木犀

 今晩、シますので、よろしくお願いします。
 そのとおり滑らかに発音できたかはさておき、そう宣言したのは朝のこと。
 そわそわしながら朝飯を食って、洗濯機を回して、ピーピー泣き叫んだ瞬間に洗濯籠に入れかえて、夏の気配がまだ残る空の元に干してみて、「今日、夏日なんやって」とゴボウを洗いながら言う北さんの世間話を上の空に聞き流したところで、午前十時を迎える。
十時、まだ、十時。夜の十時ではない。夜の十時だったら、もうこの人の体に触れているだろうか。八時頃に早々に手を出すかもしれない。逆に日付が越える寸前まで、していないかも。ぎりぎりまで焦らして、それから、とか。
……自分は、そこまで我慢できるだろうか。これが、その辺の女だったら、狂ったみたいに強請ってくるまで焦らせる自信がある。
だが、相手は、北さんだ。幾度となく敵わないと思った、北さんが、相手。柔肌に触れた瞬間、理性が崩壊する可能性だって、なくもない、ような。一回、北さんが風邪をひいている状態ではあるけれど、触れたことあるからいけるかな。どうやろ。
 うんうんと、居間にあるほぼ自分用の座布団の上に正座して、考えあぐねる。
 北さんと、セックス。ちゃんと、できるだろうか。なんせ、大学に入ってからは一度もそういうことをしていない。つーか、前にしたのいつやったっけ。高校の頃、珍しく三か月も続いた彼女とヤッたきり? それだと二年はしていない。二年、ぶり。ほぼ童貞みたいなもんやん。
うわ、緊張してきた。約十二時間後に発生するイベントに、どくどくと心臓が騒ぎ出す。どんな試合を前にしようと緊張とは無縁の自分が、なんという体たらく。けれど、北さんが相手というのを思えば、ここまでの緊張もしかるべきもの、か。
「なあ」
 ああ、どないしよ。上手くできるんかな。折角するんやから、気持ちよおなってもらいたい。だけど、北さん、ハジメテやろ。処女やろ。男に「処女」て言葉、あてはめんのもおかしいか。でも、抱かれる側やろ。抱くとしたら時間寄越せ、言うてたし。俺が、抱く側。北さんが、抱かれる側。そんで、ハジメテ抱かれる。てことは、処女やん。ヴァージン?
 北さんが、そう、と思うと。うわっ、たちそう。
「あつむ」
 気持ちよくなってもらいたい、が、まずは痛くないようにするのが先か。ハジメテは、痛いものだし。そういう作りになっている女だって痛いのだから、男だって当然最初は痛いはず。……まして、使う場所が場所だ。本来、そういう目的に作られたのではない場所に、突っ込むことになる。痛くないわけがない。座薬ですら、ギェエと叫びたくなるくらいだ、ハジメテの、キッツキツのとこに、それよりも太いものを捻じ込むなんて。
 念には念を入れたって、痛いに決まっている。
「あーつーむー」
 それほどに痛かったら。北さんが壊れてしまったら。どうしよう。裂けて、血まみれになるとか。痔になるとか。おむつが手放せなくなる、かも? あかんあかんあかん、そんなこと、させたらあかん。……どうしたらええんやろ、やっぱり、丁寧に前戯をして、俺とえっちしても大丈夫、てくらいふわふわのとろとろにするしかない?
 あ、あとあれや、ローション。滑りをめちゃくちゃに良くしたら、危機も少しは遠ざかるかも。なんにせよ、女と違って濡れない、はず。同じ男の体である自分にそういう兆候がないから、濡れないとは思う。が、個人差があるものだとしたら。どうなんやろ、高校の頃、一応生物ぽい科目はとっていたけれど、さっぱり内容を覚えていない。保健体育だって、体育の記憶しかない。ああ、これ北さんに知られたら説教されそう。
「侑!」 
「わッ!?」
 トン、と。肩に手が乗った。あわせて、耳にほど近いところで響く声。俺の名前を呼ぶ声。
 突然、思考の中心にいた人が現れた。となれば、誰だって驚くに決まっている。まして、その人とのセックスについて悶々と考えていたとなれば、なおさら。ただでさえ喧しかった心臓が、いっそうどくどくと鳴り響く。まるで、頭蓋骨の中に移動したかのよう。
 ぎ、ぎ、と首を軋ませながら、どうにか右を向けば、真ん丸に目を見開いたその人が、いた。
「ぅお、びっくりした」
「び……、えぇ、びっくりしたのはこっちです、よ?」
「……ぼんやりしとったからやろ」
 呆れた、と言わんばかりに、北さんは息を吐いた。それから、ずる、と自分の座布団を引寄せながら俺の隣に腰を下ろす。え、そんな、傍に座るんですか。俺、今、北さんのこと考えすぎて破裂しそうなんで、卓袱台のこっち側と向こう側くらいの距離は欲しいんですけれど。
 そんな俺の混乱など気にも留めず、北さんは俺を眺めながら頬杖をついた。
「何遍も呼んだんやで」
「うそ」
「嘘言うてどうすんねん」
 逆にお前が聞こえないふりをしていたのではないか。そんな疑念まで北さんの瞳には浮かんでいる。そんなわけない、どうして好き好んであんたと喋る時間を削らなければならないのだ。一、話しかけてきたのなら、十、返したいくらいなのに。
 じ、と胡乱に染まりつつある瞳を見つめていると、再び、はぁあ、と北さんは息を吐きだした。これぞため息、という吐息。そんな吐き出し方をしたら、確かに幸せも逃げて行ってしまいそう、と思うくらいの重たい吐息だ。
 そのうちに、頬杖の上からずるずると顔が滑る。その人の骨ばった手は、頬からこめかみへ、指先は髪の毛に埋まっている。いつでもしゃんと背筋を伸ばして座る、北さんらしくない、恰好。ちょっと気怠そうで、妙に色っぽいな、と斜め上なことが過ってしまったのは、ここだけの話にしたい。
 そんな見てくれと同じくらい、かったるそうに北さんは口を開いた。
「朝飯もおろおろしながら食うし、飯粒顎についてんのにいつまでたっても気付かへんし、」
「ぅえッ、ど、どこ、早く教えてくださいよ!?」
 ぺち、と自らの顎を触ると、指の関節あたりに、ぐにと潰れるような感触がした。表面は乾いているが、中まで乾いてはいなかったらしく、顎と指にめっとりと張り付いてしまう。げ、つい、顔が引き攣った。
「教えるも何も、洗濯機回したりなんだりで、洗面台の前通ったやろ」
「それは、まあ」
「気付くやろ、鏡あったら」
「いや、いやいや! 鏡なんて面洗うか歯ぁ磨くときくらいしか見ませんよ!?」
「……飯食うた後、歯ぁ磨きにも行ってたよな」
「……アレッ」
「見たよな」
「み、みまし、た」
「なのに飯粒ついてるて、いっそわざとやってんのかと思ったわ」
「ッ言うてくださいよ! それか、取って、くれるとか」
「……狙ってるんやったら、癪やなって」
「いつの間にそんな天邪鬼になってもうたんですか」
 普段のあんただったら、俺の顔に飯粒ついてるな、て気付いた瞬間に「ついとるで」て言うてくれるでしょう? なんでそこ溜めたんですか。どこまでも放っておいたんですか。恥ずかしいったら。
 今日の部活が休みで良かった。もしあったのなら、気付かないまま「いってきます」と外に行っていたことだろう。すれ違う人皆に見られ、電車の中でも注目を浴び、そして体育館にたどり着いた瞬間、チームメイトに指をさされるのだ。はっずかし!
 ……さすがに、出かけるのなら北さんも教えてくれたろうか。そのまま行く気か、てため息をついて、とんとん、と自分の顎を指さしてみせる、北さん。ああ、想像に容易い。
 そうそう、北さんの指先が俺に伸びてきて、つ、と飯粒を取ってくれるというパターンも並行して浮かんだ。つ、と飯粒を掬い取って、ぱく、と食べるとか。不衛生だな、北さんがそんなんしてくれるとは思えない。自分で食べずに、俺の口にキュッと捻じ込むのも、不衛生ポイント高そうだからナシ。
 うーん、これはあれやな、ハンカチとか、ティッシュとか、それかキッチンペーパーを使ってミッと取って、丸めて捨てる。もし、北さんが手ずから飯粒を取ってくれるパターンがあるとすれば、これがいちばん「らしい」。
 畳の上に転がっている箱ティッシュを引き寄せて、めと、粘着くデンプンの塊を拭った。けれど、べたつきはイマイチ消えない。水で擦らないと、めっとりとしたままな気がする。普通のティッシュじゃなく、ウェットティッシュを使えばよかった。北さんのシュミもあって、卓袱台の上には「除菌」と大きく書かれたウェットティッシュが置いてある。お徳用の、あの、大きいやつ。常に「除菌」というわけでもなくて、気付いたら「消毒」になっていることもある。メーカーもバラバラ、とりあえず、その日安かったお徳用ウェットティッシュを買ってきているのだろう。
 ぎゅ、ひとまず手の中にあるティッシュを握って、卓袱台の中央に手を伸ばした。
 視界の端で、北さんの呆れた口が、はくり、開いた。
「洗濯物も床に落とすんちゃうか、てくらいぼーっとしながら干すし」
「お、落としてませんよ」
「意味もなく冷蔵庫開けては、何するわけでもなく閉じるん繰り返すし」
「……え、俺そんなんしました?」
「そういや今日、夏日なるらしいしな、麦茶作ろか、言うたら、お前「きんぴら」て返してきたんやで、脈絡なさすぎるやろ」
「ちが、それは北さんがゴボウ洗ってはったから、」
「要望どおり煮しめやめてきんぴら作ったわ」
「ありがとうございます……?」
 滔々と、北さんは俺の呆け具合を語ってくる。
 しかし、どうも心当たりがない。俺、きんぴらなんて言うた? そりゃあ、北さんの作るきんぴらごぼう、好きですけど。おかんが作ったやつの味付けより、好み。味付け、というより、ゴボウの形のせいかもしれない。おかんが作るのは、普通の細切り。けど、北さんはささがきにする。曰く、北家のきんぴらはそういうゴボウと、同じくささがきにしたニンジンを炒めて作るらしい。初めて見たとき、見知ったきんぴらの形をしていなかったものだから、「なにこれ」と戸惑ったっけ。一口食って、ナニコレ美味ッ! した瞬間、その戸惑いは彼方に消し飛んだが。
 きんぴらが食えるのは、嬉しい。
 しかし、話の焦点はそこじゃない。俺がきんぴらをリクエストしたのなんてどうでもいいのだ。きんぴら含めた、朝からひたすらに続くすっとぼけた言動こそが、北さんの指摘するところ。
「最初はまあ、おもろいなて思っとったけど」
「えぇ、ひっど」
「最初だけやて。もうなんやろ、……頭、大丈夫なんかなて、心配なってきたわ」
 そこまで吐ききったところで、斜めになっていた北さんの背筋が真っすぐに戻った。凛とした視線が、さっくりと俺に突き刺さる。姿勢のせいもあって、もう気怠さは感じない。言ってしまえば、いつもの見透かされそうな、あの目。俺の内心を、悉く読み取ってくる、目だ。
 きっと、いや、きっとなんて不確定さはないな、間違いなく、北さんは俺の動揺と、混乱と、切迫さに気付いている。
「何に緊張してん」
 ほら。
「逆に、北さんは、緊張せえへんの」
「質問を質問で返しなや」
 ちょっと拗ねたふうに言い返せば、即座に諭すような声が跳ね返ってきた。苛烈さはないけれど、有無も言わさぬ言葉。とす、と刺さって、舌が上手く回らなくなる。
 ……好きな人とセックスする、って。緊張しても不思議ではないと思うのだが。
 初めては一度きり。過去に別の誰それと経験があろうと、なかろうと、そのとき好きな人と、最初にやる一回は、一度しか味わえない。たった一度のチャンス。やり直すこともできなければ、練習をすることもままならない。だって、本人相手に練習したら、もうそれ練習ちゃうやん。本番やん。そんな一度しかない、けれど失敗したくないものが目の前にそびえているとなったら、……緊張だってする。
 俺をなんだと思ってるんですか。練習でしていないことを平然と試合でやってのける男? 間違ってはいないですけど、あれは「できる」ていう自信があるからやるんです。
 正直、北さんとのセックスについて、「できる」と自信を持って言えること、なんもない。だって、わからんもん。どこが気持ち良いとか、どこは痛い・苦しいとか、知らない。どうされると火照って蕩けるのか、なにされると萎えて冷めてしまうのか。キスまでは、わかっても、その先は、わからない。まだ、知らない。上手くいくかもしれないし、失敗してしまうかもしれない。
 マイナス思考は好きではないが、どうも、失敗の二文字に尻込みしてしまう。失敗。嫌だ。したくない。
 そりゃあ、あんたは、「初めてなんやし、失敗してもしゃーないやろ」て言ってしまえるんでしょうね。でも、俺は失敗なんてしたくないんです。最初から成功したい。上手くやりたい。
 一方的で、俺の欲を満たすだけのセックスじゃなく、二人の熱を満たすセックスを、したい。
 北さんのことだ、初めては初めてで「こうやった」てしっかり記憶するんでしょう? となれば、なおさら、失敗を思い出にしたくない。
 不安がる自分なんて、らしくない。格好悪い。情けないとこ、いっぱい晒している分、これからはいくらかでも格好良くありたいのに。
 眉が下がりそうになるのをどうにか堪えて、強引にへらっと、軽薄な笑みを張り付けた。
「え、っと、その……ちゃんと、気持ちよくできるかなあ~て!」
「……」
「無言やめて」
 ついでに、目を細めるのもやめてください。心臓がキュッとする。ヒュンッと冷える。体がこわばるのに合わせて、逃げるように視線を逸らしてしまった。
 茶化さなけば良かった。そもそも、そういう誤魔化し、この人には通じない。よくわかっていたはずだろう?
 そりゃわかっている、でも、ついやってしまうのだ。本心を真剣に吐き出して、気色悪がられたら凹むから。なんて臆病。人格ポンコツにビビりがかけ合わさったら、良いトコ、一つもない。
 ぐにゃ、と唇が歪む。我慢したはずの眉は、結局ハの字を描いてしまった。情けない顔をしていると、自分でもよくわかる。軽薄な作り笑顔と、情けなさ全開の顔。一体どっちがマシだろう。世間は前者と言うだろう。……じゃあ北さんは?
 ちら、盗み見るようにして、その顔を伺った。
 浮かんでいるのは、なお、呆れ。
「……」
「だ、だから無言、やめてくださいって」
「や、なんて言うたろかと思ってな」
「……あんまり、そのぉ~、俺のメンタル抉る言葉はやめてほしい、ナァ」
「俺の言葉なんぞで抉られるほど、お前の心、弱ないやろ」
「案外脆いんですよ、俺、……それこそ北さんに嫌いとか言われたら、塵になってまう」
「よう言うわ、」
 バレーしだしたら、俺のことなんてきれいに忘れられる癖に。その人が言いかけて止めたのは、そんな台詞なのだろう。
 俺の中心がバレーボールである限り、北さんがそう思うのは尤も。けどね、二十四時間、ずっとバレーはできないでしょ。どうやったって、他のことの意識が向くことはある。そういう、バレー以外のところを埋めてるのが、あんたなんです。見くびらんといてくださいよ、俺、ほんまに北さんのこと、好きで好きでどうしようもないくらい好きなんですから。
 恨めしさをたっぷりと込めて北さんを睨めば、ふい、と視線を逸らされてしまった。逃げんな。顔を掴んでこっちを向かせたくなる。が、存外、この人は手練手管に長けている。目線のやり取り一つとっても、何か企んでいる可能性だって十分にありえる。と、なると迂闊に手を出せない。それこそ、今朝、そんな調子で痛い目に遭ったところだし。なんやねん、ええよ、って。スゴイコト、してもええよ、って。すけべやん。
 ああ本当に、今朝のあの人は、心臓に悪かった。ぞく、とほんの一、二時間前に起きた出来事に気を取られる。
 その、瞬間。
 さ、と。その人の瞳が、流れるように、俺を射抜いた。
 ぞ、と。……あらぬところに、血が、集まる。
――俺、処女やし、さすがに無理ちゃう?」
「ヴぇっほッ!?」
 が、その充血は、いきり立つには至らなかった。
 肺から空気の塊が塊のまま込み上げてくる。まんまとその塊は喉でつっかえ、噎せてしまう。お茶を飲んでいなくて良かった。いっそ、お茶を飲んでいたわけでもないのに、よくもまあ噎せられたもんだとも思うが。げほげほと、変に詰まった空気と、不快に絡んだ唾液とで咳が出てくる。
 処女、言うたよな。この人。しかもいきなり言うたよな、処女、て。ハ、自分のこと指して処女言うた? 良かった、北さん、俺以外のオトコと寝たことないんやな。なんて、胸を撫でおろす余裕はない。
 だって、北さんの口から「処女」と出てきたから。
 咳ばらいをして強引に息を整える。あわせて、妙な苦しさの残る胸をがしがしと擦り、ひゅっと生温い空気を吸い込んだ。
「なんですか唐突に!?」
「言うほど唐突でもないやろ」
「めっちゃ唐突でしたぁ!」
「はぁ? お前が「ちゃんと気持ちよくできるか」言うからそれに」
「待って、待って待って、ソコ?」
「ほかに何があんの」
「さっきまで、その、俺の心臓がどうとかって、話して」
「むしろその心臓云々は脱線やん、俺は話戻しただけ」
 そうは言っても、突然の処女発言であることに違いはない。
 いくら俺の脳内で北さんイコール処女と結びつけて悶々としていたとはいえ、現実と妄想とでは、破壊力が段違い。緊張とはまた異なる衝撃で心臓がドッドッと喧しく騒ぐ。
 ……こんな調子で、この人とセックスなんてできるのか。やらしさを孕んだ言葉がこの人から飛び出るだけで、俺は誤射してしまうのではないか。そこまでの失態は犯さないと思いたいが、話しているだけで過剰に反応しているのを思うと、不安しかない。
 急激に血が巡ったからだろうか、頭がくらくらとする。センチメンタルに陥りかけたと思えば、コレ。
 本当に北さんは、俺のことを手の平でコロコロ転がすのがお上手ですね。転がすどころか、団子を作るみたいにぐにぐにこねくり回したうえで成型作業してません? 北さんの好みに収まるように、って。北さんに好きでいてもらえるのなら、いくらでも生活習慣見直しますけども。
 真っ赤になった顔にべったりと両手を乗せつつ、指の間から隣を見やった。
「きたさん」
「ん?」
「お願いなんですけど」
「おう」
「お、オブラートに、包んでくれません?」
「なにを」
「……直接的な、言葉を」
「処女とかか」
「ッ」
 顔面に触れている指がひくんと震えた。今まさに、オブラートに包んでくれ、ぼかしながら言ってくれと頼んだばかりだと言うのに。北さんとしては、どれが直接的な言葉にあたるのか確認したいって? あんたそこまで鈍くないでしょうよ。
 指の間にある目玉をカッ開いたまま食い気味に見つめていれば、その人の薄っぺらい唇がはくりと開く。たっぷりと浮かんでいた呆れも落ち着き、しれっとしたいつもの表情。無表情にも近い、あの顔。
 不穏を、察知した。
「けど、野郎に抱かれたことない状態て他になんて言うん? おぼこ? 生娘?」
「ぁあああ」
「あ、ヴァージン」
「えらい楽しそうですねえ! 俺んコト弄ぶのそんな楽しい!?」
「ふふ、めっちゃ楽しいわ」
 ほらみたことか。ぽんぽんと次から次へと俺の神経を逆なでするような言葉を並べてくる。
 この程度の言葉で真っ赤になるな、大したことのない言葉だろうが。そう自分に言い聞かせては見るものの、あの清廉潔白を背筋に通しているような北さんの口から出てくると、どうも過剰に反応してしまう。性的なこととは、無縁そうな北さんが、処女とか、ヴァージンとか、セックスとか言うんやで。自分の親からそういう言葉を聞いてしまったような気まずさと、愛おしすぎて堪らない人から誘われる気恥ずかしさが混じり合い、結果として頭に血が上ってしまう。
 これじゃあ、童貞みたいじゃないか。違う、もう卒業はしている。だからこそ、ハジメテの北さんをリードしなければならないのに。もはや、北さんによしよしと頭を撫でられる自分しか浮かばない。
 めそめそしおって、誰やねん、気色悪ッ。
「~~ぁあもお!」
 一つ、大きく喚いてから、どすんと後ろに倒れ込んだ。背中と後頭部に畳の感触。でも、ケツは座布団の上で。卓袱台の下にある足を駄々っ子のようにバタつかせると、上方からまたもや笑い声が降ってきた。
「わらわんといてください」
「笑うわ」
「なんでですか!」
「おもろいもん」
「おもろない!」
「おもろいて。よりにもよって、お前が童貞のステレオタイプみたいな挙動するんやで」
 顔に乗せていた手を退けると、穏やかな笑みを浮かべた北さんと目が合った。下世話というか、くだらない会話をしていたとは思えないほどの、凪いだ顔。しれっとした、いつもの、顔。
 まるで、俺が童貞じゃない、みたいな口ぶりだ。いや、それは正しい。高校の頃に卒業している。けれど、少なくとも大学に入ってからは、そういう行為をしていない。し、女と一緒に過ごすようなこともしていない。良くも悪くも、俺の上京生活はバレーと北さんで満たされている。勉強をいれろって? それは、まあ、そこそこということで、ご勘弁。さておき、そんな俺の生活を見て「童貞じゃない」と判断する要素、どこから見出したのだろう。
 ほけ、と口を半開きにしたまま見上げていると、呼応するように、こてんと首を傾げられた。
「どうした」
「その、……俺がもう童貞卒業してる、て、知ってはったんやなあって」
「ああ、治にな」
「サム?」
「そ。お前がこの家住む、てなったとき、治に言われてん」
「なんて」
「『侑、ヤリチンの気があるつーか、女癖悪いんで、連れ込んだときは気ぃつけてくださいね』て」
 さ、と、血の気が引いた。
 しかし、引いた熱はすぐに戻ってくる。めら、と、迸るような怒りを携えて、腹の底に返ってくる。
「ッんのクソサム!」
 余計なことを言いやがって。ぐしゃぐしゃと髪を掻き回しながら叫べば、三度目の笑い声が降ってくる。
 誰がヤリチンだ、女癖が悪いだ。お前も人のことを言えないだろうが。第一、単純な経験数なら治のほうが上である。なんでって、俺は顔と胸で判断するけれど、あいつは胸だけで判断するから。要は、俺よりも守備範囲が広いから。そんな奴に女癖をどうこう言われたくない。
 つか、なんで北さんにそれ言うた。言う必要ないやろ。それにお前、北さんと住まわしてもらう家に、女なんか連れ込めるか。俺の肝がそんな据わっているように見えるのか。北さんやぞ、き、北さんの家やぞ!? もし、奇跡的に俺が北さんのこと好きにならんかったとしても、この家に女を連れ込むことはなかったろう。絶対にだ。するかそんなん。だってだってだって、北さんやぞ。
 本当に、よくもまあこの人は俺の同居を許してくれたもんだ。いくら、高校の頃から好いていたとはいえ、悪評も甚だだったろうに。
 ……そんな心の広さと、真摯さを見せつけられて、惚れないほうがどうかしてる。
 顰め面をしたまま北さんを見上げると、その唇にはまだ笑みが乗っていた。上品に口元を隠すわけでもなく、くふくふと口元を綻ばせている。俺で遊ぶのが、心底楽しいらしい。
「で」
「へ」
「緊張、解れたか?」
 と、放物線を描いて、言葉が飛んでくる。依然として、北さんの唇は下向きの弧を描いたまま。
 一瞬、かけられた言葉の意味が分からず、呆けてしまう。
 キンチョウ、ホグレタカ。
 耳になんとなく残っていた響きを、脳内でぐるぐると繰り返す。きんちょう、ほぐれたか。緊張、解れた、か。
 緊張。
 は、と胸に手を当ててみると、あれほど高鳴ったり縮まったりと忙しなかった心臓は、馴染んだ脈拍を取り戻しつつある。妙な顔の火照りもなくなった。悶々と考え込んでいたことのほとんどは消し飛んでしまったが、消し飛ぶ程度の、不要な思考だったということにしよう。
「だいぶ、ましに、なりました」
「なら良かった。アホなこと言うたかな、てちょっと後悔してん」
「アホもなにも、……俺ら付き合ってるんですよ、いつかはするコトです、し」
 あんたが、嫌がらない限りは。セックス、したい。してみたい。そんで、一緒に気持ちよくなりたい。
 不思議なことではない。お互い好き合っていて、恋人という関係が成立しているだし。生産性がない? そんなの、男女の間でもそうだろう。子をなすだけにするのが、セックスではない。愛し合うための、コミュニケーションの一つ。
 ……ぐだぐだと御託を並べるのはよそう、北さんとセックスしてみたい。それだけのこと。
 よろ、と体を起こして、座布団の上に座り直した。少し、北さんに近寄った位置。肩と肩が、触れそうで、触れない距離。
「そうだとしても、お前のテンパり具合見たら、なあ?」
「ウッ、」
「ふ……、ほんとはな、困らせるとか、そんなんするつもりなくて。折角休みなんやし、出掛けたいなーて思てたんやけど」
「……え?」
「失敗したわ」
 つ、と肩の布が擦れた。かと思うと、北さんの体が畳に倒れる。ついさっき、俺が寝ころんでいたのと同じ格好。そりゃあ、顔を真っ赤にしたり、足をバタバタ動かしたりはしていないけれど。
「恋人するて、難しいな」
 くったりとした姿勢のまま、ぽつりと北さんは呟いた。
 ……あんたでも、そういうこと、思うんですね。北さんで難しい、となったら、俺のほうの難易度はエキスパートだろうか。難しいし、途方に暮れることもある。
 でも、一筋縄に行かないからこそ、いっそうのめり込んでしまう。もちろん、カンタンだったとしても、北さんへの愛の重さは変わらないが。
 折角の休み。恋人らしいこと。出掛けたい。呟かれたばかりの言葉を頭の中でつなぎ合わせる。家のことは、大体終わった。まだ十時過ぎ。今日は九月の平日で、こうして時間を持て余せるのは夏休みの大学生ならでは。土日のように、人でごった返している場所は、きっと少ない。
「北さん」
「ん」
「出掛けましょう」
「……どこに、スーパー?」
「ぅえ、行きたいんやったら行きますけど、そういうんやなくて」
 きょと、とアーモンドアイが俺を射抜く。
 確かにスーパーは行かなければならない。それこそ昨日、米を買いに行きたいと言っていたし。冷蔵庫の腹の中も、だいぶスカスカになっていたはず。あと俺牛乳飲みたい。昨日の風呂上りに飲み切ってしまったし。スーパーには、まあ、行かなければ。それは俺もわかっている。
 あれ、北さんの言う「出掛けたい」とは、そういう食料品だとか日用品を買いに行きたいということ? いやいや、そうではないだろう。だったら、スーパー行きたいとか、ドラッグストア行きたいとか、具体的に言うはず。
 お互いが休みだからと、出掛けたい場所。そんなの、普段いかないようなところに、決まっている。
 滅多に行かないところに、二人で出掛ける、ということは。
「デートしません?」
 出掛けたいんですよね。俺も、このまま家にいて、畳とか、布団とか見る度に悶々とするよりは、外に出て別なことをしたい。そのほうが、変に緊張しないで夜を迎えられそうだし。
 デート、しませんか。
 にま、と緩んだ笑みをその人に向けた。
「…‥ええな、それ。どこいく?」
 あんたとなら、どこへでも。
 なんて、曖昧な台詞は飲み込んで、デートらしいスポットを探すべく電子端末を取り出した。

◇◆◇◆

 おもむろに行ってみた水族館は、存外人がいた。けれど、ミチミチと水槽の前に人だかりができるほどではなくて、それなりに快適に館内を回ることができた。
 大水槽の前のベンチに腰かけてぼんやりしたり、そっと北さんの小指に触れてみたり。控えめながらに指先を絡めてくれたのが嬉しくて、わざと北さんにもたれかかったり。
 ……最終的に、薄暗いあの空間の中、手まで繋がせてもらえた。魚を見に来てるんやし、他人のことなんか誰も見てへんやろ。珍しく口ごもりながら理由を並べたその人のこと、抱きしめたくて仕方がなかった。
 まあ、代わりに人目を盗んでキスはさせてもらったけれど。すーっと泳いできたエイには目撃されたかもしれないが、騒がれることはなかったから良しとする。
 家を出たのが昼過ぎだったのもあって、水族館を出るとすっかりあたりは夜の装いになっていた。夕方までには出るだろうとお互い思っていたのだが、まさかの誤算。めっちゃ暗いやん。今日、洗濯物、家の中に干しといて良かった。ここしばらく、夕立に降られることが多いからと念のため部屋干しを選んだ自分を褒めたたえたい。ぼーっとしながら干していたから帳消し? いやいや、でも俺、床には落としてませんよ。第一、落としても、北さんが部屋の掃除したあとだったでしょ、埃なんてつきませんよ。
 さておき、まっすぐ帰るか、どうするか。
 ちら、と隣を見やれば、向こうもチラとこっちを見上げてきたところだった。北さんなら、家に帰るというだろうか。ほかの、バレー部の仲間内と遊びに行くときは晩飯までがセットなのだが。……待てよ、そもそも、北さんとこういうところに出掛けたの、初めてだ。まさかの初デート。となると、もう少しデートを続けていたいような。帰りたいような。
『どうします』
『帰りたい?』
『じゃあ帰ります?』
『帰ってもええけど、夕飯の準備、なんもしてけーへんかったわ、なに作ろ……、なに食いたい?』
『え、あーっと、……じゃあ、食って帰りましょ、か?』
 主婦みたいなコト言いますね、の言葉は飲み込んだ。そうか、夕飯。いつも北さんに作ってもらってばかりだったから、そこまで意識していなかったが、確かに夕方、暗くなる前から北さんは台所に立つ。ネギだってつながらなくなったし、煮物の大きさは均等になったのだが、まだ、料理への苦手意識は強いのだろう。
 甘えてばかりいないで、俺もそれなりに覚えたほうがいいのだろうなあ。思いはするが、いつだって思うだけ。それこそ、世間の主婦に説教をされてしまいそう。ちなみに、実家に帰るたび、おかんには小言を投げつけられている。
 なんにせよ、俺は作ってもらっている身分だ、食わせてもらえるだけありがたい。
 ただ、今日まで作ってもらうのが良いかというと。どうだろう。こういうときくらい、外で食べて帰ったほうが、北さんも楽やんな。節約できるところはしたほうがいいのも事実だが、たまには、こういうとき、くらいは。
 夕飯は、外で。ええやん。
 北さんと二人でどこかに飯を食いにいくのは、多くない。この夏頃からは、北さんのバイト先の定食屋に行くことも増えたけれど、それも片手で数えられる程度。外食らしい外食は、初めて、かも。少なくとも、恋人になってからは初めてだ。今日は何もかにも初めてばかり。新鮮で、楽しい。
 気取ったところは懐的にもご勘弁。かといって、北さんは窘めるけど、俺が飲まないというので飲み屋は却下。どうせ入るならファミレスでちゃらちゃらしたものを食うよりかは、ある程度バランスと、大盛りご飯を選べるような店が良い。そんなことをひそひそ話してから、入ったのは全国展開している定食屋、というのはなんとも俺ららしいと思う。色気より食い気。向かい側にある洒落たカフェレストランに入るカップルと同じ真似は、今後もできはしないのだろう。

 腹を満たして、食後のお茶で一服して、時計を見ればもうすぐ九時。いい頃合いだ。帰りましょ。今度こそ、帰りましょう。
 二人で駅まで並んで歩いているうちに、じわじわと遠ざかっていた緊張が腹の中に帰ってくる。だって、家に帰ったら北さんとセックスするのだ。上手くいくかは別として、この人の肌に、了承を得たうえで触れられる。
 ぞ、と、体が震えた。興奮が、じりじりと迫ってくる。もうすぐ、だ。
 微かに秋の香りがついた空気を吸い込みながら、改札をくぐろうとした。
「侑、」
「はい?」
「待て、ちょっと、なんか出とる」
「なんかって、何?」
「いま上に、運休て見えた」
 しかし、電子端末をかざす前に、ぐ、背中を引っ張られた。咄嗟に足を止めて、言われたとおりに上方にある電子掲示板を見上げる。……確かに、指摘のとおり、普段は見ないような文字列が並んでいた。
「ゲッ」
「事故やって」
「なんで今日に限って……」
 耳を澄ますと、慌ただしく駅員が状況を説明する声が聞こえてくる。三つばかり前の駅で人身事故が起きたらしい。何時に運転が再開するか、今のところ目途は立っていないとのこと。十分十五分で済む遅延なら待つのもアリだが、目途が立っていないとなると。どれくらいのズレを見積もっておけば良いのだろう。三十分か、一時間か、あるいはそれ以上か。事故といわれるとどうも時間が読めない。
 どうしたものか。そっと隣にいる北さんを見やった。どうも今日は、この人の様子を伺ってばかり。……それもそうだ、今日、この人とえっちするんやから、できることなら機嫌を損ねさせたくない。
 回り道もできなくはないが、運転再開してから乗るのと、家に帰りつく時間はそう変わらない気がする。かといって、距離を思うと、歩いて帰りたくもない。そりゃあ、歩けない距離ではないが、だったら電車を待つなり、回り道をするなりしたほうが楽。それだけの距離なのだから、当然タクシーで帰りたくもない。
 ぐるぐると考えている間も、時間は過ぎ去っていく。
 この人に、触れられるまでの時間が、すり減っていく。
「あー」
 がしがしと頭を掻き回すが、事態が好転するわけもない。電光掲示板の表示は、見上げたときと同じ文字を示している。と、右肩が何かにぶつかった。ぶつかられた、というほうが正しいか。おいコラ、ぶつかっといて謝りもしないてどういうことや。舌打ちをして右側を睨んだものの、人でごった返しているせいで、犯人はどうも探せない。北さんと過ごす時間がすり減る焦燥感と相まって、苛立ちはふつふつと煮立っていく。
「……侑、こっち」
「あ、え?」
 すると、再び背中を引っ張られる感触。咄嗟に左を向けば、凛としたアーモンドアイが飛び込んできた。
 ん、と壁のほうを顎で指した北さんについて、ひとまず壁際に寄る。ちょうど空いていたベンチに腰掛ければ、同じように北さんも腰を下ろした。微かに、右肩に感触。その人が、触れている。……たったそれだけで、ぶつかられた不快感が消え去るのだから、俺も大概単純だ。
 盗み見るように北さんの横顔に視線を向ければ、ぼうっとした顔をして人混みを眺めていた。いや、その人混みの向こうにいる駅員を見つめているのかも。せかせかと動き回りながら、随時状況の説明をしたり、どこかと連絡を取ったり。あ、女に絡まれた。酔っ払いだろうか。あの足取りから察するに、相当酒が回っている。よくもまああそこまでべろべろになったもんだ。つーか、誰か介抱するやつおらんかったんか。もしかして一人で飲んでた? 一人で飲んであそこまでべろべろなるのもすごない? フラれたヤケ酒だったりして。
 そっと北さんに視線を戻すが、まだ、どこかを眺めている。顔色はそこまで悪くないから人に酔ったわけではないと思う。疲れたのだろうか。普段しないことをして、気疲れした、というのはありえそう。疲れさせた? 家帰ったらそのまま布団に倒れておねむの時間? もしかして、今日はできない? 緊張を紛らわせるために外に出たというのに、これじゃあ本末転倒だ。
「……」
 その割に、がっかりしていない自分が憎い。がっかりどころか、安堵すらしている。
 したくないわけではないのだ。この人とセックス。したいに決まっている。でも、今日、今晩、絶対にしなければならないのかと聞かれると、どうも首を傾げてしまう。
 煽られるままに、「今日します」と宣言したものの、なんだか今日じゃなくても良い気がしてきた。今日は今日で、デート楽しかったし。出掛けたいという北さんの希望にも応えられたし。それだけで、充分なのでは? 疲れたのなら、家に帰って、ぽやーっと風呂入って、ふわーっといつもみたいに並んで寝たって、何も問題はない。
 今日、北さんと初夜を迎えなければならない訳では、ない。
 そう思うと、いっそう肩から力が抜けていった。
 どれくらい待ちぼうけを食らうかわからないが、まあ、このまま駅にいても良いかもしれない。北さんが隣にいるのなら。
 そっと重心をずらして、ぐ、触れているとはっきりわかるくらいに、肩をぶつけた。
「っ」
「え」
 その、瞬間。ぶつかった肩がひくんと跳ねる。強張る、のほうが表現としては相応しいかも。少なくとも、震えたのは、確か。
 ほけ、と、唇が開く。間抜けに隙間を作ったまま、固まってしまう。
 え、なに。北さん。まるで、うたた寝をしていたところを起こされた、みたいな震え方しましたよね。まさか今、寝そうになったんですか。ぼんやりしてるなと思ったら、そんなにも眠かったんですか。それやったらほんまに、今日帰ったらすぐ寝ましょ。えっちとか、ええよそんなん。いっぱい遊んで、腹も膨れて、そしたら眠くなるのもフツーのこと。なんなら、今、俺に寄り掛かってくれても良いですよ。人混みのすぐそばじゃあ、落ち着かないかもしれませんけど。ただ真っ直ぐ座っているよりかは何かに寄り掛かったほうが楽でしょう? 電車動き出したら声かけるんで、とろとろと微睡んでも構いませんよ。
 気付くと、腕が伸びていた。
「っぅわ」
「どぞ」
「な、にが」
「肩、使ってください」
「は?」
「え?」
 肩に腕を回し、その体を引き寄せようとする。しかし、北さんの背筋はしゃんと伸びたまま。ほんの数ミリ、俺のほうに傾いただけ。おかしいな、眠いのなら、こてんと寄り掛かってくるものだと思ったのに。
 違和感にさらに呆けていると、こちらを向いたその人の眉間に皺ができた。なんやねん。まさにそう言いたげ。とても眠いようには見えない。無理やり目を開いている素振りもない。
「眠いんかと、思ったんですけど」
「……別に眠くはないで」
「アレッ」
 それなら、さっきのビクッはなんだったのだ。それとも、あのビクッで目が覚めたのか。ぱちぱちと瞬きをしてその人を見つめてみるが、顰めた顔のまま胡乱な視線を返されるだけ。
 目線が重なったまま、一秒、二秒。間抜け顔と怪訝な顔が対面しているのは、傍から見るとコントか何かに見えるのではないだろうか。三秒、四秒と経っても、自分の唇は半開きのまま。閉じてはくれない。閉じようとも、してないせいなのだろうけれど。五秒、六秒、そのうちに、北さんの瞳の縁がぶれた。訝しむばかりだった中に、別の色が、じわり、滲む。なんだろう。気になって、その瞳に引き寄せられる。
 七秒経つ頃には、その別の色が、北さんの瞳を塗り潰してしまった。熱を帯びた、濡れた色で、瞳が満ちた。
 え、なに、その、目。
 ――そして、八秒。数えようかと思ったところで、北さんの目がふいと逸れた。
「なあ」
「はい」
「近いん、やけど」
 近いとは。脳内に疑問符が浮かんだ。いやいや、俺もっと、あんたの目、見たいんですけど。もっともっと近くて、見たいと思うくらいなんですけど。疑問符に続いて、細やかな欲も浮かんでくる。
 ちかい、とは。考えてはみるものの、どうも距離感覚が掴めない。じ、と、目を逸らしたその人のことを見つめてしまう。
 逸らした瞳は、床のほうを向いているらしい。伏し目がちになった瞼の奥で、黒目が左右に揺れる。どことなく、瞬きも多いだろうか。それに合わせて、睫毛がふわふわと震えた。ガッチリと化粧をした女ほどではないが、この人の睫毛はしっかりと長い。角度によっては、下瞼に影ができるほど。
 その影が、ふ、薄まった。下を向いていた睫毛は上向きに、半分ほどに伏せられていた瞼は、ぱち、見慣れた二重幅にまで開いていた。
 未だなお、その瞳は、濡れている。眼前の黒目は、しっとりとした色気を纏っている。
「ちかい」
「あ、っと……」
 消え入りそうな声をかけられると同時に、とん、胸を押された。
 そこで、やっとハッとする。その人の体と、自分の体との距離が、異様に詰まっていることに。鼻先が触れなかったのが奇跡に思えるくらい。近い。確かに、これは、近い。まるでキスする距離じゃないか。
 いっそこのこと、ぱくりと唇を食んでしまえば良かった? いや、いやいやいや。そんなことしたら止まらなくなる。セックス云々はさておき、俺はこの人に口付けるのが本当に好きで好きでどうしようもないのだ。目立つとか、写真に撮られるとか、お互いの蕩けた顔を公衆にさらす羽目になるだとか、そういったことまるっと忘れて貪ってしまったことだろう。
 すんません。掠れ気味に返しながら距離を作ると、再び目を伏せられてしまった。首もいくらか傾いて、俯かれてしまう。伸びた髪が、さらりと垂れた。その隙間から、わずかに耳が覗く。
 ……色づいて見えるのは、錯覚だろうか。視界に入るその耳は、なんだか赤みを帯びている。何度か瞬きをしてみるが、平生の色には戻らない。むしろ赤みを増す一方。明かりのせい? いや、そんなはずはない。構内を照らす光は白色。柔らかな暖色ではない。寒々しいまでの、白。その白色灯の元でこれだけの赤を示しているのだ、俺の見間違いでは、あるまい。
 北さんの、耳が色づいている。そう、理解すると同時に、ごくり、唾を飲み込んだ。
「あんま見んな」
「見ます」
「見んなや」
「無茶言わんでくださいよ、こんな、照れてる北さん、ガン見するしかないですて」
「照れてないわ」
「こんなに耳真っ赤なのに?」
「照れる、つか、」
「うん?
「……きんちょ、う、して」
 る。
 ぽたぽたと、尻すぼみ気味に声が零れた。この人が、こんな言い方をするなんて、珍しい。
 待て、言い方の珍しさもあるが、今この人は何と言った。「きんちょうしてる」と言ったよな。緊張しているだって? ひゅ、息を吸い込むと同時に、固まってしまう。北さんが、緊張するとは。一体何に緊張するというのだ。何事も日常の延長、緊張する意味がわからないと言ってのけるようなあんたが、緊張すること、とは。
 心当たりがないこともない。が、しっくりくるわけでもない。だって、俺の渾身の煽り文句を、しれっと躱したくらいだ。逆にこっちを煽って誘惑してくるほど。そんなことをやってのけたこの人が、緊張するなんて。
「うそお」
「嘘言うてどうすんねん」
「だって、え、北さんも緊張するんですか」
「……するみたいやな、めっちゃ心臓ばくばくしとる」
「それは、エッ、なん、えぇえ」
「なんでお前が慌てんねん」
「だって」
「俺よりずっと経験あるんやろ、……あかん、はじめてする、てこんな緊張するんやな」
「ひ」
「先に言うとくけど、俺ほんまに初めてやから、その……、たのむな」
「ぅ」
 ここで「任せといて」と言えないのが、情けないったら。普段より少し早口になっているだとか、そもそも目を合わせて話してくれないだとか、その人の緊張している姿を見ていると「あ」やら「う」の意味を持たない音しか発することができない。
 この人は、腹を括っている。俺に抱かれると。今日、抱かれるのだと。
 にもかかわらず、「今日、しなければならないわけじゃない」と逃げ道を作っていた自分の、なんと浅ましいこと。男の矜持だって捨てる覚悟をしてくれたのだ、それを無下にして、どうする。
 ゆっくりと、息を吸い込んだ。たっぷりと肺に満ちたところで、その空気をこれまたゆっくりと吐き出していく。そんな深呼吸を、二回、三回。胸の中央で震える心臓は、普段よりも、ほんの少しだけ早い。だが、息苦しいほどの速度には至っていない。適度な緊張を、全身に巡らせてくれる。高揚の、一歩手前。
 早く家に帰らなければ。けれど、電車は止まっている。回り道をして、この熱を冷ましたくはない。けれど、このまま燻ぶらせながら、待っていたくもない。
 気付くと、口が開いていた。
「北さん」
「ん」
「嫌やったら、嫌て言うてほしいんですけど」
「なんやねん、その言い方」
 保身を思わせる言い方が気に留まったのか、唐突に抑揚の消えたトーンが引っかかったのか、俯いていた北さんは顔を上げる。小首を傾げられたところで、かちん、視線が重なった。
 まだ、その人の熱は冷めていない。だが、温度を上げているかというと、微妙なところ。言葉を一つ、間違えただけで、その熱は冷めてしまうことだろう。北さん、理性的やもん。感情に身を任せるのなんて、眠たいときか、熱に浮かされているときくらいなもん。だから、興ざめなことは、言ってはいけない。この人の熱を煽るような言葉を選ばなくては。
 とはいえ、気取った表現をするほどの余裕、今の自分にはないのだけれど。
「ホテル、行きません?」
「……は」
 感情の失せた声のまま、そう吐き出した。
 目の前にいるこの人は、ぽかんと口を開けた。意味を、理解したのか、していないのか。理解していたら、すぐに顔に羞恥が乗る気がする。となると、わかっていないのか。あるいは、存在は知っているが、瞬時に結びつかないのか。
 ごく一般的な宿泊施設に行きたい、と言っているんじゃありませんよ。そういうことをするためのところに、行きませんかと言っているんです。そんな無粋な解説をせずに、意味を伝えるには。
 その人の頬、表面の薄皮一枚分を、つ、撫でた。
――いますぐ、あんたのこと、だきたい」
 だから、行こ。
 唇を耳元に寄せ、たっぷりの吐息で囁いた。たちまち耳が、朱に染まる。か細く吐き出された息には、じっとりと熱が籠っていた。
 ほど近い距離から、じ、見つめているいると、緩慢の動きで頭が持ち上がる。俯いていた顔が、こちらを向く。
 ……耳と同じくらいに、真っ赤になった顔が、視界に入った。
「い、く」
 その二音が聞こえるや否や、愛おしい手を取って立ち上がった。