一
きっとこれは、恋とか愛とか呼ばれる感情なのだろう。
そりゃあ、出会ってしばらくの頃であれば、憧憬と表すのが相応しかったと思う。しかし、もうその域は超えてしまった。憧れなんて淡い響きで済ませるようなモノではない。
―― 龍宮寺堅という男に、自分は心底惚れている。
その事実は、きっとこの先も一生、覆ることはないのだろう。
「でも付き合いたくないって、どういうことよ」
「そのままの意味だって。好きだけど、どうこうなりたいわけじゃない」
静かに言えば、隣からため息が返ってきた。スタジオの中央に向けていた視線を、ちら、柚葉に移す。けれど、目が合うことはなかった。跳ねたアイラインがよく見える。キリッとした瞳には、フラッシュを焚かれる弟のことしか映っていなかった。
仕方なく、自分も視線を八戒に戻した。そいつが身に纏っているのは、自分が仕立てたものだ。どうして、自分なんて無名のデザイナーの服を宣材写真に使いたがるかな。折角、名前も売れてきたんだから、もっと選べるだろうに。まあ、こっちのデザインを魅せる機会にもなるから、ありがたく引き受けさせてもらったのだが。
それとなく、視線を横にずらす。視界に入った女性スタッフは、すっかり八戒のオーラに呑まれていた。うっとりと見つめている、とも言う。……柚葉も、それに気付いたのだろう。隣から滲む雰囲気に、剣呑さが混じる。女が苦手なのは仕方ないとして、自分であしらえるようになってほしい、とは、柚葉の言。ちなみに、このマネージャーも大変モテるので、この後は男性スタッフを跳ねのけて八戒を回収することになる。オツカレサマだよ、ほんと。
『そうやって人のコト茶化すけど、そっちこそどうなの。あのバイク屋と』
ひたすらに撮られる弟分を眺めつつ、吹っ掛けられた台詞を反芻する。
むずり、唇が波打った。
「ええ……、オレ、そんなにアイツのコト、好きッて顔してる?」
「見る奴が見たらわかると思うけど。つーか、本人にもバレてんじゃないの」
「さすがにそれは、……ナイナイ」
「ふぅん」
「おい、そういう含み持たせるの、やめよ、な?」
苦笑いを浮かべながら再度柚葉を見やると、流し目のソレと視線が合う。一秒にも満たないアイコンタクトだが、なんとなく、煽られているのは伝わってきた。やめろよ、そういうの。喧嘩、買いたくなるだろ。
あれこれ捲し立てたくなるのを堪えて、よろよろと目を泳がせた。
ドラケンのことは、好きだ。それは、間違いない。自信を持って言える。本人に、伝わらない確証さえ得られるのなら、大声で叫んだって良いくらい。
そう、伝わらないのであれば、だ。
「オレはさ、アイツの、いちばんのダチでありたいんだ」
「親友って言えよ」
「うーん、なんか、くすぐったいじゃん」
「いちばんのダチって言い方だってむず痒いっての」
「あはは、それはそうかも」
乾いた笑い声を零しているうちに、スタジオを照らしていたフラッシュが鳴りを潜める。休憩だろうか。中央を見やれば、メイクスタッフが八戒に駆け寄っていた。ほとんど同時に、柚葉の肩が強張る。もちろん、八戒の肩も。とはいえ、化粧直しをする側にとっては、じっとしてくれた方が都合が良い。手早くモデルの顔を整えた彼女は、淡々と元の位置に戻っていった。色目を使う様子は、欠片もない。隣から、ほっと安堵のため息が聞こえてきた。
「……あいつ、ほんと耐性つかないよな」
「言ったっけ、この間、ルナちゃん見て固まったよ」
「嘘、平気だったじゃん」
「マナちゃんとは平気だったから、高校生くらいの、あの辺からダメみたい。大人っぽい服だったのもあるかも」
「あー、それはある、かも。最近、ブランド物欲しがるようになってさあ」
「良いことじゃん」
「いい、のか……?」
「良いこと、良いこと」
首を傾げていると、ようやく視線の先にいる八戒のフリーズが解けた。しかし、まだ動きはぎこちない。カメラマンがあれこれ声を掛けているが、落ち着くのにはまだ時間がかかりそうだ。
「今に、カレシ、連れてくるよ」
「止めよう、この話」
「さっさと妹離れしろ」
「それとこれとは話が別」
「あの子、本命に奥手なとことか、三ツ谷にそっくりだよ」
「うっわ、聞きたくなかっ……、いやオレ別に奥手じゃないし」
「本命に、つっただろ」
「ドラケンは、本命、とか、そういうんじゃないって」
いや、本命と言えば、本命ではある。ただ、付き合いたいとか、そういう風に触れたいという欲が薄いだけ。薄いからこそ、腹の底に沈めておける。それらしい言葉を使えば、この恋は墓場まで連れていける、といったところか。
かといって、こんなこと口にすれば、いっそう柚葉が顔を顰めるのが目に見えている。鬱陶しい。冷たく一蹴される幻聴が鼓膜を掠めた。
ぐるぐると頭を悩ませながら、浮いた右手でこめかみを掻く。
「なんつーか、あいつの恋人とか、伴侶って枠組みに自分を当て嵌めると……、違和感がヤバイ」
やっとの思いで、捻りだした。捻りだして、これって、どうよ。もう少しイイ言い回し、あったろ。自分でも思う。となれば、柚葉も同じことを考えていることだろう。
すっかり呆れ返っているに決まってる。伸びた毛先を指に絡ませながら、そっと隣を盗み見た。
「まあ、」
腕を組んだ姿勢のまま、小さく唇が開く。控えめな色味のリップは、意外と似合っている。弟よりも目立たないようにとこのメイクなのだろうが、逆に男の目を引いていること、どう伝えたら良いだろう。
撮影が再開されたというのに、珍しく、マスカラの行き届いた睫毛が伏せられた。
「……わからないでもない」
「え」
か細く、それこそ、やっとオレに聞こえる声量で、柚葉は零した。ツンと唇が尖っているように見えるのは、気のせいだろうか。
「アタシにもいる、そういう人」
「……誰、なのか、聞いてもいい?」
つられるようにして声を潜めると、ブラウンの乗った瞼がぴくりと震えた。教えてもらえない流れ、かな。でも、こっちの焦がれる相手だけバレているというのも落ち着かない。
静かに息を吸い込んで、細く長く、吐き出していく。そんな、深呼吸と言う程でもない深さの息を三度繰り返したところで、柚葉の瞳が顔を出した。視線は、確かにオレに向いている。けれど、焦点は随分と遠いところにあった。
「―― 花垣武道」
あ、と漏れた声は、柚葉に聞こえたろうか。
ふいと八戒の方に視線を戻した横顔には、もう、先程の淡い情は映っていない。いや、面の皮の下に隠した、というのが正しい気がする。
そういえば、そうだった。いつだったか、そんな話、した。居合わせた八戒がやけに焦った顔をしていたけれど、オレが淡々と受け入れていたから、ぽかんと間抜け面を晒していたっけ。てっきり、たかちゃんはゆずはのこと。無駄に舌の回っていない声色が、昨日のことのように思い出される。何を期待してたのか知らねえけど、柚葉のことは妹にしか見えない。姉でもいいかも。
「アイツのそういう枠はさ、ヒナちゃんじゃないと」
「……うん」
「あの二人で、幸せになってほしい」
「うん、」
確かな共感を覚えながら、相槌を打った。
かつてなら、その男の、この枠は、あの子のものだった。もし、まだあの子と続いていたら、柚葉とすっかり同じことを言っていただろう。間に入ろうなんて思いもしない。あの二人で幸せに生きることを、心の底から願っていたに決まってる。
静かに瞼を閉じた。ああいう、キラキラしていて、かつ、揺るぎない関係って、良いよなあ。できることなら、今のアイツにも、そういう確固たる相手を見つけてほしい。
「アイツにも」
「うん?」
「そういう人、できるかなあ」
「自分が、って、なんないの。こっちと違って、特定の相手、いないんだろ」
「うーん、確か彼女はいるはずだよ。付き合って、三年くらい?」
「……オマエ、三年ぽっちの女に負けんの」
「恋人枠では勝ち目ゼロだって。オレは、アイツのダチなんだから」
「……ふぅん」
あくまで、あの男にとって、自分は一介の友人に過ぎない。そりゃあ、泥臭い付き合いの中で培った信用はある。しかし、それは恋情由来のものじゃない。親友がせいぜい。その枠を飛び越えた特別に、自分は当て嵌らない。
ああ、でも、下心を許してもらえるのなら、最大限「親友」としてできることは、したいなあ。
たとえば、そう。
「夢なんだよね、アイツの晴れ着、仕立てるの」
和裁は不得手だ。だから、作るのならば、タキシード。真っ白だろ、光沢感のあるブルーグレーだろ、あとやっぱり、黒。アイツは本当に黒が似合う。黒を着て、華やかに見えるって、いっそ才能だと思うんだよね。
柚葉は三年ぽっちと言うけれど、アイツは合わない相手とは一週間も続かない。だが、今の相手とは三年続いている。となれば、結婚も全く考えていないわけではないはず。
なぜかドラケンは、彼女のことをオレに何も教えてくれないけれど、別れたって話も聞かない。とりあえず、上手くやってはいるのだろう。惚れた腫れたの色めきだった話をすること自体、好まない奴だから、水面下でアレコレ進んでいたりして。楽しみだな、めでたい話、早く聞きたい。
見ず知らずの彼女に思いを馳せながら、ほう、と息を吐いた。
「……スピーチ、って言わない辺りが、アンタらしいワ」
「はは、スピーチはなあ。どうしてもって言うならやってやらんこともない」
「上から目線かよ」
「上から目線ですよ」
「ウワ……」
ニ、と悪戯に笑ったつもりだったが、なぜか柚葉はあからさまに顔を顰める。そんなヤバい表情だったのか。まさか。
こちらの憂慮など気にも留めず、柚葉は大きくため息を吐いた。今日だけで、何回吐くのだろう。ため息ごときで逃げる幸せなんてたかが知れているが、これほど続くと気になってしまう。八戒の仕事、減っても知らねえぞ。
「その面で、よくもまあバレてないと思えるよね」
「……なあ、オレ、そんなに好きッて顔、してんの?」
恐る恐る尋ねると、ハッといっそ嘲るような笑い声を投げられた。あ、その笑い方、大寿そっくり。
「―― 愛してるって顔してんだよ、アンタ」