三
冷めた弁当すら美味いのだ、作り置きが不味いわけがなかった。しかも、冷蔵庫に収まっているタッパーは、どれも程々の大きさ。一品だけでは足りないと思い、二、三品、気になる物を取り出した。おかげで、胃袋は満足。色々なおかずを食えたという意味でも、満たされた。
「これ、計算して作ったのか……?」
帰宅して、飯の支度―― といっても、蓋を取ってレンジで温めるだけだが。ちょうど帰宅した頃合いに、「蓋はとれよ」というメッセージが入っていた。アレを見なかったら、そのまま過熱して大目玉を食らっていたことだろう―― をしているときは気にならなかったが、いざ腹を満たすと頭も働いてくる。
昨日、やけに台所に立っている時間が長いと思ったが、こういうことだったのか。もしかすると、昨日の時点で、今日は遅くなるとわかっていたのかもしれない。それなら、昨日のうちに言えば良いものを。頑張って準備しなくたって、外で食うだとか、買って帰るだとか、自分で都合をつけたのに。そりゃあ、三ツ谷の作った飯を食えるに越したことはないのだけれど。
洗い物は済ませたし、風呂も入った。ジャコジャコと歯ブラシを動かしながら、ぼんやり部屋を見渡す。アイツが帰ってくる前に、しておいたほうが良いこと、あるだろうか。
ああ、布団を敷くとか?
間取り的には、ダイニング、と呼ばれる空間で三ツ谷は寝ている。部屋の隅には、きちんと畳まれた布団が置いてあった。決して敷きっぱなしにはしない。本当は、押し入れに片付けたいらしいが、そもそも布団はオレの寝部屋に置いていたものだ。いちいち、仕舞うのも面倒だろう、ということで、居間に置くことになった。使ったのはたったの二回。今日使われれば、三回目。にもかかわらず、すでにそこにあるのが当然のように見える。
眺めているうちに、口の中がミントでいっぱいになってきた。ペッと流しに吐き出して、そばにあったガラスコップで口を濯ぐ。そういえば、今度百均で歯磨き用のコップを買ってくると言っていたっけ。口濯ぐだけなんだから、どれでも良くね? と思わないこともないが、アイツにとっては必要なのだろう。
三ツ谷が泊まりに来るようになって、早三日。もうすぐ、四日。
随分と、オレの家には物が増えた。
「……」
なんだか、くすぐったい。あれこれ物が増えるのは煩わしいと思う性分だったのに。これが歳を取ったということか。二十代も後半に入って、ようやく物欲に目覚めた? ……どうだろう、三ツ谷が来なかったら、そもそも物なんて増えなかったはず。
じゃあ、一体、何に心地よさを感じているのだろう。
髪の解けた頭を軽く掻いた。タオルで拭いただけの髪はまだ湿っている。まあ、放っておいてもそのうち乾くだろう。痛むぞと恨めしそうに言われたのは、昨日だったか、一昨日だったか。両方だな。いくらブリーチを止めたとはいえ、痛むんだからちゃんと乾かせ。そう言われながら、二晩とも三ツ谷が持ち込んだブラシとドライヤーで丁寧に乾かしてもらった。思い出した途端、首筋に張り付く毛先が鬱陶しく思えてくる。結んでしまえば気にならなくなるだろうか。
「んー……」
手で緩くまとめながら、どっかりと布団のそばに座った。空いている手で、ごそごそと寝巻のポケットを探る。ヘアゴムを、突っ込んだはず。しかし、探しているものはない。逆側だったか。手を変えて確かめるが、そこにも入っていなかった。となると、洗面台か。そうだ、洗面台に置いた。髪を束ねる時は洗面台の前でやるのだしと、そこに置いた覚えがある。
背中を畳まれた布団に預けてしまった今、取りに行くのも億劫になってしまった。もう寝るんだし、多少の煩わしさは目を瞑ろう。髪から手を離して、天井を見るような角度で頭を布団に乗せた。ちょうど枕が置かれていたのもあって、寄り掛かる心地も悪くない。むしろ、いい塩梅だ。
そこから目を閉じてしまえば、灯りが点いているというのに眠気が襲ってくる。今日の午後は、ひたすらメンテナンスに追われた。急な持ち込みが四件もあったのだ。定期点検も数件入っていたし、なんと飛び込みでの新規御成約も一件。まあ慌ただしかった。繁盛するのはありがたい限りだが、いい加減二人で回すのは難しいのかもしれない。新しい従業員を雇おうか。こういうとき、どこに求人を出すのが一番良いのだろう。ツテを使うか、おとなしくハロワに言うか。
することが多い。
あれもしなければ、これも考えなくては。項目が増えるたびに、眠気も増してきた。しれっと寄り添ってくる睡魔につられて、思考は鈍くなっていく。
深く息を吸い込むと、自分のものではない、それでいて落ち着く匂いがした。なんだこれ。布団からする。引き寄せられるように、首の角度が変わった。鼻先に、枕カバー代わりのバスタオルが触れる。柔らかい。柔軟剤の匂いだろうか。いや、まだ柔軟剤は買ってきてない。三ツ谷に買えよ、買いなよ、オレ買ってこようか、と迫られたあと、何もしていないから、違うはず。
それならば、この匂いはなんだろう。
すん、ともう一度鼻を鳴らしたところで、意識はぶっつりと途切れた。
「……、ぉ……って、」
遠くから声がする。気持ちの良い微睡を邪魔された気分だ。折角心地よく寝入っていたのに。というか、まだ寝ていたい。起きたくない。声から逃げるように身じろぎをした。すると、顔に、柔らかな感触。寝付くときにもこの感触がした。たぶん、枕に巻かれたバスタオルだろう。
「起きろって、おーい」
しかし、声は止まない。それどころか、天井を向いている側の頬を突かれた。何度かやんわりと指を沈められる。鬱陶しい、突くなよ。呻いてみるが、指は引っ込んではくれない。それどころか、ぺしぺしと叩く動きに変わってしまった。
「おーい」という、大きくも小さくもない、穏やかな声が耳に入る。誰の声だ。オレの家だってのに、どうしてオレ以外の声がする。
「ドラケン、起きろよ、こんなとこで寝んな」
「……みつや?」
「おー」
うっすらと瞼を持ち上げると、困り顔の三ツ谷が見えた。
ああ、そうだ。そうだった、今コイツ泊まりに来てるんだった。
何度か瞬きをしているうちに、意識も目覚めてくる。三ツ谷の帰りが遅くなるのなら、何かした方が良いこと、あるだろうか。そんなことを考えながら、畳まれた布団に寄り掛かったあと、寝落ちたのだ。結局何もしていない。そもそも、やれるようなこと自体、ほとんどなかったのだが。
頭は動いてきたが、まだ体は重い。背中を畳んだ布団に預けたまま、ぼんやりと三ツ谷を眺めた。と、こてんと首を傾げられる。顔に浮かんでいるのはやはり困惑。退いてほしいのだろう。そりゃそうだ、オレがここにいたままじゃ、三ツ谷の寝床が作れない。
今、退く。今、起きるから。半ば自分に言い聞かせるように腹の中で唱えて、どうにか重い上体を起こした。
三ツ谷が帰ってきた。今何時だろう。目だけを動かして時計を探すが、ちょうど三ツ谷の影になって確かめられない。代わりに、視界の中央にいる三ツ谷の顔は、困っているだけでなく、疲労も浮かんでいるように見えた。残業、なのか、接待なのか、定かじゃないが疲れるほど働いてきたらしい。朝はあんなに颯爽としていたのに。オシゴト、オツカレサマ。そう言おうと口を開いて、いや、その前に言うことあるワと口を噤んだ。
きっと、三ツ谷には寝ぼけて口をむにゃむにゃと動かしているようにしか見えないだろう。違うからな。
「……おかえり」
寝起きのせいか、声が掠れた。
使い慣れない言葉というせいもあるかもしれない。
少なくとも、数年は使っていない言葉だ。あの家にいたときなら、まだ使っていたと思うが、……そうでもないな。オレが出入りする時間帯には大抵育ての親たる正道さんがいたから、「ただいま」と言うことはあっても「おかえり」と言うことはほとんどなかった。しいて口にしたタイミングと言えば、急用でフロントを任されたときくらいか。そう思うと、ろくに縁のない言葉だ。
家族がいたら、できたなら、頻繁に言っていたのだろうか。
小さく口を開けたまま、三ツ谷が固まった。言われると思わなかった。そう、まざまざと顔に書いてある。わかる、オレもオマエに言う日が来るとは思わなかった。けど、返事をせずに固まるのはやめてほしい。言いっ放しは、居心地が良くない。返す言葉、あるだろう? 首を傾げるようにして、その台詞を煽った。
薄い唇が、わずかに震える。
「た、だいま」
「……んだよ、そのかお」
「ドラケンに、おかえりって言われるとか、思わないじゃん」
「言っちゃ悪いかよ」
「驚いただけだよ、拗ねんなって」
伸びてきた手が、わしわしとオレの頭を撫でる。この手付きは見た事がある、コイツが妹によくやっていたものだ。重ねて「ただいま」と言う声は、さっきの音よりもずっと柔らかい。
「で? なんで今日も髪乾かさないで寝てんだ」
「は、なんでわかるんだよ」
「髪ギッシギシになってるし、まだ湿ってる。あーもー、ちゃんと乾かせつったろ?」
小言を漏らしながら、三ツ谷の指は何度もオレの髪を梳いていく。手櫛でできることなんてたかが知れている、と昨日言っていたのは誰だった? 毎晩言われているにもかかわらず、不精したオレが言えることではないか。
大人しく三ツ谷の手櫛を受け入れていると、また意識がうつらうつらとしてくる。頭が重い。支えてられない。どうして、人間って奴はこんな重たいもんを体の一番高いところに持ってきたんだ。普段だったら、考えもしないような悪態が浮かんでは消えていく。
おもむろに、三ツ谷の手が離れた。
間もなく、背中がもすんと布団に戻る。ああ、三ツ谷の手が離れたのではなく、こっちが手をすり抜けるように倒れ込んだのか。宙に残された手が、ふわり、行き場を探して揺れた。
「おい、ここで寝るんじゃねーよ、ちゃんと布団行けって!」
「んんんんん」
「それはオレの布団、オマエのはあっち!」
「こっちでいい……」
「そしたらオレの寝床がなくなるだろーが」
「うー……」
いっそ、オレがここで寝て三ツ谷がオレのベッドを使えば良いのでは。煎餅布団とマットレスじゃ寝心地も異なるだろうが、全く寝れないこともないだろう。なんなら、ベッドの方がよく眠れる気もする。疲れているのだろう? 都合良いじゃねえか。
そう思いはするが、言うには至らない。口を開いたところで、眠気に負けて呻くのがやっと。
もそ、と枕に半分だけ顔を埋めると、落ち着く匂いがわずかに香った。薄く瞼を開けると、視界の半分が暗くなっている。光で眩しい方では、三ツ谷が呆れた顔をしながらネクタイを緩めていた。器用に片手でボタンを外し、襟元を寛げる。日に焼けていない白い首が、よく見えた。蛍光灯のせいもあって、なおのこと白く見える。くっきり浮き出た喉仏と、張った首筋。それらの線を辿っていくと、シャツの襟から、鎖骨が覗いた。
気怠そうな顔色と相まって、妙な色気が、匂い立つ。
―― この、匂い。三ツ谷の、匂いだ。
気付くと同時に、腕はそいつの胸倉を掴んでいた。
「えッ」
「んー」
「わっ!?」
一思いに引き寄せれば、簡単に倒れ込んでくる。布団にもたれたまま抱えると、すぐに収まりの良いところが見つかった。ぎゅ、と腕で押さえて、首筋に顔を埋める。真っ先に、三ツ谷が使っている整髪剤の匂いがした。この匂いも、嫌いなものではないが、これじゃない。寝起きのコイツの横、すれすれを通り抜けたときの、匂いがするはず。
「な、ンだよ、どこの女と間違えてんだ」
「まちがえてなんか……」
ない。ちゃんと三ツ谷とわかって引き寄せたんだ。
そう主張したかったのに、言葉が詰まってしまった。きり、と鼻の奥が痛む。なんだ、この重たいノートは。この匂い、ではない。想像していたのと異なる匂いが鼻孔に入り込んできた。まったく心当たりがない。少なくとも、この三日間で嗅いだ覚えのないものだ。オレが知らないだけで、三ツ谷はこの香水を使っていたのか?
いや、いや、よく思い出せ。ここに来て早々に、香水を使っても大丈夫かと確認された。そのとき、嗅いだのは柔らかく、これよりも軽いものだった。少なくとも、噎せるようにこびりつく重さはなかったはず。
「……んん?」
「間違えてんじゃねーか」
顔を覗き込むと、真っ先にげんなりと歪んだ表情が目に入った。ほとんど同時に、胸を押され、オレの腕から抜け出される。あ、と思った時には、逆にオレの腕は掴まれ、体は起こされていた。
白かった鎖骨が、なんだか赤いように見える。そこに、オレが顔を押し付けたせいか。じっと見つめてみるものの、もうあの重い香りは漂ってこない。全部、寝ぼけた自分の、夢幻だったかのよう。
「ああクソ、デカいガキかよ……」
「みつやあ」
「なに? ほら、起きろ、立て、部屋行けって」
ぼーっと三ツ谷を眺め続けていると、先に立ち上がったそいつにまた腕を引っ張られた。立て、と促される。掴まれた手首に、ずっしりと体重がかかった。けれど、こっちが尻を持ち上げようとしないせいで、立つには至らない。いい加減にしろと言わんばかりに、三ツ谷の頬が引き攣った。
イラついてんなあ。今、こっちから引っ張ったら、また倒れ込んでくれるだろうか。いや、だったら、大人しく立ち上がって、距離を詰めたほうが良い。そして、夢幻かどうか、確かめる、とか。どっちにしよう。さんざん起きろ・立てと言っているんだ、そろそろ言うことを聞かないとへそを曲げられてしまうかもしれない。三ツ谷が、そういう拗ね方をするのかは定かではないが。
ぐ、と、掴まれた手首に圧がかかった。引っ張られる。力の流れに合わせて、膝を曲げた。足に、力を込めた。
「っうお」
勢いをつけて立ち上がると、見上げていた顔に影ができた。高さが、あわない。これで首筋の匂いを確かめようとするならば、少し屈まなくては。こっちが抑え込むのが先か、三ツ谷のグーパンが飛んで来るのが先か。……もう若くはないのだ、殴り合いは、したくない。
仕方なく、じ、と見下ろしながら口を開いた。
「こーすい、変えた?」
「は」
一瞬、ほんの一瞬。瞬きをする間だけ、三ツ谷の顔が凍った。
だが、瞼が一往復する頃には、呆れた顔つきになってしまっている。これは錯覚で済ますべきか、否か。見間違い、で片付けてしまうのが楽なのだろう。けれど、目が冴えたばかりの判断力は、錯覚じゃないと主張する。コイツは動揺した。自分から香る匂いを指摘されて、間違いなく、動揺した、と。
「変えてないよ。……臭かった?」
「……いや」
「嘘吐け。悪い、スメハラした。風呂入ってくるワ」
「おー」
「ちゃんと部屋行けよー」
「わーってるっての」
ぱっと手首が解放され、三ツ谷はひたひたと風呂場の方へ歩いていく。足が心許なく見えるのは、気のせいじゃない。何かにもたれないと、真っ直ぐ歩けないのでは。咄嗟に腕が伸びた。
「っ、」
―― その背格好には、見覚えがあった。
一か月か、もういくらか前、繁華街で見かけた背中と重なる。髪型、着ている服、足取り、どれも、あのとき見たものだ。あの男は、正しく三ツ谷だった?
腕が届く前に、そいつは脱衣所の扉を潜ってしまう。からからと引き戸が閉まる音のあと、ほとんど物音はしなくなる。数分立ち呆けてやっと、シャワーの流れる水の音が聞こえてきた。自分じゃない誰かが、すぐそばでで過ごす生活音。冷蔵庫の唸る音。蛍光灯の細い声。時計の秒針に、窓を叩く風。己の息遣い、逸る、心臓。どれもこれも、喧しくて仕方がない。
「は……?」
偶然だ。たまたま、しばらく前に見たどこぞの男と、今の三ツ谷が重なっただけ。そう言い聞かせてみるものの、一瞬だけアイツが見せた、強張った表情のせいで、楽観もできない。
アイツは、今日、遅くなると言った。仕事で。本当に、仕事、と言っていたか? 記憶があやしい。この夜、アイツはどこで何をしていたんだろう。あの香水は、三ツ谷のものじゃない。なのに、首筋から香ってきた。よりにもよって、首筋から、だ。ナニをしたら、そうなる。香りが移るほどの距離感とは。そんなにも近くを許した男がいるのか。
手櫛で梳かれた髪を大きく掻き上げた。待て、落ち着け。立ったまま、大きく息を吸って、静かに吐き出す。
あいつが外で誰と会っていようが、なんだ。勝手に家に上げたわけじゃない。オレのテリトリーを侵されたわけではないのだ。そこに、なんの文句を付けられる? そういうことを、あーだこーだ言える立場に、自分は立っていない。
「……や、つーか、オレ、さっき、」
なのに、自分はあの男に何をした?
抱き寄せた。強引に腕の中に閉じ込めて、首筋に顔を埋めた。ただのダチが、することとは言いがたい。そりゃあ、お互いパーソナルスペースは狭い方。育ってきた環境のせいで、一つ一つの距離感が他人より近い自覚はある。だとしても、さっきのアレは、ナイ。それこそ、寝ぼけて女と間違えた、と言ってしまった方が、まだ説得力があるくらい。
自分がしでかしたことをぐるぐると考えているうちに、体も重たくなってくる。重力に従って、膝が折れる。腰が曲がる。ぎゅ、と、その場にしゃがみこんでしまった。右手をだらんと下げたまま、左手で頭を抱える。吐いたため息は、やたらと熱を持っていた。
遠くからは依然として水の流れる音がする。
『ふ、落ちかけてんじゃん』
昼間に言われた言葉が蘇ってきた。
思えば、あの意味深な表情は「既に落ちている」と確信していたのだろう。たった三日。我がことながら、チョロすぎる。
そもそも、本当にこの三日で「そう」なったのだろうか。ああも強引にうちに連れてきたときから片鱗はあったのでは。雑踏の中から、あの後ろ姿を見つけ出すくらいには、囚われていたのでは。
唯一好きだった彼女を失って、憧れすら抱いた無二の朋友が遠のいて、それでも前を向いて生きることにした。あれから十年。特別な存在を増やさないようにしている節はあった。自覚している。唯一無二を失うのが堪えると、身に染みたから。だからといって、自分にとっての数少ない特別たるあの男に、友誼どころか恋慕まで募らせていたなんて。
「ハ、笑えねー……」
逸る心臓は不快感によるものか、高揚によるものか、最早判断できなくなっていた。
ただ、あの首筋に、鎖骨に、欲情したのは間違いない。
あの男が風呂から上がってくるまでに取り繕わなくては。いっそ、自室に逃げてしまおうか。籠城は性に合わない。わかっている。だが、他に方法も思い付かない。この衝動が、一過性のものであればいい。それなら、どんなに楽なことか。
もう一度、深くため息を吐いて、重い身体を起こした。明日の朝には、何事もなかった顔をしたい。できますように。ぐ、と念じてから、やはり重い足を自室に向けた。