてから、垂れてきた前髪をピンで留め直した。額には汗が滲んでいる。暦の上ではとっくに秋だというのに、残暑はもうしばらく続くらしい。ファイリングする手も、汗でべたついてきた。そろそろ休憩でもしようか。昼のピークタイムは過ぎている、今からなら、待つことなくランチにありつけるだろう。
「飯どうする、いつもンとこで良い?」
「うん。あーでも、外暑そ……」
「車出すよ」
「炎天下に置いてる車だろ? 冷えるの待つより、歩いた方が早い」
「う、確かに」
 ホチキス止めした紙の束を、ローテーブルに放った。キーを取りにと立ち上がったが、柚葉が言うのも一理ある。凝り固まった背筋を伸ばしながら、歩いて行くかと窓の外に目を向けた。……この中を、歩くのか。真夏は過ぎた。体温とほとんど同じ気温の頃を思えば、ずっと過ごしやすくなったと思う。それはそれとして、今の気温を思うと外に出たいとは思えなかった。だって、真夏日予報も出ていたし。
 日光を浴びてギラリと輝くサッシを見ながら、手慰めに水のペットボトルを掴んだ。
「で?」
 ごくりと飲み干したところで、柚葉の声がする。空っぽのソレを潰しながら振り返った。彼女は今も、一人掛けソファに座っている。ほっそりとした指先は、放置していた郵便物の山にかかった。
「なんか鬱憤溜め込んでんだろ、また」
「……敵わねえなあ」
「店で話せる内容なら食べながら聞くけど」
 ペーパーナイフが、封筒の口を裂く。布を切るのとは違う、乾いた、小気味よさのある音が響いた。封を切って、中身を取り出して、書類を確かめる。単調な分、彼女の手付きに迷いはなかった。
 んん、あー、うん。そんな彼女とは対照的に、こっちは口ごもってしまう。意味のない音だけを並べて、潰したペットボトルを見下ろした。もう十分小さくなっているのに、ぎゅ、ぎゅうと握り込んでしまう。その度に、柔いプラスチックが軋んだ。
 鬱憤と呼ぶほどでもないが、ずっとモヤモヤを抱えている。春先のあの夜から、もうずっとだ。時間が経てば落ち着くだろう。そう高を括っていたのに、半年経っても晴れやしない。当然、あいつの顔だって、見れなくなった。向こうも思うところがあったのだろう、あれから連絡はない。一つも、ない。
 ちらりと目線を擡げると、丁度柚葉も、視線だけで俺を見上げたところだった。
「俺さあ」
「うん」
「……ドラケンと、できなかったんだよね」
「なにを? ああいや、いい、思い出した、抱かれたいって鼻息荒くしてたね、そういえば」
「え、俺、ンな鼻息荒かった?」
「物の例えだよ」
 咄嗟に鼻と口を覆った。すぐに、柚葉の目が据わる。冷めた目付きが、痛かった。けれど、瞬きを二、三回するうちに、ただの涼し気な目元に戻っていく。呆れた顔、とも、言う。
 指先でこめかみを掻いてから、のろりとソファに戻った。来客用として置いているソレは、然程名の知れていないデザイナーにしては上等な代物だ。俺一人座ったくらいじゃ軋むことはないし、バスタオルを敷き詰めれば悪くない寝床にもなる。本当に、彼女にも、その兄貴にも、弟にも、世話になりっぱなし。お中元、もっと良いの贈れば良かったかな。
 背もたれに体を預けて、首も後ろに倒す。打ちっぱなしの殺風景な天井を見ていると、世知辛さが僅かに増した。
「イケると思ったんだけどさ」
「意外。あたしもあんたと龍宮寺だったらイケると思った」
「だろ? なのにさあ、ビビっちゃって。自分よりデカい男に圧し掛かられるのって、あんなに怖いんだね」
「ああ、そういう」
「女の子ってすげーよ。あれを耐えれるって、心強すぎ」
「……それ、性別関係ないと思う」
「え」
「誰だって、自分より力があるモノには畏怖くらいするでしょ。あたしも八戒も、ずっと大寿が怖かったわけだし」
 トラウマになったっておかしくなかったろうに、柚葉はケロッと言ってのける。この三人は、今でこそ悪くない関係を築けている。とはいえ、誤った行動をしていた過去は変わらない。……いちばん暴力を受けていたこいつは、乗り越えるのに何年かかったのだろう。もしかすると、強がっているだけで、今も無理をしているのかもしれない。
 なんだか、殴られたわけでもないのにビビっている自分が、情けなく思えてきた。この話は、ここで終わりにしてしまおうか。自分より大きいモノは、誰だって怖い。そう言ってもらっただけで、十分だと、割り切れば良い。
「そっか」
「そ。こいつは危なくないって、信頼できるようになって、やっと耐えれるようになんのよ」
 背もたれに首を預けたまま、ころりと柚葉を見やる。相変わらず、その手は封筒を開けていた。横に置いてあるゴミ袋は、もう半分埋まっている。ぱさり、細い指は、空になった封筒をそこに落とした。
 そもそも柚葉は、迂闊に男と二人きりにならない。けれど、俺とは平気で二人になる。彼女の言う「信頼できる相手」に、自分は当てはまるということなのだろうか。
「……俺、柚葉となら結婚できるかも」
「あんたは誰とでもできるでしょ」
「そう?」
「だって、執着しないだろ。付き合うのと同じくらい軽率に婚姻届も離婚届も出すくらいだし」
「あー、うん。心当たりあるワ」
「あの一枚の重み、思い知れば良いのに」
「そんなに重いかなあ」
「重いよ。あの紙切れ一枚で、どれだけ生き方が変わることか」
 やけに含みのある言い方をする。なんだか、胸に引っかかった。自分にとっては、大きな意味のない紙切れだったけれど、彼女にとっては違うのだろうか。じぃと見つめてみるものの、形の良い唇がそれ以上を紡ぐことはない。
 少なくとも、彼女のことは信頼している。だが、執着というほどのこだわりはない。
 本来、この人でなきゃダメ、という確固たる何かを見出してから、人は結婚するのだろうか。そこまで深く考えるもんかね。そりゃあ、考える人だっているだろう。でも、全員がそうとは思えない。俺みたいに、ぽんと踏み切る奴だって、多かろうに。
 あの男は、どっちだろう。一途な奴だから、ちゃんと考えてからする気がする。……かつてのあいつなら、そうだったろう。だが、今のドラケンを思うと、首を捻ってしまう。ここ数か月のことはわからないが、何年も夜遊びしていたくらいだ。ある日突然、それこそいつかの自分のように、籍を入れてしまうかもしれない。俺の見ず知らずの相手を選んで、ぽんと結婚してしまう、龍宮寺、堅。
「やだな、」
 天井を眺めながら、ほとんど口の中だけで呟いた。
 セックスする度胸はなかったのに、砕かれた心は、今もあいつに惹かれている。
「あ」
「うん?」
「これ、そのバイク屋からじゃない?」
「え」
 ぱっと顔を上げると、葉書を差し出される。赤と黄色が目に痛い裏面は、いかにも特売情報の趣をしていた。もたつきながら受け取って、まじまじと見下ろす。電器屋の広告みたい、と思うのは、自分だけではないはず。どうしてこっちに届いたんだろう。くるりと宛名面にひっくり返してみるも、確かに住所はアトリエのものだった。
「点検のお知らせ……?」
「なんでこっちに届いたの、それ」
「なんでだろ。住所、ちゃんと家の方にしたと……。ん、やべ、昔の住所のままなのかも」
「あー、送ったけど返ってきて?」
「向こうも知ってる、アトリエの住所に送った、とか」
「ありうる」
 葉書の隅には、雑な手書きで点検の案内があった。ドラケンの、字ではない。イヌピーの柄でもないだろうから、三人目の彼が書いたのだと思う。思えば、俺のバイクの担当は、ドラケンではなくドバシ君になりつつある。あの二人だけだったら、そもそもこんな葉書自体、作らないだろうし。
 点検か。いつ行こう。正直、ドラケンと顔を合わせたくない。だって、絶対に取り乱す。でも、あっちは俺と会っても平気な顔をするんだろうな。目に見える。……最初から、セックスできると、思っていなかったみたいだし。
 あいつは今も、月曜休みなんだろうか。壁に貼り付けたカレンダーに、よたよたと視線を走らせた。
「電話、しなきゃ」
「……龍宮寺と気まずいんだろ。無理してその店でやんなくても良いんじゃない」
「うん、けど、ずっと見てもらってるからさ。他に行くのも、なんかね」
「ふぅん」
 あいにく今日は金曜日。週末は必ず三人揃っている。電話をしたら、三分の一の確率で、ドラケンが出てしまうということ。あいつが出たらどうしよう。悩む一方で、久々に声を聞きたいような気もした。いつまでも、顔を合わせたくないわけじゃない。許されるなら、元の距離感に戻りたかった。向こうが、そう思ってくれているかは、わからないが。
 きっかけだと、思えば良い。関係を修復する、いいきっかけ。
 スマートフォンを取り出しながら、もたもたと電話のボタンを突いた。葉書を見ながら、慎重に数字を指で押していく。ごくん、一度唾を飲んでから、発信の丸をタップした。

 ―― ドラケンが、刺された。
 電話口で、確かにイヌピーはそう言った。だから、しばらくは二人で回さないとならない。すぐにでも点検予約を入れてやりたいところだが、ちょっと待ってくれないか。そんなことも、言っていた気がする。
 にもかかわらず、自分は炎天下を走っていた。こんなの、何年ぶりだろう。学生ぶりなのは、間違いない。ガキの頃は、どうしてこんなクソ暑い中、全力で走り回れていたんだろう。大人になったからか、体が重たくて仕方がない。それは度重なる不摂生のせいだって? ああもう、こんなことなら、もっと健康的な生活をしておくんだった。
 駅から徒歩十五分の距離だ、下手に走るくらいならタクシーに乗った方が早い。それ以前に、一旦家に帰って、バイクを取って来れば良かったのだ。……わかっていても、待つのも、遠回りするのも惜しかった。
「ッ!」
 やっと、ついた。ギッと足にブレーキをかけて、ガラス扉に手を掛ける。ぜえぜえと息が切れているが、整えるだけの余裕はなかった。手を震わしながら、どうにか腕に力を込める。
 足を縺れさせながら、D&Dに転がり込んだ。
「いらっしゃぃ……、お、ワッ、うわっ顔! エッ顔真っ赤じゃないすか!?」
 真っ先に目が合ったのは、ドバシ君。明朗闊達な声は、見事なまでに慌てふためいた。それだけ、俺の狼狽に驚いたのだろう。水、水、と騒ぐ声もする。
 呼吸はなかなか整わない。痛々しく聞こえかねない咳を吐いて尚、落ち着かなかった。聞きたいことがあるのに、どうしてこの体は肝心な時に言うことを聞かない。あの夜だってそうだった。取り繕えてさえいれば、今頃――
「ど、らけんっ、は……?」
 半ば縋るように、彼の作業着、その胸倉に指を引っ掻けた。
―― 呼んだ?」
 聞き馴染んだ、低音が響く。今にも項垂れそうな頭が、弾けるように左を向いた。視界に映ったのは、二人。先ほど電話で話した方の一人と、刺されたはずの、一人。
 刺されたんじゃ、なかったの。俺はからかわれたのか。何のために? 強張っていた指先から力が抜ける。ほとんど同時に膝が折れた。がくんと崩れた体は、重力に従って床へ向かう。すぐ傍から、ワッと騒ぐ声がした。右の二の腕も掴まれる。狼狽えながら顔を向けると、困惑した顔の整備士が俺の体を支えてくれていた。
「あーあー、マジで顔真っ赤じゃん。こんなクソ暑い中走ってきたのか?」
「ぁ、だって、」
「とりあえず水飲め、水」
「ぅ」
 事務机のところにいた一人が、おもむろに立ち上がる。右手には、杖。こちらに歩み寄ってくる足も、たどたどしく見えた。刺された、から? だったら、こんなところで暢気に過ごしている場合ではない。
 はく、はくん。冷房の効いた空気を食んでいるうちに、そいつは俺の目の前にやってくる。左手には、水のボトルが引っかかっていた。くちゃくちゃに潰せるペットボトルは、ついさっきまで事務所で飲んでいたのと同じもの。差し出されるままに、それを受け取った。
「どういうこと……?」
 絞り出した声は、走って疲弊したのもあって掠れている。困惑しながらドラケンを見上げると、厚みのある唇が僅かに波打った。俺を見下ろしていた目は、一旦逸れて、俺の隣に向く。十センチ以上高いところで、なにやらアイコンタクトを交わされた。おい、俺を混ぜろ。尋ねているのは俺だろう。息が落ち着いていくにつれて、眉間に皺が寄っていった。
「どういうことだよお」
「説明しようとしたのに、電話切ったの、三ツ谷だろ」
「ぅえ」
 情けなく縋ると、ドラケンの向こうからイヌピーが顔を出す。半目の顔には、たっぷりの呆れが浮かんでいた。
 電話を切った。確かに、切った。刺されたと聞いて、いてもたってもいられなくなったのだ。何ができるというわけでもないのに、体が動いてしまった。そういえば、柚葉に呼び止められたような気がする。行ったところで、何になるって。それでも、黙ってなんかいられなくて、気付くと事務所を飛び出していた。
「なにが、あったの」
「……まず水な、熱中症なるぞ」
「刺されたって」
「うん、俺はほらこの通り大丈夫だから、な?」
 俺のことより、お前のことだろ。わなわなと口を震わせていると、ドラケンの大きな手が俺の持つペットボトルにかかった。こっちの手指ごと包んで、キャップを捻る。パキッ、小気味のいい音がして、黄緑が外れた。強引に腕が持ち上がり、口のすぐ近くにまでボトルがやってくる。正面にいる男の目には「飲め」と書いてあった。飲んだら、言うんだな。絶対言えよ。ギッと目一杯睨んでから、仕方なしに水を舐めた。……しかし、ドラケンが口を開く様子はない。まだ、「ちゃんと飲め」という顔をしていた。
「ん、っく、ン」
 震える腕で、ペットボトルを支え直す。一口、二口、冷えた水を流し込んだ。もういいだろ。まだ。ほら飲んだよ。もっと飲め。アイコンタクトをしているうちに、いつの間にかドバシ君は作業に戻っていった。イヌピーも、ため息を吐いてパソコン操作を再開する。
「っふ、ん……、飲んだ」
「うん」
「飲んだから」
「じゃ、座ろっか」
「~~ッなにがあったんだよ!」
「ちゃんと話すから。悪い、ちょっと奥引っ込むワ」
「おー」
「うーす」
 そっけない二人の返事を聞いてから、ドラケンは俺の腕を引いてくれる。けれど、右手には確かに杖があった。歩き方だって、どう見たって歪んでいる。
 何が、あったんだ。俺の知らない間に、一体、何が。疑問は次々浮かんで来る。
「どらけん」
「……ほんと、ひでえ顔」
「茶化すな」
「ごめんって」
 休憩室の扉を潜り、促されるままソファに腰を下ろす。ため息を吐きながら、ドラケンはもう一台のソファに座った。その、瞬間、わずかであるが顔が歪む。間違いなく、痛みで顔を顰めた。
「ねえ」
「……先週、いや十日くらい前かな、引ったくり現行犯、捕まえたんだよね」
「ひったくり……?」
「そ。飯買いに出たら、丁度出くわして。ゲスいことやってんなーって足引っかけて転ばしたんだよ」
「ぅん」
「そしたら、なーんか逆上されちまって」
「さされた、の」
「そ」
 刺されても犯人は取り押さえたが、ちょっと暴れたせいで入院を余儀なくされた。退院したのは一昨日のこと。まだしばらくは安静で、機械いじりはできないらしい。担当していた修理もメンテナンスも、致し方なく他の二人に振り分けた。おかげで、ここ数日、新規の依頼はすべてストップしていると言う。俺の愛機の点検が遅れるのも、その、せい。
 感情的になることなく、淡々とあったことを聞かされる。まるで世間話。実際、ドラケンにとっては他愛のない話なのだろう。飲み会で話せば、武勇伝らしくなる、くらいは考えているかもしれない。
「しらな、かった……」
「まあ、うん。言わなかったし」
 だが、聞いているこっちは、生きた心地がしなかった。本人は生きている。ピンピンしている。それでも、緊急事態が起きたことに、変わりはない。
「なん、で」
「ん?」
「なんで、おしえて、くんなかった、の」
 ぽつ、ぽつと言葉を繋ぎ合わせる。
 心底焦がれた男の窮地を、俺は一切知らなかった。知らされなかった。水のボトルを掴む手に、力が入った。半分ほどに減ったソレは、簡単にぱきぱきと表面を凹ませる。まだ中身は残っているけれど、握り潰してしまいそう。
 じ、斜め前に座るそいつを、ただただ見つめた。ドラケンに、今の俺はどう映っているんだろう。非難しているように見えるのか、心配したという顔に見えるのか。正直、自分ではどっちの顔をしているか、わからなかった。体の内側に渦巻いているこの感情の正体が掴めない。悲しい気もするし、腹立たしい気もする。悔しさもあれば虚しさも寂しさもあって、そのどれにも「なんで」という疑問詞がくっついていた。
「んん、」
 ドラケンの目が、宙に向く。俺とは別の方に逸れて、そっけない唸りが聞こえた。
 ねえ、なんで。なんで言ってくれなかったの。言ったところで、何ができるってわけじゃないけど、見舞いくらい、行かせてよ。なんで、どうして、ねえドラケン。ぱき、り。手元にあるペットボトルが、また悲鳴を上げた。
―― あえて三ツ谷に連絡することじゃ、ないと思って」
 再び視線が重なる。存外厚みのある唇が、流暢に動いた。
「そう、」
「うん」
 一つ頷くと、応えるように向こうも首肯する。
 ドラケンにとって、入院は、俺に知らせるまでもないこと、らしい。
「そっか」
 噛み締めるように、もう一度頷く。
「そう、だよね……」
 当たり前のことだ。俺とドラケンは、一介の友人に過ぎない。それに、丁度距離を取っているところだった。我が身の失態のせいでそうなったのだ、そんな中、あえて俺に連絡してくれるわけがない。どう考えたって、気まずいだけだ。
 おかしいことは、何一つない。……だというのに、やけに心臓が痛かった。
「どした、三ツ谷」
「……うぅん。無事でよかった」
 口元に、笑みを浮かべる。笑顔を取り繕うのは得意だ。どんな取引をするときでも、武器になる。敵意はないと示すこともできるし、牽制もできる。便利なスキルとも言えよう。
「ごめん、取り乱して」
「……いや、こっちこそ何も言ってなかったし、驚かせたな」
「ううん。いいんだ。仕事の邪魔しちゃったね」
「それは全然。どうせ事務仕事しかできねえし」
「事務舐めんなよ? ……あー、点検、いつできそうか決まったら教えて」
「ん、わかった。早めにできるようにするワ」
「まあ、無理はしないでね。っていうか、あの二人が大変になるんだろ」
「そうなんだよなあ、毎日イヌピーに早く治せってせっつかれてる」
「はは、ぽいワ」
 笑顔を作った途端、あれほど回らなかった舌が滑らかに動いてくれる。ポーカーフェイスと称されるのは、こういうきらいのせいかもしれない。
 ぽんぽんとテンポよく会話を転がしたところで、お暇すんねと立ち上がった。見送ろうとしたのだろう、ドラケンの手が杖を掴む。痛いんだろう、いいよ、気にすんな。雑に宥めて、誤魔化して、ひょいと休憩室の扉を潜った。細い廊下を、かつかつと進む。店内に戻ったところで、二人に声を掛け、今度はしっかりとした足取りで、ガラス扉を開けた。
 うん、大丈夫。最後まで、笑顔を貼り付けたまま、出てこられた。
「……」
 残暑の道を、引き返す。日が傾き始めたのもあって、来た時よりも過ごしやすかった。とはいえ、汗ばむ気温に違いはない。ただ歩いているだけでも、息が、上がった。心臓は、普段よりも駆けている。体の内側にある臓物すべてが、潰れたかのような心地がした。
 俺とドラケンは、所詮他人だ。何かがあったとき、真っ先に支えることは叶わない。ごくごく当たり前のことに、どうして気付かなかったんだろう。
 ―― かつて自分は、ある女性の確固たる一番を手にしていた。簡単に手に入れたそれは、あっけなく手放してしまったけれど、そういう過去があったのは、確か。変えようがない。
「そっか」
 結婚なんて、大したことない。そう、思っていた。でも、そんなこと、ないのかもしれない。たった数時間で手の平を返すことになろうとは。はは、柚葉の言うこと、正しかったワ。口から乾いた笑いが零れ出る。
 どうやったって、俺はあの男の一番には、なれない。公的に一番になる手続きを、俺はあの男と交わすことはできない。絶対に、できないのだ。
「はは、くそ、さいあくだ、」
 紙切れ一枚で認められる関係が、これほど羨ましく、そして妬ましく思える日がくるなんて、思いもしなかった。