春来

 ぽん、とパスされた黄色と青色。その落下地点に足に回り込み、とんっと指先でボールに触れた。そこから発せられる、レフトへのトス。滑らかな放物線を描いて、エースにボールを託す。相手ブロックはきっちり二枚。だが、十分な助走で跳躍した高さは、圧巻。
 大砲のような重く苦しい音と共に、ボールは相手コートに叩き込まれた。
 短期留学先のその国では、言葉の面での不安はあるものの、清々しいまでに充実した日々を過ごしていた。
 アマチュア契約で飛び込んだそのチームの中じゃ、自分の身長は下から二番目。チームメイトのほとんどが二メートル。自分より大きくて、パワーもあるセッターだって、そこにはいた。けれど、テクニックと強気のプレースタイルを買ってもらえたのか、それなりに試合には出させてもらっている。助けられる場面も多いとはいえ、チームの勝利にも、貢献できている。
 楽しい。それに、とにかく、勉強になる。日々、やりたいことが増えていく。
 自分の中心はバレーボールという球技で、これなしじゃ、もう生きてなどいけないのだろう。
 あてがわれた自室のベッドに倒れ込んで、じわり、今日のプレーを脳内で再生した。
 そんな生活を始めて、早いものでもう二か月。日本を離れて、二か月だ。契約が三月までだから、ちょうど折り返し。もう二か月このチームでプレーしたら、C大のセッター・宮侑に戻ることになる。
 早くあのチームに戻りたいような、このチームにずっと所属していたいような。もし、日本に戻るとなったとき、……自分は、あの家に帰っても良いのだろうか。
 もやもやと、頭の中に靄が浮かんだ。
 ――あの人にとって、自分はそこまで特別な人間ではなかったらしい。そう目の当たりにした日からも、約二か月が過ぎ去った。あのあと、ちゃんと話す時間も取れないまま、留学してしまったせいでも、どうも胸につっかえている。バレーの合間に思い出しては、つきり、胸が痛む。
 あの人に愛されているというのは、間違いない。ただ、その愛の程度が、どういった性質のものなのかは、量りかねている。甲斐甲斐しく、面倒は見てくれる。困ったら、手を差し伸べてくれる。でも、そうやって構ってくれるだけがすべてじゃない。
 あの人の隣は、ひどく、安心する。あの人が、あの家で待ってくれているからこそ、俺はいくらでも、外で頑張れる。
 じゃあ逆に、あの人にとっての、俺は。帰る場所、というのに値するのだろうか。どうも、イメージがわかない。
 俺はきっと、あの人の内側に、ちゃんと入りこめてはいないのだと思う。身内、と呼べるようなレベルには、至っていない。
 だからこそ、あんなふうに、戸惑ったのだろうなあ。
 家族にどう説明したらいいかわからない、とか。できれば、家族には知られたくない、とか。
 愛し合う仲イコール、家族ではない。じゃあ、家族と呼ばれる枠に、俺のことを収めてもらうには、どうしたらいいのだろう。
 もっと、あの人の特別になれるようにする? あの人にとっての特別、ってなんだ。何をしたら、あの人の世界における、いちばんになれるのだろう。
 ぐるぐると思い悩んだところで、答えは出てこない。きっと、あの人と、ちゃんと腹を割って話さないと、この問題の答えは導けないのだろう。
 日本に帰るまでの、二か月。悶々と、過ごさなければない。いや、まあ、バレーをしている間だけは、あの人のことを忘れてしまえる。
 ……いっそのこと、バレーにすべてを捧げてしまえばいいのだろうか。そしたら、こんなふうに、あの人を思って、頭を悩ませることもなくなる? そんな人生も、アリなのだろうか。なくは、ない、と思う。でも、最善かと聞かれると、どうだろう。
 ああ、だめだ、またバレーと関係のないことに頭を使ってしまった。試合に出た疲労もあって、瞼を閉じれば、どっと睡魔が襲ってくる。明日も練習。バレーに浸かれる。その間だけは、あの人への愛おしさを、忘れられる。
 バレーをしたい。
 ……でも、俺は、あの人のことも、ほしい。

 なんたって、北さんのこと、愛している、から。

 そんな、バレーに浸かりつつも、あの人への思いを捨てきれなかった四か月。ようやくもどってきた母国は、木枯らし吹きすさぶ冷え冷えとした空気から、桜の気配が漂う春へと、移り変わっていた。
 かつ、と。玄関扉の前で立ち止まった。ぴたりと閉じた、その引き戸。パッと見の外見は古めかしいが、壁や屋根は、定期的に塗り替えらえているらしい。おかげで、年季は入っているものの、生活に不都合を感じたことはない。
 ここが、今の自分にとっての、帰る家。の、はず。
 緊張で滲んできた唾を飲み下し、そっと、玄関扉の引手に指先をひっかけた。がらがらと開くそこ。一歩踏み入れば、広々とした玄関。上がり框の端には、きちと揃えられたスニーカーが置いてある。自分の靴よりも、一回りか二回りか小さいソレ。その靴に並ぶように、自分の履いていたスニーカーを揃えて置いた。
 すん、鼻を鳴らすと、廊下の奥から味噌汁の匂いが漂ってくる。今日の味噌汁、なんだろな。なんとなく、甘い味噌汁に思える。例えば、玉ねぎと、油揚げとか。
 匂いに引き寄せられるように、廊下を進んでいく。ひたひたと、掃除の行き届いた廊下を歩く。
 そして見えてきた台所。ひょい、と覗き込めば、何度も目に焼き付けた背中が、そこにはあった。
「……、」
 なんと、声を掛けたらいいのだろう。息を吸っては見たものの、どういう挨拶をかけるのが正解なのか、迷ってしまう。
 ただいま、帰りました、でいいのか。こんにちは、お邪魔します、にするべきなのか。それとも、お久しぶりです、にしておくのが良い? ほんの数か月、この家を離れただけで、どちらを伝えればいいのか、考えあぐねてしまう。
 いや、いやいや。ここは一応、俺の現住所なのだし、ただいま、で良いのではないか。……ええんやろか、ただいまで。
 意を決して、口を、もう一度開いた。
――ただいま」
 魚を焼いているせいか、換気扇も強で回っている。この声、あの人に、ちゃんと聞こえただろうか。それとも、もう少し近寄って、改めて「ただいま」と伝えたほうがいいのか。
 もご、唇を波打たせると、ふと、俯き気味だったその人の頭が、ゆっくりと持ち上がった。
 そして、同じくらい、ゆっくりと、その人は肩越しにこちらを振り返る。
 見慣れたまんまるの目は、零れそうなくらい、大きく見開かれた。
「お、かえり」
 あ、良かった。俺が言っていい挨拶は「ただいま」であっていたらしい。ほっと胸を撫でおろしてから、北さんのほうに一歩近寄った。
「ぁ」
 さらに一歩、また一歩。近づいていくにつれて、北さんの呆けた顔を、しっかりと捉えることができる。
 ……それにしたって、呆けすぎではないだろうか。声をかけてから、途切れつつも「おかえり」と言ってくれてから、十数秒。こんなにも長く、北さんが呆けているなんて。珍しいこともあるもんだ。
 そうして北さんの隣までやってくれば、その人の手元がよく見えた。右手には包丁。左手にはネギ。小口切りをしている最中だったらしく、根元から、三センチほどのところまでは、既に切られていた。いつかのように、厚さがまばらにはなっていない。ちゃんと、均等。この様子だと、ネギ同士が繋がって、蛇腹のようになっているのもなさそうだ。
 すっかり、この人も料理が得意になった。俺のせいで、得意にさせた、というべきなのかもしれないが。
 できることなら、今すぐにでも、ぎゅうと抱きしめたい。だが、この人の手には包丁。刃物を持っているのに、抱きつくのは危ないよな。
 ああ、でも、ぎゅ、ってしたい。俺が留守にしている間、この人はちゃんと飯を食べていたのだろうか。今日、こうして用意しているのは、俺が帰ってくる日だから。あんな気まずい状態のまま出国してしまったから、まめに連絡はできなかったが帰る日・時間は伝えておいた。……だからこそ、こうやって、ちゃんとした飯と作ってくれているのだろうなと、思う。
「あつむ」
「ん?」
 すると、か細く、名前を呼ばれた。ほとんど唇は動いていない。ただ、「む」と発音するために、唇がぴたりと重なったから、あのウィスパーボイスは幻聴ではない。北さんが、発したもの。
 なんですか、そんな意味も込めて、首を傾げて見せた。
 とん。北さんの右手が、包丁を手放した。その刃物は、まな板の上に乗る。手前ではなく、ネギより奥に置いたから、転がって足にささる、なんて事故も起きることはないだろう。
 あれ、包丁を、手放したのか。そしたら、この人のコト、抱きしめられる? ぎゅ、としても、怒られない? 怒られないの、では。念のため、視界に入っているガスコンロに、火がついていないのを確かめる。煮物と思しき鍋のほうも、味噌汁の鍋のほうも、火はついていない。よし。安全確認完了。
 その、細腰を抱き寄せようと、腕を伸ばした。
 ――しかし、それより、早く。ドンッと、胸に衝撃が走った。
「え」
 続けて、ぽすん。北さんに伸ばしたはずの腕が、何かに着地した。硬くて、平ら。さらりと撫でると、真っ直ぐの背骨の感触がする。これ、背中だ。誰の?
 北さん、の。
「へっ!?」
 ば、と勢いよく下を向けば、俺の胸にぎゅうっと飛び込む格好で、北さんが顔を埋めていた。
 ど、どどど、どういうこと。北さんのほうから、俺に抱き着いてくれるなんて。滅多にない。というか、こんなこと、これまでにあったろうか。何をするにも、だいたい俺が北さんのことを抱き寄せるところからスタートしていたような気がするのだが。
 状況を理解しきると同時に、ドドドッと心臓が逸りだした。くそ、どうせならそのままぼんやりとしていてくれればいいものを。突然激しく鳴り出した心臓は、ぐるぐると勢いよく全身に血を送りだしてくる。手先・足先といった末端はもちろん、頭、顔、首にも、きっちりたっぷり血を流してくる。熱くなってきた。カッカと火を噴くように、頭が熱くなる。くらくらと揺れる。
 北さんが、北さんのほうから、抱き着いてくれるなんて。
 はく、と謎の感動を噛み締めようと、唇が空気を食んだ。
「よかった……」
 そのうちに、くぐもった声がする。俺の胸に顔を押し付けている北さんが、何か喋ったらしい。
 良かった? とは。なんだろう。
 無事に帰ってきてくれて、良かった? そりゃあまあ、海外だし、飛行機だし、心配したのかもしれないけれど。……北さんて、そういう遠征のたび、無事を祈ってくれるような人だったか。いや、そこまで熱心ではなかったように思う。さすがにテロが頻発している地域に行くのなら、思うところもあるのかもしれないが、今回はそういう地域ではない。
 首をひねりつつ、ぎゅ、と、力を入れそびれていた腕で、その体を抱きしめた。
 腕の中に閉じ込めたその体。痩せては、いないと、思う。思いたい。正直、服越しだからよくわからないのだ。一枚一枚、脱がせてもらえるのならわかるのだけれど。ひとまず、あまり肉のついていない体を抱きしめた。
 どくどくと喧しく自分の心臓のそばで、もう一つ、別の鼓動がとことこと跳ねている。俺と同じか、それ以上か。きちんと脈をとっているわけではないから、正確にはわからないが、北さんの心臓も早鐘を打っているらしかった。そういえば、抱き着いてきている人の耳は赤くなっている。北さんも、なかなかに血が巡っていらっしゃる。
 さて、ここから、どうしよう。北さんから抱き着かれるという想定外に、謎の「良かった」発言。
「北さん?」
「ん?」
「良かった、て、なに?」
「あ」
 ぽつり、声をかけると、ほんのりと赤く色づいた顔がこちらを向いた。……目が、潤んでいる。まさか、泣いていた? 俺、北さんこと、泣かせてもうた?
 ひゅ、と息を呑むが、北さんは北さんで「しまった」という顔を浮かべていた。一体、何がなんだか。俺の頭でも理解できるように、誰か説明してはくれないだろうか。
 大量の疑問符を頭上に浮かべていると、おずおずと、北さんは俺の胸から離れた。あれっ、いや、抱き着いてくれているのは、構わないんですけれど。むしろ、嬉しかったから、ズッと抱き着いてくれても、良いんですが。
 おろ、と、北さんは目を泳がせた。
「すまん、取り乱してもうて」
「いえ、それは、ぜんぜん」
「あ、今、飯できるから」
「あの」
「ぅ」
「良かった、て、どういう、こと? 俺、ここに帰ってきて」
 良かったんですか、ね。
 尻すぼみに尋ねると、勢いよく北さんはこちらを振り返った。
 だって、今、四月だし。大学の寮も、入れ替わる時期だし。学生向けのアパートとか、探せるタイミングでも、あったろうし。
 俺は、この家に帰ってきても、良かったのだろうか。よくわからないまま「ただいま」と言ったけれど、あれは本当に正しかったのか。「おかえり」て返事も、そういえばたどたどしかった。アレはもしかして、「ただいま」と言われるのを、装丁していなかったから?
 ぐるぐると、些末ながらも気になって仕方がない悩みが頭の中を駆け巡る。
「おまえこそ」
「え」
 ぽと、と、消え入りそうな声がした。
 あわせて、控えめに北さんの手が俺の胸に触れる。指先が、きゅと、シャツを掴んだ。
「帰る家、ここで、ええの?」
「ええもなにも、俺には帰る家、ここしかありませんよ」
「……俺、まだおまえに、「おかえり」言うてもええの」
「言うてくださいよ、つか、この家に住むってなったとき、約束したやんか」
 帰ってきたら、靴を揃えること。そんで帰ったで、て声をかけること。当たり前ではあるが、一人で暮らしていたら蔑ろにしてしまいそうなソレ。北さんとこうして暮らしていたからこそ、靴だって揃えるようになったし、「ただいまあ」と毎日言う生活をできている。
 どうしたんやろ、北さん。なんか情緒不安定?
「よかったあ……」
 再び、こつり、北さんは俺の胸に額をぶつけた。合わせて、ひどく安堵した声を漏らす。
 どういうことだろう。よくわかないまま、とりあえず、その背中をさすっておいた。
「おまえが、イタリア行く前」
「え?」
「ああいう、ケンカ、てほどでもないけど」
「あー……、いや、俺もまだあれ、上手く咀嚼できてへんから、」
「あれな、ただ俺がビビっとるだけやねん」
「え?」
「いくら、親だとか兄弟だとか、紹介して外堀埋めたとしても、お前が「手放す」て言うたら、全部、意味無うなってまうし」
「……」
「それやったら、最初から、自分の中だけで留めておいたら、苦しむのもなんも、俺だけで済むしな、て、思っただけやねん」
 だから、俺が、ビビっていた、だけ。ちゃんと、家族に紹介するとか、そういうことまで考えてたお前に、びっくりして。
 俺にくっついたまま、北さんはぽつぽつと呟く。
 ええと、つま、り。北さんは、いつか俺と別れることを想定して、人に言いふらしたくないという姿勢をとっていた、ということでオーケー? ちょっと、違う、と言われそうな気もするが、主旨さえあっているのなら、良いことにしてほしい。
 ふう。軽く息を吐いてから、腕の中にある体を、ぎゅ、抱きしめた。その瞬間、北さんの肩がひくんと跳ねる。けど、構うものか。そのまま、腕に力を込めていく。いっそ、苦しいくらいに抱きしめていく。
「ぅ、わ、なにすんヴッ」
「いやあ、ショックですわ」
「は、ぁ?」
「ひどいわ、北さん、俺の愛、疑ってたてことやろ」
「んぅ、ううう」
「言うたでしょ、俺」
「ぅ、う」
「あんたのこと、――一生手放しません、て」
 そこだけ耳元で囁いてやれば、びくびくっと腕の中にある体が震えた。
 そりゃあ、一生を誓うには若すぎるとか、確証がないとか、信じられない理由もたくさんあるのはわかっている。でも、付き合う前と、北さんのスタンスがほとんど変わっていない、というのが悔しくて仕方がない。少しくらい、絆されてくれたもんだと思っていたのに。
 もう、どうやったらこの人は折れてくれるのだろう。俺のこと愛してやまないこの人に、俺からの愛おしさが伝わるのだろう。
「……北さんて」
「ん」
「俺のこと、好きなんですよね」
「ん、すき」
「俺もね、北さんこと好きです」
「ん」
「で、俺はずっとずっとずぅーっと北さんには隣にいてほしいし、俺の帰る場所であってほしいなと思っとるんですけど」
「……おう」
「北さんは、どうしたい?」
「は」
 愛おし人を抱きしめたまま、その人だけに届く声量で、滔々と畳み掛ける。
 要は、そこなのだ。告白した時は、俺がこうしたい、ああしたいを北さんに叩きつけて、目一杯愛してもらうことにした。だが、あのとき、北さん自身はどうしたいのか、ちゃんと聞いていない。
 ただ一緒に過ごせるだけでいい? それも期間限定で? あんた、そんな聖人君主じゃないでしょう。感情もあれば欲もある。ちょっと人より、反復・継続・丁寧が得意なだけ。
 したいこと、あるやろ、なんか。
「え、と」
 ない、とは言わせない。抱きしめたまま、じ、とその頭を見おろした。
「ぁ」
「あ?」
「愛させて、くたら、もうそれで」
「一方通行でええの、ほんまに?」
「~~っそりゃ、ずっと、いられたら、て、思うけど」
「けど?」
「……むりやろ、そんなん」
「それ、北さんだけで決められること、ちゃうやんか」
 まあ、北さんが無理と思って、無理なように行動してしまったら無理になってしまうんでしょうね。でも、できると思って、俺にもそうしたいと言ってくれたら。変わるかもしれないじゃないか。
「あんたからも、強請って。甘えてくださいよ」
 俺、与えられるだけの愛がほしいじゃないんです。ただ、愛されるだけでいいのなら、こんなにも頭使わずに済んだでしょうね。
 だけど、俺は、必死に悩んで困ってたまに苦しんで、あんたにぐるんぐるん振り回されることがあってもなお、あんたの隣にいたいって思うんですよ。これって、北さんのこと、好きだから、愛してるから、そう思えるんでしょ。
 求められたら、それにはちゃんと応えます。なんたって、俺はセッターですからね。スパイカーの望む百パーセントへの献身のために、身を粉にする人間ですよ。バレーと同じくらい大切になったあんたにも、目一杯尽くしたい。
 だからほら、やりたいこと、やってほしいこと、教えてください。その欲は、我儘じゃないんですから。
「あつむ」
「はあい」
 それに、人から愛されたいって、ごく普通の、感情でしょ?

――けっこんして」

 絞り出された言葉に、頭の中が、真っ白になった。
「へ」
 素っ頓狂な声が上がる。その瞬間、北さんはバッと身を引いてしまった。俺から、距離を取ろうする。その顔は、赤くなったり、青くなったり。わなわなと、唇に至っては震えていた。
「っやっぱ」
「ナシってのはナシ、です、けどぁおおおぁあ」
「っなんやねん」
「お、」
 でも、震えたいのは、こっちも、同じ。
「~~ッ俺が言いたかった!」
 そう吐き捨てながなら、よろよろと、流しのへりに手をついた。
「おれだって、いいたか、った……」
「……どうしたいて聞いたん、おまえやんか」
「それはそうなんやけど、」
「つか、結婚したいて言うたのは、お前が先やろ」
「え」
「は?」
「い、いつ?」
「……それこそ、冬の、」
「あ」
 確かに、そんなこと、口走ったかもしれない。北さんに言葉の途中で止められたりしたから、最後まできちっと言えたかまでは怪しいが、そういえば、言ったような気もしなくもない。
 じゃあ俺が先に言ったということでイーブン? でもあのタイミングでの「けっこんして」敵うとも思えない。
 はぁあ、ああ。深くため息を吐くと、胃の辺りからもぐるぐると呻き声が聞こえてきた。腹、減った、な。
 北さんにも俺の腹の音は聞こえたらしい。きょとんと、一瞬呆気に取られてから、ぷ、と噴き出した。
 ああもう。恥ずかしいやら悔しいやら。ぐるぐると駆け巡る感情はとりあえずスルー。
 重大なこと聞くべく、口を開いた。
「……今日の、ゴハン、なんですか」
「……手は、洗ったん?」
「これからです」
「なら先洗ってき、居間に並べとくから」
「え」
 でも、今、知りたい。そりゃあ食卓に並んだのを見れば、今日のご飯がなんであるのか一目でわかる。、でも、無性に、北さんの口から聞きたくなったのだ。
 教えて、くれませんか。じ、と、包丁を手に取りなおした北さんを見つめる。トトトトと、ネギを切る音が聞こえてきても、じ、見つめる。そうしてやっと、瞳は俺に向いた。
 薄い唇が、小さく開く。
「ホッケ」
 今日、焼いている魚はホッケだったのか。確かに、よくよく匂いを嗅いでみると、魚焼きグリルからホッケの焼ける、香ばしい匂いが漂っていた。
「玉ねぎと油揚げと、じゃがいもの味噌汁」
 やった。俺、好きなんすよね、この味噌汁。こういう甘い味噌汁は好き嫌いが分かれるのだろうが、ほっこりするから俺は好き。じゃがいもが入っているのもなお嬉しい。定番のわかめと豆腐も嫌いじゃいが、ああ、丁度いい日に帰ってこられたのだなと、思う。
「あと、ふきのそぼろ煮と、」
「と?」
「……菜の花のおひたし」
「ふぅん」
「ふぅん、て、侑、嫌いやなかった?」
「何が」
「菜の花のおひたし」
「あー……」
 言われてみれば、そうだったかもしれない。なんとなく、噛んだ時の苦みが舌について、子供の頃は好きじゃなかった。だが、今はそうでもない。言われるほど苦いと思うことはなくなったし、きれいな緑色のソレは彩としても爽やかだし。
「今は、そうでもないっすよ」
「……、そ。なら、ええわ」
 ふ、とその人は口元を緩ませた。……高校の頃には、想像できないだろう、北さんの穏やかな笑み。一緒に暮らし始めたころは、なかなかこういう笑顔に慣れなくて、いちいち心臓を高鳴らせていたっけ。今となっては、見ていて、胸が温かくなる、笑み。この笑顔を見るために、今日もがんばろうかな、なんて思えてしまう。
「ほら、手、洗ってこい」
「はーい」
 促されるままに、台所を出た。廊下にとりあえず置いていた荷物は、いったん居間の隅に置かせてもらう。あとで二階で荷解きしよう。そう決めて、洗面台のほうへと足を向けた。
 だが、二歩ばかり進んだところで、そうだと一つ、思い出した。後ろ向きのまま数歩、引き返す。ひょこり、台所を覗き込んだ。そこには、ふきを取り分けている、その人。
「北さん」
「ん?」
 二つの小鉢に幾らかわけると、タッパーの中へと詰めていく。あっちは食卓に並ぶことなく、粗熱を取り次第冷蔵庫の中へと詰め込まれるのだろう。明日の朝とか、弁当とか、そういうもののおかずになるのだと思う。
 目があったところで、ゆったりと、口を開いた。