最初の三日は続けて行った。
 その次の日は、残業してでもやらなければならない案件があって、さらに次の日も行けなかった。三日ぶりに―― とりあえず、店の方に―― 顔を出すと、探していた男はいない。今日は来ねえよ、事務仕事も片付いたし。淡々と告げられた言葉を受け止めて、とぼとぼと一人、あいつの家へと足を向けた。不精しないで、どっちに居るのかちゃんと聞けば良かったな。ガラケーでぽちぽちボタンを押すのも煩わしかったけれど、スマホのフリック入力にも慣れそうにない。なんて、逃げてもいられなかった。

 そんな日々を繰り返すこと、一か月。
 頻繁に使うようになった緑色のメッセージアプリとは、大分仲良くなれたと思う。
『どっち』
 と、と入力さえすれば、検索候補に出てくる単語。それを選んで送信すると、一分経つか経たないか、という頃合いに既読の文字がついた。合わせて、漢字一文字が送られてくる。
『家』
 これの前にしたやりとりも、その前にしたメッセージも、内容はほとんど同じ。どっち・店。どっち・店。どっち・家。……どうやらあの男、二日出勤して一日休むを繰り返しているらしい。午前中は出て、午後は帰ってきているのかもしれないが。
「家ね、家」
 小さく繰り返して、スーパーを出る。歩いておよそ十分の距離。傍らに提げたエコバックは、今日は緑色をしている。一昨日、いや、前にスーパーに寄ったのは三日前だな、その時に使ったエコバックはウサギの顔に収納される袋だったから、「可愛いの使ってんじゃん」とからかわれてしまった。ただの言葉遊びだ、気にすることはない。わかっていても、また可愛いと言われたら顔がくちゃくちゃになってしまいそう。帰る足で実家に寄って、無地のこの袋を借りてきた。
 マチのついたこの袋には、思った以上に物が入る。下手に頑張らずに、袋を二つに分けたら良かったかな。アパートが見えてくる頃には、指先がじんわりと痺れてきた。一旦左手に持ち替えてみるが、数メートル進まない内に違和感でいっぱいになってしまう。
 インターホンの前に立つ頃には、結局袋は右手から提げていた。
 典型的な電子音が響いたあと、扉の向こうから足音がする。人の気配を感じながら、がっちゃんと鍵の開く音を聞いた。へえ、今日は鍵かけてたんだ。偉い、偉い。
「いらっしゃい」
「……ごめん、風呂、入ってた?」
「や、ちょうど上がったとこ」
 視界に入った男の髪は、いつものように結われていない。しっとりと濡れていて、垂れた毛先から、ぴちょんと雫が落ちる。
 つい、腕が伸びた。右手で提げていたエコバックをずらして、肘の辺りに引っかける。牛乳と豆腐と卵、その他様々な重さが肘にかかった。
「髪びちょびちょじゃん、風邪引くよ」
「そんな寒くねえし、大丈夫だろ」
「だとしても、髪痛むって。今に禿げても知らねえからな」
「それは困るな」
 そいつの肩にかかったタオルを奪い、高いところにある頭に被せる。その勢いで、わしゃわしゃと手を動かすと、タオルと髪の向こうからくしゃっと笑った顔が見えた。……隙だらけ。今なら、腹を刺せるかもしれない。でも、刺すくらいなら胃袋を掴みたい。あれ、もう掴んでんのかな。何も食っても「美味い」と言われるせいで、逆に信じられなくなってきている。
「あ、ダメ、重い、中入れて」
「ん、どーぞ。今日いくらだった?」
「えっと、二千いくら……、あとでレシート渡す」
「おー、じゃあ三千な」
「レシート渡すっつってんじゃん」
「代わりに色々してもらってんだ、これくらい上乗せしたって安いくらい」
 もたもたと玄関に入れば、場所を明け渡すかのようにドラケンは部屋の方へと戻って行く。松葉杖は使わず、ひょこひょこと、両足で。
 重い買い物袋を廊下に置きつつ、まじまじとその後ろ姿を見つめた。何度、瞬きしても、景色は変わらない。ドラケンの背中が、ほんの少しだけ遠くなるくらい。
 靴も脱がずに、ぽかんとしていると、部屋に入りかけたドラケンが振り返った。
「三ツ谷? 入ンねーの?」
「……ギブス、取れたんだ」
「ああ、うん。やっと取ってもらった」
 そう言って、ふわりと足を浮かせてみせる。ずっとギプスを付けたところを見ていたからか、なんだかその左脚は頼りなく見えた。幅の広いボトムを履いているから余計にそう見えるのかもしれない。右、左、と見比べてみて、……うん、やっぱり、細くなった、よな?
 痩せたね。それを口にしかけて、ぐ、飲み込む。そんなこと、ドラケン自身がよくわかっているはず。体を動かすのがシュミみたいな男だ、さぞ鈍ったと感じていることだろう。
 靴を脱ぎながら、廊下に置いた買い物袋を拾い上げた。
「あっという間だったね」
「そう? もっと早く取れても良かったろ」
「つったって一か月ちょいでしょ、妥当妥当」
「筋トレしたくてやべーのなんの」
「……していいの?」
「……まだするなって」
 廊下と一体になった台所に立つ頃には、ドラケンはもう部屋の中に引っ込んでしまっている。財布を取りに行ったのだろう。
 ぐずぐずと聞こえてくる愚痴に相槌をしつつ、冷蔵庫を開けた。昨日の夕飯の残りがなくなっている。朝か昼に食べたらしい。タッパーに詰めておいた作り置きのおかずは、あと一品。レトルト惣菜、買ってきて正解だったな。明日・明後日と、ココに来れるか怪しいし。
 ……いや、そもそもだ。ギブスが外れたのなら、リハビリだって進むはず。少しずつ歩くように、と指導されていてもおかしくない。この家からスーパーまでの距離なんか、ちょうど良いのでは? じゃあ、自分が買って出たコレも、そろそろ終わり。終わって、しまう。
 じ、と、冷蔵庫の奥で光る灯りを見つめる。大して眩しくもないのに、目がしょぼしょぼしてきた。
「今日、何作んの」
「んんん、鶏手羽の甘辛煮のつもり」
「……酒飲みてえな」
 そのうちに、頭上から声が降ってくる。レトルト惣菜を放り込みながら見上げると、ぺらりと三枚の紙幣を差し出された。だから、多いって。じっとりと睨むが、引く気配はない。仕方なく、三千円を指先で抓んだ。半分に折りたたんで、とりあえずポケットに捻じ込んでおく。忘れて洗濯しないようにしないと。
「酒ねえ」
「ビール飲みたくなる味だろ、それ」
「まあ、たぶん、そう」
「絶対そうじゃん」
 飲みたいなぁ。そんな顔をするドラケンのことを、きゅと唇を引き結びながら見上げた。
 袋の奥底にいる、この缶ビール。どうすればいいだろう。
 コレを食うなら飲みたいよな。そう思って、深く考えずに買ってきてしまった。しかし、今思えばこいつは怪我人。完治するまで飲酒を控えた方が良いのは間違いない。……なぜ、買ってしまったのだろう。ちょっと考えたらわかるはずなのに。袋が重たかったのは、この二缶と、牛乳パックのせいである。いや、ほんと、どうしよう。
 とはいえ、黙っているわけにもいかない。買い物代だって受け取ってしまった。後ろめたさを抱えながら、そっと買い物袋の中に手を入れる。まだキンと冷えているアルミ缶の縁に、指先を引っかけた。
「……一応、」
「ん?」
「ある、けど」
「ハ」
 覗かせたのは、ちょうどロゴが見える辺りまで。床からちょっと浮かせた程度じゃ、立っているドラケンからは見えにくいかな? ……そんな心配は、杞憂で終わった。オレを見下ろしている顔から、スンと表情が消え去る。目の当たりにした真顔には、妙な迫力があった。つい、息を呑んでしまうくらいには、圧がある。
「ど、ドラケン」
「……おう」
「それ、どういう、顔……?」
 恐る恐る尋ねると、無表情の中で唇だけがムと歪んだ。遅れて、眉間にも皺が刻まれていく。
 なんで、あるんだよ。ムッとした顔から、そんな幻聴が聞こえてきた。それは、本当に、ごめん。ここしばらく飲んでないな、とか、このおかずなら飲みたいよな、とか、それしか頭になかったんだ。オレも大概疲れている。
 今日は飲めない。飲んではいけない。家主のドラケンがそうなんだから、自分も、そう。やらかした。頭の中でぐるぐる反省を駆け巡らせながら、袋の中のビールをそっと冷蔵庫の奥にしまった。
「……なんでオレ骨折れてんだろ」
「え、そこまで言う?」
「だあって、怪我してなかったら飲めるじゃん」
「そりゃそうだけど、怪我してなかったら、そもそもオレここに通ってないよ」
「ウ」
 エコバックを畳みながら立ち上がると、ドラケンの顔は不機嫌そうなソレから拗ねたものに変わる。
 そりゃね、食べたいって言ってくれれば、怪我なんかしてなくても作ってやらないこともない。でも、甘えるのを避けたがるこいつのことだ、もっともらしい理由がなければ言い出せないに決まってる。
 理由なんて、なんだっていいのに。なんなら理由がなくたって構わない。ガキの頃だったらなあ、意味もなくつるんでいられた。でも、もう大人になって久しい。あれこれ言い訳を並べないと、何もできなくなってしまった。
 ドラケンには悪いけど、骨折してくれてラッキーと思っている自分もいるくらい。棚ぼたで、まだ合鍵も預かっているし。
 やだやだ、変なとこばっか小賢しくなっちゃってさ。悶々としはじめた頭を軽く振って、まずは飯の支度だと手を洗った。
「ほら、あっち行ってなよ。いくらギブス取れたからって、立ってんのも怠いだろ」
「んなことないし」
「無理すんなってば」
「してねえよ」
 濡れた手で部屋の方を指差してみるものの、ドラケンが向こうに移動する様子はない。代わりに、のろのろと隣から退いて、シンクと反対側、風呂場に繋がる扉に寄り掛かった。片足体重の、ちょっと傾いた姿勢で、じぃっとオレの背中を見つめてくる。ボウルを出しても、調味料を並べても、肉のトレイからラップを外しても、……その視線が逸れることはない。ぷすぷす、ちくちく、背中に刺さった。
 みりんのボトルを持った手が、うっかり震える。だめだ、このままじゃ、分量を誤る。仕方なく、匙代わりにカレースプーンを取り出した。
「……なあ」
「んん?」
 鶏手羽の下準備を終えると、背後からぼそぼそと呟くような声が聞こえる。換気扇を回しているせいか、どうも聞こえにくかった。
 コンロにかけた味噌汁用の鍋に、雑に切った玉ねぎとキャベツを放り込みつつ、肩越しに盗み見てみる。……やっぱり、姿勢は傾いている。おかげで、柄の悪さが三割増し。それに怯むような自分ではないが、居心地が良いとも言い難い。そっと鍋に視線を戻した。肩を縮ませながら、キャベツに火が通るのを待つ。
「治ったら」
「ッ」
 じゅわ、と、耳元に声が染みる。狼狽えながら振り返ると、やけに近いところにそいつはいた。
「さあ、」
「ンッ……、なに」
 身を引こうにも、ドラケンの腕に阻まれる。腕? 慌ただしく視線を下ろすと、そいつは自分を挟むように台所に手をついていた。腕が長いおかげで、ぴったりとくっつくことはない。が、近い。とにかく、近い。
 状況を把握すると同時に、ぎくりと心臓が跳ねた。
「また、作ってくれる?」
 こて、と、ドラケンは首を傾げてみせる。その姿が、やけにあざとく見えてしまった。
 そんなわけあるか、大の男があざといなんて、アイドルじゃあるまいし。思いはすれども、文字通りの眼前にいる男の顔を見ていると、脳内に「きゅるっ」という効果音が響く。髪を下ろしているだけで、こんなにも印象が変わるのか。いや、これは欲目だ。贔屓目だ。腹の中に居座る愛おしさが、特殊効果フィルターを掛けているだけ。
 叫びたい衝動を押し殺して、まな板をシンクに移動させた。ざっと水を被せつつ、軽く、本当に軽く、肘でそいつの鳩尾を小突いてみる。一回じゃ、離れない。ならば、もう一回。でも、まだ離れない。この野郎。さらに三回、最後はほとんど肘をめり込ませるようにしたところで、……やっとドラケンは離れてくれた。
「みつやあ、きいてる?」
「聞いてる。つか、こんなくっつかなくても聞こえるって」
「だって、換気扇回ってると「なに!」っていつも言うから」
「それはオマエがあっちの部屋にいるときだろ」
 布巾でまな板の水気を取りつつ、ぽこぽこ泡を立たせる鍋を覗いた。そろそろ良いかな。ちら、とオレから退いたばかりの男を見やると、のそのそとそいつは冷蔵庫を開ける。ん、と右手を差し出せば、きゅ、と液体味噌のボトルを乗せてくれた。
「で、作ってくれんの?」
「……これくらい、いつでも作ってやるよ。つーか、快気祝いなら宅飲みじゃなく外のが良くね?」
 オレの作ったモンで乾杯より、外に出向いた方がずっと祝い事らしくなる。味噌汁一つとったって、自分みたいに出汁入り味噌での時短調理はしていないだろう。チェーン店なら勝てると思った時期もあるけれど、今時のチェーン店は手の込んだメニューも多い。どうせめでたい席なら、普段食べていない美味いものにありつきたいはず。外食の方が、絶対に、良い。
 味噌汁の鍋を一旦退けて、唯一のコンロにフライパンを置いた。強火に掛けて、油を敷く。頃合いを見計らい肉を並べると、それだけで空腹を煽る匂いが立ち込めた。決めた、逸りっぱなしの心臓は、この香ばしい匂いのせいにしよう。幸せな音を聞きながら、そっと火加減を調整する。
 美味しく焼けますように。今日も、この男に美味いと言ってもらえますように。然程ない技量を愛情程度で補えるわけがないが、祈らずにはいられなかった。
「オレは、」
 強火なのもあって、焼き目がつくのはあっという間。フライパンの中央に座った肉を菜箸でちょいと突いた。焼き加減を見定める。まだかな、もういいかな。
 程近いところからする囁きには、気付かないフリをした。ついさっき、背後を取られたときよりは、ずっと遠い。狭い台所で並んでいたら、これくらい近付いたって仕方ない。
 ……それでも、眼前を味わったばかりの自分には、もどかしく思えた。欲張るな、自分とこいつは、ぴったりと寄り添うような関係じゃない。恋人とか、そういうものには、なりえない。
 何度も言い聞かせたところで、真ん中の肉をひっくり返した。
―― 三ツ谷がいい」
 はしゃいでいた心臓が、鳴りを潜める。止まったのだろうか。そう思うくらいに、自分の鼓動が聞こえない。それどころか、ぱちぱち油の跳ねる音や、換気扇の回る音までわからなくなった。
 しん、と、自分の周りが静まり返る。逆に、自分の鼓膜がどうにかなってしまったのでは? もしくは、聴覚がトチ狂ったか。
 なんの音も捉えられないまま、ぎ、ギ、歪に首を動かした。目線はフライパンを離れる。
 間もなく、隣に立つ男の顔を捉えた。見えたのは、ムッと拗ねた顔、ではない。フラットな表情をしていた。無表情というには柔らかく、微笑むまでの朗らかさはない。
 はくん。空気を食んだ。
「そ、れって、」
「うーわこれ絶対美味いヤツじゃん、マジで酒飲みたくなってきた……」
「ぁ」
 沈黙が、破られる。
 気付くと、右手に収まっていた菜箸を奪われていた。自分より、大きくて、長い指が、器用に菜箸を操る。皮目が下になっている手羽肉が、次々とひっくり返されていった。そのどれもが、食欲をそそるきつね色を帯びている。
「……だから、あるって、ビール」
「やめろ、揺らぐから。治るまで飲まねえって決めてんの」
 ん、と返された菜箸を右手に収めた。受け取る瞬間にぶつかった指先が、じりじりと熱を持つ。油が跳ねたせいだったら、冷やせば済むのに。
 ……どうも今日は、胸中を引っ掻き回されている。自分の下心が恨めしい。これがなかったら、ただのダチとして振舞えたことだろう。頻繁に会っていた頃は、どうやってこの疼く思いを誤魔化していたっけ。思い出そうにも、記憶の中の自分はいつだって我慢を重ねている。はは、年季入ってるワ。この男に焦がれて幾星霜、冷める様子はありゃしない。いつだって、心拍数を煽られている。
 心臓が騒がしさを取り戻す。こっそり息を吐いて、バクバク言うソレを意識の外に放った。手慰みに、フライパンを揺する。そうだ、蒸し焼きにしないと。思い出したように料理酒を落とすと、たちまち、じゅわじゅわとフライパンが喚きだした。細かく立ち上る飛沫を遮るように、ガラス製の蓋を被せる。それでも、香ばしい音と、小気味の良い音は阻めない。食欲を、誘う一方。
「……オレは飲もっかな」
「ハァッ!? この裏切り者ッ」
「ふ、ふふふ、うそうそ、飲まないって」
 軽口を叩くと、即座に食って掛かられる。
 ほんとかよ、ほんとだよ、でも買ってきてるじゃん、飲みたかったからね。他愛のない掛け合いをしていると、勝手に顔が緩んでいく。あまりだらしのない顔は見せたくない。唇を引き結んではみるが、掛け合いをしていると抵抗虚しく、すぐに解けてしまった。
 まあ、これくらい、軽い会話をしていたら、多少緩んだ表情になったって、おかしくはないか。
 蓋を開けたタイミングで、張り巡らせていた神経を和らげる。
「あぁあ」
「ん、ふふ、ふ、すっごいいい匂いしてきたね」
「ヤバイ、うわあ、ハア? 飲みてえ……」
 くるりとタレを回しかけると、ドラケンの悲鳴はいっそう大きくなる。
 今、こいつの目には艶を纏う鶏手羽しか映っていない。これ幸い。都合が良いと言わんばかりに、オレの面は破顔する。
 ―― 盗み見られているなんて、気付きもしなかった。