二
息が切れる。
足が、縺れる。
それでも、転ぶわけにはいかなくて、必死に床を蹴った。すれ違った看護師に睨まれたが、謝る余裕はない。ただ必死に、廊下を駆け抜けた。連絡のあった病室は、この廊下、突き当りの一つ手前。エレベーター横の案内図で確かめたから、間違ってはいないはず。トチ狂って、反対の廊下に突き進んでいなければ。
壁にぶつかる手前で、急ブレーキをかけた。靴底がリノリウムに擦れる嫌な音がする。胸の奥からは、バクバクと忙しない鼓動が聞こえてきた。あった、ここだ。自分は正しく、目的の病室の方に向かえていたらしい。急に立ち止まったせいか、ドッと息苦しさが襲ってくる。こんな上がりっぱなしの呼吸、見苦しい以外の何物でもない。落ち着け、落ち着け。自分が慌てふためいたところで、事態が好転するわけじゃないんだから。むしろ、それでどうにかなるんだったら、いくらでも醜態を晒してやる。
震える指先に叱咤を打って、病室の扉に手を掛けた。
意を決して、その扉を、横に滑らせる。
「ど、らけ、ン」
ぜぇぜぇと乱れる息に合わせて、声も、途切れた。
視界に入ってくる白色に、目が眩みそうになる。四人部屋ではあるものの、そのうち二つは開いていた。片方は、布団が乗っている。退院していったばかりなのかもしれない。
よろめきながら、病室の敷居を跨いだ。手前のベッドにいる少年の視線が、ぷすり、刺さる。けれど、すぐに興味は失せたらしい。ベッドに立てつけられた簡易テーブルの上から、カリカリとペンが走る音が聞こえてきた。
と、なると。目的の男は、カーテンで区切られた向こうに、いることになる。ここは個室じゃない。同室の少年は、足こそ煩わしそうにしているが、のっぴきならない重体ではなさそうに見えた。
じゃあ、あの男も、きっと、大丈夫。大丈夫なはず。だいじょうぶ、だって。
必死に言い聞かせながら、病室を区切るカーテン、その向こうを覗き込んだ。
「ぁ」
「ん?」
開いた窓から、穏やかな風が吹き込む。その男の、解かれた髪がゆったりと靡いた。流れる髪の合間から、トレードマークの胴体が見え隠れする。
ぼた、もた、縺れるように、足が動く。面会者用と思しき丸椅子に、つま先が引っかかった。瞬く間に椅子は倒れ、カコーンと小気味の良い音がする。代わりに、部屋の対角から聞こえていた、紙を擦る音が途切れた。うるせえな、勉強してるってのに。そう、思われて、いるのかも。ごめん、邪魔して。この間も、宿題してるマナに「お兄ちゃん、うるさい」って睨まれたばっかなのに。いや、あれは家庭科の宿題で、つい口を出してしまったせいか。
「じこった、って、きいた」
「……いやあ、酷い目にあっちまった」
「がーどれーる、真っ赤に、なったって」
「ちょうど頭ぶつけてさ。見る? このガーゼの下」
「~~クッソ元気そうにしやがって!」
「うわ、デカい声出すなって……。あ、ごめんなウエハラ君、喧しくって」
「いえ、別に、オカマイナク」
全身に纏わりついていた不安は、徒労だったらしい。気付くと同時に、どっと疲れが体に圧し掛かる。久しぶりに全力疾走したのもあって、足はガクガク。椅子を起こすことも出来ず、べたんと病室の床に崩れ落ちた。
「うぅぅううう」
「おい、三ツ谷、どした?」
心臓はまだ早鐘を打っている。荒れた息を整えようと空気を吸い込んでみるが、込み上げてきたしゃっくりに邪魔をされた。全然、落ち着かない。無事だったんだから、ホッと胸を撫でおろす場面だろ、本来は。
やっとの思いで顔を上げると、そこにはやけに気づかわし気な顔をしたドラケンがいた。
―― ドラケンが、事故にあった。
その話を聞いたのは、ほんの三時間前のこと。昼休みに差し掛かり、今日は外に食いに行こうか、なんて考えていた時分だった。
引き出しの中から聞こえる振動音。がらりと開けると、しまっていた端末が着信を告げていた。大きな画面には、龍宮寺堅の四文字。こんな時間にどうしたんだろう。ええと、スマホって、どうやって電話を取れば良いんだっけ。もたもた、おっかなびっくり、指を乗せて、つ、滑らせる。
どしたの、ドラケン。
言いかけた声は、綺麗な女性の声で遮られた。
『突然のお電話、申し訳ありません。龍宮寺堅の御親友の、三ツ谷隆さんの携帯で、お間違いないでしょうか?』
オレって、ドラケンの親友だっけ。まあ、親友と言っても差し支えはない。だとしても、いざその言葉で関係を尋ねられるとむず痒くなってしまう。エ、ンと、ハイ。どうにか片言で返事をすると、電話越しの彼女は小さく安堵の息を漏らす。良かった、繋がって。そう前置きしたところで、彼女は、端的に言った。
その男が事故に遭ったから、身内か、それに準ずる人を教えてほしい、と。
「おーい、三ツ谷ぁ? とりあえず、椅子に座れって、な」
「ッオレはさあ!」
「うわ、だからココ、病室。そこに居るの、受験生」
「ごめんねウエムラ君!?」
「ウエハラです」
勢いをつけて斜め後ろを振り返ってみるが、カーテンに阻まれて少年の姿はまったく見えない。ゴメンネ、ウエハラクン。か細く言い直すと、淡々とした「いえ」が返ってきた。近頃の高校生って、こんな感じなのかな。自分がこれくらいの頃は、どんな風にしてたっけ。……暴走族上がりと、真面目そうな受験生を一緒にしてはいけない。
ままならない憤りを抱えつつ、倒れた丸椅子を起こした。それから、緩慢な動きで椅子の上に腰掛ける。
改めて見たそいつの額には、まあ大きなガーゼが貼られていた。頬や、鼻の頭にも擦れた痕がある。
「ドラケン」
「ん?」
「……無事で良かった」
「……うん、心配かけたワ。ごめん、ありがとう」
「うん」
連絡が来てから三時間。その間に、午後休をもぎり取り、イヌピーに連絡をし―― アイツ、寝坊じゃなかったのかと納得していたのは黙っておこうと思う―― 、どうにかこいつの養親にも一報を入れた。次は本人の様子を見に行くか、と思ったところで、通りがかってしまった事故現場。ひき逃げという扱いだったからか、まだそこには制服姿の警察官がいる。野次馬もちらほらいて、凄惨な噂話まで耳に入ってしまった。
そういえば、連絡をくれた女性は、あいつの容態に一切触れなかった。てっきり、無事なものだと思っていたが、伝えられないくらい酷い状態なのでは。そんなわけないと思いたいが、絶対にない、とも、言い切れない。
そして自分は、慌ただしく教えらえた病院に、駆け込むに至った。
本当に、無事で、良かった。
ようやく、体から緊張が抜けていく。ぴし、と伸びていた背は丸まり、さらに上体が前に倒れる。ぼふんと頭をベッドに埋めると、消毒の匂いが鼻に入り込んだ。
「あー、ほんと、よかった。よかったあ……」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃねえよ、オマエ搬送されるとき、いつもヤバイ怪我してんじゃん」
「そりゃ掠り傷で搬送はされねえだろ」
「言葉遊びをしたいんじゃねえんだよ、入院するだけの怪我したって自覚ある?」
もそりと首を捻って睨むと、ドラケンは苦笑しながら肩を竦める。
「説教はもうされたから、これ以上は勘弁」
喉元にまで上がってきていた諫言を、ぎゅ、堰き止める。もうされた、とは。
体を起こして、傷だらけの顔をまじまじと眺めた。困ったような、曖昧な表情の奥には、疲労が見える。そりゃそうだ、話の通りなら、こいつは事故って、頭を打って、足を骨折したのだから。けれど、ドラケンの痛みへの強さはある意味異常。打撲は笑って済ますし、鎖骨にヒビが入っていたのに、ちょっと違和感ある程度で終わらせようとした前科もある。なら、この疲れは、メンタルに由来するもの?
そこで、ハと、病室を見渡した。
「あれ……」
「ん?」
「彼女さんは?」
「彼女?」
「オレに連絡くれたのも、その子だろ? てっきり一緒いるもんだと」
「あー、まあ、ウン。昼過ぎまではいた」
ドラケンの顔が、げんなりと歪む。
なるほど、彼女に説教をされたのか。恋人が事故に遭ったにもかかわらず、冷静に連絡をくれたくらいだ。感情的にわんわん叫ぶより、滔々とこいつに説教している様の方が想像しやすい。まあ、どんな子なのか、電話越しでの声しか知らないのだが。
見渡した限り、女性用の鞄は見当たらない。買い出しに行ったのだろうか。入院するとなると、何かと入用だ。もしかすると、家に着替えを取りに行ってくれているのかもしれない。良い子じゃん、大切にしろよ。
「……実は、さあ」
「うん?」
ぱ、と、ドラケンに視線を戻す。その先では、相変わらず顔が歪められていた。そんなに嫌味ったらしい説教をされたのだろうか。……それなら、こんな煮え切らない喋り方はしないはず。
疑問を浮かべているうちに、首が傾いていく。伸びた前髪が、さらり、視界を横切った。
「―― フラれた」
「は?」
「だから、フラれた」
「……どう、え? いや、さっきまで、いたんだろ、ここに」
「おう」
「事故った上にフラれたってこと?」
「や、フラれたあとに事故った」
「ハァア!?」
「おい声」
「ごめんなウエハラ君!!」
「ぅお、アッいえ、どうも……」
勢いよく肩越しに振り返ると、今度こそベッド上にいるウエハラ君が見えた。まさか、また話しかけられると思わなかったのだろう。ぎゅっと肩を上げて、目をまん丸に見開いていた。
さておき、ぐるんとドラケンに向き直る。どういうことだ。上手くいってたんじゃないのか。結婚するんじゃなかったのか。……結婚はオレの妄想だった。晴れ着を作りたい欲は、一旦腹の奥底にしまい込む。
食い気味に見つめていると、ドラケンはぐにゃりと唇を歪めた。存外厚みのあるソコが、言葉を探してもごもごと波打つ。やがて、渋々と言わんばかりに、口を開けた。
「別れようって話をした、その帰り道で撥ねられて」
「ぅ、わあ」
「おかげで、さっき「寝覚めが悪いことするんじゃねえ」って静か~に説教されたんだワ」
「それは、なんつーか、ご愁傷様……」
フラれたショックで事故か。これぞ泣きっ面に蜂。悪いことが重なるなんて、これが厄年か。いや、厄年は去年だ。今は後厄。いよいよ厄が開けるタイミングでコレとは、こいつも苦労するな。
もごもごと言葉を探しはするが、下手な慰めをするわけにもいかない。一旦、話題を逸らそう。それが良い。
「あー、ドラケン、店の方ってどうすんの」
「……イヌピー一人で店どうにかなると思う?」
「……ごめん、話題間違えた」
「や、考えなきゃならねえことだから……」
メンテは大丈夫。修理も問題はない。技術はあるのだ。しかし、口が、悪い。言葉を選ばないとも言う。クレームを受けることも、一度二度の話ではなかったはず。
早速、ドラケンの頭を抱えさせてしまった。そうじゃない。ドラケンの言う通り、考えなくてはならないことではあるが、事故に遭って一番に悩むべきことではない。
「やめやめ、今は治すのに専念しなよ」
「つったってよお」
「治さないとなのは事実だろ。オレで良けりゃ、いくらでも手ぇ貸すし」
オマエだって忙しいだろ、という小言は黙殺する。自分の仕事なんて、どうにでもなる。ならなくてもする。……というか、タイミングの良いことに、一段落ついたところなのだ。しばらくは、自分のポートフォリオを充実させようかと思っていたくらい。そこにドラケンとのやりとりが増えたって、なんてことはない。
むしろ、愛しい男の顔を見れるのだ、自分にとってはおつりが来る。
「こういうときでもないと、ドラケン、誰のことも頼んないじゃん」
細やかな欲はそっとしまい、代わりにそれらしい台詞を取り出した。
「甘えても、いーんだよ」
ちょっとしたからかいの意味も込めて、にんまりと笑って見せる。そんなオレを見るや、ツンとドラケンの唇が尖った。誰が甘えるか。そう、ムキになっているらしい。
けれど、その強情も長くは続かない。思うところがあったのか、ふらりと一度目を逸らしたあと、むにゃむにゃと唇が緩んでいった。
「じゃあ」
控えめに、その口が音を発する。離れていた視線は、気恥ずかしそうに戻ってきた。
「今、っていうか、退院してからのこと、なんだけど―― 」
おう。言ってみ。首を傾けて続きを促すと、そいつはまあ細やかなオネガイを口にした。
◇◆◇
足しげく病院に通うこと二週間。
そいつは無事に、退院した。
「……なあ、安静、って言われてたよな」
スーパーのレジ袋片手に店の扉を開けると、作業机に座ったドラケンと目が合った。傍らには松葉杖。入口からはよく見えないが、昨日の通りならギブスを巻いた足は丸椅子の上に置いているはず。
じとりと目を据わらせれば、すぐに苦笑が返ってきた。一応、まずいことをしているという自覚はあるらしい。なら、いいか。……いや、良くはない。大人しく家で療養しろ、そこは。
「いつまでもイヌピーに任せきりにはできないだろ」
「まったくだ、働け」
「今時のコが聞いたら、ドン引かれるよ、ソレ」
ここにいる従業員は、この二人ぽっち。だから、互いがソレを良しとしていたら、引く引かないの話ではない。が、まあ、この現代においてはブラックと判定されることだろう。繁盛してきたからって、整備士を増やしたいなんて話をしていたけれど、果たして増やして大丈夫なのだろうか。
小さく息を吐いてから、ガラス戸から手を離した。よく磨かれた扉が、ゆっくりと閉まっていく。それとなく店内を見渡すと、外からの光を吸って、車体がキラキラと輝いて見えた。どれもメンテナンスが行き届いている。強面ではあるけれど、ここの整備士は揃って腕がイイ。その話を聞きつけて遠方からやってくる客もいるとか、なんとか。
すっかり見慣れない様相をしたカワサキの新モデルを眺めていると、ふと、ウィンドウ越しに視線を感じる。ぱ、と顔を上げると、自分よりも小柄な学生服と目が合った。あの学ラン、近所の中学生だろうか。ボタンを開ける程度の着崩しはしているけれど、かつての自分たちほどの改造はしていない。これが今の主流なんだよな。まあ、自分の時ですら、極端に改造する奴は多くなかったけれど。
慌てたように走っていくのを見送ってから、もう一度息を吐いた。振り返れば、今度は工具を持ったイヌピーと目が合う。
「……声、掛けた方、良かった?」
「気になりゃ入って来るだろ」
「そういうもん?」
「そーいうモン。そのうち免許取って買いに来る」
「ああ、アイツな。まさか、ウチで買ってくれるとは思わなかった」
え、え、と飛び交う会話に合わせて首を振る。ドラケンはくつくつと心底愉快そうに喉を鳴らすし、イヌピーもなんだか満更ではない顔をしていた。何、何の話。ぐ、っと詳しく聞きたい衝動に駆られるが、自分は部外者。顧客情報をおいそれと聞くわけにもいかない。
昨日も感じた居心地の悪さを思い出しつつ、のろのろと作業机に近付いた。今頃になって、左手に提げたレジ袋が重たく感じる。キャベツ買ったからかな。牛乳を買うのは昨日にしておいて良かった。
「なに拗ねてんの」
「は、拗ねてないし」
斜め下から掛けられた声に返したそれは、我が事ながら拗ねているようにしか聞こえない。ニヤけるように口元を緩ませる男が、憎たらしく見えてきた。その顔を眺めていたくなくて、わざとらしく目を逸らす。それが余計にいじけて見えたのか、ドラケンの喉がくつりと鳴った。
「そお? ならいいんだけど」
「……」
この野郎。睨もうにも、視線を戻すとアレコレ数字の並んだパソコンまで見えてしまう。たぶん、見ない方がいいヤツだ。うらうらと視線を彷徨わせて、ひとまず、机に広げられたパーツのカタログに固定する。これは、きっと、顧客にも見せるヤツ。自分もしばらく前にメンテナンスしてもらったとき、見せられた覚えがある。うん、これなら、見ても大丈夫そう。
カタログを押さえる骨ばった指先が、文字をなぞるように動く。つるりとした紙の上を、左から右へ、下に動いてまた左から右へ。たった二週間、入院していた程度じゃ、整備士の貫禄はなくならない。指先、爪先の浅黒さを、つい、目で追ってしまう。
「三ツ谷ぁー」
「なに」
「オレの手ぇ見るの、そんな楽しい?」
「うん、楽しい」
「……今、終わるから、ちょっと待ってて」
「ん」
許されるのなら、触りたいくらい。茶化すように言ってやろうかと思ったが、ぶつんと話を切られてしまった。仕方なく、手近な椅子を引き寄せて、そいつの傍らに腰掛ける。床に置くわけにもいかないから、レジ袋は膝の上に。ずしりとキャベツの重さが乗った。一玉ではなく、半玉にすべきだったろうか。でも、昨日見せつけられた消費量を思うと、半玉じゃ心許ない。なにより、一玉で買った方が、断然安い。
紙面とキーボードを行き来する指先を目で追いかけながら、入院したその日に聞かされた、細やかなオネガイを思い起こした。
『買い物、付き合って』
なんの、と尋ねる前に、そいつはぽつぽつと付け加え始めた。
この足だと、しばらくはバイクに乗れない。そもそも歩くの自体、満足にできない。ちゃんと食べて、ちゃんと寝ればすぐ治る。そう言われたものの、自宅の冷蔵庫はほとんど空っぽ。水と酒と牛乳しか入っていない。
『牛乳? 大丈夫なのソレ、退院する頃には腐ってんじゃない?』
『……やべえな。なあ、時間あるときで良いから捨てといてくんねえ?』
『え、ワッ』
話の流れとはいえ、おもむろに合鍵を預けられて動揺したのはここだけの話だ。
つまるところ、退院する時に諸々の買い物に付き合ってほしい、ということらしい。冷蔵庫の中もその通りだが、ドラケンはそもそも持ち物が少ない性分をしている。自宅で療養するにしたって、物が揃っているとは言い切れないのだ。とはいえ、家の中で長時間過ごすとなった時、何がどこまであれば良いのか、わからないのが正直なところ。
それで、生活用品の買い物に、付き合ってくれ、と。
『……生活必需品は、そうだね、牛乳処分がてら何買ったらいいか見繕っとく』
『マジ? 助かるワー』
『それは、それとして。……飯、どうするつもり?』
『飯?』
『退院したって、しばらくはその足だろ』
『コンビニ、近所にあるから』
『いや、ウン、それは、知ってる』
確かに、こいつの住む家の徒歩圏内に、コンビニはある。それも各社の店が。普通に暮らしていたら、その日の食い物に困ることはない。
かといって、療養の時の食事がコンビニ飯で良いのか? そりゃあ最近のコンビニ弁当は健康志向のものもある。だが、ソレをあえてこいつが選ぶだろうか。物足りない、といって、ガッツリした弁当ばかり買って過ごしそう。偏るのが、目に見える。
『あ、のさ』
仕方ない、治るまで、飯の面倒も見てやるよ。ありがたく思え。
それくらい高慢に言えたら、どれほど良かったろう。現実じゃあ、余計なお世話と突っぱねられやしないか、気が気がじゃなかった。これで、もし自分が「彼女」と呼ばれうる立場だったなら、遠慮なく言えたろうに。……どうだろう、仮に自分が女で、こいつと付き合っていたとして、率先して世話を焼ける自信はない。だって、ドラケン、過干渉キライだし。ウザいって言われたくないし。
いや、いや。ありもしない、もしもの話を考えるのはやめ。当たって砕けろ、そこまでしなくていいと突き放されたら、潔く諦める。
丸椅子に掛けたまま、意を決して、口を開いた。
『オレ、作って、やろっ、か?』
何の気なしに眺めた横顔は、あの日とだいたい同じ。違うところは、額のガーゼがあるかないか。擦れた傷は残っているが、もう塞がっている。細かいかさぶたが取れてしまえば、あの怪我をしたことなんてわからなくなるだろう。
いつもなら、きちと結われている髪も、今日は緩い。流石に顔の横に垂れてくるのは邪魔だったのか、前髪の一房は耳に掛けられていた。一応、オフとして過ごすつもりだったのが窺える。
けれど、店に顔を出してしまった。せめて電話に留めておけば、あの同僚だって「オダイジニ」で済ませてくれたろうに。店に来たってことは、働けるんだな。そう淡々と投げかけられて、任せとけと言い返す様が、見てもいないのに浮かんで来る。
何してんだよほんと、大人しくしてろよ、ばか。
「悪かったって、昨日のアレ見たらさあ」
細やかな不満は、声に出ていたらしい。
こんなことなら、昨日の買い物帰りに「店、見ていく?」なんて言わなきゃ良かった。イヌピーだけで回せないこともない。通常なら月一でしか来ない九井会計士サマが、週一に頻度を上げてくれたらしいから、とりわけ金に関しちゃ困ることもなかったろう。
ただ、それでも、一人でやりくりするには限界がある。後回しでもいいけれど、その分、月末に苦しむ羽目になる事務仕事。それらが見事に山になっていた。昨日、あの紙束を見た瞬間のドラケンの顔、すごかったなあ。
「……いいよ、オレだって、ここにいるんだろうなって思って、寄ったわけだし」
「全然「いいよ」って顔してねえじゃん」
「安静にしてろばかって思ってるからね」
「事務仕事しかしてないって」
「仕事してる時点で、安静とは言えないんだよ」
「そりゃそうだ」
再びくくっと笑ったドラケンは、右手でマウスを包む。手が大きいせいもあって、やけに窮屈そうに操作していた。カチカチという音に合わせて画面が切り替わっていく。あっという間に画面にはバイクの写真が映し出された。最初の画面を、そう設定しているらしい。
ちら、とドラケンに視線をずらす。同じタイミングで、そいつもこちらを向いた。瞼が、重そう。何時間、画面の前にいたんだ。ほんと、ばか。
「……終わった?」
「ん。イヌピー、あとよろしくな」
「おう、さっさと食ってさっさと治せ」
「任せとけ」
ドラケンが立ちあがる前に、立てかけられた松葉杖を引っ掴んだ。平然と立ち上がってみせるそいつにドキドキしながら、杖を手渡す。
病院の中でも、車椅子ではなくコレで移動していただけあって、ひょいと軽やかに一歩を踏み出した。いつも歩くよりは遅いのだが、ゆっくりだと身構えるほど鈍くもない。ぱたぱたと先回りして、ガラス扉を押し開けた。
「三ツ谷」
ガラス扉から手を離しつつ振り返ると、イヌピーが歩み寄ってきているのが見えた。昨日はもっとそっけない態度だったが、今日は見送る気分らしい。
瞬きしているうちに、松葉杖をつく音が目の前を通り過ぎていく。全開にした扉は、突風が吹かない限り閉まることはない。それでも一応、手で押さえて、ドラケンが店を出るのを待った。
「何、どしたの」
こつん、松葉杖の先が店の前のコンクリートに触れた。地面についている足が浮く。ひょい、と、胴体が敷居を越えた。無事にそいつは、外に立つ。よし。
きっちり見届けてから、改めてイヌピーに目を向けた。オレのすぐ隣にやってきたところで、ドラケンとなにやらアイコンタクトを交わす。あとはよろしくな・おう、任せとけってか? それはさっきやってたよな。
ぼけっと二人を眺めていると、ようやくイヌピーの視線がこちらに降りてきた。応えるように目線を持ち上げる。光を浴びて、金糸がきらきらと透けた。ム、と引き結ばれがちな唇が、小さく動く。
「よろしくな、そいつのカヨイヅマ」
「……せめて家事代行って言ってくんない?」
「似たようなもんだろ」
かなり違うと思う。
訂正しようにも、今度はドラケンに呼ばれてしまった。三ツ谷ぁ、早く帰ろ。数歩離れた先から、声が飛んで来る。もそもそ仕事をしていたのはあっちのはずなのに、オレがもたもたしていたみたい。
仕方なく、違うからな、とイヌピーを睨むだけ睨んで、歩き始めているドラケンを追いかけた。ほんの数メートルの距離は、三秒もあれば詰められてしまう。いつもなら、肩を並べて歩こうと思ったら、気持ち程度の早足をする。だが、今はコンパスの違いを気にしなくて良い。妹と連れ立つときと、ほとんど同じペースで足を動かした。
かたん、かったん、かた、かたん。慣れた手つきをしているものの、路面を叩く音は不規則。いくら家が徒歩圏内とはいえ、これじゃあ店に辿り着くまでも大変だったろう。
骨折したときって、バイクの後ろに乗せるのもまずいのかな。結構揺れるし、振動も伝わる。勧められるような移動手段では、なさそう。
「……こういうとき、車があったらいいのかな」
「そ? リハビリみたいなもんだろ。そんな遠いわけでもないし」
「つったってさあ、しんどくない?」
「体鈍る方がオレはイヤだな。……それにほら、オマエもいるし」
「は」
かたん。ちょうど赤信号だったのもあって、杖を突く音が止まった。ぎ、と首を捻ると、すぐ目の前を車が通り抜けていく。咄嗟に零した音のまま口を開けていれば、ア、なんて音と一緒にドラケンの腕が伸びてきた。脇に挟んでいた松葉杖が倒れかける。慌ててそれを引っ掴むと、なぜか、くんっと肩を掴まれた。……抱かれた、と言っても、いいのかもしれない。
なんで?
思うと同時に、真横からエンジンの嘶く声がした。膝のあたりにキャベツをぶつけながら、は、と振り返る。目線の先には、フルフェイスのヘルメット。そのライダーは、信号待ちしながら縁石に片足を乗せた。あのままの立ち位置だったら、自分はまだしも、レジ袋はぶつかっていたかもしれない。大事なキャベツが。卵は入っていないけれど、キャベツだって、割れたらショックだ。
「あ、ぶね」
「ぶつかってない?」
「うん、サンキュ」
抱き寄せられた分、近付いたところから、ドラケンの声が聞こえた。ちら、と盗み見ると、文字通り眼前にそいつの鼻先がある。唇は、思いのほか愉快そうに歪められていた。
「オレさあ、三ツ谷とつるんで歩くの、結構好きだよ」
「……危なっかしくて、面白いから?」
「まあ、そういうのもあるけど、今のはマジでたまたまだって」
「あ、そ」
「拗ねンなよ、ほんとに、久々にたらたら歩くのも良いかなって思って」
松葉杖を返しながら、よろよろと姿勢を直す。とはいえ、ドラケンは動いてくれないから、半歩下がったような位置に落ち着いた。
話し足りないのか、ドラケンは肩越しに視線を送ってくる。その目は、やっぱり愉しそうな色に染まっていた。
……そーですね、ガキの頃は並んで歩いていると、いつもオレが絡まれる役だった。肩をわざとらしくぶつけられるとか、物騒ないちゃもんをつけられるとか。で、ドラケンが嬉々として乗っかってくるのだ。喧嘩か、言い値で買うぜって。オレの肩を抱く、というか、組んでくるのも、喧嘩買取時のルーティンワーク。ぐ、と近付く距離に、しょっちゅうどぎまぎしてたっけ。
当時は、声変わりしたてのドラケンに慣れてないせいだと思っていた。けれど、あの時にはもう惚れていたのかもしれない。いや、出会った時から、惚れてはいたか。不良の姿に惚れて、人となりに惚れて、最終的に男として惚れたのだから。
勝手に跳ねる心臓を、必死に意識の外に追いやる。動揺が顔に出てないと良い。そう願いながら、手持無沙汰になった方の手で前髪を整えた。
「しかも飯まで作ってくれるなんてさ」
「自分から言っといてなんだけど、鬱陶しかったら言えよ」
「鬱陶しい? なんで、美味い飯食えるのに?」
「……美味くはないだろ。ルナにもマナにも八戒にもしょっぺーとか味濃いとか言われるし」
「いつの話してんだよ」
ふ、ドラケンが顔を緩ませる。見上げた先では、信号が青に変わったところだった。
ほら、早く帰るんだろ。ぽんと背中を叩くと、今気付いたと言わんばかりに、松葉杖が横断歩道に伸びる。かつん、かたん、かつん、かったん。偶然なんだろうけれど、ドラケンの無事な方の足は、きっちり白線の上に乗っていた。つられて、こっちも歩幅を合わせてしまう。白いところから落ちたらサメに食われる、なんて遊び、こいつとはしたことないのに。そういう遊びができる友達として出会っていたら、惚れずに済んだのだろうか。
ありもしない過去に思いを馳せると、たちまちドラケンの足がただのアスファルトを踏む。あ、食われちゃった。追いかけるように、自分も黒いところを踏みつける。歩道に辿り着く頃には、半歩後ろに構えていたのがすっかり隣へと戻っていた。
「今晩はさあ」
「んー?」
「なに作ってくれんの」
「……焼き鮭と、まあと色々、テキトーに」
「てきとーねえ?」
「てきとう、だって」
「嘘吐け、すげえ考えてるだろ」
「残念でした。ほんとになんとなくしか考えてない。だから期待すんなよ」
ちょっと黙っただけで、こんな勘違いをされるとは。少なくとも今は、夕飯のことなんて考えてなかった。ドラケンとのやりとりでいっぱいいっぱい。
わざと大きくレジ袋を揺らすと、くしゃりとドラケンは顔を綻ばせた。重そうな袋を提げているくせに、考えていないわけがない。そんな過信が顔に書いてあった。……本当に、テキトーなんだよな。野菜は摂らせようとか、魚は健康に良さそうとか、その程度。この機会に、栄養のこと、ちゃんと調べてみようか。
突き刺さる期待に応えかねて、ぷい、と車道の方に顔を背けた。
「ムリ」
「はぁ?」
しかし、ぽいっと吐きつけられた言葉に、首の向きを戻してしまう。
さらりと耳から前髪が垂れた。その一房越しに、にんまりと細められた目が見える。いたずらを思いついた子供みたい。もしくは、絡まれたオレをダシに、喧嘩を買い取っていたガキの頃のよう。
「だって、楽しみだもん」
ところで、口調まで、幼くなる必要、ある?
悪態はひとまず飲み込んで、今度は半歩、そいつの前に出た。アパートはもうすぐ。ここの角を曲がったら見えてくる。かたん、かったん、松葉杖をつく音を聞きながら、今日作れるいちばんの献立を頭の中で組み立て始めた。鮭焼いて、キャベツとキュウリとハムでサラダだろ。味噌汁の具は、ええと、冷蔵庫に豆腐があって、今日は玉ねぎ、しめじを買った。よし、どうにかなる。もう一品ほしい、冷蔵庫に何あったっけ、小松菜と、そうだ、厚揚げがある。煮びたしっぽくすれば良い。
意識を献立に向けないと、頬が緩んで仕方なかった。情けない顔は見られたくない。もう一歩、早足で地面を蹴った。
「ほんっと―― 、」
「ん、なんか言った?」
「……楽しみだなって」
ああ、もう、腕に縒りを掛けるしかないじゃないか。
ム、と口を尖らせると、一歩半後ろにいたドラケンはやっぱりくつりと喉を鳴らすようにして笑った。