六
ばちり、突然、目が覚めた。
今、何時だ。跳ねるように体を起こすと、全身にずっしりと怠さがのしかかってくる。そりゃあ、そう。窓の向こうこそ暗かったものの、ベッドに入った時間は朝と言っても支障がない時間だった。べちんと額を押さえると、瞼が勝手に降りてくる。ばくばくと心臓が騒いでいるくせに、眠くて仕方がない。
ぼーっと、している場合じゃあないな。今日は仕事なのだ。起きなくてはならない。なんせ同僚は、寝不足程度で休みを許してはくれまい。……どうだろう、相手はイヌピーだ。もしかしたら、「なら今日臨時休業にしようぜ」くらい言うかもしれない。
朝飯、それから顔洗って、歯を磨いて、着替えて、あと弁当。ぽつぽつと身支度の流れを浮かべたところで、昨晩の失態が呼び起こされた。全部、本当に全て綺麗な状態にしたとはいえ、三ツ谷がトぶまで暴いたことに代わりはない。飯は三ツ谷の担当と言ったって、限度がある。あそこまで無体を強いた以上、今日ばかりは自分で飯をどうにかしなくては。
「あ゛ぁー……」
そういう、ズレた気遣いをする前に、ちゃんと相応に告白するべきだ。わかってはいるが、ああも簡単に脚を開いてくれたのを思うと、「セフレで良いじゃん」と返されそうで、怖い。そもそも、セフレになれるのか? 手酷く抱いた自覚はある、二回目は許して貰えない気もしてきた。なんなら、この同居期間が終わったら、ぷっつりと縁を切られるのも覚悟しておいた方が良い。
あれやこれやと、不安が募る。いっそのこと、逃げられる前に縛り付けてしまおうか。ふと過った物騒な欲だけはすぐに追い払って、恐る恐る、隣に目を向けた。
まだ、布団に包まっているだろう三ツ谷の方を、見やった。
「は」
しかし、いない。
ゾ、と、背中が粟立った。慌ててぱしぱしと布団の上をあちこち叩いてみるが、人らしい感触はどこにもない。三ツ谷が、いない。そんな、馬鹿な。あれだけのことをして、動けたのか? 動けたから、今、ここに居ないのだ。
ああ、くそ、こんなことなら、本当に縛り付けておけば良かった。こんなにもあっさり出て行かれるなんて。襲ってくる後悔に任せて、がしがしと頭を掻き乱してみるが、それで事態が好転することはない。
ええと、どうする。まず、あいつを探さなきゃ。ベッドを抜け出せる程度に動けたとはいえ、かなり重い達し方をしていたのは間違いない。あんな色気漂わせたまま、市中を歩いていると思うと……、駄目だ、冷静ではいられなくなる。
落ち着け、落ち着け。自分に言い聞かせながら呼吸を整え、ベッドを飛び出した。ドアに向かうまでの間に髪を纏め、勢いに任せて寝室の扉を押し開ける。
「ぅわッ」
「……ぁ?」
その瞬間、ばちん、目が合った。
「……おはよ」
「は、よう……、ございます……」
二秒か、三秒。わずかな沈黙のあと、掠れ気味な声で挨拶が聞こえてくる。理解は、まだついてこない。それでも、返事をできたのは、日々の賜物だろう。おはよう、に、おはよう、と返さないと、こいつは無言で頬を抓ってくる。そういう時、据わった瞳には「おい、社会人」と書いてあるのだ。今だって、もし返せずに絶句していたら、ぎゅうと抓られていたことだろう。
三ツ谷が、いる。
ようやく、視界に入った現実を、脳みそが受け止めた。
くらりと頭が揺れる。あわせて、肩が扉の縦枠にぶつかった。首も傾いたため、ゴ、と頭が木に当たってしまう。痛い。くそ、角に当たった。地味に、痛い。
でも、痛い、という、ことは、夢じゃない。
探していた人物が、すぐそこにいる。椅子の上で胡坐を掻いて、食パンに齧りついていた。食卓の上には、湯気の立つマグカップ。目を逸らせずに、食い入るようにその姿を確かめていると、三ツ谷は緩慢な動きでそっぽを向いた。パンを食いちぎるシャキッという音だけが、室内に響く。ここから見える、そいつの目元は、まあ、赤かった。なんなら、オレの方を向いている耳も赤い。かわ、いい。
「あー……」
可愛い。全身を取り巻いていた焦りが、その一言に塗り替えられる。あれほど喧しかった心臓も、ようやく寝起きらしい脈拍へと落ち着いていった。
良かった。出ていった、わけじゃなかった。ちゃんと家にいる。いてくれて、いる。噛み締めると、体から力が抜けていく。寄り掛かった木枠に沿って、ずるずると体が崩れていった。しゃがみこんで、俯いても、シャクと焼いたパンを食む音は聞こえてくる。ああ、良かった。
「あのさ」
と、ぽつり、声を掛けられる。咄嗟に顔を上げると、三ツ谷は喉を擦りながら咳ばらいをしていた。食パンを片手に持ったまま、左手がマグカップを掴む。赤みの残った唇が、ツンと尖って、小さく息を吹きかけた。何度か繰り返した後、唇は陶器に触れる。カップが傾き、一拍遅れて、三ツ谷の喉が上下した。一連の動きを終わらせたところで、再び、ンンッという咳払い。そしてようやく、三ツ谷の視線が戻ってきた。
「……とりあえず、顔、洗ってきなよ」
「オレ、そんなひでえ顔してる?」
「まあ、いつもの寝起きって感じ」
「……あー、ウン」
上げたばかりの顔、その下半分を手で覆った。先ほど額を押さえた時はなんとも思わなかったが、顔の表面は変にべたついている。ついでに、髭であろうイガイガとした感触が手の平に伝ってきた。
言われた通り、まずは顔を洗ってこよう。あまり、みっともないところを晒していたくもない。いや、三ツ谷にだったら、多少だらしないところを見られても良いかと思っていたはずなのだが、……どうも今日だけは、落ち着かなかった。こっそりとため息を吐いて、のっそりと重たい体を持ち上げる。緩慢に、脚を洗面台に向けた。
「朝さあ、パンでいい? ご飯炊けてるけど、……ちょっとおかず作れそうにない」
「え」
すると、三ツ谷も何故か椅子から立ち上がる。その動作は、少しぎこちない。台所に向かう足は、よたよたとしていて不自然だ。それに、片手は必ず椅子の背だったり、壁だったりに触れている。
歩くのすら、辛いのだろう。誰でもない、―― オレの、せいで。
ぐつり、胸の中で、何かが泡を立てる。
「あ、のさあ」
「なに、すぐ焼けるよ」
つい、足は三ツ谷に向いてしまった。その体を抱きしめたい。せめて、腰に腕を回したい。無理しなくていーよ・オマエは休みなんだし、寝ててもいいんだぜ・オレのことより自分の体、大事にしろよ。甘ったるい、恋人に向けるような言葉が喉元まで込み上げてくる。
……オレと、三ツ谷だ。別にこれくらい、言っても良かったのかもしれない。だが、たった一回寝ただけで、彼氏面すんなと言われそうでもある。それは、ヤダ。
ぐ、と堪えて、三ツ谷から数歩離れたところで立ち止まった。いつも、それこそ一昨日のように、背後からくっつけたらどれほど良かったろう。いっそのこと、知らんぷりして擦り寄ってしまおうか。欲が首を擡げるが、それをしたら、ベッドの中での熱がよみがえってしまいそうでもある。やっぱり、このくらいの距離が、ちょうど良いのだ。
ちらりと、三ツ谷が流し目にこちらを見る。その顔には「なにしてんの」と書いてあった。早く顔を洗ってこい、そう言いたいのだろう。
それは、そうなンだけど。一応、今って、事後じゃん。この様子を思うに、三ツ谷は何事もなかったことにしたいのだろう。そりゃそうだよな、こいつを抱いた男は、何人もいるみたいだし。その大勢のために、一つ一つ、丁寧に対応していてはキリが無い。
三ツ谷の倣うのが、ベター。けれど、その他大勢と一緒くたにされるのは、癪。ぐるぐるとまとまらない考えのまま、間を繋ぐためにひとまず口を開いた。
「……うち、トースターないよな、どうやって焼くの」
「魚焼きグリルだよ。コンロについてるじゃん、ほら」
「これで焼けンの……?」
「うん。そもそも、ドラケン、これで魚焼いたことすらないだろ」
「ない」
「はは、だと思った」
結構グリルって便利だよ、洗うのは面倒だけど。そう言いながら、三ツ谷はグリルを大きく開く。ぼーっと見下ろしていると、袋から取り出された食パンが二枚、その上に並べられた。ガシャンと閉まると、指先がIHの操作ボタンを何度か押す。こいつは、機械にあまり強くない。けれど、家電は別らしい。この家に来てから、レンジもこのIHも、あと洗濯機なんかも、使い方を聞かれた覚えはない。しいて言われたことといえば、「食洗器あれば完璧なのに」くらいか。
「……ほら、早く準備してきなよ。パン、すぐ焼けるし」
「あー、うん、わかった、ありがと。でも、その、」
「うん?」
歯切れの悪いオレに、三ツ谷は首を傾げる。
そいつが着ているのは、寝る前にオレが着せてやった襟ぐりの広いスエット。下もダボついていて、踵は裾を踏んでいた。だから、余計に歩きにくかったのだろうか。かといって、何も着せないわけにもいかなかったしな。もし、着せるのが上だけだったら、三ツ谷は今、どういう格好をしていたのだろう。生足、曝け出してくれていた、かも? ……不毛な妄想は止めよう、浮かんだばかりの不埒な景色を追い払って、小さく息を吸う。
言うべきことは、言おう。三ツ谷にとってのその他大勢だったとしても、オレにとっては三ツ谷は一人。ただ、一人。それも、特別な、たった一人だ。こいつに倣って、しれっと何もなかったことにはしたくない。せめて、気遣うくらい、許してほしい。
「……しんどかったら、無理、しなくても、いいよ」
ぽつり、ほとんど独り言のように呟いた。けれど、三ツ谷の耳にはちゃんと入ったろう。テレビをつけているわけでもないし、グリルは付いているけれど、まだ換気扇は回していない。なにより、伝えた直後、三ツ谷は目を見張った。
何が、って、言われるかな。すっとぼけられたら、流石にそれ以上踏み込むのはやめておこう。でも、最低限、これだけは伝えておきたかったのだ。自己満足なのはわかっている。こいつにとっては、蒸し返しやがって、と迷惑な話かもしれない。それでも、何も言わずに、終わらせたくはなかった。
じ、と見つめていると、見開かれていた瞼が少しずつ緩む。一度、ぱたんと伏せられ、長い睫毛がひくんと揺れた。再び縁が開く頃、赤みのある唇も、静かに開く。
「……まあ、大丈夫だよ、頭ふわふわしてるだけだし」
「腰、とか、へいき?」
「うん。たぶん、ドラケンが思ってるよりは、平気」
「そ、っか」
「ウン」
こくんと頷いた三ツ谷は、とん、と軽く自らの腰を叩いて見せる。あわせて上目遣いでこちらを見上げてきた。これは、計算なのだろうか。それとも、素でやっているのか。どちらにせよ、抱きしめたい衝動に駆られてしまう。ほんとかよ、と頭を包んで、髪の奥で眠っている龍に口付けたくなってくる。なんで、今は朝なんだろう。夜だからやっていいってわけでもないが。
黙っていると、ぐう、と喉が鳴りそう。何か喋っていないと紛れない。
「そうだ、今日の、昼だけど」
「あ、やば、忘れてた、弁当なんもやってない!」
「……買って済ますから、ほんと、無理しなくてサ」
いいよ。
そこまで言う前に、なぜか、三ツ谷が距離を詰めてきた。え、と後ずさるより早く、そいつの指先がオレの胸元を掴む。胸倉を掴む、ではない。そこまでの乱暴さはなかった。おかげで、短気な自分より、堪え性の無い自分が、煽られらる。
なに、どういうこと。オレは今、三ツ谷にナニされんの。凪いだはずの心臓が、じんわりと、速度を上げ始める。
「好きなんじゃないの、オレの飯。あともう数えるくらいしか、作ってあげらんないよ」
「へ」
「もう食べたくないっていうなら、いいけど」
「あ、あー……」
なんだ、そういう、ことか。
期待して損した。いや、損という表現もおかしいな。体は許されたとしても、そういう、惚れた腫れたの恋愛関係には、きっと発展しない。三ツ谷は、たぶん、オレをそういう対象として数えてはくれない。
もごりと唇を波打たせた。好き、作って。そう答えるのが、良い。そしたら、三ツ谷はこの間みたいにニッと笑ってくれるだろう。で、いつもの雰囲気に戻るのだ。ダチとして、同居している、あの距離感に。
戻れるなら、戻りたい。しかし、それで自分が満たされるのか? どうも不安だ。視線を落とすと、オレの服を掴んでいる指が、少し震えていた。腕が怠いせいだろうか。それとも、いつまでもオレが返事をしないから? ……前者だろう、そう思っていた方が、気が楽。
静かに、深呼吸をする。好き。もちろん、三ツ谷が作ってくれた飯は好き。けど、それだけじゃない。もう、三ツ谷のこと、全部が、好きだ。他の男、全部切り捨てて自分だけにしてほしい。オレだけの、男になってほしい。
苦しいくらい、愛おしくって、どうしようもない。
「―― すき、です」
やっとの思いで絞り出した声は、少し、震えていた。本当に、肝心な時に格好がつかない。役にも立たない。そんな自分が恨めしい。しんと、静まり返ってしまった室内すら、憎くなってきた。いっそのこと「どうしたんだよ」と笑い飛ばして欲しかった。そしたら、冗談めかして、取り繕えたろうに。
恐る恐る、視線を三ツ谷に戻す。……が、目を合わせるのに、日和って、すぐに足元を見てしまった。ダボついた裾から、ちらりと素足のつま先が覗いている。別に、三ツ谷が小柄ではない。一般的な成人男性の体格を思うと、平均だ。どちらかというと、自分が、規格外。わかっていても、自分より小さな体が、やっぱり愛おしくて仕方がなかった。
抱きしめたい。ぎゅうと腕の中に閉じ込めて、あんなこと、他の男としないでくれと縋りたい。けれど、その一線を超えても良いか、測りかねている。もう少し若かったら、相手の様子なんて窺わずに飛びかかれたろうに、歳を取ったもんだ。変なところが臆病になって、厭らしいところばかり図々しくなる。
しょーもねえ。
自嘲しきって、ようやく、三ツ谷の顔を見られた。
「……?」
その顔が、やけに強張って見えたのは、気のせいだろうか。あれ、と思った時には、既に三ツ谷の顔は別のところを向いている。するりとオレの横を抜け、冷蔵庫を開けていた。
「とりあえず作り置き詰めとく、足りなかったなら、ごめん、なんか買って」
「……わ、かった」
「じゃあ、ほら、身支度してきなよ。もたもたしてると、遅れるよ」
「あ、今何時」
「八時過ぎ。余裕こいてると、イヌピーに怒られんじゃない?」
「ヴ」
ひょいひょいと取り出されていくタッパーに気を取られていると、おもむろに三ツ谷がこちらを向く。そこにはあるのは、無表情でも、強張った顔でもない。ただ純粋に、呆れていた。時間の余裕は、あるとも、ないとも言えない。つまるところ、三ツ谷とのんびり話している場合ではない、ということだ。
ひっきりなしに浮かんで来るアレコレをグッと飲み込む。準備、して、それでも余裕があったらにしよう。よし。ダンと足を踏み出すと、三ツ谷は進路を開けるように扉を閉じた冷蔵庫に寄り掛かった。盗み見たところで、目があうこともない。もう三ツ谷の意識は、魚焼きグリルに戻っているようだった。するすると台所の縁を伝うように動き、ゆっくりとグリルを開ける。取り出された食パンは、すっかりきつね色の焼き目がついていた。良い、焼き加減。
なのに、三ツ谷は、眉を下げながら、ため息を吐いていた。
―― その朝を最後に、三ツ谷と顔を合わせていない。
ガッ、と、敷き詰められた米をかき込んだ。むぐむぐと噛み締めて、おかずの入った容器から大ぶりな竜田揚げを箸で抓む。かぶりつくと、小気味の良い食感とともに、じゅわりと肉汁が零れてきた。時間が経っているのに、衣はちゃんとザクザクしているし、中の鶏肉も乾いてはいない。美味い。確かにこれは、三ツ谷が揚げた竜田揚げだ。いつだったか、夕飯出てきたのと同じ味付けだし。スーパーの総菜ではない。断言できる。
いくら思うところはあっても、美味いものは美味い。口の中が空になると、勝手に唇は尖ったし、眉間に皺が寄った。三ツ谷の飯にはありつけている。なのに、本人には、何故か会えていない。
なんでだよ。
「なあ」
「あ?」
半分になった竜田揚げを口に押し込んで、顔を上げる。噛みしめながら視線を向ければ、同僚の眉間にもくっきりとした皺が刻まれていた。無表情でいることの多いイヌピーは、よく人相が悪いと言われる。その不愛想さを援護するような、顰め面になっていた。
「なに」
「ンな顔して食うくらいなら、それ、くれ」
「ヤダ」
またそれか。要望を一蹴して、テーブルの上に置いた容器をそいつから遠ざける。このまま置いていては、間違いなく、もう一つの竜田揚げを奪われることだろう。下手したら、鮮やかな黄色の卵焼きも。
牽制のつもりでねめつけると、そいつは歪めた表情のまま顎を浮かせた。凄まれたところで、くれてやるつもりはない。なんせ、この弁当は三ツ谷がオレに作ったものだ。分け与えてなるものか。
しばらく睨み合ってみるが、向こうが退く気配はない。それならば、ちょっかいを出される前に平らげてしまえ。気を張りながら、ファンシーなカップに入れられたきんぴらを箸で掴む。ひょいと口に放り込むと、シャキシャキとした歯ごたえと程良い甘辛さが広がった。肉じゃなくても、美味い。三ツ谷が作ったんだ、美味いに決まってる。あいつ失敗することあんのかな。ガキの頃はよくしょっぱい味噌汁作ってたけど、今はそんなこと、まったくないし。
三ツ谷のことを考えていると、肩が重くなってくる。上げていた顔も、俯き気味になってしまった。
「……ふーん、ついに愛想つかされた?」
「ッ」
軽やかに、イヌピーが問いかけてくる。どこか、冗談めいた響き。しかし、それを冗談と受け止められるだけの余力は、今の自分にはなかった。欠片もなければ、微塵もない。
……あの朝を最後に、三ツ谷とは、顔を合わせていない。それは、やはり、愛想をつかされた、ということなのだろうか。
「図星かよ」
「うるせー……」
言い返せたのは、なんの抗議にもならない悪態だけ。これじゃあ、アレコレ問い詰められる。聞くなという意味も込めて、じっとりと睨んでみるが、イヌピーはどこ吹く風。けろっとした顔をして、大ぶりなカツサンドにかぶりついていた。
「なにやらかしたの」
「なんでオレがやった前提なんだよ」
「オレがやりましたって顔してんだよ、自覚ねーのか?」
「……オレがやりました」
「ほらみろ」
謝るならさっさと謝っちまった方が、傷は浅く済む。そんな意味のことをイヌピーは言ってくれるが、どうも頭に入ってこなかった。あれは、謝って、どうにかなるものなのだろうか。謝る以前に、会えてない場合はどうすればいいのか。ぐるぐると考えを巡らせてみるが、それに対する答えは出てこない。
―― 三ツ谷と、会えない。なぜか、会えなくなった。かといって、あの家を出て行ったというわけでもないらしい。なんせ、三ツ谷の荷物自体は、まだ置いてある。それに、朝起きると、飯と弁当が準備されているのだ。オレが帰ってくる時にはいないくせに、寝て起きると帰ってきた痕跡がある。もしかすると、昼間、オレが働いている間も、家にいるのかもしれない。温めるだけにされた夕飯がコンロに乗っていたり、冷蔵庫の中の常備菜が増えていたりするから。
三ツ谷が生活している形跡は、ある。確かに、ある。なのに、本人が捕まらない。この一週間、ずっと、そう。
耐えかねて、店の定休日に合わせて、夜遅くまで起きてみたり、家の中でずっと過ごしてみたりもしたが、三ツ谷は顔を出さなかった。不貞腐れて冷蔵庫を開ければ、びちっと積み重ねられた保存容器。あの野郎、オレに会わなくて良いように、大量に作り置きしやがったな。律儀すぎるだろ。
飯の工面はするが、意地でもオレとは会わない。几帳面に積まれた容器を見てしまうと、そんな、三ツ谷の主張が、嫌でも伝わってきた。
なんでだよ、やっぱり、抱いたのが駄目だったのか。でも、あの日の朝は、少し気まずい程度で、あからさまに避けられはしなかった。最中だって、三ツ谷はたいそう感じてくれた。善がり狂ってくれた。セックスが好きなんじゃねーのかよ。……ああいや、好き、というわけではないんだった。癖になってるだけ。だから、駄目になってしまったのだろうか。
ぐるぐると考えたところで、求める答えには、辿り着かない。
「……みつやが、」
「お、三ツ谷のせいにすんのか?」
「ちげーよ、三ツ谷が、最近家にいなくて……」
「は? その弁当三ツ谷が作ったんだろ」
「そう、なんだけど、こう……、オレが居ると、家にいなくて、オレが居ない時にあいつが帰ってきてる、っぽい」
「……どういうことだよ、同じ家に住んでて顔合わせねえとかある?」
「あるから困ってんだよ……!」
キッとイヌピーを睨むが、目が合った瞬間そいつは噴き出した。ちょうど、カツサンドを飲み込んだタイミングだったらしい。変なところに詰まったようで、肩を震わせながら、ばしばしと胸を叩いている。きっと、水を差し出してやるべきなのだろう。わかってはいるが、オレの反応を見てこうなっているのを思うと、癪。
ひとまず、前屈みになって噎せている旋毛を見下ろした。眺めていると、脳天を突きたくなってくる。この相手が三ツ谷だったら、頭を撫で回したくなるんだけど。何度もブリーチとカラーを繰り返された髪は、相当傷んでいるはず。なのに、あいつの髪は妙に柔らかかった。触りたい。また、わしゃわしゃと撫でたい。腕の中に閉じ込めて、肩口に顔を埋めたい。三ツ谷が、足りない。
「ぐう……」
「あー笑った笑った。ったく、ンだよさっきのアレ、メンチ切ってるつもりか? 捨てられて人間不信になった犬みてーだったぞ」
「捨てられてねえから!?」
「必死かよ、ウケる」
「……腹立つなァ」
「ふん、おかずをくれるなら慰めてやらんこともない」
「ぜってーやらねえ」
そう言い返して、弁当の容器を全て自分の膝の上に移動させる。しかし、癇に障る上から目線は止まなかった。目当ては弁当じゃねえのかよ。面白い玩具を見つけたと言わんばかりに、厭味ったらしい半目がオレを眺めてくる。普段は、バイク以外に目を輝かせることはないというのに。どうして、オレをからかえる程度で目を輝かせるんだ。そんなに三ツ谷の弁当が魅力的だとでもいうのか? ……魅力的なんだよなあ、三ツ谷のお手製弁当。美味いもん。
モッ、と、大きく切られた卵焼きを口に入れた。今日は、出汁巻。ふかふかとした卵を噛むと、優しい塩気口内に広がる。でも、昨日の甘い卵焼きも、嫌いじゃない。むしろ、出汁巻を出されると、あの甘さが恋しくなる。どちらも美味いのだけれど、甘い方は特に三ツ谷が作った、という感じがするのだ。
なんで、会ってくれないんだろう。会いたい。三ツ谷に会いたい。ぎゅ、ぎゅ、と噛み締めるほど、虚しくなってくる。こんなことなら、あの夜、一線を超えなければ良かった。後悔、先に立たず、ってか。くそ。
せめて、電話でも良い、声を聞かせてくれないだろうか。
こくん。いい加減味わいつくした出汁巻を、飲み込んだ。
その瞬間、端末から、高い電子音が響く。
「っ!」
叩きつけるように、箸をローテーブルに置いた。
「なに、誰、三ツ谷?」
相変わらず、隣からは面白がる声が聞こえてくる。しかし、構ってはいられない。このタイミング、まさか、もしかして。いや、いくら何でも、都合が良すぎるだろ。期待と不安で、心臓がバクバクと震える。つられるように、作業着からスマホを取り出そうとする指先も震えていた。掴み損ねて、落としそうにもなる。
通知ランプだけを点滅させるソレの、ホールドを解除した。
点灯した画面に、浮かぶポップアップ。緑のアイコンの隣には、きちんと、送り主の名前が表示されていた。
「……正道さん」
「つまんねーな」
「人をエンタメ扱いすんな」
「人間、生きてるだけでエンタメみたいなとこあるだろ」
「……イヌピーさあ、突然、この世の真理みたいなこと言うのやめねえ?」
どうも今日の同僚は饒舌だ。なにか良いことでもあったのだろうか。端末から視線だけ向けると、イヌピーはいそいそとベージュのレジ袋から大ぶりなホットドックを取り出した。切れ目からは食べ応えのありそうなソーセージが飛び出している。そういえば、商店街に新しいパン屋がオープンしていたな。そこのパンかもしれない。袋からは総菜パンばかり覗いているが、フツーのパンもあるのだろうか。例えば、食パンとか。
買って帰ったら、三ツ谷も帰って来ねえかなあ。
「あいてぇなあ」
スマホの画面に視線を戻しつつ、ぽろっと口からまろびでる。すぐに、イヌピーの視線が突き刺さった。ちらりと目を向けると、大口を開けてホットドックを頬張っている。唇には、ケチャップとマスタードのマーブル色がくっついていた。突き立てた歯が、ソーセージの皮を突き破る。パリッという小気味の良い音が、聞こえてきそう。
「……なに」
「や、マジで惚れてんだなと思って」
「……おー」
惚れてるよ。つーか、それを誰よりも最初に指摘してきたの、オマエじゃん。今更じゃね?
それらを皆まで言葉にはせず、メッセージを確認する。急遽で悪いが、フロントに入って欲しいとのこと。なんでも管理している別の店のキャストがトラブルを起こして、そっちの対応をしなければならないらしい。バイク屋のあとに、アレをするのはなかなかしんどい。だが、今日を乗り越えれば明日は定休日だ。あの人も、それをわかっているからオレに連絡を寄越したのだろう。
断る理由は、なかった。これで家に三ツ谷が居るのなら、話は別。でも、今はいない。今日も、帰ったところで「おかえり」という声は聞けないだろうし、明日家でくつろいでいても、三ツ谷に会えるとは思えなかった。結局会えないんなら、目一杯疲れて帰って、明日は一日寝倒そう。
決めた。握りしめた端末に、了解の二文字を入力する。
「ま、飯作ってもらえてんなら、どうにでもなんだろ」
「ほんとかよ……」
「さあ。でも三ツ谷だろ? マジで無理なら、義理立てなんかしねーで出てくだろ」
「オマエが三ツ谷の何をしってんだよ……」
「タイマンも強ぇけど、乱闘での立ち回りも上手くて、あとドラケンより断然思い切りが良いってことは知ってる」
「……あ、そ」
それは、オレも、知ってる。
その気になれば、三ツ谷は簡単にオレの前から姿を消すのだろう。それをしないということは、たぶん、まだ、完全には見限られていない。だから、きっと、捕まえようと思えば捕まえられる。でも、できずにいる。なぜか? 難しい話じゃない。オレが、ビビってるんだ。あんなことをした後で、三ツ谷にどんな顔をしたらいいかわからない。会いたいけど、怖くも、あるのだ。
ほんと、オレよりずっと思い切りが良い男だよ、あいつは。
自嘲に染まったため息を吐きながら、送信の青い三角をタップした。