そういえば、この世界はたくさんの匂いがあるのだった。
 あの日、受診してから、薬を飲む頻度を落とした。自発的に飲むのを止めたわけではない。医者に、体も安定してきただろうし、少しずつ減らしてみようと提案されたからだ。一日二錠を一錠にして一か月。二日に一回に変えてまた一か月。どうしても気になる時だけ飲むようにと言われて、さらに一か月。
 結論から言うと、オメガと思しき甘い匂いを感じても、ガキの頃のような苛立ちは感じなかった。成人する頃には安定する、と言う話は本当だったらしい。
 ついに、毎日の薬から解放された。念のため、不意に中てられたときに飲む緊急の鎮静剤は貰ったが、今のところそれに世話になる事態には出会っていない。医者曰く、フェロモンのコントロールをしないオメガは現代では稀で、かつ、この鎮静剤を用いるほどのアルファはかなり敏感な質だという。
「あー……」
 すん、と、甘い匂いが鼻を掠めた。歩いているだけで、この手の匂いは漂ってくる。まったく惹かれないわけではないが、なりふり構わず手を伸ばしたくなるわけでもない。この調子なら、今後も鎮静剤の世話になることはないだろう。
 スーパーの総菜売り場に向かうと、さらに匂いは増えた。甘い匂いはもちろん、香ばしいモノも、香辛料を思わせるモノもする。ちなみ、味覚も少しだけ変わった。昔ほど、辛い食い物を求めなくなったのだ。まったく食べられなくなったわけではないが、手に取る頻度は落ちたと思う。
 安定剤がなかったら、オレは今頃どうなっていたのだろう。キレながらもどうにか過ごせていたのか、重大な過ちを犯していたのか。まあ、族をやっていた時点で過ちは犯しているようなもんか。
 適当な惣菜を三品ばかり掴んで、レジを通った。帰り際、割り箸も頂戴する。あ、米あったかな。炊いたのは確か無い。じゃあ、レトルト米飯はあったろうか。記憶が朧気だ。一緒に買えば良かったな。けれど、自動ドアを潜ってしまうと、戻る気にもなれない。
 まあいいや。いざとなれば、コンビニで買えばいい。
 そう結論付けて、駐車場に足を向けた。
「ん?」
 スーパーに停められているバイクは少ない。自分の愛機の他には、スクーターが一台しか停まっていなかった。だから、そこに立っている奴がいるとしたら、そのスクーターの持ち主ということになるのだが、……違った。
「お、やっぱドラケンのだ」
「三ツ谷?」
 オレのバイクに寄り掛かりながら顔を上げたのは、見覚えのある男だった。その手には、オレが提げているのと同じくらいの大きさの袋がある。
「なにしてんだよ」
「バイク見かけたから。後ろ乗せてってもらおうと思って」
「オレじゃなかったらどうするつもりだったんだよ……」
「そのときはそのときだろ」
 へら、と笑うソイツに近付くと、不意に甘い香りがやってくる。そういえば、スーパーに入るときもこの匂いがした。近くにオメガでもいるのだろうか。こうも垂れ流しだと気になってしまう。
「うーわ、揚げ物ばっか」
「うるせえ、そういうオマエは何買ったんだよ」
「え? 肉とクックドゥ」
「くっく……、何?」
「回鍋肉の素だよ。キャベツ使い切ろうと思って」
「へー、いいな」
「いいだろ」
 ぱ、と広げられたレジ袋の中を覗くと、肉のパックと平たい箱が入っていた。箱の表面には、回鍋肉という三文字が書かれている。回鍋肉って、家でも作れるんだな。中華は店で食うものだと思っていた。
 ちら、と三ツ谷の顔に目線を戻すと、いつもの穏やかな表情を携えながら首を傾げられる。相変わらず、甘い匂いは佇んでいた。むしろ、濃さを増しているように思えるのは気のせいだろうか。ぞわぞわと、背筋に妙な痺れが走り始める。なんだか落ち着かない。
 そのうちに、ぷっと三ツ谷が噴き出した。口元が綻んで、わずかな隙間ができる。ちらりと覗いた赤に、くらり、眩暈を覚えた。
「そんなに食いたいなら、ウチ来る?」
「行く」
「即答かよ」
「どうせ乗ってくんだろ、寄らせろ」
「あはは、サンキュー。何気に距離あっから助かるワ」
「……オマエの実家、ここからすぐじゃね?」
「実家はな。最近引っ越したんだよ、今は一人暮らし」
 だから、まだちょっと散らかってるけど。そう付け足した三ツ谷は、オレの手から流れるように惣菜の入ったレジ袋を掻っ攫っていった。その際、ちりっと指先が掠る。乾燥した肌。その表面が擦れただけだというのに、焼けるような熱を覚える。
 鼻先には、また、甘い匂いがした。近く、じゃない。匂いを纏った塊は、眼前にいる。三ツ谷が、この甘い匂いを漂わせている? まさか。これまで、そんな素振りを見せたことはない。コイツがオメガなわけ、あるか。
 でも、もし、オメガだったら。脳裏を掠めた妄想に、ぞくりと背筋が粟立つ。どこかのアルファと、既に番関係にあるのかと考えると、吐き気が込み上げてくる。一方で、これほどに淡い香りしかしないのにも納得してしまう。
 ぐるぐると、思考が回っては、言葉にならずに消えていく。こういう話題は、公共の場でするものではない。少なくとも、スーパーの駐車場でする話じゃあない。
 いつまでも立ち呆けているオレに、再び三ツ谷首を傾げて見せた。胡乱な表情を添えられる。
「どした」
「あの、さ」
「うん」
「……香水かなんか、つけてる?」
 やっとの思いで捻りだした。しかし、あまりにも本筋からかけ離れている。匂いが嫌というわけではないのだ。むしろ、許されるならその肩口に顔を埋めたいくらい。
 しばらく瞬きをしていた三ツ谷は、おもむろに顔をハッとさせた。それから言いにくそうに唇を波打たせる。ゆらりと目線が彷徨った。
 これは、そんな、もしかして。
 嫌な予感が、脳天に走る。
「やっぱ、臭うよな……」
「まあ、」
「これ、ルナのシャンプー使ったせいでさ。あ、言っとくけど、普段はこんなフローラルなの使ってないからな」
「……しゃんぷー?」
「えっ、違った?」
 シャンプー。もう一度、今度は声に出さずに頭の中で繰り返した。それから、そっと三ツ谷の頭に顔を寄せる。やっぱり香ってくる、甘い匂い。長さのある淡い色の髪からは、その甘さに加えて花の香りもした。
「あー……」
「すげぇ匂いするよなあ、コレ。使ってから失敗したーって思ったもん。しかもルナに怒られるし……」
「それは黙って使ったオマエが悪いだろ」
「まったくもってそのとおりでございます」
 三ツ谷の中では、オレが嗅ぎ取った匂いはシャンプーのモノとして完結したらしい。母親・ルナ・マナ、それぞれ別のシャンプーを使っていて、匂いも別系統でという話をし始める。今更、違うとは言えそうになかった。
 そのうちに、三ツ谷は勝手知ったる手付きでネットに固定してあるヘルメットを外し始めた。首の角度が変わったおかげで、襟足が垂れる。項が覗く。日に焼けていない肌は、まあ白かった。滑らかで、痕は何一つない。綺麗だと思った。さぞ、触り心地も良いことだろう。
 なにより、色気が匂い立っている。オレの感じ取った甘い匂いは、髪から漂っているのではない。その、項。首筋。耳の後ろ。そういう辺りから、香ってきているのだ。
 芳しい匂いに惹かれるまま、指先が伸びていった。
 ひたり、体温に、触れる。
「っア」
「ッ!」
 間髪入れずに、三ツ谷の手は自らの項を覆った。オレの指先はいとも簡単に弾かれる。合わせてバッと振り返ったソイツは、これでもかと目を見開いていた。瞳が零れ落ちて来そう。驚いたせいか、口も開いている。ぽっかりと開いた先には、やはり赤い粘膜が見えた。舌が震えるのすら、見えてしまう。
 重ねたい。塞ぎたい。その口内を、犯したい。込み上げてくる衝動は、凶暴さを増していく。弾かれた指先は、懲りずに三ツ谷の顎を捉えた。流れるように、顔を、寄せる。
 唇に、湿った吐息を感じた。
「ストップ」
「ぶ」
 また、阻まれた。べちんとオレの口に三ツ谷の手が押し付けられている。レジ袋を持っているほうの手を使ったのもあって、頬にがさがさとビニールも擦れた。
 何すんだよ。
 そう吐き捨てたい一方で、自分が何をしているんだとも思う。どうして三ツ谷にキスをしようとした。甘いに匂いに誘われたから? 今まで、こんな衝動に駆られたことはなかった。思春期ならまだしも、安定剤を減らしても良いというお墨付きを貰ったばかり。なぜ、このタイミングでオレの理性は緩んだのだ。
 ぴったりと手を押し付けられたまま、視線が絡んだ。それまで携えられていた穏やかさは、鳴りを潜めている。かといって、オレのような熱を持っているふうでもない。
 甘い、匂いはする。この甘い匂いは、オメガが発情するときに漂わせるものだと、本能が叫んだ。しかし、当の三ツ谷は発情とは無縁そうな顔つきをしている。
 考えれば考えるほど、思考は偏っていく。甘さを真っ向から浴び続けているせいもあるのかもしれない。頭の中が、欲で溢れそう。熱くて仕方がない。息を吸うたび、喉がひりひりと乾いた。立っているだけだってのに、脈も急ぎだす。
「……鍵は」
「あ?」
「鍵。ゼファーの。そんなんじゃオマエ運転できねーだろ」
「ンなこと」
「つか、危なっかしくて任せらんねーワ。ほら、貸せ」
 軽くオレを突き飛ばしたかと思うと、手の平を差し出される。鍵、出せ。早く、出せ。その繰り返し。こうなった三ツ谷は、梃子でも動かせない。熱でぼんやりとする頭の中、どうにか、鍵を取り出した。
 たちまち、その手に奪い取られる。代わりに押し付けられたレジ袋は、ゆらゆらとオレの手の下で揺れていた。オレよりも一回り小さな体は、淡々とバイクを出す。がぽ、とヘルメットまで被せられてしまえば、もう後ろに乗るしかなかった。
 オレが、乗せて行くはずだったのに。いや、三ツ谷の今の家の場所は知らない。なら、三ツ谷が運転したほうが早いと言えば早いのか?
 ゆっくりとバイクは走り出す。
 見下ろした先には、やはり、綺麗な項が見えた。
 ああ、ここに、噛みつけたら、どれほど気持ちが良いだろう。
「あ!」
「っ」
 十字路に差し掛かったところで、三ツ谷の大きな声が鼓膜を震わした。エンジン音に負けないようにと、声を張っている。どうせすぐ後ろなのだから、そこまで声を張らなくても聞こえそうなものなのだが。
 一時停止の標識の下、ぐるり、三ツ谷は振り返る。
「そこ噛んだら、ゼッコーな」
 女子中学生かよ。言い返すより早く、三ツ谷にハンドルを掴まれた愛機は加速し始めた。