六
キスを、するようになった。
お邪魔します、いらっしゃい。おやすみ、おはよう。ありがとう、どういたしまして。まるで、海の向こうの挨拶のように、日常のあちらこちらでキスを交わしている。なあ、と呼ばれて振り返った途端にされることも少なくない。
おかげで、あの男の唇の柔らかさをすっかり覚えてしまった。
鉛筆の頭を、きゅ、唇に当てる。約束の相手はまだ来ない。それをいいことに、四人掛けのテーブルいっぱいに資料を広げていた。考え事をするならアトリエのデスクがいちばんだが、外は外で新たな閃きを得られる。柴姉弟を待ちながら、ぼおっとクロッキーを見下ろした。
ふに、むに、悶々とするのに合わせて、下唇が鉛筆の頭で歪む。
「……あー、」
昨日、は、すごかったな。
押し倒されるかと思った。もし、あのままベッドに雪崩込んできたら、どうなっていたんだろう。キスだけで、終わるとは到底思えない。瞼を閉じると、いたずらに体を這う手の平の熱がまざまざと蘇ってきた。衣服越しだというのに、熱くて仕方がなかったなあ。溺れそうなくらい苦しいのに、ずっとこうしていたいと思うほど気持ちがいいキス。あの男に、そんなことされたら、誰だって嵌まってしまう。まして、惚れ込んでいる自分が相手じゃ、陥落もするのも当然。
まずい、思い出したら、背筋がゾクゾクしてきた。否が応でも、胸が切なくなってくる。この四人掛けなら気付かれまいと、こっそり内腿を擦り合わせた。
ああもうほんと、やばい、よなあ。
「~~やばいよ、柚葉ッ、今日のタカちゃんすっごいアンニュイッ」
「はいはい、良かったね」
「雑!」
「丁寧な反応したらしたでごねるでしょ、アンタ」
蕩けそうな意識が現実に引き戻される。ぱ、と通路を見やれば、スマホを構えた八戒の姿。あ、と思った頃には、カシャッとシャッター音が響いていた。ちゃっかり撮ったらしい。つい、スンと真顔になってしまう。やたら目を輝かせている弟分の後ろには、オレと同じくスンと表情を失せさせた柚葉が立っていた。
いや、好かれてるね、ほんとオレ。どうにか苦笑いを顔に乗せ、広げていた資料を片付ける。
「……悪いね、時間作ってもらっちゃって」
「そんなことないよ!」
「ほんとにね。秒で済むってのに、コイツが会いたいって駄々捏ねただけだし」
テーブルをあけると、二人はオレの対面に腰を下ろした。それとなくメニューを差し出すと、八戒は神妙な顔をして眺め始める。コーヒーばかりたくさんあるけど、何が違うの。深く刻まれた眉間から、じりじりと困惑が伝わってきた。体も名前も立派になったくせに、こういうところは変わらない。
「タカちゃんはなに頼んだの」
「オレ? ブレンド」
「じゃあオレもそれで」
「あんたコーヒー飲めないでしょ、すみません水出しアイスコーヒーとカフェラテお願いします」
「アッ!?」
助け船のつもりでメニュー表の一点を指してみたが、淡々と柚葉に一蹴される。意地を張って訂正するだろうかとも思ったが、顔をくしゃりとしながら黙ったのを見るに、飲めないのも確からしい。
「コレ、先に渡しとく」
「ん、ありがと」
そんな弟をフォローすることもなく、柚葉は鞄から簡素な封筒を取り出した。中を覗くと、頼んでいたチケットが二枚。今度、八戒が出るコレクションの関係者チケットだ。誰と行くって、大寿とである。弟のことが気になって気になって仕方ないのに「見たい」と素直に言えないみたいだから、一肌脱いでやったのだ。
もちろん、八戒のモチベーションに関わることでもあるから、ちゃんと柚葉に相談した。その敏腕マネージャーの判断は「黙って連れてこい」。オーケー、そうする。今から当日が楽しみだ。いそいそと飾り気のないソレを自分のトートバックにしまった。
「あ」
「うわ」
すると、正面から短い音が聞こえる。何だろう、コレクションで思い出したことでもあったのか。
つ、と顔を上げると、なぜか八戒は蒼白になってわなわなと口を押さえていた。一方、隣の柚葉はまるで青褪めていない代わりに、げんなりと引いた表情を浮かべている。
何、オレはどう反応したらいいの。しまったばかりのチケットを取り出すべきかと、鞄の中で封筒の端を抓んだ。
「タカちゃん、彼女、できたの……?」
「へ?」
沈黙は長くは続かない。すぐに八戒の震え声がした。合わせて、よろよろと長い指が浮かぶ。俺の知る野郎の中で、いちばん長くてキレイに整えられている人差し指が、ピ、どこかを指差した。
「くび」
「くび?」
首が、何。もうこいつらと顔を合わせてから、頭の中にはいくつものナニでいっぱいだ。
示されるまま自分の首に手を当ててみるが、出来物の凹凸はない。さらりと平ら。なんともないじゃん。胡乱に思って首を傾げると、再び八戒はギャッと声を響かせた。
「なに、どうした!?」
「……あぁあ」
べちんと八戒は顔を覆い、テーブルに突っ伏してしまう。まだ飲み物が来ていなくて良かったな。さもないことを考えながら、向けられたつむじを見下ろす。こいつの髪も伸びたものだ。バリアートを入れてやっていた頃が懐かしい。
欲に負けて、ぐりぐりとつむじを突いていると、その隣からため息が聞こえてくる。視線を向けると、頬杖をついた柚葉がげんなりと顔を顰めていた。
「な、なに……」
「首に、痕付いてる」
「あと?」
「キスマーク。あと噛み跡。歯型」
「エ」
慌てて、肩をに目を向けるが、二人が指摘したのは首。鏡がないと見えるわけがない。
ついているのは、今押さえている側? いや、柴姉弟の反応から察するに、反対側にもついていそう。
忙しなく手を動かしているうちに、歯型と思しき凹凸を見つけた。襟でぎりぎり隠れる位置。首を傾げなかったら見られずに済む場所だ。じゃあ、キスマークは? 八戒の様子を思うに、簡単に隠れるところではなさそう。
ああ、ああ、ああもう!
昨日は執拗に首に吸い付いてはいたけれど。痕まで残すこと、ないじゃんか。打ち震えていると、柚葉の呆れが色濃くなっていく。
「気付いてなかったの?」
「……はい」
「ついにアイツとどうにかなった?」
「どぅ……、ぃや、いやいや」
「うわ、なったんだ」
「なって」
ない。と、言い切るのは憚られた。
おかげで、いっそう柚葉の顔が渋くなっていく。かつて、そんなんじゃないと散々言ったくせに。どうにかなってんじゃねえか。問いかけてくる視線が痛い。突き刺さる。
こっちだって、そうなるつもり、なかったよ。少なくとも柚葉とそんな話をしたときは、考えていなかった。元来の世話焼き症に一抹の下心が混ざった結果、なし崩しにこうなってしまったのだ。
顔を合わせればキスをされるし、思わせぶりに指は絡め取られる。抱きしめられることだって増えてきた。家で一緒に過ごしていると、必ず肩は触れている。明らかな意図を持って腰を撫でられるのも、昨日が初めてではない。そりゃあ、あそこまで求められているみたいなのは、初めてだったけど。
少なくとも、今のところは、貞操は守られている。一線を超えるという意味では、まだどうにかなっていない。暴かれる日は、遠くない? いざその日がやってきたら、どうなるんだろう。自分は、ちゃんと都合の良い人間でいられるだろうか。
まずい、顔が熱くなってきた。べたりと両手で顔を覆うと、すっかり火照った感触がする。正面には目を見開いていく八戒に、鬱陶しいと目を細めている柚葉。……赤くなった無様な面を見られたのは、間違いない。
「えっ、ねえ柚葉、ちょっとッ、……タカちゃんの彼女知ってんの!?」
「あーあーうるさいうるさい」
「歯型残す肉食系彼女ッ、あのタカちゃんをここまで、こんな、こん……、イケメンの真っ赤な顔ってすごくレア? オレいま、ありがたいもの拝んでる?」
「突然冷静になるのやめろ、この三ツ谷オタク」
「柚葉だってちょいちょいタケミッちオタクするじゃん」
「してない」
「早口でヒナちゃんとのこと喋り出すじゃん」
「マジで黙れ」
飛び交う声の合間から、カランと涼し気な氷の音がする。指の合間から覗き見ると、二人のコーヒーが届いたところだった。オレも冷たいものがほしい。アイスコーヒー、頼もうかな。迷っている間に店員は去っていってしまった。今更呼びつけるのも気が引ける。あと、この赤面を他人に見られたくない。
ぐじ、と、下唇を噛み締めた。
「そんなんじゃないはないんだけど……」
「はぁ?」
「ないなりに甘い蜜は吸っておこうと思ったと言いますか、」
「待った待った、アンタの言葉遊びにまで付き合いたくないんだけど」
「……ハイ」
「おっ、オレにも、オレにもわかるように話してよ!」
悪いな、八戒。わかるようにしてやれればいいんだけど、正直知られたくない。だってオマエ、ドラケンとも仲良いじゃん。仲の良い兄貴分が乳繰り合ってるなんて、知りたくないだろ。
都合の良い関係を甘んじて享受する腹は括ったが、誰彼構わず「それがなに、悪いの?」と開き直る度胸まで、今のオレは持ち合わせていないのだ。
ぐう、呻きながら、自分のカップを引き寄せる。ぬるくなったコーヒーを流し込むと、口の中が世知辛さでいっぱいになってしまった。やっぱり、アイスコーヒー頼もう。
通路に顔を出して、カウンターにいる店員を見つめる。ちょい、と手を上げれば、すぐに彼女はこちらにやってきた。
◇◆◇
「なにこれ、麦茶じゃあねえよな」
風呂上りに振り返ると、ドラケンが麦茶ポットを取り出したところだった。
ポットぎりぎりまで中身で満ちていて、上の方にはお茶パックが浮いている。ぺたぺた裸足を鳴らしながら近寄って、茶褐色の濃さを確かめた。仕込んだのは今朝のこと。あれからもう半日は経っている。ちょっと、漬けすぎたかな。まあ、飲めないほど渋くもないだろう。
「うん。コーヒー」
「コーヒー?」
もう一度頷いてから、ポットを受け取る。蓋を開けて、浮いているコーヒーパックを爪先で抓んだ。たちまち、台所にコーヒーの匂いが漂う。水を滴らせるパックを三角コーナーに放り込んで、水切りカゴにあるコップを手に取った。ガラスコップに注いだ見目も、悪くない。すん、一度匂いを嗅いでから、抽出したばかりのアイスコーヒーを口に含んだ。
「ん、いい感じ」
「……こんな時間に飲んで、眠れなくなっても知らねえぞ」
「大丈夫大丈夫、オレ、コーヒー効かないから」
「それ修羅場のときの話だろ」
ため息を吐いたかと思うと、ぬ、とドラケンの腕が伸びてくる。いつか、缶ビールを取り上げたときのように、その手はコップを奪っていった。ア。間の抜けた声を漏らすと、存外厚みのある唇がガラスの縁に触れる。じわりと歪んで、わずかばかりの隙間にコーヒーが流れ込んだ。くっきりと浮き出た喉仏が、飲み込むのに合わせて上下する。ゆらり、切れ長の目が、こちらを射抜いた。
「……眠れなくなるんじゃ、ないの」
「うん」
「うんじゃなく、ぁ」
こつり、コップが作業台に置かれる。まだ半分ほど残っている黒い水面がたぷんと揺れた。けれど、それ以上意識をコーヒーに向けてはいられない。
柔く、唇を重ねられた。歯がぶつからない程度に触れたあと、引き結んだ唇をチロッと舐められる。静かに隙間を作れば、すぐにコーヒーの香りの残った舌が入り込んできた。
萎縮しかけるが、いい加減この男のキスの作法は覚えた。今回こそ、出迎えてやる。意を決して、舌を伸ばしてみた。擦れた粘膜は、いつもよりひやりとしている。けれど、絡めているうちに熱が滲みだした。
「んっ、は……、ァ」
「……」
「んン?」
ふと、視線を感じた。
なんだろう。恐る恐る瞼を持ち上げると、ほど近いところで涼やかな黒目と目が合った。途端、その両目が細められる。なんか、馬鹿に、されてる? むっとしてしまって、そいつの胸をトンと押した。ほんの軽い力だったけれど、ちゃんと離れてくれる。拳一つ分できた距離の向こうで、ドラケンは小さく舌なめずりをした。垣間見える赤い舌に、つい、心臓が跳ねる。もう一回。強請りそうになるのを堪えて、再びそいつの胸を叩いた。
「なに」
「いや、積極的になったなと思って」
「……おかげさまで」
「拗ねんなよ」
「拗ねてなぃ、ん、ンン」
緩く笑ったそいつは、ほとんど間を空けずにオレの唇に噛みついてくる。
合わせて、大きな手の平が頭に回された。逆の手には腰を抱かれる。体の前面が、ぴったりとくっついた。それに応えるように、こっちも男の首に腕を回す。緩く纏められた髪に指を通すと、ふわり、自分と同じシャンプーが香ってきた。使い慣れた匂いなのに、こいつから漂ってくると妙に色気があるものに思えてしまう。
もう、溺れてしまいそう。いや、とっくにこの男に溺れてしまっているか。でなきゃ、こんな恋人染みた触れあい、最初から許していない。
きゅむきゅむと食まれる感触に酔いながら、瞼を閉じた。視界を遮ると、与えられる悦がより色濃く伝ってくる。逃げ腰になるのを許してくれない腕に、衣服越しでもわかる互いの体温。密やかな水音に、乱れた呼吸、早鐘を打つ鼓動と重なって、布擦れの音に止めを刺された。
だめ、もう、立っていられない。
「ァ」
がくん、と、腰が抜けた。心地良かった口元の熱は遠ざかってしまう。咄嗟にしがみつくと、ぐりゅ、硬くなりだしたソレが男の腿に擦れた。
「ンっ、ぅ、ふ……」
鼻から甘ったるい声が抜ける。自分の意思に反して飛び出てしまった。甘美な痺れが欲しくて、腰をヒクつかせてしまう。いっそ直接触ってくれないだろうか。この男のことだ、強請れば応えてくれる。してほしいと、素直に言いさえすれば。
……わかっていても、欲のまま口を割るのは癪。だって、情けないじゃないか。キス一つで、自分はここまで浅ましくなってしまう。こいつは、平然と立っているというのに、膝を折るのはいつだって自分の方。
「今日さあ」
「ぅん、んっ?」
悶々としているうちに、俯いてしまっていたらしい。やんわりと側頭部を撫でられ、その流れで上を向かされた。こっちは浅い息をしているが、そいつはちっとも荒げていない。やはり、悔しい。
熱の籠った吐息を零すと、涼やかにすら見える顔が近付いてきた。ひたり、汗ばんだ額が重なる。鼻先も、ほとんど擦れていた。
「直接、触っていい?」
「え」
「だめ?」
近くで見た顔には、じんわりと情欲が滲んでいた。冷静を装ってはいるけれど、……オレほど切羽詰まってもいないようだけれど、ちゃんと欲情してる。
「っ」
ぐずりと、腹の奥が疼いた。
息を呑むのに合わせて、唾も飲み込んだ。随分と口内に溜まっていたらしく、あからさまに喉が動いてしまう。これだけ近くにいるのだ、ドラケンにも、ゴクンと飲む音が聞こえてしまったかもしれない。気まずい。誤魔化すように、目を泳がせた。
「……ドラケンって、律儀だよね」
「そうか?」
「うん。一つ一つ、聞かなくても良いよ。わかるだろ、その、……そういう、の」
どこまでシていいか。そういうのを察しとるのは、得意なはずだ。こいつが気が利く奴だということ、誰だって知っている。あれだけ周りが見えているんだ、恋愛沙汰になった途端、虫メガネが曇るとも思えない。
じ、と睨むような気持ちで男を見つめた。実際には、うっとりと眺めているようにしか見えないかもしれないが。なんせ、目尻がとろんと垂れてしまっている。その自覚が、確かにあった。
「ンン……」
そいつの手が、オレの腰を抱き直す。布越しなのに、じゅわりと痺れた心地がした。
「―― ヤダ」
ぽとり、呟くようにそいつは言った。
「……ハ?」
「わかんねえよ、何が嫌で、どれは良いとか」
「いや、わかる、だろ、わかってるだろ、わかっててあえて言わせようっての」
「わかった気になりたくねえだけだって」
「羞恥プレイじゃん!」
「しゅうちッ……、ンなつもりもねえよ!」
オマエにはなくても、こっちはそうされてる気分なんだよ。荒げそうになった声を、寸でのところで飲み込む。だめだ、ここで言い合いになったら、この濡れた雰囲気が台無しになる。変に熱を燻ぶらせたまま、触ってもらえなくなってしまう。それは、嫌だ。ほんと、自分が浅ましくて嫌になりそう。
「~~ンキュ、ゥ、ク、」
「へ」
「ッ!?」
口を噤むと、押し殺しそびれた欲で喉が変な音を鳴らす。なに、今の甘ったれた音。慌てて喉を閉じるとキュゥ、またもや高い音が鳴った。てめえの体だってのに、どうして言うことを聞いてくれないんだ。こんな、誘うみたいな甘い音、出したくないのに。
沈黙とは言い難いだんまりを決め込んでいると、すぐそばから唸り声がした。向こうも口は閉じている。喉だけでグググと鳴ったらしい。
「……いまの、なに」
「三ツ谷こそ」
「……知らない」
「知らないってこたねえだろ、すげーかわいかった」
「かわいいわけあるか!」
「かわいいよ。三ツ谷が鳴いたと思うと余計かわいい」
「かわいいかわいいうるせえなあ、なんでそんな恥ずかしげもなくカワイイって言えるんだよ、女子高生かっ」
「かわいいと思ったからカワイイって言ってんの、三ツ谷かわいい」
「かわいくないッ」
「……可愛いよ」
「ンぁッみ、耳、耳元やめろ!」
話は脱線しているのに、体からはみるみる力が抜けていく。ぽそっと耳元で囁かれたのを最後に、いよいよ膝が折れた。ギュッとドラケンの服にしがみつきながらも、下肢が床へと沈んでいく。
べた、と尻をつけた床の冷たさが、やけに心地よかった。顔も付けたら、茹った頭も落ち着くだろうか。血迷ったまま、ぼたりと目の前の男から手を離す。フローリングを、じぃと見つめた。
「みつやあ」
「ぅ」
その、視界に、ぬるりとそいつは入り込む。
オレに合わせてしゃがんだドラケンは、しれっと肩に腕を回してきた。カッカと火を噴きそうな頬に、くっつきそうなくらい顔を寄せてくる。
「そんなに、言葉にするのって、だめ?」
盗み見るように睫毛を持ち上げる。視線が絡むと、わかりやすくそいつは口元を緩めた。かぁわいい。また、戯言のように呟いた。
「大事にしたいから、一個一個、確かめたかったんだけど」
よく言うよ。オレとは、そんなんじゃないって言った癖に、都合よく恋人の代用品扱いしやがって。
喉元まで込み上げてきた悪態は、ひとまず飲み込んだ。だって、ドラケンの口から、そうだと言われたわけじゃない。あくまで、オレがそうだろうと思っているだけ。いずれ、そうなんだろって、確認作業をしなきゃいけないよな。大事だというのなら、付き合ってもない男に手ぇ出してんじゃねえ、って。
……手を出されて、喜んでいる自分が、いちばん救えない。
でもさあ、愛おしい男に求められてるんだぞ、拒めるかよ。
「どう、だめ?」
くそ、そうやって、頼ってくる顔、本当に好き。
「オレは、オマエのこと、もっと触りたい」
オレだって、オマエにだったら、もっと触られたいよ。
「良い、けど」
「けど?」
「……ぅ」
「みつや、なあに、言ってみ?」
「……ベッド、いきたい」
小さく強請ると、そいつは、ふ、と吐息ばかりで笑った。
◇◆◇
翌朝、男はまあ晴れやかな顔をして出勤していった。
ごうごうと回る洗濯機の中には、当然のように、昨日あいつが着ていたスエットが入っている。どろどろに汚された、自分のTシャツもだ。
洗濯を干したら、今日は寝直そうか。これでもかと泣き喘いだせいで、どうも頭が重い。一方で、冷蔵庫の中も気がかりだった。いつもの缶ビールと、手っ取り早く酔いたい時用の日本酒パック。それに昨晩作ったアイスコーヒーと、飲み物しか入っていない。一旦寝て、夕方出直すか、午前中のうちにやることを済ませて、午後のんびりするか。……慌てないのは、後者だよな。
「いくか、スーパー……」
最寄りの店は、この時間には開いている。往復にかかる時間と、洗濯機の残り時間を見比べた。ウン、今行くのが、いちばん時間のロスがない。
一つ欠伸をしてから、財布とスマホ、エコバックの三点を引っ掴んだ。どうせ行き先はいつものスーパーだ、身なりを完璧に整える必要はない。オーバーサイズのパーカーを被って、クロックスを引っかけた。
あいつと会う頻度は、もう月一じゃない。ほとんど毎週会っている。となると、来週もこういう夜を過ごすのだろうか。あんなに抜いたのに、下腹がじくじくと重怠くなってきた。何重にも浴びせられた「かわいい」の感想は、耳鳴りのように今も頭に響く。リップサービスをしてくれるなら、「好き」と言ってくれればいいものを。……その単語だけは、使われなかった。あれだけのことをして、言わないのだ。やっぱり、アイツにとってオレが「そんなんじゃない」のは、揺るぎないらしい。
「ままならねえなあ……」
見えてきた交差点は赤信号。とろとろと、横断歩道のずっと手前で立ち止まった。何の気なしに車道を見ると、よく磨かれたSUVが停止する。ボルボじゃん。そういや、チーフの車もボルボだって言ってたな。自分は普通免許こそあるものの、車に乗る機会は多くない。車より、やっぱ、バイクだよなあ。折角メンテナンスしてもらったのだし、あの仔と走りに行かなくちゃ。
ほぅ、とため息を吐くと、背後から特徴的なエンジン音が聞こえてくる。なんだっけ、これ。利きエンジン音ができるほど、耳が良いわけでもないが、それなりに聞き馴染んだものなのも確か。ええと、どこで聞いたんだろう。まあ、見れば一発か。
もう一度、視線を車道の方に移した。
「あ、三ツ谷じゃん」
「え」
わかった、ケッチだ。
思い出したとおりの車体が、ボルボの横にいる。よくも、まあ、その距離で並べるな。自分だったら、間違いなく、後ろで停まる。気を違っても、擦れうるような位置に停まりはしない。
しかし、この男なら―― 首に虎のスミを入れたこいつなら、物怖じしないのにも納得する。
「かずとら?」
「よお、この間ぶり」
緩く手を挙げたそいつの頭には、ちゃんとヘルメットが乗っている。顎紐だって、適切な長さで留められていた。長い髪は、後ろで一つにくくっているらしい。おかげで、首の刺青がよく見えた。
「……千冬に、首のそれ隠れる服着ろって言われてなかったか」
「シュッキンしたら着替えっから見逃せよ」
「この時間に出勤? 遅刻じゃねえだろうな」
「違ぇーワ、今日は遅番なんですぅ」
「はは、悪い悪い」
ハァッと息巻いた一虎は暑いと言わんばかりに襟でぱたぱた仰いで見せた。出所したのはついこの間。出てきたところをとっ捕まえて昔馴染みの面子で囲いこみ、人の温かみでもって無理やり泣かせたのは記憶に新しい。あれは傑作だったなあ。ふ、思い出された光景に顔を緩めていると、おもむろに一虎が首を捻った。
「後ろから見たときも思ったんだけどよ」
「ん?」
「なーんか、雰囲気変わった?」
「そう?」
「や、オレもしょっちゅう言われるから、そういう歳なだけかもだけど」
ましてオマエ、デザイナーだろ。どう見たって元ヤンには見えねえよ。そう続けながら、一虎はケラケラと笑う。
そういう一虎だって、ヤンチャしてた頃の装いは首のタトゥーくらいのもん。それすら、整った顔立ちのおかげで、ファッションとして受け入れられそうな節もある。ああ、でも、ボルボに横付けする度胸あるんだよな。つい、ケッチの向こうにある高級車を眺めてしまう。運転手は、バイクを気にしている様子はない。オレが神経質なだけなんだろうか。
曖昧に笑って答えると、ヘルメットの奥にある目がきゅうと細められる。唇は綺麗な弧を描いた。
「てかウン、オマエさあ、」
「うん」
「事後? ヤッてきたとこ?」
「ハ」
見目は映画に出て来そうなほど整っているのに、その口からは下世話な台詞が飛び出す。
咄嗟に顔を取り繕うこともできず、ひくんと頬が引き攣った。目ざとく気付いたようで、一虎はさらにケラケラ笑い声をあげる。
「その面、ドラケンが見たらゼッテー目玉引ン剥くぜ」
「ヘッ」
突如出てきた名前に、今度は肩が上下する。今まさに、その男に暴かれかけてきたところ。こいつ、オレの家からドラケンが出てくとこ見たのか。むしろ、そうでなきゃ、こんなピンポイントにオレの心臓を抉るような言葉を吐けるとは思えない。
強張りそうな顔に叱咤を打って、どうにか口を開いた。
「……なんでドラケンが出てくんだよ」
「そりゃ決まってんじゃん」
オレの焦燥に、一虎が何かしらの気遣いを見せる素振りはない。慌てているとはわかっても、まさか本当にドラケンとの事後だとは思っていないのだろう。
「―― アイツが三ツ谷を見る目、昔っからヤベェときあるからな」
俗にいう、ドヤ顔を浮かべたのだろう。しかし、元来顔が整っているせいで、神妙なものに見えてしまう。
ドク、と、心臓が深く脈打った。自分の顔は、今、どうなっているだろう。引き攣ってはいないか。それは、たぶん大丈夫。けれど、凍り付いてはいる。確かめるように片手で顔の下半分を覆うと、やけに冷たくなっていた。
「そ、れって、どういう」
「お、青~、じゃな!」
「ぁ」
つられて信号を見やると、その光は青に切り替わっている。ボルボが動くより早く、そのバイクはエンジンを唸らせた。
「……どういう、ことだよ」
顔どころか、体全体が、思うように動かない。フリーズしているうちに、歩行者用信号機は、点滅を始めてしまった。