三
犯したい、という衝動を堪えられたのは、聞き馴染んだエンジン音のおかげだろう。こんなところで事故ってなるものか。それも、後ろから運転手の邪魔をして事故るなんで、もってのほか。必死に言い聞かせて、乗り切った。
しかし。しかし、だ。
「ッ」
三ツ谷の家の玄関を潜った瞬間、理性の糸が千切れかける。普通に呼吸をしただけなのに、頭の奥が焼けるように熱くなった。
誰だろうと、その家の匂いというものはある。完全に無臭というわけにはいかない。案の定、そのアパートは玄関を開けて早々に三ツ谷の匂いがした。ほのかな甘さを含んだ匂いだ。ひゅ、と息を吸ってしまったが最後、ぐらりと体が揺れる。膝が震える。閉じた玄関扉に背中を預けながら、ずるずると体が沈んでいった。
「うわ、大丈夫かよ」
「そー見えんのか……」
「全然」
オレより先に入った三ツ谷は、既に靴を脱いで上がっている。その段差の分と、オレがしゃがみこんでいるせいとで、随分と高いところに三ツ谷の顔があった。見上げながら睨みつけた顔には苦笑が浮かんでいる。いつだったか、何かの喧嘩で、オレが休憩と座り込んでいたときは、決着がつくのに合わせて手を貸してくれたっけ。あの時も、「ウワ、大丈夫かよ」と言っていた気がする。だが、今日は手を貸してくれない。まあ、差し伸べられたら逆に引き寄せてしまうだろうから、貸してくれなくていいのだけれど。
もしかすると、三ツ谷もわかっているのかもしれない。ほら、と手を差し出したら、オレに捕まると。
「……なあ」
「ん?」
「なんでオレのことつれてきたんだよ。あぶねーとか思わねーの」
そこまでわかっているのなら、なぜ、コイツはオレを家に連れてきたのだろう。何か理由を付けて逃げれば良いものを。わざわざ自分のねぐらに連れ込むなんて、正気を疑う。
……正気じゃ、無いのか? あの甘い香りを纏っていて、さらに「項を噛むな」と言ったくらいだ。コイツはオメガと思って間違いない。じゃあ、オレは、誘い込まれたというのか?
「公共の場にラット起こしかけのアルファ放置するほうが危ないだろ。そりゃドラケンなら大丈夫だったかもしんないけどさあ」
「はぁ?」
やれやれと三ツ谷は大袈裟なため息を吐いた。ため息を吐きたいのはこっちだ。オマエは何を言っている。
確かに、変に盛ったアルファがその辺を歩いていたらマズい。それはわかる。で、オレなら自制できるだろうと三ツ谷が見当を立てるのも、わからなくはない。安定剤のおかげで、これまでオメガの発情に中てられたことがないのだ。その姿を知っているなら、三ツ谷が「大丈夫」と判断するのも頷ける。
とはいえ、オレが尋ねたのは「三ツ谷自身の安全」についてだ。そこらにいる、他のオメガの話じゃない。
第一、オレがこうなったのだって、九割九分、三ツ谷に中てられたせいだというのに。
「オレが言いてぇのはッ……!」
声を張り上げた。そのせいで、息継ぎの際、たくさんの空気を吸ってしまう。漂う匂いを、しっかりと浴びて、しまう。「は」の形になった口のまま、体が固まった。マズい。ヤバイ。これは、駄目だ。沸々と腹の底で欲が煮立つ。小首を傾げる三ツ谷を、今すぐにでも押し倒したくて仕方がない。
「~~あぁああ!」
「……え、まさかオレの匂いすらキツイとか言う?」
「すらもなにも、ココはオマエの匂いしかしねえっつの!」
「あ~……、窓開けたらマシになるかな、ちょっと待ってて」
「あ、オイ、行くな!」
「やだ」
咄嗟に三ツ谷を捕まえようと腕を伸ばしたが、のらりくらりと躱されてしまった。指先の向こうに、三ツ谷の背中が見える。無防備だ。そんなんだから、頭狙われるんだよ。喉元までやってきた悪態を飲み込んで、ぐしゃりと頭を抱えた。アイツを掠めた指先に、自分の髪が絡む。そのまま掻きまわしたため、引っ詰めた髪は乱れていった。
「……」
恨めし気に見上げても、三ツ谷が戻ってくる気配はない。ただ、冷蔵庫の扉が開く音は聞こえた。カサカサとビニールが擦れる音もする。窓を開けると言っておきながら、買ったものを先にしまっているらしい。
そこは、換気を優先しろよ。ナマモノを仕舞うのも大事だろうけど、オマエの貞操がかかってんだぞ。
甘さを一気に吸い込まないよう、慎重に息を吸い込んだ。それから、細く、長く吐き出して、着実に絞まっていく理性の首の皮を繋ぐ。
いっそのこと、押し倒してしまおうか。あの美味そうな体を暴いてしまおうか。そうやって、自分がいかに危ういことをしたのか、わからせてしまったほうが良いのでは? 脳裏に張り付いて離れない甘言に流されそうになる。流されたら、きっと楽になれるのだろう。暴いている最中は、気が晴れるに違いない。だが、冷静になったあとは? アイツの甘さが落ち着いて、オレも素面に戻ったら? ……目に見える後悔を選ぶほど、自分は落ちぶれちゃいない。
壁に手を付きながら、やっとの思いで立ち上がった。とはいえ、下肢で燻ぶる熱は、もう誤魔化せそうにない。
「っふー……」
諦めて、深呼吸をした。漂う甘さが、体に染み入ってくる。くらり、やはり頭は揺れた。これ程までに体を蝕んでくるくせに、嫌悪感は一切ない。アイツとの付き合いは長いほうだが、よくも今まで気付かなかったものだ。……下手に気付かなくて、良かった。もし中坊くらいの、性欲を有り余らせている時分にこの甘さを目の当たりにしていたら、取り返しがつかなくなっていたかもしれない。今も、取り返しがつかなくなりそうなのだが。
目を伏せると、ようやくカラカラと窓の開く音がした。一拍置いて、風の流れができる。わずかだが、匂いが薄れた。呼吸がしやすくなる。
そっと胸を撫でおろした。一方で、妙な苛立ちがこめかみに纏わりつく。匂いが、薄い。もっと浴びていたかったのに。頭の中の苛烈な部分が、噛みつくように吠えていた。うるせえうるせえ、これでいいんだよ。それでもなお喚く本能を黙らせるため、手の甲でこめかみの龍を打った。
「ドラケン、調子どお」
「……」
「お、立てたじゃん」
ぱ、と顔を挙げると、三ツ谷がこちらを覗いていた。腕を伸ばして、ぎりぎり届かない距離。あと一歩でも近かったら、その体を抱き寄せられた。一歩のせいで、それは叶わない。オレの思うように、世界はできていないらしい。当たり前のことなのに、不満が上ってくる。ム、と、唇は尖ってしまった。
「ンな顔すんなって、オレですらやばいんだろ?」
「わーってるよ」
「ヤー、アルファも大変なんだな」
「……他人事みてえに言いやがって」
「事実、他人事だからな」
いや、他人事ではないだろ。まさにオマエを襲わんとしているアルファがここにいるんだぞ、ケラケラと笑っている場合か。ろくに危機感を見せない三ツ谷に、結局苛立ちが過ってしまう。大真面目に、ここらで一回痛い目に遭わせたほうが良いのではないか。……だから、駄目だろ、オレの欲を正当化してどうする。
舌打ちをしてから、乱れた髪を解いた。軽く首を振ると、ゆるく波打った髪が垂れてくる。視界がほんの少しだけ狭まった。
「ほら、こっち。とりあえず上がって」
「いーのか」
「良くなきゃ上がれなんて言わねえよ」
「……ん」
手招きされるまま三ツ谷についていく。またもや簡単に向けられた背中は、もう諦めることにした。オレの理性が頑丈なことに感謝しろ。とはいえ、気は短いほうだ。長居はしていられない。なら、早く帰れという話なのだが、これだけ熱を燻ぶらせている中、無事に帰れるのかというと。
正直、自信は、ない。
ひたひたと廊下兼台所を抜けると、八畳はありそうな部屋が広がる。ベランダに繋がる窓は、全開になっており、レースカーテンが風に煽られて膨らんでいた。部屋の隅には、段ボール箱が二つほど重なっている。
「テキトーに寛いどいて」
「寛げると思うか?」
「寛げよ、窓の近くとかで。ベランダ出ても良いし」
「オマエほんっと、ほんっっと、ナニ」
「意味わかんねーし。はは、テンパるドラケンとかレアだワー」
相変わらず無防備に三ツ谷は笑う。さらには、引き返すようにして背中を向けてきた。しまった、今は、腕が届く。届いてしまう。ふいとオレから離れていく体を、引き寄せられる。
「ッおい!」
「ぉワッ」
「どこ、行くんだよ」
「水取って来るだけだっつの」
「どこに」
「台所。今通ったじゃん」
ぴ、と掴んでいないほうの手で三ツ谷が指を立てる。指した先には、確かに今通り抜けた台所があった。ほんのわずかな距離。歩数にして三歩か四歩。どこに行く、と焦るような距離ではない。頭ではわかっていても、体は不満を訴えてきた。ぎゅ、と掴んだ手首を、離せそうにない。
「……まじで切羽詰まってない?」
「余裕ねえんだよ、こちとら」
「いや、いやいやいや、なんで?」
「なんで、だと?」
わかるだろ。むしろ、わからない意味がわからない。なぜ、そこまで警戒心なくいられるんだ。無防備にもほどがある。オマエ、さっき項狙われたんだぞ。一回釘刺された程度で、いつまでもオレが言うことを聞くと思うのか。
そりゃあ無体を働く気はないが!
「ッてぇな、おい、手ぇ離せよ」
「無理」
「無理ってこたないだろ?」
無意識のうちに、手首を掴む力が増していた。傍に立つ三ツ谷の眉間に、うっすらと皺が寄る。けれど、あくまで痛みに顔を顰めただけ。欲を滾らせたアルファに慄いている気配は一切ない。
どうせなら、怯えた顔くらいして見せろよ。それなら、悪かったと離して、踵を返すのに。相手にされていないと思い知らされる度に、「振り向かす」とムキになってしまう。
顔に怪訝を浮かべたソイツは、ふと、諦めたようにため息を吐いた。かといって、体を暴かれるとは露も思っていないだろう。何を言ったって、手首を離してはもらえない・まあ掴まれるくらい、良いか。この男、絶対にそう考えている。
カッと、頭に血が上った。
「ぉワッ!?」
同時に、掴んだ腕を引き寄せる。簡単に三ツ谷の姿勢は崩れた。足をもつれさせながら、オレのほうに倒れ込む。当然のように、逃げる気配はない。クソ、本当に意識されていない。いい加減、わかれよ。
とす、と胸に飛び込んできた体を、力いっぱい抱きしめた。反応はない。抱きしめたまま、肩に顔を埋めた。それでも、三ツ谷はびくりともしなかった。ここまでされて無反応とは、どういうことだ。オメガだとか、アルファだとか、それ以前に人間として鈍すぎやないか。よくもまあ、今の今まで乱暴されずに生きて来れられたものだ。もちろん、東卍時代の乱痴気騒ぎは除いて。
オレより一回り、いや、二回りは小さい身体を抱き込んだまま、息を吸い込んだ。そこかしこに漂っていた匂いがする。とびきり甘い香りがする。ぎりぎりで保っていた理性が、引き絞られた。ただただ欲が煽られていく。ゾクゾクと痺れに近い熱が背骨を走った。
犯し、たい。
「ッおい、ドラケン!?」
やっと、ソイツは危機感を覚えたらしい。は、もう遅い。
「お、落ち着けって、オレは目当てのオメガじゃねえだろ!?」
「ンの話だよ……」
「なにって、どっかで強烈なオメガのフェロモン浴びたんじゃねえの?」
「オマエの匂い嗅いだせいだけどォ?」
「エ」
「三ツ谷の、匂いで、こうなった」
「ぅ、え、えっ、」
「責任とって」
首の向きを変えると、文字通り眼前に三ツ谷の顔がある。見開かれた目が、食い気味にオレを捉える。だが、それはほんの一秒か二秒。すぐに、瞳は泳ぎ始めた。何かを探すように、数えるように、三ツ谷は目線を彷徨わせる。
おもむろに、ひく、ソイツは頬を引き攣らせた。
「や、っべ」
だから、もう遅いんだよ。今更自分の身の危うさに気付いたって、止まれない。抱きしめた体を、放してなんかやれない。
もそ、と、再び鼻先を肩に埋めた。
「くそ……、オマエすげー良い匂いする」
「わっわっわっ」
背中に回しているうちの一方を首筋まで移動させる。吸い込まれるように指先は伸びて、その項を撫でた。滑らかな肌。歯型のような凹凸はない。まだ、誰にも許したことがないと、明らかだ。
首筋に唇を押し付けると、触れていた肌が汗ばんできた。熱も持ち始めたように思う。おかげで、いっそう甘さが匂い立つ。我慢、できそうにない。口付けるだけでは物足りなくて、まっさらなそこに吸い付いた。
「うわ、離せって!?」
「やだ」
とはいえ、耳に入ってくるのは色気のない喚きばかり。どうしたら、色が乗るだろう。熱を孕むだろう。こんなに身体は火照っているのに、さっぱり欲情してくれない。
そもそも、こいつは発情期なんじゃないのか。発情期が来ているから、こんなにも甘い匂いを放っているのでは、ないのか。記憶の中にあるオメガの発情期は、もっと壮絶だった。ほとんど泣きながら自慰に耽るヘルス嬢を見たのは、一回や二回ではない。
特異なのは、三ツ谷か。それとも、発情期でもないオメガのフェロモンに酔ったオレのほうか。
どっちでもいいか。コイツが美味そうな匂いを纏っていることに変わりない。
あ、と開けた口で、首筋を甘く噛んだ。
「ヒぁっ!」
「……」
「…………」
「…………みつやあ」
「ッス」
「そのこえ、もっと」
「あーあーあーやだやだやだ」
「やだじゃねえ」
前言撤回、ちゃんと欲情してくれている。
爪先で項を引っ掻きながら、腰をしっかりと引き寄せた。改めてかぷりと首を食むと、腕の中にある体が健気に震えた。可愛い。可愛いじゃん。すげえ可愛い。甘さに侵された脳みそは、馬鹿の一つ覚えみたいに可愛いを繰り返す。
ああ、押し倒してしまいたい。組み敷いて、服を引ん剥いて、腹の奥まで暴きたい。全部、オレの物にしたい。そして、項に歯を突き立てたい。
ア、と口が開いた。首を伸ばせば、項はすぐそこ。欲望は、すぐにでも叶えられる。熱の籠った吐息が、三ツ谷の汗ばんだ肌にかかった。
「ッドラケン!」
「あ?」
「ほんと、あの、一分、や三十秒、十秒でもいいから離し」
「しつこい」
いつもより早口で三ツ谷は捲し立ててくる。コイツも、こんなふうに焦ることがあるのか。ついさっきまでは、余裕のないオレを笑っていたというのに、すっかり逆転している。まあ、言うほど今の自分は余裕でもないが。
ひとまず項は後回しにして、首筋に唇を寄せた。ちゅ、ぷちゅ、と触れたり吸ったりを繰り返す。だんだん、三ツ谷の反応も大きくなってきた。微かに震える程度だったのが、びくんと肩を上下させるくらいにはなっている。あとは、腰が、揺れる。うらり、オレから距離を取ろうと揺れては、抱き寄せられて強張るのだ。
「ほんと、バッと抑制薬飲んでくるだけだからさあ、そしたらドラケンだって楽に」
「いらねー」
「いるだろ!?」
すん、鼻を鳴らした。甘い匂いは、時間を経るごとに濃く、深くなっていく。窓を開けていてこれだ。閉めていたら、部屋中に満ちて頭が狂っていたかもしれない。それこそ、なりふり構わず項に歯を突き立てるくらいには。
きっと、抑制剤を飲んだら、この匂いは薄れてしまう。できることなら、もっと浴びていたい。満たされていたい。
オレを楽にしてくれる、というのなら、この甘さをずっと与えてくれ。それでいい。それがいい。第一、この甘さを知ってしまったら、淡泊で希薄なソレじゃあ、耐えられない。
「みつや、」
不意に漏れた声は、やたらと情けない色をしていた。もぞもぞと身じろぎしていた三ツ谷が、ぴたりと固まる。静かに顔を覗き込むと、目を見張っていた。オレだって、自分の口からこんな声が出るとは思わなった。でも、出ちまったんだよ。
もういい。どうにでもなれ。この甘さを浴びれるのなら、仕方ねえなと三ツ谷が許してくれるのなら、なんだっていい。
「―― たすけてくれ」
吐息混じりに訴えると、はくんと三ツ谷が息を呑んだ。一拍置いて、その顔に血が集まりだす。あっという間に真っ赤に染まって、……さらに甘さを滲ませてくれた。
言ってみるもんだな。漂う甘さを浴びるほど、体は多幸感に包まれる。自然と口元が緩んだ。
「ハ、なん、なんっで、いま、そういう」
だんだん頭も重たくなってきて、額は三ツ谷の肩に吸い込まれた。ぐり、と押し付けては、気まぐれに赤く染まった首に口付ける。何回かに一回、ちゅっとリップ音が立った。
「~~ああもうわかったよ、なにすりゃ良いんだよ!?」
でも、項噛んだらゼッコーだからなッ。畳み掛けるように三ツ谷に吐き捨てられる。だから、女子中学生かよ。ふは、と笑ってから、もつれるように床に甘い肢体を組み敷いた。