結婚をした。
 専門の卒業式を終え、その足で区役所へ。スーツの男はまだしも、袴の女はさぞ目を引いたことだろう。自動ドアを潜ったときも、住民課と書かれたカウンターの前に立ったときも、準備してきた紙切れを差し出したときも、ありとあらゆる視線を感じていた。
 いやあ、目立っちゃったね。目立ってんのはアンタじゃなくアタシだから。
 軽口を叩き合いつつ、窓口担当の女性職員をそっと盗み見る。凝ったネイルのない素の爪先が、淡々と項目の上を這っていた。不備はない。と、思う。他に出さなきゃならないもの、あったかな。戸籍謄本もあるし、身分証明書もある。証人欄だって、頼みこんで書いてもらっている。大丈夫、な、はず。
 小さく唾を飲み込むと、ようやく丸首カーディガンのその人は顔を上げた。
「おめでとうございます」
 そういうマニュアルがあるのか、たまたまその人が言ってくれただけなのか。判断はできない。が、おめでとうと言われて悪い気はしなかった。
 隣にいる彼女、もといパートナーとなった女のコと目を合わせる。
「ありがとうございます」
 どちらともなくニッコリと返して、他の手続きをこなしていった。

 あれから、ええと、六ヶ月。結婚式も新婚旅行もしていないけれど、まあまあ上手くやっている。
 後ろめたいことは何もない。
「なにこれ」
 なのに、しまった、の四文字が頭を駆けていった。
「……目ざといね」
「安モンじゃねえだろ」
 手袋を外した指が、俺の左手に沈む。痛いと叫ぶ程ではないが、簡単に振り解ける力加減でもなかった。角度が悪かったら、筋が軋むくらいはしていたかもしれない。
 どう、説明をしよう。考え倦ねながら掴まれているところに視線を落とした。親指の腹が、薬指の根本にある銀色を撫でている。飾りっ気のない、シルバーリング。それでも、男の言うように、安い買い物ではなかった。
「そうだね、だいたい、……給料三ヶ月分」
「へえ?」
「ボーナスがあったから買えた。なかったらもっと先だったかも」
 この男は、いくらかかったのかを尋ねているわけではない。そもそも、俺の金繰りに興味はないだろう。
 かといって、なんのクッションも挟まずに自分のやらかしたこと―― というと、まるで悪いコトをしたかのように思えてくる。むしろおめでたいことだってのに―― を告白する度胸もなかった。
 恐る恐る顔を上げると、そいつの目は俺の顔に向いていた。切れ長の目が、真っ直ぐにこちらを捉えている。目を合わせているだけで、勝手に背筋が伸びた。
「実は」
「うん」
 言わなきゃ。言うんだ。言え。だってもう、隠してはいられない。そもそも、隠すつもりもなかったけれど。言うタイミングがなかっただけ。それに、言うほど重要なことにも思えなかったし。言おうと思ったそばから、言い訳ばかり。本当に、ダサいったら。
「じ、つは、」
 逃げるように視線を逸らした。その先には、バンに積まれた愛機が見える。もう長いこと乗ってきた、俺の愛しの仔猫ちゃん。廃車にするわけじゃない。車検だ。今でこそ、真っ当に乗っているが、乗り始めた頃を思うと表に出来ないことがとにかく多い。今度はどこで通してもらおう。前まで懇意にしていたところは潰れちゃったし。そんな愚痴を零したら、トントン拍子にコイツの店で請け負ってくれることになったのだ。持つべきものは、バイク屋の友人。……俺ってほんと、現金な性格してる。
 今日は、バイクの話だけで終わると思ったのに。
 今日も、どうにか言わずに乗り切れると、思ったのに。
 暑さが和らぎ始めた空気を、わずかに吸い込んだ。
―― 結婚、したん、だ」
 尖り気味の唇から、片言気味に零れ落ちる。
 思った以上にか細くなってしまったが、辺りから喧しい蝉の声はしない。うちの近所は車通りも多くないし、子供のキャラキャラした笑い声も響いてはいなかった。たぶん、聞こえたろう。ひくん、掴まれている手が、わずかに震える。うん、聞こえたに、違いない。
 なんと、言われるだろう。窓口業務をしていた彼女のように「おめでとう」と言ってくれるだろうか。いや、その前に、何で隠してたんだって責められそう。この男に迫られたら、少なくとも向こう一週間は凹んでしまう。
 視線を泳がせたまま、取り繕おうと口が動き出した。
「なにかと危なっかしい子でさあ」
 彼女は身を削ることに躊躇がない。睡眠は削るし、食事も抜かす。自分が納得できるものを作るためなら、なんだってする性分だった。ただ、そのストイックともずぼらとも言いうるあり方に目を奪われたのは確か。決定打になったのは、学生コンペで最優秀を勝ち取ったときの面構え。他の野郎どもが「折角美人なのに、雄々しすぎてヒく」と言っている中、こっちはゾクゾクしっぱなしだった。
「付き合って、一年ちょいだから、勢いってとこもあんだけど」
 結婚、というあり方を意識したのは、年が明けた頃のこと。半同棲状態のアパートに帰ってきたら、テーブルの上に結婚情報誌が置いてあったのだ。まさか、と思って振り返るとドヤ顔で付録のフォトフレームを見せびらかされたっけ。その雑誌自体は、間違いなく付録目当てだった。翌日の古紙の日には、淡々と雑誌本体を捨てていたから。それでも、こっちが意識するには、充分すぎる出来事だった。
「なんかあった時、一番に、助けてあげたいって思ったら」
 結婚したら、あの破天荒な彼女はどうなるだろう。まあ、型破り気質なところは、変わらない気がする。代わりに、万が一の時、真っ先に自分が助けられるようになる。それって、案外、素敵な事なんじゃない?
 意を決して冬の終わりに告白すると、「隆も危なっかしい生き方してっからね」と笑われた。言えてる、族上がりだし。経歴じゃねーよ、不摂生の方。……お互い、好きに生きるために、好きに生きるのを支えるために、結婚という手段は悪くない。話がまとまってからも、まあ、早かった。
「結婚するのが、いいよね、って」
 それで、結婚しました。
 このアパートの、二階角部屋に、二人で生活しています。皆まで言いはしなかったが、なんとなく男が上の方を見た気配がした。結構イイトコ住んでんじゃん、というのは、バイクを取りに来てくれた時の第一声。ふぅんと小さく零れる息が、なるほどと頷いているみたいだった。
 せめて、お知らせの葉書くらい、送っておけば良かった。そう思う一方で、本当に知らせる必要はあるのかと気が乗らない自分もいる。式や披露宴といった催しを全く考えなかったわけでもない。それでも、大恋愛をしていないからか、何をお披露目したら良いのかもわからなかった。幸いだったのは、彼女がそういう晴れの行事に消極的だったことだと思う。お互いやりたくなったらやろーよ、当分はしなくて良いワ、それに今は自分が着るより作りたい。あっけらかんと言ってのけた様も、やっぱり潔くて、カッコ良かったなあ。
「なんで」
 ぽつり、掠れた声がした。ハッと顔を上げると、必然的に男の顔が視界に入る。
 すとん、と、その顔からは表情が抜け落ちていた。ドラケンの、こんな顔見たの、いつぶりだろう。いや、ここまで無表情なのは、初めてかも、しれない。
 自分の過ちに、背筋が冷える。しまった。もう一度、四文字が頭にこびりつく。はくん。咄嗟に吸い込んだ空気は、決して冷たくはないはずなのに、肺が凍えた。
「っご、ごめん、」
 どうして自分は謝っているんだろう。何度も自分の中で確認した、後ろめたいことは、していないって。なのに、謝らなくちゃならない気がする。黙っていてごめん、隠していてごめん、無二の相棒なのに真っ先に言わなくて、ごめん。そうか、この後ろめたさは、こいつに何も言わないままここまで押し進めてしまったが故のものなのか。
 ごめん。もう一度、か細く言うと、俺を掴んでいる手が強張った。
「ッちが、あ~その……、謝らせたいわけじゃなくて」
「でも」
「そりゃ言ってくれなかった、つーのは、思うトコあるけど、」
「ぅん、ごめん」
「だからッ」
 手は今も離れない。ぎゅ、と、緊張で冷える指先を握り込まれた。温かい。を、通り越して、ちょっと汗ばんでいる。こうやって話し始めるまで、バイクを動かしていたのだ、不思議な事じゃない。……決して、取り乱した俺に引きずられたわけでは、あるまい。
「三ツ谷、」
 名前を、呼ばれる。たった三文字、三つの音。この男の声で紡がれると、いつだって耳の奥がじんと痺れる。いつの間にか俯いていた顔を持ち上げると、その先にある顔は、もう無表情ではなくなっていた。それどころか、気遣わしげな顔すらしている。
 ドラケンに、俺、なんて顔させてんだろ。
 込み上げてきた情けなさに唇を歪めると、左手が両手でもって包まれた。
―― おめでとう」
「ぁ」
 低い声が、鼓膜を震わす。幻聴じゃあない。確かに、聞こえた。
 真摯な顔つきに、ほんのりと熱が乗る。穏やかに口角は吊り上がっている。切れ長で鋭い印象のある目は、普段よりちょっとだけ柔らかく見えた。
 おめでとう、だって。結婚したと言ったら、たぶん、そう返すのは常套句。社交辞令でも使われる言葉だろう。だとしても、この男に言ってもらうとなると、自分にはかけがえのないものとなる。
「ありがとう」
 ほとんど無意識のうちに、唇が動いていた。
 こっちの声を聞き届けると、男は満足したように笑みを深くする。掴まれていた左手は、恭しく薬指をひと撫でされてから離された。
 まだ指先の冷たさは残っている。けれど、もう軋みはしない。確かめるように逆の手で左手を包んだ。きゅ、ぎゅ、男がしたように指先を纏めて握ってから、そっとシルバーリングを親指で撫でる。
 数は多くないが、おめでとうという言葉自体は掛けて貰った。証人を頼んだ友人。彼女の祖母。自分の妹。窓口のあの人。それから、卒業式を終えた足で届け出をしたことを聞きつけた専門の同期。その、どれよりも、この男から貰った五文字が、心に染みる。
 良かった。ああ、良かった。
 安堵に任せて緩めた顔は、さぞ情けない装いをしていたことだろう。
「良かったらあがってく? お茶くらいだすよ」
「あ? いきなりこんな厳ついの行ったら嫁さんビビるだろ」
「どうかな、キマッてるって喜ぶと思うけど」
 かといって、気の抜けた顔を取り繕う気にもなれない。ふにゃふにゃな頬そのままに、二階の角部屋を指差した。
 この俺との結婚を選ぶくらいだ、ドラケンに萎縮するような性格はしていない。なんなら惚れるのではないだろうか。そうなっても仕方ないよね、だってドラケン、カッケーもん。こんな男前、どこに隠していた、くらい叫びそう。そういえば、今、メンズラインにいるんだっけ。モデルを頼みそうだ。大真面目に口説き出したら困るなあ、俺のとっておきがモデルとして世に放たれるの、ちょっと癪。
 くふくふ笑いながら、ね、と促すように小首を傾げた。
 すると、すぐに呆れた吐息が返ってくる。
「冗談さておき、俺まだ仕事中なんだワ」
「あ」
「また今度紹介して」
 もちろん。頷くと同時に、大きな手の平でぐしゃりと頭を撫でられた。オフとはいえ、一応セットしたってのに。乱された髪に「もー!」と文句を放つと、カラカラ笑いながらそいつは踵を返した。開いたままだったバックドアが閉まり、ひらりと手を振られる。
 次に会うのは、たぶん来週。車検翌日に取りに行けない俺に融通してくれて、それまで店に置いてもらえることになっているのだ。彼女の事、いつ、紹介しようかな。早ければ、その来週の、バイクの引き取りの後? それとも、ちゃんと段取りした方が良いのかな。くるくる思考を回しながら、バンが走り出すのを見送った。

 結局、バイクを取りに行った日も、その後も都合がつかなくて、―― ついに紹介する日を迎える前に、俺と彼女は離婚した。結婚してから、三年目の春の事。あまりにも後ろめたくて、その次の車検は、あの店には頼めなかった。