秋涼
抱けなかったと憂うべきか、抱かなかったと言い張るべきか。結果として初夜は初夜にならなかった。
どんな街に行っても、スズメとカラスはバタバタと飛び交っている。その建物から出たときも、ちょうどカラスがゴミ捨て場から飛び立ったし、ちゅんちゅんとスズメの群れは騒いでいた。
とっくに明るくなっている空は、なんだか眩しく見える。朝日を浴びてこんなふうに思ったの、いつぶりだ。毎朝走っているのだから、この程度の早起き、どうということはないはずなのに。
ほぉ、と息を吐きだしながら、足早に路地を出た。
傍らには、一晩、一緒に過ごした愛おしい人。毎日、朝も夜も一緒に過ごしているだろうがというツッコミは聞こえない。ラブホで一晩過ごしたんだぞ、普段とはまるで別物だろうが。
ちら、盗み見るように北さんを見やった。視線が合うことはない。目を伏せ気味にして、地面を眺めながら歩いているからだ。朝のこの時間帯であれば、人通りも多くない。仮に駅のほうまで近づいたとしても、人でごった返していることはないだろう。朝の通勤ラッシュよりもずっと早い時間なのだし。
どうせ宿泊にしたのだ、もっとゆっくりしてきても良かったのでは。
そう、思う自分もいる。だが、あの空間にこれ以上、北さんと一緒にいたら。……もっともっとと、際限なく求めてしまっていたことだろう。
セックス、こそ、しなかったが――いや、あのまぐわいも一種のセックスなのかもしれない。「おーらるせっくす」と、呼ばれるようなことはされたし、した、から。だが、とりあえず、挿入を伴わなかったから、セックスとは呼ばないでおくことにする――、この人を貪ったことにはかわりはない。
『セックスできへんかったし、これくらい』
そう北さんが言うものだから、じゃあ、じゃあ、と次々に求めてしまったのだ。おかげで俺はほとんど眠っていない。北さんはいくらか寝てくれたとは思うが、……いやあれは気絶するに近いのかも。
とにかく、とんでもない夜を過ごしてしまったと言っても、過言ではない。
北さん、引いたよな。あんなに求められるとは思わなかった、て、絶対引いてはるよな。
ここまで来た時よりも、ずっとゆっくりの速度で並んで歩く。ちゃきちゃきと歩いて、早く家に帰ったほうが良いのかもしれないが、北さんを思うと、そうは歩けなかった。
むしろ、今、ちゃんと立って歩いてくれているのが不思議なくらい。よくもまあ、足腰が復活したものだ。それとも、挿入を伴わなかったのだから、こんなもん? だとしても、下肢が怠いのは間違いない。ゆっくりと歩いたほうが、都合良いことに変わりはあるまい。
交差点に出たところで、信号が赤に変わった。まばらながらに車が行きかう。これから仕事に行くのか、帰るところなのか、あるいはまったく別の用事なのか。右折しようとしたバンの運転手は、その座席の上で大きなあくびをしていた。朝っぱらから、なにやらオツカレサマデス。そのバンが曲がったところで、信号は青に変わった。
駅のほうからは、電車の入ってくる音がする。始発が動いて、今何本目だろう。結構な本数が走っているから、そう待たずに乗れるはず。乗ってしまえば、家まですぐ。
……今日の部活、午後からで良かった。午前からだったら、寝ないまま練習に行く羽目になるところだった。
それじゃあ、北さんのバイトは? 昼の時間も入っているのなら、しんどい、気がする。夕方だと良いけれど。そしたら、ちょっとは家でゆっくりできる。疲れた体を、布団に預けてしまえる。
布団、か。
横断歩道を渡りながら、もう一度、とろとろと隣を歩く北さんを見やった。ベッドの上では、散々、乱れた。やけに艶感のあるシーツの上を、ぱたぱたと泳ぐところも見ることもできた。でも、どうせなら。家の、あの、よくある綿のシーツだとかの上で、喘ぐこの人も見てみたい。
家で、えっち、したいな。
ラブホに誘っておいてなんだが、初めてはやっぱり、家がいい。
ああいうところで、そういう空気に流されながらするのも悪くないけれど、明らかに「ホーム」といったところで、体を重ねてみたい。
特別じゃなく、日常の一部として位置づけられたら。
まじめで計画的な北さんなら、毎週金曜日はえっちする日って、決めてくれないだろうか。週一回は多い? なら、第二・第四金曜日とか。なんなら、金曜日じゃなくたって良い。この日は、俺と気持ちいことする日て、してくれたらな。
機を見て強請ってみようか。それとも、昨晩散々我儘を聞いてもらったから、もう無理? うーん、北さん、俺には甘いところあるし、どうにか、できへんかな。
お家で、えっち。したい、なあ。
「なんやねん、さっきから」
「え」
「ちらちら、み、ケホッ……」
「だ、いじょぶですか」
「……ンンッ、あーくそ、喉がっさがさや」
「エアコン、がんがん効いてましたしねえ」
「それだけやないやろ」
「えぇ~?」
「しらじらしい」
言外に、お前のせいだろう、と聞こえてくる。ご尤も。俺の言うとおり、エアコンが効いていたのも一つある。が、それが主な原因ではない。だいたい、俺のせい。
俺が、めちゃくちゃにこの人を喘がせたせい。
だって、北さんいっぱい気持ちよくなりだしたら、口開けたままとろとろ喘いでくれるんやもん。正論を繰り出す凛々しい唇が、そんなだらしないことになってまうんやで。堪らんやろ。もっと乱れてほしい、もっと北さんの蕩けたところを見せてほしい。その一心で、この人が気持ちよくなれるコトをしまくった。
犯人は、俺。わかってはいるが、昨晩の痴態を思うと、反省よりも達成感のほうが色濃く残っている。
あの姿を、ラブホだとか、外じゃないと見られないなんて。嫌だ。家でも見たい。
少なくとも、ちゃんとセックスをするつもり、北さんにもあるみたいだし、これからじわじわと、迫ってみることにしよう。なんたって、もう自分たちは恋人同士なのだから。北さんが心変わりしようとも、俺は手放す気、ないし。
トッ、それとなく左手を北さんにぶつけてみた。すると、控えめにその人の右手が擦り寄ってくる。ぱっと見渡した限り、この通りを歩いているのは自分と北さん、二人だけ。
どちらともなく、指が、絡んだ。握り込めば、その分、握り返してもくれる。
「フッフ、」
「なに笑てんねん」
「だって、北さんとお手手繋いで歩いてるんですよ、嬉しくってもう」
「……わからんわ、こんなんで喜ぶのに、なんで夜あんなしつこいん」
「それはそれ」
「これはこれ?」
「そういうことです」
「意味わからんし。……なんなら、どっかで性欲発散してきてもええんやで。浮気やって、騒がんし」
「えぇ、なんで北さんがおるのに、よおわからん女ひっかけなあかんの。つか、あそこまでしつこく責めたの、北さんが初めてですからね」
「女癖悪いて言うてたやん」
「それはサムから聞いた話やろ、俺はそんな、……セックスに執着する質やなかったし」
「はぁあ? めちゃめちゃ執着してたやんか」
「せやからそれは北さんやったから、……あんなようなことになってしまったわけでございまして」
「敬語へたくそか」
半ば吐き捨てるように北さんは言うと、すぐにンンッと咳ばらいをした。繋いでいないほうの手は、喉元を抑えている。違和感があるらしい。帰り、コンビニでのど飴でも買っていこうか。その程度で許されると思うなよ、なんて目で見られそう。けど、ないよりはマシだろうし。
つか、のど飴を買わないとしても、コンビニは寄りたい。長い時間起きているからだろうか、いつもの朝飯の時間よりも早いのに、腹が減ってしまった。そ、と胃の辺りを撫でると、ぐるぐると切なく呻く。隣に聞こえるほどの音は立てないが、腹の中がすっかり空になっているのは間違いない。
コンビニ、コンビニ。駅の中にあるのもわかってはいるが、道中にあるのならそれに越したことはない。毎日のように見かける看板を探して、ぐるり、辺りを見渡した。
「あ」
パッと視界に入っただけで、コンビニは三軒。うち二つは同じマークの看板だから、実質二つか。弁当を買うならあっちかな、コーヒー飲もうと思ったらそっちかも。
だが、それ以上に、別の店に意識が止まった。ぱたぱたと店の前でのぼりが揺れる。隣にある看板には、期間限定フードの写真と『朝メニュー・五時から』の文字。
ホテルを出たのは、それこそ朝五時。歩いてきてまだ数分だが、五時を過ぎているのは間違いない。のぼりが出ているあたりからもわかるが、あの店は五時からやっている。朝っぱらからオツカレサマデス、そして、アリガトウゴザイマス。
「北さん」
「ん?」
気付くと、隣にいるその人に話しかけていた。
「腹、減ってませんか」
「……腹減ってんのはお前やろ」
「えへへ」
俺の視線の先に気付いたのか、北さんの口からは呆れた声が漏れる。だが、行くなとは言わない。行かない、とも、言わない。道路を渡ったところにあるその店を見据えたまま、「さっきの信号、渡らんかったら良かったな」とすら言ってくれる。
ほら、甘いやろ。
このまま道路を渡ってしまえれば近いのだけれど、横断歩道のない四車線を横切るなんてこと、北さんは考えもしないのだろう。真っ直ぐに、次の信号を目指して足を進めている。その生真面目さが、愛おしいったら。
正しい歩き方をして店に向かうべく、押しボタン式信号機の赤いボタンを、ぎゅ、押し込んだ。
◇◆◇◆
まだ六時前の、何をするにも早い時間だというのに、店内には既に二人ほど客がいた。両方とも、ピシッとしたスーツを着ている。だが、片方はサラリーマンで、もう片方は就活生だろう。スーツの質が明らかに違うし、就活生と思しきほうは自分たちと近い年齢に見える。
どちらにせよ、仕事のためにこんなに早く身なりを整えるとは、尊敬する。いやまあ、俺もバレーのために朝早く起きているわけだけれど。デスクワークというのか、ああいうことに身を捧げられるのは純粋にすごいと思う。無理やんか、あんなん。講義で九十分座ってるだけでもめちゃめちゃしんどいのに。
さておき、二人の先客がいるものの、席は十分に空いている。わざわざ先にとっておかなくたって、埋まる心配はない。鞄を背負ったまま、真っ直ぐにレジのほうへと向かった。
店に入る前に手は離してしまったから、北さんは俺の二、三歩後ろをトコトコついてくる。なんとなく店内を見渡しているあたり、さっきの俺と同じようなことを考えているのだろう。
「ご注文お決まりでしたらお伺いします」
「あー」
定型句をかけられながらカウンターにあるメニューを見下ろした。朝らしい、比較的軽い品々。と、通常メニュー。腹は、減っている。確かに朝メニューは安価で魅力的だけれど、足りるだろうか。それだったら、普通のバーガーセットを頼んでしまっても。
とん、その店の、看板たるバーガーを指さした。
「これのオニポテセット、ジンジャーエールで。……北さんは?」
「ん?」
「どれ」
肩越しに振り返ってその人を呼べば、二秒ほど間をおいてから俺の隣にやってくる。そして、じ、メニューを見つめた。
北さんと、ハンバーガー。もとい、ファーストフード。あまり、結びつかない。そもそも、こういう店、来たことあるんだろうか。某コーヒーショップは、大学に入ってから初めて使ったと言っていた。呪文知らんでも使えるんやな、といたずらに笑っていたから、よく覚えている。
じゃあ、この手のファーストフード店は? 外で食べるとしたら、定食屋。持ち帰りメニューは十中八九、近所のスーパーか商店街の弁当屋。Mがマークのほうなら、高校の頃に行ったこともありそうだが、こっちのmがマークのほうは。……高校の近所には、なかったよな。北さん家の方向にも、なかった気がする。そもそも、買い食いするくらいなら家でちゃんとした飯を食う質っぽいし。
くるくると妄想を繰り広げていると、控えめに北さんの指が伸びてきた。ひたり、朝メニューの上に、人差し指が乗る。
「これ、と、」
「はい、モーニングバーガーがお一つ、ご一緒にお飲み物はいかがですか?」
「……コーヒー、を、」
「ホットとアイスと、どちらになさいますか?」
「ホットで」
「かしこまりました」
……妙に、たどたどしく見えるのは、錯覚ではあるまい。本当に初めて来たのか、単にこういう注文に慣れていないだけなのか。淡々としている北さんが、微かにでも戸惑っているのが可愛くて仕方がない。
つい、にやけてしまう。
ちょうど顔を上げた北さんに、怪訝な目を向けられてしまった。ああもう、そういう顔して。折角の可愛いお顔が台無しですよ。会計を終えてからこっそり囁くと、さらにその顔は顰められた。そのくせ、耳がじんわりと赤くなっているのだから堪らない。他に客がいなかったら、ちゅーしてたろうな。あの二人と店員の目を盗めるのなら、今だってしたいけれど。
真っ直ぐに奥の四人掛けテーブルに向かえば、やはり北さんは後ろをついてくる。
「どーぞ」
「ん」
奥のソファを指せば、大人しく北さんは腰を下ろした。かけていた鞄も下ろし、背もたれに体を預ける。ふう、ほっとしたようなため息も零れた。
「……疲れました?」
「なんで?」
「いや、なんか……、昨日いろいろしてもたし」
「……お互い様、つかお前は寝てへんやろ」
「え、え~あはは」
笑って誤魔化すと、むっと口を尖らせたままそっぽを向かれてしまう。やっぱ、昨日できへんかったの、北さんには突き刺さっているんやろなあ。夜のことを思い出したのか、ほんのりと顔に朱が差した。ついでに、「あんなにでかいとは思わなかった」とも浮かびあがる。あんたもびっくりしたんでしょうけど、自分でもあの大きさには引いてしまった。俺に、こんなポテンシャルがあったとは。
でもね、アレをお口でぱっくんした北さんも北さんですからね。えろかったな、飯を食う時だって、適正な一口分しか運ばない分、あそこまで唇を開くことはない。高校時代、主将として声出しするときも、唇の端がびりびりと伸びるまで開いたこと、なかったはず。
薄い唇が、がぱりと開いて、口内の赤を覗かせて。とても上品とはいいがたい音を立てながらしゃぶりつく、この人。本当にあれは北さんだったのだろうか。何かにとりつかれていたのでは? そう思うくらいに、積極的、やったな。北さんも、俺とえっちしようと思ってくれてたんやな。
思い出しているうちに、ちりちりと頭の奥が熱くなってくる。やめやめ、こんなところで勃起したら堪ったもんじゃない。
頭を振るようにして、思考から昨晩の情景を追い払った。
「あ」
「お待たせいたしました」
すると、丁度よくメニューが運ばれてくる。レジを打ったのとは、別の店員。思ったよりも来るのが早かった。かといって、フライが萎びれているふうでもない。時間帯のせいだろうか、新たに注文する客がやってくる様子はないし、先の二人はもうとっくに食べ始めていたし。
飯が来てしまえばこっちのもの。少なくとも、食べている間は昨日のことを思い出さずに済む。
さっとおしぼりで両手を拭き、早速ポテトを抓んだ。さく、と齧れば、塩気と合わせてほくほくとした芋の食感。その一本を口の中に放り込みながら、バーガーの包み紙を開けた。
「……、」
厚みのあるソレにかぶりつきつつ、正面を盗み見る。頼んだバーガーに手を付けるより先に、北さんはコーヒーにミルクを入れていた。黒い水面に、白がとぷんと沈んでいく。くるりとプラ製のマドラーでかき混ぜて、静かにカップを口元へと運んだ。
ふ。薄い唇がわずかに尖って、熱そうなコーヒーに吐息を吹きかける。
「……」
別に、なんてことはない仕草だ。家でお茶を淹れた時だって、よく北さんはしている。急須で淹れるときはあまりしないけれど、ヤカンから直接お湯を注いで淹れたときにはよくやっている。
視線を水面に落として、目も伏せ気味にして、薄い唇を尖らせながら、ふ、細くした吐息を吹きかける。飲める温度になったか確かめるべく、カップの縁に口付けて、傾けて。まだ、熱い。ちゅ、と唇を離して、もう一回。
疚しいことなんてしていないのに、つい、食い気味に見つめてしまう。この角度がいけないのだろうか。伏し目がちで、頭も真正面というよりは俯き気味。
その状態から、睫毛が震えて、瞼が持ち上がって、目が。
「侑」
「ハイッ!?」
「ガン見すんな、飲みにくいやろ」
「あぅ……、はい、すんません」
かちん、視線が重なった瞬間、淡々としたいつもの調子で名前を呼ばれた。だって、北さんが色っぽく見えて。うっかり口走ろうものなら、まだやり足りないのかとさらに引かれてしまう。もっとしたいのは事実だけど、我慢できないくらいにやりたくて仕方がない域からはもう脱している。
昨日、やると決まったときもソワソワとし続けていたけれど、終わったら終わったで気もそぞろ。いい加減落ち着いても良いだろうに。何をしたらこのふわふわと宙に浮くような気分は、地に足をつけてくれるのだろう。バレーか。バレーするしかないか。今日の練習午後からやったけど、午前中て体育館空いてんのかな。
視線を泳がせながら、手元にあるバーガーに噛みついた。割と厚めに切られたトマトに、たっぷりのミートソース、じゅわりと肉汁が滲むパティ。人によっては、朝からこんな重いもの、食えるかというのかもしれない。それこそ、目の前にいる人とか。寝起きだったら、俺もこういうジャンクフードよりは和食が良いと言うのかも。
だが、今日は寝起きという感覚はない。そもそも寝ていないのだから当たり前か。夕飯の延長にコレがある感覚。朝飯といえば朝飯なのだが、家に帰ってからフツーに握り飯とかインスタントみそ汁とか食ってしまいそう。
性欲が完全に満たされなかった分、食欲に向いている? 太りたくはない、今日の部活、早めに行こ、決めた。
あ、ともう一口頬張ろうと口を開けた。
「……、」
ぎゅむ、と口いっぱいにハンバーガーが入ってくる。しっかりと噛みつつも、唇についただろうソースを舌で拭った。
けれど、俺の視線は北さんに向いている。じぃ、と、見つめてしまう。
その視線に気づいているのか、いないのか。コーヒーをトレイに置いたその人は、恐る恐るといった様子でバーガーの包みを手に取った。丁寧な手つきで、白い包装紙についたテープを剥がす。ようやく重なっている紙を開き、端のほうを折りたたみながら中身を取り出した。
その間にも、こっちのハンバーガーは半分になってしまう。今、一口齧ったから、半分以下。この人がようやく食べ始めるころには、もうこっちは食べ終えてしまっているのでは。
咀嚼していたものを飲み込んでから、包み紙ごとトレイに置き、ドリンクにストローを突き刺した。
「ぁ」
「……!」
そのときだ。
控えめに、北さんの口が開いた。だが、いつも飯を食う時の開き具合。箸で運んだ時の一口分。当然、という言い方もなんだが、ハンバーガーを頬張れるだけの大きさにはなっていない。
『食べにくいな』
北さんの顔にそう浮かぶ。合わせて、わずかに開いた唇がぴたりと閉じる。もごもごと唇や顎が動いているあたり、大口を開けようとすると違和感があるのだろう。
昨日、たっぷりと俺のを咥えてくれたせい、で?
俺は申し訳ないことをしたのかもしれない。脳裏を掠めるが、先にそれをやると言ってくれたのは北さんだし。ああ、やっぱ顎、痛いんやな。外れそ、とか言うてたもんな。いやあ、本当に昨日の北さん、やらしくて可愛かったなあ!
炭酸のしゅわしゅわと弾ける感触で、ふつふつとまた記憶がよみがえってくる。もう今日は、あの光景を振り払おうなんて思わないほうがいいのかも。だって、いくら意識の外に追い払ったって、すぐに戻ってきてしまう。鮮やかに、浮かんできてしまう。
本当に、可愛かった、なあ。
つい、目に、欲が乗った。その視界の中央には、愛おしい人。包み紙を両手で抱え、厚みのあるハンバーガーをどうにか食べようと、口を、大きく開く、その人。
――あ、むっ。
フラッシュバックした景色と、今の眺めとが、重なった。
「~~ッ!?」
「ん、むぐ、……?」
持っていた紙のカップが、ずるりと手から滑った。とはいえ、ほんの一、二センチ。滑ったとはいうものの、机や床に落下するのは避けられた。ただ、紙カップの中身はたぽたぽと大きく揺れている。炭酸飲料水というのもあって、揺れながらも泡の弾ける細かな音も聞こえた。
食い入るように、その人を見つめたまま、動けない。手の平には、汗がにじんできた。……いや、これはドリンクが結露した水? もう何がなんだか、さっぱりだ。
ハンバーガーと格闘していた北さんも、さすがに視線に気付いた――というか、取り合う気になった、のほうが正しいのかもしれない――らしく、伏せられていた睫毛が上を向いた。
ぱち、と目があう。やば、なんか、言われそう。まだ見ているのか、と。
さっと背中に冷や汗が走ったが、咀嚼を続けている北さんが何かを言い出そうとする気配はない。何を言おうか考えているところ? じゃあ、飲み込んだところで発せられるのか。
妙な緊張を携えながら、北さんの一挙一動に注意を向ける。もごもごと咀嚼する口の動きは徐々に小さくなり、やがて、こくん、喉が上下する。さらに、もう二回ばかり飲み込む動作。口の中は、いい加減に空になったことだろう。さあ、何を、言われる。
口内に過分に滲んできた唾液を、ごくん、飲み下した。
目があったまま、北さんの唇が開く。
色味という意味でも、厚さという意味でも、薄いソコ。でも、キスをすると柔らかな感触がする。ぱっくりと食むと、誂えられたかのようにぴったりと収まってくれる。そうやって何度も貪っていると、血の気が薄い口元はじっとりと赤く染まるのだ。腫れぼったくなる、ともいう。熱を持って、ぽってりと濡れて、湿った息を漏らしてくれる。そんな唇の奥には、もっと温度の高い熱が潜んでいて、舌を絡ませればとろとろと溺れるように蕩けていく。
開いた口からは、中の、赤い粘膜が見えた。かぱ、と、その唇は大きく開く。
まるで、昨晩、俺を呑み込んでくれたみたい、に。
「っ」
ひゅ、と、息を呑むと同時に、その人は手元のハンバーガーにかぶりついた。
ゆっくりと噛んで、食んだそれを飲み下す。
「――すけべ」
「っちが、つか、それはきたさんの、ほう……」
「ほお、俺はふつーに飯食ってるだけなんやど」
「それは、あのぉ……、ほらっ北さんて、いつも品よく食べはるやないですかあ」
「箸とか使うときはな。けど、こういうのは、かぶりついて食うもんやろ」
「ヴッ」
しれっと喋りながらも、また北さんはぱかりと口を開ける。要領を得てきたようで、幾らか口の開きも控えめになったろうか。それでも、普段の食卓を囲んだ時とは異なる食べ方をしているのも確か。
その口が開くたび、どきどきと心臓が跳ねてしまう。
やらかした。失敗した。こんなことなら、朝飯はコンビニで調達するんだった。もしくは、こうやってがっつり口を開かなくても食べられそうな店にしておくとか。モーニングやってるトコ、ここ以外にもあったのだし。
ずるずると飲み物を啜ってから、残り少なくなったバーガーを口に放り込んだ。包装紙の中には、ソースが落ちてしまっている。ここ、美味いんやけど、キレイに食うのが難しいよな。口の周りにも、ソース、ついてしまうし。
ぺろ、上唇を舐めれば、案の定トマトの味がした。
「けど、まあ」
「え?」
「しばらくは、こういうとこ、ええかな……」
もそもそとハンバーガーを食べながら、北さんは呟くように言う。包み紙の中身は、おおよそ半分。まだ半分残ってますけど。まさかもう苦しいとでも。いくらなんでも、それはないか。じゃあ、なぜ。胃が脂に負けた? それこそ、満腹よりも考えにくい。
オニオンフライを抓みつつ、首を傾げて見せた。衣と中身が分かれてしまわないよう、しっかりと噛み切って、あ、駄目やこれ、抜ける、ええい一口で食ってしまえ。ぎゅむ、とフライを強引に突っ込みながら、その人のほうをちらり。一度包装紙を置いた北さんは、指先を紙ナプキンで拭ってから、コーヒーカップを手に取った。
「顎、疲れる」
「年ですか?」
「半分お前のせいやからな」
「……半分どころか、ほぼ俺のせいで間違いないです」
「こんなんやったら、トーストにしたら良かったわ」
はあ。一つため息を落とした北さんは、怠そうに包み紙を持ち直した。
もしまた来るとしたら、そういうことをした翌日は、やめよう。北さんも怠そうだし、俺の目にも毒だし。
と、思いつつも、ハンバーガーを必死に頬張る北さんを見るのはやめられない。まじまじと、食べ物を胃に収めていく様を拝んでしまう。
「……北さんて、あんまこういうの、食いませんよね」
「今はな」
「今は?」
「……マクドとか、昔はよお行ったで」
「え、うそお」
「嘘言うてどうすんねん。昔、つか、ガキん頃やけど」
「待って待って、ほんまに? こういうの食うのダメ! て育ちぽいのに」
「どんな育ちやそれ。そこまで品よく育てられてないわ」
「いやいやいやいや、めちゃめちゃ品良いでしょ、良品質」
「上品と意味履き違えてへんか、それ」
ズッとジンジャーエールを啜ろうとすれば、間抜けに空気だけを吸い込む音が響いた。あれ、もうなくなってもうたん。紙のカップを傾けながらもう一度吸えば、かろうじてしゅわっとする液体が流れ込んでくる。だがそれも、一口二口で終わり。さらに吸えば、スボボッと音が鳴った。
……こうやってストローを鳴らすとか、あるいはストロー自体を噛んでしまうとか、そういうことをする北さん、想像できない。
上品かはさておき、行儀よく育てられたのは間違いないと思う。だから、ファーストフードとか、滅多に食べない環境で育ったものだと思っていたら。
ストローを咥えたまま、北さんのことを見やる。
「ばあちゃんが留守にするときとか、あとちょっとオカンと出掛けた日の昼飯とか、こゆとこ来とったで」
「え、えぇ、意外……」
「そんなもんやろ、お前こそどうなん」
「あー、俺はほら、サムとセットなんで。下手に外食つれていくと破産してまう~言うて、全然。それこそ、中高なってからすよ、来るようなったん」
「へえ」
「うわ、聞いといてなんすかその反応」
「いや、確かにお前と治の食費思ったら、うかつに外食行くん恐ろしいなと思って」
「ひどいんすよ、うちの親。じいちゃん家でたらふくおやつ食わしてもらった日に限って回転ずし連れてくんですから」
「それでも目一杯食ったんやろ、お前」
「そりゃもちろん。オトン泣かせました」
ちなみにの話をすれば、あれ以降、回転寿司に行くとなった場合、一人十皿までなどと制限をかけられた。ほんまひどいわ、うちの親。治なんか絶望しとったで、腹八分目どころか半分にも満たん、て。もし宮家で外食するとしたら、何をしようとも食べ放題。バイキング。制限時間たっぷり使ってこれでもかと胃を満たしたせいで、出禁になったところもちらほら。……出禁にまで至ったのは、俺よりも治のせいなのだろうが。
だらだらと実家の外食事情を話しているうちに、北さんはハンバーガーを食べ終える。軽く息をつきながら、顎を擦っていたのは見ないふり。顎が痛い、から、またやらしい姿と重ねてしまいそうだし。
コーヒーも飲み終えて、その間に俺はお冷を飲んで、小休憩。目を覚ますためのコーヒーだったのかもしれないが、ソファに腰掛けた北さんは、うつらうつらと船をこぎだした。俺よりいくらか寝たとはいえ、睡眠時間が足りていないのは明らか。もう少し休んでから出ようか。それとも、起こしてしまって早く帰って、家で休んでもらうか。
ちら、と、店内にある時計を見やった。その針は六時を指している。あの路線が混むのは、何時頃からだったか。早く乗ってしまったほうが、みぢみぢと人に押しつぶされずに済む。疲れた体に、さらなる無理を強いずに、済む。それに、今の時間なら座れるのでは?
とろ、と微睡んでいるその人には申し訳ないが、そろそろ行かないと。机の上を片付けてから、俯いている北さんの肩を、そっと揺すった。
「北さん、そろそろ行きましょ」
「ん」
「帰りましょ」
「……すまん、寝とった」
「ええすよ。疲れとるんやし、……家帰って、ちゃんと休みましょ」
「……おまえ、今日部活は?」
「午後から。なんで、ちょっと寝てから、行こかなって」
「あー……」
おや、これは本格的に寝るところだったな。極端に呂律が回っていないというわけでもないが、耳に残る響きはだいぶ柔らかくなっている。電車の中で寝こけるのもありうるかも。
転ばないようにと手を引きながら立ち上がらせれば、案の定、上手く体を支えきれずに数歩よろめいた。駅まで歩けるだろうか。いや、かえって歩いたほうが、目が覚める? 立ったまま眉間に皺を寄せる北さんをひとまず見守る。
「あ」
「ん?」
そのうちに、北さんの顔からすんっと凪いだ。顰め面はどこへやら、台所に立って水回りの掃除をしているときを思わせる、いつもの、顔。
あれ、覚醒した? いや、目が覚めた程度でこんな顔をするとは思えない。
ぱちぱちと、目を瞬かせながら、その人を見つめた。
「しまった」
「なんすか」
「昨日」
「昨日?」
「洗剤の特売日やった」
「……えっ、なんでソレ今思い出したんですか?」
「なんで、て、お前のジャージ、色物やからて昨日洗濯せえへんかったな、て思ったら」
「主婦ゥ……」
「まあ兼業主夫みたいなもんやし」
「兼業て、なにと」
「学業と」
間髪おかずに返ってきた言葉が、ざくりと胸に突き刺さった。そうですね、夏休み中とはいえ、俺たち学生でしたね。俺だったらバレーと言うところを、しれっと学業と言ってのけるなんて。
勉強して、家のこともして、バイトもして、俺の相手もして。この人、超人なんちゃうか。いくら体格がよくたって、バレーが上手くたって、つまるところただの人間である俺が敵わないのは、この人が超人だからなのでは。
あほなことを過らせつつ、だらだらと脚を店のドアへと向ける。念のため手をつないだままだが、振り払われる気配はない。きゅ、と握り返してくれた上で、北さんは口を開く。
「つか洗剤の詰め替え買わなあかんわ」
「……部活ん帰りに買ってきますよ、ほかになんかあります? 買わなあかんもん」
「……トイレットペーパー?」
「了解でーす」
いつも使ってるメーカーで良いんですよね。それとも、安いほうがいい? ……わざわざ聞かなくても、もう二年弱一緒に生活しているのだ、どうしたらいいかくらいわかっている。
トイレットペーパーは、ダブルだったらどのメーカーでも構わない。ただし、芯なしは避けること。洗濯用洗剤は、いつも使っている洗浄能力の高いやつ。詰め替え用は一番大きいパックのもの。一応、家に帰ったら、他に買うものがないか確かめよう。
自動ドアを潜ると、先ほどよりも高い位置にある太陽がまぶしく輝いていた。
「帰りましょ、か」
「ん、帰ろか」
繋いだ手は、やはり、振りほどかれはしなかった。