四
「あほなん?」
ようやく目を覚ましたその人は、真っ赤に腫らした目と、すっかり嗄れ切った声を携えて、そう口火を切った。
「第一声それ?」
茶化すように返してみるも、その人の冷淡な目つきは変わらない。文句、あるか。二つある目が、それぞれ単語を浮かべていた。
そんなそんな、文句なんて。まったくこれっぽっちもございません。北さんかって、ぐだぐだのどろどろに感じて善がり狂ってたやん、最後のほう、記憶ないでしょ、あんた潮噴きまくったあと小便まで漏らしたんですよ、なんてね、とてもとても言うつもりはありません。たとえ、言ったところで、信じてはもらえないだろうし。脚色すんな、そこまで狂うほど落ちぶれてはない、なんて、強かな言葉すら返ってきそう。
でも、それは本当のこと。
「他になんて言えと」
「んん、オハヨウとか」
「今何時やねん……」
「えーと、……一時すね、夜の」
「夜中にオハヨウ言うシュミはない」
「えぇ、けど起きたときの挨拶はオハヨウやん」
「どう考えても遅い時間やろ、なんでお早うやねん」
ぐったりとベッドに体を沈めながら、起伏の薄い声でその人は喋る。元から淡々と喋るほうではあるが、淡々というより棒読みと言ったほうがそれらしい。感情を、込めることすら億劫。そんな様子。
まあ、あんな、ファンタジックというか、AVを彷彿とさせる達し方をしたら、そうなるか。実は夢なのではと、疑いそうになるくらい、激しかったし、卑猥だった。
本当に、すごかった。
ぐったりとベッドに投げ出された体の、二つの手をまとめて握った。
この人が気を失っている間に、こっそりと整えさせてもらった、手。さすがに深爪はどうにもできなかったけれど、痛々しいささくれだとか、捲れた甘皮の処理はした。爪の周りが落ち着いたところで、使い慣れたハンドクリームも塗り込んだため、今やこの人の手はふっくらと柔らかい。ぴかぴかの手。やはり、手はこうじゃないと。粉を吹くほどの乾燥なんて、もってのほか。
滑らかな感触を確かめながら、指一本動かすのすら億劫そうなその人を見つめた。
……俺の服に身を包んだ、その人。いくらか自分よりも小さいな、とは思っていたが、こうして服を着せると体格の違いがよくわかる。バレーを離れて、筋肉が落ちて、その分、ぺらっと薄くなった体。さっき、風呂場で胴を支えた感触がよみがえる。まあ薄かったし、軽かった。自分の筋力が増したのを抜きにしても、こんなに小さかったろうかと思ってしまう。
手はすっぽりと覆えるし、バスタオルで体を拭いてやっているときは、足も小さいなと思った。
もちろん、あくまで自分と比べたら、だ。一般的な成人男性として見れば、この人は決して小柄じゃあない。むしろ、いくらか大きいほうに分類されるのではないだろうか。精神的なたくましさもあって、小さいと思われること自体、ほとんどないのかもしれない。
そんな人に「小さいな」と思ってしまうなんて。
いや、こっちが「大人になったな」のほうが、しっくりくるかも。
今の自分にとっては、愛おしいばかりの人。凛とした視線で背筋が伸びることはあっても、その目に畏怖を覚えることはない。どころか、もっと見てて、と胸を張りたくなるくらい。四半世紀を過ぎ、三十路は目前。大人になったもんだ。
まあ、本当の、この世界のこの人も、もっとずっと大人なのだけれど。
あの人は今、どこで、何をしているのだろう。
年を追うごとに輪郭は研ぎ澄まされて、涼やかな色気を放つようになった、あの人。女とすれ違うたびに、ほう、と見惚れられるというのも少なくなかった。学生の頃は、俺のほうがきゃーきゃー言われてたのに。む、と口を尖らせた俺のこと、あの人はからからと笑い飛ばしたっけ。
『こんなんなったの、ほとんどお前のせいやで』
恥ずかしげもなく、あの人はそう言った。俺に、体を作り替えられた、と。それを悔いるわけでも、恥じるわけでもなく、ただ許容して隣にいてくれた、あの頃。
会いたいなあ、今、どうしてるんやろ。
どこで働いてんのかな、どんな街に住んでんのかな。友達は、恋人は、できたろうか。その隣は、もう、誰かのものになってしまっているのか、まだ、空いているのか。本当にあの人は、自分のことに無頓着だから、誰か良い人、見つけているといい。きっちりかっちり、反復・継続・丁寧を貫いているせいで、案外知られていないけれど、意外とズボラなとこ、あるでしょ、あんた。
ああ、久々にあの人のことを考えている。別れたあの日の夢を見てから、突然現れた若いこの人の体に触れてから、脳内は「北信介」でいっぱいだ。
ぎゅう、う、と。二つの手を、握りしめた。
「なあ」
「ん?」
相変わらず、その人の声は掠れている。正直、聞いているだけで、痛痛しく思えてくるほど。無理して喋らなくても良い。辛いというなら、もう手は出さないから。傍にいてくれるだけで、そこに体を横たえてくれているだけで良い。
俺、なんだってしますよ。甘やかせというなら、これでもかと甘やかしますんで。こう見えて、それなりに飯は作れるんですよ。朝飯、食ったならもうご存知かもしれませんけど。
ベーコンを敷いた目玉焼きに、九割九分キャベツで構成されたコールスロー。冷蔵庫に入れていったその二品は、炊飯器に残しておいた約一膳分の白米と共に姿を消していた。気付いたのは、この人をベッドにつれてきてから。一応風呂上がりということもあって、冷たい水を飲みたくなり、冷蔵庫を開けたところで気付いた。
……部屋のあちこちを掃除してくれたのは、あの簡単な朝飯の御礼だったりして。そんなわけないか、むしろあの飯は、散々な無体を働いた詫びでもあるのだから。
さ、どうします。すっかり夜更けですけど、なんでもいうこと、聞きますよ。
小首を傾げて見せれば、掴んでいた手が、もそりと動いた。緩く曲がっていた指先が、ぴんと伸びる。その手を支えにして、北さんはどうにか上体を起こした。しかし、上手く力が入らないのだろう。突っ張る腕が、ぷるぷると震える。もお、寝てたっていいのに。
そっと体を寄せて、起き上がったその人の腰に腕を回した。距離が、近付く。縮まる。ふわりと鼻孔を掠める匂いに、くらり、頭が揺れた。だって、その人自身の匂いに、自分が好んで使っているシャンプーや石鹸の香りが混ざっているのだ。
まるで、付き合っているみたい。
いや、この人の恋人はミヤアツムだから、付き合ってると言えば付き合っているのだが。……本当に、思考が甘ったれている。あの人に会いたくて、仕方がない。
やっとの思いで腰を落ち着けたその人は、ふ、顔を上げた。大きな瞳をかたどる睫毛も上を向く。愛おしい瞳に、俺の顔が映り込んだ。
「さっきは、聞いたとこで、何にもならんて、言うたけど」
「うん?」
「……なんで別れたん」
「ふふ、聞きたい?」
「ん、気になる」
あれ、そこは「別に」と答えるところではないのか。まさか興味を持ってくれるとは。素直に頷いて見せたその人の視線が、とすり、真っ直ぐに俺を射抜いてくる。
その直向きさ、懐かしいわ。
昔は恐ろしくて、でも、付き合い始めたら心地よくなって、今じゃ恋しくてたまらない視線。ちりちりと、胸の奥が焦げていく。堪らず、その体を押し倒したくなってきた。もう手は出さないから、と思ったのは、ほんのついさっきのことだというのに。
爛れている。もう終わったのだから。戻れないのだから。心が手に入らないのなら、身体だけでも。こんなところまで、大人にはなりたくなかったな。
自嘲して笑えば、きゅ、とその人の眉間に皺が寄った。
「お前、まだ俺のこと好きなんやろ」
「……ええ、そりゃあもう」
「ならなんで」
「なんで?」
「なんで、別れたん。……そんな、俺に、不満とか、」
「ふ、そんなんありませんよ」
あるわけがない。あんたに不満なんて。そりゃあお互いただの人間で、聖人君主ではないから、喧嘩をすることだってあった。一日どころか一週間、一か月と口をきかなかったこともある。けれど、それは別れるきっかけにはならなかった。お互いの譲れないものを知れたということで、結局は和解したし。それについて、ぐだぐだと文句を吹っかけられることもなければ、こっちから蒸し返すこともなく。喧嘩も一種のコミュニケーション。破局への決定打には、ならなかった。
じゃあなにが決め手だったのだろう。……コレ、というものがあったわけではないのだと思う。おそらく、積もる思いがあったのだろう。一つ、二つと積み重なっていき、途中で発散することもできず、溜め込んで。
ハッとしたときにはもう手遅れ。
あの人は、その苦しさ故、俺の隣から離れることを、選んだのだ。
「……俺ね、フラれたんですよ」
「は」
「あんたに」
「嘘や」
「ほんまに。つか、え? 北さん、俺からフッたと思てたんですか?」
そんなこと、あるわけないやん。天地がひっくり返ってもありえない。俺、「好き!」て思ったら、とことん好きで居続けるような男なんですよ。意外、ては思いませんよね。俺がどれだけバレーのこと好きか、あんたは知ってるでしょ。あんたはね、その、俺にとってのバレーボールと、限りなく等しいとこまでやってきた、唯一の人なんです。そんなん、嫌いになるわけないやん。
まあ、あの人も、俺を嫌いになって、別れを申し出たわけではなかったが。
好きだからこそ、別れたい。
かっこいいトコだけ見せてやれていたのなら、あんなこと、言われずに済んだのだろうか。いや、そうやって意地を張っていたら、もっと早くに、その時が来てしまっていたかもしれない。俺、信用ないんか、とか、そんなことを言って、別れを切り出すあの人。悔しいが、目に浮かぶ。
感慨に耽っていれば、は、と、愕然とした吐息が聞こえてきた。こちらを見上げているその人の口が、はく、と開いたまま凍り付く。顔いっぱいに「信じられない」と浮かでいる。細やかな表情の変化ではあるが、俺には手に取るようにわかった。……わかって、しまった。まだ、この人の顔立ちを、表情の癖を、よく覚えている。忘れたくても、忘れられない。
「俺から?」
「はい」
「そんなん、」
ありえへん。顔だけでは飽き足らず、声にもその衝撃が滲んでいた。嬉しいわ、あんたに、そんなふうに思ってもらえていたなんて。
昔は、こんな情けないところを見せていたら、いつか愛想を尽かれるのでは、とひやひやして、逃げられないように必死だったというのに。独占欲を剥き出しにして、近付く輩をとにかく威嚇して。はは、なんや、そんなんする必要、なかったんか。
ちゃんと、この人は俺を好いていてくれる。それに、別れると言ってきたあのときも、あの人はちゃんと俺のことを好きでいてくれた。だからこそ、隣で苦しむ姿を、見ていられなくなったんだ。好きだから、辛い、別れたい。
瞼を閉じると、あの切なさであふれた顔が鮮やかに思い出される。どうせなら、色褪せてくれたら良かったのに。アルバムや卒業文集の一ページのように、思い出にしてしまえたのに。
渦巻く思いは、ぐずぐずと朽ちていきながらも、俺の腹の底に溜まって塊を作っている。
熟れたこの愛を、どうしてくれよう。
「なら、――慰めてくださいよ」
気付くと、浅ましくも情けない懇願が漏れていた。
「俺ね、もう、しんどい」
腰に回していた腕に、ぐ、力がこもる。ただでさえ近かった距離が、いっそう狭まった。呆けていたその人は、一拍遅れて状況を把握する。は、と目を見開いたときにはもう遅い。
半開きで固まっていた唇を、ひたり、重ね合わせた。
「んッ!?」
ちょうど口が開いているのを良いことに、舌も捻じ込んでナカを弄る。体重をかけながら、もっと深くと求めれば、いとも簡単に体を押し倒すことができてしまった。ぼす、とベッドに背中を預けたその人は、控えめながらに抵抗を示す。俺の胸を押して、退けようとしてくる。そうはさせるか、ぎゅ、ぎゅ、と押されるのに煽られて、ぐずぐずと口内を貪ってしまう。
結局、身体を求めてしまった。愛おしさの矛先を探すと、どうもセックスに行きついてしまう。こんなんじゃない、愛し方だって、覚えたはずなのに。あの人から、教わったはずなのに。
「ねえ、北さん、」
じゅぷ、と音を立てて離れると、鈍い色をした銀糸が互いの唇を繋いだ。とろっとした肌触りのそれは、たちまちに途切れて、仰向けになっているその人のほうへと吸い込まれる。追いかけて、もう一度、口付けを交わしたい。
行き場を失った愛を、受け取ってほしい。
ぐ、ともう一度、唇を寄せた。
「待、て」
しかし、その唇が、求めた柔らかさに辿り着くことはできない。ぺたり、と、俺のソレが阻まれる。その人の手の平に、邪魔をされた。
手、退けて。目線で投げかけてみるが、頑なにその手は動かない。キスができない。したいのに。この人に、もっと触れたいのに。行き場のない思いに苛まれて、肺が苦しくなってきた。
「あ、」
手の平の向こうで、その人は、喉を震わせる。
「甘える相手、間違うとるで」
「っ、」
「お前がこうしたいのは、」
皆まで言ってくれるな。その一心で、俺を堰き止めていた手を無理やり引きはがした。と、はく、その人は言葉を飲み込む。良かった、最後まで、言われずに済んで。
「知っとおよ」
「なら」
「でも、おねがいです、」
――甘えさせて。
そう伝えてから、胸焼けがするほどに優しく、かつ、一生の傷跡になるくらい酷く、その体を掻き抱いた。
◇◆◇◆
目が覚めると、ずきり、頭が痛んだ。どうにか瞼を持ち上げると、ぼんやりと暗い天井が目に入る。遮光カーテンを引いているおかげで、室内は薄暗く、何時であるか、検討を立てることはできない。
時計、時計。重たい腕をヘッドボードに伸ばし、それらしい塊を探した。と、目覚まし時計より先に、使い込んだ電子端末が先に指に当たる。まあ、これでもいいか。難をあげるとすれば、暗がりに突如ブルーライトが襲ってくるため、目玉がキンッと痛むことくらい。……くらい、というには、重々しいダメージだ。かといって、時計を探し直す気にもなれない。仕方なく、そのまま電子端末を引き寄せた。
ホールドを解除すると、顔面に青白い光が降ってくる。つい、目を細めてしまう。顔も顰められているかも。
画面に映った数字は、すべて四。なんて不吉な時間なんだ。とんだ時間に起きてしまったものだ。今日はオフだ、軽く体は動かしたいが、朝っぱらから走りに行く気にもどうもなれない。ふ、と画面の灯りを落として、のっそりと布団を被り直した。
すぅ、息を吸いこむと、ふわり、――あの人の匂いが鼻孔を掠めた。
「ッ」
たちまちにして、目が冴える。あんなにも重たかった瞼は、嘘のように軽々と持ち上がった。
跳ねるようにして、身体を起こす。ぼす、と、腕は自分の隣を叩いていた。……しかし、そこには人影はおろか、温もりも残っていない。
いない。あの人が。北さんが、居ない。
咄嗟にベッドから飛び出して、居間へと続く扉を開いた。やけに室内は片付いている。昨日、帰って来て目の当たりにしたのと、同じ光景。だが、あの人の影はどこにも見当たらなかった。なんで。疑問を胸に、足は台所へ、風呂へ、玄関へ。どこを覗いても、あの人はいない。
どこにも、いない。
は、か細く息を吐いて、よろめくように寝室に戻ってきた。何度見ても、そのベッドにあるのは自分一人分の痕跡だけ。
また、あの人は、俺の前から姿を消した。部屋を綺麗に片付けて、ふ、と、行方を晦ましてしまった。
「っあー……」
あれは一体、何だったのだろう。夢? 現実? さっぱり区別がつかない。ただ、ぼんやりと、あの人の匂いと、熱が頭にこびりついている。
まったく、引き摺るにもほどがある。あの人と別れて、もう何年経つ?
どっと体から力が抜け、膝が崩れた。冷たいフローリングに、へたり込んでしまう。つん、と、鼻の奥が痛んだ。
嫌な、嫌な、夢を見た。
長い悪夢から覚めたというに、世間はどんよりとした鈍色に包まれていた。おかしいな、俺の記憶違いでなければ、この世界もっと明るかったように思うのだけれど。
はあと、吐き出した息は、もう白くは濁らない。冬も終わりが近付いてきている。暦の上では既に春。もう少しすれば、気候も暦に追いつくのだろう。
春ね。春。暖かい季節。冷えを気にしなくていい季節。多少、花粉だ埃だ嫌なものはあるが、冬場の冷えや乾燥に比べたらなんてことはない。良い季節がやってくる。
……そう、前を向こうにも、色味を失った世界じゃ、上手く進める気がしない。
信号待ちをしながら、もう一度、ため息を吐き出した。あわせて、前髪を掻き上げるようにして空を見上げる。ちゃんと、青い。雲は白いし、ビル群は青空を反射して艶のあるブルーに染まっている。鮮やかな世界だと、認識はできる。
なのに、どれもこれ濁って見える。まったく気分があがらない。せめて、フラットな状態になってくれればいいのだが、悪夢に引きずられた精神は、どん底を彷徨うばかり。
あかん、これじゃあ飛雄君に抜かれてまう。
それだけは、なんとしてでも避けたいところ。日の丸を背負う正セッターで在り続けたい。そのまま、パリを迎えたい。そこで意地でも成果を残して、胸を張って、誇りに思ってもらえるようなプレーヤーになって。
そしたら、きっとあの人も。
――苦しいなんて、言わないでくれる、はず。
(なんやけど、なあ)
がっくりと、きた。上手く体に力が入らない。このまま練習に行って、自分は大丈夫なのだろうか。具合が悪いなら帰れと言われる気がしてならない。やらなあかんのに、あんな幻想に惑わされるなんて。……その幻想にすら、縋りたいと思うくらいに、自分は追い詰められたいたのだが。まさかこんな形で知ることになるなんて。
頭が痛くなってくる。
睨むように正面の信号を見やれば、ちょうど、赤から青に切り替わったところだった。反対側の歩道に立っていたスーツの男が、制服姿の高校生が、ハーフパンツに腕まくりという装いの小学生が、こちらに向かって歩き出す。自分も立ち止まったままではいられない。ぐらり、よろめくようにして一歩を踏み出した。
白線とアスファルトが交互に並ぶ。白・黒、と交互に踏みしめるには、自分の脚は長すぎる。かといって、白・白、と続けて踏んでいっても微妙に違和感。どう歩いても、この歩幅は横断歩道とは噛み合わないらしい。小学生のころの自分ルール上なら、何回、鮫に食い殺されていることだろう。いっそのこと、食われてしまってもいいのかも。こんな、へたれたポンコツ、存在していたって、意味が。
「……、」
道路を渡り切る手前、あと二歩か三歩で点字ブロックに行きつく辺り。
ふと、脚が止まった。体が向き直る。腕が伸びる。視線が、一点を見つめる。
衝動に駆られるままに、――その男の腕を掴んだ。
「っ!」
ぴくん、無駄な肉のない肩が上下した。同時に、男がこちらを振り返る。
淡い色素の襟足が、さらり、揺れた。
「あ、……つむ?」
なぜここに。
はく、と薄い唇が空気を食べた。その唇は、随分と乾いている。そういえば、おもむろに掴んだ手を見やれば、はっきりとわかるくらいに粉を吹いていた。しかも深爪、爪の白いところが見えないくらい。おかげで指先には小さなささくれがいくつもできていた。皸こそしていないが、もっと寒い時期には、ひび割れができていてもおかしくなさそうな、手。
相変わらずの、無頓着。なんだ、俺のために切りそろえていたわけじゃなかったのか。
ふ、一つ、吐息だけで笑うと、信号の点滅する音がした。ハッと、その人の顔が俺きたほうを向く。待って、手首を掴む手に、力が入る。
言いたいことが、次から次へと溢れてきて、どこから話したものか。
ほう、とその人に見入っていると、ほんのりと困惑を浮かべたその人が、来た道を引き返した。二歩、三歩、歩いたところで歩道に辿り着く。俺にとっては進行方向。この人にとっては、帰る道。
ここで手を離したら、二度と、掴めないような気がした。
今の俺のこと、あんたは、どう思ってる? 自慢できる後輩、て思ってくれてる? やっと掴んだのが六位入賞じゃ、到底自慢などしてはくれないか。もう苦しくない、て思ってもらうには、そんな成績じゃ不十分。もっと、上を目指さないと。
懇願にもとれる質問をするには、まだ早い。時期尚早。そう思うのに、気が急いてしまう。今、言わないと後悔する。確証のない自信が、胸の中を渦巻く。
と、その人の唇が動いた。何を言う。何を言われる。手を、離せ、とか。嫌だ。離したくない。ここにいてほしい。隣にいてほしい。
もう、どこにも行かないでほしい。
――気付くと、その唇を奪っていた。
「あんな、北さん、おねがいがあるんです」
口付けたばかりの唇から、やけに甘ったるい声が出る。蕩けたチョコレートのように甘くて、熱くて、どこか情けのない声。そんな声をかけたからだろうか、その人の顔はぽっと色づいた。ああいや、コレは、その前にキスをしたからだろうか。
どちらにせよ、嫌がられてはいない。ああ、良かった。
安堵と共に、甘やかな声は零れだす。
「もういちど、やりなおしてみませんか」
これは、あの悪夢の続きなのだろうか。いや、きっとこれは、現実だ。紛れもない、現実。夢なんかじゃない。
だって、こんなにも格好がつかないんだから。現実に、決まっている。
ぼ、とさらに顔を赤くしたその人に、とろりと微笑んでから、もう一度唇を重ね合わせた。