この世界は、突然甘ったるい匂いを漂わせる。
 それは、普段浴びている性の匂いとも異なる。いや、重なる部分が全くないわけではない。生々しい甘さは、似ているとも言える。ただ、決定的に違うのは、オレの頭をガンガンと揺さぶってくるか、そうではないか。
 たまに香ってくる甘さは、とにかくオレの頭痛を煽った。体はぐらぐらと揺れるし、熱を出したときみたいにぼーっとする。正直、立っているのも辛いくらい。そのくせ、「なんだよ、ケン坊、具合悪いのか」と絡んでくる嬢たちを殴りたくなるときた。
 大人は、みんなこの衝動を抱えて生きているのだろうか。それとも自分だけが変なのか。
『この、イライラする甘いニオイ、なに?』
 一際、キツイ衝動に襲われた日、暇そうに見えた正道さんに尋ねた。新聞を広げていた育ての親は、怪訝な顔をしてオレを見下ろす。
『甘い匂いだぁ?』
 あ、しくじった。尋ね返された言葉に、この甘さはオレ以外にはわからないものだと思い知らされる。そうか、オレが変だったのか。自分の鼻が、頭が、おかしいのか。問い詰めたい気持ちを、ぐ、と押し殺したのを、今でも覚えている。
 幸いだったのは、わずかに考える素振りをした正道さんに、すぐ病院に連れていってもらえたことだろうか。
 病院と言っても、頭の病院ではない。小児科でもなかったが。当時の名称で言うと、性分化総合診療科。今はもう少しとっつきやすい名前になっている。そんな仰々しい診療科であれよあれよと問診を受け、血を取られ、精密検査をされ、また問診を受け、―― アルファと診断された。
 周りの小学生よりガタイが良いとは思っていたが、こんなに早く分化するとは。医者曰く、早熟な子供もいるからおかしなことではないと言っていたが、やはり正道さんは何か考えてる様子だった。
 そのあとのやりとりは、小難しい話だったのもあって、ほとんど記憶にない。だが、その日から、一日二回、朝晩必ず薬を飲まなくてはならなくなった。
『コレ、なんの薬?』
『んー……、オマエが後悔しない人生を過ごすための、薬』
『はあ?』
 正道さんに手渡されたのは、白くて丸い錠剤。決して飲み忘れてはいけない。忘れるようならば、あの家にはいられなくなるという。薬というものは、あまり好きなものではなかった。しかし、あの家から離れるのも、考えられなかった。
 ごくんと一粒飲んだ夜。たくさんの水で、慣れない錠剤をやっとの思いで飲み込んだ朝。そうやって過ごしている間に、甘い匂いはしなくなっていった。
 その薬が、アルファ用の発情安定剤と知ったのは、小五を迎えてからのこと。発情したオメガのフェロモンを感知しにくくなる作用があるらしい。なんでも、分化してからおおよそ成人するまでの間は、受容体が不安定だから、本人の体調に合わせて飲むのが一般的という。
 一通りのことを理解して、確かにあの家にはオメガの女もいたことを思い出す。オレが嗅いでいた甘い匂いは、オメガの匂いだった。彼女たちは、大体三か月に一回、顔を見せない時期がある。休む前後は、酷く体調が悪そうな顔もしていた。そんな嬢たちに、オレは乱暴を働くところだったのか。そうなる前に、気付けて良かったと思う。すぐに正道さんが手を回してくれて、良かったと、思う。
「あ」
 あれからもうすぐ十年。習慣のようにピルケースを開けると、最後の一錠になっていた。
 そういえば、一人暮らしを始める直前に受診してから、しばらく行っていない。慌ただしさにかまけて、通院を後回しにしていたのだ。
 ガキの頃はおっさん先生だった医者も、もうすっかりじいさん先生になっている。未だにガキ扱いをしてくるのは、何年も通っているせいだろう。正直、行きたくない。が、そういうわけにも、行かない。
 丁度、明日は店の定休日。病院も開いているはず。仕方ねえ、行くか。
 カレンダーを眺めながら、最後の一錠を飲み込んだ。