五
そして、今日も、三ツ谷の布団に寄り掛かっている。
別に、起きて帰りを待つ必要はない。こっちは明日も仕事、三ツ谷はそれをわかっている。だから、家の灯りが全部消えていたところで、文句を言われることはないだろう。むしろ、こうやって待っている方が、三ツ谷は気にする。まして、畳んで重ねた布団に寄り掛かった状態で微睡んでいては、なおのこと。変に寝るくらいなら、部屋に行けよ。瞼を閉じると、脳みその中で呆れ返った三ツ谷の声が流れた。
それでも、同じ姿勢のまま、動けずにいる。足は投げ出して、けれど手は腹の上で組んで。ちょうど胃の上だったからか、確かな満足感がじわりと伝ってきた。
「……ンまかったなあ」
夕飯のメインは、リクエスト通り豚の生姜焼き。炊飯器は帰宅と同時に炊き上がりを知らせてきたし、コンロに置かれた鍋にはなめこと豆腐の味噌汁もあった。当然のように冷蔵庫の中には常備菜が増えていて、野郎一人の晩飯としてはなかなか豪勢になったと思う。
そこまで手を掛けてくれたのだ、満たされないわけがない。
しかし、胸の辺りはざわつく。この間のように、不穏な色を纏って帰ってくるのではないか。決定的な痕をつけて戻ってくるのではないか。カチコチ、時が進むほどに、その不安は大きくなっていく。こんな時間まで、何をしているんだろう。一体、何時に帰ってくるのやら。……口うるさい教師みたいだ。こんな大人になる予定、なかったってのに。
身を捩って、枕と布団の間に捻じ込んだスマホを取り出した。ホールドを解除すると、煌々と数字が光る。さっき見たときより、三十分は経っていた。さらに言うと、日付も変わってしまっている。そろそろ、帰ってきてくれないだろうか。諦めて寝てしまえば良いとわかってはいるものの、この場から動く気にもなれなかった。
我ながら、ぐずるガキみたいだ。
首を傾けて、一番上に乗っかっている枕に顔の半分を埋める。洗濯したばかりのタオルからは、正しく柔軟剤の匂いがした。三ツ谷の匂いは、しない。なんだ、しないのか。
もそ、と頬を擦りつけた。
「……あ」
と、鍵の開く音がする。身じろぎをやめて耳を澄ませば、玄関の蝶番が重く軋んだ。
ただいま、という声はしない。けれど、三ツ谷だ。帰ってきた。足音を潜めた歩き方に、妙な安心感を覚える。親の帰りを待っているガキって、こんな気分だったのかな。ぐるぐると思い耽りながら、手の中の端末を床に置いた。
「ただい……、まーたオマエは、こんなところで寝て。髪ちゃんと乾かしたんだろうな?」
相変わらず静かな足音を聞きながら、そっと様子を窺う。見やった先には、少し疲れた顔をしただけの三ツ谷がいた。小脇に抱えているのは、仕事のときに持っていく鞄だ。襟の付いた服を着ていて、頬はうっすらと赤くなっている。仕事関係の飲み会だったのかもしれない。
一瞥した限りでは、あの日の不穏さは、ない。
良かった。ああ、良かった。これなら、あの日のことだって、見間違いとか錯覚で済ませられそう。胸を撫でおろすと、勝手に顔が緩んだ。
「ねてない、おかえり」
「ん。ただいま」
そう言いながら、三ツ谷は右手を差し出してくる。ぼけっとしながら手を重ねると、思いのほかしっかりと温かい手に握り込まれた。どうして? 頭を働かせないまま見上げていると、むにゃりと三ツ谷の唇が緩んだ。続けて、くすくすと笑い声が聞こえてくる。なに笑ってんだよ、この腕、引っ張っちまうぞ。力いっぱい引き寄せて、すらりとした体躯を抱きしめたい。
こっちの欲など知りもしない三ツ谷は、一つ深呼吸をしてから口を開いた。
「ほら、起きな。ドラケンは明日も仕事だろ?」
「あー、ウン」
「ウンじゃなく起きるの。歯は磨いた?」
「ん」
「じゃあ寝るだけだね」
「ン」
「だからウンじゃなくってさ」
起きろって。似たようなことを繰り返しつつ、三ツ谷の左手は首元に伸びる。ネクタイを引っ張るように緩め、ぷつ、ぷつり、ボタンを外していった。上から、あわせて三つ。苦しかったのだろう、寛げると同時に、はあ、と安堵のため息が聞こえてきた。露わになった首も、いつもよりは赤みを帯びているような、そうでもないような。影になっているから、正しい色味はわからない。
ただ、キスマークが映えそうだ、とは、思った。日焼けしていないソコは滑らかだ。軽く吸い付くだけでも、十分に染まってくれそう。きつめに噛みついたら、何日残るかな。
つけて、みたい。
やっぱり、引き寄せてしまおうか。また女と間違えやがって、と言われるだろうが、それはそれ。だって、今なら寝ぼけたせいにできる。キスマークを許される関係じゃないけれど、仕方ないと済ましてもらえるかもしれないのだ。一思いに、やってしまいたい。
……こんな言い訳を準備しないと、アプローチの一つもできやしないなんて。情けないったら。
自身に嫌気を感じつつも、掴まれた手を握り返した。首筋を見つめたまま、緩い笑みを浮かべる体を引き寄せるべく、力を込める。
込める、はず、だった。
「あ」
「ん?」
ぎしり、腕が強張る。口の隙間から漏れた間抜けな声は、三ツ谷の耳にも届いたらしかった。鎖骨の辺りまで晒しながら、胡乱な顔をする。
なんでもない。そう、言いたい。なのに、舌はぴくりとも動かない。
首筋の下。晒されたばかりの鎖骨、その上にある―― 赤い痕から、目を逸らせなかった。
「どしたの、もしかして具合悪い?」
穏やかな口調のまま、三ツ谷は屈んでくれる。ぐ、と距離が近付いて、その分、痕もはっきりと見えた。確かに、映える。そこまで濃い色味をしているわけではない。一日二日で消えてしまうだろう淡さ。けれど、目についた。眼球をひりひりと炙ってくる。
ふわふわとしていた意識は、ぼたりと床に落ちてしまった。鼓動が耳のすぐそばで聞こえる。嫌でも、自分の顔が強張っていくのがわかった。自分でそうなのだ、対面する三ツ谷が気付かないわけがない。うっすらと眉間に皺を寄せつつ、左手がこちらに伸びてくる。間もなく、ぺたり、こちらの額に当たった。
「熱は、……なさそう、かな。一応測ろっか、体温計ある?」
ない。持ってない。そう答えれば、不安を上回る呆れを向けられるのだろう。
そんなことを考えながら、うらり、繋いでいない方の手が三ツ谷に伸びていった。肩に届きそうで、届かない。指先が服を掠めると、それをどう捉えたのか、三ツ谷は床に膝をついてくれた。肩を貸そうとしてくれたのかもしれない。具合が悪そうな奴に、肩を掴まれかけたのだ、そりゃそう思うよな。……でも、オレがやろうとしたのは、そうじゃない。
改めて、三ツ谷の肩に手を乗せた。指先を乗せた、と言った方が正しいかもしれない。四本の指を乗せたまま、一本だけが、首筋へ。浮き出た筋を掠めながら、親指は鎖骨に辿り着いた。
「え?」
平坦、だ。虫刺され、じゃあ、ないよなあ。
触られた三ツ谷は、ぽかんと口と開けている。こんな触り方をされるとは思わなかったのだろう。体重を掛けられると思っていたのに、拍子抜けした、と顔に書いてある。
唇は、腫れてはいない。少し、荒れている程度。……ここも、今夜の相手に許したのだろうか。だとしたら、嫌、だなあ。
もう一度、浮き出た鎖骨を撫でた。
「ぁ、」
開いたままの唇から、か細い声が漏れる。ほとんど同時に、三ツ谷の顔が強張った。オレが、何に触れているのか、気付いたらしい。つけられたという、心当たり、ちゃんとあるんだな。
それは、それで、良いんだよ。別に。だって、自分は三ツ谷の交友関係にどうこう口出せる立場じゃない。キスマークがあったところで、文句は言えないのだ。できることと言ったら、ひやかしくらい。随分と熱烈な恋人がいるんだな。そう言いさえすれば、この場はそれなりに収まるだろう。三ツ谷だって、開き直れる。わかってる。
頭ではわかっていても、心は受け止められなかった。
「三ツ谷、って」
「ぅ、ん」
この間の、疲れた後ろ姿が蘇る。
もっと前に見た、男と連れ立って歩く背中も、過った。
「―― 男、いんの」
勝手に口は動いていた。
「ッぅ、」
返答は、ハイでもイイエでもない。息を呑む音だけ。
ばかやろう、自分は何を言っている? ああ、くそ、やらかした。なんでこんな言い方をしてしまったんだ。せめて、付き合ってる奴いんの、に留めておけば良かったものを。なんで、男って限定しちまったかな。それどころか、やけに冷淡な口調になっちまった。そうじゃない、問い詰めたいわけじゃないんだ。
じゃあ、どうしたいんだ?
自問自答の答えが出ないまま、舌はどこからか言葉を拾ってくる。
「この間の香水もそいつ?」
「ちが、」
「……ちがうんだ」
「あ、や」
「今日と男とは、別の男?」
出てくる音は、どれもこれも刺々しく、温かみからはかけ離れている。それに流されたのか、三ツ谷の返事はどうも判然としない。のらりくらりと躱そうとして曖昧な言い回しをすることはあれども、こんなふうにまごつくのは珍しい。それだけ焦っているらしい。あの、三ツ谷が。世渡りの上手いこの男を狼狽えさせられるのは、世界を見渡しても数えるくらいしかいないのでは。そう思うと、少しだけ気分がスッとする。
まあ、鎖骨に残る痕が見える度、どん底に戻るのだけれど。
もう、見るのは止めよう。オレは、こいつの交友関係に口を出せる立場じゃない。今一度自分に言い聞かせて、三ツ谷から手を離した。わずかばかり宙を彷徨った手は、間もなく自身の髪をぐしゃりと掴む。瞼を伏せながら、ゆっくりと息を吸えば、肺に冷えた空気が満ちていった。もう、止めよう。その一点を見るのも、これ以上三ツ谷を問いただすのも。
「……悪い、変なこと聞い、」
「ごめん」
鼓膜に、やけに明瞭な声が届いた。どうして三ツ谷が謝る必要がある。咎める権利もないのに、引っ掻き回したのはこっちの方だろう?
慌てて顔を上げると、その頬は真っ白くなっていた。さっきまで、赤らんでいたはずなのに。いつの間にこんなにも青褪めたんだ。嫌な焦りで、体に力が入る。そいつの右手も、ぎゅう、握り込んでしまった。……そこで、指先の冷たさに気付く。あれ、温かかったはずなのに。体温は、どこへ行ったんだ。
心臓が、大きく呻く。脈打つ度、肺が潰された。おかげで、息をするのも苦しくなってくる。今に口から心臓が出てくるのでは。
動転するオレを余所に、三ツ谷は静かに顔をあげた。長い睫毛が持ち上がり、ぱちん、視線が重なる。けれど、とても目が合っているとは思えなかった。なんだか、瞳が曇っている。淀んでいる。
はくんと三ツ谷の唇が空気を食む。閉じる前に、青褪めたソコが小さく震えた。けれど、真一文字に引き結ばれると、戦慄きは止まる。
三ツ谷が何を考えているのか、いよいよわからなくなってしまった。
「本当に、ごめん。気色悪いよね、居候がこんな阿婆擦れなんて。黙っててごめん」
後ろめたそうに、申し訳無さそうに三ツ谷は言う。けれど、その滑舌は悪くなかった。むしろ、クリア。準備していたかのように、滑らかに発せられる。
はくん。今度はこちらが息を呑む番。そんなオレを一瞥すると、三ツ谷はすとんとへたり込んだ。かくんと項垂れてしまい、表情を窺うことができなくなる。背中は丸まって、肩が前に閉じるように縮まった。自分より、小柄なのは確かだが、いつも以上に、その体格が小さく見えてくる。
「オレ、」
「な、に……」
「出てくね」
「は……?」
ぽつり、呟くように言った三ツ谷が、重そうな頭を持ち上げる。
目が合うや否や、そいつは力なく笑った。
「出てくよ。うん、荷物まとめてくる」
「ッそういうつもりで言ったんじゃ……!」
「無理しなくていいよ、無理なら無理でいい。嫌悪感あるもの受け入れるって、体力いるだろ」
「だから」
「あと気力も。気を遣うって、ほんと疲れるよな。ごめん。ずっと、もしかして、って思ってたんだろ。早く言えば良かった」
「聞けって、」
「黙ってて、ごめん」
なんとか割り込もうとするが、三ツ谷が聞き入れる様子はない。全て諦めたような顔をしながら、穏やかな口調でこちらに押し付けてくる。
そういうつもりじゃない。それは本心だ。三ツ谷に出て行ってほしい? ンなわけねえだろ、それどころか、ここを出て行く日が近付いてくるのが、心底怖かった。なんなら、ずっと、ここにいてほしい。……だったら、見ないフリをしておけば良かったものを、どうして指摘しちまったんだ。オレの知らない三ツ谷がいる、というのが嫌だったって? なんだよそれ、興味本位じゃねえか。最低だ。最悪だ。
ぎ、と歯を食いしばってから、掴んだ腕を引き寄せた。
「~~ッ三ツ谷!」
「あのさあ!」
張り上げた声は、同じだけの声量で押し返される。あ、こんな、でかい声出したとこ、久々に見た。予想していなかった反応に、びくりと肩が震える。
幾何か近いところにやってきた顔が、ようやく、それらしく歪んだ。
「ドラケン、今、自分がどんな顔してるか、わかってる?」
「は」
「―― 最悪、って、顔してるよ」
「っ」
違う。言いたいのに、舌はぴくりとも動かなかった。
違う、本当に違うんだ。最悪だって思ってる。でもそれは、三ツ谷に対してじゃあない。言うべきじゃないことを口走った、自分に対してだ。
そりゃあ、三ツ谷が体を許した男がいるって事実には打ちひしがれている。しかも、一人じゃなく複数人。これで、絶望するなって方が無理だろ。自分にとって、唯一無二たる片割れと思っていたのに、蓋を開けたら知らないことばかり。どうしたら、この溝は埋められるんだろう。少なくとも、出て行かれたら、ここで逃げられてしまったら、叶わない。それどころか、修復できない深さになってしまいそう。
「それは」
「ヤなんだろ、どうしたって受け付けないモンって、誰にだってあるじゃん」
「オレが、嫌なのはッ」
「ほら、嫌なんじゃなん」
「そうじゃなくて……」
「はぁ?」
出て行かないでほしい。他の男のとこ、行かないでほしい。軽々しく、自分の体を売るような真似、しないでほしい。どうしてもするというのなら、オレにしてよ、頼むから。頭の中が、三ツ谷にしてほしいことでいっぱいになっていく。けれど、どれもこれも、胸を張って言えたものではない。こいつとは、良い関係でいたいんだ。一番のダチでいたい。好きとか、一緒に生きてほしいとかは、あくまで自分の我儘にすぎない。
ぐるぐると頭が追い詰められていく。何か言おうと口を開いてはみるものの、結局それらしいことを何も言えないまま閉じる。その繰り返し。突き離す言葉は簡単に出てきたのに、引き止めるのって、難しいんだな。あまりの拙さに、苦しくなってきた。目元に熱が集まってきているのも、気のせいではない。ああくそ、こんなに涙腺脆かったっけ? ほんと、最悪、だ。
唇を噛みしめた。気付くと、視線は落ちている。三ツ谷の顔を、見ていられなかった。それでも、手は掴んだまま。どこにも行かせないと言わんばかりに、ぎゅうと握り込んでいた。
ふ、ほど近いところで、吐息混じりの笑い声がする。
「ほら言いたいコト、あるんだろ。気遣わなくていい、言葉も選らばくていいから」
言いなよ。自嘲に塗れた声が降ってくる。
恐る恐る、盗み見るように顔を上げると、三ツ谷は声色と似た表情を浮かべていた。こんな歪な笑顔、初めて見た。やっぱり、自分は知らないことばかり。昔は、こいつのことならなんだって知っていると思っていたのに。……知っているからこそ、一か月一緒に住むくらい、どうってことないと思ったのに。
ぐ、と歪んだこちらの口元を、三ツ谷はどう受け止めたのだろう。なぜか、ああ、とわざとらしく頷かれた。こっちが瞬きする間に、三ツ谷の表情に妙な艶が浮かぶ。婀娜っぽく、微笑まれた。
「まずは聞かれたことに、ちゃんと答えてからだよね」
「な、に……?」
「男がいるのか。いるよ。いっぱい。でも、特定の相手ってわけじゃない」
流暢に、三ツ谷は話し出した。
発せられた言葉がいちいち重く突き刺さる。なのに、そいつの口調は軽やかだった。いつもより早口気味に言うせいかもしれない。
「予想通り、この間の香水の持ち主と今日の人は別。いつも、違う男に抱かれてる」
調子を崩さないまま、三ツ谷が手首を返す。さり、と手の平同士を擦り合わせてから、指を畳むようにして組ませていった。しっかりと指が絡むと、その先の冷たさがまざまざと伝ってくる。
「具合が良かったら、二回目も考えちゃうかな。何回もヤるような相手は、あー……、向こうにいる時はいたけど、今は全然。なんかしっくりこなくて」
冷えた中指で、指の付け根を撫でられた。口元には緩やかな三日月が浮かぶ。……そのくせ、眉はハの字に下がっていた。笑っているようにも、泣きそうなようにも見える。どうしたらそんな顔になるんだよ。表情に寄り添えば良いのか、声色に流されれば良いのか、そのどちらも間違っているのか。まったくわからない。見当も、つかない。本当、肝心な時に自分は役に立たないな。気付くと眉間は力み、噛み締めた奥歯は不穏に軋んだ。
きっと、オレの顔を、三ツ谷は忌避と受け止めたのだろう。一つ鼻で笑ってから、あざとく首を傾げて見せる。
「他には? あ、ニューヨークいたときの話聞く? 処女散らしたのは、あっちいるとき」
「なあ、」
「服飾の仕事始めてあっち行って、あれ、オレって男もイケるかも、って気付いた日の夜に食われちゃった!」
もういい。それ以上は、その先は話さなくて、いい。聞いたら、嫉妬で狂いそうだ。知らないことは一つでもない方が良いって思う。思うけど、知らないままの方が良いことだって、ある。そんな諺あるよな。あと、口は禍の元とか、目は口ほどに物を言うとか。勉強なんてろくにしてこなかったのに、今の自分を示す表現が次々と浮かんできた。こうやって逃避していないと、箍が外れる。乱暴に、この体を暴いてしまいそう。
「その人が、まあ上手くてさあ、オレ処女だったのに、いや男が処女ってのも変だけど、まあいいや、初めてだってのに意識トんじゃって、」
「みつや」
「……なに?」
名前を呼ぶと、ぴたりと言葉が止んだ。これもまた、用意していたみたいだ。このやり取りはすべて、三ツ谷の予定調和だったのだろうか。なら、表情まで取り繕うはず。いつか知られることだと身構えてはいたが、このタイミングとは思わなかった、といったところか。
オレだって、こんなふうに指摘する予定じゃなかった。お互い様だな。
喧嘩の後のように喚く心臓は、深呼吸した程度じゃ落ち着いてはくれない。いやはや、こんなにもバクバクと騒ぎ立てるのは、いつぶりだろう。しかも、刺されたときより、撃たれたときより、ずっと痛いなんて。確かめたら出血していたりして。いざ、真っ黒く淀んでいく皮膚を見たら、三ツ谷はどんな顔をするだろう。冷たく見放されたら、嫌だなあ。
そこまで拗れる前に、少しでも聞けることは聞いておきたい。だって、三ツ谷だ。オレの知ってる三ツ谷は、見限った相手から離れるのが上手い。いきなり縁を切ることはせず、フェードアウトするように、ゆっくりと関係をなかったことにするのだ。いざ、自分がその対象になるのかと思うと、ゾッとする。
そうならなきゃ、良い。でも、踏み入ってはならないところまで侵したのも事実。迫りくる恐怖と嫌悪に頭を揺すぶられながら、重たい口を開いた。
「男に、抱かれるのが、好きなの」
「……好きでは、ないかな」
「じゃあなんでッ」
「煙草と一緒だよ」
静かに問うと、同じくらい低いトーンで返ってくる。
「試しに始めたはいいものの、やめたい時にはもうやめらんなくなっちまったってだけ。……快楽って過ぎると毒だよ、ほんと。ふわーってトんじゃうあの感覚が、いつまでも忘れらんないの」
まあ、今日はそこまでトべなかったけど。あっちの大きさに慣れすぎたかな。ぼそぼそと付け足された内容にも、頭を殴打された気分にさせられる。
なぜ、どうして三ツ谷は。今日はもうそればかりだ。知らないことが多すぎる。毎日のようにつるんでいたガキの頃とは違うんだ。大人になって、それぞれの生活圏が変われば、知らないことだって出てくる。当たり前のこと。だが、いざ目の当たりにすると、冷静さをすり減らされてしまう。
特別でありたい、なんて、思ってしまったからだろうか。
ほとんど縋るように、繋いだ手を握り返した。
「あんま、あぶねえこと、すんなよ」
「危ない? ガキじゃあるまいし。シたいからシてるだけ」
「……少なくとも性病は危ねえだろ」
「そうくる? だとしても、まあ、自己責任だろ」
ふ、と三ツ谷は笑って見せる。けれど、この問答に苛々しているのも間違いない。少しずつ、口調に粗暴さが混じり始めた。
「逆に聞くけどさあ」
その上で声が低くなる。繋いでいた手は、荒っぽく振りほどかれた。しかし、すぐにその右手はオレの胸倉を掴む。喧嘩、売られてるみたいだな。思うと同時に、ごつり、硬い額がぶつかった。これだけ鋭い目つきをしておいて、頭突きはしないんだ。いっそしてくれればいいのに。
三ツ谷が口を開くと、それだけで吐息が口元にかかった。
「危なくないセックスって、なに。ドラケンは知ってんの?」
目付きはそのまま、にんまりと笑う気配がする。纏う雰囲気が、淫蕩な色に染まった。
「知ってるって言うなら」
声は潜められ、この距離だから聞き取れるほどのものに。鼻先は柔らかく擦れた。たっぷりとかかる息は熱を孕んでいて、かろうじて触れていないとはいえ、口付けられているかのような心地になってくる。
「―― 教えてよ」
そうか、こうやって、三ツ谷は男を誘ってきたのか。
自分がその当事者になったと、自覚すると同時に脳みそが沸騰しそうになる。いや、もうとっくに、茹っていたかもしれない。
「……なーんて、」
「いいのか」
でなきゃ、その頭に手を伸ばすもんか。
離されたばかりの手が、三ツ谷の側頭部を撫でる。坊主と言ってもいいくらいに短い時期もあったが、記憶の中のほとんどは指を潜らせられるだけの長さをしてる。今も、そう。奥に眠っている龍には、簡単には会えない。
「オレが、相手でも、オマエは良いの」
もう一方の手は、そばにある腰を捕らえる。その手指には、間違いなく、情欲が乗っていた。
何をやっているんだろう。そりゃ、三ツ谷のこと、知らないままじゃ嫌だとは思った。けど、この誘いに乗ったら、他の有象無象と同列になってしまう。特別には、なれない。
それでも、この体を、一度でも抱けるのなら。……悪くないような気がした。絶対、後悔するのにな。
「は、はは、」
唇に、笑い声が触れる。触れている体が震えて、額がじりじりと擦れた。
そのうちに、胸元の苦しさが失せる。ひゅ、と息を吸い込むと、冷えた両手に頬を包まれた。指先が、耳に伸びる。耳殻を撫でながら、片方は龍の墨を撫でた。
「良いよ。気持ちよくしてくれんなら、誰だって」
蠱惑的なはずの笑みが、なんだか、歪に見えた。