冬霧
傍らにある熱を抱きしめた。
ぺったりと、その熱は直接肌に触れる。先ほどまではほんのりと表面は汗ばんでいたものの、落ち着いた今は、もうさらりと滑らかさを取り戻している。黙ったまま、頬を寄せれば、その熱はぴくんと体を震わせた。
「……そこ、あんま触んな」
「なんで、気持ちええやろ」
静かな会話を交わしながら、ちゅ、今度は胸の中央に唇を寄せた。そのままきつく吸い付けば、ポッと小さな痕がつく。きれいに色づいたソレににんまりと顔を緩ませれば、頭上からため息が降ってきた。
「物好きやな」
「……なら北さんも、つけてええよ」
キスマーク。そう囁くように付け足してから、今度は鎖骨の下に吸い付いた。こっちはいつもつける場所。色が薄くなるたびに、上書きしているところ。きゅ、胸につけたそれよりも鮮やかに残るよう、少し強めに吸い付いた。
ぱ、と口を離せば、思ったとおりの赤。俺のという所有痕。綺麗に咲いたその花を、ちろり、舌先でつつけば、やめろと額を弾かれた。
「ほら、もう気ぃすんだやろ……」
「ん~もうちょい」
「ぁ」
我ながら胸焼けしそうなくらいに甘ったるい声で強請れば、呆れていたはずのトーンもじんわりと蕩けだした。
顔を再び胸の前まで戻して、平坦なそこに口付けていく。先ほどとは異なり、キスマークを残すような吸い付き方はしない。かわりに、ちゅ、ぷちゅ、舐るようなキスを落としていく。
そろり、指先は、片一方の突起へと伸びた。
「や、ぁ」
くに、と、その尖りを抓んだ。たちまち、声にずんと欲が乗る。そのまま指で転がしていると、柔らかかった突起は芯を持ち始めた。ぷっくりと、小豆大にまでそこは膨らむ。
こくん、唾を飲み込んだ。
それから、かぱり、口を開ける。
「ん、ぢゅ」
「あっ」
丸く腫れたソコにしゃぶりつけば、堪らないと嬌声が零れた。
この体に触れ始めたころには、ただくすぐったかっただけのソコ。あれから、早いものでもう二か月。懇切丁寧に弄ったのもあり、すっかり性感帯の一つと化してしまった。二か月もあれば、誰でも気持ちよくなるものなのか。それともこの人自身の素質によるものなのか。
どちらでもいいか、気持ちよさそうにしてくれている事実さえあれば。
「ふふ、きもち?」
「はあ、もう気持ちええから、やめて」
「なんで、もっと気持ちよくなりましょ」
「ぁ、んぅ」
わざと音を立てながら唇を離して、そそり立った乳首、ふ、息を吹きかけた。それだけで、北さんは息を呑む。軽く胸を突き出すようにして快感を受け流す。
北さんと体を重ねるようになってから知ったのだが、この人は存外、快楽に弱い。というより、快感に対しての堪え性が強くないのだ。
刺激を与えられ始めてすぐは、いやいやと首を振って見せるものの、一定のキャパを超えるとすべて受け止めて、素直に善がりだす。達するときに、足をピンと伸ばしてしまうとか、喉を剥き出しにしてしまうとかは、もうしょっちゅう。さらには、上手く達することができた後に「ちゃんとイけましたね」「よくできました」と褒めると、幼気に破顔して悦ぶほど。
正直、何度シても、このギャップには慣れない。いつか、慣れる日はやってくるのだろうか。正論を繰り出すとの真顔にだって慣れたのだし、いつかは受け止められるようになりたい。そうなるまでに、何年かかるのかは、定かではないが。
ちなみに、北さん自身も、自分のギャップに困惑している。とことん蕩けてふにゃふにゃになったあと、唐突に我に返る瞬間がある。そこに達すると、カッと顔を発火させるのだ。ちゃうねん、こんなんで褒めんな、くそ。悪態をつきながらも、俺の顔を見れずにぐりぐりと額を押し付けてくることもしばしば。……個人的には、あの我に返った直後の反応がいちばん好き。だから、しばらくはそのまま自分の言動に慌てふためいてほしと思う。
さて、今日はどれだけ蕩けてくれるだろうか。
もう一度、同じ突起にしゃぶりついた。
「ほんまに、そこ、いやや」
「えぇ、ぷっくりして気持ちよさそうなのに」
「あんま、いじられ、ぁ、と、擦れてぃた、ぁっ」
ぎち、喋っている途中で勃起したそこを甘噛みすると、喉を引き絞りながら善がる。
胸元から見上げるようにして顔を窺うと、下唇をかみしめて、必死に悦を堪えているところだった。早く、溺れろ。落ちてしまえ。そんな念を込めながら、かり、ちゅぷ、片一方の乳首を責め立ていく。
「っぅ、ふ、ん……」
そろ、と、北さんの手が、もう一方に伸びた。一切弄っていないのに、そこはぷっくりと膨れて存在を主張している。もしかすると、こっちも弄ってと強請っているのかも。
片方だけ執拗に責めるより、両方を嬲ったほうが気持ちよくなれますよね。わかりますよ、その気持ちも。
でも、俺は片方しか、弄ってやらない。
なぜって? そうしたら、ほら。
「ぁ、う」
「……ふふ」
「んッ」
控えめながら、自分で、弄り始めてくれるから。
俺にしゃぶられ、自分でも捏ねて、びくびくと体が欲に塗れていく。……そろそろ、胸だけじゃ物足りなくなってくる頃だろうか。それとなく腰に手を這わせると、もぞもぞとやらしく揺れだした。
「あ、つむ」
音を詰まらせながらも、北さんが俺の名前を呼んだ。
「ん~?」
「なあ、もぅおれ、」
ほら、どうしてほしいか、言ってみてください。ちゃんと言えたら、満たしてあげますから。
ちゅっと音を立てて、胸から顔を離した。合わせて、横向きに寝転がっていた体勢から、ぐ、その痩身を押し倒す。跨るようにして体を起こせば、ひやりとした空気が皮膚に張り付いた。
ざわ、と肌が泡立つ。もうすぐ十二月、暖房のついていない室内は、裸で過ごすには寒すぎる。脂肪も筋肉も少ない分、北さんは俺以上に肌寒く感じたらしい。早く、と、熱を求めて腕を伸ばしてくる。
「なあ、ほしいんやけど……」
「ふ、なにが」
「……いじわるい」
意地悪で結構。北さんの口から、何が欲しいか、言ってほしいんです。にんまりと口の端を釣り上げた。きっと唇は、三日月を思わせるような、きれいな弧を描いているに違いない。
わな、と北さんは口元を震わせた。皆まで言うか、言うまいか。言えばすぐに、ほしいものを与えてもらえる。わかってはいるが、まだ理性が残っているのもあって、躊躇ってしまう。
さ、どうします。性急にしてしまうのでも、焦らして楽し飲むでも、好きなほうを選んでください。
「どうします?」
煽るように首を傾げて見せながら、胸の中央に、とん、指先を置いた。
――ぴん、ぽーん。
その時だ。古びれた、チャイムの音は、家の中に響いた。
は、と北さんの瞳に滲んでいた熱が、わずかに下がる。くそ、タイミングが悪い。誰やねん。つい、眉間に皺を寄せてしまうが、続けてチャイムの音が鳴らされることはない。手当たり次第に訪問している勧誘だろうか。
「ぁ、だれか、きた?」
「どうせ新聞屋か保険屋ですって、」
「ひゃ、ぁっ」
だから、続き、しましょ。胸の中央につけたキスマークをとんと突いてから、その人の顔の横に手をついた。体を傾ければ、否応とも顔が近づく。鼻先が触れる。その人が瞬きをするたびに、睫毛の揺れる気配がした。
仕切り直しだ。口付けるべく、そっと、唇を割り開いた。
すると、再び――ぴーん、ぽーん。間延びした、チャイムの音が鳴る。帰ってなかったんかい。はよ帰れや。どこの業者か知らんけど、今、お前に構ってるは暇はない。
外から聞こえる音を無視して、ぱくり、薄いソコを塞いだ。
「ぁ、んっ、んぅッ」
「ふ、ぢゅ」
――ぴーんぽーん。貪っている間も、なぜかあのチャイムはなる。三回も押すとはどういう了見だ。いい度胸してやがる。絶対に出ぇへんからな。
心に誓って、ぎゅ、舌に吸い付いた。
「んふ、ン」
「む」
「ぅんンッ」
――ぴんぽーんぴんぽーんぴぴぴぴぴぴーんぽーん。
びき、と、青筋が浮かんだ。
「どちら様ァ!?」
ほとんど怒号に近い叫びを持って、玄関扉を引き開けた。その瞬間、再び、チャイムの音が響く。おい、今開けたよな、出たよな。家主が出てきたにもかかわらず、チャイムを押すやと。その憎たらしい顔、拝んだるから、早よ見せぇ。
ギリッ、という歯ぎしり付きで、その人影を睨みつけた。
「ほら、おるやんけ。客人待たすてどういう了見しとんねん、このポンコツ」
「あ゛!?」
文句の一つでも言ってやらねば気が済まない。そう思ったにもかかわらず、何故か先に悪態を投げつけられる。なにその理不尽。
眉間に皺を寄せて凄むと、……鏡で写したかのように、まったく同じ顔をした男が立っていた。
「……サム?」
「よお」
いや、まったく同じというのは語弊があるか。若干、俺のほうが顔がイイ。あとこっちは金髪でそっちはアッシュ。分け目の都合、向かい合って立つと鏡になってしまうが、まったく別個の生き物である。
そんな生き物に、北さんとの睦事を邪魔された、だと。いっそう頭に血が上る。
「なぁあんでお前がここにおんねん、大阪でちゃらちゃら過ごしとるんやなかったんですかーあ゛ー?」
「何にキレてんねん。第一、オカンから連絡行っとったやろ」
「はぁ? 知らんし」
「知らんわけあるかい、先月先週昨日てメールした言うてたで」
「メールぅ? そんなん見てへん。つかラインせえや」
「……見とかんかい。あのババアがラインなんぞ使いこなせるわけないやんけ」
「教えたれや、近所なんやから」
「何遍も教えたったわ、それでも懲りずにメールしてくんねん、あいつ」
「うわっめんどお……」
ぽんぽんと会話が展開していく。直接こいつと顔を合わせたのは、久々のはずなのに、どうも久々な感じがしない。これが十八年、一緒に育ってきてしまった弊害なのか。
それにしても、オカンからメールが来ていたとは。最近、ほとんどメールは開いていない。先月・先週・昨日と、三回メールを送ってきているらしいが……、そもそも、最後にメールフォルダを開いたのは、いつのことだったか。なんつーか、メールって、受信するまでになんかムラあるやん。SNSと違って、とろくさいというか。ああ、オカン、頼むから、せめてショートメッセージくらいは覚えてくれへんやろか。ほんま困るわ、現代社会に生きてるんやから、文明の利器くらい使いこなしてほしい。
稲荷崎にいるであろう機械音痴に向かって、ため息を吐いた。
「てちゃうねん、オカンとかどうでもええわ」
「ああそれもそうやな、メール見てへんお前が悪い」
「ハァアア、俺はなんも悪くありまっせぇ~ん」
「いや、どう考えても侑のミスでしょ……」
「っうお」
と、治との応酬の間に、ぽんと異なる声が入り込んでくる。不意打ちだったせいもあり、びく、肩が震えた。ぷ、視界の隅で、治が噴き出す。なに笑てんねんコラ。反射的に治の胸倉を掴みつつ、会話の侵入者に目線を向けた。
「角名もおったんかい」
「ずっとね」
「チャイム連打したんこいつやで」
「は、治がやれっつったんじゃん」
胸倉を掴まれたまま、治は淡々と親指で角名を指す。罪を擦り付けようというのか。ハンッ、角名もお前も同罪じゃい。北さんとゆったり、まったり、しっぽり過ごしていたところを邪魔したのに変わりはないのだから。
つか、治がいるのはまあ仕方がないとして、なぜ角名までここにいるのだ。胡乱な視線を向ければ、ああ、と角名が口を開く。
「さっきまでこいつ、俺ん家にいたんだよ。夜行できたから、風呂貸せって」
「そんでイカやっとった」
「まったくさあ、昼前には出るっつってたのにお前はよお」
「昼飯奢ったんやから許せや」
「そこは寿司とか焼肉奢ってよ」
けらけらと軽口を叩いているが、要はなんか面白そうな気がしたからついてきてみた、というやつだ。そうだ、角名はそういう奴だった。たまにメッセージを送ってきたかと思えば「北さんの弱みは握れましたか」の定型文。握れるわけないやろ、仮に握ってても、お前にだけは絶対教えへんから。……いや、まあ、誰が相手でも、北さんの弱みなんて教える気、毛頭ないけど。
さておき、面倒なことになった。どうやったらこいつらを追い返せるのか。中途半端に部屋に置いてきてしまった北さんのことも気がかりだ。うっかり自分で慰めだしてはいないだろうか。どうせするなら、俺の前でしてほしい。
今日は、北さんの部屋の中でしていて良かった。いつもみたく、居間でやっていたらと思うと。……まあ、こいつらを家の中に上げなければ良いだけのコト。
ふう、一つ息を吐きだして、外行きようのアルカイックスマイルを貼り付けた。
「なんでもええわ、帰れ」
「ほな邪魔するで~」
「邪魔するんなら帰って~、てかおいなに勝手にあがってんじゃい、帰れ言うたやろ!?」
「北さんに挨拶したら帰るわ」
「俺は!? 俺に用事あったんちゃうんかい!」
「お前なんざど~でもええわ」
それやったら、なんでオカン介して俺にメールしたん。お前が北さんに直接連絡とったらええやんか。
ひょいと、俺の横を通り抜けて治は靴を脱ぎ捨てた。待てやコラ、追いかけようと腕を伸ばすが、ぽいぽいと雑に脱ぎ捨てられたスニーカーに意識が向いてしまう。この家で過ごしだして二年弱、靴は揃えるものという習慣がついてしまったせいで、ぞわり、散ったそれらに虫唾が走った。あいつの靴なんか触りたくはない。が、そのままにしておくのも落ち着かなくて仕方がない。
チッ。颯爽と中に入っていった治に届くくらいの音量で舌打ちをしてから、放られた靴をきちっと揃えた。
「うわッ」
「なんやねん」
「いや、侑が治の靴揃えるとか、軽いホラー」
「……この家はな、北さんがルールなんやで」
「ふはッ、しっかり教育されてんじゃん!」
ええい、うるさいうるさい、なんとでも言え。靴は揃えて置く、それの何が悪いんだ。
キッと角名をねめつけてはみるものの、ケラケラと笑ったまま怯む気配はない。それどこか、俺のことをじろじろと不躾に眺めてくる始末。まるで、品定めをされているかのよう。視線がまとわりつく不快感に、ぎゅ、顔を顰めた。
「なんやねん」
「いや? すごいなあと思って」
「は?」
「だって、北さんの家に住まわせてもらってんのに女連れ込んでるとかさあ」
「……はぁあ?」
治を追い出すべく、家の中に戻れば、さも当然のように角名も中へと入ってくる。招いてへんけど。そんな目線を向けてみるものの、角名はどこ吹く風と靴を脱いだ。治と違って、ちゃんと靴を揃えて端に置く。……最低限、そうするのなら、家に入るのくらいは目を瞑ってやろう。
はあ。それにしたって、こいつは一体、何をくだらないことを言い出すのかと思ったら。女を連れ込むだって? そんなんしたことないわ。つか、大学入ってから、彼女おらんし。北さんが恋人やし。言わんけど。
「連れ込んでへんわ」
「いや、どう見ても連れ込んでるでしょ」
「なにを根拠に」
「いやいやいや、だっておまえ、見るからに事後じゃん」
「はァッ、事後ちゃうわ!」
咄嗟に言い返したものの、図星に近いのもあって声が裏返ってしまう。一瞬にして、角名の顔に、やらしい笑みが浮かんだ。ああ、連れ込んでるんだ。そう言いたげ。
断じて違う。女なんて連れ込んでいない。ついでに言えば、事後でもない。真っ最中だった。北さんとの、睦事の、真っ最中! 突っ込んでこそいなかったら良かったものを。
あ、そうだ、北さん。北さんどうしてるかな。
ハッと我に返って、廊下を蹴った。玄関から数歩、進んだところで九十度に曲がる。見慣れた台所と、襖の開け放たれた、居間、そしてその居間入口に立つ、片割れ。
……開け放たれた、だと。おかしい。俺が出てくるときは、確かに、あの襖は閉めていたはず。
「しまッ」
ざわり、背筋に嫌な予感が駆け抜けた。ついでに、背後でスマホを構える気配。おい、もし北さんこと撮ろう言うんやったら、そのスマホ、カチ割るからな。
ダンッ、床板を強く、蹴飛ばした。
――しかし、時すでに、遅し。
「……」
「……ど、ども」
「お、おう」
その二人は、遭遇してしまっていた。
治はまあ、家の中に入っていった、あの恰好。手に提げている紙袋は、おそらく北さんへの土産なのだろう。袋のシュミから察するに、オカンが持たせたものに違いない。
そして、問題の北さんだ。この位置からじゃ、どんな格好をしているか、わからない。ああ、せめて、服を着ていてくれますように。すっぽんぽんで、立っていませんように。
ちら、と、ようやく居間の中にいる北さんの姿が見えた。良かった、上に、ジャージを羽織っている。……俺の、ジャージを、羽織っている。そして、下肢は。
生足が、惜しげもなく、晒されていた。
「~~っぁぁあアァァア!!」
こんな大きい声を上げたの、いつぶりだろう。ついさっき出したか、チャイムを連打されたのに対して、「どちら様」と叫んだアレ。それと同じくらいの声量。
びく、と、居間の中にいる人も、廊下に立つ片割れも、肩を揺らした。どちらも、居間の敷居は跨いでいない。今だ。
スパァンと、小気味のいい音を立てて、居間の襖を閉めた。
「え、なに今の声、侑? うっさ」
玄関に近いほうから、角名の呟くような声が聞こえる。おい、ムービーも撮るなよ、いいか、撮るなよ。
ふー、と、腹の中で蜷局を巻く空気を、押し出した。すぐ隣から、治の怪訝な視線が突き刺さる。怪訝、というか、煽るような目と言っても、良いかもしれない。
ひとしきり、体内の空気を吐き出したところで、ひゅっ、冷えた空気を吸い込んだ。
「帰れ!」
「おい」
「帰れや!?」
「お前、」
聞けや! それか今見たこと忘れろ! ついでに叫びそうになるが、きっと向こうも同じことを考えていることだろう。いいから俺の質問に答えろ。副音声で、聞こえてくる。
すん、と、感情の失せた治の視線が、突き刺さった。
「北さんこと食ったんか……?」
地を這うかのようなトーンが、廊下に響いた。
ぞ、と胃の辺りが冷えわたる。このトーン、昔、聞いたことがある。いつ聞いたんだったか。たしか、えーと、そう。一日限定三十個の、一つ四百円はするプリンを、無断で俺が食ってしまったときの、あのトーンだ。
恨みつらみ以上に、俺の正気を疑う、あの、声。
「え、なになになにどういうこと、面白い気配しかない」
そんな治と打って変わって、角名はパッと声を華やがせた。とはいえ、大の男の声が華やいだって、面白くもなんともない。
治に凄まれ、角名ににやつかれ、ひくり、頬が引き攣った。
「くくく食ってへんし!」
「俺に散々ゲテ食いゲテ食い言うといて、自分もえっぐいモン食うてるやないか!」
「北さんのどこがえぐいっちゅーねん言うてみぃ、ゴルァ!?」
「ぶっふぇぁあ……、なに侑、ついに北さんこと食ったの!」
食うだのなんだのやかましい。食ってへんわ。えっちはしとるけど、食ってはいない。ぶっちゃけ、俺が突っ込むほうで、北さんがぱっくり咥え込むほう。どちらかと言えば、俺が食われているほうではないだろうか。
なんて、そんなことをこいつらは言っているんじゃない。わかっている。だが、こういう場合において、何と答えるのが正解と言えるのか、見当がつかない。
北さんの沽券を思うなら、嘘でもなんで、食ってないと、言うべきな気がする。ちら、と過ったその思考に任せて、再び息を吸い込んだ。
「くってへん!」
「――食うてるやろ」
「ひゅぅわッ……」
すん、と、一瞬にして辺りが冷えわたった。自分の顔が、これでもかと情けなく歪んだ状態で固まる。だが、治や角名が、俺の顔を指さして笑ってくる気配はない。なぜか? そいつらも、さっと唇を引き結んだ状態で、固まっているからだ。
振り向けば、愛おしい人がいる。わかっている。だが、体が上手く、動かない。おかしいな、北さんのこういう声だとかには、もう耐性がついたものだと思っていたのだけれど。こいつらと馬鹿騒ぎをしていたせいで、高校の頃に感覚が戻ってしまった?
は、とか細く息を吐きながら、どうにかこうにか、目線をその人に向けた。
「あっその、ぅゎっ、アッ」
しかし、口から出てくるのは意味を持たない言葉ばかり。どうやってこんな音を作ったんだ、という音まで漏れる。
そんな俺を一瞥した北さんは、す、と、治や角名に、目を向けた。
あ、良かった、今は下に、スエット穿いてくれてる。
「ん? 角名もおったんか」
「アッち、ちわす!」
「おう。……驚かせてすまんな、今、茶ぁ淹れてくるから」
ひたひたと、先ほどまでの情交を一切感じさせぬ足取りで、北さんは台所へと向かう。ぎぎ、と覗き込んだ居間には、客用の座布団が二枚、置かれていた。ついでに居間の窓が開いている。風の抜け具合から察するに、北さん部屋の窓も、開けているのだろう。ああ、念のための換気、てことですね。
はは、ふふ。
「まあ、ゆっくりしてき」
ガスコンロの前に立った北さんは、肩越しに振り返りながら、二人に対してそう言った。
「「ンウィッス……」」
そら、そういう返事になるわな。
◇◆◇◆
結局あの後、治と角名は、晩飯まで食べてから帰っていった。二人そろって、北さんの調理技能に呆然としていたっけ。帰り際なんて、「お前、毎日あんな飯食っているのか」と悪態を吐き付けられたほど。ええやろ、とドヤ顔を向けると間髪おかずに「精々、捨てられないようにな」と鼻で笑われた。誰が捨てられるもんか。北さんの愛の深さを見くびるなかれ。
ついでに、俺が風呂に押し込まれた頃、治は北さんと何か話していたらしかった。何話してたん。これでもかと嫉妬しています、という態度を前面にして治に尋ねれば、次からは北さんに言うてから来ることにした、とだけ返された。お前、アテにならんし。言外にそう聞こえたものだから、一発ずつ殴り合っておいた。
夕方からの怒涛を思い出すと、それだけでどっと肩が重くなる。居間に並べて敷いた布団に滑り込めば、いっそう疲れが全身にのしかかってきた。
「疲れた……」
「お前なんもしてへんやろ」
「えー、えへへ」
確かに、北さんの指摘通り、俺は何もしてない。ただ、治とぎゃーぎゃー喚いていただけ。ちなみに角名は、北さんの隣でちょこまかと飯を作るのを手伝っていた。だって、何もしないの怖いんだもん。北さんを目の前にして、しれっと言ってのけたあいつの肝は、どんな形状をしているのやら。
となると、治と話していただけでこれほどに消耗したということになる。おかしいな、あれくらいの応酬、学生の頃は毎日のようにこなしていたはずなのに。
うつ伏せの状態から、ごろり、仰向けへと寝返りを打った。
すると、ちょうど俺の頭の隣辺りに、北さんは腰を下ろした。胡坐ではなく、正座。このまま寝返りを打てば、膝枕でもしてもらえそうな位置。え、膝枕、してくれるん?
ほけ、と北さんを見上げてみるが、あの、甘やかしてくれる時の雰囲気ではない。むしろ、起き上がったほうが良い気がする。何度か瞬きをして、北さんの様子が変わらないのを確かめてから、ぐ、体を起こした。
「……すまんな」
「え、何がですか」
起き上がって早々に、北さんの口から不可解な言葉が飛び出した。何か、謝られるようなこと、あったろうか。……しいていえば、行為を中途半端に終えてしまったことくらいだが、あれはどちらが悪いという話でもない。なんなら、上手く立ち回りそびれたとか、そもそも治の来訪メールを見逃していたという点では俺のせい。謝るとしたら、こっちのほう。
北さんが、そんなことを言わなければならないこと、あったろうか。心たりは、ない。
意味が分からずに首を傾げると、その人はわずかに眉尻を下げた。
「知られて、もうたし」
知られる、とは。
ぱちぱちと瞬きをして、ああ、治と角名のことかと思い当たる。なんだ、そんなこと。治はさておき、角名に関してはだいぶ前に勘付かれていた。だから、それこそ謝るようなことじゃない。
それに、俺自身は誰に知られようと、どうたっていいのだ。当事者は俺と北さん。その二人の間で納得されたものであるのなら、他人にどうこう言われる筋合いはない。
……ああ、そうか。俺は気にしないが、北さんは気にするのか。去年の今頃、そういう話で揉めた覚えがある。
「……北さんは、」
「ん?」
「嫌、やった? あいつらにバレて」
「……あいつらで、良かったとは、思った」
その場では茶化してきたけれど、外であれこれ言いふらして回る奴らではない。角名は、危ないかもしれないが。稲高OBにぽろっと言ってしまうことはありうる。それこそ、アラン君とか、銀とかには。……まあ、その程度で済むのなら、なんら問題はないか。少なくとも、俺にとっては無問題。北さんにとっても、そのあたりの面子ならば、まあ許容範囲ではないだろうか。
「けど、」
「けど?」
おや、まだ続きがあるらしい。続きを促すように首を傾げると、そっと北さんの目線が彷徨った。
「んん……なんやろ、治に知られたあの瞬間は、ああ終わった、て思ってもうた」
「……それ、は、アーどういう意味?」
「……お前のこと預かってんのに、手出してもうて、見せる顔がないのに、て意味」
「え」
手を出したのは、俺のほうでは。ちら、と過るが、北さんのほうが年上だから、そういうことになってしまうのだろうか。いやいや、それこそ、小中学生を預かっているのとはわけが違い。それに、預かるていうより、ルームシェアのほうがイメージ近いし、なんなら気分は同棲だし。
北さんは、なんでも物事を小難しく考えすぎなのでは。そう思う自分もいるが、自分があまりにも単純というのも事実。足して二で割ったら、丁度いい人間になれるのかもしれない。
「もしかして、俺の親とかに知られんのも、抵抗あります?」
「ん、んん、そうやな。面目立たへんし」
「じゃあ、学生の間は難しいんすね」
「……学生の、間は?」
「はい。学生の間は、ほら、北さんに世話になるわけやし、あ、いや、アレッ北さんて六年制すよね、俺四年までここいてええ?」
「あぇ、おん、それは構わへんけど」
「じゃあ、俺が卒業したら。そしたら、うちの親に、紹介」
「待って」
「え」
突然言葉を遮られ、間抜けな声が零れた。俺、そんな変なこと、言ったろうか。北さんが俺を預かっている、ということになっているのなら、この人の面目立たない状況は俺が学生の間までということになる。だから、社会人になったら、あんたのこと、うちの親とか、ジジババに紹介したいと思ったのだけれど。もちろん、大学四年間、世話になった恩人、という意味ではなく、伴侶として一生を添い遂げたい人として。
何を言うでもなく、北さんから「待て」を解いてもらうまで、じ、と見つめる。いつの間にか、北さんの眉は、すっかりハの字を描いていた。
「なに、しょうかい、て」
「……紹介は、紹介ですよ。俺、この人とけっこん」
「待て」
あ、また、遮られた。人の話は最後まで聞きましょうって、習ったでしょう? すべての状況下において、最後まで人の話を聞くことが正しいのかというと、そうでもないことも多いから、小学生の頃の口伝えの教えはいい加減だ。
二度も、遮られた。つい、むっとしてしまう。
今度は、その人が何かを言い出す前に、口を開いた。
「俺、北さんと結婚したい」
「う」
「本気です」
「……あ、っと」
「言いましたよね、俺、あんたのこと一生手放しません、て」
「それは、確かに聞いた。でも」
「でも? でも、なんですか。北さんも言うてたやん、俺への愛、ぜんぶ、全部くれるって!」
「ッ言った、それは、」
「それは?」
気付くと、膝の上に置いていた手を固く握りしめてしまっていた。これじゃあ、指だとか手が傷んでしまう。楽に、緩めないと。そう、思うが、ぎりぎりと指先は手の平に食い込んだ。
痛い、はずなのに、なぜか痛みがわからなかった。
「お前と、俺との間で、完結する話やろ」
ぽつ、と北さんは言い放つ。俺と、あんたの間で完結する話。それは、なんとなくわかる。俺と、北さんの間で、良しとされたのなら、それ以上、外野にとやかく言われるものではない。そこまでは、俺だって一緒だ。
何が、この人との間で、すれ違っているんだ。
その答えを、北さんは舌に乗せる。
「少なくとも俺は、お前みたいにカムアウト、できない」
「え、」
「家族……、親とかばあちゃんに、お前との関係は」
ぴた、と、最後の言葉を言わずに北さんは閉口した。ねえ、そこ、大事なとこですよ。言えるか、言えないかで、結構違うじゃないですか。
それと、もう一つ。言いたい理由。言いたくない理由。それが、家族のためであるのか、あんた自身の自己満足のためなのか。それを、知りたい。もし、北さんの家族がこういう、異性愛以外ことに過剰な偏見を持っていて、言ったら直ちに絶縁されるとか、そこまでいかなくても白々とした扱いを受け続けなければならないのなら、仕方がない、とも思う。
だけど、もし。
「なんて、説明したらいいかわからんし、」
もし、北さんが、「俺が恋人であること」、それ自体を、恥ずべきこととして、隠したいと思っているのなら。
「あの人らには、――お前のこと、知られたくない」
ああ、ここか。ここで、すれ違っていたのか。
「俺って、」
自分でも驚くほど、冷たい声が出てきた。というか、この人に対して、こんなにも温度のない声を吐き付けられるとは、思いもしなかった。
「俺って、あんたにとって、他人に説明できない関係の男なんすね」
「そういうんと」
「そういうことやんな」
俺、間違ったこと、言うてます? 言うてへんよな。
腹の底から、憤りと一緒に、凍り付きそうなほど冷たい諦念が込み上げてきた。
「俺、あんたと、恋人なんやぞって、自信もって言える関係になれたんやと、思ってた」
だが、それはあくまで俺からの視点でしかなかったらしい。この人にとっては、俺は、隠すべき存在。恋人と、外に知られてはならないような、存在。
「恋人は恋人でも、――ちゃうねんな」
悔しい。
自分は、北さんにとって、ちっぽけな存在だったなんて。