寝て起きたところで、頭は然程冴えなかった。
 充電器に繋いだ端末を引き寄せて、時間を確かめる。二度寝、三度寝したのに、まだ午前十時を指していた。
 頭痛こそないものの、漠然と重い頭を押さえてみる。瞼も閉じて、指先で頭皮を揉んだ。痛い。凝っている。気が済むまで解して、ぱっと両手を頭から離した。……わずかながら、爽快感がやってくる。それでも、昨日見た光景を思い出すと、頭はぐっと重くなった。
「ドラケン、って」
 男とも、そういうこと、できるんだ。
 この現代において、同性愛は否定されるようなものじゃない。なんなら、自分がいる業界には、性別に囚われない生き方の人も多いくらいだ。少なくとも自分は、偏見をあまり持っていない方だと、思っていた。目の当たりにしても、抵抗感はないとばかり、思っていた。
 実際、仕事仲間に聞かされたときは、なんとも思わなかった。なのに、―― あの男のこととなると、ショックが大きい。
「あー……、やだな、心が、せまい」
 起き上がったばかりの上体を、ぼふん、前に倒した。買い替えたばかりの羽毛布団に、顔が柔らかく沈み込む。どうせ今日は休みなのだ、もう一度眠ってしまおうか。怠惰な方に思考が傾くが、洗濯をしないとならない。昨日の酒の臭いをたっぷりと吸ったカーディガンも、仕事のときに着ているシャツも、洗ってしまわないと。
 思いはすれども、なかなか体は動かなかった。
「いつから、なんだろ」
 あいつが、男を抱けるようになったのは。昔は、女の子の事を好きになっていたはず。小柄で、ふわふわきらきらとした、愛らしい女の子。頭の中で、かつてあの男が愛した彼女と、昨晩連れ立って歩いていたハスキーボイスの男とを並べる。似ているとは、正直思えない。好みのタイプ、変わったんだろうか。それとも、内面は似ているとか。
 いくら考えたところで、答えに辿り着くことはできない。突き止めようというのなら、本人に聞くしかないだろう。連絡を、とるか。こっちの近況―― といっても、もう三年近くは前の話だけれど―― 報告だって、しなくちゃならない。
 引き寄せたままの端末に、のろのろと指を滑らせた。

 久しぶりに、D&Dの扉を潜った。
「来たな、練習台」
「うわ、言い方」
 迎えられた瞬間、金髪の男に声を掛けられる。聞こえてきたのは、いらっしゃいませでも、お待ちしていましたでもなかった。なんだソレ、俺以外にもそんな態度でやってたら客逃げるぞ。悪態を吐きかけたものの、別の青年が溌剌とその二つの挨拶を掛けてくれたので呑み込むことにした。好青年だが、見覚えのない顔だ。作業服に、頭にはタオル。彼が噂の新しい従業員なのだろう。
「三ツ谷さんですよね。今日担当する土橋っす、よろしくお願いします」
「どうも、こちらこそ」
 連れてきた愛機を引き渡すと、ニカッと満面の笑みを返された。なんて、愛嬌があるんだ。俺の知るD&D従業員と、ギャップがありすぎる。ここは、不愛想だが腕はいいと評判の店。いつの間に、こんな接客能力の高い人間を雇ったんだろう。
 そっとイヌピーの方を振り返ると、ふふんどドヤ顔を向けられた。
「もう愛想の悪い店なんて言わせねえぜ」
「イヌピー達が変わんなかったら意味ねえだろ」
「最近じゃあ、ドラケンも自然な愛想笑いを覚えた」
「……じゃあイヌピーは?」
「俺はそういうタイプじゃねえから」
「やっぱ意味ねえじゃん!」
 声を張り上げると、イヌピーはわははと笑い声を上げながら奥の事務デスクに向かっていった。その右手にはコンビニ袋が提げてある。白っぽい表面から、お茶のペットボトルと個包装のおにぎりが見えた。
「飯、これから?」
「おー、飛び込みがあって。こういう時に限って、あいついねえんだよなあ」
 パイプ椅子にどっかりと腰掛けたイヌピーは、早速シーチキンと書かれた一個を取り出す。大きな手の平が、器用にビニールを剥いでいった。途中、ぱりぱりと海苔の折れる音がする。ふぅんと頷きつつ、その辺にあった丸椅子を引き寄せた。
「そういやドラケンいないね、出張修理?」
「いや、今日は休み。言ってねえっけ」
 月曜休みなんだよ、あいつ。そう続けたイヌピーは、おにぎりを頬張りつつカレンダーを指差した。事務デスクの奥に張られたそれは、出勤表を兼ねているらしい。月曜のところに「ド休」と書いてある。じゃあイヌピーはいつ休んでいるんだろう。少し目線を滑らせると、水曜の上に「イ休」と書いてあるのが見えた。日付欄のあちこちには「土休」の文字。なるほど、新たに入った彼はシフト休なのか。
「ドラケンのが良かったか」
「え」
「これまでもあいつに見てもらってたんだろ、あのインパルス」
「あー」
 ぱりっと海苔の食いちぎられる音を聞きながら、そろりと目を泳がせた。
 特別、ドラケンに見てほしいというこだわりはない。そりゃあ、昔はあの男に見てもらうことが多かった。でも、それは中坊の持っているバイクを見てくれる店が少なかったからだ。唯一見てくれた店は何年か前に潰れてしまった。丁度そのタイミングで、ドラケンが車検込みでメンテナンスをしてくれると言うから、今日に至るまで何かと世話になっていた、というだけのこと。
 それは、それとして。……この店に来さえすれば、あの男に会えると思っていた節もある。メンテナンスの予約をした時だって、電話はドラケンが取った。二つ返事で受けてくれたとなったら、あいつが見ると思うだろ。ああいや、「新人にやらせてもいい?」と確認はされたんだった。いいよと答えたのも自分、できたら月曜がいいと言ったのも自分。ドラケンがいるかどうか、ちゃんと確かめなかった自分が悪い。
 むにゃり、据わりが悪くて、唇が波打った。
「別に、ドラケンじゃなきゃってわけじゃないよ。ただ、いると思ってたからさ、拍子抜けしただけ」
「ふぅん? まあ、土橋の腕も悪くねえから」
「大丈夫、そこは信用してる」
「一応、俺もチェックするし」
 そこまで付け足されると、いよいよ何も言えなくなってしまった。
 ……パーやペーと飲んでから、もう一か月以上経つ。パーは、ちゃんとモリユミさんにプロポーズをしたらしい。ペーはペーで、安田さんをお高いレストランに誘ったとかなんとか。俺だけ何も、進展していない。俺が最も、ハードルは低いだろうに。
 ぼんやりと、愛機を任せた背中を見やった。しゃがんでいても、大柄なのがわかる。この店は、デカい奴しか雇わない決まりでもあるのだろうか。いや、力仕事故に、体格のいい連中が揃っただけか。
「……この時間なら」
 ふと、隣から声がする。視線を向けると、イヌピーは最後の一欠片を口に放り込んだところだった。手元では、お茶の蓋を捻っている。喉が忙しなく上下し、整った顔立ちが一息吐いた。
「あいつ、呼べばくるぜ」
「……いや、何言ってんの、休みなんだろ」
「ドラケンに用事あんだろ、その感じ」
「う」
 視線は俺には返ってこない。手元に向けたまま、その指先は爆弾おにぎりのラップを剥がし始めた。
 決して愛想は良くない。かといって、イヌピーは人の機微に鈍いというわけでもなかった。元来そういう性分なのか、バイク屋をし始めて身についたのか。どちらか判別はできないが、図星を突かれたのは確か。
 そんなに、わかりやすかったろうか。どちらかというと自分は、腹が読めないと言われることが多い。暇つぶしにするポーカーもバカラもブラックジャックも、手練れ相手じゃない限りまず勝てる。なのに、おかしいな。癖のように人差し指でこめかみを引っ掻いた。
「大したことじゃねぇんだけど」
「おー」
「ちょっと、言わなきゃなってことがあって……」
「買い替えとか?」
「あ、それはそれで相談したい」
「任せろ、新車も中古車も紹介できるぜ」
 バイクの話になった途端、イヌピーの目に光が灯る。おもむろにデスクの引き出しを開けて、ピカピカのカタログまで取り出された。待て、今すぐ相談したいというわけじゃない。折角メンテナンスしてもらっているところだってのに、誘惑するような真似はよしてくれ。
「イヌピー、やめて、マジで欲しくなるからストップ」
「んだよ。買えよ」
「いずれ買うからッ、……懐と相談してからにさせて、マジで」
 ストップと手の平を突き出した。掻き立てられた購買意欲は、首を振ってどうにか誤魔化す。
 視界の端では、付箋を付けているわけでもないのに、次々と各冊子のネイキッドのページが開かれていった。だから、やめろってば。そう思いつつも、いくらなのかと金額欄を確かめてしまう。
 じ、開いた手の平越しにイヌピーをねめつけた。片手には爆弾おにぎり、もう一方には四冊目のカタログ。やっぱりネイキッドのページを開いて見せつつ、重そうな瞼が一回、二回と瞬いた。
「あー……、そういやお前、所帯持ちなんだっけ」
「え」
 ぽつり、聞き捨てならない台詞が零れ落ちる。今度は、こっちの瞼がぱちぱちと瞬いた。
「大変だな。カミさんに言ってからじゃねーとってヤツ、他の客にも結構いる」
「いや、エッ」
「ん?」
 畳み掛けられた言葉も、すんなりと頭に入ってこない。つい、突き出している腕、その先にある薬指を確かめてしまった。もう、そこに指輪は付いていない。指輪を嵌めていた跡も、残っていない。となれば、かつてのドラケンのように、指輪で既婚者と判断したわけではないらしい。
 浮かせていた腕を、よろりと下げた。口内に溢れてきた唾液をこくんと飲み下す。
「イヌピー君」
「なんだよ、改まって」
「俺が、結婚してたってコト、なんで知ってんの」
「そりゃドラケンが……」
 ドラケンが? 続きを促すように視線を送るも、胡乱な目つきを返される。そのくせ、口はもぐもぐと動き続けていた。俺の方を流し目で見つつ、淡々と爆弾おにぎりを胃に収めていく。拳大の塊は、どんどん形を小さくし、やがて最後の一口になってしまった。その塊をぽいと口に放り込むと、飲み下すより先にペットボトルを手に取る。ほとんど流し込むようにお茶を飲んだところで、やっとその唇が「なあ」と呻いた。
「結婚、して、……た?」
「ッ!」
 強調される、最後の一音。反射的に、俺の肩は跳ねた。
 イヌピーって、こんなに人の言葉、一つ一つを聞く質だったっけ。話途中で殴り込みに行く印象が、どうも強い。バイク整備が主な仕事とはいえ、何年も接客経験を積むと、人は変わるらしい。
 逸った心臓を落ち着かせるべく、静かに深呼吸をした。
 きっと、イヌピーはドラケンから聞いたのだろう。むしろ、そうとしか考えられない。となると、離婚したことまでは知らないはず。
 結婚歴・離婚歴とも、あちこちに言って回るつもりはない。それでも、中途半端な情報は、正しく訂正しなくては。丁度いいや、ドラケンに言う、練習と思えば良い。
 もう一度、深く息を吸い込んで、イヌピーと目を合わせ直した。
「うん。結婚してたんだけど、三年くらい前に離婚した。今は独り身」
「……マジ?」
「マジ。離婚したのは、ドラケンにも言ってないからさ、いい加減、言わなきゃと思ってて」
 あいつに用事っていうのは、それのこと。
 もそもそと続けると、イヌピーはカタログから手を離した。その右手は、顎に添えられ、考えるポーズをとる。いつの間にか、眉間には皺が刻まれていた。……まずいことを、言ったろうか。まさか、俺の話をしただけだ。イヌピーに都合の悪い要素があったとは思えない。
 落ち着かせた心臓が、また、じわり、じわりと焦り出す。
―― 三ツ谷」
 改まった声で、呼ばれた。感情の薄いその音に、また、肩が跳ねる。
 垂れた金の前髪越しに、気怠い瞳が俺を捉える。顎には、相変わらず手が添えられていた。
「悪いこた言わねえ、ソレ、ドラケンとサシん時に言うなよ」
「え」
 なんだって?
 言われた意味を測りかねて、間抜けな声を漏らしてしまう。言うなって、言わなきゃならないことだろう? パーにも、ペーにも、言うべきだと念押しされた。逆の立場だったらとも考えてみて、やっぱり言おうと思った。
 なのに、言うなって。
 ああいや、サシで、って言ったな。だが、離婚をしたなんて話をしようと思ったら、どうやったって一対一になっちまうのでは。やっぱり、言われた意図が、わからない。
 気付くと、自分の眉間にも力が入っていた。
「な、なんでだよ」
「絶対、食われるから」
「は?」
 どうにか尋ねるも、また謎の言葉を浴びせられた。ばくり、爆弾おにぎりに齧り付いていた光景が蘇る。やがて浮かべた空想は、金髪の男から黒髪のそれへ。案外厚みのある唇が、大きく割り開かれる様が過ぎった。がぶり、その口は、何かに食らいつく。
 あの夜見た、ハスキーボイスの男の唇に、噛み付いた。
「お前、―― アイツの好みど真ん中なんだよ」
 え。呻きは、声になりそびれる。妄想にあった見知らぬ男が、ぐにゃりと歪んだ。そういえば、上背は同じくらいだったっけ。思い出すと同時に、口付けられている姿形が見覚えのあるものに変化していく。
 あ、だめ、まずい、それは、ない。
 鮮明に自分が象られる前に首を振った。
「なに言ってン」
「乾さーん、ちょっといいすか!」
「おう、今行く!」
 抗議は、修理場から飛んできた威勢のいい声で掻き消される。ハッとしながら振り返ると、工具を持った手がこっちに向かって振られていた。
 すぐにパイプ椅子の軋む音がする。慌ててイヌピーの方を向き直ると、丁度腰を浮かせたところだった。お茶を飲み下しつつ、その足は俺から離れていく。
 おい、話、終わってないだろ。俺の疑問、何も解けてないんだけど。縋るように視線を送ると、ペットボトルが手から提げられた。イヌピーが、肩越しにこちらを振り返る。
「忠告はしたからな、三ツ谷」
「ぅえッ」
 またもや溢れた間抜けな声を、笑って誤魔化してくれる人はどこにもいなかった。

 気がかりは、日増しに募っていく。
 ドラケンは、本当に男と付き合っているのか。俺の見てくれが好みというのは、真実なのか。ふとしたタイミングに、脳みそはその気がかりでいっぱいになる。仕事に支障こそ出ていないのは幸いだが、酷いと起きてから寝るまで、暇さえあれば思い耽ってしまうようになった。こうなってしまったら、答え合わせをしない限り、思考が晴れることはない。
『サシん時に言うな』
 かの忠告をなかったものとして、―― 俺はドラケンを飲みに誘った。
「どしたの、話って」
 ビールグラスをぶつけ合ったところで、ドラケンが小首を傾げる。真っ黒な髪の毛の束が、ゆったりと垂れた。
 思えば、黒髪になったドラケンを真っ向から見たのは、初めてかもしれない。そもそも、直接顔を合わせるの自体、久々だ。バイクの事で電話はしていたけれど、随分と顔は見ていなかった。少なくとも、離婚してからの三年は会っていない。それに気付くと、なんだか目の前の男が急に大人になったように思えてきた。
 無性に落ち着かなくなってしまい、ひとまずビールを飲み下す。合わせて視線を泳がせたせいで、「みつやぁ?」なんて舌足らずに呼ばれてしまった。
「実は、ですね」
「うん」
 一口飲んだ程度じゃ、酔いは回らない。そういえば、パーがプロポーズの話を切り出したのも、いい具合に飲んでからだった。酒の勢いを借りたい気持ちが、今この瞬間、痛いほどわかる。
 お通しのモツ煮に意識が引かれるが、箸を持つのはどうにか堪える。つまみ始めたら、いよいよ酔っぱらうまで切り出せなくなってしまう。先に、言って、笑い飛ばして貰うのが良い。そうに違いない。もう一口だけビールを飲み下してから、やっと舌に本題を乗せた。
「……バツイチに、なりました」
「あ、それ? この間、ぺーから聞いたワ」
「聞いてんのかよッ!」
 なんだと、俺の決心を返せ。
 声を荒げると、ドラケンはグラス片手にカラカラと笑った。
 なんでも、ぺーやんはもう俺が言ったものだと思って口を滑らせたらしい。確かに、あの二人と飲んでから、三か月は経とうとしている。パーから聞いたところによると、ペーやんの告白、というか、同棲の提案は「考えさせてほしい」と保留になったらしい。その夜から一週間使い物にならなくて困ったとも言っていた。その後の顛末は聞いていないな、結局どうなったんだろう。
 明後日に向かい始めた意識は、くつくつ喉で笑うドラケンを視界に捉えたことで引き戻された。髪が黒い、というだけで、知らない色気が匂い立つ。きっちり編み込まれた辮髪もキマっていたが、緩く束ねているのも悪くない。これは、モテるな。龍の刺青を加味したって、モテるに違いない。つい、視線に品定めするような色を込めてしまう。
「で」
「ぇ」
「結構前って聞いたけど」
「あ、ウン。もう別れてから、三年くらいする」
「三年……ってことは、もしかして前の車検の話したときには、」
「そだね。離婚してた」
「そんとき言ってくれりゃあ良かったのに」
「う、なんつーか、あんまダサいとこ、知られたくなかったんだよ」
「はは、お前そういうとこあるよな。このカッコつけ」
「うるせーなー」
 ひとまずの本題は、あっけなく済んでしまった。あまりの物足りなさに、逆にそわそわしてしまう。なんなら、ドラケンがここまで軽く受け止めるのも、ちょっと予想外だった。重く捉えられたくもないが、結婚を知った瞬間の顔を思うと文句の一つや二つ、投げられると思ったのに。……俺より先に、ペーやんから聞いてしまった、というのも大きいのかもしれない。サンキュー、ペーやん。さっきは俺の決心を返せって呪ってゴメン。
 早々に一杯目は飲み干してしまい、備え付けのタブレットをおっかなびっくり触ってみる。近頃チェーンの飲み屋は、どこもメニュー表を置いてくれなくなってきた。どこを触ればいいんだろう、この、ドリンクってところで良いのかな。指先を、ミヂリと液晶に押し付けた。
「ビール?」
「ぁ、うん」
「食いたいのは? とりあえずもう出汁巻と刺し盛り頼んでるけど」
「んん、それくるならいいかなあ。食うより飲みたい」
「りょーかい」
 すぐに、ドラケンの手にタブレットを取り上げられる。大きな手の平に支えられたソレは、慣れた様子で操作されていった。一杯目だって、ドラケンが頼んでくれた。俺が機械音痴なのを知っているからだろう。
 それとも、他の誰かと飲むときも、率先して端末を触るのだろうか。……あの夜の、ハスキーボイス君と一緒にいる時も、ドラケンがリードしたんだろうか。
「俺は、まあ、そんなんだけど」
「んー?」
 注文を終えたのか、端末が元の台にはめ込まれる。ちらりと画面を見やると、注文しましたと表示されていた。
 二杯目が届くまで、どれくらいだろう。いつまでも空のグラスを握っているわけにもいかなくて、仕方なく割り箸を手に取った。パキリと小気味のいい音が立つが、割れ方は歪。まあ、使うのに支障はない。小鉢に入ったモツ煮の欠片をそっと摘まみ上げた。チェーン店らしい、雑な濃い味が舌に乗る。早く酒が欲しいな。
 ちらりとドラケンを盗み見た。男の持つグラスには、まだ半分ほど黄金色が残っている。
「ドラケンは」
「俺?」
「最近どうなの」
 俺の問わんとすることは、伝わっているだろう。そこまでこの男は鈍くない。店のやりくりとか、実家のなんやかんやとか、そういうことを俺が聞いているのではないと、わかるはず。じ、と上目遣いのまま見つめていれば、唇からグラスの縁が離れた。
「俺はまあ、なんとも」
「なんともってこたねえだろ」
「ほんとに」
 しれっと返されるが、どうも疑わしい。なんせ、この見目だ。厳つい印象は拭えないが、ソレを含めたってこいつはイイ男。断言できる。なにより、そうでなきゃ、あの夜の出来事と辻褄が合わない。
 もう一欠片、味の濃いモツ煮を口に運んだ。
「……ほんとに?」
 箸を咥えたまま、問うてしまう。目の前にいるのが柴家のいずれかだったら、行儀が悪いと説教が始まるところ。だが、今面と向かっているのはドラケンだ。そういう作法には、煩くない。むしろ、こういう、ちょっとガキっぽさを見せると、ドラケンの気は緩む。つるんでいた頃を思い出すのかもしれない。ほら、言えよ、本当のこと。アレを目の当たりにした時はショックだったけど、ドラケンの言葉で聞いたら、ちゃんと受け止めてみせるから。
 じぃと見つめ続けていると、むにゃり、ドラケンの唇が波打った。
「あー……」
 よし、効いている。もう一押しだ。箸を置いて、今度は聞く姿勢を整える。
 なんでも言えよ、全部聞くから。真摯な視線を向け続ければ、逃げるようにドラケンの黒目が泳いだ。あ、コラ、こっち見ろ。見てくんないと、効かないだろ。
 テーブルに乗せた両手を、ぎゅ、握りしめた。
 その、瞬間。切れ長なソコが、流し目を使う。一対の黒目が、確かに俺を捉えた。ゾク、り。なぜか、痺れが背骨を抜ける。厚みのある唇が、やけにスローに動き出した。
―― 男と、付き合ってる」
 ド、と。心臓が震えた。送り出された血液が、異様に熱い。体の中心から放たれた熱は、胸、首と上り、あっという間に頭に辿り着いた。そのくせ、顔の表面は冷えている。この表情筋の屈強さによって、この身のポーカーフェイスは支えられているのだろうか。
「え」
「って、言ったら、どうする」
 色気のある顔が、わずかに傾く。上を向いた方の口角は、かすかに持ち上がっていた。けれど、反対側は真っ直ぐのまま。笑っているようにも、自嘲しているようにも見える。
 息を、飲んだ。あの日、あの夜見たのは、夢ではなかったと。紛れもない、現実だ、と。
 そうか、ドラケンは、本当に男と付き合っているんだ。突きつけられた事実が、胸に刺さる。……やっぱり、ショックだ。じくじくと、胸骨の辺りが痛みだす。男と、付き合っている。オトコと、つきあって、いる。どうにか飲み下そうと、浴びせられた台詞を繰り返した。
 そう、なん、だ。俺たちより、大事な男が、ドラケンにはできたんだ。
「ふ、……引いた?」
「ッ」
 男の唇が、小さく動く。顔つきは、相変わらず曖昧なままだった。
 引く、というか、これは、なんだ。ざわつく胸の内側を、どう言語化したらいいかわからない。しいて言えば、なんだ。猛スピードで思考を働かせるが、なかなかコレといった言葉が見つからない。
 はくん。空気を食んだ。
 あ、わかった。これは、―― 悔しい、だ。
「引いてなんかッ」
「ま、嘘だけど」
 閃くと同時に声を張った。
 だが、半ば被せ気味に発せられた言葉に、意識を奪われる。
「……ハ?」
「うわ、コワ」
 それからまろびでた自身の声は、ここ最近で一番低かった。
「俺、真面目に聞いてんだけど」
「野郎の恋バナなんか、真面目にする話じゃねえだろ」
 しれっと言ってのけたドラケンは、肩を竦めながらビールを煽った。グラスに残っていた液体は、つるつるとその口に呑まれていく。やがて空になり、ガラスの縁が唇から離れた。現れた下唇は、うっすらと濡れている。その艶に、つい、目を奪われた。とはいえ、ほんの一瞬のこと。ちろりと舌なめずりして、そこは拭われる。
「……おれ、からかわれた?」
「今更気付いた?」
「なんで」
「んー……、離婚したの、今の今まで黙ってたから」
「それはええ、本当にハイ、大変申し訳ございませんでした」
「ふ、いーよ。今のでチャラな」
 ニヤリと笑った顔に、もう見知らぬ色香は残っていない。悪戯な顔つきを見ていると、本当に何もかも冗談に思えてきた。はぁ、気付くと口から吐息が落ちる。それを皮切りに、体のあちこちから緊張が抜けていった。背中を硬いソファに預ける。テーブルの下にある足は、行儀を無視して投げ出した。
「……で、結局のとこどうなんだよ」
「いないって。付き合ってる奴なんか」
「ほんとに?」
「嘘言ってどうすんだっつの」
「今まさに嘘吐いたとこだろうが」
「それは三ツ谷への意趣返し」
「ごめん」
「許す」
 謝る時だけ姿勢を正すと、ニと勝気な笑みが返って来た。

 つまり、俺はイヌピーにもからかわれたということになるんだろうか。
 それぞれの仕事の話をたっぷりとしたところで、二軒目に行くことなくお開きになった。なんせ明日は月曜日。ドラケンは休みらしいけれど、俺は仕事だ。飲むは飲んだが、これでも一応セーブした。俺に合わせてくれたのか、ドラケンも食う方メインだったように思う。次、飲むときは、お互い気兼ねなく飲めるといいな。
 火照った体を冷ますように、とろとろと帰路についた。
「あ」
 そのうちにコンビニに差し掛かる。酒・たばこ・ATM。それらの文字を見ると、無性に口寂しくなってきた。愛煙家を名乗れるほど吸う質ではないが、完全なる嫌煙体質というわけでもない。突然、ぽろっと一本吸いたくなるのだ。家に帰ったところでストックはない、買っていくか。
 自動ドアを潜り、もたもたとボディバッグを開ける。右手を中に突っ込んで、財布を探した。
「ん?」
 そこで、ふと、違和感。手を差し込んだのに、まったく窮屈さを感じなかった。そりゃあ、パンパンになるまで詰め込んでいるわけではない。しかし、何かが足りない。なんだろう。手さぐりをやめ、口を広げた。財布、キーケース、定期入れ、メガネケース、飴の小袋。覗いた先で、それらを確認する。足りているような、やっぱり足りていない、ような。
「……あ!」
 わかった、スマホだ。
 アルコールの回った頭で、気付けて良かった。煙草を買うのを止め、慌ただしく店までの道を引き返す。どうして忘れたんだろう。普段なら、スマホを鞄から取り出すような真似はしないのに。……それもこれも、ドラケンにSNSのアイコンの変え方を教わったからだ。
 ほとんど走るようにして戻り、チェーン店の引き戸を勢いよく開けた。丁度レジにいた大学生らしき青年がびくんと肩を揺らす。目が合うと同時に「スマホを」と言えば、間髪入れずに「これすか!」と差し出してくれた。そう、それ。良かった、ああ良かった。
 ほっと胸を撫でおろして、カラカラと今度は静かに扉を開ける。走ったせいで、顔がさっきよりも熱い。酒も、余計に回ったかもしれない。その代わり、口寂しさはなくなった。煙草は止めて、真っ直ぐ帰ることにしよう。
 ふん、ふ、ふん。鼻歌混じりに、繁華街を歩く。
「ふ、……ン?」
 ―― 差し掛かった小路に目を向けたのは、偶然だった。
 すぐそばにはスナックが立ち並んでいるが、奥に行くにつれて混沌としていく。風俗も多いが、休憩できるホテルも少なくはない。その、通りの奥に、黒髪が見えた。
「ぇ」
 束ねていたソレは、なぜか下ろされている。歩くたびに、毛先が緩く揺れていた。……その、傍らには、女。いや、あれは男か。スキニーに包まれた脚は、女性にしては直線的過ぎる。
 咄嗟に、ボディバッグから眼鏡を取り出す。手早く掛けてから、身を潜ませるように、近くの壁に体を寄せた。
 この間見たのとは、違うコートを羽織っている。同じ人? いや、雰囲気は似ているが、たぶん別人だ。あの夜の男より、眦がとろんと甘く垂れている。眼鏡をかけたおかげで、よく、見えた。
『いないって。付き合ってる奴なんか』
 確かに、あの男はそう言った。じゃあ、その傍らにいる人は、誰。
 胸の内側に不安が満ちていく。くすくすと笑い合う二人は、どう見ても仲睦まじかった。それに、俺の知らない色を帯びている。やがてドラケンの腕は、男の腰に伸びた。強引さはなく、いたって自然。当然のように腰を抱かれた方はドラケンにもたれかかった。
「どらけん……?」
 ぽつり、声が落ちる。と、視界にいる男が足を止めた。濡れ羽色が揺れる。靡く。肩越しに、こちらを振り返った。
 まずい。
「ッ」
 目が合うより先に、その路地に背を向けた。緩い眼鏡を押さえながら、ぱたぱたと足を急がせる。大丈夫、見つかっていない。気付かれては、いない。きっと、俺が見ていたこと、バレて、いない。
 何度も言い聞かせているうちに、先程立ち寄ったコンビニに辿り着いていた。入口にはやっぱり酒・たばこ・ATMと光る看板が置いてある。
 付き合っていないなら、あれは、なんなのだろう。
 理解が追い付かなくて、ただただ心臓が深く呻く。元パートナーの浮気現場を目の当たりにしても平然としていた心臓だというのに、なんてことだ。
 収まったはずの口寂しさがぶり返して、結局、体はコンビニのドアを潜ってしまった。