待宵

 奇跡は、部活帰りのドラッグストアで起こった。
 カランカランと鳴り響く鐘に、思考回路が追い付かない。黄色い法被の男は、やたらと大きな声で「おめでとうございます」と叫んでいるし、隣にいる女はにこやかにポケットティッシュ二つと、一枚の封筒を差し出してくる。
「は」
 それでもなお、状況がつかめず、口からは間抜けな声が漏れた。
 混乱したまま下を向けば、よくある福引のガラガラ。トレイには、三つの玉が入っていた。
 そのうち、二つは白。いちばんたくさんガラガラの中に入っているだろう色だ。それが出たときの景品と言えば、ポケットティッシュ。ローションティッシュのような、滑らかな肌触りではないやつ。鼻をかもうとすると、じりじり擦れて痛い、あのティッシュ。この福引でも、白玉はポケットティッシュらしい。現に、女性店員はポケットティッシュを二つ差し出してきているし。
 問題は、残り一つの玉だ。赤でも、金でもなく、黒。ころん、と落ちてきた時も「ん?」と思った。黒玉。こういうガラガラに、黒玉なんてあるんやな。何等なんやろ、パッとした色ちゃうし、下から数えたほうが早そう。そう、転がり出てきたときは思った。
 の、だが。
「おめでとうございます、特賞ですよ!」
 呆然としながらも差し出されていた景品三つを受け取ると、ようやくやかましい鐘の音が止まった。大きなその鐘は、机の上に着地する。
「とくしょう?」
 ティッシュが二つ、封筒が一つ。それから買ったばかりのトイレットペーパーと、日用品が詰まったレジ袋とを手に、ぐでんと首が傾いた。
 とくしょう、とは。こういう福引って、数字に「等」がつくのではないのか。なぜ「しょう」。というか、「とく」てナニ。
「ええ、特賞・箱根温泉、ペア宿泊券でございます」
「ぺあ」
「箱根ですよ~、おめでとうございます」
「はこね」
 待ってくれ、次々と情報を与えないでくれ。バレー以外のことに関しては、あまり頭の回転が速いほうではないのだ。いや、悪戯とか、そういう方面では案外優秀な脳みそにはなっているけれど。いかにオトン・オカン・じいちゃん・ばあちゃんを慌てふためかせるか、片割れと一緒になって企んでは「あほなことしな!」と叱られてきた。あれ、叱られとるわ、全然優秀とちゃうやんけ。
 いや、そんなんどうでもええねん。
 特賞。箱根温泉。ペア、宿泊券。……箱根。
 言われた言葉をどうにか繋ぎ合わせる。と、店員二人の後ろに貼られているポスターが目に留まった。ああ、この福引だったのか。創業云周年の、ご愛顧感謝祭。一等は某テーマパークホテルの宿泊券、二等は電動自転車、三等が米五キロ。あ、米ええな、米。テーマパークに行くよりも、移動が楽になるよりも、食いものがほしい。それに、米当てたら北さん喜びそうやし。
 でも、もう福引した、よな。
 もう一度、視線を下へと落とした。右手の中にある、ポケットティッシュ二つ。それから、よく商品券が入っている横開きの白い封筒。
 よろよろと福引の机の前から離れた。後ろで待っていたおばちゃんに不審な目を向けられたが構ってはいられない。
 特賞。箱根温泉。ペア、宿泊券。一度頭の中に並べた単語を再び脳内に浮かべる。
 買ったものを左手に持ったまま、どうにかこうにか封筒を開いた。入っているのは、茶色の紙切れ。一番上には、白い文字でホテルの名前が書いてある。それから、中央には、大きく、はっきりとした文字で「ペアご宿泊券」と、ある。
 ひゅ、と、喉が鳴った。
「ッペアご宿泊券!?」
「おめでとうございます、三等、新潟県産コシヒカリ五キロ~!」
 叫んだ瞬間、後ろのほうからまたもや鐘の音が響いた。あのおばちゃんは、見事米を当てたらしい。めでたいな、でも俺も米欲しかった。
 この紙切れ、一体どうしたらいいのだろう。
 宿泊券の使い方なんてわからない。いっそ、その辺にある金券ショップにでも持ち込んでしまおうか。米五キロの足しにはなる気がする。
 待て待て待て、北さんやったら、こういうサービス券の使い方、知ってるかもしれへんし。……つか、こういう券て、あれやんな、この券に書いてあるホテルに電話して予約すれば良いだけ? それやったら、わかるわ、使い方。ごちゃごちゃと悩む必要なんて、なんもない。
 え、そしたら俺、予約したらええの。いつ? 誰と?
 いつ、というのは決めがたいが、誰、というのは悩まなくていい。北さんだ。だってペアやもん、二人で出かけるんなら、北さん以外に思いつかんし。
 北さんと、旅行。箱根温泉に。二人で、お泊り。
「おと、まり?」
 店の自動ドアを潜ったところで、ハッとした。昨晩、お泊りしたばかりだ。それも、宿泊券に書いてあるような旅行や出張で使うような宿泊専用の施設ではなく、いかがわしいことをするための、施設に。また、お泊り? 北さんと?
 ドッと心臓が跳ねる。
 よく考えてもみろ、温泉だ。温泉旅行。こんなの当たりました、と渡したところで、下心があるものと思われるのではないか。温泉やで? 風呂やで? 裸の付き合いするんやで?
 まして、セックスるするとかしないとか、そんなことですったもんだした直後。このタイミングで、温泉旅行を切り出せって? あまりにも難易度が高い。言う分にはどうにかなったとしても、北さんが「ええな、行ってみよか」と言うだろうか。……言うてくれない、気がする。たぶん。
 やっぱ、金券ショップに持ち込むのがええんかな。それか、彼女持ちのチームメイトにくれてやるとか。ああ、結局そうなりそう。目に見える。
 昨日の今日じゃ、北さん、こういうのに乗ってくれるわけ、ないしな。

「温泉? 行く」

 ヘッ。帰宅して早々に、福引の話と共にティッシュ二つと、その白い封筒を差し出すと、愛おしい人はパッと表情を明るくさせた。
「これ期限いつまでなん? お前、十二月からしばらく留学するんやろ、インカレもあるし」
「あ、はい……、え、待って待ってそんな、エッ」
「どした」
「どうしたも、こうしたも……」
 俺が持って帰ってきたレジ袋の中から、北さんは食器洗い用のスポンジを取り出した。五個セットのそれを早速開けて、今、流しに置いてあるものと取り換える。使い古したスポンジは、ぽん、とシンク掃除用のカゴへと放られた。
 俺に背を向けた北さんは、上機嫌に鍋を洗い始める。そ、と視線をずらせば、大皿の上に肉じゃがと思しき煮物が入ってた。芋と人参と、グリンピースが見える。ただ、肉らしき物体が見当たらない。
「……北さん、今日のおかず、肉じゃがですよね」
「肉入ってへんけどな」
「入ってないんかい! それやとただのじゃがじゃがやないですか」
「はは、ええなそれ、じゃがじゃが」
「なんで肉妥協したんですか……!」
「スーパー行こ思てたんやけどな、目ぇ覚めたらもう夕方やってん」
「それでじゃがじゃが?」
「肉以外のモンはあったからなあ」
 明日こそはスーパー行かなあかんわ。そう続けながら北さんは水を流す。手元を覗けば、鍋についた泡が瞬く間に洗い流されていった。
「……あの、ですね」
「ん? もう作ってもうたから肉足せへんで」
「や、じゃがじゃがやなくて」
 ひとまず、差し出された鍋を受け取って、食器用の布巾で水気を拭う。イマイチきれいに拭きとれないのは、思った以上に布巾が濡れていたからか、それとも布巾の取り換えどきだからなのか。確かにへたってきたようには思う。何度も洗っているせいで、毛玉もできているし。新しい布巾、出したほうがええかな。でもまあ、夕飯の片付け終わるまではこれ使おか。
 コンロの上に鍋を置いて、ぎゅ、と持っていた布巾を絞った。シンクの上に、ぽたぽたと水が垂れる。
 ちら、と、絞る力そのままに、北さんを見やった。
 ほど近いところにある瞳と、目が合う。
「温泉旅行の、ハナシ」
「あぁ。……まあ練習あるしな、都合つかんのやったら無理せんでも」
「や、時間くらいどうにでもしますけど」
「けど?」
「……え、っと」
 きょとん、と北さんは首を傾げる。時間の都合つけられるのなら、行ったら良いじゃないか。そう言いたげだ。
 この人は、昨日の出来事を忘れてしまったのだろうか。泊りで出かけて、ソウイウコトを、したの。てっきり、下心あるんちゃうか、と怪訝な顔をされるものだと思っていたのに。
 あちこちに目を泳がせながら、言葉を探す。そんなきれいな目を向けないでほしい。疚しい自分が見透かされそうで、ひやひやする。
 この様子から察するに、北さんは「温泉旅行」という文字列に一切の邪心を持っていない。手を出されるかも、という憂慮すら感じていないのだろう。
 俺が、意識しすぎているだけなのか。変な気を起こすほうが、おかしい。そうだ、ただの旅行。二人でちょっと遠出するだけ。露骨なえっちのお誘いなんかじゃあ、ない。ないのだ。断じて。違う。
 ごくり、いつの間にか溢れそうになっていた唾液を、飲み下した。
「き、北さんは」
「おん」
 俺と、温泉に行ったら。めちゃめちゃに犯されてしまうかも、て、思わないんですか。
 ……そう、聞いてしまいたい。だが、その返事を聞くのも、恐ろしくて仕方がない。いざ尋ねたとき、それなら行かないと答えられたら、凹むし。
 喉元まで込み上げてきた、あからさまな言葉を、ごくん、唾を飲むのと同じように腹に流し込んだ。
 そして、どうにかこうにか、口を開く。
「……いつやったら、時間、とれます?」
 ――些か急ではあるものの、件の温泉旅行は九月末の週末に行くことになった。連休ともずれたおかげで、電話一本で予約は完了。
 二泊三日の箱根旅行。行くまで半月と残っていない。
 その間に、この関係は、進展するだろうか。体を、重ねるというほうの意味での進展、するだろうか? 情けないが、このまま平行線を辿るような気がする。でも、もし、ちょっとでも進めば、旅行中も期待できる?
 えっち、したいな。誘ってみよかな。昨日、散々触らせてもらったから、今日は控えるとして。明日とか、明後日とか。この前はできませんでしたけど、してみませんか。そんなふうに強請ってみよう。
 楽しみや。そうにんまりとする北さんに後ろめたさを抱きつつ、再び生唾を飲み込んだ。

◇◆◇◆

 決戦は金曜日。
 そんな歌を作ったのは、誰だったか。すぐに思い出せなくて、スマホで検索をかけると、なんと自分が生まれるよりも前に作られた曲だった。つか、この人ら、俺の年より長く活動してるんか。すご。
 そんなことを調べたスマホから顔を上げると、すっかり外は緑で溢れていた。この程度で自然でいっぱい、と言ったら、鼻で笑われてしまうだろうか。それでも、普段過ごしているところより、青々とした木々に囲まれているのは間違いない。
 ひょいとバス停に降り立つと、なんだか空気が冷たく感じた。実際、都内よりも涼しいのは確か。
 冷房を嫌う北さんには、寒いくらいだったりして。そっと隣を見やれば、いそいそと薄手のパーカーを羽織っているところだった。……さすが北さん、準備の良いことで。「俺の上着、貸しましょうか」というイベントを鮮やかに回避。見たかった、俺のパーカー羽織って歩くトコ。
「ん?」
「……ホテル、どっちですっけ」
 早速込み上げてきた下心を腹の底に隠し、へらっと笑って見せた。きちっとパーカーの前を閉めた北さんは、ああと顔を上げる。す、と持ち上げられた腕。その先にある人差し指が、ぴんと立った。
「あれちゃう?」
「あ、ほんまや。写真で見たまんま」
 指差した方向を向けば、確かにネットで見たとおりの建物があった。バス停から徒歩七分。少し距離がある? とも思ったが、これなら迷わずに着きそうだ。
「フツーに泊まったら、いくらするんでしょうね」
「知りたい?」
「え、調べたんですか」
「ん、これくらい」
 そう言いながら北さんはスマホを取り出した。滑らかに指を滑らせて、予約したホテルのホームページを表示する。わずかに傾けられた画面を覗き込めば、ヴ、と言いたくなる数字が書いてあった。バイト代をためれば、まあどうにか。だが、学生がぽんと出すには……、ちょっとした覚悟が必要そう。
「……宿泊券、様々ですねえ」
「おん。すごいもん当てたな」
「はは、いらんとこで運使ってもうたかな」
「大丈夫やろ、お前強運そうやし」
 ふ、と北さんは口元を綻ばせると、建物のほうへと歩き出した。トッと地面を蹴るようにしてその隣に並ぶ。どことなく足が急いでいるのは、浮かれているからだろうか。
 そういえば、家を出る時から、北さんは上機嫌だった。曰く、温泉に行けるから。それも二泊三日。一泊だと慌ただしくなってしまうが、二泊できるのならゆったりと観光もできる、とのこと。
 旅行なんていつぶりやろ。そんなことも言っていたっけ。
 俺にとっても久しぶりだ。中学に入ってからは、ずっと部活漬け。合宿の遠征はあっても、観光するための旅行なんて、もう何年もしていない。それこそ、十年ぶりとかになってしまうのでは?
 俺の二歩ほど前を歩く北さんを見ていると、それだけで頬が緩みそうになる。
 ……えっちなことも、してええんかな。
 結局、旅行に至るまでの間に、北さんに手を出すことはできなかった。それとなくしたいアピールをしてみたり、わざとらしく腰を抱いたりしてみたけれど、この人を陥落させることができなかったのだ。家ではしない、という決意の表れなのだろうか。でも、キスは許してくれる。深く口付けながら、腰を撫でるのも、とりあえずはオーケー。ただ、それ以上の行為はできずにいる。ひょいひょいっと躱され続けて、今日に至る。
 この間、痛い思いをさせたからなんかな。それとも、これでもかと貪られたので懲りたからか。
 この旅行でも、無理をしないのが、安牌なのかも。もしするとしても、ペッティングまで。そんで、一晩中する、なんてこともしてはいけない。もししようものなら、北さんの「ゆったりと観光できる」という楽しみを、奪いかねない。
 でも、でも。理性と欲がぐるぐると絡まりながら頭の中を駆け巡る。
 えっちしたい。しちゃいけない。
 触れるくらいなら許される? 触れる程度で満足できるだろうか。
 また、デートした日のように際限なく求めてしまったら。北さん、もうしない、って言うのでは?
 いやいや、二人っきりの旅行なのだし、北さん、腹を括っているかもしれないし。……それは、ないか。そういう覚悟を決めていたのなら、「ゆったり観光」とは言わない気がする。
 あかん、考えすぎて頭痛くなってきた。出来の良くない頭を、使いすぎた。
 やめやめ、この人と駆け引きなんて、できるわけがない。どう足掻こうと、北さんの手の中で転がされてしまうのだから。変に頑張って、この人を疲れさせてなるものか。とにかく「楽しい」でいっぱいの旅行にしよう。そうしよう。
 ぐ、と決心したところで、この三日間、世話になる宿にたどり着いた。

 チェックインをして、荷物を置いて、散策へ。正直、面白かったかと聞かれると、よくわからない。終始、北さんのことを考えていたせいで、何をしていたのか、よく覚えていないのだ。考えるの、やめよ。そう思ったはずなのに、何をしているのやら。自分に呆れたところで、愛おしい人のことを考えずにいることもできない。
 一つのことで頭がいっぱいになるなんて。こんなこと、あったろうか。……ただし、バレーは除く。あれはもう、俺の人生に不可欠やから。
 宿に戻れば、夕飯時。たらふく食って、胃を満たして、部屋に戻る頃には、来た時にはなかった布団が二組、ぴしと並んで敷いてあった。もちろん、くっついては、いない。そりゃあそうだ、男女で来ているならお節介を焼いてもらえたのだろうが、男二人。こんなもんだ。
 恋人には、見られない。……むなしいな、と思うのは、悪いことだろうか。
「侑?」
「はェァッはい!?」
 唐突に、顔を覗き込まれた。そのあまりの近さに両肩が跳ねる。どころか、びょんと飛び退いてしまった。勢いあまって、後ろに数歩、よろめいた。どご、と、襖にぶつかってようやく体は止まる。
 ぱち、北さんの目が、見開かれた。面食らったというか、吃驚したというか。そのまま目を瞬かせてから、北さんは小さく噴き出した。
「緊張しすぎちゃう?」
「ぬ」
「今日一日、ずっとそんなやん」
「んなこと! ……ないこともなくもないんですけどお」
「どっちや」
「うぅう、めっちゃ緊張、してます」
「やっぱりな」
 一歩、北さんはこちらに近寄りつつ、呆れたため息を吐いた。その顔には、ほんのりと困惑が滲んでいる。
 あれ、楽しいでいっぱいにする予定だったのに。そんな顔をさせてしまうなんて。どこを歩いても、心ここに有らずの態度でいたから?
 俺だって、そんな姿勢でいたくはなかったんですけどね、気付いたら色々考えあぐねてしまってですね。……どれもこれも、言い訳だ。何を言っても、北さんが「しゃーないな」と納得はしてくれまい。
 う、どう、しよう。
 頭を働かせたところで、コレという答えは出てこない。一歩、また一歩と北さんに歩み寄られるたびに、思考は焦って、磨り減っていく。視線は、前から、下へ。ずんと重くなって、畳ばかり、見つめてしまう。
 ひたり。その下を向いた視界に、自分じゃない足が入り込んだ。
「なあ」
「はい」
「退屈やった?」
「……え?」
「箱根。俺の行きたいとこばっかやったし、暇やったかなて」
「ぁえー、っと」
 正直に、暇でしたと答えてはならないのは、わかる。ポンコツでもそれくらいは察せる。だが、嘘を言って貫き通せる自信もない。いや、北さんのことばかり見て一日過ごしたから、暇だったと言い切るのも違うような。
 いつもなら、ぽんぽんと言葉が出てくるのだが、どれも喉につっかえて上手く声にできない。
 ああ、俺、ほんまに緊張してるんやな。
 思い返せば、北さん上機嫌やな、とは思っていたけれど、まともに会話した覚えがない。んーとか、あーとか、そんなんばっか。
 やらかした。気付くと同時に、ふつふつと後悔が押し寄せてくる。いちばん、嫌いな感覚だ。あの時こうしていれば良かった、ほど不毛なことはない。どうやったって、過去に戻ることはできないのだから。
 言葉を見つけられないまま、がり、髪を乱した。
「あつむ」
「う、ぉわ」
 そのうちに、頬を包まれた。抓るとか、引っ張るだとかはせず、ただ、包まれる。その手の平は、やけにひんやりとしていた。そりゃあ、俺のほうが体温は高いし、今だって顔に血が集まってきているから、北さんの手が冷たいと感じるのもおかしくはない。が、それにしたって、冷たすぎやしないか。
 おそるおそる、伏せていた瞼を持ち上げた。すぐそばに立っているだろう、その人に、目線を向けた。
 ――飛び込んできたのは、どこか寂しそうな表情。
「何にそんな悩んでるん」
 脳内に、警鐘が響く。先ほどの困り顔を見た時よりも、けたたましく鳴り響く。そんな顔をさせたいわけじゃない。だって、せっかく二人きりの旅行なのに。
「悩む、と、いうか」
「おん」
「……あの、引きません?」
「引かんから、言うてみ」
 するり、頬を包んでいた手の一方が滑るように離れていった。代わりに、俺の頭にぽんと乗る。指を髪に通すようにくぐらせると、子供をあやすようにその手は俺の頭を撫でてきた。
 子ども扱いしないでください、とは、とてもじゃないが口にできない。北さんにとっては、子供をあやしているのと変わらないだろうし、なにより、こういうふうに撫でられるの、嬉しいと思ってしまう自分もいるし。
 北さん、なんでこんな、ガキみたいな俺のコト、好きでいてくれるんやろ。調子のムラも激しいし、あれこれ考えすぎて、空回りすることばかりだってのに。
 えっちも、上手く、できへんし。……あの日、できなかったこと、俺は思ったよりも引きずっている。もしかしたら、北さん以上に。どうしてだろう。ちゃんとリードできなかったから? 自制することができなかったから? その日は達成感のほうが強かったけれど、今となっては反省点だらけ。
 好きなのに、上手く立ち回れないのがもどかしくて仕方がない。
 優しくも真っ直ぐな目を見ていられなくて、うらり、視線を泳がせた。
 人と話すときは、目を合わせて話しなさい。小学生の頃から言われてきたコトだが、とても全うできそうにない。疚しいことに気を散らしているだけなのに、大真面目に心配してくれているんだぞ。目を合わせて返事なんて、できるわけがない。
 視線を逸らしたまま、もそり、唇を波打たせた。
「……えっち、したいなって」
 ああ、言ってしまった。極力視界に入らないようにしているから、今、北さんがどんな顔をしているかわからない。想像したくも、ない。だって、絶対呆れてはるもん。何をあほなことで悩んでいるんだと、盛大なため息を吐かれたっておかしくない。
 北さんにとっては、くだらないことでも、俺にとっては重大なことなんですよ。えっちするとか、しないとか。一回やらかした汚名、返上したい。だが、どうもその機会を掴めない。
 セックスに、執着する質じゃあなかったのに。この人となると、どうもこれまでの自分が覆されてばかり。
「でも、我慢せんと、あかんよなって」
 ぼそぼそと、尻すぼみに付け足した。家で躱されまくった日々が思い起こされる。アレを思うと、今日だって、やらしいこと、しちゃいけんだろうなと思うのだ。
 ただ、俺個人の我儘を言えば、したい。めちゃくちゃしたい。じゃれるのではなく、そういう、欲を満たすための触れ方をしたい。
 いっそう、顔が熱くなってきた。恥ずかしいことを言ってしまった気がしてならない。気がする、なんてもんじゃないか。言ってしまったのだ。
「侑」
「はい」
 凛とした声で、名前を呼ばれた。
 その凛々しさが、心臓に突き刺さる。きりきりと肺を締め付けてくる。息もしにくくなってきた。
 叱られる。正論で、殴られる。その衝撃に耐えるべく、ぎゅ、目を硬く瞑った。
 しかし、その目は、すぐに見開かれることとなる。
――俺はそういうつもりやったんやけど」
 ぱち、ぱち、と、目を瞬かせた。目を逸らしていたのもあって、視界に北さんの姿はない。どこへ? 考えるまでもない、正面を向き直れば良いだけのこと。
 さ、と視線が素早く移動した。
「へ」
 その俊敏さとは打って変わって、口からは間抜けな声が漏れる。
 なんと言った。今。北さんは。いや、聞き取れてはいる。ただ、信じられないだけで。
 はく、空気を吸い込もうと、唇が宙を食んだ。
「そういうって、え、どっち」
「するつもり、のほう」
「うそ」
「……お前悪い癖やで、俺の言うこと、真っ先に疑うの」
「うぇッあ、すんませ、ん」
 咄嗟に謝ってしまうが、まだ、信じられないことにかわりはない。
 北さんがそんなこと言うもんか。いつだって、高校時代のこの人の影に引きずられて、目の前の言葉を受け止めそびれてしまう。
 意を決して、俺の頬を撫でる手に、自分のそれを重ねた。
「えっち、していいんですか」
「良いも何も、するつもりやったって、今言うたやん」
 重ねた手は、やはり冷たい。平も、甲も、ひやりとしている。人間という生き物は、緊張すると手が冷たくなるという。じゃあ、北さんも今、緊張しているのか。……どうだろう、パッと見た限りでは、切羽詰まっているとは思えない。
「家いたときは、避けてたやんか……」
「そら避けるわ」
「なんで?」
 情けなく恨み言を漏らせば、これまた淡々と返されてしまう。やはり、緊張していないのではないか。俺ばかり、気を急いているのでは。縋るように北さんの手を握り込んだ。
 きっと、今、自分は未だ嘗てないくらいの恰好悪い顔をしている。眉はハの字、唇はヘの字を描いて、頬はがちがちに硬くなっている。強張っている。男前が台無し。そんな顔、本当は晒したくない。かといって、取り繕う余裕などない。
 みっともない顔のまま、じぃいっと北さんを見つめた。
 すると、ぐ、北さんの眉間に皺が寄る。ほぼ同時に、目が泳いだ。斜め下に向かって、上に登って、また下へ。もにょり、目が合わないまま、北さんの唇が開いた。
「準備、足りんかったなて、思ったから……」
「準備てなんすか」
「いろいろ」
「いろいろ?」
「……いろいろ」
 いろいろ、てなに。そこ詳しく聞きたいんですけど。そもそも、なんの準備だ。や、それはわかる。話の流れから、えっちの準備だということは、わかる。
 えっちの準備? ゴムとかローションのこと? まさか、それはそれで必要だが、必需品たるそれの準備をするのは、北さんだけの仕事じゃない。むしろ、俺が用意すべきもの。
 じゃあなんだというのだ。準備。じゅんび。えっちするための、準備。北さんがしなきゃならない、セックスに向けた準備、とは。
 ふと、あの日の痴態が、脳裏を掠めた。
 この人の自身の指が、後ろに伸びたところ。躊躇いなど、ほとんどなく、その指を埋めたところ。自分がイイところ、この人は確かに、知っていた。
「ッまさかあんた自分で開発して」
「か、開発はしてへん」
「してるようなもんやろ!?」
 忘れたとは言わせない。俺が触れているとき、あんた言うたよな、もっと奥って。
 どこを触ったら自分が気持ちよくなれるか、自ら拓いて覚えてきたのだろう? それを開発と言わず、なんと言う。なにも感度を高めることだけが開発ではない。と、思う。
 わなわなと、口が震える。声まで震えてしまいそう。
 そうやって、ひそやかに、俺を受け止める「準備」をしていたなんて。そうなのかも、とは薄々気付いてはいたが、いざ目の当たりにすると、動揺と興奮で視界が揺れてしまう。
「俺の、いれられるよう、自分でシてたてことやろ」
 這い出てきた声は、案の定震えて、裏返りかけていた。
「……皆まで言うなや」
「んもおおおお、言うてくださいよ、そしたら俺」
「手伝ったって? あんなはっずかしいとこ、見せられるか」
「もっと恥ずかしいことするのに!?」
 セックス以上に恥ずかしいことなんてありますか。ないと思うんですけど、あるというのならば教えてください。
 食い気味に両肩を掴むと、びくんとその肩は上下した。あわせて、泳いでいた目が俺のほうにやってくる。ぱちん、と火花が飛んだ瞬間、その人の口から小さな呻きが聞こえた。
「それは、そうかも、しれへんけど……」
「も、俺、拒否られてるんやろかって」
「そういうつもりはなかった、その、……悪かった」
「じゃあ今度から俺にさせてください」
「……なにを」
「じゅんび」
 ぎり、指先が力み、掴んでいた両肩に食い込む。たちまち、眉間の皺が深くなった。痛かった? いや、そういう不快感で顔を顰めたわけではなさそうだ。どちらかというと、俺の主張のほうに、不満を持ったと見える。
「……いや、無理やろ」
 ほら。離せじゃなく、そういう受け答えをする。
 だが、ここまで迫って、退く俺ではない。肩を掴んだまま、今度はずいっと顔を寄せた。額はもうぶつかる寸前。う、とあの北さんがとたじろぐほど。
「やです、させてください」
「ほんまに、……あのなあ、拡げる前にもいろいろすることあんねんで」
「覚えます」
「覚えんな」
 北さんも頑なだ。それだけは譲らないと、曲げてくれない。
 ええやんか、させてくださいよ、準備。俺のためにしていることなんでしょう? だったら、俺がします。ただでさえ負担を強いるのだ、やれることがあるのなら、なんだってする。
 といのは建前で、後ろを弄るのなら俺がやりたいというだけのこと。手ずから、仕込みたい。やりたい。やらせて、ほしい。
 本音をごくんと飲み込み、建前のほうを畳み掛ける。
「何がそんな嫌なんですか、俺なんでもしますよ!」
「ッそんなん言うたかて、ナカ洗うとこからさせられるわけないやろ!」
「しますか、」
 ら。
 その音が舌に乗る前に、疑問符が入り込んだ。弄るとか、解すとか、その範疇にない言葉を発せられた気がする。
「……あらう?」
 拙い音で、聞き取ったと思しき単語を繰り返した。
 さっと、北さんの顔に朱が差す。羞恥が滲む。何事も清潔に整頓する北さんが好みそうな言葉なのに、なぜ、そんな顔をするのだろう。
 理解が追い付かないまま、さらに頭上に疑問符が浮かぶ。
 はく、と、北さんの唇が空気を食べた。同じように二口、三口と宙を噛む。と、赤くなりだしていた顔が、ボッ、発火した。どことなく、目も潤んでいる。瞬きをしたら、ぼろりと涙の雫がこぼれてしまいそう。
 そんなまずいことを、俺は聞いたのか。いやいや、北さんが発した言葉の意味がわからなくて、聞き返しただけ。だけの、はず。
 呆けたまま見入っていると、真っ赤になった北さんの口が、ほんの数ミリ、開いた。
「ケツ穴使うんやから、洗わんと、」
「……え、でもこの間」
「駅で便所、寄ったやん」
「あ」
 ぼそぼそと、珍しく聞き取りにくい、声を出す。これだけの至近距離じゃなかったら、聞き漏らしてしまっていたかも。
「シモの世話まで、されるんは、ほんまに恥ずいから……」
 そこまで早口に、震えながらも言い切ると、ぱたん目を伏せられてしまった。潤んでいた瞳が、覆い隠される。分厚い水の膜を纏った北さんの目、きらきらしてきれいだったのに。
 さておき、だ。必死に北さんが絞り出した言葉をようやく頭は理解する。女と違って、それ専用の器官ではない。本来の役割を思えば、洗わなければならないというのも、なるほど必要だろう。
 ……俺がやります、というのを突っぱねたくなる気持ちも、よくわかる。まあ、やっていいと言われたら、するかもしれないが。だって北さんやもん。この人のカラダのコトなら、なんだって知りたい。だからこそ、解すのはやらせてくれ、と主張しているわけだし。
「あの、でも、その、」
「文句あんのか」
「……洗ったあとからは、俺にも、やらせてほしいです」
 そこからで良い。その段階からで、構わない。あんたの体を作り替えるコトは、俺にさせてほしい。
 じり、とさらに顔を寄せると、汗ばんだ額がぶつかった。ついでに鼻先も擦れる。下を向いていた睫毛が、びく、震えた。一拍置いて、瞼が持ち上げられる。濡れた瞳が、顔を出す。
 ――やっぱり、きれいだ。
「させて?」
「ぅ、ぐ……」
「おねがいします」
 ほとんど吐息で言いながら、唇を重ね合わせた。薄いくせに柔らかなソコがじんわりと沈む。このまま、深く口付けてしまいたい。でも、問いかけたからには、返事も聞かなければ。舌を捻じ込みたい衝動を押し殺し、ゆっくりと、唇を、離した。
 さ、おへんじ、は。
「わ、かった」
「言いましたね、絶対ですよ、やっぱナシとかやめてくださいね、やめてくださいねッ、やめてくだ」
「しつっこい、わかった言うたやろがッ」
 咄嗟に迫ると、ドッと胸を叩かれた。ついでに顔も背けられてしまう。真っ赤に染まった頬と、同じくらい真っ赤に色づいた耳が見えた。
 可愛い。色っぽい。きれい。えろい。めっちゃ、かわええ。男を形容するには、あまり使わないだろう単語が次々と浮かんでくる。なんなら、今すぐにでも押し倒したいくらい。都合のいいことに、もう布団は敷いてある。どん、とその体を押せば、すぐにでもできてしまう。
 北さんと、やらしいこと、できてしまう。
 欲のままに、その人の腰を抱き寄せた。
「っ待て」
「なんで、いやや」
「……あらって、くる、から」
 待って。そう言って、胸の間に手をつかれた。
 俺にやらせてもらうのは、洗ったあとから。今まさに、そういう約束をしたばかり。ここで、さらなる「嫌」を突き付けるわけにもいかない。
 その中途半端に抱き寄せた体勢のまま、深く息を吸い込んだ。落ち着け、大丈夫、させてもらえる。家にいる間は、散々躱されてしまったけれど、北さんにその気がないわけではない。むしろ、自ら準備をしようとするくらいには、前向き。逃げられることはない。言い聞かせながら、肺に満ちた空気を吐き出していく。
 深呼吸、一回じゃ、まだ頭は落ち着かないな。もう一度、ゆくりと空気を吸い込んだ。鼻孔を掠める、その人の匂い。やば、かえって昂ってしまいそう。引き寄せられるように、その人の肩口に顔を埋めた。
「っおい」
「もうちょっと、だけ」
「汗臭いやろ、今日歩いたし」
「おん、めっちゃ北さんの匂いする」
「~~っあつむ」
「ん?」
 ちら、と顔をあげると、火照った顔を情けなく歪めたその人が目に入った。あ、その顔も可愛い。ばっくりと、食べてしまいたいくらいに、可愛い。
 手始めに、キスでもしてしまおうか。
 あ、と、かぶりつこうと口を開いた。
「ふろ、いかせて、ほしい」
 触れる瞬間、舌足らずな声が鼓膜を震わせた。
 またあんたは、可愛いコト言って。俺はそのままでも構わないのだけれど。……あまりにも欲望が剥きだしな台詞は飲み込んで、ひとまずこくんと、頷いた。

◇◆◇◆

 曰く、後ろの準備を終えたその人は、見るからにくったりとしていた。その顔のまま、大浴場に行くなんて、とてもじゃないが許しがたいほどの、色香を纏っていた。
 そんな顔でいくつもりですか。襲われたらどうするんですか。畳み掛けるように問い詰めると、そんな物好き、お前以外にいるかと突っぱねられてしまった。……それにしたって、あんた、色っぽい顔してますよ。贔屓目なしに、くらっときそうな、顔してる。
 そう囁いて、今すぐにでもと迫ったのだが。
『お前が今すぐにでもシたいだけやろ』
 冷え冷えとした言葉と共に、顔を突っぱねられてしまった。
 おかげさまで、あの人が風呂から戻ってくるまでの間、悶々と部屋で過ごす羽目に。
 一応俺は、もうひとっ風呂浴びてきたところ。北さんが部屋で格闘している間に、入って来いと追い出されたからだ。烏の行水を思わせる速度で戻ってきたが、その頃には北さんがする後ろの準備は終えていて、……冒頭に戻る。
 早く、戻って来ぇへんかな。布団の片一方に寝転がりながら、ぼんやりと天井をみやった。
 暇つぶしがてら人の顔に見える木目を探してみるが、それらしいのは見当たらない。ずらずらと、ただの線が並んでいるだけ。まずい、連なる線を見つめていたら、頭がぼんやりとしてきた。心当たりがある、これは眠いという合図だ。失敗したな、座ったまま待っていたら良かった。
 う、眠い。本当に眠くなってきた。北さん、あとどれくらいで戻ってくるだろう。戻ってきたら、俺が寝ていたとなったら、間違いなく恨まれてしまう。なんのために準備をさせたのだと、足蹴にされたっておかしくない。
 起きていなければ。ごろごろと寝返りを打ちながら、閉じそうな瞼を擦った。
 その時だ、がちゃ、と、部屋の扉が開く音が聞こえる。
 微睡みかけた意識が、一瞬で、戻ってきた。
「北さん!」
「っうお」
 反射的に起き上がり、声をかけると、ほんの少しだけ開いた襖の向こうからびくっと驚く声がする。
 そのまま待つこと、十数秒。あれ、北さん戻ってきはったよな。いつまで経っても、その人は中に入ってこない。部屋の扉がもう一回開くような音はしなかったから、その出入り口と襖との間の空間にいるのは確かなのだけれど。
 ぱち、ぱち。二、三度瞬きをしてから、のっそりと立ち上がった。
「北さん?」
 先ほどより抑えた声量でその人を呼ぶ。数センチ開いたところで止まった襖に、手をかけた。
 引手に指先を添えたまま腕を動かせば、滑らかにその襖は開く。室内の明かりが、ぼんやりと入口の上り框に差し込んだ。
 ちゃんと、愛おしい人は、そこにいる。
 俺の影ができる位置に、珍しく背中を丸めながら、立っている。
「きたー、さん?」
「……ん、」
 様子を窺うように声をかけると、そろ、と俯き気味だった首が持ち上げられた。それでも完全に正面を向いてはくれず、瞳だけがこちらを見る格好に。上目遣いだ。北さんの、上目、遣い。
 かわええな。今日だけで幾度となく浮かんだ形容詞を思い起こしつつ、その火照った肌を見下ろした。火照った? あれ、もしかして、この人。
「のぼせました?」
「へ」
「顔、赤なってるから」
 そっと、北さんのほうに腕を伸ばした。緩く曲げた指二本が、頬に当たる。赤みを帯びたそこを、さり、撫でる。
「ッ!」
「エッ」
 すると、ビクンと大きく北さんの体が震えた。何、えっ、なんですか。俺そんな、吃驚するようなこと、しました? してない、よな。ほっぺ撫でただけやし。
 じゃあなんで、こんな過剰な反応をするのだろう。……まさか、まさかとは思うが、大浴場でなにかあった? どこの馬の骨ともわからない輩に、ナニかされた? ぞ、と腹の底で灼熱が蜷局を巻く。俺の北さんに、何をした。誰が。
「まて、落ち着き、お前が考えとるようなことは、起きてへんから」
 怒りに飲まれる寸前、ぺたりとその人の手が俺の胸に触れた。ず、と数センチばかり滑ってから、その手は浴衣の合わせを握る。ふるふると首を振りながら、体まで、寄せてくる。
 つい、その腰に手が伸びた。浴衣の、薄い布越しにソコを撫でる。くるりと一周、まずは円を描く。同じ動作を繰り返しながら、じわり、じわり、手の平を下へ。臀部へ。
「その、めっちゃイマサラなんやけど、ビビってもうて……」
 ぽつり、尻すぼみに北さんは口にした。合わせて、俺の肩に顔を埋めてくる。ぐり、と押し付けられると、髪から温泉特有の香りがした。……北さんの、匂いがしない。風呂、行かせないほうが良かったかな。埋め返すように、その人の髪に鼻を近づけた。と、やっと、この人の匂いを見つける。そう、コレ、この匂い。すんっと鼻を鳴らしながら、頭に刻み込む。
「また、できへんかったら、凹むし」
「そんなん俺も一緒ですよ」
 囁き返しながらも、ぎゅう、と、手の平は、その人の尻たぶを鷲掴みにした。その感触に、違和感。思った以上に、生々しく手の平に触れる。つるりとした皮膚が、布一枚越しに伝ってくる。……布、一枚?
「……ところで北さん」
「……おう」
「いま、ぱんつ、穿いてます?」
 もう一方の手も、臀部に当てた。掴んでいるのとは反対側のそこを、つるりと撫でる。その指先は、あるはずの凹凸に引っかからなかった。下着を穿いているのなら、何かしらの線が浮いているはずなのだが、それが、ない。
 もそり、腕の中で北さんは身じろぎをした。俺の肩から、顔を上げる。鼻先がぶつかりそうな距離。ぽ、と、頬は色づいたまま。
 いつもより、幾何か血色の良くなった唇が、はく、動いた。
――はいてへんよ」
「んの……」
「あっ」
 みぢ、と両手を尻に食い込ませた。指先にいたっては、割れ目に沿って埋める。左手の中指だろうか、その爪先は、窄まったところに当たったらしい。びくびく、と体を震わせながら、甘い声を漏らす。
 このままじゃ、立ったまま及んでしまいそう。というか、こんな入口傍でするわけにもいくまい。この間と違って、ここは一般的な観光ホテル。わんわんと喘ぎ声を響かせていいようなところではない。
 ぎゅ、とその体を抱きしめながら、深く息を吐きだした。まずは、布団に、移動しよう。
 名残惜しくも体を離し、骨ばった手を引いた。抵抗はない。引かれるままに、その人は部屋の中に入ってくる。とと、と、両足が敷居を跨いだところで、襖をぴたりと閉じた。これでどれだけ声を閉じ込められるかはわからないが、開け放っておくよりは、いくらかマシなはず。
 布団に目を向ければ、一足先に、北さんはそこに腰を下ろしていた。
 熱っぽい目が、俺を射抜いてくる。早くも乱れだした浴衣からは、滑らかな肌が覗いていた。吸い込まれるように腕が伸びる。触れたいと、指先がその皮膚を掠める。
 熱を感じ取った瞬間、欲情した体を布団に押し付けた。
「んっふぅ、んん」
「んちゅ、ふ」
「ンぁ、あ」
 唇に触れれば、向こうから舌が伸びてくる。たっぷりの唾液を纏った舌。絡んだとたん、ぬちゅ、水音が響いた。そのまま深く口づけを交わしながら、互いの浴衣を剥ぎ取る。一枚脱いでしまえば、もうその人は生まれたままの姿に。こっちも、下着一枚身についているだけだから、そう格好は変わらないが。
 ぢゅうっ、と、唇を離せば、その空間に銀糸が伝う。ぷつ、と切れるか、切れないか。確かめることもせずに、もう一度唇を押し付けた。
「ぁんむ、ンッ」
 夢中で貪りながら、両手をその人の胴に這わせる。匂いがわかりにくくなるのは難点だが、とにかく肌が滑らかになるのは温泉の良いところなのかも。いつまでも触っていたい。撫でて、いたい。
「すべすべ」
 熱に浮かされたように独り言ちて、今度は鎖骨に唇を当てた。皮膚の薄いソコは、きゅ、と軽く吸い付くだけで赤い花を咲かす。うわ、北さんのカラダに、キスマーク、つけてもた。一つつけると、もう一つ、つけたくなってくる。また鎖骨の辺りにしようか、いやどうせなら。唇を肌に触れさせたまま、つぅーと首へと上っていく。
「ぁ、なん、」
「ン~、ぅちゅ」
「んっ」
 先ほどよりもきつく吸い付くと、いっそう色味の濃い痕がつく。襟で、隠れるかどうか、ぎりぎりの位置。パーカーだったら隠れるかも。でも、よくあるUネックじゃ、隠しようのない位置。込み上げてくる支配欲で、ぞくり、腰に痺れが走った。
 つけたばかりの鬱血痕を指先で撫でる。日に焼けていない肌は、どこに吸い付いたって綺麗に映えそう。次はどうしよう。あまりたくさんつけても、品がない。この人の清廉さが、損なわれすぎないくらいに。そう思うと、見えるところは一つが良いな。どこにしよう。つ、つ、と指先で肌を撫でていく。
「っおい、変な触り方しな……」
「変? 愛撫、ていうんですよ」
 これは。身を捩ったその人に、一つ笑みを向けてから、ぺったりと手の平を押し付けた。ちょうど胸の上、手の平の中央には、ぷくりと膨れた乳首がぶつかる。勃ってはいるものの、性感帯にはたどりついていない、ソコ。少し調べたのだが、ココを気持ちよくするには、下と一緒に刺激するのがイイらしい。扱かれるヨさと、感覚をつなげるとか、なんとか。
 弄って、みようか、な。
「……愛撫言うんは」
「ンンッ!?」
 と、股間に、まろい刺激。ハッと我に返ると、北さんの足が、俺の局部に乗っていた。
 今日は黒のボクサー、この間のように、先走りの染みがあからさまに見えることはない。が、勃起しだしたナニの形が浮き出てしまうのは、避けられない。
 その人の足裏が、布ごしに俺の一物を踏みつけてくる。ぎゅむ、ぎゅむ、と形を確かめるように。かと思えば、ふわりと掠るように撫でたり、器用に指先を使って切っ先に圧をかけてみたり。
「こういうとこ、撫でること、言うんちゃうの」
「……北さんて、何気に煽るの、お上手ですよね」
「……何したら、お前の理性、吹き飛ばせるかなては、よお考えてるわ」
 ぷつ、と、何本か残っている理性のうちの一本が切れた。堪忍袋ではないが、さて、あと何回これを繰り返したら、自分の限界に達するのだろう。俺の理性が完全に途絶えたとなったら、辛い目に遭うのはこの人のほうだと思うのだが。……どうも、北さんは俺のことを煽りたいらしい。
 落ち着け、落ち着け、流されるな。流されて、無体を働いてなるものか。
 頭の中で何度も繰り返しつつ、悪戯をする足を捕まえた。

◇◆◇◆

 やらかした。盛大に、やらかした。なんの言い訳もできない。とにかく、やらかしてしまった。
 朝、目が覚めて、真っ先にそう思った。
 脳裏に浮かぶのは、愛おしい人の強烈な痴態。それから、何度か意識が飛んでしまっているというのに、強引に目覚めさせてコトに及んだ自分の獰猛ぶり。
 ありえない。人として終わっている。散々人格ポンコツ野郎と片割れに詰られて生きてきたが、まさしく自分はポンコツの最低だった。
 煽られたからと言って、あそこまで、するか。いやしないだろう。分別のつかないガキじゃあるまいし。どうして、こんなになるまで、貪ってしまったのだろう。
 ぎ、ぎ、とぎこちなく、そばにある熱のほうを見やった。そこには、目元を真っ赤に、顔を真っ白にした、その人。こんな紅白のコントラスト、めでたくも何でもない。むしろ不吉の兆候。そもそも、北さん、生きてんのかな。あまりの白さに、不安になってくる。
 そ、っと口元に手を近づけた。
 息、してる? え、してない? ……いや、してる、かろうじてしてるわ。か細く、本当に微かだけれど、手の平に息がかかる感触がする。ああ、良かった。
 ほっと胸を撫でおろすが、安堵していい状況にないことにかわりはない。大罪を犯したのは、紛れもなく、現実だ。
 どうする、どうする。この人が目覚めたとき、俺はどうしたらいい。こんな男だと思わなかった、別れてくれと言われたら。あんなふうに犯されると思ったら、家においては置けない、出ていけと言われたら。
 日頃のポジティブすぎる思考回路はどこへ行ってしまったのか。最悪の未来しか想像できない。そりゃあ、別れてくれと頼まれたところで、俺は嫌だと駄々を捏ねるのだろう。だが、その駄々は通じるだろうか。いくら俺に甘い北さんだって、もう見限ってしまったのでは。
 きりきりと、内臓が痛くなってくる。頭もくらくらとし始めた。あれ、俺こんなストレス耐性低かった? 北さんが絡むから、ここまでネガティブを発揮してしまったのか? いやいや、北さんが絡もうとも、割と自分は前向きでいたはず。やはり、昨晩のやらかしが、大きいのか。
「……ん?」
 そこで、ふと、喉の違和感に気が付いた。からからと、口の中も渇いている。風邪を引いてしまったのだろうか。……いや、それにしては熱っぽさだとか、怠さはない。単に、喉が渇いているだけなのだろうか。
 水、水。備え付けの冷蔵庫にサービスのミネラルウォーターが入っていたはず。
 ふらつきながら、布団から抜け出した。向かったのは、部屋の隅にある四角い冷蔵庫。一つしか扉のないそれを開ければ、思った通り、二本のペットボトルが入っている。ひとまず一本を掴んで、ぱききき、キャップをひねった。そして、渇いた唇に飲み口を当てる。
 ぐ、と、体に水を取り込んだ。
「っぷは、……お?」
 ボトル半分ほど流し込むと、キンと、頭が冴えてきた。胃が痛いとか、頭が揺れるとか、そういった不調も遠ざかる。なんだ、ストレスではなく、水分不足か。
 ……確かに、一晩中ヤッていたようなものだ。渇いていたっておかしくはない。
 ペットボトルを指にひっかけて、畳に投げ捨てられている浴衣と下着を拾い上げた。手早く着込んで、布団を見やるも、まだその人は寝ている様子。
 どう、しよう。体は汗でべたついている。風呂にでも行ってこようか。壁に掛けられた時計を見ると、午前四時を指している。いつも、自分が外に走りに行く時間帯。この人が起きるまで、あと二時間はある。
「……」
 とはいえ、この人を一人、部屋に置いてどこかへ行くという選択肢は、選べない。
 起きるまで、待つか。
 布団の上に胡坐をかいて、くったりと眠るその人を見た。前髪やら何やらが、汗で顔に張り付いている。鬱陶しそう。
 そ、っと。指先で額に触れた。
「ん、ぅ」
「っ!」
「ぅ……、ん?」
 途端、赤く腫れた瞼が震える。ぴくぴくと、痙攣するように動く瞼を凝視していると、もう一つ、呻き声がする。寝言だろうか。いや、これは、起きる気がする。
 だかだかと、心臓が騒ぎ出した。万が一に怯えて、がたがたとわななきだす。うるさいうるさい、騒いだところで何の徳にもならないだろうが。いいから落ち着け。言い聞かせてみるものの、鼓動は逸る一方。
 そのうちに、ぱち、り。北さんの目が開いた。
「ぁ」
「ん……?」
「おはよう、ございます」
「ぉは、よ、ゲホッ」
「ッあ、み、水、水飲みます!?」
「ん、ンン」
 咄嗟に声をかけると、北さんは非常に緩慢な動きで体を起こした。生白い肌が、惜しげもなくさらされる。鎖骨と首筋には赤い痕。脚にも、いくつか同じような痕跡が咲いている。
 事後の色香をたっぷりと体に宿したまま、その人は、うらり、視界に俺を捉えた。
「ぁつむ?」
「ぅ、はい、あの」
「あつむ……」
「う、き、北さん?」
「ふふ」
 まだ、熱が残っているのだろうか。やけにその口調は幼い。甘ったるい。いつもの凛とした面影はなく、弛緩した顔つきのまま、北さんは口元を綻ばせた。
 ド、と。別の意味で、心臓が騒ぎ出す。どういうこと、あれ、俺、死刑宣告受けるんちゃうの。
 ゆらゆらと艶めかしい肢体を晒しながら、赤く色づいてしまっている唇が、また、開く。
 ちろ、隙間から、赤い舌が覗いた。
――な、おれ、ちゃんとえっちできた?」
 ひゅ、と息を呑むと同時に、その人はぱたん、布団に倒れた。
「えっ」
 ひくり、頬が引き攣る。じわ、一点に血が集まってくる。今、この人は何と言った。蕩け切った顔で、とんでもないことを、言った気がする。
 いや、いやいや、ありえない。北さんに限って、あんなこと、言うわけがない。ないのだ。俺の、妄想。そう、妄想に違いない。しこたまヤりすぎて、幻覚を見てしまったのだ、きっとそう。そうに決まってる。
 べち、と両手で顔を覆った。
 あかん、ほんまに俺、この人には敵わんわ。

 午前六時を過ぎたころ、ようやく真っ当に目が覚めたその人には、真っ赤な顔と掠れた声を携えて「自制せえ」と叱られた。