あの日から、あの夜から。オレは三ツ谷との距離を測りかねている。
 と、いうのは、あくまで自分の心境としての話だ。現実は、そんな様子、欠片もない。いっそ気味が悪いくらい、なにも変わらなかった。向こうは普通にじゃれてくるし、こちらも平然と絡みに行く。これまでと、一緒。三ツ谷がうちに居候し始めたときと、何一つ変わらない。何事もなかったかのように、自分は取り繕えていた。
 あの夜の心配は、杞憂だったらしい。良かったのやら、悪かったのやら。そりゃあ、昔から、あからさまに動揺を表にする性分ではなかった。けれど、ここまであっけなく、平然を装ってしまえるとは。自分も歳を取ったものだ。
 そして今日も、玄関の前で、一度呼吸を整える。
 ぱたんと瞼を閉じて、扉の向こうから返ってくるだろうテンプレートな挨拶を頭に浮かべた。大丈夫、今日も、いつも通り、できる。返せる。過ごせる。
 よし。
 一抹の緊張感を携えながら、玄関扉を開けた。
「……ただいま」
「おかえりー」
 然程大きくない声だが、キッチンにいるだろうそいつに届けるには十分な声量。それを証明するかのように、部屋の奥から返事が飛んできた。思い浮かべたのと、同じ音だ。ここ数日、ずっと聞いている単語でもある。帰宅すれば「おかえり」、家を出る時には「いってらっしゃい」。その二つを、毎日、かけてもらっている。
 どうしてって、家に必ず、三ツ谷が居るからだ。
『ただいま! 退職してきた!』
『……は?』
 そんな会話をしたのは、先週のこと。同居しだして、半月といった頃合いだ。あの日は、オレが先に帰ったものあって、雑に夕飯を拵えていた。それを見るなり、オレの仕事を取るんじゃないと叱られたっけ。叱られるようなこと、してないのに。かといって、下手なことを言って今後三ツ谷の飯にありつけなくなるのも勘弁。腹が減って仕方なかった、ということにして誤魔化した。
 結局、その日の夕飯は三ツ谷お得意の焼き肉のタレを使った肉野菜炒め。セルフ退職祝いに買って来たというちょっとイイ缶ビールで乾杯して、経緯を聞かされた。どうやら、この帰国も、元をたどれば退職するためだったらしい。あのまま海外でやりくりするのも悪くないが、やはり東京に自分の城を築きたい。そう思って、世話になっていた事務所と調整して、この時期の退職にしたとか、なんとか。
 だらしなくテーブルに肘をついた三ツ谷はなんだか酔いが早いように見えた。単にペースが速いせいもあったかもしれないが。作ってくれたおかずは、ほとんどがオレの胃袋に消えていく。
『あれ、オレ今の事務所辞めるって、言ってなかった?』
『全然。初耳なんだけど』
『……ウソ。ごめん、わざと言ってなかった。言ったらさあ、さっさと家決めろって追い出されんじゃないかと思って』
 それは、ない。なんたって、胃袋を掴まれているから。ついでに、ただのダチの枠を超えそうな好意と下心があるから。
 なんてこと、そのとおりに言えるはずもなく、ぶっきらぼうに「しねーよ」とだけ返しておいた。
 三ツ谷の算段では、退職するまでには家を見つけるつもりだったらしい。しかし、ぺーが示してきたのは退職予定日よりも随分と後の日付。だから、あれほどしつこくぺーに絡んでいたのか。節約したいからという理由でウィークリーは選択肢にない。かといって、思春期の妹がいる実家に頼るわけにもいかない。
『いやあ、路頭に迷うところだった!』
 そう言いながら、三ツ谷はケラケラ笑う。まったく、そんなことになる前に、ウチに引きずり込めて良かった。……まあ、路頭に迷ったら迷ったで、ウチ来いよと言っていたのだろうが。
 ―― とにかく、その日から、三ツ谷はほとんどオレの家にいる。オレの家で、過ごして、いる。
 緩みそうになる口元を、咳払いして引き締めた。ついでにすんと鼻を鳴らすと、夕飯と思しき匂いがする。今日は、味噌系の何からしい。毎日作ってくれる味噌汁とは違う匂いだから、おそらくおかずが味噌の何か。なんだろう、昨日は肉だったから、今日は魚のような気もする。
 ブーツを脱いでひたひたと室内に入れば、素足のまま台所に立っている三ツ谷が見えた。
 スリッパなんてもの、この家にはない。三ツ谷も、同居するにあたって買ってはこなかった。だから、家で過ごすときは靴下か素足。で、三ツ谷は出かける用事が無ければ、素足で過ごすことが多い。なんでも、洗濯物が増えるから、と。靴下一足くらい、増えるという程でもなさそうなのに。近頃の洗濯当番は三ツ谷で固定されているから、あえて文句は言わなかったが。
 その三ツ谷は、たまに片足立ちになって、足の裏を脛やらふくらはぎに擦りつけている。冷えるのだろう。やっぱり、靴下履けばいいのに。それか、店の連中が好んでいたもこもことしたスリッパ、買ってきてしまおうか。
「なー」
「んー?」
 さておき、そんな底冷えにも負けず、三ツ谷は自前のエプロンを付けて、湯気を立てるフライパンの中をじっと見つめている。右手には菜箸。近寄りながらも視線をずらせば、炊飯器からはもうもうと蒸気が立ち上がっているのが見えた。
 じわり、胸の内側が、無性に擽ったくなってくる。
「今日の夕飯、なに」
「ワ」
 ひょいと、わざと三ツ谷の背後からコンロを覗き込む。そこには、すっかり少なくなった煮汁の上に、鯖が並んでいた。今日は味噌煮らしい。
「危ないって」
「火じゃねーし大丈夫だろ」
「IHでも鍋はあっつくなってんの」
「ふーん」
 そっけない相槌を打ちながら、そいつの頭に顎を乗せた。すると今度は、ギャッという声が聞こえる。声の振動が、顎を伝って響いてきた。やめろやめろという喚き声もするが、頭突きをしてくる素振りはない。それを良いことに、こっそり頭を嗅ぐと、自分と同じシャンプーの匂いがした。プラス、三ツ谷自身の柔い匂い。ぐずり、擽ったさを覚えていた胸の中の塊が、朽ちるように蕩けていく。
 同棲、とか、新婚、とかって。こんな感じなのかな。
 試しに腰に腕を回してみるか?
 そっと、手を、そいつの腰に寄せた。
「ドラケン」
「……なに」
「もうすぐ飯も炊けっから」
「うん」
「先に、手、洗ってこい」
 夕飯、おかず抜きで良いなら、このままでも良いけど。
 付け加えられた物騒な台詞に、触れそうだった手の平は離れていく。ついでに、頭に乗せていた顎も離し、トトッと二歩、後ろに下がった。
 オレが離れた気配を察したのだろう。こちらを振り返った三ツ谷は、満足げな顔をしている。ちょっと勝気な表情。このオレを良いように操れているのが、随分と楽しいらしい。そんな顔を向けられては、こっちもやり返したくなってくる。しかし、それで無碍になるのは、オレの夕飯だ。三ツ谷の作ってくれた、鯖の味噌煮に、ありつけなくなる。それは、嫌だ。
 むにゃりと唇を波打たせながら、文句は飲み込んだ。
「……飯、大盛りにしといて」
「わかってるよ、ほら、ちゃちゃっと洗ってこい」
「へーい」
 しっしっと手まで振られてしまえば、洗面所に足を向けざるを得ない。旨そうな匂いを嗅ぎながら、のろりと踵を返した。
「そうだ、あのさあ」
「ん?」
 ちょうど、三ツ谷に背中を向けたところで、声を掛けられる。肩越しに振り返ると、再び片足立ちになった三ツ谷がはくりと唇を動かすところだった。やっぱり、スリッパ、買おう。三ツ谷用。住む家が見つかっても、理由を付けて来てもらえば良いのだし。
「オレ、明日の夜、用事あるから」
「は」
 脳裏に浮かべた甘い空想は、一瞬で霧散した。
 夜、用事。その二つの単語だけで、胸騒ぎがする。また、香水が移るくらいに親密な誰かと会うのだろうか。あの夜に何があったのか、自分は何一つ正しく知らない。どれも推測だ。自分の脳みそが、勝手に妄想を繰り広げているだけ。わかっていても、過った不安と嫌悪は簡単にはなくならない。
 スン、と、己の顔から、一切の表情が抜け落ちる。おー、わかった。そう、さりげなく返したいのに、口は凍ったように動かなかった。
「……ふ、」
 それから、どれほど時間が経ったろう。オレの体感が長かったというだけで、ほんの数秒しか経っていないのかもしれないが。
 きょとんとしながらオレを眺めていた三ツ谷の顔が、ふわりと緩む。眉を困ったように寄せながら、そいつは破顔した。
「んふ、っふふふ、……飯ならさ、ちゃんと作ってくから。安心してよ……、ふ、ふふ、あはは!」
「笑ってんじゃねー……」
「笑いたくもなるって。なに今の真顔、そんなにオレの飯好き? 食えなくなるの嫌?」
「イヤ。すげー好き」
「即答かよ!」
 さらに三ツ谷はヒーッと声を上げて笑う。どうやら、オレが三ツ谷の飯にありつけなくなるのに絶望したと思ったらしい。それもそれで嫌だけど、そうじゃない。かといって、本当のことを言うわけにもいかないから、ぐぬ、と顔を顰めて憂慮は飲み込んだ。すると三ツ谷はさらにケタケタ軽やかに笑う。オレが何も言い返してこないのが、相当気に入ったらしい。
「あー、おっかし。リクエストある? 作っとくよ?」
「……じゃあ、しょうがやき」
「生姜焼きって、ちゃんとしたやつってこと? 玉ねぎで嵩増ししないで」
「や、前弁当にいれてくれたの」
「うそ、アレでいいの、ほんとに?」
「ん」
 これ幸いと深く頷くと、再び三ツ谷はぶふっと噴き出す。こっちの気も知らないで、好き勝手笑いやがって。だが、リクエストには応えてくれそうだ。生姜焼きね、生姜焼き、と笑い声の合間に呟いている。明日の夕飯は、豚の生姜焼き。どさくさに頼めて良かった。
 いや、こいつがどこに出かけるのかによっては、「良かった」より「良くない」が勝ってしまうのだが。どこに行くのか、誰と会うのか、ナニをするのか。あれこれ問い詰めたい衝動に駆られる。しかし、そういうことを聞ける立場にない。居候しているだけのダチ相手に、そんなこと聞けるかよ。
「なあドラケン」
 このまま、ム、と黙り込んでいても仕方がない。さっさと手を洗って、夕飯を食わせてもらおう。そう思ったところで、ぽつりと三ツ谷に声を掛けられる。くしゃくしゃに笑っていた顔は、いくらか落ち着いた。けれど、散々笑ったせいで、ほんのりと顔は上気している。滲み出た涙を指先が擦る姿が、妙に、頭にこびりついた。
「ぁ、ンだよ」
「オレさ、あと十日くらいで出て行くんだけど」
「……おう」
 ずぐ、と、心臓が低く呻いた。
 何を今さら、ショックを受けているんだ。わかりきっていたことだろう。それに、何度も自分に言い聞かせていたことでもある。あと何日かで、三ツ谷との同居は終わり。あと何日かしたら、三ツ谷がまあヨシと思える住処に行ってしまう。……それでも、当人に言われると、刺さるものが、ある。
 出て行くな、とは、言えない。最初から、次の家が見つかるまでという話だったのだ。それに、いつまでも飯を作ってもらうわけにもいかない。悠々と飯を作るだけの時間があるのだって、今のこの一時だけだろう。デザイナーという職業のルーチンには詳しくないが、いざ仕事を受け始めたら、自分よりもずっと時間に追われて過ごすに決まっている。そんな奴の、負担になるようなことはしたくない。 
「オレ出てって、本当に大丈夫?」
「……」
 茶化すような調子で三ツ谷は言う。三ツ谷にとっても、オレの胃袋を掴むのは想定外だったのかもしれない。まして、一食、ありつけなくなるだけで、絶望を露わにするだとか。正しくは、三ツ谷の飯が食えないことに絶望してるんじゃなく、またこいつが夜の匂いを纏ってくるんじゃないかと気に掛けているだけなのだが。
 もし、引き止めたら、どんな反応するだろう。笑い話のように扱われて終わりに思えてならない。本気だと覚られて、引かれるよりはマシか?
 まったく、このオレが、推測だ妄想だなんて、あやふやなものに恐れる日が来ようとは。事実かどうか、確かめようと踏み込めもしない、臆病者に成り下がったと、かつての自分が知ったら、盛大に顔を歪めそうだ。
 そうやってビビってるから、大切なもんを取り零すんだ、って。
「オレが出てったとたん、不摂生するとかやめろよ」
「……大丈夫に決まってんだろ、そもそも三ツ谷が来るまでだってそれなりにしてたんだし」
「余裕あるときとか、飯作りにきてやろっか」
「よろしくおねがいします」
「ンっふ、ふふふ……、そ、オッケー、任された」
 再度、楽しそうに笑った三ツ谷は、左手の人差し指と親指で丸を作って見せる。それを見届けてから、ようやく洗面台に移動した。背後からは、上機嫌な鼻歌が聞こえてくる。盗み見るように振り返ると、菜箸はフライ返しに持ち替えられ、皿に鯖を盛り付けていた。今日は鯖味噌、明日は生姜焼き。嫌いな食い物ではないし、三ツ谷が作ってくれるならなんだって嬉しい。
 それでも、一抹の不安は腹の中で蜷局を巻く。なんでも、ないと良い。三ツ谷の退職に伴う、送別会とか。……もしそうなら、はっきり言うよな。本当に、何の用事なんだろう。
 ぐずぐずと拗ねたくなる心持ちは、冷水程度じゃ流れてはくれなかった。