良いから顔洗ってください。便所でも、いや、多目的トイレ、多目的トイレです、そこで顔洗って、ほっぺぱんぱんってしてから入るんですよ、良いですか、絶対ですからね! ぜったい!
 その言葉通り、周囲に使うような人がいないのを見計らって、真っ先に会場の多目的トイレに入った。便所の手を洗うところで顔を洗うのはいかがなものかとも思うが、御託は良いから、そうしてくれと頼まれたばかりだ。でないと、その耽美な顔付きを関西中の農業従事者に晒すことになりますよ、と。
 耽美という言葉には納得がいかなかったが、なるほど、トイレに入っていざ自分の顔を見れば、すっかり事後を思わせる蕩けぶりをしていた。目元は赤いし、唇も晴れている。とろんとした目付きは、まさにいまヤッてきましたと言わんばかりの色。これは確かに顔を洗わなくてはならない。
 ひやりとした水で顔を濯げば、少しは体の熱も引いたような気がした。冷静さを取り戻せたのもあって、目付きの緩さもいつものそれに近づいている。
 今日はまだハンカチを使っていなくて良かった。ぺとぺととタオル地のそれで水気をとって、あいつのいうとおり、頬をぱんっと叩く。もちろん、手形はつかない範囲で。これで良し。ある程度は取り繕えたろう。
 ほ、とため息をついたところで、そろそろと多目的トイレを出た。
 農具の展示会は始まっているらしく、だだっ広い会場にはちらほらと同業者と思しき影と、いかにもな営業マンが点在している。聞きたい説明まではまだ時間もあることだし、先に田植え機を物色しに行くか。
 そう思って、よろよろとホールへとつま先を向けた。
「およっ」
 と、耳に聞き覚えのある声が響く。ついさっき聞いていたのと似た声色。けれど、あれよりは幾何か低いだろうか。落ち着いている、と表現しても良い。
 よろめかないように壁に手をついてから振り返れば、案の定、おにぎり宮のキャップだけ被った、ポンコツの片割れが立っていた。作業ズボンに緩いパーカー。そのままエプロンさえつければ、店頭に立てそうだ。
「……なんでお前がおんねん」
「いやあ、今日農家さんが集まるて聞いたもんで~」
 へらっと笑いながらそいつは大股で近づいてくる。横柄な歩き方はアレとそっくり。高二で、侑とは別の道を進むと決め、調理の専門学校を卒業するのとほぼ同時に、自分の店を持った。飯へのこだわりが強すぎる性格が幸いして、稲荷崎本店・大阪梅田店・東京駅八重洲店と展開している。近々福岡天神にも出店予定と聞いているから、さぞ儲かっていることだろう。
 社会人としての礼節は確かにこいつのほうが持ち合わせているが、普段の挙動は進路を違った頃から非常に似てきていると個人的には思っている。あいつのようにはならん、と過ごしてきた学生時代の反動なのか、それとも所詮同じDNAには逆らえなかったということなのか。
 それにしても、よくもまあこんなところに来たものだ。関心すらしてしまう。
 呆れ半分に治を眺めていると、あっという間に俺の隣にやってきた。身長は高校を卒業してからさらに伸びている。本人曰く、未だに侑より三ミリ大きいとか。高校を出てから一ミリたりとも伸びていない自分からしたら、羨ましい限りだ。
 隣に立った治は、じ、と俺を見下ろしてくる。俺が壁に寄り掛かっているせいもあって、パッと見の身長差は二十センチ以上になっていることだろう。
 そんな状態で、治はぐいっと首を傾げる。首どころか、上体ごと、傾けているように見えるのは、錯覚ではあるまい。
「何かありました?」
「何かて?」
「や、なんとなく」
 バレたか? ちらりと脳裏を掠めるが、いくら何でもそこまで敏感ではないと思いたい。飯関連であれば、どんな些細な匂いであろうとも嗅ぎつけて「どこで何を食べたんですか」と詰め寄ってくるが、今日はそれがない。
 だから、たぶん、大丈夫だろう。壁に寄り掛かっているから、腰でも痛めたんかな、農薬とか肥料とか発注する時期やしな、と思っている程度に違いない。
「ツムと、会った、とか」
 ――前言撤回。
 まったく大丈夫ではなかった。というかこれはもはやバレているのでは。いつもの無表情を心がけてはいるものの、赤面してやいないだろうか。若干不安になってくる。
 どう答えたものか。逡巡したうえで、ほんの一ミリか二ミリばかり、唇を噛み締めてみることにした。
「……」
「あ、やっぱり」
「双子テレパシー発揮すんなや」
「そんなん使えませんから、俺あいつの考えとることさっぱりですし」
 嘘を吐け。侑ならばこうするという予想を的確に当てられる者など、この世でお前くらいだろうが。
 はあ、とため息を吐けば、わざとらしいくらいに大げさなものが出てしまった。もちろん、治の耳にも入っている。しかし、怯えることなくクツクツと喉で笑っているから、こいつもなんだかんだ高校の時よりたくましくなっている。いや、この場合は図太くなっている、のほうが正しいか?
「そんな、……俺、わかりやすい顔しとる?」
「ん~、ぶっちゃけいいすか」
「おう」
「事後って顔してはります」
「ぅエ゛ッは……」
「あ、うそぉほんまに?」
「……カマかけたんか」
「や、ちょっと手ぇ出されたんかなあとは思いましたけど、ほんまにヤるとこまでヨリ戻したとは思わんかったっす」
「……ヨリは戻してへん」
「へ、でもヤッたんでしょ」
「ヤッてへんわ」
「でもその顔」
「……家連れ込まれて、悪戯されただけ」
「いたずら、ねえ?」
 ほお、へえ。そうわざとらしい相槌を打ちながら、治は悪い笑みを浮かべた。ほら、その顔。そっくり。さっきのあいつも、まったく同じ顔をしていた。髪型が違うだけで、あとは完全に一致する。やはりDNAは侮れない。
 悪戯。そう、さっきのアレは悪戯だ。そう思わないとやっていられない。ちんこどころかアナルまで弄られてクソみたいな達し方をしたとはいえ、悪戯ということで済ませてしまいたい。
 散々あいつに言われた「あんたが欲しい」は聞かなかったことにしよう。さっきだって、ここまで送ってくれただけで、次いつ会うだとか、そういう約束も取りつけられなかったし。
 気を抜くと、またため息を吐きそうになってくる。
「あかんわ」
「へ?」
「未練たらたら」
「……ツムが?」
「や、俺が」
「えー」
 こんなこと、あいつの身内に話すことではないのだろう。けれど、治は俺と侑が付き合っていたことを知っている数少ない知人の一人だ。主には、侑がひたすらに惚気ていたせいで知る羽目になっただけらしいが。
 別れて一年か、二年のうちは、こいつの店に米を納品しに行くたびに、今日は来てないのかと尋ねていた。あいつはあいつで、「北さん、どんなやった」と治に問い詰めていたという。
『めんどいんで、ヨリ戻したらどうすか』
 そう、こいつに言われたのも、一回二回の話じゃない。そもそも、なぜあんたらは別れたのか。お互い好き合って、仕事も好きなことも理解しあっていて、別れた意味がわからん。とまで言われた覚えもある。……これは酒の席だったか。敬語が完全に外れた口調だったから、おそらくOB会のときだろう。
 傍から見れば、確かに「なぜ別れたのか」という話にはなるのだろう。同性という要素はあるにせよ、お互い然程気にするものではないと捉えていたし。
 ただ、俺が侑の報われない努力を見ているのが辛かったから距離をとっただけのこと。本当なら、その辛さに寄り添える人をパートナーにすべき。そんなことを考えて、別れることにしたのだ。
 治から侑の動向を聞くのを止めたのは、別れて三年ほど経ってから。近所の農家の娘さんを紹介されたのだ。彼女自身は銀行勤めで、農業は手伝う程度だったのだが、無下にすることもできず、一年ほど交際した。
 一年、付き合って、初めて彼女を抱いたとき、すべての所作が、あいつに施されたものだと気付いてしまい、それ以降女性を抱けなくなった。別れた理由も、まあそんなところ。
 おかげさまで、今の今になってまで未練がだらだらと続いている。あいつは、突発的に俺のことが恋しくなっただけかもしれないが、少なくとも俺はあいつ以上に愛せる人間は現れない予感がしている。
 ばあちゃんには申し訳ないが、晴れ姿を見せてやれそうにない。
 ぱたん、と瞼を閉じれば、先ほどの感触が襲ってくる。指で擦られたのも抉られたのも、空イキと見せかけてとろとろと精を漏らしたのも。……まずい、思い出したらまた体が熱を持ってきた。なんて厄日だ。
 情けない面を見られないよう、俯きながら片手で顔を覆った。
「……ここだけの、話、すよ」
「ん?」
 指の隙間から視線だけを持ち上げれば、治は器用にも唇の片一方だけを持ち上げた笑みを浮かべていた。
「あいつ、北さんと別れてから、ちゃんと体作り始めたんすよ」
「ああ、そういや随分と立派になっとったなあ」
「そ。トレーニングと、栄養と、あと休み方と」
「休み方?」
「はい」
 休むよりもバレーをしたい、というのがあいつの性分とばかり思っていたが、休息の重要性も覚えたのか。そりゃあ、体も立派になるはずだ。俺が見ていた時期はとにかく練習・練習・リハビリ・リハビリ、また練習といった形で、さっぱり休もうとしなかったっけ。
「最初こそ、北さんこと、忘れようと必死なっとるんかな、つか、実際そうやったと思うんですけど」
「……おん」
「途中から、北さんに戻ってきてもらいたい一心で、やっとるとこあるな、こいつ、て」
「そういうに見えたん?」
「まあ、はい」
 せめて怪我をしないようになれば、戻ってきてくれるかもしれない。そんなこと、考えてたんやろーなーて思ってます。
 緩く治は付け足すと、俺と目があったのに気付いて肩を竦めて見せた。
「から、あいつは未練たらったらっすよ」
「そう、なんかな」
「そうなんです。つか、北さんこそ、もう割り切ったんやろな、て、思てたんで、あいつに未練あるつーの、ちょっとビビりました」
 ずる、と指先で顔の皮膚を引っ張るようにしながら手を離す。顔は、真っ当に戻ったろうか。それとも、治の話を聞いて、浮かれてしまっているのだろうか。鏡がない今、確かめようがない。
 侑が、未練、たらたら。本当だろうか。治が言うからには、あながち間違ってはいないのだと思う。
 けれど、ここ数日、なぜか俺の夢を見て、思い出したというくらいだ。それまでは、すっかり忘れていたのでは。それこそ、覚えていたのは最初の一、二年で、あとは今の今まで忘れてバレーに打ち込んでいた。そう考えたほうが、しっくりくる。
 実際のところはどうなんだろうか。
「割り切る、なあ」
 割り切りたいとは、思っている。あいつへの愛を、宗教だとかの域まで昇華できたら、楽になれるのではないかと思いもする。だが、この愛は、慈しみだけじゃない。欲を孕んだ、浅ましい愛も含んでいる。
 だから、いつまで経っても忘れられない。
 無茶をしてでも走り続ける背中を支えてやりたい。どうして、そこで留めておかなかったのだろう。愛して、しまったのだろう。愛すること自体は悪いことじゃない。そこに、欲が混じってしまったから、ややこしいことになったのだ。
 今や頭の中は侑でいっぱい。地下鉄を乗って、横断歩道を渡るまでは、ほとんど田んぼのことしか考えていなかったのに。……自分の欲を満たすために、昨晩自慰に耽っていた、というのは、とりあえず棚に上げて置くことにして。
 冷たい壁に背中を預けたまま、そっと口を開いた。
「ちょっとずつな、記憶が遠のいてる、つか、薄れとるなあては、思っとったんやけど」
「けど?」
「今日、あいつに、会うた瞬間、こう、ぶわぁあ~て、色んなもん蘇ってもて」
 走馬灯を見るほど、あいつとの再会は劇的だった。その劇的さは、きっといくら語っても語りきれない。それに、よく顔を合わせている双子ともなれば、余計に理解に苦しむだろう。
 別れた日のこと。その前のこと。さらに前のデートのこと。試合を見に行って、苦しくなったこと。怪我をして、リハビリに励んでいるところ。チームメイトに惑わされながら、燥いでいたときのこと。内定が決まって、一月からVリーグの試合に出たこと。春高。インハイ。俺の卒業式。と、その寸前に、告白してきた、真っ赤な、顔。それらを含む、色々なことが脳みその中には詰まっている。
 別れてから、一つ一つ、開けにくい記憶の引き出しに閉じこもっていたそれらは、あいつと会った瞬間に飛び出してきた。一つ出てはまた次が現れ、それから次、次、と。花が咲くように、脳の一面があいつとの記憶の花畑に包まれた。
「髪も黒なっとったのになあ、ちゃんと思い出せたわ」
「ああ、アレ、ハゲ対策っすよ」
「ほんま? ふふ、今度からかったろ」
「そうしてください」
「あ、」
 でも、どないしよ。次会う予定ないわ。今日、約束せえへんかったし。家の場所も、俺よお覚えてへんし。からかえんの、いつになるんやろ。
 頭の中だけで浮かべたと思ったそれらは、ぽそぽそとした独り言になっていたらしい。向かいに立っている治がきょとんとした顔をする。一体、何を言っているんだと、言わんばかり。
「そんなん、作ったらええやないですか。そんでついでにヨリ戻したらどすか?」
「あんなバレーの申し子に農家やらせぇて言うん?」
「北さんが、あいつにつくて選択肢はないんすか」
 間髪入れずに返された言葉に、戸惑ってしまう。
 俺が、あいつにつく、とは。侑について、農家を離れる、ということか?
 考えたこともなかった。漠然と、昔から自分はじいちゃんたちの田畑を継ぐものだと考えていたし、それを踏まえて大学も選んだ。あいつと付き合っている期間こそ、そこまで真剣に畑とは向き合ってこなかったが、別れてからは農業一本。女性との交際も上手くいかなかった、というのは近所でもう噂になっている。立派な人なのに、もったいないね。遠くから聞こえるそれは、哀れみなのか、皮肉なのか。自分としてはどちらでも構わない。
 しばらく自身の農家生活を振り返って、軌道に乗っている今を思って、ようやく、返す言葉が見つかった。
「そんなん、困るやろ」
「ああ、家族とか」
「お前もな」
「……他の取引先見つかったら、気にせんでいっすよ」
「見つかる予定あるん?」
「開拓次第すね」
「現状は」
「今後とも何卒よろしくお願いします」
「ふふふ」
 良いのだ、これで。俺は侑と別れたまま。交わることなく、生きていく。人生百年と言われている時代だ、またいつか、会うこともあるだろう。そのときに、バスタオルは返せばいい。しわしわのじいさんになってから、ふわふわのタオル返すことになったら、ちょっとした笑い話になるかもなあ。
「ほんま、困ったわ」
 あいつはどうだか知らないけれど、俺の未練は断ち切れない。ずっと、あいつへの想いを抱えて、独り生きていくのだ。誰かと結婚したくても、この性的嗜好じゃ相手も見つからないだろう。そりゃあ、都会だったら見つかるかもしれないけれど、あの小さな集落じゃ、無理と思って間違いない。
「あ、中屋のおっちゃんやん、すんません俺そろそろ」
「おん、またな」
「はい、また」
 そのうちに、治は別の取引先を見つけたらしい。大柄な体が、ひゅんっと駆けていく。そして立ち止まった先には、大規模な野菜農家で有名な方がいた。あれがかの中屋農園の主人か。治と並ぶと随分と小柄。だが、やり手で有名だ。
 野菜、なあ。今年はなにを植えよう。米だけでなく、他にも手広くやるべきだとは思ってはいるが、結局毎年、家庭菜園規模で収まってしまっている。とりあえず決まっているのは、枝豆だけ。なぜならビールのつまみに最適だから。
「ほんま、どないしよ……」
 田植え機のことも考えなければ。まったく、今日は脳みそが随分と忙しい日だ。

◇◆◇◆

 そういえば、天気予報で降水確率八十パーセントと言っていた気がする。
 田植え機を物色して、聞きたかった説明を聞き、さあ帰ろうと会場を出ると、しとしとと雨が降ってきていた。まだ三月、雨が降れば言うまでもなく冷える。折りたたみ傘は持ってきているが、もう一枚中に着て来ても良かったかもしれない。
 雨を降らす雲を見上げながら、ごそごそと黒い折りたたみ傘を取り出した。まずは駅まで行こう。それから乗り換えて、実家に寄って軽トラを取って、いつもの家に帰ろう。
 そう思って、雨粒降り注ぐ中へ一歩、踏み出した。
 その時だ。どこかから、電子音が響く。音源はどう考えても自分の体。電話だ。こんな時間に、どこだろう。もしかして、肥料注文の件だろうか。それだといけない、早く出なくては。
 ごそごそと胸ポケットを探り、目的の四角い端末を手に取った。どうせ業者だろうと、電話主を確かめずに、通話に切り替える。
「もしもし」
『あ、出た!』
「で、た?」
 しかし、電話口から聞こえてくるのは、心当たりのある声ではなかった。あの爺様は、もっと渋い声をしていたと思ったのだが、何故だか若々しい。ついに息子に継がせたのだろうか。いや、それにしたって若々しすぎる。
 と、いうことは、業者じゃない?
 ハッとして、一度耳元から電子端末を離した。画面に表示されているのは、漢字二文字。宮・治、ではない。そうだったら楽だったのに。頭を悩ませる問題児のほう、宮・侑と、画面には書いてあった。
『あれ、もしもし? もしもーし』
「……おう」
『北さん?』
「……どちら様でしょうか」
『いや今絶対、俺からって確かめたでしょ、わかってて言うてはるやろ、それ』
「電話口で名乗るのは礼儀やろ」
『んもー、侑くんです!』
 ようやく名乗ったそいつは、画面に表示されている名前と同じ人物だった。そりゃあ、当たり前のことなのだけれど。
「なんやねん急に」
『今、どこいるんかなって』
「どこて、これから帰るとこやけど」
『あ、ほんま? ならこれから迎え行きますんで、朝んとこで待っててください』
「は?」
『五分? もかからんと思うんで!』
「いや待て、おい、こら、おい、」
 慌ただしく用件を伝えてきたそいつは、一向にこちらの話を聞く気配がない。それどころか、通話の声が遠のいていく。
 傘はある。駅まではすぐそこ。急がなくても、夜中に帰るなんて羽目にはならない。つまり、迎えなど、いらない。
「侑!」
 最後にそう声を掛けてみたものの、既に電話は切れたあと。
唖然としながら画面を見やれば、通話時間、三十二秒とだけ書いてあった。
 もし俺に他に用事があったらどうするつもりだったのだろう。いや、これから帰るとこ、と言ったのだった。ああ言ってしまえば、そりゃあ迎えに来るに決まっている。
 ……治の言うとおり、あいつはずっとヨリを戻したいと思っていて、今朝口説かれたように「俺が欲しい」というのが本心であるのなら。
 とはいえ、だ。あまりにも急すぎやしないか。ショートメッセージで前もって伝えてくれれば良いものを。いくらため息を吐いても吐き終わらない。
 仕方なしに、朝、車を寄せてもらった乗降口へと足を向けた。別に屋根の下を通っていくこともできる。だが、折角傘を広げたのだ。折りたたみ傘にしては、大きく、骨も立派な傘。差したからには、ちょっとくらい使いたい。
 ひたひた、ぴちゃぴちゃ、雨水を撥ねながら言われた場所へと向かっていく。大きく一般乗降口、タクシー乗り口とそれぞれ看板が立っているからわかりやすい。
 しとしとぴっちゃん、しとぴっちゃん。頭の中で、どこかで聞いたメロディーを流しながら進んでいく。と、遠くから見覚えのある黒いボディが見えてきた。五分もかからないとは言っていたが、あまりに早すぎやしないか。法定速度は守っているのだろうか。
 小言を浮かべながら、足を急がせた。
 ようやく乗降口に辿り着いたと思えば、車内の侑は助手席を指さす。そういえば、朝もそうだった、後ろにはいろいろ積んでいるので、と。
「すまん、ありがとう」
「いいえ~」
「で」
「はい?」
「駅まで送ってくれるん?」
「まさか」
 傘の水気を払ってから乗り込み、きちきちと畳みながら尋ねると、あっけらかんと返ってくる。俺は、帰りたいんやけど。そんな視線を向けようとも我関せず。俺がシートベルトを止めようと腕を伸ばしたところで、早くも車を発進させた。
「もっかい、俺ん家、来てください」
 プラス、にっこり。
 今すぐこの車から飛び降りたろか。
 さっと不穏な思考が脳裏を掠めるが、そんな真似をして、こいつの免許に無駄な点数をつけさせたくはない。
「なんやねん、今朝から……」
「だから、もっかいやりなおしましょ、て言うたやないですか」
「断ったやろ」
「ソレをお断りします」
「おい。つか、パリも、そのあとも見とるから、てので納得したんちゃうの」
「いや~、危うく騙されるとこでしたわ」
「誰が誰を騙したて?」
 そんなつもりは微塵もない。隣にいてほしいと言われたが、現実的な問題として無理だと突き付けたまでだ。俺にできるのは、録画だったり、時間に都合がつくならリーグの試合を見にいったりする程度。それしかやりようがない。そういう意図で伝えて、お前も喜んでいただろうが。
 ぎちっと眉間に皺を寄せて運転席を睨んでみるものの、侑は俺を一瞥しただけで正面を向いてしまう。運転をしているのだ、前を向くのは当然かもしれないが、釈然としない。
 どうして朝に続いて、夕方までこいつに拉致されなければならないのか。そもそも、なぜ、俺の用事が終わるタイミングを知っている。
 ……ああ、そうだ、治か。あいつがいたんだった。あいつがリークしたに違いない。今度納品しに行くとき、文句の一つでも言ってやらねば。
「それに、朝の続きもせんと」
「続き?」
「北さんしかイッてへんやん」
「それはお前が不能やったから、」
「不能ちゃいますって! たまたま! 今はもうバキバキなります!」
「……なあ、これ俗にいう、ヤリモクてやつなんちゃう?」
「ブフェッ!?」
「セフレやったら、もっと上等なのがいくらでも……」
「セッ、セッ、あんたをセフレにするわけないやろ!?」
「けど、今付き合うてないやん。そんでヤッたら、セフレて言うんちゃう?」
 よりにもよって、なぜ自分なのだ。もう別れた身分だろう。なのにお前に固執される意味がわからない。ここしばらく、音信不通だった男だぞ。いくら片割れに「未練がある」と仄めかされても、そう簡単に信じられるわけがない。
 もとい。こんなに上手く話が進むはずがない。どこかに落とし穴があるはずなのだ。なんたって、俺の我儘で別れた仲なのだから。これで、無事に元サヤになって大団円? そんな上手い話があるものか。世界は誰にでも平等だ。我儘を言ったのなら、言った分、自分に返ってくる。そう簡単に、幸せはつかめるものではない。
 だからこそ、少なくとも自分が心地いいと思う、反復・継続・丁寧を続けているのみ。これからだって、農業従事者の一人としてそれを続けていく。こいつと、交わることは、ない。
 ない、はずだったんだ。
「泊まってってください」
「嫌や」
「車乗った時点で俺ん家行きは確定です」
「それでも帰る」
「そう簡単に帰すと思います?」
「帰してくれるやろ」
「何を根拠に」
 そんなの、決まっている。す、と横目で侑を見やった。
「お前、俺には甘いやろ?」
「っ」
「せやから、あの日も」
「あの日はッ」
 お前は、俺の我儘を聞いてくれただろう? そう続けようと思ったところで、侑の声が荒くなった。ハンドルを握る手にも、力が入っている。
 すぐにこれではいけないと気付いたのだろう。三秒かけて息を吸って、同じく三秒かけて息を吐いた侑は、力んだ肩をすとんと落とした。
 雨粒が降り注ぐフロントガラスの向こうを見つめながら、もう一度深呼吸。しっかりと自分を落ち着かせたところで、静かに口を開いた。
「あの日のことは、今でも、後悔しとるんです」
「後悔?」
「なんで、手放したんやろって。あのあと、俺散々荒れたんすよ。夢見もめっちゃ悪いし、北さんこと引き摺って調子落とすし。代表戦はもうグッダグダ。こんなんあかーん、思って、Vでは持ち直しましたけど、」
 ほう、と、侑は丸く息を吐いた。暖かい車内では、その息が白く曇ることもない。そもそも、三月も半ばになれば、息が白くなることも珍しいのだが。今日は雨降りで冷えたから、吐息は白っぽく濁っていたな。
「もう、俺も我慢の限界です」
「……」
「北さんが、欲しい」
「俺は物ちゃうで」
「それ、今朝も聞きました」
 侑の運転は、晴れていても、雨が降っていても、滑らかだ。引っかかることなく、静かに発進し、緩やかに停車する。速度はほどほど、周囲の車に合わせて適度な速度を保っている。あまりにの穏やかさに、眠気が襲ってくるほど。トス、以外にも、丁寧にできること、あったんやな。
 半ば失礼なコトを考えているうちに、瞼がとろんと落ちていく。
「なあ、今日、帰したくない」
「んな常套句に屈するように見えるか?」
「俺が言うのなら、屈してくれると思ってます」
 このまま寝入ったら、間違いなく侑のマンションで目覚めることになってしまう。まあ、寝入らなくても行先は変わらないか。もしかすると、朝のように強引に抱きかかえて部屋まで連れていかれるかもしれない。それはそれで面白いかもな。がっちりとしたパワーがあるわけでもないのに、成人男性をどうにかこうにか運んでいく現役プロスポーツ選手。笑える。
「ね?」
 縋るような声に、しゃーないなあ、と答えてしまったのは、俺のほうが、甘い証拠なのかもしれない。

◇◆◇◆

 治が言ったとおり、侑は確かに栄養バランスの取れた食事を摂っていた。きちんと自炊して、作り置きもあって、肉も魚も野菜も、適量を摂取している。しかも、あまりにも手際よく作るものだから、手伝う間もなかった。せいぜいやったことと言えば、盛り付けと、テーブルに運ぶだけ。たった、それだけ。
 食い終われば、早々に風呂を勧められた。食後すぐに入るのはいかがなものか、せめて片付けをさせてからにしてほしい。そんなことを言って、一緒に皿洗い。嘗て住んでいた家と違って、とてもゆったりとしたキッチンは、男二人が並んで立っても狭くは感じなかった。
 そんなこんなで、ちゃぽんと、湯船に浸かっている。脚を伸ばしても余裕があるバスタブ。掃除は綺麗に行き届いていて、水回り独特の汚れは見られなかった。
 ちゃんと、掃除してるんやなあ。洗濯物も、干しっぱなしの積み上げっぱなし、なんてことにはなっていなかったし、靴も揃えていたし、料理もできるとなったら文句なし。引く手数多なことだろう。
 それでもあいつは、俺が、良いと、言う。
 バスタブの縁に頭を預けながら、ぼんやりとあいつの部屋を思い浮かべる。間取りが違うのは当然として、家具はすべて、見たことのないものに変わっていた。座卓は足の高いテーブルになっていたし、棚は三段ボックスではなくスチールラックに。ローテーブルはあったけれど、あれはソファとセットになっているものだから、嘗て使っていたのとは別物と考えるのが良さそうだ。ちなみに、寝室は別。と、なると、ベッドも相当良いものに買い替えたのだろう。……嘗て、あいつが住んでいて、俺がよく通っていたアパートとは、すっかり異なる空間。どうも、落ち着かない。
 本当にあいつは、俺に未練があるのだろうか。単に都合の良い相手の一人のストックなのではないか。ここまでもてなされてなお、疑ってしまう自分は、非常にネガティブなのだろう。
「するんかな……」
 ぽつりと呟いた言葉は、瞬く間に換気扇に吸われていく。それを期待しているのは間違いないから、一応処理はしておいた。男としてどうなんだ、という話だが、この手の処理にはすっかり慣れてしまった。自慰をするたびに行っているからなのだが、その自慰歴の長さを思い知らされる。
「するん、かな」
 もう一度、同じ言葉を舌に乗せる。朝は混乱気味の中、乱されたから別として、今度は同意のうえで抱かれることとなる。そのとき、自分はどんな反応をするのだろう。抵抗する? それとも大人しく受け止める? はしたなく、あんあんひんひん喘いでしまうかも。……もう、自分の家に帰りたくないと、思うくらいに。
 いや、流石にそこまで心変わりすることはない、はず。ないと思いたい。
「うー……」
 あれこれと考えていたら、頭がぼーっとしてきた。長湯しすぎたかもしれない。これからあいつも入るのだし、そろそろ上がらなくては。
 よた、と浴槽から体を持ち上げると、赤く火照った全身を見下ろすことができた。くったりと垂れている自身は、もうじきあいつの手で苛め抜かれる。両胸に乗った二つの突起も、散々なくらい吸われることだろう。そして、尻たぶの奥にある後孔は。
 考えるだけで、じんっと体の芯が痺れた。今からこれでどうする。浅ましいにも程がある。あえてぬるめのシャワーを浴びて、ふんわりとしたバスタオルを被った。……変わらないのは、このタオルの柔らかさだけ、か。ほう、とため息を吐きながら風呂場を出た。
 当然のように、脱衣所にはあいつのスエットが置いてある。ここで自分の服を着て出たら、散々に喚き散らすのだろうな。新品と思しき下着を身につけ、もそもそと用意された衣服を着こんでいく。たったそれだけで、体格差が露わになってしまうのだから、堪ったもんじゃない。
 長すぎる袖を捲りながら、それとなく口元に近づければ、知らない柔軟剤の匂いがした。やはり、変わらないのは、バスタオルの柔らかさ、だけ。
 もう一度ため息を吐いてから、恐る恐る、脱衣所の引き戸を開けた。
「風呂、ありがとう」
「いーえ、どーでした、うちの風呂!」
「めっちゃ広いな」
「二人でも入れるんすよ」
「……ふぅん、誰かと入ったことあるん?」
「……世帯用、て、契約するとき言われたんで」
「ああ」
 そういうこと。女を連れ込んで、風呂場でやり散らかしたわけではないのか。
 ……と、素直に受け止めることはできない。今の間は、明らかに二人で入ったことがある、という反応だ。そりゃそうか、引く手数多。そう思ったばかりなのだから、この家に女を連れ込んだことだって、あるに決まっている。
 ソファに腰掛けている侑は、にこにこを通り越した、でれでれの笑みを浮かべている。そんなに俺がいるのが嬉しいのか。勘違い、しそうになる。それとも勘違いではない? 勘ぐってしまって、もう脳みその糖分が尽きそうだ。
 今日だけで何度目かとなるため息を吐き出して、すとん、と侑の隣に腰掛けた。ぴったりとくっついてはやらない。適度な間を空けて、座る。
 横目で見たソイツは、すっかり鼻の下を伸ばしていた。この野郎。
「で、不能は治ったん?」
「ゲッホ」
 そこでまずは軽いジャブを一発。朝から気にしていたし、車の中でもギャンギャンと喚いていた話題だ。本当に不能になっていたとしたら、当然治っているわけがない。そうだったら、抱かれずに済むのだが、果たしてどうだろう。
 ちょうど水を飲むタイミングで言ってしまったのもあって、侑はげほごほとひたすらに噎せている。せめて、飲み下したところで言ってやれば良かったろうか。爪の甘皮ほどの申し訳なさを携えながら背中を擦ってやれば、ぜいぜいとした呼吸が緩やかに落ち着いてきた。
 そして、咳も完全に止まったところで、ぎゅるんと侑の首がこちらを向く。目玉を引ん剥いて、顔をカッと赤く染めていた。
「ハッ!?」
「そういうことやろ、帰したくないて」
「ヴッまあ、う゛んん……」
 否定はしない。が、肯定とも言いがたい。こいつなりに、考えがあったのだろうか。セックスするのは、きちんと口説き落としてから、とか。
 もしそう考えているのなら、今日は抱かれずに済むのかもしれない。なんせ、俺がこいつの告白に「うん」と頷くことはないのだから。
 愕然とした顔を真っ向から見つめていれば、徐々にその顔付きが萎れていく。表情筋の豊かなこと。そりゃあ、チーム一の弄られキャラになるわ。ファン感での滑り芸は、もはや鉄板になりつつある。
 目線を逸らされてなお、じぃと見つめていれば、ようやく侑は口を開いた。
「だって、その、まだ北さんから、「ええよ、付き合お」て言うてもろてないですしぃ」
「……ソレ、言う必要ある?」
「ってことは!」
「セフレでもええやん」
「ぶェッヘェ!?」
「うわきったな」
 どうしてお前はこう水を飲んだタイミングで俺の台詞を聞くのだ。一度そのペットボトルの蓋を閉めろ。そう言いたくなってくる。
 呆れながら台所に布巾を取りに行くと、ぐずぐずと侑は袖口で口を拭っていた。コラ、ティッシュ使わんかい。すぐそこにある箱はなんのためのものなん。
 さらに呆れを重ねた状態でソファまで戻ってくると、ぬ、と侑の腕が伸びてきた。上を向いた手のひらに布巾を乗せると、濡れたローテーブルを拭いだす。
「あのですね」
「おう」
「大事なことだと、思うんですよお」
「そんなん言うても、元サヤとか無理やん」
「ンなこと、」
「何遍も言うたけど」
 テーブルを拭き終わった侑は、どこか怯えた様子で俺のことを窺ってくる。根本は、学生時代と変わらないな。繰り返し俺に諭されると、とにかく怯える。何を言われるか、想像できないまま身構える。ほんの少し、懐かしさが過った。
 そこまで身構えなくても良いというのに。言葉にしたとおり、何度もこいつには伝えてきた内容だ。
「もう、お前のしんどいとこ見んの、嫌やねん」
 もし血を吐いたとしても、地獄を駆け抜けることになったとしても、その先で報われる可能性があるのなら、隣にいられたかもしれない。だが、あまりにも報われるまでが長かった。し、いちばんを臨むこいつは、まだまだ茨の道を駆け続ける。
 その過程を「悪」だとは思わない。こいつにとって、必要なものであるのなら、「正しい」選択なのだろう。
 ただ一点。こいつを愛してしまった自分が、その過程を受け止めがたくなってしまった。それこそが、まずかったのだ。
「これだけは、譲れへん」
 侑の隣を拒む理由のいちばんはそれ。次点は、農業を続けたいから。なんにせよ、侑の希望を飲むことは、できない。
 はっきりと言い放てば、もにょ、と侑の唇が波打った。にやけたわけじゃない。何かを言おうとして、考えているときの、癖。もごもごと舌を動かしているうちに、勝手に唇も動いてしまうのだろう。それらしい言葉が見つかれば、するすると喋り出す。わかっているからこそ、何かを畳み掛けることなく侑の言葉を待った。
「その、知ってると思いますけど」
「ん」
「俺、今期主将なんです、代表の」
「……うん」
「そら、しんどいこともありますよ。でも、あんたがいてくれるんなら俺は」
「乗り切れる、て? 俺がどんな思いで待ってるかも知らんくせに」
「知りません。たぶん、一生わからんと思う。でも、俺が隣にいてほしいのは、帰ってくる場所にいてほしいのは、やっぱり北さんなんです」
「平行線や、もうやめよ、この話」
「いやや」
「侑、」
「俺は、あんたが欲しい」
「……」
「それこそ何遍でも言いますよ。あんたが、欲しい」
 欲しくて、堪らない。
 ……久々に、真摯な侑の目を見た気がする。
「あんたの全部、ください」
 これに同意しない限り、こいつは俺に手を出しては来ないのだろう。カッとなって突っ走ってしまった今朝はお互いノーカンとして。共に過ごすのも、おかえりという関係になるのも、セックスを、するのも。
 全部、俺の「良し」を待っている。
 十年前と比べたら、雲泥の差だ。あの頃は、欲しいものすべてに手を出していたっけ。手に入るまで徹底して駄々を捏ねて、やだやだと幼子のように地団駄を踏んで、周りが折れるのを待つ。
 ただ、バレーにだけは丁寧に向き合っていて、セッターとしての矜持は賛美できるものであった。
 俺の、全部を、侑に。
 捧げたところで、何ができる? 何が、変わる?
「……その代償に、地獄に落ちろはどうかと思うで」
 侑が大人になったように、俺も大人になってしまった。真正面からの正しさと美しさだけでなく、打算と狡猾さを覚えてしまったのだ。
 確かに侑に尽くせたら、美談になるだろう。でも、そこで苦しむのは自分。縛られるのも、自分。やろうと決めたことを、投げ出さなくてはならなくなるのも、自分。
 地獄へは、まだ、行けない。
「帰るわ」
 気付くと、口を開いていた。
「え、うそ、待って」
「帰る」
「どうやって!」
「終電、まだあるやろ」
「そらそうですけど」
「帰る」
「北さん!」
 もう、侑と目を合わせていられなかった。お前のように、俺はもう真っ直ぐ生きられない。「ちゃんと」と名付けた米の育て親が「ちゃんと」してないとは、これは笑えない。
 ひたひたと、裸足のまま脱衣所に向かった。脱いでカゴにいれた衣服をくるくると纏める。それから鞄に強引に突っ込んだ。
 ふと、肩越しに振り返れば、言葉を失った侑が、ぼんやりと立っていた。それ以上、動けないのだろう。
「侑」
 静かに名前を呼んだ途端、広い肩が大きく揺れる。そんなに萎縮しなくていいのに。俺は、ほんの繋ぎだ。お前のことを、ちゃんと支えてくれる人が現れるまでの、繋ぎに過ぎない。
 だから、もう、俺に固執せんで、ええよ。
「すまん、俺の、我儘や」
 服はあとで洗って返すな。たぶん、治経由になると思う。それだけは堪忍。事務的な言葉を紡いで、居心地の悪い部屋を後にする。見えてきた玄関は、今朝の痴態を彷彿とさせるが、不思議と心は凪いでいた。改めて、侑に宣言できたからかもしれない。
 俺は、お前と一緒にはいられない、と。

◇◆◇◆

 だぼだぼのスエットに、三月の夜風は身に染みる。ぶるっと、震えて、駅までの道を急いだ。
 終電なんて言葉も出たが、それほど遅くない時間。淡々と乗り継ぐことができ、二十三時には実家に辿り着いていた。同じく帰りの遅い両親に迎えられ、泊っていくかと尋ねられる。それも良いかと思った。体も、冷えていたし。
 けれど、家族に、特にばあちゃんには、今の顔を見られたくなくて、嬉しいけど、ありがたいけど、明日早いからと存在しない理由をつけて、軽トラに乗り込んだ。
 そこからとろとろと約一時間。日付が超える寸前に、今の我が家に辿り着いた。辺りは真っ暗。当然、電灯なんて、家の近くにはない。すごく遠くに、ぼんやりとした光が見える程度。せめて、晴れていればな。月や星が見えるのだけれど。玄関を潜る前に見上げた空は、分厚い雲に包まれていた。雨が降っていないだけ、まだマシか。
 古めかしい鍵を使って、玄関の引き戸を開ける。ガラガラと、やたらと大げさな音が鳴った。どうやったって静かに開かない扉が、今は酷く心を落ち着かせてくれる。
 重たい体を引きずって、まずは居間へ。ストーブをつけようかとも思うが、まあ、こたつで良いかと電気こたつのスイッチを入れた。
 低い、そのテーブルは、夏場は座卓として使っている。洋服ダンスもあるのだけれど、それは別の部屋に置いていて、居間には三段ボックス三つを棚として使っていた。板の間に敷いたこたつ敷きにぽんぽんと置いた長座布団。日当たりのいい窓辺のほうには、物干し竿をつるしてある。
 この家に、住まわせてもらうことになったとき、なんの迷いもなく、この間取りにした。嘗て、あいつと過ごしたアパートと、同じ間取りに、したのだ。
 本当に、未練を捨てられない。あいつはとっくに前に進んでいるのに。自分は、傷つかないところに引き籠っている。そしていざ、手を差し伸べられたら、逃げるときた。どうしようもない。
 すっかり湯冷めした体は、どこを触っても冷たくなっている。布団を、敷かなくては。寝床は、隣の畳の部屋だ。でも、なんだか今日は面倒。このまま、こたつで寝てしまおうか。風邪を引いてしまいそうだけど、もう、疲れた。疲れたんだ。
 本当に、今日は散々な日だった。厄日だった。折角、あいつのことを遠い思い出へと薄めてきたのに、すっかり鮮明になってしまったじゃないか。
 深く、ため息をついて、こたつテーブルに突っ伏した。
 その腕から香る、柔軟剤の匂いに、反吐が出そうだった。