北視点の後日談




 あの男と別れたのは、確か二十三歳のとき。エアコンがついていて、マグカップにコーヒーを煎れた覚えがあるから冬だったと思う。
 ……「確か」や「思う」という言葉を使うのは相応しくないな。二十三歳の、年末のことだ。何度も忘れようとしたが、忘れられなかった。目を閉じれば、今でもなお、如実にあの光景を思い浮かべることができる。
 なんて、未練がましいのだろう。自分でも呆れてしまう。

◇◆◇◆

 緊張で震える手を、マグカップで温めていた。そうしてやっと切り出した別れ話。
 本当は別れたくなどなかった。誰が好んであの男を手放すものか。血を吐いてでも走るのを止められない背中を、できる限り支えてやらなくては。
 そう、思っていたのに、この様だ。
 高校を卒業して、大学でプレーするという道を、あの男は選択しなかった。進んだのは、Vプレミアリーグ――今はV1と言われているが――の某チーム。古豪とも称されており、毎年必ずファイナルには残る。優勝するかどうかはまちまちだが、安定した強さを誇るチームだ。そこに、高校を卒業してすぐに、飛び込んだ。
 最初はなかなか試合に出られずに苦労していた。最初なんだから当然。周りには、あいつよりもずっと経験を積んできた手練れしかいない。そう簡単に、レギュラーの席を奪えるわけがなかった。
 とはいえ、あいつのことだ、さぞ慌てたことだろう。なんせ、学生時代は一年であってもレギュラーに入るのは当たり前。自分の暴走についてくるのは、自身の片割れがせいぜい、なんてプレーをしていたのだから。
 その結果、あの男は明らかなオーバーワークを重ね始めた。そばで見ていたから、これもよく覚えている。
 今の身体の状態でそんなに負荷をかけるべきではない。高校を卒業して、たった一年でするトレーニングとして本当に相応しいのか? 尋ねたこともあったが、他に手段がないと突っぱねられた。
 ……そうして、あいつはまず腰の肉離れを起こした。それだけで済めば良かったのだが、立て続けに足首を骨折。運の良いことに、選手生命に関わるような重大な怪我ではなかったものの、とにかく走り続けたいあいつには相当ストレスであったことは想像に容易い。
『ゆっくり治して、身体を作っていきましょう』
 これらの怪我は、まだ体が完成しきっていない時期に圧を掛けたというせい。だから、トレーニングの内容を見直しましょう。そんな意図を込められた医師の言葉は、あいつにとって屈辱でしかなかった。
 理由は簡単。一個下の、自分と同じポジションの選手が、高校生にして全日本代表に選出されたから。
 三月頃だったか、怪我をしてすぐのあいつは、その知らせと、そのセッターが自分同様に高卒Vリーガーとなることとを知って、愕然としていた。
『飛雄君はあんなに上に行っとるのに、俺は一体……』
 悲痛の呟きだって、昨日のことのように思い出せてしまう。
 今は身体治すのが先。怪我との付き合い方だって一つの経験。色んな経験値を重ねて、もっともっと高いところに行くんやろ。俺に自慢させてくれるんやろ。
 そう宥めすかして、どうにか付き合ってきた。
 どうにか、だ。
 いやはや、機械的ばかり言われる自分にも、真っ当な感性があったのだな。他人ごとのように自分を分析しているうちにも、押さえた腹にはあいつを想う苦痛が積もり重なっていく。
 あまりにも、報われない。神様とやらがいるのなら、そろそろ日を当ててくれたっていいだろうに。どうして。なぜ。こいつだけ。
 ……どれもこれも、恋人という色眼鏡で見た贔屓だ。日の目を浴びない選手なんて、他にもたくさんいる。高卒で、これだけ注目されているだけ、こいつは良いほう。大丈夫。ちゃんと、次の段階には進めるはず。
 これがもし、テレビ越しで知るとか、年に一回か二回かの同窓会で聞かされる程度なら、耐えられたのかもしれない。仮に今と同じ、恋人同士の関係であっても、遠くから「ちゃんとやれよ」と念じる程度で済んだのかも、しれない。だが、俺は隣にいた。隣で、そいつの姿を見ていた。
 隣で見続けるのは、もう、しんどい。
 そして、「その日」は訪れた。
「わかればなし」
 ぽつりと落とした単語に、間髪入れずに「いやだ」と返された。ちゃんと好きです、とも言われた。自分は何をやらかしたのか、駄目なところがあれば直します、とも。
 そういうことではないのだ。侑は何も悪くない。あくまで、自分の問題。自分の、許容量の問題なのだ。自分の中に積もった苦通は、もはやこいつの足を引っ張ることにしか繋がらない。
 ――バレーなんて、止めてまえ。
 決して言ってはならないこの台詞。何度言ってしまいそうになったことか。それは駄目だ。その一線だけは越えてはならない。年々、言いそうになる頻度が増していくのをどうにか押し殺して、なんとか今日までやってきた。
 だが、もう、駄目だ。無理なんだ。
 この先。怖いもんなんてないと言い切れた若かりし頃には、もう戻れない。
「別れさせてほしい」
「っ、」
 その懇願は、不本意ながらも、受け止めてもらえた。
 ただ一つ、今日であるうちは、まだ恋人でいさせてほしいという条件付きで。
 ……正直なところ、別の条件にしたら良かった。そう思うくらい、俺の二十三年間の人生で、最も甘い夜だった。これまでも、これからも、この甘さを超える夜は来ないだろう。それくらい、心底優しく貪られて、あの男を身体の髄にまで染み込ませられた。
 ええ思い出、貰えたなあ。貰ってもうたなあ。
 その思いを声にしていたかまではわからない。それくらい蕩けさせられたのだ。うっとりとしすぎて瞳には涙が溜まっていたし、表情筋もだらしないくらいに緩んでいたのは確か。だから、つい、口から漏れてしまっていたかもしれないし、どうにか、言うには至らなかったかも、しれない。
 その答えを知っているのは、こいつだけ。
 そして、妙に律儀なこの男は、きっちりとセックスを深夜零時に切り上げた。その時間で最高潮になるように仕上げてきたのは、流石というべきだろうか。ピロートークをすることはない。ぼんやりと、視線が絡んでいたような気はするが、襲ってくる睡魔には敵わなかった。どっふりとお互いベッドに沈んで、襲い来る眠気に身を任せる。瞼を先に閉じたのは、俺のあいつ、どっちだったろう。
 ――目が覚めたのは、午前三時過ぎ。腫れぼったい目を擦りながら隣を見やれば、ぐっすりと眠っているそいつが見えた。顔は精悍になったし、体付きはすっかりバレーボール選手としての完成に近づいている。たくましく、なったなあ。いつまでも、眺めていたいくらい。眠っているときのこいつは、とにかく静か。普段の喧しさも可愛げがあるが、こうやって大人しくしている姿も悪くない。
 ぐっすりと眠っているようで、そっと頬を突いても、目が覚める様子はない。ひたすらに、寝息を立てるだけ。呻きながら、こちらに絡みついてくる、なんてこともない。腕も、脚も、自分には触れない位置に投げ出されていた。
 それもそうか、もう日付は変わっている。この男と、自分は、もう恋人関係にはない。
 と、なると、いつまでもこいつの部屋にいるわけにもいかないか。後処理もろくにされていない体はべたついている。なにより腹の中にとろんとしたものが溜まっている。時間が経ったせいもあって、粘性を失ってしまったらしい。このまま立ち上がったら、太ももを伝い落ちてきそうだ。
 ええと、ティッシュ、ティッシュ。薄暗い中、手探りであのパッケージを探す。神経質なところのあるこいつは、ベッドサイドに必ずローションティッシュの箱とウェットティッシュのボトルを置いている。ちなみに後者はアルコールを含んでいないもの。曰く、身体拭くのに、アルコール入っとったら危ないでしょう、と。つまるところ、消毒目的ではない。俺の後処理のために準備しているようなものだ。
 目的の物はすぐに指先に引っかかった。プラスチックの蓋を開ければ、ほんのりと濡れた感触が指の腹に当たる。ひとまず二枚ばかり引き抜いて、散々穿たれた肛門を押さえた。
 もう三時間も経っているというのに、まだその口は開いている。はしたないこと、この上ない。そう思う一方で、この男の手で、こういうカラダに作り替えられてしまったという悦も感じてしまう。たいそう、この男に絆されたものだ。
 別れた後も、他の男には嵌らないでいでほしい。こいつの手で暴かれる男は、自分が最初で最後であってほしい。女だったらいくらでも抱いていいけれど、男、ということで、あれば。
 ……こんな無益なことを考えるのは止めよう。
 無心になって零れてきた精液を拭ったところで、努めて静かにベッドを降りた。このまま脱がされた服を着て帰ろうか。それとも、シャワーを浴びるくらいは許される?
 ちら、と肩越しに振り返ったそいつは、相変わらずぐっすりと寝入っていた。すーすーという寝息がそれを証明してくれている。
 こいつが起きるのは朝の六時。水を飲んでから、ロードワークに出かける。今はまだ、三時半。汗を流したって、こいつが起きる時間にはならないだろう。
 あまり、この家に自分の痕跡を残したくはないが、掃除をしてしまえば良いか。
 そう決めつけて、そろりそろりと脱がされた服を拾い上げた。蝶番が鳴らないよう、ゆっくりと扉を開けて、きっちりと閉める。そこで改めて耳を澄ましてみるが、やはり、あいつは穏やかな寝息を立て続けてくれていた。
「はぁ……」
 零れたため息は、安堵によるものか、何故起きないのかという残念さからか。まったく、自分から別れを切り出したはずなのに、さっぱり想いを断ち切れていない。気を抜くと、いつまでもこの場所に立ちすくんでいそうになる。
 別れると言って、それを条件付きで了承され、呑んだ条件は達成した。思い残すことがあっては、いけない。
 一つ、冷たい空気を吸い込んだところで、足音を立てないように風呂場へと向かった。手狭な風呂場だ。一人で入るのがせいぜい。あいつの体躯だと、この浴槽はさぞ狭いことだろう。それでも、あいつは一緒に入りたがった。一緒にお風呂入りましょ、と。あほか、湯量半分になるやろ。ええやんか、それはそれで節約になって。なんて、会話もしたっけなあ。
 ぼんやりと思い出を掘り起こしながら、脱衣所ということにしているスペースに服を落とす。ぺさっと洗濯機の上にかかった足ふきマットを落とし、慣れた手つきでバスタオルを掴んだ。
 そこで、は、と気付く。
 このバスタオル、洗濯せんと、あかんよな。でも、洗濯機回したら、あいつ起きてまう。つか、ここ二階。こんな時間に洗濯機を回そうものなら、下の部屋の住人に迷惑がかかってしまう。どう、する?
 じ、とバスタオルが重なった棚を見つめた。どれもこれも、あいつが買ったものだ。肌触りの良さと吸水性を兼ね備えているそれは、信じがたい値段がする。よくもまあ消耗品にそこまで金をかけるものだ。呆れもしたが、他に金の使いどころがないと言われてしまえばそれまで。
『ふわっふわですよお、北さんも好きやろ、こういうの』
 そう言って、ふわふわどころかもふもふのタオルで体を包まれるのは、心地よかった。肌触りのせいもあるけれど、あいつがわざわざそういうことをするというのが、なんだかくすぐったくて、快く感じてしまったのだ。
 あぁ、また思い出に浸ってしまう。そうじゃない、タオル、タオルをどうするか、だ。
 もういっそ、一枚盗んでしまおうか。ふわふわのバスタオルは、棚に積んであるだけで六枚ある。物干し竿には二枚ばかりかかっていたし、ベッドにも一枚敷いてあった。一枚くらい、なくなったところで大した問題はあるまい。……たぶん。
 盗むというのは、心苦しいが、どれもこれも同じ色。あいつが枚数を把握しているとも思えない。仕方のない、犠牲。そういうことにしよう。そういうことにして、くすねてしまおう。
 一抹の申し訳なさを抱えながら、手に取ったバスタオルをそのまま使うことにした。カラカラと浴室の扉を開ければ、換気扇の音が大きくなる。一歩踏み出すと、足の裏にひやりと濡れた感触がした。
 冬、ということもあり、シャワーの温度は高めに設定してある。ガス代も、一応置いて行こうか。でも、そんなことをしたら、即座に突き返しに来られそう。甘えても、良いのだろうか。もう恋人ではないのに。
 恋人でない、先輩・後輩という関係を思えば、別に気にするようなことではない? だが、一度恋人関係にあったことは消えないし。どうしたらいいだろう。人と付き合って、別れるということが初めてというのもあって、わからないことが多すぎる。
「はあ……」
 気付くと二度目のため息が零れていた。
 あれこれ考えて時間を徒労に費やすわけにもいかない。ざっと体を流して、あいつの残滓をそぎ落としたら、置きっぱなしにしている荷物を纏めてこの家を出るのだ。出なくては、ならない、のだ。
 すべきことを脳内に並べて、ちゃんとやる、やりきる、と念じたところで、シャワーコックを開いた。早速キリリした冷水が素足を掠める。だが、それも数秒で、夕べ浴びたときのような温度へと上がっていった。もう、身体に乗せても鳥肌は立たない。ただただ、ぬくもりが肌を滑るだけ。
 頭からざんざんと被っていれば、少しは名残も流れていったような気がする。終わったのだ。もう。この、数年の研究室生活と農業一年目で築いた薄っぺらな身体をあいつに捧げることはない。
 腫れた二つの突起も、浮いたあばらも、かろうじて割れていると言って良いのか、単にやせ細っていると表現すべきなのか曖昧な腹も。筋肉と脂肪が混じった太ももも、ここまで歩んできた両足も。すべて。あいつに、触れられることは、ない。今残されている痕が、最期。
 シャワーの落ちる音に混ざるように何度目かのため息を落として、そっと後孔に指を這わせた。簡単に流れ出てくる分は先程拭ったが、完全に掻きだせたわけではない。違和感は、残っている。……この違和感が、あいつに嵌められていた故のものだったら笑えるな。
 本当に、すっかりあいつの形を覚えてしまった。
 縁をくるりと撫でると、ゾクゾクとした痺れが体を包み込む。かと思えば、孔はぱっくりと指先を咥え込んだ。ちゅうちゅうと吸い付いてくるのを、指先からも、肛門からも、感じ取ってしまう。
 これがあいつの指だったなら、もっときつく絞めつけていたことだろう。自分の指の細さでは、まるで物足りない。
 あたかも自然を装って、もう二本ばかり指をあてた。三本なんて、そう捻じ込むものではない。直腸だぞ、何かを入れ込むための器官ではなく、排泄するための器官だ。
 しかし、自身のそこは、もはや女性器まがいのうねりを伴って指を呑み込んでいく。くつり、ぐづり、骨ばった三本はあっという間に根元まで入り込んだ。それでも身体は足りないと訴えてくる。我儘を言うな、これで我慢をしろ。
 と、いうかこれは後孔から、あいつの残滓を掻き出すための行為であって、決して自身を慰めるためのものではない。違う。そんなつもりは、毛頭ない。
 なかった、はず、なのだ。
 シャワーを流したまま、ゆっくりとタイルに膝をついた。前屈みになれば、腰のあたりに湯が当たる。散々悲鳴をあげた部分だ、温めて労わるには丁度いい。
 なんて、都合のいい言い訳を脳に沁み込ませながら、捻じ込んだ指をぱらぱらと動かし出す。できることなら、もっとずっと深いところを抉りたい。あの怒張で、狂う寸前まで突いてほしい。ついさっきまで、身体を重ねていたときのように。
 だが、この指ではどう足掻こうとも届かない。できることと言えば、前立腺を引っ掻くことくらい。こんなんじゃ、足りないのに。強引に前で達する感覚も、あいつに教わったものではあるが、そんなものよりも女のようにいつまでも昂ったイキ方をしたい。なのに、なのに。
「う、うぅ……」
 ぐずぐずと指は絶え間なく動き、自身を昂らせていく。それで満足してほしいのに、不満を訴えて止まない。どうしよう、どうしたらいい。
「ぁ、つむ」
 零れ落ちたのは、別れた男の名前。すよすよと、たっぷり吐き出して、穏やかに眠っている奴の、名。こんなところで呼んだら駄目だろうが。もし起きてきたら、どうする。やっぱり、別れたくないんでしょう? なんて言って、絡めとられるに決まっている。
 二度はない。もう、呼ばない。そう決心して唇を噛み締めた。
「ん、ぐ、……ヴ」
 本来の目的であった、掻き出す動きを意識して指を動かしていく。やたらと前立腺を擦ってしまうのは、男の性というものか。必然的に勃起するペニスは、明らかにシャワーの水ではない液体を零していた。
 剥き出しになって真っ赤に染まっているソコは、触ってくれと言わんばかりに鈴口をはくはくと開閉している。触ったら、どうなる? 考えるまでもない、前立腺を引っ掻かれながら亀頭を責められるなんて、幾度となくされてきた。気持ちが良いのは、間違いない。
 緩む理性に従って、空いているほうの手が陰茎に伸びていった。くぽ、と孔を空けて、爪を立てられるのを待っている尿道口目掛けて、指先は近づく。
「っあ゛」
 そうして、人差し指の爪先が切っ先を掠めた瞬間、ブシュッと透明な液体が噴き出した。あわせて、指を呑み込んでいた後孔が絞まる。いっそ、入れ込んだ指が痛いほど。
 あいつ、よくもまあこの絞めつけに耐えたなあ。いや、最初の頃は、アーだのキャーだの悲鳴を上げながら吐精していたか。その度に凹んで、早漏や俺は早漏なんやとうじうじ三角座りをして慰められるのを待っていたっけ。なんだか懐かしい。
 そんな可愛げがあったのは、ほんの少しの期間。気付くと、耐えることを覚えていて、俺が達している最中も突き上げるなんて暴挙も働かれたものだ。あれはよろしくない。ただでさえ絶頂の最中にあるというのに、次々と刺激が襲ってくるのだ。終わりのない快楽に、気が狂うかと思った。実際、真っ最中は狂いきっていたことだろう。涎を垂らして、白目を剥いて、どう見ても醜かったろうに、あいつは愛おしいと言わんばかりの顔を向けてくるのだ。狂気の沙汰としか思えない。
 それが、恋は盲目、という現象なのだろう。
 肩でしていた呼吸がようやく落ち着き、ずるんと指が抜け落ちる。潮を撒き散らしたペニスは、くたっと首を提げていた。そのくせ、身体には熱が残っている。もっと悦を寄越せと叫んでいる。
 ええい、喧しい。騒ぎ立てる欲望に叱咤を打って、尻穴に捻じ込んでいた指を見やれば、白濁は絡んでいなかった。もう、胎の中にあいつの子種は残っていないらしい。これでいい。
 未だ尻に違和感はあるし、下腹には熱が蜷局を巻いている。しかし、ここはあいつの家。いつまでも居座るわけにはいかない。
 どうにか立ち上がって、全身に湯水を掛けたところで、シャワーコックを閉めた。たちまち、換気扇のゴォーッという音と、自身から滴る雫の音だけの世界に閉じ込められる。
 そっと息を吐いて、バスタオルに手を伸ばした。大きく広げて、頭に被る。
「っ、」
 ……失敗、した。せめて、肩から拭いて行けば良かった。
 頭から被った瞬間、あいつの匂いが立ち込めたのだ。洗濯してあったはずなのに。柔軟剤のせい? それとも、中干しをしたがために部屋の匂いが沁み込んでいた? 理由は定かではないが、鼻孔から入ってくる空気すべてがあいつの匂いで塗りつぶされている。
 ぞく、と、背中が震えた。がく、と、膝から力が抜ける。だん、と、手をついて尻もちをつくのは回避したが、柔らかなタオルからは依然として匂いが漂っており。
 タオルごと、両肩を抱きしめた。柔らかな感触が肌を擦る。ふわりとしたそれは、あいつが好むもの。それを真っ向から浴びせられてきたせいで、自分も、好きになりつつある、感触だ。
 気持ちが良い。心地が良い。ここが、いちばん、ほっとする。いや、いちばんではないか。いちばんは、このタオルを構えて待っているあいつの腕の中だ。あそこがいちばん、安心する。
 温められた体は、もう冷え始めている。いくらバスタオルに包まっているとはいえ、限界だ。もう水気を拭って、服を着なければ。風邪を引いてしまう。
 今日のところは、帰るだけだが、時期に種まきの季節がやってくる。となると、それまでに何を植えるか計画を立てなければならない。米はまだいい、作付面積を決めているから。考えなければならないのは他の野菜だ。市場に卸すほどのものはまだ作っていないが、米だけでは些か収入に不安がある。せめて、近所の産直や道の駅に出せるような質の野菜を育てなければ。となると、何を植える? どれくらい? 畝はいくつ打てば良い?
 あいつへの未練に、かまけている暇など、ないのだ。自分は自分で、農業で自立すると決めたのだから。……そう、宣言するのは、これからの話なのだけれど。
 兎にも角にも、進まなくては。あいつが進むのを止めないように。自分だって、生きるために、歩んでいかなければ。
 深く息を吐きだして、震える足腰を力ませた。壁伝いにどうにか立ち上がり、柔らかなバスタオルに水気を吸わせていく。ひととおり拭いたところで、静かに浴室の扉を開けた。
 あいつに脱がされたままの衣服は、見事にぐちゃぐちゃ。最後くらい、丁寧に引ん剥いてくれても良いだろうに。慌ただしく、とにかく時間がもったいないと、服を剥がれた。ベルト、よくもまあこれだけの緩め具合で脱がせられたものだ。シャツのボタンなんて、一個取れかかっている。帰ったら、つけなおさなくては。
 一枚一枚、脱がされたのを思い起こしながら身に着けていく。下着も、ズボンも、シャツもセーターも。一日着ていたものというのもあって、あまり着心地は良くない。だが、数時間の辛抱だ。自宅に帰って、着替えればいい。
 バスタオルで頭を拭きながら、居間の時計を見上げた。薄暗くてどうも見にくいが、長針は十二を過ぎたばかり。準備する時間はたっぷりとある。
 あえて掛けなかったコートの下には、ボストンバックを置いていた。あいつのことだ、しばらく泊っていってくれる、と勘違いしたことだろう。悪いことをした、と、思わなくもない。この中身はほとんど空っぽ。この家に置いてある俺の私物を詰めるためだけに持ってきた鞄なのだから。開かれたら困るのでコートの下に隠してはいたが、触れられる前に別れ話を切り出してしまったから、あまり意味はなかったな。
 暖房のついていない空気を浴びながら、一つ一つ、自分がこの家で使っていたものを回収していく。洗面所からは歯ブラシとコップ、洗顔料は共有していたから良いとして、あとは髭剃りか。北さんも剃るんですねと愕然とされたのはもうずっと前の話だ。生えるに決まっとるやろ、男なんやから。言うて、細いのが微かに映える程度やから、剃る頻度も低いんやけど。他愛のない会話すら、過る度に心に堪える。
 台所からは愛用していた湯呑とマグカップ、それから箸を取り出した。これ以外の皿は、特別に揃えて買ったものではない。侑自身が最初から持っていたものだ。誰かが――主には、片割れか母親だろうが――来たときのためにと持たされたのだろう。だから、「北信介のモノ」として準備したのはたったこれだけ。茶碗すら、ずっと客用を使っていたほど。何年も、付き合っていたのに。せめて買えば良かったろうか。……早かれ遅かれ、この日はやってきていたのだ、物が少ないに越したことはない。
 衣服の類はろくに置いていない。何故って、あいつが自分の服を着せたがるから。さすがに下着は新品を寄越してきたが、何かにつけてジャージやらパーカーやら、侑のものを着せられた。そして、見事なデレデレ顔を拝ませられた。独占欲の現れであったのだろうけれど、洗い物がしにくくて、よく困らせられたものだ。いくら袖捲っても下がってくるし。結局、あいつに後ろから抱きしめられるみたいな体勢で、袖をあげてもらうことが増えていった。
 さて、他に私物は何があったか。思い当たるところを徹底して探し、ボストンバックに詰めていく。高校を出てから付き合い始めたわりに、俺の物はとにかく少ない。なにかにつけてお揃いを強請るあいつを突っぱねた甲斐があった。
 残るは寝室。だが、あの部屋にだけは私物は置いていない。何も、置かなかった。あそこは侑の部屋。あいつの、パーソナルスペース。犯してはいけない領域。無意識か、意識してのことか、なんとなく俺の物は置かないようにしていた。
 と、なると、盗むと決めたバスタオルを詰めれば準備は完了。もう、この家を出る準備はできてしまった。
 再度時計を見やれば、長針は半周したところ。たったの三十分で準備できるとは、我ながらよくできたものだ。正直、もっと感傷に浸って、進められないと思っていたから。
 最後に、散々貪られたからだろうか。どうせなら、未練も残さず貪ってほしかった、なんて、流石に我儘が過ぎるか。
 ぐるりと部屋を見渡して、コートを手に取った。暦の上ではとっくに春を迎えているものの、まだ空気は冷たい。桜が咲くのに、もう一月はかかりそう。その頃までに、未練は断ち切れるだろうか。……できることなら、断ち切りたい。
 コートを羽織りながら、ちらりと寝室の扉を見やる。ぴたりと閉じた扉は、自分が閉じたとおりの状態を保っている。おそらく、開いてはいないだろう。
 抜き足、差し足、もとい、恐る恐る、その寝室の前まで歩み寄った。濡れた髪を耳に掛け、そっと、扉に耳を当てる。
 ――聞こえてくるのは、相変わらずの穏やかな寝息。
「……さよなら」
 扉越しに声を掛けてみるものの、寝息が乱れることはない。あれだけ、たっぷりと貪ったのだ。あいつの疲労も、相当に決まっている。なんなら、いつもの時間に起きられるかも怪しい。
 一週間のオフを貰ったとはいえ、ちゃんと体は動かさなあかんよ。鈍ったら、余計焦るやろ、お前。大丈夫、焦らんでも、お前ならちゃんとできるから。いろんなこと、積み重ねてきたの、俺は見とったから。知っとるから。
 だから、隣からは離れるけど、応援しとるからな。そんで、子供にも孫にも自慢できるような、格好良いバレーボール選手になってな。
 すっと鼻から吸おうとした息は、思いの他濁った音になってしまった。下手に物音を立てるのは良くない。このまま、あいつは寝かせておきたい。
 なにより、寝起き一番に、頭の上がらん先輩の顔なんて、見たないやろうし。
 ゆっくりと瞬きを数度したところで、おざなりに置いているボストンバックを拾いに行った。バスタオルを詰めたおかげで、それなりの形を保っている。くすねるのは忍びないが、まあ、あいつが何年かして、もし気付いたら謝ることにしよう。
 足音は、極力、立てない。揃えてあるスニーカーを履くときも、トントンとつま先を整えることはせず、半ば強引に踵を押し込んだ。
 男の力を思えば、重たくもなんともない扉。それを開けば、後戻りはできない。ここまで散々準備をしてきておいて、何を言っているんだという話だ。別れると、決めた。だから、この家を出る。ただ、それだけのこと。
 ぐ、と押した扉は、思った以上に重たかった。
 寝室の扉同様、どうにか静かにそれを閉める。がたん、と音が鳴ってしまったのは、扉自体の重さに違いがあるから仕方あるまい。
 コートのポケットに手を突っ込めば、すぐに冷たい金属が指先に絡む。握っては、離し、また握っては離し。数度繰り返して、金属に熱が移ったところで、ようやくそれを取り出した。
 なんてことのない、シンプルな鍵。キーホルダーもつけていない。あいつに押し付けられたときのまま、姿を保っている。
 冬も暮れ。時期に春がやってくる。そんな冷えた空気をたっぷりと肺に詰めたところで、鍵穴にソレを突き刺した。左に捻れば、ガチャンと錠のかかる音がする。微かな躊躇いを持って鍵を引き抜き、扉の下方にあるポストに、目を向けた。
 鍵の先、凸凹としているほうを、ポストに押し込む。指はまだ、離さない。離せない。離せ。さあ。
 一、二、三。心の中のカウントに合わせて、温くなった金属から、指を、離した。
 カコンと、響く、音。
「っ、」
 瞬きした瞬間に伝い落ちた熱は、すぐに袖で拭った。
 もう振り返らない。振り返れない。早足で廊下を抜け、階段を降りる。タイミングの問題か、守衛はいなかった。けれど、ちゃんと帰る時間を記入する。これがなくて困るのは、守衛ではなくあいつなのだし。
 急くままに足を進め、目的の駅へと入り込んだ。人は少ない。もとい、ろくにいない。大きな駅に行けば別だろうが、……都合がいいな。
 鍵が入っていたほうとは別のポケットに手を入れ、やっと馴染んできた電子端末を取り出す。示しだされた時間は四時五十分。両親はまだ夢の中だろうが、おそらくあの人は起きている。なんせ、毎日四時には起きて家の掃除をしているのだから。
 ほんの少し迷ってから、実家の固定電話を呼び出した。数度画面を擦れば、あっという間に電話がかかる。接続音の後に、コールが一回、二回。五回鳴らして出なかったら、家に帰ってから話をしよう。
『はいもしもし、おはようさん、北ですけれども』
 と、思ったところで、目的の人物が電話を取った。
「おはよう、ばあちゃん。俺、信介やけど」
『あらあ、今日はまた随分と早いのねえ』
「うん、ごめんな」
『ええよお、掃除せなって、起きとったし。今日はもう帰ってくるん?』
「……うん。そんでな、話、あるんやけど」
 早朝だというのに、祖母の声は穏やかながらはきはきとしている。手先を毎日動かしているからか、散歩と称して犬だか猫だかよくわからない白い毛玉を連れて毎日歩いているからか。認知症に程遠いのは確かで、未だに母は台所仕事を祖母に任せている。母が忙しいのはよくわかっている。だから、特に文句はない。しいて言えば、自分にとっての「おふくろの味」が「ばあちゃんの味」になっているのは構わないのだろうかと疑問に思うくらい。
 そんな家族の話は今は置いておこう。俺は俺で、進まなくてはならない。遠くから、あいつ、すごいなあ、と躊躇なく言える、ちゃんとした大人になるために。
 階段を潜ると、冬の空気に人工的な熱気が混じった。複雑な空気ではあるものの、肺に取り込まれたそれは、自身の考えを揺るがすような淀みを起こすことはない。
「ばあちゃん、俺」
 ――じいちゃんの畑、継ぐわ。

◇◆◇◆

 あれからというもの、片割れのほうとはよく会うが、当人とはすっかり合わなくなった。高校のOB会に顔を出しても、向こうがやってこないのだ。
 治曰く、おにぎり宮には不定期にやってきてはいるらしい。なんならチームメイトも連れてくる日もあるとか。アランと連れ立ってくる日もあると言っていたっけ。
 しかし、俺が顔を出す日にはいない。もしかすると治と話を合わせてあるのかもしれない。俺がいつ米を納品しに来る、とか、なんとなく来週日本酒持ってくる気がする、とか。 治の奴、なんで俺が日本酒貰ったって知っとったんやろ。それとなく尋ねてみれば、キリッとした顔で「勘です」と答えられてしまった。勘、か。そうか。勘。らしいわ。
 いやあ、あいつ、どうしてるんやろ。
 なんて、物思いに耽る必要はない。それくらい、情報と言うものは入ってくる。やれV1で優勝した、やれベスト6に選ばれた。日本代表に選出され、正セッターを務めていた驚異の逸材を引きずり下ろしたなんてのもあったか。
 テレビ出演の機会は少ないが、スポーツニュースのコーナーでは名前を聞く頻度も増えた。月バリに至っては、ピンで表紙を飾るほど。
 ……それだけ活躍していても、連絡一つ寄越さないのは、まだ自慢に値する後輩になったとあいつ自身が思っていないからか、破局した関係にあるからか。
 いつか、あいつの口から、あいつの重要視する結果の話を聞く日は来るだろうか。個人的には、来てほしいと思う。
 そして、あのバスタオルを返したいなと、思っている。