四
リクエストに応えて鶏手羽を作った。今度こそビールで乾杯して、幸せを噛みしめる顔を真正面から眺める。しばらく白米をきちんと食べているところばかり見ていたから、なんだか新鮮だ。大人になってからは、飲みに行くことの方が多かったってのに。
肉にかぶり付いて、塩キャベツを齧って、缶ビールに口をつけて、また肉へ。胡座をかいた姿勢は、もう変に傾いてはいない。
この快気祝いで、自分はお役御免。足しげく、こいつの家に通う必要はなくなった。
「ほんとに飲みに行かなくて良かったの?」
「これがいいって言ったじゃん」
「言われたけど」
ぼそりと言い返して、自分も手羽肉に箸をつける。こいつの前で、わざわざ気取ることはない。わかっていても、開いた口はいつもより控えめ。箸と指先で持ち上げたそれに小さく歯を立てて、甘辛い身を齧り取る。ちょっと濃かったかな、でも、酒のつまみならちょうどいい? 指先についたタレをちろっと舐め取って、ドラケンの様子を窺った。
取り皿の手羽は、もう骨だけになっている。ワ、と思っているうちに、そいつはいそいそと二本目に噛み付いた。
「そんな急いで食べなくても」
「んあ、悪い、ついがっついた」
「治ったからって飛ばしすぎんなよ」
「わかってる」
そう言いながらも、ドラケンはぐびぐびとビールを飲み干していく。あっという間に空になった缶は、バキバキと小さく潰されていった。元来、こいつは酒に強い。けど、病み上がりにそんな飲む? ……それだけ、我慢していたということか。
満足げに口を動かすそいつを見ていると、それだけで心が満たされていく。もう通わなくていい寂しさも、紛らわせられそうだ。ほう、と息を吐いて、手元にあるビールに口をつけた。
「次は何にしよっかな」
「次?」
顔をあげると、そいつは行儀悪くテーブルに肘をついている。頬杖に乗った顔は、わずかに上気していて、……かつ、意地の悪い表情を浮かべていた。
ドキリと心臓が跳ねる。合わせて身構えると、ドラケンは喉で笑った。それから、頬杖をついていない方の腕をこちらに伸ばしてくる。さして大きくないテーブルだ、ドラケンの腕の長さなら、十分オレに届いてしまった。なに? 身を引こうにも、既に背中はベッドにぶつかっている。
骨ばった指先が、口元を擦った。
「ぅ」
「だって、三ツ谷言ってたじゃん」
どうやら、鶏手羽のタレがついていたらしい。離れていく指先が、煮詰められた琥珀色で汚れている。あんなに控えめにかぶり付いたのに。食べるの、下手すぎやしないか。みっともない姿を晒したと、顔が熱くなってくる。
「いつでも作ってやる、って」
そう言って、ドラケンは汚れた指の腹を舐め取った。
そういえばそんなこと、言ったような、言わなかったような。……いや、言った。確かに言ったけれど、あくまで鶏手羽の話ではなかったのか。
呆気に取られていると、にんまりと笑ったそいつは普段よりも柔らかな声で言った。
「たまにでいいからさ、これからもつくってよ」
あ、そうか、こいつ酔ってるのか。数ヶ月ぶりのビール、しかも勢いよく飲み干したせいで、いつもより早く酒が回ったらしい。でなきゃ、こんな甘ったるいおねだりするもんか。
「ねーねーみつやー、きーてる?」
拙い発音を聞きながら、カッカと火照る顔を誤魔化そうと手羽肉に噛みつく。それでも、ドラケンの強請る声は止まない。どころか、またこっちに腕を伸ばされた。迷うことなく髪を潜った手指は、隠して久しい刺青を擽った。
「なあ、―― だめ?」
◇◆◇
結局、ドラケンとのオショクジ会は、月一回の頻度で開催されている。
買い出しはオレが行ったり、一緒に行ったり。作るのはほぼオレで、片付けるのはドラケン。費用は全部あっちの財布から出ていて、追加で酒が欲しくなったときだけオレが負担。それから、お互いだらだら飲むのもあって、毎回ドラケンの家に泊まっている。
飯を作るのは、正直面倒。けれど、あの男が好きで好きで仕方がない自分には、合鍵を返したのを加味してもおつりが来そうだった。
そして、今日も、エコバック片手にD&Dの扉を開ける。
「おつかれー」
今回のリクエストはハヤシライス。カレーじゃなくていいのかよ。念の為、いつまで経っても慣れないフリック入力で尋ねると、昼休みにテレビで見かけて食いたくなったと返ってきた。
作りなれているメニューではない。かといって、絶対に作れないものでもない。市販のルウさえあれば、それなりの味になるだろう。期待するなと念押しはしたものの、仕事帰りにダンチュウを買ったのはここだけの話だ。
ぐるりと店内を見渡すと、バイクを触っていたドラケンが立ち上がる。
「あー、もうそんな時間か」
「……早かった?」
「いや。けど、悪い、まだかかるから、先行っててくんね」
「わかった、鍵は?」
「今とってくる」
ドラケンは雑に手を拭うと、コツコツと靴底を鳴らしながらスタッフルームに行ってしまった。その背中、歩き方、どこを見てもついこの間まで骨折していたようには見えない。通院からも解放されたと言っていた。正しく、完治したのだろう。
手持ち無沙汰になって、今しがたあいつが触っていたバイクを見下ろした。辺りには工具が広げられている。子供じゃないんだ、勝手に触ったりはしない。が、この店にはちょくちょく小中学生も訪れている。持ち場を離れるなら、都度片付ける癖をつけた方が良いだろうに。
……こいつも、スズキか。見下ろした車体は、乗らなくなって久しい愛車と同じだった。いい加減、あの仔のこと、相談しなくては。このバイクのように、綺麗にメンテナンスされた方が喜ぶに決まっている。
「……なあ、イヌピー」
「ん」
「久々に乗りたいってなったときのメンテってさあ、いくらくらいかかるモン?」
「保管場所と放置年数による。見積りしてやろうか」
「いいの?」
「車種は? あと年式とか……、ああいや、申込用紙あるからそれに書いて」
「書く書く!」
事務机に座っているイヌピーの方を振り向くと、骨ばった指先がぴらりとコピー用紙を摘まみ上げた。小走りで近付くと、その紙には滲んだように太った枠が刷られている。何度もコピーを繰り返しているらしい。それでも、書き込むのに困るほどではない。
イヌピーの指先からビッと紙を抜き取った。すると今度はボールペンが差し出される。当然のように、チープな軸を受け取った。
「イヌピー?」
「あー……」
正しくは、受け取ろうとした、だ。
差し出されたそれを掴んだものの、イヌピーが手を離してくれない。押しても引いても、その指先はボールペンから離れなかった。
何か不都合でも思い出したのだろうか。今、受け付けても、すぐに対応できないとか。しばらく乗っていないし、すぐに乗るわけでもない。時間がかかるのは構わないのだけど。
きょと、と首を傾げていると、イヌピーの手に貰ったばかりの申込用紙を奪い取られた。
「あ!」
「やっぱやめ」
「な、なんで」
「アレに蹴られる」
「は?」
「しょっちゅう会ってんだろ? なら、ドラケンに直接見てもらえよ」
それが良いと言わんばかりに、歪んだ紙がデスクの奥にあるケースに放られる。安っぽいボールペンも、その中に転がった。
「……会うには、会ってるけど」
「けど?」
「いつもドラケン家なんだよね。オレん家じゃなく」
このあとも、あいつの家に行くつもりでいた。
ドラケンと会うときは、いつだってあいつの家。たまに外に出向くことはあっても、オレの家に来ることはない。身の回りの世話をしていた名残からか、当然のようにあいつの家に上がり込んでいた。なんたって、オレの自宅兼アトリエより、便が良い。D&Dからも近いし、スーパーも徒歩圏内。加えて駅近となれば、ドラケンの家に行くのが恒例にもなる。
「わざわざ来てもらうのも悪いし、手間だし、それならちゃんと頼んだ方が、そっちもやりやすいだろ?」
「……まあ金払っていいんならそれでもいいけど」
「や、ドラケンに頼んだとしても払うから、ちゃんと」
タダより高いものはない。節約できるものは節約したい性分だが、ケチっていいものとそうでないものの分別はつく。バイクのメンテは、ちゃんと金をかけるべきだ。しばらく放置しているのだから、なおのこと。
なにより、自分の家は便の悪いところにある。それこそ、ドラケンの家と比べると酷いもんだ。広さと間取りにこだわったせいで、どこへ行くにも時間がかかる。住み始めた頃は「バイクがあるし」と思っていたが、多忙に追われてすっかり整備を怠ってしまった。
やっぱり、正規の金額耳折り揃えて、きっちりしっかり診てもらおう。それがいい。
そろりとイヌピーの向こう側にある記入用紙に、手を伸ばした。
「……いや、だめだ」
「ええ?」
しかし、その手はすぐに叩かれる。ぺしょ、と机に落ちたあとも抵抗してみるが、手が届くことはなかった。
「未だにカヨイヅマしてんだろ、ならあっちに頼め」
「だから通い妻とか、そんなんじゃないって。第一、もう前みたいに、その、頻繁に通ってもいないし……」
「なんだ、あんときカヨイヅマしてた自覚はあんのか」
「イ、イヌピーが変なこと言うからっ」
「ココだってカヨイヅマじゃんって笑ってたぜ」
「ぅえ、マジ?」
「おー。いつだっけな、やけに来るけどなんかあんのって聞かれて、教えてやったら、通い妻じゃねえか! って」
「あぁあ、だから、オレのこと見る度ニヤニヤしてたのか……」
記憶の中にある三白眼が、いたずらに細められる。週一に引き上げられていた訪問頻度は、月一に戻ったらしく、ここのところあの会計士の顔は拝んでいない。それでも、下世話に歪む顔は鮮明に思い出すことができた。なんなら、九井の顔なんて、意地の悪い顔か、会計の致命的なミスに「馬鹿!」と叫んでいるところのどちらかしか覚えていない。ドラケンとイヌピー、二人纏めて説教できる男なんて、オレの知る限りじゃ九井だけだ。いっそ、会計士じゃなく経営コンサルタントと肩書きを改めた方が良いのでは。
渋々腕を引っ込めて、こめかみのあたりを掻いた。ドラケンに言え。イヌピーはその姿勢を崩さない。……ドラケンに頼むしかないか。
「何話してんの?」
「あ」
悶々としているうちに、足音が返ってくる。ば、と振り向けば、ほとんど同時に鍵を差し出された。
「三ツ谷がバイク診てほしいって」
「ふぅん? どっか行きたいとこでもあんの」
「えっ、いや、そういうわけじゃないけど」
指が触れないように受け取って、微かに熱の残った金属を握りしめる。後ろめたいはずがないのに、視線をうらうらと泳がせてしまった。いや、ドラケンに言う機会はいくらでもあったのに、イヌピーに先に聞いてしまった、という意味では後ろめたい、のかもしれない。ドラケンと目を合わせられないまま、口からはアーだのウーだの役に立たない呻きが漏れた。
「なに焦ってんの?」
「アセッテマセン」
「片言になってんじゃん」
「ぅ、ワ」
俯いていると、ぬ、とドラケンに覗き込まれる。垂れた髪が、頬を掠めた。近い。エッ、ワ、うわ、近いって。
慌てて足を退けば、ガコンッと丸椅子を蹴っ飛ばした。店内に仰々しい音が響く。しまった、どこかにぶつけてはいないか。慌てて振り返るが、椅子が並んだバイクにぶつかった様子はない。ほっと胸を撫で下ろして、横になった椅子を起こした。
「で、いつなら都合いいの?」
「へ、なに」
「バイク。診てほしいんだろ」
「あ、っと」
「今日でもいいよ」
「きょう、」
展開に頭がついていかない。ぽかんと口を開けたままドラケンを見上げると、どうする、と言わんばかりに首を傾げられた。どうするもなにも、オレこれからオマエの家に行くつもりだったんだけど。おろおろと、提げている緑の袋に目を向ける。
「え、っと……、今日は、」
家に帰るとなると、あれこれ作る時間はなくなる。もし、ドラケンが来るのであれば、部屋だって片付けなくてはならない。こいつと違って、オレの部屋には物が多い。まあ多い。アトリエと住居を兼ねているせいもあって、仕事の物と趣味の物とでごった返しているのだ。そんな根城に、招きたくもない。
「……ドラケン家が、いいな」
だから、バイク診てもらうのは、また今度にしてくれ。頼むから。
伺うように顔を上げると、ぱちぱちとドラケンが瞬きしているのが見えた。
「オマエらってさあ」
ぽつりとイヌピーが呟く。それとなく焦点を合わせると、すっかり呆れた顔をしているのが見えた。なに、その顔。尋ねるより早く、感情の起伏が薄い唇が動く。
「デキてんの?」
「は」
ひく、頬が引き攣る。エコバッグが、緊張で変に揺れた。握りしめている鍵は、妙に熱い。手のひらの中で、カッカと火を放っているかのよう。
デキてる、だと。傍からは、そう見えるのか? まさか。……鼻で笑い飛ばしたいが、今のドラケンとのやりとり、もとい自分が吐いた台詞を思い返すとそうもできない。なんだよ、ドラケン家がいいって。しかも、この中では一番自分が背が低い。上目遣いになっていたことだろう。三ツ谷サンて睫毛長いですよねえ、上目遣いすっごいあざと~い! しばらく前、同僚に浴びせられたからかいまで蘇ってきた。
あ、まずい、顔、あっつくなって、きた。
「―― そういうんじゃねえから」
ドラケンの淡々とした声が響く。
ぴしゃりと、頭が冴えた。浮足立っていた体は、一気に重くなる。
そういうんじゃない。胸の中で繰り返す。恋仲ではないのは、間違いない。……なのに、ショックを受けていた。いつの間にか、自意識過剰になっていたらしい。
そうだ、オレとドラケンは、そういうんじゃない。今一度自分に言い聞かせて、あとでね、とD&Dを出た。なんでもない顔、取り繕えていただろうか。二人共、なにか言いたげな顔はしていなかったから、大丈夫だと思いたい。
◇◆◇
ぐるりと鍋をかき混ぜた。
『デキてんの?』
ぽこりと泡が立ったのを見て、もういいかと火を止める。
『そういうんじゃねえから』
台所に立っている間、頭の中はその二つで満たされていた。にもかかわらず、両手はルウの箱の裏に書いてある通りに動いてくれる。器用な体をしていて良かった。器用貧乏な体質に幾度となく苦虫を噛み潰す思いをしてきたけれど、今日ばかりは褒めそやしてやりたい。よくやった。あいつに食わせるもの、一つだって失敗したくない。
……そういうんじゃない。オレと、ドラケンは、そういう関係じゃない。言葉でもって目の当たりにしても、オレはあいつに良い格好しか見せたくないらしい。
宙に向かってため息を吐くと、がこん、鍵の開く音がする。あれ、もうそんな時間? 時計を確かめようにも、この家に壁掛け時計なんてものはない。台所に立つにあたって、腕時計も取ってしまった。他に時間を確かめられるものと言えば、スマホくらいものだが、家の中でまで携帯はしていない。まあ、いいか。あとは盛り付けるだけだし。
蝶番が軋む音を聞きながら、深呼吸を一つ。ただいま、という声が聞こえてくる前に、どうにか表情を取り繕った。
なのに。
「なんか疲れてる?」
平らげて早々、そいつは言った。
「そんなことない、と思う、けど」
今日はしっかり腹に溜まるものだから、然程飲みはしないだろう。いつものビールなら冷蔵庫にあると聞いていたし、あえて買い足しはしなかった。その選択は、間違ってはいなかったらしい。お互い、最初の缶をちびちびと傾けている。もしワインを買ってきていたら、多少は進んだのだろうか。でも、オレ、ワインと相性悪いんだよな。すぐに酔っぱらってしまう。単に安いワインしか知らないだけ?
缶の縁に口を付けたままドラケンを見やると、こちらに向かって伸びてくる腕が見えた。退こうにも、背中は既にベッドに寄り掛かっている。これ以上、下がれはしない。
あ、デジャヴ。
思うと同時に、缶を奪われた。
「今日は飲まないで寝ちゃえば?」
取られた缶が、視界の端で揺れる。残りを確かめているらしい。
「……せめて一本は飲ませてよ」
「ほんとに大丈夫か? すげぇ怠そうに見えんだけど」
「そう? んん、言われてみるとなんか寒いかも」
「風邪引いたんじゃねえだろな?」
「まさか、ぁ」
話している間に、ドラケンはビールを置いた。空っぽになった手は、引っ込むのかと思ったが、再びこちらに伸びてくる。抵抗、する気は、起きない。その男の手の甲に、頬を撫でられた。下から上へ、掬うように移動したソレは、間を空けずに額を覆ってくる。缶を持っていたからだろうか、指先は冷たい。けれど、手の平はじんわりと温かかった。
つい、うっとりと目を伏せそうになる。閉じたら、キスしてくれないかな。……オレと、ドラケンは、そんなんじゃないんだって。言い聞かせるように息を吐いて、瞼を持ち上げた。
「んん、わからん」
「わかんねーのにデコではかンなよ」
「体温計、どこにしまったっけな」
「いーいー、なんともないって」
「ほんとかよ」
「ほんとほんと、慣れないもん作ったから肩凝っただけ」
「……ゴチソウニナリマシタ」
「ん、っふふ、美味そうに食ってくれたからいいよ」
手を払いのける動作は、自然だったろうか。努めて流暢に取られた缶を掴むと、男の眉間に皺が寄る。食ってる最中はつるんとしてたのに。
手元に戻って来た缶を握り込んで、小さく炭酸を飲み下す。開けて時間が経ってきているのもあって、爽快な喉越しは薄れてきた。早く飲み切ってしまわないと、ぬるくて苦くて、不味い液体に成り下がってしまう。
続けてもう一口含むと、正面からため息が聞こえてきた。
「なんだよ」
「……なんも。マジで具合悪かったらベッド使って良いからな」
「だから大丈夫だって」
軽く言い返しつつ、ベッドという単語に頭が揺れる。泊まる時は、大抵二人揃って床で寝落ちる。起きて一番に体が痛いと呻き合うのも、恒例行事だ。だから、寄り掛かったことはあっても、このベッドの上に寝転がったことは、一度もない。
あ、そう。やばいかも、とか言えば、横になっても許されるんだ。へえ。酔っぱらうような量を飲んでもいないのに、ぐらぐらと理性が揺さぶられる。
追い打ちをかけるように、ドラケンはオレの頭をぐるりと撫でた。雑な手つきだったのもあって、髪がヨレる感触がする。なにすんだよ。じろ、と見上げると、そいつは空いた皿をひとまとめに立ち上がってしまった。大皿も、小皿も、どれも二つずつ持っている。あ、オレの分も持ってんのか。気付く頃には、その背中は台所に行ってしまった。
「あー……」
間抜けな呻き声を零すと、向こうから水の流れる音が聞こえだす。作るのは自分。片付けるのはドラケン。いつもの役割分担だというのに、妙な心細さを覚えた。
『そういうんじゃねえから』
取り残されると、何度目かのリフレインが始まる。これからしばらく、この台詞に苛まれるのは間違いない。わかりきっていたことだというのに、こんなにショックを受けるとは。考えてもみなかった。
どうこうなろうとは思わない。いつか、柚葉に聞かせたアレは間違いなく本心だった。
しかし、今じゃそうなるのを期待してる。ちょっと、近付きすぎたかな。アレコレ世話をしすぎたせいだ、きっと。今日はイヌピーの通い妻という言葉も、否定できなかったし。
まずいよな、これは、まずい。オレはあいつの晴れ着を作りたいんだ。距離を、見直さなくては。
両膝を立てて、顎を乗せる。前屈みになるように重心を移すと、台所に立つドラケンが見えた。オレですら低いと思うくらいだ、あの長身には、さぞ居心地が悪かろう。わざと足を広げて、その上で腰を屈める男を見ていると、謎の愛おしさが込み上げてくる。
かろうじて炭酸の装いを残すビールを、一気に煽った。どろりと喉を通り、そのアルコールは胃に落ちる。ぼぉっと熱くなった気もしたが、酔っぱらう程でもない。空の缶を掴んだまま、よろり、立ち上がった。
「……手伝う」
「あー?」
「布巾、貸して」
そう言いながら、割り込むようにして空き缶に水を注ぐ。雑に濯いで、ゴミ袋へ放り込んだ。それから、きょと、と見渡し、すぐに引き出しを開ける。ないなら出せばいい。収納場所は変わっていないようで、乾いた布巾がきちんと畳まれて入っていた。
隣にいる男に向かって手を出せば、そいつは呆けた顔をしながら小皿を寄越してきた。
お湯を被った陶器は、じんわりと温かい。纏った水気を拭い取って、一旦調理台の隅に置いた。棚にしまうのはまとめてやろう。シンクのすぐ横に置かれていく食器を、一つ一つ、拭っていく。
「……無理すんなよ」
「してないって」
「疲れてんじゃねえの」
「そんなことないよ」
本当に、疲れても、無理をしてもいないのだ。ただ、自分のおこがましさに辟易しただけ。
それに、あのままじっとしていたら、欲に負けてベッドに倒れ込みそうだった。もしくは、身を屈めて洗い物をする背中に抱き着くか。……いくらなんでも、後者はしないか。泥酔していたならともかく、今日はビール一本しか飲んでいない。ワインも買って来ておいて、酔ったふりをすればやれないこともなかった、か? いやいや、そういうことじゃない。
オレとドラケンは、一介の友人。しいて言えば親友。自分にとって馴染んだ言い方に直すと、いちばんの、ダチ。
「三ツ谷」
「ん、なに、」
カレースプーンと箸を、まとめて掴む。視線を落としたまま、それらを布巾で包んだ。転がすようにしながら水気を拭う。一度開いて、ああまだ濡れてるな、もう一度、今度は磨くように布を擦らせた。うん、これで、ヨシ。拭いたばかりの大皿の上に、カトラリーを転がした。
「なんかあったろ」
「なんかって?」
「なんかあったっていう顔してる」
「してないよ」
「してンだよ」
ふと、視界にあるドラケンの手が止まる。それとなくシンクを見やれば、もう食器は洗い終わっていた。残るは、ルウを作った鍋だけ。耐熱容器に移さないと。お玉もう洗っちまったんだよなあ。まあ、たった一本だ、洗い直すくらい、大した手間じゃないか。とりあえず、タッパー、出そう。
濡れた手から、ふいと視線を離した。
「オレに、言えないこと?」
「そういうんじゃ、」
そういうんじゃない。
咄嗟に言いかけた言葉が、わんわんと頭の中で響く。既にドラケンの声で鳴っていたのに、自分の声も重なってしまった。喧しいこと、この上ない。
頭が、くらくらする。開けっ放しで固まった口から、は、浅い息が零れた。
「三ツ谷?」
頬に、濡れた手が触れた。ひやりとする。
合わせて、ぐっと気配が近付いた。顔を、覗き込まれている。少しでも、視線を上向きにすれば、目が合うことだろう。
どうしよう。どうしたらいい。この距離じゃあ、ちょっと欲張っただけで唇を奪えてしまう。ぶつかっても、事故で済むかもしれない。いっそ、その展開を狙ってしまおうか。
……そうじゃない。オレと、ドラケンは、そういう仲じゃない。そうなることを、望んでも、いない。いないんだよ。理性が必死に説得を試みるが、心はずるずると目の前の男に靡いていく。
だって、好きなんだ。好きで、好きで仕方がない。おためごかしの今が、いつまでも続けばいいと思ってる。
そろり、と、瞼を、持ち上げた。
「……―― なあ、いい?」
「っ」
眼前の男に、小さく囁かれた。なに。聞き返すより先に、なぜか自分の首は頷いてしまう。なに、してんだ、オレは。それに、こいつも。
混乱するオレを余所に、頬に触れていた指が、頭の方に滑った。いつの間にか両手でもって、己の頭は捕らえられる。困惑でたたらを踏めば、すぐにそいつ有利な立ち位置を奪われた。
ア、と開いた口から、赤い舌が見える。
キス、され、る。
「んッ」
こっちの口を閉じる余裕はなかった。ぱくんと塞がれると同時に、熱に入り込まれる。ぐずり、舌が絡んだ。あの、赤い舌と、絡めている? 理解が追い付くと、たちまち顔が熱くなってくる。火を噴くとは、きっとこのこと。あまりの熱さに舌を縮こめると、呼応するかのように口内から熱は遠ざかっていった。
最後に、下唇をやんわりと食まれる。
ゆっくりと離れていくのを、呆然と眺めた。
「ぁ、」
「……かぁわい」
「どらけ、ん、ねえ」
「うん? もっと?」
「ぁえ、……ん、ウンッ、もっと、」
熱で浮かされたまま受け答えをしていると、再び唇を啄まれる。う、と身構えたが、ずるりとナカまで貪ってはもらえなかった。その代わりに、ふに、ふにり、何度も唇を重ねられる。行先は、こっちの唇だったり、口の端だったり、頬とか、目尻とか、あと額。事故なんて言葉じゃ、済ませないくらいのキスを注がれる。
キスだけで、人間こんなに、幸せになれるのか。ふわふわと、宙に浮いた心地になってくる。だんだん、足腰の感覚も鈍くなってきた。
もしかしたら、腰、抜ける?
過るや否や、がくっと力が抜けた。……しかし、体が投げ出されることはない。頭を抱えていた手の片方が、腰に回っていた。それから、股に片足を入れ込まれている。アレ、なんか、体、揺れてる? 違う、これは、揺さぶられて、いる。
「ァ」
と、口から、妙な声が、まろびでる。咄嗟に手を口に当てるが、零れた音はなかったことにはならない。むしろ、口を押えたせいで、自分が発したと主張しているようにも思えてきた。
手の甲に、微かに息がかかる。抱きしめられているせいで、男の体温を如実に感じた。上ずった呼吸を整えようにも、息を吸った途端、そいつの匂いに包まれて落ち着かなくなる。
どうしよう、どうしたらいい。
ええと、そう、とりあえず、離してもらわないと。
「どら、けん、あのすとっぷ、」
「……うん、いーよ、休憩しよっか」
「や、休憩じゃなく、」
こんな、恋人染みたこと、オレたちがしていいわけがないんだ。
「やめよ、そういうんじゃ、ないじゃん、オレら」
放った言葉が、胸に突き刺さる。こいつに言われた時もショックだったけど、自分で口にするのもキリキリと心苦しくなってしまう。
おかしいな、しばらく前は、そういうんじゃないって言ったって、なんともなかったのに。ちゃんと、立場を弁えられていた。オレ、こんなに欲深くなれたんだ。……なれるか、家族のことも、不良のことも、手放せなかったくらいだもんな。
でも、それは、それ。これは、これ。
オレと、ドラケンは、そういうんじゃない。
「……そういう仲じゃなきゃ、しちゃダメ?」
「え」
ごつりと額がぶつかる。俯いていた顔が、半ば強引にそいつの方を向かされた。切れ長の目に、射抜かれる。黒々とした瞳は、間違いなくオレだけを映していた。
「三ツ谷となら、―― シたいな、オレ」
「ぁ」
ふわり、空気がほどける。おそらく、眼前にいるそいつが笑ったのだろう。あまり人に見せない、柔らかい笑い方で。こいつ、オレがその顔に弱いって、わかってやってんのかな。わかっていても、そうでなくても、質が悪い。
本当、敵わない。
恐る恐る、腕を伸ばした。その男の背に回して、ぺたり、手の平を添える。
「オレも、」
オマエだったら。
大して酔ってもいないのに、理性は欲望に完敗した。