五
あの日から、ドラケンの顔を見れないでいる。
違う、正しくは、見ていない、だ。ハヤシライスを食ったあの日から今日までの約三ヶ月、もう四ヶ月か、一度もドラケンに会っていない。
といっても、連絡をとっていないわけではないのだ。なんとなく、毎月同じ時期にオショクジ会のやりとりはしている。つ、とアプリの画面を遡ると「何食べる?」「じゃあ明後日ね」「ごめん、無理そう」というメッセージが繰り返されていた。最初から会う気がなかったわけではない。あいつから連絡を貰ったときは、ちゃんと会おうと思っている。しかし、会うに至らない。その日が近付いてくると、結局「ごめん」と謝る羽目になっていた。
どうしてって、そんなの決まってる。
「お、わった……? あ、だめだ、終わってない、ここも見なきゃ……」
仕事の、せいだ。
取引先の様子から、忙しくなるのは予想できていた。だが、ここまで切羽詰まった日程での作業になるのは想定外。チーフデザイナーが示した鬼畜仕様で、ここまで首が締まるとは。比較的引き出しの多い自分はどうにかやりくりできたが、周りも皆そうとはいかない。得意なところを引き取り、不得手な部分を押し付け、文字通り寝る暇を惜しんで駆け抜けたこの数ヶ月。長かった。いや、短かったのか。時間感覚が鈍って、さっぱりわからない。
もそもそと動かしていた手を止める。今度こそ、終わり。終わりだよな。疑心暗鬼に手元の布を確かめる。ここはよし、そっちもよし、今の作業で別の箇所に影響は……、許容範囲内。
仕立てたばかりのトップスをトルソーに着せ、硬いデスクに突っ伏した。ゴッと痛々しい音が響くが、音の割に痛くはない。周囲のスタッフも余裕はないらしく、声をかけられることはなかった。
目を瞑れば、あちこちから布擦れの音がする。それから、終わった、終わってない、終わらない、という呟きも。この音にまみれて眠りたい。でも、折角の作業台を占領し続けるのも、よろしくはない。
自宅に、アトリエを兼ねているあの場所に、帰らなくては。
体力は残り僅か。それでも、帰宅途中にくたばることはないだろう。立ち上がって早々に足がもつれたが、しばらくは自分のために時間を使えると思うと頑張れる。軽く寝たら、頭の隅に留めておいたイメージを書き起こそう。胃袋に何か放り込んで、一着でもパターンに手を付けられたら御の字。
「すみません、先、上がります」
扉を潜る際に振り返れば、息も絶え絶えな同僚たちが緩く手を振ってくれた。
◇◆◇
その後の道中のことは、正直覚えていない。
気付くと、見覚えのある天井の下にいたから、家に帰りついたのは間違いない。何時だろう。寝返りを打つと、目覚まし時計の短針が四を指しているのが見える。まだ四時? なんだ、じゃあまだ寝ていても良いじゃないか。外は白ばんできたようだが、活動するにはまだ早い。薄手の布団を、頭からかぶり直した。
目を閉じると、秒針の規則的な音が聞こえてくる。かち、こち、響くそれに耳を澄ましながら、意識を微睡ませていく。
そして、ぷつり、途絶える―― 寸前で、電子音が鳴り響いた。
閉じた瞼が、勝手に持ち上がる。ぴたりと息を潜めていると、再び部屋の中にピンポーンと間の抜けた音がした。こんな時間にインターホンを鳴らすとは、どこの不届き者だ。この時間まで飲んでいた酔っ払いだろうか。深夜に間違えてドアを叩かれたことも、何度かある。これも、そういう輩の仕業に違いない。
無視だ、無視。
そう心に決めて、ぎゅっと目を瞑った。
……なのに、ベルの音は、止まない。三回目のそれが鳴り、間を空けずに四回目も鳴らされた。しつこい。こっちは寝たいんだ。やっとの思いで帰り着いたベッドに、目一杯癒してもらうと決めたんだよ。早くどっかいけ!
体を丸めて頭を抱え込んでいると、しんと部屋が静まり返る。意識の外に向いていた秒針の音が、戻ってきた。これで、ゆっくり、寝られる。
―― ピンポン、ピン、ポーン。不快な機械音を鳴らす主は、まだ、アパートの廊下にいるらしい。
カッと頭に血が上った。被っていた布団を蹴とばす。カーテンの優秀過ぎる遮光性のおかげで、部屋の中は薄暗い。しかし、歩くのに困る程ではない。昨日脱ぎ散らかしたままの靴を踏みつけ、もう片方の足は土間につく。素足の裏にコンクリートのざらつきが触れたが、その程度の不快感、安眠を邪魔されたことに比べたら些末でしかない。
不用心なんて、考えもせず、ロックを外した。
「はいどちらさまッ」
「お、生きてる」
勢いよく開けた扉は、なんなく受け止められる。ちょうどオレの目線の高さで、その手は扉を掴んだ。
はくん、吐きつけてやる予定の罵詈も雑言も、行き場を失う。なんなら、どんな悪態を吐き散らかすつもりだったのかも、わからなくなってしまった。
「え、どらけ、ン」
「おはよ」
「おはよぅ、ございます……」
「まあもう夕方だけど」
くつくつと喉で笑ったそいつは、ゆらりと扉から手を離し、オレの頭に乗せる。大きな手の平が、長い指が、くしゃりと汗ばんだ髪に絡んだ。あれ、昨日オレ、風呂入ってない。職場にシャワールームがあるから、一昨日は水を被った記憶はある。眠くなるから、お湯ではなく、水だ。ヒーッと叫ぶ余裕もないまま、淡々と全身を石鹸で洗って、ごわごわにしながら髪を乾かした。なら、まだ、許容範囲か?
いや、だめ、だろ。
だって、ドラケンの前だぞ。
ギャッともウワッともつかない叫び声を上げながら飛び退いた。そうやってできた空間に、するりとその男は体を滑り込ませる。あれ、近くない? そりゃそうだ、アトリエを兼ねていると言ったって、ここは単身用のアパート。ゆったり並んで過ごせるほど、広い玄関ではない。
みすぼらしくなっているだろう顔を覆いながら、バンッと背後の壁に背中をくっつけた。
「なんで、えっ店は」
「曜日感覚死んでんなぁ、今日は定休日」
「今日ってなんようび」
「水曜」
「すいようって、……なんようび?」
「水曜は水曜だよ」
指に隙間を作ると、ドラケンが靴を脱いでいるのが見える。ちらりと目線がオレに向いたのは気のせいだろうか。薄暗いせいで、見られたということしかわからない。あまり、じろじろ見ないで欲しい。羞恥のせいか、体が火照ってきた。……おかげで、我が身の汗臭さにも気付いてしまう。着の身着のまま、ベッドに倒れ込んだのだ、清涼感などありゃしない。いっそうドラケンから距離を取りたくて、玄関の隅に蹲った。
「なんで来たんだよ……」
「ん? この間、八戒が教えてくれた。十六が納期らしいから、それ過ぎないと会えないって」
「あ、そう……。や、そうじゃ、なく」
聞きたいことが噛み合わない。オレが家にいるタイミングを知っている、というのも疑問ではあったけれど、それをいちばんに聞きたいわけじゃなかった。なんで、こんなヨレヨレのドロドロな時にやって来るかなあ。せめて一報入れろよ。
……そういえば、夕方って言ってたな。朝じゃなく、今は、夕方。
すたすたと部屋に入っていく背中を眺めた。一定の距離を保ったまま、もそもそと四つん這いで自分も部屋に戻る。シャッとカーテンが開けられる音を聞きながら、おもむろに放り出されている鞄からスマートフォンを引っ張り出した。
画面の端についているランプが、ちかちかと点滅している。そっとボタンを押すと、点いた画面には未読メッセージ五件と着信一件の文字。もたもた操作していけば、朝と昼にそれぞれ連絡が来ていたらしいとわかる。
ちゃんと、一報、寄越してるじゃん。
「あぁあごめん、きづかなかった」
「既読すらつかねえんだもん、どっかで事故ったのかと思った」
「ごめん、爆睡してたんだと思う……」
「んん~、いや、それサイレントになってね?」
「え? ッうぉ」
両手で持っていた端末が、ふと陰る。合わせて、骨ばった指にスマホを盗まれた。つられて見上げると、すぐ後ろにドラケンが立っている。手の中では、まるでその男の物であるかのように、指がガラス面の上を滑っていた。
「ん、直した」
「あり、がとう」
「どういたしまして」
ほんの数秒を経て、スマホが返ってくる。画面を確かめると、上の方に表示されていたアイコンの一つが消えていた。あのマーク、サイレントって意味だったのか。ガラケーの時と表示を揃えてくれればいいのに。微妙に違うから、なんのアイコンなのか、どうも覚えられない。
というか、今、どこを触ったんだろう。マナーモードの設定画面を開いたのだろうか。ええと、どこから設定を変えられるんだっけ。画面を睨みつけてみるが、思い出せそうにない。それどころか、操作を躊躇らっていたせいで、画面が暗くなってしまった。
「あのさあ、今」
「うん?」
「……え、っと」
どこ、どうやって、直したの。聞こうと思って、再び顔を上げる。が、先程のようにドラケンは立ってはいなかった。いつの間にか、オレの隣にしゃがみこんでいる。肩が、触れている。近い。
夏の夕方四時は、まだ明るい。窓からは、白さの強い光が入ってきていた。
やばい。情けない顔を、日の目に晒してしまった。ふつり、ふつりと、遠ざかっていた羞恥が蘇ってくる。
「夕飯さあ」
「エッ」
「焼うどんでいい? 軽い方が良いなら、フツーのうどんにしとくけど」
「えっ」
夕飯? うどん? 茹った頭の中で、ぐつぐつとその単語が渦巻く。狼狽えながら視線を彷徨わせると、ドラケンの足元にレジ袋が見えた。半透明のビニール越しに、冷凍うどんと思しき塊が見える。他に入っているのは、カット野菜の袋と、きゅうり、あと四個パックの卵。斜めに入っているあのトレイは、きっと豚小間肉だ。
「ドラケンって」
「んー?」
「スーパー行くんだ……」
「行くだろそりゃ」
「一人で?」
「……オレをなんだと思ってんの?」
スーパーくらい行くワ、ふつーに。
渋い顔をしながら付け足されたソレに、つい噴き出してしまう。なにもかも、コンビニで済ませているわけではない。冷蔵庫の雰囲気から、たまに自炊らしきことをしているのも、知ってはいた。なにより、稀に一緒にスーパーに寄った時、ちゃんとどこに何が売っているか、わかっていたし。けれど、こんなタイミングでも目の当たりにするとは。
「夕飯、作って、くれるんだ」
「……上等なモン、期待すんなよ」
「いや、いやいや、作ってくれるってだけで、」
つい、スマホを握る手に力が入る。にやけそうになる唇を引き結ぼうと思ったが、むにゃむにゃと波打ってしまった。さすがに大きく笑って拗ねられたくはない。唇を内側に巻き込んで、どうにか堪える。それでも、くふ、むふ、と漏れてしまった。
「おい」
「ごめん、―― 嬉しくて」
「はあ?」
だって、二人で飯を食う時、作るのは必ず自分の役目だと思っていた。そっか、作るの、任せたって良かったんだ。だったら、ここまで間を空けずに会えたのかな。
……会っていたら、また、キスされていただろうか。どうだろう、今日のところはまだされていない。する様子も、ない。あの日、たまたまそういう気分だったのかもしれない。そうだ、そうに決まってる。しばらく、そういう相手がいなくて、ドラケンも口寂しかったんだ。
あれからもう四か月。骨折する前に遡ったら一年以上経ってしまう。いい人、できてたっておかしくない。こんなに良い男なんだから、引く手も数多だろう?
この男の晴れ着を作る。その願望も、きっと叶えられるはず。
そのまま緩んだ面をしていれば、口をへの字にしていたドラケンが口を開けた。
「……で、軽い方がいいの」
「ううん、焼うどんがいいな、ジャンクな感じの」
「ジャンクって……、大丈夫かよ」
「平気平気、打ち上げあるときはこの感じで揚げ物とか肉食ってるから」
「それ平気って言えんのか?」
オレは平気だと思ってるよ。惚けて首を傾げて見せれば、苦々しい顔をしながらため息を吐かれた。多忙を極めるとどうも痩せる体質らしいが、見目ほど胃は弱っていない。年齢と共に、そうも言ってられなくなるのだろうか。その時は、その時だ。食えなくなる前に、美味い物いっぱい食っておかないと。
まして、わざわざオレを心配してドラケンが作ってくれるものならば。男飯って感じの大雑把な料理だろうと、食いたいじゃん。
たっぷりの期待を込めて見つめると、またため息を吐かれる。けれど、先程のよりは浅い。仕方ないな、と思っているのかもしれない。
こちらに伸びてきた手は、オレの頬を軽い力で抓んだ。
「あんま無茶ばっかすんなよ」
「わぁってぅって」
「何言ってんのか、わかんねー」
「どあけんのせえじゃん!」
「はいはい。とりあえず、顔洗ってこいよ」
「ん?」
「ヒゲ、じょりじょり」
「わ」
痛みまでいかない鈍い感触が消える。代わりに、その指先に輪郭を撫でられた。まずは右から左へ、左から右へ。続いて、顎の下に添えられる。そいつの覗き込む動作に合わせて、くん、斜め上を向かされた。
「ワ?」
呆れを残した顔が、ぐ、と迫る。なんの抵抗もできないまま、鼻先が擦れた。皮脂のせいか、変に、滑る。
とん。唇が、触れた。
「へッ」
すぐそばの両目が、弓なりにしなる。瞬きした睫毛が、確かに向こうのソレに擦れた。見ていられなくて、ぎゅうと固く瞑ってしまう。瞼を持ち上げようものなら、刺さるのでは。そこまで長くない? 大丈夫? 恐る恐る目を開いていくと、やっぱり細められているそれと、視線がかち合った。そのまま絡め取られて、身動きができなくなる。スマホを持つ手が震えた。ただでさえ凝っている肩が強張る。
また、キス、されて、しまう。
いや、されて、いる?
思うや否や、べろりと乾いたソコを舐られた。
「ぅわあぁ」
「はは、かぁわいい」
「ぅムッ」
口を開けたが最後、ぱくりと声ごと食べられる。当然のように、粘膜同士が擦れた。せめてと舌を縮ませてみるものの、裏側を掬われるとあっという間に堪えられなくなってしまう。
息が上がってきた。鼻ですればいいなんて言うけれど、そんな簡単なものじゃない。そっちで頑張ろうったって、鼻息荒くなるのも何だか嫌だし。角度が変わるタイミングでどうにか酸素を取り込もうとするが、吸いきれないまま塞がれてしまう。
ダメだ、いよいよ頭がぼぉっとしてきた。どうしようという困惑を、愛しい男に口付けられている多幸感が上回り始める。
もう、全部委ねても、許されるだろうか。脱力した手から、電子端末が滑り落ちた。よた、り。上体が、男の方に傾く。
「ぁ、ふ」
「……アー、どうする?」
「ンぇ……?」
もっと、と強請りかけたところで、唇は離れてしまった。つう、と銀糸が伝う。身長差のせいで、途切れた唾液はこちらの下唇に乗った。力の抜けた指先が、控えめにドラケンの裾を摘む。縋るように見上げれば、困った―― その癖、色気も孕んだ笑みを返された。
「風呂も、一緒に入ろっか?」
抱かれた腰が、明確な意図を持って、撫でられる。
ぞくり、背筋が、震えた。はくん、生温い空気を呑み込む。
つられて、うん、と、頷いてしまいそう。そうしたら、どうなる? この男のことだ、手取り足取り、面倒を看てくれるに決まってる。なんだかんだ、こいつも甲斐甲斐しい奴だから、きっと、そう。
「ぁ、」
しかし、強かでも、ある。ただでは済まない。
これを期に、一線を超えて、暴かれたって、おかしくはない。
「~~ッ大丈夫です!」
叫ぶと同時に立ち上がる。勢いづいたせいで頭がくらりと揺れるが、それに負けてはこの男に捕まってしまう。ふらつく足に叱咤を打って、雪崩れ込むように洗面所へと駆けこんだ。
バンッと閉めた扉の向こうで、くつくつと笑う気配がする。音として聞こえるわけじゃないから、自分の被害妄想かもしれないが。
上がった息は、なかなか落ち着かない。浴室へと続くすりガラスに手をつけば、がばりと開いてしまった。アッ、転ぶ。倒れる。そんなことになったら、入浴介助待ったなし。
「ンンッ」
どうにか扉に縋りついて、転倒は免れた。しかし、荒れた物音は聞こえたことだろう。案の定、向こうから「三ツ谷ぁ?」という声が飛んで来た。大丈夫。大丈夫だから。入って来るなよ。それらしい言葉を畳み掛けて、ドラケンが台所に向かうのを待つ。息を潜めて、必死に生活音に耳をそばだてた。
『三ツ谷となら、シたいな』
「ぅ、」
ふと、数か月前の台詞が脳裏を掠める。昨日のことのように、その声が再生された。
オレたちは、そういうんじゃない。でも、オレたちなら、良い、シたいって、なに。
忙しさにかまけて、あの日の出来事を考えないようにしていた。早く顔を合わせて、なんでもない日を過ごしさえすれば、忘れられるだろう。そう思っていたのに、なんでもない日を誂えられないまま、今日を迎えている。
なんで、オレの下心が、報われているんだ。あまりにも、都合が、良すぎる。
『そういう仲じゃなきゃ、しちゃダメ?』
「あ」
……違う、都合が良いのは、あっちの方だ。
そんなんじゃないのに、後腐れなくそういうことができる。そりゃあ、手も、出したくなる。オレが逆の立場でも、そうするだろう。だって、男だし、人間だし、垂らされた甘い蜜は、吸いたいものだ。
浴室と洗面所との境にへたり込む。尻にレールが食い込んだ。痩せたからだろうか、骨に当たって、変に痛い。
「それなら、いっそ」
あいつに、そういう人ができるまで、このぬるま湯に浸かってたって、良いよな。
静かに自嘲してから、みすぼらしい我が身を取り繕うべく、重たい体を持ち上げた。