離婚のきっかけは、なんだったっけ。
 起きた事件と言えば、一年目は彼女がぶっ倒れて、二年目にはこっちがぶっ倒れたことだろうか。その時ばかりは、お互いがいて良かったと思う。ひとりだったら、そのままくたばっていたかもしれないし。
 けれど、結婚していて良かった、と思ったのは、その時くらいのモン。あっちもこっちも、生活の中心は仕事だ。大きな不満はなくとも、すれ違いは増えていった。
「俺らって、結婚してる意味、あんのかな」
 そんな二人だ。今後の生活を考えたら、「離婚」の選択肢が挙がるのも、当然っちゃ、当然。
「どうだろう。倒れた時は助かったけど、それくらいだよね」
「だよなあ。メリットって、他にある?」
「ない。なんならデメリットの方が多いんじゃない?」
「はは、言えてる」
 勢いで、俺たちは結婚した。何かをしようとするとき、人はまあまあの熱量を持つらしい。結婚という行為を肯定的に捉えすぎて、ちょっと盲目になっている節もあった。
 じゃあ、離婚する時は、というと。勢いは確かにあった。踏ん切りがつかなきゃ、そもそも離婚なんて思いつかないだろうし。ただ、結婚した時とは、劇的に違うこともある。俺も、向こうも、どこまでも冷静だったのだ。夫婦として生活する上での、長所に短所、改善点、どうしたって改善できない点。つらつらと並べていく作業に、涙は出てこなかった。思い出にだって、浸ることもない。
 ここまで冷めてたら、いよいよ結婚してる意味、ないね。
 話し合った翌日、役所に寄って離婚届の紙を貰った。子供がいないというのもあって、記入に迷う要素は一つもない。証人欄も、結婚のときと同じ人に頼めた。そして、土日明けの月曜日、ぽんと提出。
 紙切れ一枚で繋がった縁は、同じく紙切れ一枚でぷつんと解けた。

 まことしやかにバツイチとなった自分には、どうも結婚という行為に思うところがある。
 それ故か、反応が、遅れた。
「え?」
「だっ、だから! 結婚ッ、て、……どうかな、はえーかな」
「早くねぇっつってんだろ、いい加減プロポーズしろって!」
 テーブルの向かいに座った二人の昔馴染み。片方は苦肉と言わんばかりの顔をしており、もう片方は呆れを通り越して憤っている。共通点と言えば、どちらも酒が入って、頬が赤く染まっていることだろうか。だが、放たれたばかりの台詞は、酔った戯言とは思えなかった。どちらかというと、告白する後押しに、酒を使った印象がある。
 結婚。ケッコン。けっこん。脳内で、浴びせられた言葉を繰り返した。それでも、理解はついてこない。ついさっきまで仕事の話をしていたのもあって、なかなか頭が切り替わらなかった。
「でもよお!」
「でもじゃねえ!」
「……、」
 おかげで、口は半開きで固まってしまう。声らしい声も出せないまま、呆けた顔で不動産屋コンビを見やった。視線の先の二人は、相変わらず引っ切り無しにワアワア揉めている。いや、これは掛け合いと言った方が良いだろうか。年末が近づくとテレビでやる、漫才グランプリ。アレを見ているのに気分は近い。
 店内のざわめきだけが、耳を通り抜けていく。手元にあるビールジョッキからは、刻々と白い泡が溶けていった。これはいけない、早く飲まないと。呆然としつつも、ジョッキを口元に引き寄せた。未だ冷えているガラスが、下唇に触れる。冷たさが伝ってくると、少しだけ頭が冴えた気がした。
「けっこん」
「そう! どう思う!?」
「どう、って、えーっと、モリユミさんだっけ?」
 記憶の底から、パーの彼女のことを引っ張り出す。顔を合わせたのは片手で足りるが、話だけはよく聞かされていた。それこそ、中学の頃からだ。確か、少年院を出所した辺りにビンタされて、散々泣いて心配されて、それから付き合い始めたと聞いている。
 となると、交際期間は十年弱。それだけ付き合っているのなら、決して早くはないだろう。二十代半ば、という年齢を思っても、特別早いようには思えなかった。
 なんせ、付き合って一年そこそこのハタチの時分に、俺はそれをやっているから。
「……むしろ、遅いくらいじゃない? 向こうも待ってそう」
「ほら見ろ!」
「ヴッ、そんな、ッ遅ぇのかなあ!?」
 これが同僚くらいの他人だったら「遅くもないよ、丁度いいんじゃない」と言ってやったことだろう。でも、この場でそう言ってしまっては、パーちんは決心がつかないまま。ペーやんが気を揉む日々は、さらに続くことになる。
 プロポーズするしかないのか。パーが突っ伏したタイミングで、ペーやんはこれ見よがしに親指を立てて見せる。よくぞ言ってくれた。そんな副音声が聞こえてきた。この様子だ、結婚云々迷い続けるパーのこと、鬱陶しく思っていたのだろう。ヤクザの事務所を思わせるあの一室で、毎日のように言い合う二人が目に浮かぶ。
 でも、でもじゃねえ。やっぱり、やっぱりじゃねえ。頭に思い描いた光景は、まさに目の前でも繰り広げられていた。
「結婚、ねえ……」
 ぽつりと呟いた声は、二人には届いていない。言い合う様を眺めながら、頬杖をついた。半分ほどに減ったビールジョッキを、再び唇に引き寄せる。
「そういうぺーやんは、どうなの」
「あ?」
「ほら、安田さんと」
 付き合ってんだろ。そこまで言ってから、ビールを煽った。喉越しはまだ心地いい。残っていた分を一気に飲み干して、空になったソレをテーブルの端に置いた。次は何にしよう。そろそろ日本酒にいきたい。今日のおすすめと書いていあるコピー用紙を抓みつつ、軟骨の唐揚げを口に放り込んだ。
「~~ッ俺の事ぁいいだろ!?」
「結婚する前に同棲はしときなよ。安田さん、家事、つーか、掃除なのかなあ? こだわりあるタイプだし」
「どどど、どぅ、同棲……、どう、どッ!」
「すげえどもるじゃん」
 茶化してやると、ペーは誤魔化すみたいにビールを煽り始める。ぷはっと息を吐いたところで、軟骨の唐揚げをぽいと口に放り込んだ。
 その隣では、いつの間にか顔を上げていたパーが腕を振り上げている。ア、声を掛けるより早く、逞しい右腕は、ペーやんの背中に向かって行った。
「ンだよぺーやん、イイ人いるんじゃねえか!」
「ぇぁッふ……!」
 力加減は、間違いなくしていない。バシンと強烈な音と共に、ぺーやんの口からは原型そのままの唐揚げが飛び出した。
「きったね」
「不可抗力だろ!?」
 酒が入っているからか、自分の口もいつもより緩い。思ったままの事を声にすると、ぺーやんの手は噴き出した唐揚げを摘まみ上げた。そのまま、ぽいっと自分の口に放り込み直す。食べるんだ。食べても良いけど。それこそ、安田さんがこの場に居たら、「汚いでしょうが!」といきり立ったことだろう。ふふ、妄想で勝手に口元が緩む。
 なんにせよ、パーも、ぺーも、粗暴なところはあるが、身内には手厚い。いざ結婚したら、尻に敷かれつつも上手くやっていけるだろう。……俺とは、違って。
 それとなく視線を逸らしつつ、残り少なくなった枝豆を鞘ごと咥えた。
「……そういう」
「ん?」
「三ツ谷はよお」
「あー」
「どうなんですかコラッ」
 軽く歯を立てると、ぷつんと中の豆が口内に入る。三粒とも口に入ったところで、咥えていた鞘を取り皿に退けた。ほのかな塩気を噛みながら、逸らしたばかりの視線をぺーの方に流す。目が合うと同時に、何故か凄まれた。喧嘩売ってんのか。買ってやっても良いけど、表でやろうぜ。込み上げてきた短気は、枝豆と一緒に呑み込んだ。
「どうだと思う?」
「……お、おい、まさか、その顔ッ」
「い、いるぜこりゃあ、女がッ」
「もしかして、もしかしてよおッ、もうプロポーズ、しッ、した、とか」
「あぁああありえる! 三ツ谷だし!」
「……俺だしってなんだよ」
 ちょっとからかうだけのつもりだったのに、コロコロと勘違いが加速していく。そうだ、こいつらどっちも馬鹿だった。そんなんでよく不動産業をやってけるよな。それとも、あの業界での嘘は見抜けるのだろうか。馬鹿だけど、妙に敏いところもあるし、二人とも。
 さておき、このまま放っておいたら、俺まで結婚秒読み枠に入ってしまう。さすがにその虚偽はナイ。下手打って、八戒の耳に入ったら面倒なことになる。いや、八戒より先に柚葉が聞きつけるか。へえ、今度の証人は兄貴に頼まなかったんだ。そんな皮肉を飛ばされてしまう。
「俺にはいないよ、そーいう相手」
「嘘吐け」
「いるだろ」
「信用ねえなあ、マジだって。第一、」
 気怠く吐き出したところで、二人の胡乱な視線は変わらない。この際だ、本当のことを、言ってしまおうか。息継ぎがてら、もう一個枝豆を咥えた。ぷつり、舌の上に粒が乗る。
 結婚したことも、離婚したことも、後悔はない。それによって、戸籍に付いてしまったバツ印にも、特別思い入れはなかった。ただ、これから結婚しようと勇んでいる奴ら相手に、夢のないことを言うのはな、と思うだけ。
 まあ、ここまでナニかをほのめかしてしまったら、言うしかないのだけれど。
―― 俺、バツイチだし」
 努めてカラッと、声にした。口から出した鞘は、取り皿の上に先程のソレと重なるように放る。ぼちぼちつまみも減ってきた。パーはまだ食べるだろうし、ぺーはまだ飲むだろう。俺だって、まだ飲み足りない。本日のおすすめ用紙を抓み上げながら、カウンターの奥に向かって声を掛けた。半ば叫ぶようにメニューを頼むと、頭にタオルを巻いた青年も負けじと大声で笑い返してくれる。
「バツイチ?」
 早く次の酒、来ないかな。手持無沙汰に唐揚げの破片を箸で抓んでいると、裏返り気味の声が聞こえた。きゅむきゅむ小さく食みつつ、目線だけを持ち上げる。見上げた先では、二つの口がぽっかりと穴を開けていた。二対の目も、カッ開かれている。しかも瞬き一つ、しないときた。かぴかぴに乾いてしまいそう。
「バツイチって……」
 早々に届いた熱燗を受け取っていると、もう一度掠れ気味の声がした。じゅわりとした熱を一口啜れば、視界の端で固まっていたうちの片方がぎしぎしと首を捻る。からくり人形を思わせるぎこちなさで、もう片方も首を動かした。見合わせている二人の横顔には、信じられないと書いてある。
 そんなに?
「ど、どういうことだ」
「ってパーちん意味わかってねぇのかよ!?」
「お、俺だってバツイチくれぇ知ってらあ!」
「じゃあ尋ねんじゃねぇ~よッ」
「知ってっけど、けどよお……!」
 あ、動き出した。スイッチでも押したかのように、コミカルな掛け合いが始まる。黙ってる二人はらしくない。やっぱり、これくらい喧しくないとな。中坊の頃、三人で馬鹿騒ぎした記憶がふわりと蘇る。あーあー、こんな風に思い出に浸ることすら、彼女とはできなかったんだよなあ。そりゃあ、離婚もしちまうか。
 飲んだ熱に、ほぉっと息を吐く。途端、二人の首がこちらを向いた。相変わらず両頬には、嘘だろと書いてある。一方で、瞳は詳しく聞かせろ、と訴えかけてきた。
 あえて、言う話ではない。面白くもなんともないから。かといって、墓場まで持ってかないとならないほど、秘匿にしたい話でもない。自分は丁度酔っている。酒を飲んで、口は軽くなっているのだ。この勢いを逃したら、きっと言えない。言うなら、今。
 もう一度、軽いため息を吐いてから、記憶の引き出しをそっと開いた。
「結婚したのは、ハタチん時」
「ハッ」
「離婚したのは、ええと、二十三の時だね」
「ニジュッ」
「子供はいない。一緒住んでたのは、二年ちょっと。最後の半年は実質別居で」
「べ、ァッ、ぁあッ」
「円満離婚だから慰謝料もナシ。たまに今も仕事で会うけど、気まずいってこともないや」
「いしゃりょ、ぉ、おお……」
「あ、そうそう、あっちは再婚してさ。結婚式の招待状寄越されて、流石に行けねえよって返したんだけど」
 いざ話し始めると、次々と言葉が込み上げてくる。人に言う話ではない、と思ってはいたが、その実、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。二人の悲鳴を相槌代わりにして、バツイチたる自分の話を浴びせていった。他に話せること、あるかな。あるワ、ある。いっぱいある。現実を見せつけるなと止められるまでは、話しちまおう。それがいい。
 不思議と気分も良くなってきて、それでさあと息継ぎをした。
「待て、待て待て待て!」
「え?」
 しかし、舌の根元に乗った言葉は堰き止められる。び、と、目の前にペーやんの手が突き出されていた。仕方なしに唇を閉じると、隣でパーちんが頭を抱えているのが見える。どうしたんだろう。もしかすると、脳みそのキャパを超えたのかもしれない。纏っている雰囲気が、困惑に染まっているように見えてきた。ここが漫画の世界だったら、空中に「俺にはもうわからねえ」と浮いていたことだろう。
「三ツ谷ァッ!?」
「ぅお、なんだよペーやん、いきなりデケェ声出して」
「おめーッ、そう……、そういうとこ!」
「え、なに」
「聞いてねえぞ!」
「ああ、うん、言ってないし」
「言えやッ」
 啖呵を切ったペーやんは残った皿がほとんど空なのを良いことに、ドンッとテーブルを叩いた。俺の熱燗だけが、ぎくりと揺れる。危ねえな、零れたら勿体ないだろ。慌ててお猪口を両手で包み、たっぷりと熱を持っている透明に口付ける。ふくよかな甘みが広がって、自然とため息が零れた。
「つっても、誰にも言ってないわけじゃないよ。八戒には結婚も離婚もバレた」
「言えや八戒ッ!」
「結婚したってことだけなら、ドラケンにも気付かれたし」
「ンで黙ってやがったんだドラケンッ」
 俺を責め立てるのが本来だろうに、ぺーやんの矛先は何故か余所を向き始める。槍玉に挙げられてしまって、可哀想に。
 他人事のように眺めていると、二人の向こうからつまみが運ばれてくる。レンコンのはさみ揚げに大ぶりなつくね、それに興味本位で頼んだ甘えびの塩辛。
 まずはと、愛らしい色味の甘エビを箸で持ち上げた。いそいそと口に運んでいると、視界にヌッと腕が入り込む。どちらかと言えば太いソレは、しれっとつくねの串を奪っていった。神妙な顔をしておきながら、右手にはつくね。
 なあ、パー、今のお前、ちょっと面白いよ。にやける俺とは対照的に、パーは険しい顔つきで上の方の塊に噛みついた。ウン、と頷いたのは、美味いということなのか、俺に思うところがあるからなのか。しばし妙な睨み合いを続けていると、咀嚼を終えた唇がのっそりと動いた。
「マジなん?」
「マジだよ。どんだけ疑うわけ?」
「いやだって、三ツ谷だし……」
「そうそう、三ツ谷ってこう、……女の扱い上手いだろ」
「偏見だって。つーか、その扱いって言い方、止めた方良いよ。安田さん、たぶん嫌い」
「うグッ」
 割って入って来たペーやんを一蹴し、今度は半分に切られたレンコンを口に放り込んだ。纏ったあんかけが甘じょっぱい。これは弁当のおかずにもいいかもしれない。弁当を作らなくなって何年も経っているのに、ふとこんなことを考えてしまう。これを機に、自炊を再開してみようか。……でも、自炊は独り身にはコスパが悪すぎる。スーパーで似た惣菜を探そう。つまみのもう半分はパーに譲って、温くなってきた日本酒を口に含んだ。
「……なあ三ツ谷あ」
「んー?」
 視線を向けると、パーちんは串を抜くようにしてもう一個のつくねを食んでいた。むぐむぐ咀嚼するのに合わせて、口元の傷跡が動く。お猪口片手に首を傾げれば、ゴクンと喉が上下するのが見えた。
「ドラケンには気付かれた、つってたけどよお」
「うん」
「お前がバツイチになった、ってのも、知ってんのか?」
「え?」
 ぎくり、お猪口を持つ手が震える。ひくり、頬の左側が勝手に引き攣った。はくり、言葉を探して息を食むが、言い返すのに妥当な言葉は降ってこない。
「知らねえんなら、言った方、良いんじゃねえの」
「……あー、そう、なのかな」
「そうだろ」
「おめでたいことじゃなくても?」
「めでたいめでたくねえっつーか、……お前ら、仲良いじゃん」
「まあ、ウン」
「なら、言った方、良いだろ」
「……そういうもん?」
「そういうもんだって。俺だったら、ペーやんには言うぜ、結婚も離婚も」
 まあ、離婚する気はねえけどよ、つーか、結婚、結婚かあ。はさみ揚げを口に放り込みながら、パーはまた呻きだす。
 ドラケンに、言う。離婚したことを、知らせる。
 ……正直、考えたことはなかった。そもそも、結婚したこと自体、大っぴらにしていない身だ。あえて、離婚したことを知人に知らせはしなかった。リアルタイムで知ったのなんて、自分の家族と、柴兄弟くらい。家族は、そりゃ、そう。柴兄弟に関しちゃ、大寿に証人を頼んだのもあって知られた。意外な反応をしたのは八戒だ、てっきりあちこちに言って回ると思ったのに、進んでそうすることはなかった。曰く「又聞きの俺が、勝手に言って良いコトじゃないでしょ」と。なるほど、言えてる。
 バツイチ、という経歴について、これからも明けっ広げにする気はない。
「そっか、……そうだな。うん、ドラケンに、今度言うワ」
 こくんと頷いて、熱燗をきゅっと煽った。香りが鼻を抜けていく。瞼を閉じると、いっそう深く、甘さが染み渡った。
 うん、ドラケンには、言おう。言うべきなんだ。本来なら、結婚だって、気付かれるなんて形じゃなく、ちゃんと伝えるべきだったんだ。結婚にせよ、離婚にせよ、したこと自体は後悔していない。でも、あいつに正しく伝えなかった、というのが、まずいのだ。結婚を知られたあの日に浮かんだ「しまった」だって、こういう気まずさから抱いたはず。改めて思い返すと、焦燥感に似た悔いが滲んできた。
 考えてもみろ、逆に、あっちが俺の知らぬ間に結婚して、気付かないうちに離婚していたとしたら。……間違いなく、俺はドラケンの胸倉を掴んで、「言えよ」って噛みついていたことだろう。そうする自信がある。俺の指輪に気付いたあの日、ドラケンも本当は掴みかかりたかったのかもしれない。今思えば、なんだか不機嫌そうな表情になっていたし。
 そうしよう。別れてもう三年経ってしまったけれど、このまま言わないでいるよりずっといい。
 心に誓って、残りわずかになった日本酒を飲み干した。

 火照った身体に、夜風は心地いい。飲み始める前までは、あんなに寒いと思っていたのに、酒が入るといつも寒さが心地よくなる。はあっと吐き出した息は、うっすら白くなって、空へと昇って行った。
 パーちん、ちゃんとプロポーズできるかな。ペーやん、きちっと安田さん口説けるかな。俺、正しくドラケンに伝えられるかな。三者三様の課題を胸に、今日は解散。俺より酔いが回っている二人のことは、まとめてタクシーに押し込んだ。さすがに千鳥足の二人を連れて、もう一軒なんてできない。
 なにより、明日は月曜日。平日だ。俺はフリーランスになったところだから、融通が利く。あの二人と飲むと決まった時点で、明日は休みにすると決めていた。でも、二人はそうじゃない。二日酔いと戦いながら、ひいこら働くんだろう。
「……いつ、言おっかなぁ」
 言うなら、きっと早い方が良い。時間をあければその分、括った腹はたるんでしまう。明日、せめて夜だけでも、ドラケンの予定、空いていないかな。いくらなんでも、急すぎるか?
 背負っているボディバッグをぐるりと前に持ってきた。酒が回っているのもあって、指先は俊敏に動かせない。それでも、どうにかスマホを取り出すことはできた。とはいえ、元から機械に強くない自分には、歩きながらソレを操作するのは難しい。そもそも、歩きスマホは推奨されていないしね。
 ぺち、ぽち。家までの近道であるホテル街の隅で、のろのろと指を画面に滑らせた。
「どらけん、どらけん、」
 直近の履歴に、その名前はない。そりゃあそうだ、あの男と最後に連絡を取ったのは、随分前のこと。それこそ、離婚した次の年、車検どうすると聞かれたっきりだ。
 思い入れはある機体だけど、ガタが来ているのは確か。買い替えも考えている、と言ってうやむやに話を終わらせたっけ。……正直、あの男に「もう離婚したのか」と言われたくなかった、というのもある。
 まったく、あの時、言っておけばなあ。
 後悔、先に立たず、だ。ありきたりな諺を思い浮かべながら、やっと龍宮寺堅と書かれた項目を見つけ出した。
「あった、」
「あっ!」
 とんっと指先で名前を叩くと、すぐ横から上ずった声がした。誰、俺に用? 肩を怒らせたまま声の方に頭を向けると、丁度そのタイミングで見知らぬ男が駆け抜けていった。いや、女、かもしれない。だとしたら、スタイル良いな。ヒールのある靴ではないのに、自分と同じくらいの上背があった。
 ひらひら裾を揺らしながら、その人は足を急がせる。悪くないデザインだ、どこのコートだろう。昼間だったら布の質感も確かめられたのに、夜のネオンじゃイマイチ判断ができなかった。
 まあ、縁があれば、出会う機会もあるだろう。ツンと唇を尖らせつつ、視線を端末に落とした。
―― 龍宮寺さん、ですよね!」
「ぇ」
 しかし、俯いたばかりの顔は、すぐに持ち上がってしまう。
 目線が、忙しなくハスキーボイスの主を探した。さっきの、コートの人だ。どこにいる。ぐるりと見渡してみるものの、遠くはどうもぼやけて見えた。
 眼鏡、眼鏡かけなきゃ。慌ただしくスマホをしまい、ボディバッグから眼鏡ケースを引っ張り出す。もたつきながらもソレを掛けると、たちまち視界は鮮やかに彩られた。ネオンの光がやけに目に刺さる。白に、ピンク、イエロー、それからグリーンと輝いて、今度は、紫に似たピンク色。
 そんな色とりどりの光の下に、ひらりと揺れるコートを見つけた。
「あ」
 男のすぐ正面には、背の高い男が立っていた。黒髪が肩にかかっている。遠目からでも、切れ長の目付きをしているのがわかった。
 龍宮寺と、呼ばれた、男。その苗字は、佐藤や田中と違って、滅多にあるものじゃない。なにより、トレードマークの刺青こそ見えないが、背格好は俺の知るそいつと同じだった。
「どら、けん……?」
 ぽつりと呟いたところで、向こうが俺に気付く気配はない。これだけ離れているのだ、いると思って探さない限り、気付くことはないだろう。
 それはそれとして、気付いてさえしまえば、なんとなくどんな顔をしているかは、わかる距離。黒髪のそいつは、ハスキーの男に向かって緩い笑みを向けていた。持ち上がった口角からは、ほのかに色気が匂い立つ。わずかに首を傾げると、艶のある束がゆったりと垂れた。微かに垣間見える、こめかみ。はっきりとは見えないが、何かが描かれているのは、わかった。
 ドラケンだ。間違いなく、あの男は、俺の知る龍宮寺という男だ。
「えっ?」
 か細い声が空気に溶ける。心地いいと思っていた空気が、やけに鋭く、肌に突き刺さった。飲み屋に入る前の寒さが、どっと押し寄せてくる。ぞくり、背筋に悪寒が走った。
 これは、見ては、いけないものだ。
 そう思えども、目を逸らせなかった。
「っ、」
 二人が何を話しているかまでは聞こえない。小柄な方が背伸びをして、黒髪から覗く耳に唇を寄せていた。内緒話をしているみたいだ。あの仲睦まじい様子を見たら、誰だって付き合っていると勘違いするのでは。
 ……待て、勘違いじゃ、ない、のかも。
 流暢な手つきで、男の腕が洒落たコートの腰に回った。二つの背中は、滑らかに歩き出す。白い塀に沿って足を進め、やがて門扉を潜った。
 はくん。痛いくらいに冷えた空気を飲み下す。二つの影がその敷居を跨いでしばらくして、やっと自分の足は動き出した。よろめくようなソレは、傍から見たら千鳥足に見えるだろう。片手に眼鏡ケースを握っているのも、酔っ払いらしさを煽っているかもしれない。
「……どういう、こと、だよ」
 ようやくたどり着いたその建物には、休憩と宿泊の料金看板がついている。
 ホテルだ。間違いなく、ここは、ラブホテル。こんなところに、あいつはなぜ、あの男と入っていったんだ。
「夢?」
 いや、現実だ。だって、こんなに世界が寒い。
 じゃあ、人違い? それも、ありえない。俺があの男を見間違えるもんか。
 俺は一体、何を見てしまったのだろう。いくら考えたところで、アルコールの巡った脳みそは正しく思考しない。ええと、うん、そうだ、帰って、寝て、起きて、それから考えよう。そうしよう。
 離婚しましたと告げる算段は、早速頓挫した。