体の軋みで、目が覚めた。ここは、どこだ。布団ではないのは確か。むくりと顔を上げると、室内干し用の物干し竿が見えた。
 そういえば、昨日はこたつで寝たんだったか。ぐ、と背伸びをすると、背骨がミシミシと悲鳴を上げる。それどころか、腰にも違和感。せめて横たわってしまえば良かったろうか。いや、どっちにしろ体に悪いことは間違いない。
 どんなに面倒でも、布団で寝れば良かった。つい、こたつで寝てしまうたび反省するのだが、何度も繰り返してしまう。本当に、ちゃんとしていない。特に、この家で一人過ごすようになってからは、その傾向が顕著だ。
 田畑こそ綺麗にやっているものの、家の中は……。散乱していないだけマシだと思いたい。
 食生活なんて完全に乱れている。米を炊いて、貰い物のたくあんを乗せて、インスタントみそ汁があったらもう十分。気が向いたら、おひたしや炒め物も作るけれど、冬場はとにかく怠けたせいで、ぐだぐだの食生活になっていた。
 そのおかげもあって、昨日食わされた飯は美味いと思った。本当に、美味かった。飯への執着が尋常ではない治ならまだしも、侑まであれほど料理上手になっているとは。
 アレを思うと、自分もしっかりしなければと思う。思うだけで、実行しないから、だめなのだが。
 腰から下をこたつに入れたまま、ゆっくりと上体を後ろに倒した。長座布団が、背中を受け止めてくれる。なんだか瞼がやけに重い。こたつで寝たせいで、睡眠が浅かったのだろうか。
 瞼を閉じれば、喉の違和感に気付いた。喉が渇いている? 汗は、確かにかいたろうし、なあ。
 気怠い体を引きずって、台所に向かった。出しっぱなしのガラスコップに、どぼどぼと水道水を流し込む。そして、一口。
「ん゛」
 ……やっと、体の違和感に、気付いた。
 これはまずい。よろよろと、覚束ない足取りで、食器棚の一番下の扉を開けた。しまってあるのは、煎餅の一斗缶。を、利用した救急箱。ぺたりと冷たい床に座り込んで、体温計を取り出した。
 どうにか水を飲みながら、体温計が電子音を鳴らすのを待つ。どうか、平熱の範囲でありますように。三十六度代でありますように。必死に念じながら、ピッという音を待つ。
 頼む、頼むから。今日は、穏やかに、家で過ごしたいんだ。だから、お願いします。
 水を入れたコップがすっかり空になったところで、やっと電子音が鳴り響いた。それから、念のため一、二、三、と十秒数える。ばあちゃんに教わったとりの測り方。別に、鳴ったらすぐに取り出していいのだろうが、つい、幼い頃からの癖で、十数えてしまう。
 ああ見たくない。でも、見なくてはならない。
 ごく、と呑み込んだ唾は、喉をぴりぴりと傷めつけてきた。
「あかん」
 ぽそと呟いた言葉は、ひとりぼっちの家にふっと広がって、ぱっと散っていった。

◇◆◇◆

 三十八度でなかったから、インフルエンザではない。けれど、自身の平熱より二度も高くなっていた。完全に風邪。風邪を、引いてしまった。原因は言うまでもない。
 体温を知ってしまったからか、いっそう重たく感じる体に叱咤を打って、寝室にばさばさと布団を敷く。シーツが少々ひん曲がってようが、構ってはいられない。タオルケットに毛布に羽毛布団。雑に広げたソレらを被ってなお、ぞくりと体が震える。
 こたつで寝た自分を恨むべきか、風呂上りだというのにあいつの家を飛び出した自分を叱るべきか。……どちらも悪いか。
 せめて実家に泊まれば、ここまで心細い思いはせずに済んだのだろうか。一人で過ごすことに、寂しさなんてろくに感じたことはなかったのに、無性に今日は人肌が恋しい。
「うぅ……」
 一つ唸って、頭から布団をかぶった。
 市販の風邪薬はある。だが、飲むためには何か食べなければならない。しかし、食欲はゼロ。作る気力なんて、この俺にあるわけがない。
 この家に来てから、ここまで酷い風邪を引いたのはいつぶりだろう。もしかすると初めてか。虚ろな記憶をたどってみるが、初めてな気がしてならない。
 本当に、最悪だ。昨日からろくなことがない。
「ッくしゅ、」
 寒気と同時に、くしゃみが飛び出した。
「ストーブあるんですから、つけましょうよ」
「持ってぐるん、めんどい……」
「うーわ声ガラッガラ。今持ってきますんで、ちょ~っと待っとってくださいね」
「ん」
 そういえばストーブを出したままだった。つければこの寒気もマシになるかも。まったく思いつかなかった。人の知恵というのは、頼りになるものだな。
 熱に浮かされた頭で、ぼんやりと、考えた。
「うん?」
 そこで、違和感。ぽふん、と羽毛布団を捲った。たちまち、冷たい空気が肩に乗っかってくる。寒い。布団に戻りたい。
 でも、今、俺は、一体誰と会話をした。というか、あの、声、は。あの、声、は。
「よっせい」
「は」
 すたーんと開いた襖は、足で開けられたらしかった。それもそのはず、開けたそいつの両手は、ストーブを抱えている。ほぼ満タンの灯油が入っていたと思うが、重さを一切感じさせずに、そいつは部屋の角にストーブを置いた。
 耳は、コンセント、コンセント、という呟きを拾う。
 視界の中央には、何度見ても、黒髪の、一九〇センチ弱の、昨日、会ったばかりの男が、居座っていた。
 これは、なんだ、夢か。悪夢の類か。震える腕をどうにか持ち上げて、ぎゅうと自分の頬を抓ってみる。
「いたい……」
「夢ちゃいますよ、現実ですからね」
 無事にコンセントを見つけたらしいそいつは、ピッとストーブのスイッチを入れた。続けて、俺の布団のすぐそばにやって来る。立ったまま見下ろされるのかと思えば、すとんと胡坐をかいた。
 何度瞬きをしても、そいつがいる。消えはしない。
 侑が、この家に、いる。
「なにしにきてん」
「サムのおつかい」
「小学生か」
「小学生にはできんおつかいです」
 なんたって、三〇キロの米袋を三つ仕入れてこい、っていうおつかいですからね。しれっとした態度で言い放ったそいつは、依然としてその場から動かなかった。
 じ、と、火照った顔の俺を見つめてくる。見るからに、呆れが混じっているのは、気のせいだろうか。いや、気のせいでは、ない。
「ったく、鍵くらいかけてくださいよ」
「こないな田舎で……」
「田舎も都会も関係ありませーん、不用心すぎです」
 侑はビッと指を立てて、説教をしてくる。鍵、確かに、閉めなかった。閉めるときと言えば、遠くに出かけるときくらい。畑に行く程度であれば、まず閉めることはない。
 言われてみれば、確かに、不用心、か。盗まれて困るようなものも置いていないが、不用心という指摘は、間違っちゃいない。
 うん、とこっくり頷けば、侑の向こう、襖の隙間から白い塊が見えた。あ、マルや。そう思うや否や、マルは器用に襖を開けて入ってくる。ちゃっかり前足で襖を閉めるのが、あいつの賢いところ。ストーブの気配を察知したのだろう。運の良いことに、今日はなにも獲物を取ってきてはいない。
「しかもめっちゃ熱出てはるし」
 そんなマルに気付かないまま、侑は俺に説教を続ける。あんな時間に、しかもその格好で帰ったらそら風邪引きますよ、だとか、そんなだぼだぼなスエットいつまでも着とらんで、一回着替えましょうよ、だとか。
 うん、せやなあ、うん。霧がかかった思考じゃ、ただただ頷くことしかできない。それから、マルが侑を警戒しながら近づいていることを見守るくらい。
「ああ~もう、強引にでも泊めるんやった……」
「ぅん」
「うんうん、ってさっきからそればっかすけど、ちゃんと聞いてます?」
「うん」
「えぇ、これどっち……?」
 恐る恐ると言った調子で、マルは侑との距離を縮めていく。未だ、侑はマルの存在に気付かない。ただ、俺のぼんやりした反応に顔を顰めているだけ。
 マル、どうするんかなあ。噛みつきはせんと思うけど、俺んこと叱ってるの見て、侑イコール敵、て見なしてへんとええんやけど。
 ぽやっと焦点の定まりきらない視界で、白い毛玉を見守っていると、侑は俺の視線の先に気付いたらしかった。辿るようにして、俺の視線の先を追いかけていく。首が、捻られていく。そうして侑も、マルを、捉えた。飼い犬ならぬ、飼い猫ならぬ、飼い狐。
「ケンッ!」
「っうお!?」
「マル、おいで」
「ヴヴ、」
「まぁる」
 ああ、やはり侑を威嚇したか。ふすふすと鼻息荒く侑を睨みながら、遠回りに俺の布団のそばへとやって来る。もふんと、膝に乗っかられると、獣のぬくもりが伝わってきた。
「え、なんすか、ソイツ、猫?」
「きつね。マル」
「……マル、ちゃん?」
「オスやから、マルくんやなあ」
「マルくん」
 侑がポツリとマルを呼ぶが、当のマルはぷいっと顔をそむけた。どうやら、完全に侑を嫌ってしまったらしい。その反応を見て、侑もぐぬっと顔を顰めている。そういえば、こいつは昔から動物に嫌われる質だったな。角名や銀島には猫が懐くのに、宮兄弟にはさっぱり近寄ってこない。あの構図はなかなか面白かった。
 まあ、マルのことは仕方があるまい。ふさふさの白い毛を撫でながら、それとなく侑を見やった。
「……今日、練習は」
「オフです」
「うそつけ」
「ほんまに。今日から一週間。なんなら、ブラジル飛んだ翔陽君の写真見ます?」
「ぶらじる……」
 侑は慣れた手つきで電子端末を取り出すと、数度のタップを経て画面を俺に見せてくれた。そこには、侑と同じチームに所属しているオポジットの姿が。ニッという微笑みと共に、リオ行きの航空券を持っていた。
 一週間の、オフ。だから、治は侑をこき使うことにしたのか。いつもなら、自分で取りに来るか、難しいときは一本電話を寄越してくる。うん? 侑が来たということは、電話があったのか?
 ええと、スマホは一体、どこに置いたんだったか。くるくると思考を巡らせてみるものの、さっぱり思い出せない。鞄の、中? それか、ヤッケのポケット。おそらくどちらかにあると思うのだが、どちらも居間だ。取りに行くのは億劫。かといって、侑に頼むのも、申し訳がない。
 上機嫌に擦り寄ってくるマルを撫でながら、ただただ侑を見つめていると、居心地が悪そうに目線を逸らされた。マルに嫌われたのが、そんなにショックだったのだろうか。
 なあマル、こいつ、そんな悪い奴ちゃうで。俺の後輩でな、いちばんバレーで出世した奴やねん。料理も美味いし、あと、俺の、元・恋人。だから、あんまり嫌わんでやって。仲良うしてな。そんな念を込めながら、ふさふさの毛を撫でていると、侑が身じろぎをする気配がした。
「なんか食えます?」
「なんかて?」
「お粥とか」
「……たぶん」
 食えると思う、けど。お粥なんてあったかなあ。こてんと首を傾げると、ぐにゃりと侑の唇が歪む。何かを言いたいときの、アレだ。なんやねん。言いたいコトあるならはっきり言えや。真っ直ぐに言葉をぶつけたいが、どうも喉が痛くて調子が出ない。頭がぼーっとしているせいもあるかもしれない。
「ちょお、待っててください。今作って来るんで」
「え」
「え?」
 さっき勝手に冷蔵庫覗きました、米と卵あったんで、卵粥にしますね。そんなことを言いながら、侑は立ち上がろうとする。
 どこ、行くん。
 そんなの、台所に決まっている。けれど、熱で浮かされた頭は、ただ「侑に置いて行かれる」「ひとりぼっちにされる」という様にとらわれていた。
 にゅ、と伸びた手が、ぎゅ、と侑のズボンの裾を掴む。
「ぅえ、っと、北さん?」
「やや」
「はい?」
「どこいくん」
「台所です、お粥作りに」
「や」
「や、て。でも、なんか食わんと」
「もう、ちょっと、一緒、いて」
「へ」
 こんなの、三十路を迎えようとしている男が言う台詞ではない。わかってはいるが、勝手に口が動いてしまった。
 言われた侑は、口を半開きにしたまま固まる。そりゃそうだ、アラサーにこんなこと言われたって、気色悪いだけ。いや、一緒にいてくれと散々強請っていたのはこいつのほうか? と、なると嬉しいと思っていたりして。
 だが、俺のは風邪による妄言。一時の、気の迷い。本気にしないでもらいたいところ。
 うら、と視線を彷徨わせた侑は、改めて畳に座り直した。それから、俺の胸をとんと押す。たちまち、俺の上体は布団に倒れ込んだ。さらには、マルごと羽毛布団をかけてくれる。ちょうど、肩が隠れるくらいまで。
「寝るまで、一緒におったら、ええ?」
「……うん」
「まぁた、その「うん」」
「ぅん、ふふ、うん」
 完全に呆れた様子の侑は、一つ息を吐いてから、俺の額にかかった前髪を退けてくれた。もしかすると、起きてすぐに体温を測ったときから、さらに上がっているのかもしれない。やけに、汗をかいている感じがする。単に、慣れないスエットを着ているからそう思うのだろうか。あとで、それこそ寝て起きたら、着替えることにしよう。
 前髪を払ったかと思うと、侑の大きな手は、俺の頬を撫でてくる。いつもは俺のほうが冷たいのに、今日ばかりは侑の手のほうが冷たかった。頬を撫でられると、気持ちが良い。つい、擦り寄ってしまう。
「ン゛ン゛ッ」
「うん?」
「……いいえ、なんでもありません」
「うん」
 そうこうしているうちに、布団の中が苦しかったのか、マルがもそりと顔を出す。ちょうど侑の手のそば。
 まずい、噛みつくかな。ちらりと心配が脳裏を掠めるが、マルは侑の手をふすふすと嗅いだ程度で、特に攻撃する気配はなかった。敵、とみなすのは止めたのか? それとも、なんだこいつ、とただ警戒していただけだったのか。
 なんにせよ、こいつの手に怪我ができなくて良かった。
「北さん」
「んん?」
「眠いやろ」
「うん、ねむい」
「なら寝ましょ」
「うん……、あつむは?」
「俺?」
「うん」
「俺、は、……北さん寝るまでは、ここにいますよ」
「……ふふ」
「ふふて」
「ちゃんと、いてな」
「……はあい」
 布団からこっそり手のひらを出して、侑の袖を掴んだ。これでよし。勝手にこいつがどこかに行ってしまうことはない。掴んだ瞬間、びく、と肩が揺れたような気がするが、頭がぐわんぐわん揺れるせいで、どれが本当に揺れているのか定かじゃない。
 とにかく、侑がいて、マルもいて、あったかいから、それでいい。迫ってくる睡魔に任せて、ぱたんと瞼を閉じた。まだ、侑はそばにいる。すぐそこに、いる。
 誰かがそばにいると、こんなにも安心するのだな。独り暮らしが長かったせいで、すっかり忘れていた。マルもいるしと、寂しさを感じたことなどほとんどなかったのだが、人間が恋しくなることもあるらしい。一つ、学んだ。
 謎の哲学に思いを馳せていれば、意識はずぶずぶと沈んでいく。起きた時も、侑が、そばにいてくれたらな。そんでマルもいたら、最高だ。
 ささやかな幸せを思い浮かべながら、とっぷりと意識は沈んでいった。

◇◆◇◆

 出汁の匂いがする。鼻孔を掠めた香りに、ふんわりと意識が浮上した。うっすらと瞼を開けると、見慣れた天井。それとなく右を見やれば、真っ白い毛玉がぷすぷすと寝息を立てていた。
「ゲ、起こしました?」
「うぅん、ええ匂いするなあ、思って、起きた」
 もそもそと起き上がると、妙に体はさっぱりとしていた。こて、と俯いて自身を見やれば、大きいスエットではなく、見慣れた寝間着に身を包んでいる。
 おかしい。俺はいつの間に着替えたんだ? それとも、まさか、もしかして。
 ちら、と侑を見やれば、小さな土鍋を鍋敷きに置いているところだった。傍らには、俺の茶碗と、どこからか出してきたらしいレンゲがある。
「着替えとる間もぐっすりやったから、まだ起きへんかなあとも思ったんすけど」
「着替えさせてくれたん?」
「はい。あ、勝手にタンスん中、あさりました。なんかそれっぽいのあったんで着せてみましたけど、それ寝間着です?」
「おん、これは寝間着。あと、その、体」
「ああ、汗もすごかったんで、拭っときました」
「……ありが、とう」
「いいえ」
 この男、こんなにもデキる男だったとは。空いた口が塞がらないとは、きっとまさにこういう状況を指すのだろう。
 お粥を作ってきただけなら、あの手際を見ている分「なるほど」とも思うが、着替えをさせ、体も拭かれていたなんて。目覚めなくて良かった。うっかり起きたものなら、羞恥で発火していたかもしれない。
 なんて、男だ。こんな良い男になっているなんて、聞いていない。逃したことこそ悪手だったと突き付けられている気分にになる。
 そんなことはない、はず。自分の人生を歩むにあたって、必要なものを選び取って俺はここまで来ている。だから、だからきっと、大丈夫。
 こちらの焦りを知ってか知らずか、侑はひょいと土鍋を開けた。たちまち出汁の香りが濃くなる。良い匂い、つられるようにして顔を向ければ、侑は茶碗八分目のところまで粥をよそっていた。
「ほい、熱いから、気ぃつけてくださいね」
「わ」
 レンゲと一緒に渡された茶碗は、粥の熱を吸ってカッカと熱くなっていた。慌てて太ももの上に置く。布越しても、その熱さはじんじんと伝わってきた。湯気はもうもうと立ち、咲いた白飯の中に、卵が黄色い花のように棚引いている。散らされている緑はきっとネギ。萎びたねぎがあったような記憶もあるが、よくもまあ見つけたものだ。
 茶碗の底に指先を添えながら、レンゲの先に粥を乗せる。それでも湯気が立つのだから、熱さがよくうかがえた。
 ふー、と息を吹きかけて、適温になるのを待つ。本当は、熱いところを食べるのがいちばん美味いのだろうが、火傷をしてしまっては堪らない。
 そろそろ、いいか、というところで、ぱくり。一口の半分にも満たない量を、口に運んだ。出汁なのだろうか、ほっとする味がする。ふにゅ、ふにゅと一応噛みはするものの、つるつると飲み込めてしまいそう。
 総評・めっちゃ、美味い。
「きのうもおもったんやけど」
「ん?」
「ちゃんと自炊、しとるんやなあ……」
「そらプロですもん。栄養士サンにいろいろ教えてもろて、どうにかこうにかやりくりしとるトコ」
 それに、日本にいる分、自分はサポートを受けやすいほうだ、と。海外組は、完全に自分で体を作っていかなくてはならないから、もっと大変。そういう道も考えたけれど、自分の体の調子を鑑みて、あえて日本でプレーすることにした。など、ぽつぽつ侑は語ってくれる。
 噂で聞く限りでは、怪我への対応は欧米諸国より日本のほうが丁寧と聞く。こちらに戻ってきてリハビリをする選手もいるというし。
 こいつのことだ、海外の強い選手の中でも、プレーをしたいと思ったことはあるはず。それでも、よく考えて自分の最適を、選び取った。たぶん、そう、なのだ。
 本当に、ちゃんと、している。
 そっともう一口、粥を運んだ。
「つか北さん家、カップ麺めっちゃあるん、なんで」
「なん、で?」
「米あんのに、ラーメン食べるんかなって」
「ああ、簡単やから……」
「うーわ、不摂生」
「しゃーないやろ、畑始まったら忙しなるし」
 昼飯までいちいち丁寧に作っていられない。正直、炭水化物は摂りすぎだと思っている。朝も食べて、昼はカップ麺も食べつつご飯も食べて、夜もご飯。それでも労働をしていれば腹が空くのだからぺろりと食べられてしまう。腰回りがしっかりしてきたのは、そんな食生活のせいだろう。
 今はまだ三十前だから良いものを、四十、五十となったら、下っ腹が出てきそう。面倒でも、ちゃんとバランスの取れた食生活を心がけなくてはな。侑を間近で見たせいで、余計に、そう思う。
 何より、ぱっと自分の調子にあった飯を作れるのは、素晴らしいスキルだ。
「おいしぃ……」
「一緒おったらこーんな美味い飯も食えますよ」
「いちいち売り込んでくんな」
「売り込みますよ」
 美味いものは、美味いという。それが礼儀だ。喉の痛みもある分、しっかりと発音することは難しかったが、侑の耳に届く音量では言えたらしい。
 ちゃっかりと自分との生活をほのめかしてくることさえしなければ、花丸をくれてやったものを。まったく、本当に惜しい男だ。
 ……なぜ自分なのだろう。もっとずっと良い相手が、いるだろうに。
 どうにか、よそってもらった分の粥を食べきれば、腹は満たされてしまった。少食になった? いや、風邪を引いているからこその食欲だろう。土鍋にはまだ粥が残っているようだが、これ以上食べようものなら、戻してしまいそう。こんなに美味いものを吐くなんて、したくない。
 ふう、と息を吐いて、御馳走様でしたと頭を下げると、軽い「はぁい」の声と共に、茶碗とレンゲが回収されていった。残りはどうするのだろう。そのへんにとっておいてくれれば、夕飯にも食べたいところだが。
 相変わらずのぼんやりとした目線で侑のことを追いかけていれば、すっとガラスコップを渡された。渡されるままに、水の入ったそれを受け取る。水? 確かに喉は乾いているが。こく、と一口飲むと続けて侑は軽やかに言葉を紡いだ。
「はーい、お薬の時間でーす」
「ん」
 それでか。受け取ったカプセル状の薬は、一斗缶救急箱にいれていたものだ。よくもまあ見つけたものだと感心してしまう。
 ……いや、こいつなら、見つけてもおかしくないか。嘗て、こいつがアパートに暮らしていた頃、クッキーの缶を救急箱にしていたのだから。置き場所も食器棚の一番下と、我が家と一緒。すぐに見つけたって、不思議じゃない。
「飲んだ?」
「……ん、飲めた」
「ふっふ、偉い偉い」
「子ども扱いすんな」
「えー、だって北さん高校の頃と顔付き変わらんから」
 きちんと水を飲み切れば、再びひょいとコップを回収される。続けて、ぽんぽんとあやすように頭を撫でられる感触。こいつの頭を撫でることはあれども、撫でられることは、ほとんど、ない。つい、むず痒くなって、その手を払いのけてしまった。もったいないことをしただろうか。でも、頭を撫でられると、余計に絆されてしまいそうになる。それは、避けたい。
 腕を払いのけてなお、けたけたと軽快に笑うそいつに、どう仕返ししてやろう。俺が、あまり言わないでいた言葉。かつ、こいつが喜びそうな言葉は、さて。
 たっぷりと寝て、食事もしたおかげか、だいぶ頭は回るようになった。まだ少々瞼は重いが、思考回路に然程の不備はない。
 つん、と唇を尖らせながら、思いついた言葉を舌に乗せた。わざと、緩い、発音を意識する。そのほうが、こいつには効くだろうなと、思ったから。
「あつむは」
「はい?」
「おとこまえになったな」
 あんまりにも恰好ええから、心臓に悪いわ。そんな副音声もつけて言えば、ひく、と侑の頬が引き攣った。貼り付いていた笑みに、ヒビが入る。
 たちまち、すんっとした無表情になったかと思えば、侑は自身の大きな両手ですっぽりと顔を覆ってしまった。きっと、今、さぞ情けない顔をしていることだろう。
「……シラフでそういうの、やめてください」
「事実やん」
「どーも!」
 お礼として返ってきた声色は、自棄を孕んでいる。からかわれた、という自覚はあるらしい。ずる、ずる、と顔から両手が滑り落ちていけば、思い描いたとおりの情けない顔をしていた。それくらいでちょうどいい。あまりにも恰好が良すぎたら、遠い存在に思えてしまう。
 いや、そう、思えたほうが、良いのか? ぐるり、自分の中に住まう未練と相談してみる。断ち切りたいなら、遠い存在であったほうがいい。でも、近い人として残しておきたいなら、このギャップは、覚えて、おきたい。
 なんやろなあ、俺にめちゃめちゃ苦手意識持ってんのがおもろくて、その上であれこれやらかすから正論を叩きつけてきたのがコイツとの関わりの発端。だからか、こういうふうに、「ううう」と呻いてくれているほうが、自分としては落ち着く。とても、落ち着く。
 はぁあ、ああ。見知った侑の顔が完全に見えたところで、侑は盛大にため息を吐いた。こんな予定じゃなかったのに。もっと格好良くキメるはずだったのに。そんなオーラが滲み出ている。それがまた面白くて、つい、口元を緩めてしまった。
「笑わんといてくださいよ」
「ん? いや、いつまで経っても、お前は可愛い後輩やなあて、思ただけ」
「可愛い後輩の枠を、超えたいんですケド」
「……もう無理やって、それは」
「うー」
 居心地悪そうに頭を掻いた侑は、もう一度深く息を吐いた。それから、そっと口を開き、だが何も言わずに閉じる。もごもごと、言葉を選ぶ、いや、これはそもそも言うかどうか迷っているといったところか? 唇を尖らせたり、真一文字にしてみたりした後、再び、口を開けた。
「夢、見たって話、したやないですか」
「んん?」
「夢。北さんの夢見たって」
「んー……、うん」
 そういえば聞いたような気がする。ソレを見たから、不能に、いや精を絞り出し切ってしまっていて、勃たなかった、という話だったか。
「嘘みたいな話なんすけどね」
 昨日話されたソレを思い浮かべているうちに、侑はぽつぽつと語りだした。
「俺、十年前のあんたに会ったんです」
「じゅうねん、まえ?」
「そう。十年前。まだ未成年の、付き合い始めた頃の、あんた」
「……夢で、て、こと?」
「夢、なんかな。でももっと生々しかったんすよね。まだ、あの感触、残っとるし。バレー辞めて、ひょろっとしてた頃のカラダで、」
「あー、んー」
「……正直ニ申シ上ゲタイト思イマス」
 さり、と侑は自身の指先を擦り合わせる。まるで、そこに本当に感触が残っているかのよう。それほどまでに、生々しい夢を見たということなのだろうか。
 疑問点はいくつかあるが、まだカタコトながら侑が何かを言いかけている様子だったから、尋ねることなく、次の言葉を待った。
「無茶苦茶に抱き潰しました」
 待たんほう、良かったかな。
「三日三晩、ぎっちり」
「……よおちんこ保ったな」
「ぎんぎんっすよ、もう終始勃ちっぱなし。練習行って帰ってきたら、そく勃起みたいな。自分でもビビりましたもん。だからいっそ、夢だったんかなあ、思うくらい」
「……でも、俺にはしおしおやった」
「タイミングの問題です。今日やったら勃ちます」
「するん?」
「さすがに病人相手にはしませんよ」
 治ったら、そうっすね、お礼がてら相手してもらおかな。そんなことを言ってのけるそいつに、どういう目を向けたら良いものか。セフレは嫌だ、セックスをする関係は、大事な関係になってからだろうなどと、昨日は言っていたくせに。
「ただ、若いあんたのこと抱き潰して、やっと、あんたに飢えとったんやなって、自覚しました」
 胡坐をかいた膝の上に頬杖をついたそいつは、やけにしみじみと言う。内容は物騒極まりないのに、口調が穏やかなせいで、すっと言葉が入ってこなかった。
 飲み下して、理解して、ようやく、背中が冷えた。
 俺に、飢えていた、だと?
 頬杖をついた侑はなおも淡々と、いたって穏やかに語り続ける。
「バレーは順調にやれても、私生活はあんたがおらんと満たされへん。……や、バレー自体も、順風満帆てわけやなかったんですけど」
「……うん」
 一拍おいて、侑はぱたんと目を閉じた。俺からは、斜め横からの角度で見えるため、すっと通った鼻筋や、彫りの深い目元が際立って見える。イケメン、ともてはやされるだけの素質のある顔であることは間違いない。ただ、本当のアイドルに比べると、一歩劣るというだけで。
 目を瞑ったまま、侑は一つ一つ、過去の試合結果を口にし始めた。
「世バレはボロボロでした」
「……うん」
「でも、ワールドカップは銅メダル。上はブラジルとアメリカ。ブラジルはフルメンバーで、ほんまえぐかった」
「でも、ブラジル戦はフルセットやったろ?」
「フルセットでも負けは負けです」
「相変わらずの結果主義やな」
「結果出さんと、俺の居場所無うなってまうんで」
 思い出なんかいらん。終わったことまで、いちいち気にしていられるものか。そんな発想だったこいつが、過去を顧みるなんて。相変わらずの結果主義ではあるが、何かしら糧にしているらしい。
「今シーズンはベストサーバーとベスト6に入りました」
「……知っとる」
「で、次は、パリです。ネーションズ挟むけど、今年は、パリ」
「……うん」
 バレーの三大大会。そう呼ばれているのが、ワールドカップと、世界選手権大会、そして、オリンピック。今年は、その、オリンピックイヤー。
 選手にとって、五輪は特別なものらしい。他の二大会と異なり、総合競技大会としての性質を持っているからなのだろうか。何の記事を読んでも、インタビューをみても、五輪は特別と、選手たちは口にする。
 その、特別が、今年の夏、やってくる。
「目標は、――金メダル」
「その目標は、主将、として?」
「チームとして、です」
 ああ、それなら良かった。侑の独りよがりで決めた目標でないのなら、構わない。それこそ、こいつと別れた頃から、目標はメダルと聞く機会が多かった。その最中、ついに、色を限定するようになったとは。日本バレーは、随分と、力を取り戻してきているらしい。
「狙いに行きます。取れる、圏内にいる自信もあります」
 静かに語るのは、もう、元・恋人の宮侑ではない。
 バレーボール男子、日本代表の主将としての、言葉だ。ずっしりとした重みが、そこにはある。
 やはり、こいつはまだ、辛い道を進んでいくのだな。そうであれば、俺は、隣には。
「……地獄まで一緒に来て、て言うたけど、別に地獄だけちゃいますよ」
 ふと、調子が聞き覚えのあるものに戻った。見知った、侑の声だ。
 軽くも芯の通った、あの、声。
「――天国にだって、一緒に行きたい。だから、一緒に、生きたいって思うんです」
「てっぺん取るとこ、隣で、見てろ、って?」
「そ。まあ、現実問題、難しいってのは、わかってるんで、やり方は、これから考えようと、思って、マス」
 帰国したら、いちばんにココにくるとか、時差考えないで電話させてもらうとか。今のところ、侑の頭にあるのは、俺を日本に置いたうえで、どう繋がるか、ということらしい。
 たった、一日で、そこまで考えてくるとは。
 俺はこいつのことを、見くびっていた。
「そんで、えーっと、ここからは、ずっと先の話になるんですけども」
「ん? うん」
 もう一度頭を掻いた侑は、うらうらと視線を彷徨わせる。今、言うか否か、言ってしまったほうが、良いに決まっている。だから、言いたい。でも、否定されたら、流石に凹む。そんな内心が、手に取るようにわかった。わかって、しまった。
「……聞かせて」
「へ」
「お前の、この先の、人生について」
 聞きたい。
 真っ直ぐに見つめながら伝えれば、控えめに、侑は口を開いた。
「引退したら、俺、ココ来ます。そんで、一緒に暮らそ」
「……ええの?」
「ええもなにも、俺からバレー取ったらクソしか残りませんよ、北さんこそええの?」
「ふ、畑ンこと教えたるからクソ以外にも残るやろ」
「ほんま? あ~良かった、サムに穀潰して言われるとこやった……」
 穀潰しとはよく言ったものだ。それも治が言ったとなれば、さぞ侑には突き刺さったことだろう。それはお前のことだろうが、と言い返したいが、向こうは三店舗を展開する経営者。飯のことだけでなく、金勘定にも長けている。言い返すに言い返せず、グッと言葉を詰まらせる様が、瞼の裏に浮かんだ。
 引退、したらか。それは随分と先の話になりそうだ。それでも、今、言ってくれたことに、嬉しさを感じているのも確か。引退して、もうバレーボールに縛られなくなって、バレーを理由にした取り巻き全部手放してから、俺を選んでくれる、と。
 もったいないな。そう思う自分もいる。もっと相応しい相手が、いるだろうにと。
 けれど、それも加味したうえで、もう一度、それもバレーを抜きにして選んでくれるというのだ。これを喜ばずしてどうする。
 宮侑の中で、自分がバレーに匹敵する存在になってしまった、とは。
 将来的には、侑が、農業従事者か。くっと笑いが込み上げてくる。似合わない。少なくとも、今の侑には釣り合う職業ではない。それでも、年月を経たら、いくらか様になる、かも、しれない。
「ただ、まあ、その綺麗な手ぇはぼろぼろなるやろなあ」
「あ、やっぱり?」
「せやから、」
「うん、バレーちゃんとやりきってから、来ます」
「それがええよ」
 そうしてくれたほうが、俺も、安心する。安心して、お前のことを待っていられる。
「あ、でもそれはそうとして」
「ん?」
 おもむろに、侑はピッと人差し指を立てた。一つ提案です。そんな装い。なんだろう。この期に及んで、今のうちにしておきたいことがあると? ……セックス、だったら、どうしよう。いやいや、治のお使いの件かもしれないし。
「先にね、したいことがあるんですよ」
「したいこと?」
「はい」
 さて、こいつはこれから、何を言いだす? 身構えようかとも思ったが、毒気のない笑みを見ていると、肩に力を入れているのが馬鹿らしく思えてきた。
 もういいか。言われたことを、受け止めるまでだ。
 ニッと笑ったそいつは、さて、何を言いだすことやら。力を抜いて、言葉を待った。

 俺と、結婚しよ。