次にヘルプを頼まれたときは、絶対に上がりの時間を確認しよう。そう、思った。
 正道さん曰く、あの店は風営法に基づいて清く正しく営業している。きっちり零時には閉店するのだ。けれど、客が居なくなってハイ終わりとはいかない。何かと絡んでくるキャストをあしらいながら諸々の片付けをし、レジ締めをやなければならないのだ。自分の店でも締め、こっちでも締め、言うまでもなく肩が凝った。ちょっと首を傾けただけで、ビキッと筋が張る。こんなことなら、閉店までには戻って来いと、釘を刺しておくんだった。
 くそ。もう疲れた。癒されたい。
 うっかりあの店で口走れば、だらだらと寛いでいるキャストの誰かしらに乗っかられたことだろう。勃起すればアウト、しなくてもゲラゲラと笑われるのでアウト。となれば、猫なで声で引き止められようと、店を出るに限る。
 もう二時か。古めかしいエレベーターを降りて、人気の落ち着き始めた風俗街を眺めた。うらうら歩いているのは、大体どれも女連れ。女の顔つきを見るに、キャバ嬢のアフターだろう。どいつもオレを見るなり、わざとらしく怯えた顔をしやがる。で、それを理由に連れ立った男にくっついていた。……早く、帰ろう。あいつがいないと思うと、足は重いけれど。
 ざり、と、靴底がコンクリートを踏みしめた。
「……」
 通りは、ごった返してはいない。さほど意識しなくとも、歩いている人間の輪郭、それぞれを捉えることができた。バチバチの睫毛の女に、頬をやたらと赤く染めている女、……もう既にキスマークを首筋につけている女もいる。どいつもこいつも、営業熱心なことで。
 興味も失せてきて、ふいと視線を遠くに向けた。
「……ぁ?」
 ―― その背格好には、見覚えが、あった。
 つい足を止めてしまう。瞬きをする間に、その背中は雑踏に紛れてしまった。見間違いだろうか? 一か月前だったら、そうだということにして、すぐに関心もなくなったろう。けれど、今はそうも言っていられない。
 どくどくと心臓が騒ぎ出した。疲れていたのが嘘みたいに、頭が冴えてくる。
 それまでより、一歩。大きく踏み出した。一歩目が決まれば、二歩目、三歩目もついてくる。あの背中が見えたあたり。淡い髪が、ネオンの色を写していたあたり。そこまでのほんの十数メートルの距離を、駆け足で縮める。
 逸れた小道に、その男はいた。
「みッ」
 確かに、三ツ谷だ。見間違いじゃない。しかし、息が詰まった。続くはずの文字が喉でつっかえる。
「ぁ」
 視線の先にいるそいつが、小さく鳴いた。家の外なのに、ラフな格好をしている。ちょっとコンビニまで行ってくる。そう言って出てきたような服だ。おかげで襟ぐりがやけに緩かった。下は細身のズボンを穿いて、上は丈のあるニット。そんな服、持ってたんだ。いや、三ツ谷だぞ、オレが知らない服くらい、持ってるだろ。実家にも、あるだろうし。……あたかも、誰かに借りたかのようなサイズであることを意識の外に追い払って、都合の良い考えばかりを巡らせる。
「知り合い?」
「あ、いや」
 そのうちに、第三者の声が入り込んだ。つられるようにして、視線が隣にいるもう一人に移る。男だ。上背があって、オレでもわかるような品の良いダークスーツを着ている。切れ長の目は、余裕を携えて見えた。こういう顔を、整っているというのだろう。そういえば、こいつの妹たちも随分な面食いだった。兄の方も、同じらしい。
 そんな、整った顔立ちの男は、当然のように三ツ谷の腰を抱いていた。
「……」
 距離が、近い。ぴったりと体は寄り添っていて、男の唇は三ツ谷の耳のすぐそばだ。少し首を傾げるだけで、男の髪が三ツ谷のこめかみにかかった。
 あの距離を、許される男がいる。自分以外にも、いる。この間の三ツ谷の言動を踏まえたって、不自然なことではないのに、なんだか視界が白くなってきた。いや、これは真っ暗というのだろうか。とにかく、肩が重い。ただでさえ、肩が凝ったというのに、トドメを刺された気分。周りに何があるか、もうろくに見えやしなかった。……それでも、ここを庭にして育った自分には、二人の側にある建物がなんなのか、わかってしまう。
「……なんでもない」
「いいの?」
「いいよ。いこ」
 ぼやくように言った三ツ谷は、静かにスーツの男から距離を取った。つま先が、煌々と光る看板の方を向く。腰を抱いていた手を置いて、ぺたん、地面に吸い付くような足音が鳴った。このままじゃ、間もなくあの身体はビルの敷居を潜ってしまう。
 逃げられる。
 凍り付いていた体が、腕が、大きく伸びた。
「なあ!」
 掴んだ手首は、骨の太さをそのままに伝えてくる。つい先週掴んだのと、太さは変わらない。なのに、頼りなく感じる。
「無視、しないで、ほしんだけど」
「……ど、ちら様ですか」
「三ツ谷、」
「どこかでお会いしたこと、」
「すっとぼけてんじゃねぇよ……ッ!」
 握る手に、力が入った。他人のフリをするにしたって、無理がある。明らかに「顔見知りに見つかって気まずいです」って顔、しただろうが、オマエ。なのに、どちら様ですかだって? ふざけてんのか。開き直るんなら、もっと堂々としろよ。そしたらこっちだって。
 こっち、だって? なんだろう。大人しく手を退くというのか。きっと、それはできない。だって、ずっと会いたかったから。じゃあ、ガーッと当たり散らす? それも、違う。怒鳴ったって、自己満足にしかならない。脅迫したいわけではないのだ。
 じゃあ、自分は何をしたいんだろう。三ツ谷の顔を見たいだけなら、引き止める必要はない。引き止めてまでしたいこと、とは。
 何かを言うにも言えず、ただただ、ぎゅうと三ツ谷の手首を握りしめた。
「……ええと」
「あ?」
 ぽつり、後ろから声がする。
 咄嗟に振り返って、……その男の存在を思い出した。そういえば、いたんだった。これから、三ツ谷を抱くはずだった男。どちらから誘ったのかはわからないが、ラブホに入ろうとしていたのだ、ただ仲良くオハナシしましょうと歩いていたわけではあるまい。
 む、と唇を引き結んだまま、そいつをねめつける。すると、軽くため息を吐いてから、そいつはコツコツと回り込んできた。靴底がコンクリートを叩く。その音が、耳についた。しれっと、三ツ谷の正面に立つのも、癇に障る。
「確認ね。君は、この子の彼氏? それともストーカー?」
「どっちでもないっすけど」
「どっちでもないのに、よくもまあ割って入ってきたね」
「……逆に聞くけど、行方知れずの親友がふらふら金持ってそうな男とラブホ街歩いてたら、アンタどうする?」
「えぇ? そうだな、親友の程度にもよるけど……。その男がヤクザっぽくなかったら、まあ、声はかけるかもね」
「……」
「あ、言っとくけど、僕はヤクザじゃないよ。どこにでもいるコンサルおじさん」
「胡散臭ぇな……」
 自分の風貌の悪さは、自覚している。睨んだつもりが無くても避けられることは多いくらい。なのに、その男は平然としていた。堅気にしては、肝が据わり過ぎている。昔、治安が悪かった口か、あるいは今、反社組織のフロント企業に勤めているのか。バックに何がついているのか、わかったもんじゃない。
 気付くと、三ツ谷の体を引き寄せていた。背中が、こちらの前面にぶつかる。触れた瞬間、三ツ谷は小さく肩を揺らした。けれど、抵抗はしない。離れようとも、しなかった。……良かった、これくらいの接触なら許してもらえる。こっそりと胸を撫でおろしながら、得体の知れない男を睨んだ。
 やはり、そいつが怯む気配は、ない。
「親友ねえ……」
「なんだよ」
 それどころか、にやにやと唇を歪め始めた。涼しげだった瞳に、妙な熱が差す。オレに向いていた視線は、じっとりと、俯き気味の三ツ谷に移動していった。
 そして、くん、と。男の指先が、三ツ谷の顎を掬う。
「君、言ってたよね」
「っ」
 半ば強制的に、その顔を上に向かせた途端、そいつはにっこりと笑った。オレが言うのもなんだが、まあ、柄が悪い。嗜虐的な色を過分に含む笑みが、三ツ谷に注がれている。そう思うと、ただ体を引き寄せただけでは、まずい気がしてきた。三ツ谷が弱いとは思わない。けれど、これはあまりにも質が悪すぎる。
 手を、振り払おうと、腕を伸ばした。
 ……しかし、結果として、オレが払うより先に、男はひょいと三ツ谷から手を退ける。叩き損ねた手は、一瞬宙に置かれてから、なぜかオレの肩を叩いた。ぽんぽんと、二回。そうする男の顔には、相変わらず厭味ったらしい笑みが浮かんでいる。何か喋られる前に、三ツ谷を連れてずらかろうか。なんせ、ぎゅうと抱き込んだ体が、かたかたと震えている。
 靴底が、じり、コンクリートを擦った。
「フラれたから慰めてほしい、って」
「……は?」
 だが、それ以上足が動くことはなかった。
 フラれただって? 一体、誰に? そんなこと、オレは聞いてない。この間だって、テキトーに引っかけた、なんて言っていた。特定の相手は、いなかったはず。なのに、フラれた、とは。
 バッと真下に目を向けるが、三ツ谷の旋毛しか見えない。せいぜい、耳の端が覗く程度。
 白いはずの、そこは、薄紅色を帯びていた。
「その人とのセックスを、忘れさせて欲しい、って」
 男の活舌は、ゾッとするほどに良かった。文字に起こしたら、下線が引いてあるに違いない。もしくは、太字か、蛍光ペンでマーカーされているか。それくらい、耳にはっきりと飛び込んできた。脳みそにも、しっかりと刻みつけられる。
 三ツ谷は、オレを避けていたこの一週間の間に、そんなセックスを経験したというのか。いや、違う。そうじゃない。これは、きっと。
 こくんと生唾を飲み込むと同時に、男の視線がオレに戻ってきた。
「もう一回聞くね。君、ほんとにこの子の彼氏じゃないの?」
 抱きしめている体が、また、ひくんと震えた。見えたばかりの薄紅は、朱赤にまで色味を濃くしている。
―― いまから、くどく、ところです」
 半ば呆然としつつも応えると、疚しさをたっぷりと孕んだ笑みが、パッと人好きのするそれに取って代わる。一瞬の出来事に面食らっているうちに、良かったね、と今度は三ツ谷の肩を叩いた。
 これは、期待して、良いのだろうか。というか、するだろ。せざるを得ない。心臓が、徐々に逸りだした。こんなにもぴったりとくっついていては、騒ぐ心音もバレてしまう。格好悪いな。……三ツ谷相手に、格好つける必要もないか。もう何度も、情けないところを見られている。
「立ち話もなんだし、入ったら? なんなら、おじさんが出したげよっか?」
「いらねーっす、サヨナラ、どーぞ」
 男は、まだオレらを引っ掻き回したいらしい。睨むのをやめて、冷ややかな目線を送っておく。物見遊山には無感情な顔を向けておけ。金にならない相手に激情したって、何の得にもならない。散々、あの家で吹き込まれたことを実践すると、男は肩を竦めてから去って行った。
 これで、懸念要素の一つはよし。次だ。旋毛を見下ろしながら、ゆっくり、たっぷり、息を吸い込んだ。
「みつ、や」
 十分に取り込んだはずの空気が、不格好に零れた。名前を呼ぶ、たったそれだけのことに緊張している。気概がないにも限度があるだろ。三ツ谷のことになると、いつもこう。ため息を吐きたくなってきた。かといって、今は、ため息を吐いて良いタイミングじゃあない。ごくんと飲み込んで、再び口を開いた。先ほどの男がしたように、耳元に唇を寄せる。こんなこと、しても良いのかな。ちらりと掠めた思考に、寄せたばかりの唇が戦慄いた。本当に、情けないったら。
「なあ、さっきの、どういう」
「ッぅ」
「へ」
 囁くとほぼ同時に、三ツ谷がぐるんとこちらを向く。ぱっと視界に飛び込んできた顔は、耳殻と同じか、それ以上に赤らんでいた。瞳は、普段よりも濡れている。潤んだ、目、可愛いな。垂れた眦までいっぱいに水の膜が張っているのが、愛おしく見えてくる。
「ンの」
 そう、見惚れたせいで、反応に遅れた。
「ぉ、わッ、え?」
 オレのそれより、小ぶりな両手が、きゅっとオレの胸元を掴んだ。こちらを見上げてくる三ツ谷の唇は、半開き。ハ、ハ、と浅い息を通すそこに、目が留まった。服をぐっと引かれたのもあって、つ、顔が寄る。鼻先がぶつかる。吐息が重なる。額がぶつかるまで、もう少し。
 間違いなく、自分は、期待していた。
 ―― しかし、その期待は、鮮やかに霧散する。
 ゴ、と、鈍い音が響いた。
「い゛ッ!?」
 ほとんど同時に襲ってくる、衝撃と痛み。視界にチカチカと星が飛び、思考の全てがストップする。何が、起きた。キス、する流れだったんじゃないのか。受け止めきれなかった衝撃で、ぐらり、足がよろめく。たたらを踏んで尻もちをつくのは堪えたものの、三ツ谷から腕を離してしまった。
 あれ、これは、まずいのでは?
 ぺちんと痛みを訴える額を押さえて、正面を睨んだ。視界に移るのは、リンゴを彷彿とさせる赤に染まり切った顔。あ、その顔も可愛い。
 しょうもないことに気を取られた瞬間、三ツ谷は駆けだした。
「あッ、待」
 慌てて振り返るが、頭はまだ揺れている。走ろうとした足はもつれて、すぐに動かなくなった。額は、まだズキズキとしている。変に跳ね続けている心臓も、痛いくらい。
 なんで、頭突きされたんだ。
 つーか、これだけ痛い頭突きをしておいて、なんであいつはあんなに早く走れるんだよ。石頭め!
「なんなんだよ、くそ、~~あぁあいッてえな!」
 聞こえてんのか、三ツ谷。吐きつけそびれた恨み言は、行き場を失ったまま空気に溶けていった。

◇◆◇

 とぼとぼと帰り着いた家は、しんと静まり返っている。流れ作業のようにシャワーを浴びて、けれどちゃんと乾かした髪を雑に纏めながら居間に戻った。ここ一週間畳まれたままの布団を見下ろす。ぼすんと上に座って、上体だけ横たえた。瞼を閉じれば、じんわりと額の痛みが蘇ってくる。なぜ、頭突きをされたんだ。あのとき抱いた期待は、全部勘違いだったとでもいうのか。ぐるぐると考えてみるものの、三ツ谷が居ない今、答え合わせはしようもない。
 今日、三ツ谷は帰ってきてくれるだろうか。明日、D&Dが定休日というのは知られている。冷蔵庫を確かめてはいないが、この間のように作り置きが増えていることだろう。帰って来ない可能性の方が高そうだ。わかっている。家に籠もっていたって、会えないと。次にあいつが来るとしたら、明日の夜中だ。じゃあ、その時はずっと起きていようか。翌朝の仕事には響くけれど、いつまでも三ツ谷を捕まえられないのも嫌だ。
 早く、あんな抱き方をしたのを、謝りたい。そして、あわよくば――

 考え込んでいるうちに、微睡んでいたらしい。体が、変に温かい。寝起きのときのソレだ。変な体勢だったからか、背中から腰にかけてのあたりがぎしりと軋んだ。店のソファで昼寝をしたときに感覚は近い。こんなところで寝ていないで、ちゃんとベッドに移動しなくては。わかっていても、寝起きの体は上手く動かせない。瞼を閉じたまま、身じろぎをした。
「……ったく、もぉ」
 すると、ほど近いところから、ぼやくような声がする。
 誰だろう。……誰も何も、幻聴だろ。だって、この家に住んでいるのは自分だけ。三ツ谷は、おそらく帰ってこない。恋しすぎて、ついに空耳までするようになるとは。あるいは、半分ほど夢を見ているのかもしれない。三ツ谷が、帰ってきてくれる夢。
 ぼんやりとしていると、物音が遠ざかっていく。蝶番の軋む音がして、ほとんど聞こえなくなって、そのうちにまた穏やかな足音が返ってきた。一人暮らしを始めて、もう何年も経っているというのに、人の気配というものは心地良い。完全に一人なのも嫌いじゃないが、あの店で育ったからか、近くに誰かが居る方が、正直落ち着くのだ。
 意識が、いよいよ夢の世界に沈んでいく。頭の回りが鈍くなり、なんとなく、辺りが暗くなってきた。
「……風邪、ひかないようにな」
 ふわり、肩に、何かがかかる。あわせて、甘い、優しい声が降ってきた。耳に残る。その温かい音を、もっと聞いていたい。ほとんど無意識に、腕が伸びていた。
「ぇ」
 そして、きゅ、と、何かを掴む。
「う」
 これは、手だ。随分と冷えている。あっためてやんねえと。義務のような感覚に迫られ、指、一本一本を絡めていった。しっかりと重ねてから、形を確かめるように指で甲を触る。さり、ざり、指の腹が擦れる度、握り込んでいる手がひくんと震えた。いや手、だけじゃない。もっと、大きく震えている。そういう、生々しさがある。
 気になって、瞼を、持ち上げた。
「みつや?」
「ぁ、えっと、」
 視線が重なると同時に、三ツ谷の体が大きく強張った。絡めたばかりの手が、乱暴に振りほどかれる。ぐんっと、立ち上がったそいつは、後ずさるように足をもつれさせた。絡めていたと思しき右手は、自身の左手で覆うように握られている。
 三ツ谷、だ。
「ッなあ!」
「ぅ、わ、わっ、わ!」
 跳ねるように、体を起こした。だが、三ツ谷も、同じくらい俊敏に踵を返す。こっちが立ち上がる頃には、もうその体は廊下の方へと足を踏み出していた。まずい、逃げられる。また、逃げられる。騒がしい足音を、大股で追いかけた。嫌だ、もう逃げられたくない。逃がして、堪るか。
 一歩早く玄関に辿りついた三ツ谷は、踵を踏みつけるようにして靴を引っかけた。綺麗な指先が、ドアノブにかかる。もう一方の手は、ロックに触れていた。
 間に合うか? 間に、合え。
 ガコン、と、金属が外れる音がした。
「まって!」
 突き出した手が、玄関扉のスチールを叩いた。勢いを付けすぎたせいで、仰々しいくらいの音が響く。明日、苦情を言われても仕方がない。それくらい、喧しい音だった。
 けれど、そのおかげで三ツ谷を怯ませられたのも事実。びくんと揺れる体にくっつきながら、ドアノブの上で、手を重ねた。指先は、捻られたばかりの鍵を、元通りに閉める。
 浅くなった息を隠す気力もなく、ごつ、と、三ツ谷の肩に額を埋めた。
「まってよ、たのむから」
「は、はなし……」
「ごめん、むり、もう逃げられたくない」
 おねがい、にげないで。ほとんど縋るように付け足すと、三ツ谷のドアノブを掴んでいる手が力んだ。けれど、すぐに緩む。鈍い動きで、その両手は扉から離れていった。良かった。安堵しながら、こちらも手を三ツ谷の胴へと移動させる。控えめな力で抱きしめると、額を預けている肩が、ぴくぴくっと震えた。
「逃げて、ないよ」
「でも避けてたじゃん」
「ぅ、あーっと」
「こまる」
「……いや、飯は、ちゃんと作ってた、し」
「そうじゃなく、こまるんだよ。三ツ谷が、いなくなるのが、やだ。だめ、こまる」
 寝起きのせいか、あまりにも漠然とした縋り方になってしまった。どうして困るのか、言わないと三ツ谷を引き留めることはできない。わかりやすく、はっきりと。言い聞かせてみるが、浮かぶのは「困る」と「やだ」の二つばかりだった。今時、駄々を捏ねるガキだって、もっと具体的に主張できる。なのに、自分ときたら。
 ただただ、三ツ谷を抱きしめて、縋ることしかできない。
「避けられんの、ほんと、しんどい」
「んなこと、言われても」
「なんで、いきなりいなくなんの、やめろよ、そういうの……」
「……」
「連絡しても、既読すらつかねーし」
「え、うそ、それは、……ごめん」
「ん」
 三ツ谷が、振り返った気配がした。頭に、そいつの髪が触れる。
 メッセージに関しちゃ、本当に失念していたのだろう。家電には強いくせに、スマホやパソコンにはとことん疎い。ガラケーを使っていた時から、そうだった。でも、一週間ずっと返事が来なかったのは、初めてかもしれない。うん、でも、はい、でも、いいえ、でもいい。何か一言返してくれればなあ。それとも、スマホを見ることを忘れるくらい、耽っていたのだろうか。さすがに、あれから毎日抱かれてたということは、ないだろうけれど。……ない、よな。確かめるように、回した腕を腹に押し付けてみる。まあ、それで、実際にどうであったのかを察しとれたら、苦労しないよな。
「ぅ、ぐ、……苦しぃって、ば」
「なあ」
「きいてる?」
「いままで、どこいたの」
「……どこ、って」
「夜、夜中。どこで、なにして過ごしてた?」
「あー……」
 もそりと僅かに顔を浮かせると、文字通り眼前に三ツ谷の顔があった。縋る視線を向けてみるが、ふい、と逸らされてしまう。小ぶりな唇が、ツンと尖っていた。言いたくない。誰が、どう見ても、そう顔に書いてある。
 誰かの家に行っていたなら、三ツ谷は言うよな。言わないということは、ううん、日替わりで男を引っかけていた線が、濃厚になってくる。
 嫌だ。すごく嫌だ。あの日だって、これまでのこと全部塗りつぶせればいいのにと思ってたってのに、違うことを塗り重ねられるなんて。
「そんなに、」
「……」
「オレと、寝たの、嫌だった……?」
「は?」
「……忘れたいセックスて、あの日のことなんだろ」
「だっ、て、……さあ」
 ああ、やっぱり。先ほどの男が言っていた「フラれた」は方便なのだろう。けれど、「忘れたかった」まで嘘というわけじゃない。間違いなく、三ツ谷はあの夜のことを忘れたかったのだ。最悪だ。どうして、あんな独りよがりなセックス、してしまったのだろう。煽られた、というのを理由にしちゃいけない。こういうのは、抱く方が有利にできてるのだから。まったく、セックスするときは気を付けろと、昔から散々言い聞かされていたっていうのに、とんでもない失態だ。
 ごめん、ゆるして、でもにげないで。そればかりを込めて見つめていると、ようやく三ツ谷の視線が返ってきた。
「あんな、ぐずぐずにされると、思ってなくて……」
「……え」
 抱きしめている体が、少しだけ、熱くなった。居間からのわずかな光しか差していないが、どうも目の前の頬が色づいて見える。
「どんな、顔したらいいか、わかんなくなっちゃったんだよ」
「どんな顔でも良いよ、三ツ谷なら」
「よく言う、あの日の朝だって、気まずそうな顔してたくせに」
「それはっ、出て行かれたと、思ったから……!」
 他にも、あんな啖呵を切っておいて、三ツ谷がトぶまで抱き潰したとか、そんな無体を強いておいて飯を作ってもらえて喜んでいる自分がいるとか、自分のやらかしたことに気まずさは感じていた。いっそ、最悪だと思ったくらい。
 けれど、三ツ谷自身のことじゃない。……いや、どうだろう、存分に男を知った体のことだけは、恨めしく思った。認めよう。おかげで、あんな激しくまぐわっても無事で済んだのだから、恨むべきではないとは思う。それでも、自分以外の男が、あの淫蕩を知っていると思うと、嫌だった。
「……」
「…………」
 じ、と視線を絡ませたまま、お互い言葉が止まる。こうやって、黙り込んでしまうから、だめ、なんだよな。きっとそう。アイコンタクトで通じあえる範囲なんて、たかが知れているんだ。
 言うべきことは、言う。それに、宣言したろ。今から口説くところです、って。
 そう思えども、自分はまだ、ビビっている。二回、三回と深呼吸しないと、踏み出せない。だめだな、ほんと。こんなんだから、逃げられるんだ。大事なものを、取りこぼしてしまうんだ。もう、こりごりだったのに。
 しっかりと、顔を上げた。胴に回していた腕を緩め、そろりと両肩に乗せる。ぐ、と力を込めて、三ツ谷の体を反転させた。薄暗いせいで、細部まで表情を読み取るのは難しいだろう。代わりに、こっちのビビっている顔だって、曖昧に映るはず。……ああほら、もう日和ってる。もういいだろ、臆病風吹かせるのは、ここで終わりにしようぜ。
 よし。やっと、意を決した。
「みつや、」
「やめて」
「まだ、なんも言ってない」
「……考えてることくらい、わかるよ。期待するから、やめて。勘違いしそうになる」
「期待、してよ。オレ、オマエのこと、」
「~~違うんだって!」
 なのに、出鼻をくじかれる。なんだよ、言わせろよ。必死に口を開けたのに、閉じざるを得ない。ぺたりと触れあった自身の上下の唇が、不満そうに波打った。
 そんなオレに対して、三ツ谷の唇はくるくると動く。
「ドラケンのそれは、違う。違うよ。面倒見るつもりが、楽できて、勘違いしてるだけだ」
「オレのことを、オマエが決めンな」
「決めてない。間違ったこと言ってるとも思ってない。一時の気の迷いなんだって、それは、さあ」
「……ああ、そう」
 じゃあ、仮に、三ツ谷の言う通りだったとしようか?
 小さく頷くと、くしゃりと三ツ谷の顔が歪んだ。なんだよ、自分で言い出しといて、傷ついた顔するなよな。本当は、こんなこと、言われたくないんだろ。そっちだって、夢見心地でいたいんだろ。なら、素直に受け止めてくれよ。天邪鬼なこと、しないで、ほしい。
「けど、少なくとも」
 今は、気の迷いってことにされてもいい。それで、三ツ谷が納得できるというのならば。
 片一方の手を、三ツ谷のこめかみに移動させる。淡い色をした髪を指に通し、下で眠っている片割れをなぞった。 
「今この瞬間は、間違いなく、三ツ谷がほしいって思ってる」
 垂れた目が、きゅうと見開かれた。その表面は、たっぷりの涙で濡れている。泣かれる、だろうか。でも、相手は三ツ谷だ。涙を零すところに至る前に、激情を飲み込んでしまいそう。だから、オマエ、冷静とか冷めてるって言われるんだよ。内心じゃ、荒れ狂ってるくせに。損な性分してるよな。
 もう一度、龍の、おそらく首元であろう辺りを親指で撫でた。
「……ずるい言い方するね」
「ごめん、でも、でてかないで」
「好き放題言いやがって」
「わかってる。けど、かえってきてほしい」
「それでオレが絆されると思ってんの」
「……じゃあ、どうしたら一緒にいてくれる?」
 セックス一つじゃ、オレに縛られてはくれないだろ。それは、身に染みてわかった。
 世の中の人たらしは、どうやって相手を口説くんだろう。どうも自分じゃ、縋るばかりになってしまう。それなりに生活力はあるから、一緒に暮らす相手としては悪くないと思う。けれど、三ツ谷相手にそれをアピールしたって、あまり効果はない。逆に、三ツ谷は、いつもどうやって男を誘っているのだろう。いや、夜だけの関係なのだし、口説き方の性質が違うか。参考には、きっとしない方が良い。
 今度は、親指以外で、側頭部を擽る。毛先が指に絡む感触は、気持ち良い。わずかに滑らせるようにして、耳殻に触れると、こてん、三ツ谷の首が傾いた。
「オレはね、ドラケン」
 三ツ谷の手が、丁寧にオレのそれを掴んだ。こめかみから、もう少し低いところに連れていかれる。手の平に、なんとなく削げた頬が触れた。かと思うと、わずかに顔の向きが変わる。
 親指の付け根に、そっと口付けられた。
「もう随分前から、オマエに惚れてんの」
 やっている動作には、色気がある。ぞわり、煽られているような心地にもなってきた。
 しかし、三ツ谷の瞳に、熱はなく、冷めているように見えた。諦念で、いっぱい。
「口説かれて、浮かれてる。それは認める。でも、ンなわけねえ、一時の気の迷いだろッて、ビビってる自分の方が、強い」
 言い終えると、三ツ谷は静かにオレから手を離した。大きく息を吐き出して、ゆらり、後ろに倒れる。え、どこに、行くんだ。扉に三ツ谷の背中がつく前に、腕を引いた。されるがまま、三ツ谷の体は揺れる。抵抗もなく、腕の中に、収まった。いる、大丈夫、どこかに、消えてはいない。
 確かめるように背中を撫でていると、ふ、吐息だけで笑う音がした。
「あの龍宮寺堅が、そんなにオレを欲しがるなんて、―― 信じらンねえ」
 三ツ谷の頭が、こちらを見上げる。俯くと、いい塩梅に静かな笑みが見えた。困ったような、諦めたような、手放しに可愛いなと言えない笑み。それでも、オレのことでこうも困惑していると思うと、悪くないと思ってしまう。自分も大概、性格が悪い。
 ウン。一つ頷いてから、こつり、額を重ねた。
「それでも好きだよ」
「ありがと」
「どうしても、信じらんない?」
「うん。信じたいけど、怖い」
「こわい、かあ……」
 オレも、三ツ谷に見放されると思うと、怖い。おそらく、三ツ谷が感じている恐怖も、似た質のものだろう。この恐怖ばかりは、どう克服したらいいか、見当がつかない。信頼関係を築くのには、時間がかかるけれど、崩れるのって一瞬じゃん。三ツ谷との関係が、瞬く間に消し飛ぶなんて、嫌だ。
 なのに、本当、よくもまああの時こいつを抱いたよなあ。危うく、三ツ谷を手放す羽目になるところだった。いや、その危機はまだ去っていないか。今、どうにかして引き止めないと、こいつのことだ、姿を眩ませてしまう。
「……なあ」
「なに」
「相談、なんだけど」
「うん」
 といっても、画期的なアイディアは閃いていない。
「……食費は、これまでどおり三ツ谷持ち」
「え?」
 じ、とすぐそばの瞳を眺めながら、最初に決めた条件を思い起こす。この、ぬるま湯のような生活を、続けるくらいしか、引き止める方便を思いつかなかった。
「光熱費と水道代、日用品含むその他生活費はこっちで持つ」
「ぅん、うん?」
「家賃はオレ負担、って言いたいとこだけど、三分の一くらい出してくれると嬉しい」
「ドラケン……?」
 滔々と連ねているうちに、鼻先が擦れた。……まずい、キス、したくなってくる。だって、息がかかるくらい、近くにあるんだ。小ぶりなそこに噛みつきたい。ちゅぅ、と吸い付いてしまいたい。できれば、その奥にある熱も、貪り、たい。
 ぐ、と欲を飲み下して、最後の懇願のために口を開いた。
「もうちょっと、いてよ。―― 信じてもらえるよう、口説くから」
 言い終えると、三ツ谷の目が、ぱち、ぱちり、瞬く。長い睫毛が擦れて、くすぐったかった。そのうちに、重ねている額が火照りだす。頭を引いたら、紅潮した顔を拝めるだろうか。それも見たい。でも、このほとんどゼロに近い距離も、捨てがたい。
「じゃあ」
「うん」
 悶々としていると、か細い声がした。あわせて、三ツ谷の腕が、そろそろとオレの首に回る。
「キス、してくれたら」
「っ、」
「……ここに、いさせて、もらおうか」
 な。
 最後の音は、口付けで受け止めた。

 これが、オレと三ツ谷が同棲を始めた経緯である。