六
あの夜から、ドラケンを見かけなくなった。
たまたまタイミングが悪かった、というわけでは、きっとない。だってもう、三か月だ。きっちり毎週通っているわけではないけれど、今のところ十連敗。自分はあいつに、避けられているのかもしれない。
相手を探す場所を変えたのか、そももそも遊ぶことを止めたのか。何年も続けていた習慣というのは、ぴたりと止められるものなのだろうか。
こっちは煙草を吸う頻度が増えたというのに。……それは、仕事のせいだ。責任転嫁はやめよう。仕事が軌道に乗って来たのは良いことなんだから。これくらいの多忙、どうってこと、ない。
ごうごうと鳴る換気扇に向かって、ほうと煙を吐き出した。
「好きって、言ったくせに」
あの日、あいつは、そう言った。好き、だけじゃなく、無理、とも念押しされたけれど、確かに言ったのだ。
「好きだよ、って、言ったくせに……」
三か月経っても、その音は鮮明に思い出せる。むしろ、どうやったら薄れるのか知りたいくらい。ことあるごとに、あの男の声が蘇ってきた。幻聴だというのに、鼓膜を震わして、何度も何度も神経に痺れが走った。
やっぱり、煙草に手が伸びたのは、あの男のせいもあるかもしれない。
小さく指を弾いて、灰を落とす。灰皿に落ちた破片を、ぼんやりと見下ろした。体にいいとか、悪いとかはさておき、電子煙草に切り替えた方が良いのだろうか。電子と頭につくせいで、どうも手を伸ばせないでいるが、灰を片付ける手間が省けるのはいいよなあ。それに匂いも、少ないって言うし。
「にお、い」
ああ、くそ。今度はあの甘い匂いが思い起こされる。幻聴よりも、さらに鮮やかなソレ。漂う紫煙すらも押し退けて、鼻の奥にムスクが香った。抱きしめられたあの瞬間の、男の匂いが、まざまざと蘇ってくる。
―― 会いたい。
また、抱きしめられたい。今度は、こっちも腕を回し返したいし、ちゃんとキスもしてみたい。あわよくば、ベッドの上で、組み敷かれて、何もかもすべて、暴かれたい。
深いため息に合わせて、煙草の火をにじり消した。
「……ン」
ふと、音がする。電子音だ。ころころと、木琴みたいな音が連なっている。これは、ええと、電話だ。鳴りやまない辺り、電話で間違いない。こんな時間に一体誰だ。まあでも、土曜の夜なら、多少遅くても目を瞑ろう。
吸い殻をそのままに、よろよろと部屋に戻った。放ってある鞄を拾い上げる。着信は、まだ止まない。留守電設定にしていないせいもある。し、俺に電話を掛けてくる連中は、大抵長くコールを鳴らしてくれる。なんせ、そうしないと俺が出ないもので。未だに慣れない平べったい端末を睨みつけて、そぉっと指を滑らせた。
「はい、もしもし」
あ、相手を確かめるの、また忘れた。
まあ、良いか。迷惑電話だったら、切れば良い。
『あ、出た』
「ぇ」
『久しぶり。て、ほどでもないか』
嘘、これは、切っちゃだめだ。
低い声が、鼓膜を震わす。じんっと響いたソレは、瞬く間に全身に痺れを伝えていった。あ、え、どうして。なんで。引っ切り無しに浮かぶ疑問を、どうにかぱくんと飲み下す。
「―― どらけん、」
そして零れた声は、情けないことに、あまりにも震えていた。
綺麗なシルエットのコートは、諦めた。
朝晩はまだ肌寒さがあるものの、あのコートを着るほどではない。何を着よう。向こうは仕事終わりだ。コートのいらない季節だと、いつものあのカーディガンを羽織ってくるはず。……日曜日、というのを思うと、シンプルな格好だろうか。その姿に並ぶなら、何がいい。一体自分はどれを着ていくのがベストなんだ。
クローゼットを開いて、服をとっかえひっかえすること三時間、弱。結局掴んだのは、ありがちなテーラードジャケットだった。
「ワ、はや」
「っ!」
「俺、九時って言ったよな。あれ、八時っつったっけ」
「や、くじって、きぃた」
「そ?」
雑踏の中に居ても、その男の声を拾うのは容易かった。
跳ねるように振り返ると、真っ先にラフなジャケットが目に入る。被った? いや、大丈夫、素材も色味も違う。この男、本当に黒が似合うな。ガタイも良いし、手足も長い。かつては、肩を怒らせて歩いていたが、今はちゃんと背筋が伸びている。緩く束ねられた髪が、とろりと揺れた。
これに見惚れない奴が居ようか。少なくとも、自分は、魅入ってしまった。
「三ツ谷?」
「……ドラケン」
「おう」
「抱いて」
「抱かないって言ったじゃん」
「言ってたけど……」
一歩、よろめくように近付いた。距離が縮まれば、その分、ドラケンの付けている香水が迫ってくる。
『飯行こ、久々に、久々って程でもないけど』
そう言われたはずなのに、鼻孔を満たすソレは夜の匂いをしていた。日曜日の、あの匂いだ。もしかすると、もう日付が変わる時間なのかもしれない。いや、まさか。約束の時間は夜の九時だし、今は大体八時半。それを思うと、ドラケンも大概早いのでは。
ぼすん、男の胸元に顔を突っ伏した。汗の臭いはほとんどしない。着替えがてらシャワーでも浴びてきたのだろう。
布の感触を確かめるように額を擦りつければ、頭上から「くすぐってぇんだけど」と笑う声がした。それから、大きな手の平がぐしゃりと俺の髪をかき混ぜる。折角セットしたのに。でも、ドラケンに撫で回されるのなら、乱れたって良いと思う自分もいる。
盗み見るように顔を上げると、友愛のみの視線を返される。細められた目には、言葉通り「くすぐったい」としか浮かんでいなかった。「抱かない」の言葉に、嘘はないらしい。
「……ダメですか」
「ダメです」
「どうしても?」
「どうしても」
頭に乗っていた手が、ふと持ち上がる。離れた重さと体温に、一瞬寂しさが立ち込めた。
しかし、間もなく眉間への違和感に霧散する。しれっと構えられた人差し指は、無慈悲に俺の額を弾き飛ばした。バチンッと頭蓋骨に音が響く。一拍遅れて、額の一点がじんじんと痺れ始めた。
「イっ」
「たくねえだろ」
「はは、うん。全然」
「ほんとお前の頭どうなってんだよ。この石頭」
なんたって、鉄パイプにもコンクリートブロックにも耐えた頭だ。指で弾かれた程度、どうということはない。それどころか、ドラケンとじゃれ合うのが楽しくて、与えられた痺れさえも嬉しく思えた。いくらなんでも、それはマゾが過ぎる。
額を軽く擦ってから、改めて男を見やった。
夜の色は、なくもない。だが、日曜深夜の、遊び相手を探している時の目付きはしていなかった。あの夜に、俺を「好き」と言ってくれた甘さは欠片もない。まったく、なかった。
「……、」
最早、あの夜の出来事は、夢だったのではないだろうか。思えば、あの日、どうやって家に帰ったのかよく覚えていない。気付くと玄関の前に立っていた。自分が思っていたよりも酩酊していた可能性、ある気がする。
もう一度、額を擦ってから、その右手をこっそり伸ばした。ちょん、試しにドラケンの袖を引っ張ってみる。上目遣いを向けると、涼やかな視線が返って来た。口の片方だけを僅かばかりに持ち上げて、首を傾げて見せる。なに、唇は動いていないのに、そう尋ねられた気がした。
「ドラケンってさ」
「おう」
「前、」
「うん」
「……俺のこと、好きって、言った?」
しばらく見つめていると、傾いていたドラケンの首が静かに縦に戻った。んん、掠れた低音が耳に届く。切れ長の目は、ふいと横に流れ、存外厚みのある唇がむにゃりと波打つ。
ねえ、言った、言わない、どっち。促すように、ちょん、袖の先を引いた。
と、抓んでいた袖がふわりと浮く。あ、と思うと同時に、こっちの指先が零れ落ちた。ぽとり、宙に手首が投げ出されるのを追いかければ、視界に男の片手が入り込む。
硬くなった皮膚の表面が、さり、俺の頬を撫でた。
「言ったよ。好きだって」
「そ、お」
「安心しろよ、今も好きだから」
「……でも、抱いてはくれないんだ」
「まあね。それはそれ、これはこれ」
「好きならセックスくらいしたくなるもんじゃない?」
「んん、なるかもね」
「……なんないの」
「お前とはしないよ」
指の腹が、肌の表面に擦れる。産毛を逆立てるみたいに下から上へと指が動いた。
一秒に満たない接触だというのに、背筋には痺れが駆ける。か細く息を吸えば、夜の甘い香りがじゅわりと染み入ってきた。
抱きしめて、もらえないかな。
細やかな欲望に任せて目を伏せるが、男の体温がそれ以上迫ってくることはなかった。
呼吸を整えて、睫毛を持ち上げる。丁度、男はふいと顔を上げたところだった。指先も遠ざかり、靴底がコンクリートを叩く。行きたい店がある、と言っていた。酒に強い奴と行きたい。その誘い文句に、下心が混じっているのではないか。期待していたのだが、外れてしまったらしい。
「あーあ……」
今日は本当に、飲みに行くだけ。ダチ同士の気楽なサシ飲み。ついさっきまで浮かれていたのに、ため息を吐いてしまった。嬉しいは、嬉しい。でも、それはそれとして思うところはある。このまま自分は、あいつと一線を越えられないのかもしれない。折角お互い、好き同士なのに。ままならないもんだ、本当に。
くるくると考えている間にもドラケンは遠ざかっていく。もう一度息を吐いてから、背中を追いかけた。
追いかけようと、した。
「あ、」
すん、鼻孔に懐かしい香りが掠める。急ぎかけた足が、ぴたりと止まった。咄嗟に振り返ると、すれ違ったばかりの女性と目があう。向こうもまた、こちらを振り返ったところらしい。
風に煽られて、黒髪が踊っている。鬱陶しそうに髪を押さえる姿には、見覚えがあった。
「……髪、切ったんだ」
久しぶり、と言うより先に、口から漏れる。あ、と思ったものの、杞憂に終わった。目が合った彼女は、相変わらずの涼やかな顔でにんまりと笑う。
「そうだっけ?」
「前は背中の真ん中くらいまであった」
「ああ、確かに。でも、一回ショートにもしたんだよ」
「マジ? 知らなかった」
「仕事でも会わなくなったしね」
「あ、それちょっと気になってた。もしかして、辞めた?」
何不自由なく、言葉が出てくる。それは彼女も同じようで、気まずさは欠片も見せなかった。実際、後ろめたさはないのだろう。
なんせ俺と彼女は、―― 円満離婚をしたのだから。
「部署は変わったね。あと育休取ってんの、今」
「育休! 今いくつ、子供」
「もうすぐ八か月」
「じゃあ、……座ってられるようになった頃だ」
「あんたほんと子供の発育解像度高いよね」
「知ってんだろ、歳の離れた妹いるって」
「まあね。もうなんでもかんでも口に入れて大変よ。上はそうでもなかったのになあ」
「……上?」
咄嗟に聞き返してしまった。その間にも、ドラケンは遠ざかっていくというのに。ああいや、気付いたな、肩越しにこちらを振り返ってくれる。ゴメン、ちょっと待って。声を張る気にはなれなくて、手の動作だけで簡単に謝っておいた。俺の意は、汲んでくれたらしい。少し離れた先で、ぴたり、立ち止まってくれる。
「……良い男じゃん」
「おい、また不貞する気かよ」
ぽんと放たれた言葉に、キッと彼女を睨みつけた。冗談と肩を竦めるが、疑わしい。なんせ彼女には前科がある。……俺と彼女の、ドライな結婚生活を思うと致し方ないところもあったか。
髪を耳にかける左手には、確かにリングがついていた。細やかな装飾の施されたそれは、当然自分の記憶にはない。曇り一つないあたり、大事にしているのだろう。若気の至りで付き合ったのとは、決定的に違う。あの仕事一筋たる彼女が子供を産んだのだ、きっと、そう。
そうか、彼女も、母になったのか。
「―― まま!」
「へ」
思い耽りかけたところで、ド、足に衝撃が走った。片足の、膝のあたりから下にしっとりした熱が絡む。慌てて下を向くと、垂れ気味の丸い瞳と目が合った。
「まま、」
「ふ、あんた間違えられてんじゃん」
「え、なに、どこの子」
「うちの長女。ほらおいで」
「まま……?」
困惑する俺を余所に、彼女は痩身を屈ませる。伸びた腕は、記憶のそれより逞しく見えた。俺と同じくらい困惑でいっぱいの幼子は、よたよたと彼女の腕に吸い込まれていく。紅葉みたいな手で、ぎゅう、母親にしがみついた。
「……いく、つ? おっきいね、結構」
「いくつだって。ほら、何歳ですか、って」
「ぅ、ム」
小さな手が、鈍く動く。短い指が、一本、二本と立った。二歳、まさか。この身長なら、三、四歳だろう。……四歳、だとしたら、おかしくないか、いろいろ。
つられて幼児の前にしゃがみ込みつつ、頭の中では兎角狼狽していた。
そのうちに、ぴしり、三本の指が立てられる。三を描いた手を、子供は胡乱げにこちらへ突き出して見せた。隣にいる彼女は、三歳を主張する我が子を愛おしそうに撫でている。向ける目だって、見たことがないくらいに、柔らかかった。
「なんか」
「んー」
「ちゃんと、家族、してんだね」
「何言ってんの? するでしょ、家族なんだもん」
「そっか。そっかあ……」
うっかり、手が幼子に伸びかけた。いや待て、ダメだろ。母親とは知り合いでも、この子にとっては見知らぬ男。頭に辿り着く前に、きゅと拳を作ってひっこめた。
のろりと腰を持ち上げると、そのタイミングでベビーカーを押す男が近付いてくる。これが噂の八か月。目線だけ向けてから、彼女の現夫に元同僚を装って会釈をしておいた。
たかが四年。されど、四年。……突然、一人置いて行かれたような気分になってくる。感傷的になっている場合か、ドラケンを待たせてるってのに。呼吸と表情を取り繕って、踵を返した。
「ごめん、待たせて」
「いーよ。知り合い?」
「うん、まあ、そんなとこ」
あまりこの話をしていると、面の皮が剥げてしまいそう。そっけなく返して、曖昧に笑っておいた。
ふうん。感心のなさそうな相槌に、安堵を覚える。ドラケンは、こういうきらいがある。身内に対しては情に熱いが、他人へはほとんど無関心。女に対しては、殊更そう。おそらく、育った環境がそうさせているのだろう。
俺より高いところにある目は、遠くを向いている。追いかけるように視線を辿れば、随分と小さくなった彼女の背が見えた。
「珍しく、」
「うん?」
「焦ってたけど」
「……そうかな」
「ほんとに、ただの知り合い?」
ようやく、ドラケンの目がこちらを向いた。からかうような色味はない。だが、気遣っているようにも見えなかった。あまりにも、平坦だ。この男の無感情な目、久々に見たかもしれない。いや、語弊がある。さっきだって、彼女の背中をこの目で見ていた。見覚えは、いくらでもある。ただ、自分に向けられたのは、数える程度しかない気がした。
前に、この黒を見たのは、いつだったっけ。記憶の糸に、指を添える。くんっと手繰り寄せてみるが、すぐには見つかりそうになかった。確かに、見たはずなのに。思い出せないのが焦燥感に繋がって、じくじくと心臓が呻きだす。
「三ツ谷、」
低く、呼ばれた。この声は、いけない。従わざるをえない。
口を開けたら、心臓がまろび出てきそうなのに、唇の線は緩んでいった。
「あれは、」
「うん」
「……元、奥さん」
「ふぅん?」
「再婚したのは、知ってて」
「うん」
「でも、子供までいたってのは、考えたことなくて」
「……うん」
「ちょっと、計算しちゃった。俺の子じゃないよな、とか、養育費どうしよう、とか」
開いたそこは、思いのほか流暢に言葉を舌に乗せる。
そうだ、確かに自分は、焦っていた。彼女と不意に顔を合わせる、というだけなら、きっとこんな焦燥感は抱えなかったろう。せめて、八か月、という子供の話をされるところで終わっていれば、あっけらかんとしていられたかもしれない。
三歳。あの子は、そう指を立てていた。俺と彼女は離婚してからおおよそ四年。別居した期間もあるし、そもそも最後に彼女とセックスした時期を思えば、自分の子ではないことは明らか。
それでも正直、もしもの可能性を見出して、心が揺れた。
離婚したことに、後悔はない。なかったはずだ。にもかかわらず、今更になって、たらればの幻影が襲ってくる。あのすれ違いを乗り越えていたら、自分にだって―― 。
「なあ、三ツ谷」
じん、と、鼓膜に熱が伝った。
跳ねるように顔を上げると、予想外に近いところに男の顔がある。鼻先が、ぶつかりそう。息はもう、白く濁りはしない。なのに、ふわりとかかる吐息に、色がついて見えた。
「まだ、俺に抱かれたいって、思う?」
男の黒目が、いつの間にか色づいている。先ほどの平坦さはどこへ行ったのだろう。くつくつ、ぐつぐつ、瞳の奥に、情が滾っていた。艶すら纏った視線は、俺だけを射抜いてくる。
「俺と一緒にいたら、ああいう家族にはなれないよ」
言葉を、上手く受け止められなかった。
突然、劣情を見せつけられたせいで、思考回路がショートしたのかもしれない。意味を理解できないまま、過分に甘さを含んだ声を浴びていた。
「それでもいいなら」
好きって、言われた時より、甘い。好きって、言われた夜より、重い。
無理だったんじゃ、ないの。どこに、そんな激情を隠していたんだ。尋ねようにも、男のムスクに脳みそを犯されて、まるで舌が回らない。
「―― シよっか、今日」
はくん。何を言うでもなく息を食むと、瞬く間に唇を掠め取られた。
気付くと、ホテルのシャワールームに、立ち呆けていた。
ぐるりと見渡したソコは、ありがちなビジネスホテルよりずっと広い。浴槽が空っぽなのもあって、余計に広く見えた。こんなとこ入ったの、何年ぶりだろう。学生ぶりな気がする。結婚している間は、仕事に偏った日々を送っていたし、離婚してから付き合った人もいないことはないけれど、ラブホに足を運ぶことはなかった。
なのに、今、あの男とここにいる。
いや、あいつがいるのはベッドルームだ。なんでも、俺と会う前に汗は流してきたらしい。だから、今頃、キングサイズのベッドの上でだらだらスマホでも弄っているはず。それか、ドラケンの事だ、簡単な筋トレくらい、しているかもしれない。
「……、」
恐る恐る、シャワーコックに手を掛けた。カランとは逆方向に捻ると、すぐに冷水が流れ出す。左手に当てながら待つこと数秒、湯気を立たせる程度に熱くなってきた。
存外、自分の体は冷えていたらしい。お湯の熱が、体に染みる。つま先にはちょっと痛いくらいだった。
足先から腹、胸、肩とシャワーを持ち上げていく。俯いた頭の上からかけてしまえば、辺りは流水の音でいっぱいになった。ざあざあと降り注ぐソレに耳を澄ませて、小さく口で呼吸を続ける。
うっすらと瞼を開くと、貧相な体と、流れ落ちていく湯水が見えた。
「どう、しよ」
考えるまでもない。このバスルームを出たら、俺はあいつに抱かれることになる。ずっと、望んでいたことだ。俺は一体、ドラケンに何回「抱いて」と言ったことだろう。数えるのも馬鹿らしくなるくらい、強請っている。念願が、ついに叶うのだ。これを喜ばずして、どうしろと。
……思えども、思えども。体から緊張は抜けてくれない。温かいお湯を被っているのに、なかなか緩んではくれなかった。処女かよ。ああいや、確かに処女だったワ。自嘲しながら笑ってみたところで、強張りが解ける気配はない。
どうにか気を紛らわせられないだろうか。くったりと垂れた自身に、そっと手を伸ばした。やんわりと触れてみるものの、自慰に耽る気にはなれそうにない。じゃあ、違うところ、触ってみるか? 例えば、後ろの、方、とか。恐る恐る、指先を尻に向けた。割れ目を伝って、一点を探る。試しに、きゅう、押してみた。
「ぅ」
しかし、過るのは違和感だけ。それも嫌悪感に近い質のもの。自然と手を離してしまった。
こんな調子で、本当に俺は、あいつに抱いてもらえるんだろうか。本番は、きっと難しい。扱き合うくらいなら、できるかも。
あんなに「抱いて」とせがんでいたのに、蓋を開くとこうだなんて、考えもしなかった。とびきり深いため息を吐いてから、手早く頭と体を洗った。できることなら、いつまでも湯水を被っていたいが、あいつを待たせている。待ってる、よな。戻ったら誰もいない、なんて状態だったら、いくら俺でも凹んでしまう。
よし。意を決して、シャワーを止めた。曇ったガラス扉に手を掛けて、するりと体を洗面所に戻す。湯気のないそこは、ひんやりとした空気をしていた。濡れた体には、些か寒い。一つ震えてから、バスタオルを引っ掴んだ。何か着ないと。……これから服を脱ぐのに、また着るのか? 洗面所を見渡して、仕方なくバスローブを手に取った。タオル地のそれは、やたらと触り心地が良い。体に残った水滴も、余すことなく吸ってくれた。
「……」
次の扉を潜れば、ドラケンは、すぐそこ。
口の中に、唾液が滲んだ。ごくんと飲み下しても、すぐにとろとろと溢れてくる。
ええい、ままよ。って、こういう時に、使うのかな。バスローブの前をしっかり閉じて、濡れた頭にバスタオルを被せる。そうっと、極力音を立てないように扉を開いた。
顔だけ出しても、ベッドは見えない。使い捨てと思しきスリッパを、つま先に引っかけた。薄っぺらなソレは、一歩二歩と踏みしめたところで足音は立たない。俺が、音を潜めるようにして足を動かしているせいもあるのだろう。
あっという間に、存在感を放つベッドの横に辿り着く。
ドラケンは、その上に寝そべって、瞼を閉じていた。
「……ねた?」
「おきてる」
「あ」
ぽとんと声を掛けると、穏やかにも思えた顔が目を覚ます。特段、瞼は重そうに見えない。切れ長なソコは、じっと、熱を携えたまま俺を見上げてきた。
「……、」
どうも慣れない。この男に、熱っぽい視線を向けられると、胸が騒いだ。足の感覚がぼやけて、立っているのか、膝を折ろうとしているのか、よくわからなくなってくる。
戸惑う俺を余所に、そいつは上体を起こした。大きな手が、やんわりとバスローブの袖を引く。くんっと引っ張られるまま、ベッドに乗り上げてしまった。変に力が入っているくせに、ところどころ弛緩している。自分の体じゃないみたいだ。
あっという間にドラケンの胸の中に落下して、被っていたタオルを丁寧に退けられた。
「乾かさないの?」
「……時間が、」
「急いですることでもないだろ」
囁くように言うと、男の手がタオルを掴み直す。すぐに濡れた頭に被せられ、かき混ぜるように髪を拭われた。タオル越しに、骨ばった指の感触がする。手付きは恐ろしいほどに優しかった。荒っぽさなんて、微塵もない。
この優しさは、これまでの相手にも向けられてきたんだろうか。タオルの端から、ついと視線を持ち上げる。上手く盗み見れたようで、すぐ近くにいるのに目は合わなかった。こっそり鼻から息を吸えば、夜の匂いが香ってくる。
……やっぱり、抱いてもらおう。苦しいくらい、痛いくらい、耐えれば良いんだ。他の連中にできて、自分にできないわけ、ない。
大丈夫、大丈夫。だいじょーぶ。何度も自分に言い聞かせるうちに、上を向かせた瞼は伏せられていった。男の、胡坐をかいている脚が見える。対してこっちは正座。膝の上にある自身の拳は、二つとも小さく握りしめられていた。
だいじょうぶ、なの、かな。
「三ツ谷」
「ぇ、あっ、なに」
不安に揺れた意識が、瞬く間に引き寄せられる。タオルの両側を軽く引かれ、勝手に頭が上を向いた。さっきは合わなかった視線が、今度は、合う。重なる。欲を滲ませた瞳に、捕まった。
帯びた熱が、近付いてくる。自然に傾いた顔が、みるみるうちに迫って来た。逃げようにも、タオルがあるせいで叶わない。あ、ぁ、ア。どうにか唇だけ、真一文字に引き結んだ。
「ん、っふ……」
柔い感触が唇に沈む。カサついた薄皮すら、鮮明に感じられた。リップケアなんて、したことはないのだろう。俺も似たようなもんだ。化粧っけのない唇が、じんわりと擦れる。グロスだリップだ、そういうベタつきがないせいか、肉の柔さばかりに気を取られた。
ドラケン、って、口元もセクシーだよな。あの唇に、今、自分は塞がれているのか。
そう、か。
理解が追い付いたところで、熱がもったりと離れた。
「ねえ、口、開けられそう?」
「ぁっ、ぅん」
「ん、いいこ」
「わ、ァ、ふぅ……」
反射的に答えると、再び唇をかぷりと食まれる。甘噛みに応じるように口を開けば、わずかにできた隙間に吸い付かれた。口の大きさが違うせいだろうか、本当に食べられている気分になってくる。この先を許したら、丸呑みされてしまうのでは。ドラケンだし、ちゃんと、味わってくれる、かなあ。叱咤を打って、奥に隠してしまいたい舌を伸ばした。先っぽが、肉厚なソレに触れる。交わる。絡み、取られ、る。
「あっ」
息継ぎのタイミングで、勝手に声が漏れた。上ずったソレが信じられなくて、目を瞠ってしまう。おかげで、男の唇に乗った艶が見えた。中央から斜めにかけて走ったソレは、舌なめずりで拭われる。
気付くとタオルが落ちていた。ドラケンの右手は俺の頭に、左手は肩に乗る。ぐっと縮まる距離に怯んで、カッ開いていた目をぎゅうと閉じた。視界が濁ると同時に、唇が塞がれる。俺のより、ずっと長い舌も、口内に入り込んできた。
「ぅ、」
ぐるり、唾の溜まった粘膜を舐られる。縮こまっていた舌も奪われて、水音が立ち始めた。室内にBGMは流れていないし、隣室から喘ぎも響いてこない。立ち込める劣情の音は、どれも自分たちのものだった。
ぐ、と。肩を押された。つい、拒むように力ませてしまう。違う、なに抗っているんだ。ここは、流れに従って押し倒されるべきシーン。抱かれるんだろう? 抱かれたかったんだろう? 何を今さら、ビビっているんだ。
強引に、背中をベッドに沈めた。
「んぁ」
頭までシーツに触れると、ぷちゅりと唇が離れる。聞き苦しいくらいに水音が鳴っていたのもあって、つぅと銀糸が伝った。細いそれは、重力に負けて途切れ、ぽとり、俺の下唇に落下する。
荒くなった息を整える余裕はない。胸はあからさまに上下していた。唇なんて、わなわなと震えている。みっともない。色気もない。ただただ、情けない。そう思うのに、覆いかぶさってくる男は、欲を携えたままだった。どころか、いっそう熱を滲ませている。ギラついた視線は、燃えるようだった。
「みつや」
そのくせ、濡れた唇からは愛おしさを過分に含んだ吐息が漏れる。
―― こいつ、本当に俺のこと、好きなんだ。
今頃になって、突きつけられた現実を痛感する。でなきゃ、こんな激情を孕んだ目、するものか。愛おしさを通り越して、その強すぎる感情は憎悪にすら見えてくる。こんな苛烈な感情、どこに隠していたんだろう。くすぐったいような甘さをほのめかされたことはあったが、その奥にこれほど鮮烈な情が待ち構えていたなんて。
ぎくり、強張る。体が、力む。足の先は丸まって、足の関節は変に固まった。手指の先は冷えていき、奥歯が鳴りかける。カチ、ぶつかった瞬間、強く噛み締めた。
男の手が、ローブに伸びる。ああ、そうだ、今は、これ一枚しか纏っていないんだった。しっかりと前を合わせたところで、所詮バスローブ。寛げることなど、容易い。重なった襟元に、指先が触れた。手首を返す、たったそれだけで、胸元ははだけてしまう。腰で留めていた紐は、もはや意味をなさない。平らな胸が、曝け出された。呼吸する度、上下するそこが、否が応にも目に入る。
骨ばった指が、中央を掠めた。
「ッ!」
悲鳴が上がる。肌が粟立つ。目尻からは、熱が伝い落ちて来た。
この男はドラケンだ。龍宮寺堅だ。見知った男で、俺が一番慕った男でもある。だというのに、―― 悍ましい生き物に、見えてしまった。
「……」
やがて奥歯が鳴り始める。もう、頑なに噛みしめてはいられなかった。カチカチという震えは、瞬く間に全身に伝播していく。怖い。恐ろしい。懇意にしていた取引先に切られたときだって、一度は愛した人の浮気を目の当たりにしたときだって、……喧嘩に明け暮れていた時だって、これほどの恐怖を浴びたことはなかった。
おかしいだろ、抱かれたいって、思ってたのに。今はこんなにも、抱かれるのが、嫌だ。
「ふ、」
吐息が、聞こえる。狼狽えながら視線だけを動かせば、平坦な顔をした男がそこにいた。
「三ツ谷」
「ッス」
「今日は」
欲の名残はそこにある。それでも燦然と滾っていた情は、覆い隠されていた。まるで、幕を下ろしたかのよう。切り替えの早さに、上手さに、拍手をしたくなってくる。すげえな、ドラケン。昔は感情的になることもあったじゃん。怒りに任せて、声を荒げることだって、少なくなかった。でも、今は違う。瞬き一つで、激情すらも、隠せてしまう。
随分と大人になったもんだ。今年でもう二十八、そりゃあ大人にも、なるか。
「―― やめよっか」
穏やかに放たれた言葉に、心底、安堵した。
いや、それは、ないだろ。安心してんじゃねえ、抱かれるって決めたじゃん。他の有象無象ができて、自分にできないわけがないって、勇んだばかりだろう?
淡々と上から退けると、ドラケンは寛げたバスローブを合わせ直してくれる。その手付きに下心はない。無感情にも、見えた。
「でも」
「怖いんだろ」
「ンな、こと」
「ないって? よく言う」
のろりと体を起こせば、ドラケンはベッドの縁にいってしまう。袖を引こうと腕を伸ばしてみるものの、震えのあまり届かなかった。ぼったりと、冷えた指先が薄い掛布団の上に落ちる。真っ白くなった指先を見下ろしていると、徐々に視界が滲み始めた。
「泣かせたく、ないし」
「ぁ」
「ごめんな、怖かったろ。もうしないから」
「そんなッ」
お前が謝る必要は、ない。むしろ、それをすべきはこっちの方。
跳ねるように顔を上げると、目尻から雫が伝っていった。止めようにも、熱は次々押し寄せてくる。涙腺って、どうコントロールすればいいんだ。滅多に泣かないから、制御の仕方がわからない。拭っても、擦っても、涙は溢れてくる一方。いいよ、大丈夫、気にすんな。優しい声を掛けられるほど、悔しいことに泣けてきた。
やがて、男の指先が目尻を撫でる。荒れた皮膚が擦れたって、もう怖いとは思わない。むしろ、身を委ねたくなるくらい。けれど、見せつけられた劣情が過ってしまう。もう、手放しには縋れない。縋れなく、なってしまった。
「ごめん」
「ほんとに良いんだって。わかってたから」
「わかって、た……?」
「何度も言ったろ、無理だって」
ひりひりと痛む目元に意識をとられながら、視線だけを擡げた。俺をあやす手も、顔も、優しいし、甘い。
それでいて、一抹の苦しさが透けていた。
「三ツ谷にはさ。できないだろ、―― 俺とセックスなんて」
無理、って、そういうことかよ。俺より俺のこと、よくわかってるじゃん。一緒に馬鹿やらなくなって、何年も経ってるっていうのに。ドラケンのこと、俺はさっぱり、わからなくなっちゃったのに。
厚みのある唇が、穏やかに歪む。下向きの弧を描いたあと、俺を気遣うように首を傾げて見せた。解かれたままの髪が、とろりと垂れる。その黒髪の向こうには、いつかと同じ、曖昧な笑みが浮かんでいた。
「今日はもう、帰ろっか」
自分には、頷くことしか、できなかった。