四
男と付き合っている。
というのは、当人曰く嘘らしい。しかし、男と連れ立って歩いているところを、二回、見ている。それも、腰を抱いてホテルに入っていくのだって、見た。
本当に、付き合っている相手じゃないのだろうか。そういえば、最初に見た時は、初めて声を掛けた風だった。二回目に見かけたのはそれから三か月後。……付き合っているというのなら、その三か月の間に、別れて、新たに付き合い始めたということになる。ドラケンは、そんなに相手をとっかえひっかえするような奴だったっけ。まさか、二股? いや、ドラケンだぞ、そんな不誠実なことするもんか。
じゃあ、あの二人はなんなんだろう。残る可能性は、その日限りのワンナイト。火遊びで、引っかけた相手。
「んん」
それも、なんだかしっくりこない。
わからないことだらけだ。頭には、どうして・なんでという疑問符ばかりが浮かんで、最終的には謎の悔しさまで込み上げてくる。
もしあいつの相手が女だったら、これほどのショックは抱えずに済んだのかな。でも、三か月で違う女を引っかけているドラケン、というのは、やっぱり違和感。
あれこれ思い悩んだところで、あいつが俺の知らない男と連れ立って歩いていた現実は変わらない。
男、か。男となると、思うところがある。
「……」
男、って、枠ならさ。東卍が一番みたいなとこ、あったろ、あいつ。なのに、どこの馬の骨ともわからない奴の方を選ぶって、なに。なんで。どうして。
あの日はただただショックだった。しかし、日を経るうちに、癪に思い始めている自分もいる。我ながら、心が狭い。おかしいな、自分はもっと、寛容な性格をしていると思っていたのに。
それだけ、俺にとって、龍宮寺堅という男は、大きい存在だったのかもしれない。
「……ゃ、」
気付くとため息を吐いていた。目線は下がり、握っている資料の紙束が歪む。なんとなく紙面を眺めてみたが、文字情報はすんなりと頭に入ってこなかった。慣れないパソコン作業の疲れが出ているのだろうか。でも、流石に人に渡すとなったら、手書きはまずい。それくらいの分別はある。
「……ぃ、……つや、」
何度か瞬きをして、どうにかピントを合わせた。字の大きさは全て同じ、ほとんど箇条書きで作られたそれは、とてもじゃないがデザイナーが作った資料とは思い難い。昨日は「よくできた」と思ったのだけれど、今朝方印刷してみたらあまりにも不格好だった。
「ッ三ツ谷!」
「ぅおッ」
はあ。もう一度ため息を吐こうとしたところで、キンッと耳を劈かれる。肩を揺らしながら、ばちんと右耳を押さえた。ついでに首を向ければ、仁王立ちしたスタッフ―― もとい柚葉が視界に飛び込んでくる。
「何ぼーっとしてんだ。次、どれとどれ?」
「ぇ、あぁウン。ごめん、えっと、こっち」
慌ててそばにあるラックから、二着まとめて空いている方のラックに移す。すぐにツンと跳ねた目尻が、布地を上から下まで確かめた。くるんと踵を返した柚葉は、靴の音を響かせることなくラックを移動させていく。合わせて、張りのある指示声がスタジオに響いた。ちゃきちゃき動く背筋はピンと真っ直ぐに伸びていて、カメラを向けられている弟よりも存在感を放っている。
「あー……」
ポートフォリオを作りたい。思い立って、柴姉弟に声を掛けた。そうしたのは自分だ。学生の頃から手伝ってもらっているのもあって、二人を頼るのがいちばんスムーズ。
そのはずなのに、柚葉の手を、煩わせてしまった。いつもはこんなことない。言われる前に、衣装は入れ替えるし、必要であれば都度調整もする。……たったそれだけのことが、今日は、上手くできない。気付くと、意識が明後日に向いてしまう。
「はぁ、」
集中しないと。思ったそばから、ため息が零れ落ちる。本当にダメだな、今日は。
鬱屈を抱えながら、下手くそな資料に目を向けた。ええと、今渡した分で丁度半分。間に一回、休憩を入れると聞いている。おそらく、この辺りで一息つくはず。
念のため、近くにいるスタッフに声を掛けてから、そっとスタジオを抜け出した。
「ぅあー、もう、あぁあ」
周りに誰もいなくなった途端、口からはどばどばと呻き声が溢れていく。今すぐしゃがみ込んでしまいたいが、流石に出入り口の真ん前はまずい。よろり、自動販売機のある一角に向かって、足を動かした。
私生活に何があっても、仕事には持ち込まない。結婚した時も、彼女が倒れた時も、彼女の浮気を知った時も、離婚をした時も、ちゃんと貫けた。ドライ通り越して、冷徹だね。同僚に揶揄されたことだって、幾度となくある。
「……さいあくだ」
にもかかわらず、ここしばらくの自分は、公私混同甚だしかった。
ちょっとでも集中が途切れると、あの男の事を考えてしまう。ドラケンは、今日、誰と夜を過ごしているのか。口を出せる立場にないのに、気になって気になって仕方がない。
「どぉしよ、ほんと」
情けない声が引っ切り無しに零れる。独り言だって、こんなにする性分じゃなかった。もう自分が自分じゃないみたいだ。
下唇を小さく噛んで、突き当たりを曲がった。すぐに白く光る自販機が見えてくる。休憩スペースを兼ねており、ゴミ箱の向こうには長椅子もある。コーヒーでも飲んで、頭を切り替えよう。
ポケットを漁り、五百円玉を取り出した。そうか、この時期はホットもあるのか。冷たいものの方が頭は冴えそう。でも、変な緊張で指先は冷え切っている。だったら、ホットでも良いだろうか。伸ばした指先が、どちらにしようか、宙を彷徨った。
んん、ん。ホット、の、コーヒー。微糖に決めた。緩慢に指先が下段へと移動していく。
間もなく、ピッ、機械音が響いた。続けて、ガコンと缶が落ちる音がする。……自分の指先は、まだコーヒーのボタンに辿り着いていない。代わりに、後ろから伸びた細い指先が、ミルクティを選んでいた。
「あれ」
「たらたらしてんじゃねーよ。何飲むの」
「えと。ふぁいあの、」
言い切る前に、その指先はおつり返却用のレバーに引っかかる。びとう。か細く付け足すと、彼女は俺が言ったボタンを押す。電子音と共にボタンが光り、すぐにスマホが自販機にかざされた。え、と思っているうちに、もう一本が落ちてくる音が聞こえてくる。
「ん」
「あ、はい」
痩身が一旦屈み、下から二つの缶を取り出した。差し出されるままに小ぶりな方を受け取ると、指先にじんっと熱が沁みる。
「……すげー現代的」
「何言ってんの、今時普通でしょ」
「俺は小銭で買おうとした……」
「あ、釣銭忘れんなよ」
「ぉ、あぁ、ゥン……」
もたもたと足を踏み出しかけて、ハッと釣銭口に目を向ける。ずぼりと手を捻じ込んで、落ちてきていた数枚を掴んだ。握りしめたままでいるわけにもいかず、とりあえずパンツのポケットに詰めておく。入れたのを忘れて、洗濯機に放り込まないようにしないと。
小さく息を吐きつつ、廊下に置かれた硬い長椅子に腰を下ろした。一応端に座ったのだが、柚葉が隣に掛けることはない。向かいの壁に背中を預けて、カシュッと缶のプルタブを開けていた。
「あんたさあ、具合でも悪いの」
「エ。いや、フツーだけど」
「あれだけため息吐いておいて? もう八戒の気、散りっぱなしなんだけど」
「そう? 集中してたろ、結構」
「カメラ向けられたらね。着替える度に煩いのなんの」
タカちゃんタカちゃん、普段から煩いけど今日はいつもの五割増し。ミルクティーの缶を煽りながら、淡々と柚葉は吐き捨てる。
今日の八戒は、そんなに騒いでいただろうか。コーヒーを口に含みつつ記憶を遡ってみるものの、どうも朧気だ。着替えだって、いちいち更衣室に籠もるわけじゃない。スタジオの隅でポイポイと服を取り替えている。五割増しで騒いだのなら、意識に留まったっておかしくはない。……なのに、自分は覚えていなかった。
フラッシュが瞬いていたのは、流石にわかる。でも、それ以外の些細なこと、すべてに靄がかかっていた。自覚している以上に、今日の自分はダメらしい。
「珍しいじゃん、離婚してもケロッとしてたアンタが」
「あれは円満離婚でっ、……思い悩むようなモンじゃなかったんだって」
「浮気されといて何が円満だよ」
「う」
放たれた言葉が胸に刺さる。
浮気、された。確かに、そう。俺は、元配偶者の彼女に、浮気をされた。といっても、修羅場に鉢合わせたわけじゃない。見知らぬ男と、腕を組んで歩いているのを見かけただけ。世間じゃそれを浮気と呼ぶようで、証人を頼みがてら、ちらっと大寿に言ったら大事になりかけた。あれよあれよと柚葉や八戒にも知られ、弁護士だ調停だ裁判だ、俺の理解の届かない世界の話を凄まじい熱量で浴びせられたっけ。
まあ、向こうはその浮気相手と再婚したのだから、俺も貰うモン貰っておいても良かったのかもしれない。……つってもなあ、当時は本当に頭になかったんだ。一刻も早く彼女と離婚したい。その一心。結婚生活に冷めていたのもあって、メンタルへのダメージは一切なかった。
「……浮気ってさぁ、そんな凹むこと?」
「マナちゃんまだ高校生だろ、道徳の教科書貸して貰えば」
「教科書で浮気のイロハがわかるかよ」
「倫理観学び直すには充分でしょ」
「いやいやいや、俺にだってモラルくらいあっから!」
どうにか言い返すものの、柚葉は俺をまじまじと見てから鼻で笑う。よく言う、なんて副音声も聞こえてきた。
今はちゃんとモラルを持って生きてるって。もう族やってた頃とは違うんだ。弁明しようかと思ったが、浮気を淡々と受け止めた前科を引き合いに出されるのは目に見えている。言っておくけど、すること自体は間違ってると思うからな。されたところで、然程ショックを受けなかったってだけで!
ム、と尖らせた口で、缶コーヒーの縁を噛んだ。微糖という割に甘ったるい香りが舌を掠める。小さく舐めながら正面を睨むと、相変わらず柚葉は涼し気な顔をしていた。
こんな顔をしているが、たぶん、俺のことを心配してくれているのだろう。でなきゃ、わざわざ絡んでこない。浮気されても平然としていた男が、あからさまに消沈しているのだ、そりゃあ気にもなるか。
「柚葉」
「あー?」
「さんきゅ」
「お礼とかいいから。早くそのテンションどうにかして」
「ウッス」
「……鬱憤溜まってるなら、聞くだけ聞いてやってもいいし」
「え、マジ?」
「手短に言えよ」
長話をするなら、仕事の後。しかし、そうなるとどうやったって八戒もついてくる。俺の悩みの種はドラケンのことで、八戒の耳に入るのは、避けたかった。知りたくないだろ、今も慕っている先輩が、男をとっかえひっかえしてる疑惑があるなんて。
手短に、手短に。でも、下世話にならないように、個人が特定されないように。調子の悪い脳みそから、差し障りのない言葉を拾い上げる。……うーん、この言葉じゃ、長くなる。もっと端的に。いや、端的にし過ぎた、これじゃあ、あからさまだ。ベタつくコーヒーを啜りながら、必死に頭を働かせる。
ふと、柚葉が身じろぎをする気配がした。やばい、早く、早く言わないと、聞いてすら貰えなくなってしまう。
焦りに後押しされて、とりあえず口だけ開いた。
「男が、」
「は」
「男を、とっかえ、ひっかえするって、」
「……」
「どういう心境だと、思う?」
「よく女のあたしにソレ聞こうと思ったな」
「ごめん……」
口から飛び出したのは、身も蓋もない問い。呆れた顔をする柚葉に、言い返す言葉もない。全く以てその通りです。かくんと項垂れると、小さく息を吐くのが聞こえた。
そもそも、柚葉は鬱憤を聞いてくれると言ったのだ。こんな押し問答に付き合わせるべきじゃない。とはいえ、俺が愚図る羽目になった鬱憤は、この問いの答えに辿り着けないが故に、膨らんでいるものだ。頼む、誰か答えを教えてくれ。当人に聞くしか正解はわからないというのに、どうも神頼みを繰り返してしまう。
「三ツ谷ってさあ」
「はい」
これから浴びせられるのは、どんな感想だろう。大寿と違って、俺に対して柚葉が説教臭くなることはない。言ったところで暖簾に腕推し、糠に釘。あんたってほんとばかね。イイ女の常套句みたいなフレーズが脳裏を掠める。まあ、柚葉はそんなまろい言い方はしてくれないだろうけれど。
缶から口を離しつつ、ちらり、目線だけ持ち上げた。
「ほんと、龍宮寺の事になると、ポンコツだよな」
「え」
手が、震える。指先から、缶が滑った。慌てて左手を向かわせつつ、きゅっと開いた膝を閉じる。傾いて雫は跳ねたが、どうにか床に落ちずに済んだ。左手の中で、缶の中身がたぽたぽと揺れている。
ドクドクと駆ける心臓は、コーヒーを落としかけたせい? そうだったら、良かったのに。
ごくんと唾を飲み込んでから、恐る恐る顔を持ち上げた。
「な、んで、どらけんが、出てくるんだよ」
「は、噂聞いたんじゃないの?」
「うわ、さ……?」
ぽかんと口を開けたまま、半ば縋るように柚葉を見上げる。視線の先では、形の良い細眉が胡乱に潜められた。薄く色づいた唇は、一度ヘの字を描く。むにゃり、閉じたそこが、わずかに波打った。言おうか、言うまいか。迷っているのだろう。
嫌な予感がする。けれど、聞かなかったら後悔する気もする。なおも縋る目をしていれば、観念したように柚葉は口を開いた。
「毎週日曜、―― 頭に龍の刺青入れた男が、その日の遊び相手を探してる」
「ッ、」
「渋谷界隈じゃ、結構有名な話だよ」
「き、ぃたこと、ない」
「……あたしが聞いた話じゃ、相手は、男だったり、たまに女だったり」
「ぁえ」
「どっちにしろ、……めちゃくちゃイイんだって」
頭は困惑に染まっていく。その割に、彼女の言葉はしっかりと耳に届いた。
人伝に聞かされる、あの男の夜の姿。否応なく、自分が見た光景と重なっていった。見かけたのは、確かにどちらも日曜日。似た体型ではあるけれど、一度目も、二度目も、隣にいるのは男だった。腰を抱く流れは様になっていたし、手慣れていたように思う。
噂になるほど、あいつは男を抱いたのだろうか。
ホットの缶を掴んでいるのに、指先の冷たさが増していく。
「……ごめん、言わない方、良かった?」
「いや、いい、大丈夫」
「大丈夫って顔して言えよ」
「あれ。大丈夫って顔、してるっしょ、今」
口元に、笑みを浮かべてみる。手足は冷える一方だが、表情は取り繕えているはずだ。なんせ俺の表情筋は優秀なので。
しかし、顔を顰められる。その頬には、してねーよと書いてあった。じゃあ、どんな顔をしているんだろう。のろりと右手で顔の下半分を包んだ。冷えた指先を、頬に沈めてみる。……笑えていると、思うんだけどな。柚葉の目には、作り物に見えたのだろうか。長い付き合いなだけある、無理に誂えたと見抜かれたのかもしれない。
手で覆ったまま、はあ、息を吐いた。
「ちなみに、柚葉には、どう見えてる、俺の、この顔」
努めて冷静に、言葉を取り出した。気を張っていないと震えてしまいそうで、単語ごとに途切れてしまう。
「―― 失恋したって、顔に見える」
告げられた言葉に、頬が、ぴくり、震えた。皮きりに、強張らせていた顔がぐにゃりと歪む。ひゅっと息を呑んでから、歪んだ頬を押さえ込んだ。
そんな、馬鹿な、嘘だろう?
言い聞かせたところで、柚葉の言葉は図星として胸に入り込む。
「おれ、……ドラケンのこと、好きだったのかな」
「少なくとも、あの女よりは好きそうな顔してるよ、今」
はは、それは、そうかも。
気付くと、自嘲した乾いた笑い声が零れていった。
ドラケンの事が、好き。
自覚してしまうと、じっとしてなどいられなかった。
日曜日の、二十三時。以前、あの男を見かけたのは、確かこれくらいの時間帯。ごくりと唾を飲み下してから、歓楽街に踏み込んだ。
我ながら、この行動力はどこからやってくるのだろう。結婚した時も、離婚した時もそうだった。思えば、喧嘩に明け暮れていた時だって、衝動に任せて生きていたっけ。周りの連中の方が俺よりずっと頭に血が上りやすかったから、比較して冷静には見えていたらしいけれど。
カッとなって動くことは、別に悪いことじゃない。やらない後悔よりも、やった後悔の方が、個人的にはさっぱりしていると思うから。だから、今晩こうして、あいつを探しているのだって、悪いことじゃ、ない。
自分に言い聞かせて、ネオンの光る街を、よろよろと歩いた。
「つって、簡単に見つかるわけないよなあ」
この間、ドラケンを見かけたところ。その前に、あいつが歩いていたところ。彷徨ってみるが、探している男は見つからない。今日はいないのだろうか。しかし、柚葉の話の通りなら、毎週日曜日にいるはず。……あの噂が、出鱈目だったのだろうか。それか、もう今晩は相手を見つけてしまったのか。
「……」
足が、止まった。
もう、相手を見つけている。だから、あいつはこの辺りにいない。一番、しっくりくる答えだ。
けれど、胸の内にはまるでしっくり収まらない。
「ぅ、」
本当に、俺は、ドラケンのことが好きらしい。
どこの馬の骨ともわからない奴と、あいつが共寝していると思うと、むしゃくしゃして仕方がない。道理で、これまでの二回も、心に引っかかり続けていたわけだ。俺は、ドラケンが、好き。そういう感情があったのなら、納得もいく。
腹立たしくはあるが、今日は諦めるのが妥当なんだろう。会えないんだから、仕方がない。相手にしてもらう以前の問題だ。見つけて、声を掛けて、相手にしてもらうのは、また今度。
よし、今日は、帰ろう。でも、もうちょっと探そうかな。いや、ダメだ、帰ろう。
決意を新たに、踵を返した。
「……、ッ?」
しかし、浮かべたばかりの決心は、誓ったそばから粉々に砕かれる。
「ぁ」
ひっそりと、その黒髪が揺れていた。
華美でも派手でもない、綺麗なラインのコートを纏って、その男が立っている。今日は最初から眼鏡を掛けて来た、おかげで切れ長の目が手元の電子端末に向いているのもわかる。
どう、しよう。いる。ドラケンが、確かにそこに、いる。向こうは俺に気付いてはいない。引き返すなら、今だ。帰ろうって、思っていたところだし、見なかったことにして通り過ぎてしまえばいい。
わかっていても、そいつから目を離すことはできなかった。
「……ぅン」
細く息を吐き出した。
話しかけるなら、今しかない。結局勢いに任せて、靴底を地面から浮かせた。かつ、こつ。コンクリートを叩く音がする。その度に、男との距離が狭まっていく。十メートル程あったのが、数メートルに、三メートルに。そして、腕を伸ばせば、届く距離に。
かつん。正面と言って差し支えないところで、足を止めた。
「こんばんは」
放った声は、震えていなかっただろうか。掠れて、いなかったろうか。緊張しているせいで、振り返る余裕もない。
加えて、男が首を擡げたがために、いっそう頭は真っ白く染まった。
解かれた黒髪の毛先、それから両サイドに分けて垂れている前髪がしゃなりと揺れる。顔を上げたおかげで、くっきりと浮き出た喉仏がよく見えた。身じろぎするのに合わせて、嗅ぎ慣れない香水の匂いが漂う。いっそ恨めしいほどに、様になる匂いだ。ムスクの甘さがじゅわりと体に染み入ってくる。何もしなくても色気があるというのに、香りの相乗効果でいっそう良い男に見えてきた。
こんなのずるいよ。これほどまでに良い男が相手を探しているというのなら、誰だってこいつを探すに決まってる。
切れ長の目は、やがて、俺を捉えた。黒目の奥には、確かに、熱が、燻ぶっている。
くら、り。頭が揺れた。
「み、つや?」
「珍しいね、髪下ろしてんの」
用意していた言葉を、その通りに投げかける。
切れ長の目が、わずかに見開かれた。でも、まだギラついた欲は蜷局を巻いている。いけるかな、どうだろう。一応、前に見かけた二人を真似して、綺麗目な格好をしてきた。悪くない見目にはなっているはずだ。なんなら、駅前で礼儀のなっていない男に絡まれたくらい。ワンパンで沈めてきたことは、こいつには内緒。
むにゃりと唇を波打たせながら、男の言葉を待った。
「……お前、こんなトコでなにしてんだよ」
「ドラケンこそ」
俺はまだ、飲んだ帰りの通りすがりと言い訳もできる。だが、お前はそうじゃないだろう。わざわざ髪を解いて、うろつくわけでもなく、壁に背を預けている。まるで誰かを待っているみたいだ。……近頃流行りの、出会い系アプリで相手を探していたとしたら、どうしよう。俺、絶対邪魔だよね。いや、そんなこと、考えている場合か。
俺は今日、確かめにきたんだ。お前が一体、日曜の夜に、何をしているのか。
あわよくば、―― 自覚したばかりのこの恋情を、慰めて貰えないかとここまで来たんだ。
熱の残る瞳を、じぃと見つめ返した。見開かれていた瞼が、一度、二度と瞬きをする。三度目のソレを見届けると、目の開きは見慣れたものになった。いや、それよりも、細められているだろうか。眉頭は、それとなく寄せられている。
「……誰に聞いた」
「っ」
発せられた声は、身構えていた以上に低い。ぞ、背筋が粟立った。とはいえ、萎縮するほどじゃない。元暴走族を舐めんなよ。その程度の凄みで、ビビるもんか。負けじと、眦を吊り上げた。
「誰ってわけじゃないけど」
「ふうん。で、なに。説教でもしようって?」
「は?」
はあ、これ見よがしなため息を吐かれる。俺を見下ろしていた首は、ぐるりと解すように回された。右に一回、左に一回、そうしてこちらに戻って来た視線に、……もう熱はない。咄嗟に瞬きをしてみるものの、やはりドラケンの瞳に欲は見当たらなかった。
呆気に取られているうちに、両手が髪に伸びる。手首にはヘアゴムが引っかかっていた。しなやかに揺れていた黒髪は、あっという間に纏められ、見覚えのある束を作った。目の前にいるのは、俺の知る、龍宮寺堅。その姿と同じになってしまう。
そんな。すんと鼻を鳴らすと、唯一夜を思わせる匂いが香った。
「むすんじゃうの」
「オマエの顔見たら、そういう気分じゃなくなった」
「え」
「今日はもういーワ。テキトーに飲んで帰る」
「あッ、ちょっと」
もたれていた背が、壁から離れる。ひらりと手を振りながら、そいつはあっさり俺に背を向けた。つま先は、比較的飲み屋の多い方へ向かい出す。
待ってくれ、もっと、なんかあるだろ。ないの。いや、あるだろ。揺れる黒髪を見送りかけて、慌ててその背を追いかけた。袖を引こうと、腕を伸ばす。指先が、上質な生地を掠めた。けれど、逃げられる。もう一度、と手を伸ばしても、またひょいと躱された。なんだよ、見知らぬ男の腰には、平然と回していたくせに!
むしゃくしゃしてきた。地団太したい気持ちを露わにすると、勝手に足音は大きくなる。勢いも乗せて、今度は両腕を男の背中に伸ばした。
ぎゅ、と、皺ができるの承知で、コートの背を握りしめる。
「~~ッドラケン!」
「なに」
やっと、そいつは立ち止まった。肩越しに振り返った顔つきは、優しいとは言い難い。他人を、相手にしているみたいだ。この顔を、俺が向けられる日が来ようとは。それだけ、この時間に俺に構われるのは、嫌なんだろうか。そう思うと、きゅぅと胸が苦しくなる。
あ、俺、マジでコイツのこと好きだワ。嫌われるのが辛いって、苦しいって、そういう、ことだろ。
「……ったく」
と、男の纏っていた空気が緩む。不愛想な表情が、ほんのりと柔らかくなった。かといって、馴染みのある表情にしては、甘さが強い。これは、そうだ、あの夜に見かけた顔だ。綺麗な顔立ちの男の腰を抱いた、その瞬間の、顔。
「お前、もしかしてさあ」
つい見惚れていると、表情に加えて、声色にも甘さが混じり始める。びびびっと鼓膜が震え、指先から力が抜けた。そのタイミングで、ドラケンはこちらを振り返る。前髪を揺らしながら、ゆっくりと瞼が閉じていった。完全に瞳が覆い隠されたところで、もったいぶるかのように睫毛が持ち上がっていく。
そして、現れた黒目には、滾るような情欲が渦巻いていた。
「ぁ」
ぞく、り。痺れが走る。腰に訪れたそれは、やがて背骨を上っていき、脳に辿り着いた。途端、頭にガンガンと警鐘が鳴り響く。それ以上はやめておけと、理性が叫び出した。今すぐ突き飛ばして逃げろ。そう、訴えかけてきた。
馬鹿言えよ、ここで逃げたらどうなる。いよいよドラケンに、一線引かれてしまう。そんなの嫌だ。頭痛に近い叫びを無視して、じぃと目の前の男を見つめ返した。
ドラケンの腕が、静かに持ち上がる。大きな手の平が、こちらに伸びてきた。間もなく、ひたり、俺の頬を包む。硬くなった皮膚が、柔い表面に擦れた。指先はこめかみの方に伸びている。するりと髪を潜って、思わせぶりに、眠っている龍の頭を擽られた。
「俺に、抱かれに来たの?」
「っ」
そう。答えたかったのに、口は空気を食むにとどまった。
相手を探してるって聞いて、いてもたってもいられなくなった。そりゃそうだろ、好きな相手が、有象無象を抱いているとなったら、自分だってと名乗りを挙げたくなるに決まっている。俺は今日、確かにこいつに、抱かれに来た。
なのに、いざ目の前にすると、尻込みしてしまう。そうだよ、俺は、抱かれにきたんだ。夜な夜な男を抱いているって聞いたから、俺も抱かれにきたんだ。間違っちゃあ、いない。
伝え直そうと、改めて冬の空気を吸い込んだ。
「悪いけど、―― 三ツ谷は無理」
しかし、頷くより先に、ドラケンの手が離れていく。指先は、俺の額に向いて、パチンと弾いた。ウ、痛い。ぶつかった瞬間、びくんと肩が上下する。
あれ、俺、今、なんて言われた?
「えっ?」
「絶対、無理」
聞き返すと、淡々と念押しをされた。
「むり」
「そう、無理」
「……え?」
「俺はお前の事、抱かないよ」
「…………ぇ、なん、なんでッ」
「だって無理だから」
「いや、えっ、……ハァ!?」
再度問い詰めたところで、男はどこ吹く風。しれっと背中を向けて、歩き始めてしまった。
どういう、ことだ。少なくとも服装は好みに寄せたはず。そういえば、イヌピーも言っていた。俺は、あいつの好みだって。しかし、突きつけられたのは「無理」の二文字。もしかして、嘘を吐かれていたのか?
はくん。空気を食む。
「ッ無理ってなんだよ!」
「うるせーな、今何時だと思ってんだ」
「二十三時十二分ッ!」
「正確にどうもぉ。で? お前どうすんの、俺飲んで帰るけど」
「~~ッ行く!」
「おー、なら早く来い」
ぎゃんっと噛みつくように言い放つと、ちょいちょいとドラケンは手招きをした。大股三歩で距離を詰めると、焼き鳥なーと聞こえてくる。焼き鳥ね、いいよ、焼き鳥、食ってやろうじゃん。
でもその前に教えてくれ。
「無理、って、なに……」
「しつこいな、無理は無理だよ」
「無理にも理由があるだろ」
「無理なのが無理の理由でーす」
「理由になってなくない!?」
「なってるなってる」
掛け合いを始めると、ぽんぽんとあやすように頭を撫でられる。ガキ扱いするんじゃねえ。
焼き鳥屋に入ってからも、無理の詳細を問い詰めたものの、結局納得のいく答えは返って来なかった。