暑中

 関東は、昨日やっと、梅雨が明けたという。
 梅雨というとどうも六月のイメージがあるのに、今年の梅雨明けは八月に入ってから。もう数日したら甲子園が始まるという時分。そういえば、去年も七月の終わりに梅雨明けと言っていた気がする。梅雨って、案外長いんやな。しとしとじっとり、体育館の結露した床に、何度舌打ちをしたことか。明けたからには、カラッと晴れてくれ。この際、うだるような暑さには目をつむる。どこを歩いてもつるつると滑るのだけはもう勘弁。晴れてくれ。せめて、不快指数と比例する湿度は下がってくれ。
 そんな願いが通じたのか、今朝はじわりと暑いながらも雲の少ない空が見えた。走りに行っても、濡れずに帰ってこれそう。こんな天気、いつぶりだろう。背伸びをしてからさっと着替え、トトトとテンポよく階段を下る。台所に向かうついでに、ちらり、居間、それからその奥にある襖を見やった。が、ぴしゃりと閉められたまま開く様子はない。まだ寝ているのか、それとも起きてはいるが部屋から出てきていないだけなのか。
 確か北さん曰く、俺が走りに出て行った音を聞いて起きる、とのこと。そうか、起きてはいるのか。起きてるのなら「いってらっしゃい」という一言が欲しい。……我儘なのはわかっている、だから面と向かって強請りはしない。もし強請ったら、きっとあの人はやってくれる。言って欲しい言葉を与えてくれる。それが負担であろうと、だ。そりゃ、起きてきて声を掛けてくれたら嬉しい。最高な調子で一日をスタートできる。かといって、北さんの負担を増やしたいわけでもない。これを世間はジレンマというのだろうか。ささやかな上にアホなジレンマやな。
 寝癖のついた頭をぐしゃりと乱した。ついでにため息一つ。無理はさせない、あの人だって万能ではないのだから。
 そう言い聞かせながら冷蔵庫から水のボトルを引っ掴み、夏の早朝に繰り出した。ぐるっと走って帰ってくる頃には、北さんは朝飯を準備を始めている。夏休みに入ろうと、規則正しい生活は崩れない。あの人はバイトがあるし、俺にも部活があるから、そもそも崩れようがないのだが。朝飯があって、弁当があって、帰ってきたら夕飯。きっちり三食準備してくれる。料理、得意じゃないのに。万能じゃないを裏付ける証拠その一。ちなみにその二は「好き」の不意打ちにめちゃめちゃ弱いこと。可愛いったら。そんな反応、誰にでもみせたらだめですよ。え、俺限定? 堪らんわあ!
 走りながら、もにゃりと唇が緩んだ。そろそろ部屋から出て来たかな、台所に立っているかな。空の弁当箱広げて、さあなんのおかずを詰めようか、冷蔵庫と睨めっこしているかも。まあ、睨めっこして決めるのは朝飯のほうか。弁当はもう夜のうちに突っこむモン、決めてそうやし。
 今日の朝飯、なんやろな。水をを取り出すときに覗いた冷蔵庫には、鮭の切り身が入っていた。あれは弁当に入れる用か、それとも朝飯用か。タッパーに詰まっているレンコンとメンマを炒めたやつは、きっと弁当のおかず。ちょっと深いホーローの保存容器は、近頃煮卵専用と化している。冬場は角煮も作ってくれたけれど、暑くなってからはほとんど拝めなくなった。入っているのは、とろっと半熟・茹で卵。あれはあれで美味い。何杯でも米を食えてしまう。かといって、大量に仕込んでくれることはない。北さんはいつだって、一日二日で食いきれる量だけ作る。今回もほどほどで作ったらしく、十個パックの生卵は半分くらい残っていた。
 と、なると今朝のメインは目玉焼きかな。そんな気がする。煮卵はまだ味染みてないだろうし。昨日、大量に作った――文字通り、俺が作った、だ。命じられるままにひたすらスライサーを滑らせて作った超大作――キャベツの千切りもボウルに残っていたし。キャベツ盛って、ベーコン敷いた目玉焼きが乗って、明らかに一口サイズではないブツ切りトマトも添えられて。味噌汁は作ってくれるかもしれないし、インスタントで我慢してくれと言われるのかもしれない。
 ――結局、あのおばちゃんは、北さんにばらしてしまったらしい。何をって、俺に、「北君、あんまり料理得意じゃないのよ」と教えたことを。らしい、なんて表し方になってしまうのは、北さんから直接「おばちゃんから聞いたんやって?」と言われたわけではないから。絶対という断言はできない。が、なんとなく、おばちゃんは言ってしまったんやろなとは思っている。俺の前で「カンタン」と書かれた表紙のレシピブックを開くこと増えたし、簡単調味料やインスタント使う頻度もちょっと上がったし。あと、「何食いたい?」て聞いて来ることも増えた。北さんが作れそうな範囲で、何が食いたいのか、よく聞かれる。
 手抜きされるようになった、と言ってしまえばそれまでだが、俺としてはこの手抜きを悪いとは思えない。だって、北さんの腹の中に、ちょっと近付けたみたいじゃないか。正しいコト・あるべき姿で武装した北さんの装甲を、一枚引っぺがせたかのよう。あわよくばもっと暴きたい。本音の本音の本音の部分、あの人の根底に触れたい。
 あの人のことを考えていると、あっという間に時間は過ぎ去る。この流れはバレーに匹敵するほど。どっちがいちばんかと聞かれたら、バレーと答えてしまいそうだけど、人間枠ではぶっちぎって北さんがいちばん。まさに特別な「人」。
 帰ったら、タダイマ。ざっと汗を流して着替えてから、台所に立っているあの人のところに行く。で、包丁を持っていないのを確認して、キス。ここ何か月かのルーティン。それでも、あの人は俺のことを恋人と認めてくれない。こんなん、ほぼ恋人やん。しかも同棲中の。いくら言っても、同居人の戯れ扱い。
 くそっ、と思っていたのは、やり始めて一週間経つ頃まで。そのあとは、開き直ることにした。北さんが「違う」と言っても、北さん以外が「それは恋人」と言わざるを得ない状況にしてしまえばいいかと思うようになったのだ。そんでいつか、北さんの常識がずれてるんですよーて突きつけてやる。俺の判断や見解はスルーされたとしても、その他からの意見までスルーはしないだろう。今に見ていろ、この習慣を既成事実に繋げてやる。
 家まで残り数十メートルとなったところで速度を落とした。緩やかに走るペースから、まったりと歩くものに。わずかに上がった息を整えながら、シャツを摘まんで体に風を送り込んだ。走っているときも暑さは感じていたが、歩き出してからのほうがずっと暑く感じる。足を止めれば、余計にそう。汗もどっと噴き出てくる。着替えるだけじゃどうにもならない。洗濯は増えるし、汗を流そうとすれば水道代もかさむ。わかってはいるんだ。けど、夏だけ走るのをサボるのも腑に落ちない。やるなら一年中。継続は力なり、てよく言うやろ。北さんが好きな、継続・反復・丁寧と似ているやつ。
 体作りも、愛を説くのも、根本的な構えは一緒なのかもしれない。ふう、と息を吐きながら、玄関の引き戸を開けた。
「ただいまあ」
 そう言うと、朝飯の匂いと、おかえりの声。
 が、返ってくるのが、常。
「……ただいま?」
 心地いい冷たさの廊下を進んで、台所に顔を出した。しかし、愛しいあの人の背中は見えない。たまたま居間にいたからいない、というふうでもない。なんせ、朝、俺が出て行ったときと同じ状態の台所が広がっているからだ。
 ぱちくり、と目を瞬かせた。
 北さんが、おらん。寝坊? まさか、とも思うが、他に考えられない。この家で生活しだして、一年ともうすぐ半年。この時間に北さんが起きてこないのは初めて。……あの人でも、寝坊するんやな。そう思うと同時に、また一枚、あの人の皮を引っぺがした心地になる。北さんが、緩んできている。確実に、俺に隙を見せてくれている。へえ、寝坊。寝坊するんや。
 汗を流したら、起こしに行こう。その間に起きてきてしまうかもしれない。まあ、そのときはそのとき。慌ただしくばたばたするあの人に、「今日は弁当、なくてもダイジョブですよ」て言ってやるのだ。そうしたらきっと、ちょっとムッとして、うらりと視線を泳がせて、「……すまん」と返ってくる。妄想だけで半端なく可愛い。実際に目の当りにしたら、とんでもなく可愛いのではないか。可愛さで目が眩むレベル。けど、眩しいッと目を細めてばかりいるのはもったいない。可愛い・可愛いと瞳に滲ませながら、あの人のことをガン見するのだろう。そしたらもっと照れるんやろなあ。
 北さんの部屋も、居間も覗かずに風呂場へ向かう。着替えは風呂場の棚に置かせてもらっているからそれを着ればいい。ふんふんと上機嫌に汗を流し、柔軟剤の香りがする服に着替えれば、十分も経たないうちに素通りした居間に戻ってこれた。その十分間で、北さんが起きて来た気配はない。
 もにゃりと口元が緩んだ。この俺が、北さんを起こす日が来ようとは。高校の頃の合宿期間中も、あの人は誰よりも早く起きていた。代わりに、寝るのも速かったけれど。だからか、起き抜けの北さんは、ほとんど拝んだことがない。ほとんどというのは、一応去年の今頃、二人で居間に雑魚寝していたから。北さんが起きて、俺が起きる。または北さんを起こさないよう、そっとそっと俺が起きていたあの数日。おかげで、あの人のこれぞ寝起きという瞬間を目の当たりにしたことはないのだ。
 寝起き最悪だったらどうしよう。あの涼やかな声を極限まで低くして、地獄の亡者のように呻いたら。……それすら愛おしく感じる自信がある。恋は盲目なんて、よく言ったもんだ。
「北さぁん」
 襖故にノックはやめて、とりあえず声を掛けた。普段だったら、どうしたと部屋から顔を出してくる、ちゃんと中に届くくらいの声量。とりあえず、三秒。数えたところで、中から布が擦れる音はしない。さらに七秒。待ってはみるが、依然として反応はなし。おまけの十三秒。やはり静かな襖に、ごくり、唾を飲み込んだ。
「入りますよ……?」
 先ほどよりも少しだけ声を潜めながら、そぉっと襖を開けた。カーテンは閉まっている。外はすっかり明るいが、打って変わって畳の室内は薄暗い。
 抜き足、差し足と、部屋の中に踏み入った。布団は人一人分を飲み込んで膨れており、確かに北さんがいるとわかる。軽そうな羽毛布団は、かすかに上下を繰り返していた。暑くないんかな。俺なんて、もう暑くて堪らなくって、タオルケット一枚で寝てるというのに。暑く、ないんですか。そりゃあまあ、冷えを嫌う北さんらしいなとも思うケド。
 高校を卒業して二年としばらく。イコール、北さんがバレーから離れた期間。短いような長いような、その二年少々の期間は、北さんの体を作り替えるのには十分な時間であった。……作り替える、て言うと、なんかやらしいな。俺の手で北さんが、ってつけてしまったら、妙に怪しい感じでやらしいやん。うわっ、めちゃくちゃにしてみたい。そのためには、北さんに欲情しなければならないのだけど。欲情、できるか? そっとムスコに尋ねると、「今はムリ」と返ってくる。その「今は」て言葉、信じとるからな。
 脱線した話を元に戻そう。つまるところ、この二年で北さんの筋肉はごっそり衰えてしまったのだ。筋肉が落ちて、代わりに脂肪がつく、ということもなく、ただただ貧相に向かっていった。その結果、今じゃ六十キロすらないと言う。痩せすぎとちゃいますか・俺もそう思う・ならもっと食いましょ・胃袋もな、縮んでしまって・言い訳とかええから食いましょ。そう会話したのは、ついこの間のこと。見るからに食う量が少なかったから、夏バテですかあ、なんて振ったところから体重の話に辿り着いた。高校時代から十キロ近く落ちてるて、そら細いなて思うわ。もっとガリッガリな奴がいる? それはそれ、ええから肉つけてください。
 夏バテしたって、おかしくない。そんな体じゃ、疲れも溜まるに決まっている。寝坊するのも、不思議じゃない。
「きーたさん」
 枕元に膝をついて、努めて柔らかい声で呼びかけた。
 その人は口元どころか、目元まで布団を被っている。暑い寒い抜きにして、苦しくないのだろうか。羽毛布団だから、たいして苦しくはない? どうだろう、自分としては、口の周りにティッシュ一枚かぶさっているだけでも苦しくて堪らない。マスクなんて、大嫌い。風邪予防目的でも、つけたくない。例え、北さんに無感情な視線をぶっすりと突き刺されたとしても、こればかりは譲れないのだ。だって苦しい。
 俺程の苦しさは覚えないにしても、ちょっとは息のしにくさ、感じてるんじゃないですか。マスクよりもずっと厚い、布団を鼻まですっぽりと被っていたら一入。
 たっぷりの空気を含んだ布団を、ぱさり、肩の辺りまで捲った。
 朝ですよ。もう夏休み入ってますし、まだ寝てても良いけど、せめてオハヨウのあいさつくらいはさせてください。オカエリとか、イッテラッシャイて聞かせてください。そんなことを、言おうと思った。言おうと、した。
「ン」
「……きたさん?」
「ぅ……、ん」
 室内の空気に触れたその人は、わずかに呻いた。それから、は、とか細い吐息を零す。やけに、暑そう。そりゃあそうだ、朝とはいえ夏のこの時間に布団を頭から被って寝ていたのだから。暑くないわけがない。そろそろ今年も冷房の効いたとこで雑魚寝しましょう。提案しようと思っていたところで、これ。この顔。真っ赤にして、じっとりと汗を滲ませて、ついでに息が荒くて。
 いや、これは。
 えっ。
「ぁ、つむ?」
 途切れ途切れ、北さんが俺を呼ぶ。あわせて、瞼を持ち上げた。顔を出した瞳は、やけに分厚い涙の膜を纏っている。はあ、再び零れた吐息は、じっとりと熱を孕んでいた。
「いま、なんじ……、」
「も、すぐ、七時です」
「ぅえ、うそやろねぼした」
 掠れていながらも蕩けそうな声。いや、蕩けているから掠れているのか。……この際、どちらでも良い。
 動揺する俺を余所に、北さんは布団に手をついた。それから、上体を起こそうと力む。随分と、体が重たそう。あんなに痩せて、軽くなっているはずなのに。腕の筋力、どこ行ってしまったんですか? 体を支えることすら辛そうに見えてくる。その愚鈍な動きは、寝起きだからなのか、別に、原因があるのか。
 ――明らかに、後者やろ。
「ふッ」
 どうにか、体は起きた。
「ぅ、お……、おぉ?」
 しかし、すぐにその体勢は崩れる。腕の力が抜けたのか、腰やら背中の筋肉が言うことを聞かなかったのか。ぐらり、起きたばかりの上体が傾いた。
 その行き先は、俺の体の、ちょうど正面。ぎくり、肩が強張った。そのくせ、中途半端に己の両腕は身構える。かこんかこんと曲がって九十度。倒れないよう支えるには短くて、抱きとめるには幅を作りすぎた位置。部品製造ラインのハイテクロボットのほうが、間違いなく今の俺より秀逸に身構えられることだろう。
 わ、わわ。倒れる、倒れてくる。火照った顔をしたその人が、やけにスローに見えた。事故ってるのは明らかにあっちなのに、なんで俺の脳みそが切羽詰っているんだ。……しゃーないやん、北さんが迫ってきてるんやで。北さんから、俺のほうに、くらっと来てる。薄暗くはあるものの、真っ暗で視界がさっぱりというシチュエーションではない状況。そう、北さんの呆けた面がよく見える。あ、ちょっと赤み増した気がする。ふふ、かわええなあ。
「ホッ」
 どふり。胸に衝撃が与えられると同時に、裏返った声が漏れた。ぶつかった感触的には、さほど重くはない。だが、今の、この瞬間の北さんにとっては、自立できないくらいに重たい体。
「……す、まん?」
「イエ」
 ちら、と見下ろせば、俺に縋るかの姿勢になったその人。睫毛がすっかり上を向いて、こちらを見上げてくる角度、堪らん。抱きしめたい。そう思う一方で、がきんと曲がった腕は北さんに触れることもできずに宙に浮いている。せめて、肩とか支えればいいものを。ほら、はよ動け。指令を送ってみるものの、神経が切断されてしまったかのように言うことを聞かない。
 ぺとりと、俺の前面に寄りかかっている、北さん。息はやっぱり荒れているし、顔色も血色が良すぎるくらい。触れている部分が熱いのは、俺がテンパっているからそう思うのか。あるいは、見るからに暑そうな格好で寝ていたからか。別に、理由があるものなのか。
「けほ、」
「ッ!」
 咳が零れた。一回では落ち着かず、そのあと二回、三回と落とされる。肩の上下に合わせて、振動が伝ってきた。北さんの体は、やはり、熱い。夏だからとか、動揺に左右されたとか、到底思えないくらいの、熱。咳の終わりに吐いたため息にも、たっぷりの熱がこもっている。
 北さんの眉間に、皺が寄った。頭痛ですか、それとも眩暈? 両方というのも、ありえなくはない。
 固まっていた腕に、じりじりと電流が流れだす。
「……ちょっとシツレー」
「ン」
 頬に触れると、指先から熱が伝って来た。服越しに感じるのよりも、ずっと高い温度を示してくる。火照ったそこに、指先はひたりと吸い付く。皮膚が汗ばんでいるせいだ。じっとりとして、そこだけ湿度が上がったかのよう。そのくせ、唇はかさかさと渇いている。艶やかさはどこへやら、親指で撫でるとささくれだった感触もした。
 右手だけでなく左手も使って頬を挟むと、その人の目がきゅうと細められた。あたかも、冷たくて気持ちが良い、と言っているかのよう。俺、他人より体温高いはずなんですけどね。北さんのが、平熱ずっと低かったと思うんですけどね。そりゃあ水被ってきたところだから、いつもよりはひんやりとしているのかもしれませんけど。
 くん、と上を向かせれば、まるでキスをする寸前の顔つきになる。うわ、ちゅーしたい。ふっと欲が過るが、今はそれどころではない。途中までは、キスするときと同じ所作。でも、ぶつけたい場所が違う。唇は、また今度。そうですね、三日後くらいでいかがでしょう。それくらい経てば、良くなると思うんです。
 ごつ。額と、額が、ぶつかった。
「ぅえ?」
「北さん、あんた、」

 風邪、引いたやろ。

 大丈夫や。真っ先にそう言った北さんの頬をみーっとつねってから、チームメイトに遅れると連絡をいれた。それを見て、再び北さんは言う。せやから、大丈夫やって。どこがやねん、立つどころか、起き上がることすらおぼつかない人を大丈夫とは言いません。とりあえず、病院行きますよ。きつめの口調で言うと、三度目の「大丈夫やから……」と北さんにしては珍しい、情けのない声を漏らされた。このタイミングでその声はずるくないですか? 絆されるとこやったわ。俺、あんたに関しては本当にチョロいんですからね。泣き落とされたら一発ですよ。なんでも言うこと聞いてしまう。そもそも、北さんがとろとろになりながら泣き喚くと言うことが、ありえないか。
 とりあえず、と、北さんを病院に連行した。その間も、大丈夫やって、なんともない、ちょっと寝とけば治ると言っていたが、はいはいと言ってスルーを決め込んだ。聞けや、と唇を尖らせながら背中をもすりと小突いてきたのにはクラッと来たけれど、グッと我慢。病院行って、どういう状態か診てもらって、そんで必要な薬を処方してもらう。それ飲んだうえで、しっかり休養。手っ取り早く風邪を治そうというのなら、それが一番。下手に寝込んでずるずると引き摺るよりはマシでしょう?
 インフルエンザにかかったときに来たと言う病院に辿り着いて、お前はもう帰れという言葉も無視して待合室に居座った。何かあったら困るやろ。つか、好きな人を心配しておきながら中途半端に放り投げるなんて、できるわけない。俺のこと、薄情者か何かと勘違いしてませんか。いくらポンコツな人格をしてようと、北さんを心配しない道理にはならない。いっそ部活休んで看病したろかと思うほど。……自分の中心に鎮座しているのがバレーなせいで、チームメイトへの第一報で「休む」とまでは言えなかったのだけれど。ここだけはポンコツやな。
 そうこうしているうちに北さんは名前を呼ばれ、診察室の中へ吸い込まれていった。受付で差し出された体温計は三十八度を指示していたはず、さあなんて診察を受けてくるのやら。
 ま、考えるまでもないか。
「なつかぜ」
 て、言われた。とぼとぼと戻ってきた北さんは、もそもそと俺に言う。無性に抱きしめたくなったけれど、そこはぐっと我慢。ちびっこからジジババまでいる待合室で、愛情たっぷり込めた抱擁はできない。いや、してもええけど、北さんは嫌がるし。ただでさえ、風邪引いて頭しんどくなってるところに畳みかけるほど鬼じゃない。だから、家に帰ったらめためたに甘やかそう。
「こんな時期に風邪引くなんて思わんし」
 俺が心に誓ったところで、北さんがぽつりと呟いた。
「そらバテ気味やなては思てたけど、風邪引くて……」
 がっくりと肩を落として、頭は俯いていて、普段の背筋を伸ばした姿は面影もない。微かに触れている肩が、やけに小さく感じた。
「あぁあもうなっさけな」
 ぐったりとした声に続けて、酷く大きなため息も落ちていく。ぺたりと両手で顔を覆っているあたり、本当に自分に嫌気がさしているのだろう。自分一人だけが苦しむならいざ知らず、今のところただの後輩である俺に醜態を晒してしまった。それをなにより悔いているに違いない。
 こっちとしては万々歳ですけどね。なんなら、もっと情けないとこ、みっともないところ、晒してくれて構いませんよぉ。そういうところも含めて、北さんの全部を受け止める自信、ありますもん。年上の矜持、捨てられなくたっていい。それを貼り付けているうちは、俺も年下として甘えますから。でも、そういうプライドを保ち続けるの、しんどいなて思うこともあるでしょ。そんなときは頼ってくれたらいいんだ。今日みたいに、大丈夫、て突っぱねないで、助けて・甘やかしてて縋ってほしい。
 まあ、北さんのことだ。向こうしばらくは、素直に頼ってはくれないのだろうけれど。
「一人で帰れるから、お前は部活行ってええよ」
 ほら。
 会計を済ませて、さあ薬局へと思ったところで、北さんは言った。ふらっふらな人が何を言っているんだ。うっかり道中倒れたらどうする。そんな心配に塗れて落ち着かないから、家までちゃんと送っていきます。そんで一人にしてもどうにかなるかな、て思ったら部活行きます。やっぱり、どうにもならへんなってときは、部活休んで一緒にいます。ねっ、北さん、良いでしょ?
「良いわけあるか、うつったらどうすんねん」
「そらそんときですよ。つか部活行ったとしても、帰ってきたら看病しますからね」
「いらん」
「いります」
「いらんて、気ぃ遣うな……」
「なんもしないほうが気ぃ遣うわ」
 北さん大丈夫かな、どうしてるかなて、そわそわする。同じ家に住んでるのに様子を見れないなんてあんまりだ。それくらいなら、うつるかも、と思いながらも一緒にいたほうがいい。ずっと良い。様子が急変してもすぐ気づけるし、北さんがしてほしいこと、すぐ叶えてあげられる。のどかわいたーとか、汗が気持ち悪いーとか、着替えたいーとか。これでもかってくらいに甲斐甲斐しく看病しますから、一緒にいさせて。
 隣にある薬局に向かうべく、キュッと北さんの手を握った。振り払われるかも、と一瞬よぎるが、北さんが抵抗する気配はない。肩越しに盗み見れば、む、と膨れながらも大人しく俺の半歩後ろをついてきていた。なんだか幼く見える。あの北さんが、こんなふうに拗ねるなんて。不謹慎ではあるが、運が良いと思ってしまう。この北さん、絶滅危惧種に匹敵するもん。レアもレア。スーパーレア。角名に知れたら「なんで動画撮ってくんなかったの」とチベスナ顔をされるやつ。誰が撮るか、こおんなかわええとこ、俺以外に見せて堪るか。うっかり北さんに惚れられたらどうすんねん。そんで北さんがそっちに靡いてしまったら。……そのときは意地でもこっちを振り向かせる。絶対だ。
 なんやかんや文句を言いつつも、俺の後ろをとぼとぼとついてくる。その文句だって、憎たらしいものではない。強がりで取り繕っているせいか、負けじと言い返すとたちまちしゅんと萎れてしまうほどの強度。しれっと言い返してくる北さんは、今日はいない。ちょっと物足りないな。だが、たまにはこんな北さんも悪くない。幼さをまとって、可愛さマシマシ。凛とした姿から滲む可愛さにもクラっとくるが、こういう可愛さもたまには良い。
 しれっと指を絡めて、俗に言う恋人つなぎに切り替えた。それでも北さんは抵抗しない。されるがまま。いっそ、あまりのチョロさに心配になってくる。良いですか、薬剤師がどんな美人でもどんなイケメンでも絆されないでくださいよ。
 こっそり念じて薬局の引き戸を開けた。

 薬を貰って、すぐに帰宅。貰ったそれを早速飲ませて、敷きっぱなしの布団に横にならせた。早く効いたらいい。丸い頭をよしよしと撫でつけると、恨めしそうに見上げられた。
「ぶかつ、いってええよ」
 そして浴びせられる、たどたどしい響き。またそれか。飛び出しそうなため息を飲み込んで、軽く額を指で弾いた。病人置いて出かけるほど、俺は薄情じゃありません。何度言ったらわかってくれるんですか。
 デコピンにあわせて眉間に皺を作った北さんは、もそもそと身じろぎしながら鼻まで布団を引っ張り上げた。だからソレ、息苦しくないんですか。ただでさえ、風邪で呼吸するの、苦しいだろうに。呆れた視線を送ってみるが、北さんから返ってくるのは、ついさっきと同じ色。苦さ渋さを混ぜ合わせた目線を向けられる。
「おまえのジャマしたない」
「ジャマ? してへんと思いますけど」
「バレーする時間、いまうばっとるやん」
「……気にするとこソコ?」
「どうせすぐ寝てまう、おれんことはええから行き」
「よおないわ、大切な人のこと放っておけません。今の俺には最重要事項です!」
「なにアホなこと言うてんねん、おまえのいちばんはバレーやろ」
「……いや、いやいやいやいや」
 つい、言葉に詰まった。高校の頃に付き合ってきたカノジョにも似たようなことを聞かれたな、「バレーなんかより、アタシを優先してよ」と。あれは本当に鬱陶しかった、俺の一番はバレーで、十中八九どころかほぼ百パーセント、バレーを優先することは付き合うときに伝えていたはずなのに。あの喧しブタは、ある時から自分が俺の中心になったかの振る舞いをしてくる。そうなったらもう終わり、付き合ってなんていられない。俺の人生における貴重な時間、お前らなんかに割けるか。ビンタ一発すら受け取らず、これまで付き合った女とは別れて来た。
 だが、ここにきて、その命題をぶつけられるとは。それも、これまで経験してきたヤツの逆パターン。「自分のことは放置していいから、バレーをやれ」なんて。ちょっと前の自分だったら、これ幸いと玄関を飛び出していたことだろう。
「ソンナコトナイデスヨ」
「ふは、かたことやん」
 目元に怠さを浮かべながらも、北さんは顔を綻ばせた。そういうあんたは、めちゃくちゃつたない口調になってますよ。舌が回り切っていない発音。鼻が詰まっているせいで、余計にそう聞こえるのかもしれない。
 愛しい人の愛らしさに、くらり、頭が揺れる。それにあわせて、うらり、目線を泳がせた。北さんを直視してはいけない、このまま見つめていたらめろめろになってしまう。もうめろめろになっているって? 惚れる度合いの底が見えない現状を思うと、もっと上があるように思えるんだ。これ以上惚れたら、一体どうなってしまうのか。まるで予想ができない一方、その沼に足を突っ込みかけている自分もいる。
 俺ばっかり、北さんこと、好きみたい。
 そのくせ、脳みそに鎮座する天秤は、北さんとバレーとの重さを比べられずにいる。
 バレーより、北さんことが大事です。いちばんはあんた。そう言えたら良いのかもしれないが、言ってしまったら自分のアイデンティティが崩壊する予感もある。どんなにこの人に惚れこんでいたとしても、自分の中心がバレーであることにかわりはない。おそらく、この先も中心はバレーであり続けるのだろう。限りなく中心に近いところにまで北さんがやってきたとしても、本当の中心にはなれない。いちばんになることは、ない。
 待て待て、人とスポーツを同じ定規で測ろうというのが無理なんだ。形も密度も違うそれら。でも、どっちも同じくらい大事、で良いだろう?
 ……そうは言っても、時間は単一だ。両方に対して、同時に費やすことはできない。バレーをする時間を削って北さんを看病するか、北さんを放置してバレーに打ち込みにいくか。
 大抵の人間は前者を取ることだろう。そうするのが、人道的なのだろし。けれど、自分の世界がバレーボールを中心に構成されてる俺は、後者に意識が向いてしまう。ポンコツと言われようと、バレーを選んで、進んできた。
 イマサラながら、人間らしいことをしてみるか。それとも、このまま薄情な人格ポンコツ野郎を貫くか。……部活に遅れることを選んで病院まで連れて行ったのだから、人格ポンコツ野郎粋の中の底辺からは脱しているような気はする。ならええやん、前よりはニンゲン的てことやろ。
 俺にしては上等上等、ヨッシャ部活行こ。
 ちゃうねん、あかんてそんなん、考え直せやこのポンコツ。
 でもバレーしたい。北さん心配やけど、バレーはしたい。めちゃめちゃしたい。ボールに触りたい。スパイカーの最大限を引き出すトス、上げたい。
「……きっ、北さんこと心配は心配なんですよ!?」
「そのことばだけでじゅうぶん」
「~~ッほんまに! 大事なんですって!」
「あつむ」
 脳みそのほとんど多くはもうバレーボールに向いてしまった。こんなにも北さんに恋しているのに、結局選ぶのはバレー。我ながら、酷い男だと思う。
 なんで北さんは、こんなクソみたいな男のことを好きになったのだろう。バレーしているところに惚れたって? 確かにそれなら、バレーしてきていい・むしろしてこいと送り出そうとするのにも納得できる。俺からバレー取り上げたら、北さんも俺に好意向けてくれなくなるのかも。それは嫌だ、ずっと好きでいてほしい。じゃあバレーするしかない。
 なんだか、あまりにも都合が良い。北さん、それでええの。俺にとって、都合の良いだけの人になってまうよ。そんなふうにされたら、ひたすらに調子乗りますって。調子に乗った上で、甘やかしてってべたべたに絡みますよ。
 そりゃあ北さんなら、飴と鞭を上手く使い分けてくれると思う。褒めるところはきっちり褒めて、叱るところはちゃんと叱る。それが北さん。
 でも、結局は俺にプラスになることばかり。それで北さんが得るものってなんなん? もしかして、愛を与えるだけで充分とでも思ってるんですか? だから俺と付き合ってくれないんですか?
 色恋沙汰に疎い脳みそがぐるぐると湯気が出そうなくらいに働くが、練習したい練習したいという囁きに追いやられていく。
――いってらっしゃい」
 たっぷりの熱で、掠れた、声。
 それを聞いた途端、ごちゃごちゃと考えあぐねていた思考がぷしゃっと潰れた。
「しんどくなったら、連絡してくださいよ」
「ん」
「つらいとか、さみしいとか、そんなんでもええから」
「ん、ありがとぉ」
「……する気ないデショ?」
「ほんまにまずいときは、ちゃんとれんらくする」
「約束ですよ」
「ん、やくそくな」
 今にも蕩けてしまいそうな声で言うと、北さんの瞼がぱたんと閉じた。布団越しに寝息が聞こえてくる。今のコレは、寝落ちたものなのか、それとも気を失ったものなのか。触れた額の熱を思うと、気絶に近いような気もするが……、専門知識を持ち合わせてはいないから、よくわからない。
 とりあえず、今日は家のこと、俺のこと、なんも心配しなくて良いんでしっかり休んでください。
 一つ息を吐いてから、寝入った北さんの頭を撫でた。

◇◆◇◇

 体育館に着いたのは、結局午前十一時を過ぎて、昼を目前にした時間だった。思いのほか遅くなったと思いつつも、軽くアップ。コンビニで買ってきた飯で軽く腹を満たしたら、チームメイトに混じって練習を再開した。
その間、あの人のことが常に頭の片隅にあった、……なんてことは当然なく、完全に脳みそはバレーボールの三色に染まっていた。やっぱり、薄情だ。酷な男だ。ポンコツが足掻いたところで、所詮ポンコツの粋を脱することはできないらしい。
 うっかりいつものように居残り練習をしようとしたところで、チームメイトに指摘された。おまえ、今日はすぐ帰るんじゃなかったのか、と。あぁあせやった、そうだ、そうです、そのとおりです。やらかすところだった。シビビッと背筋を伸ばしながら「忘れてたぁあああ」と叫ぶと、あちらこちらからため息の嵐。こいつ、本当にバレーしか頭にないぞ。そんな副音声の大合唱。ちゃうねん、最初は帰るつもりでいましたあ! ちゃきちゃき家帰って北さんのこと看病する、そう思ってましたあ! だからそんな呆れきった目ぇ向けんな!
 ドタバタ体育館を出て荷物を背負い、最寄り駅から電車に滑り込んだ。数分で降りて、今度は家最寄りのドラッグストアへ。具合が悪い時でも食えそうなもの、買って行こう。レトルトのおかゆとゼリー、それからプリン。ちら、とのど飴のコーナーにも目を向けて、かつて貰ったのと同じメーカーの袋を引っ掴んだ。梅干しはいつでも冷蔵庫の中に入っている。ホットレモンはこの時期に貰ったって困るだけ。念のためスポーツドリンクのペットボトルを三本カゴに放り込み、手早く会計を済ませた。
 歩いたら十分弱。走れば五分に短縮できる。三歩で加速し、十歩でトップスピードに乗せた。纏わりつく暑さと突き刺さる日差しもなんのその。ひたすらに家までの道を全力疾走。
 とにかく早く、あの人に会いたい。バレーをしてすっぽり北さんのことが抜け落ちていた自分勝手が何を考えたところで、白々しくもあるがそれはそれ。何も連絡は寄越さないけれど、辛くないわけがない。
 はやく、帰ろう。はやくはやく。
 朝の走り込みとは比べ物にならない速度で駆け抜け、玄関の扉を勢いよく開けた。おかげで、仰々しいくらいの音量でガラガラと響く。北さんの部屋まで、届いたろうなという騒がしさ。寝てたらすんません。荒くなった呼吸を整えながら、レジ袋片手に北さんの部屋へ一直線。
「生きてます?」
 早速、声をかけながら襖を開けた。反応がない。屍のようだ。なんて冗談はさておいて。
 朝と同じようにそろそろと室内に踏み入って、枕元で両膝をついた。ただ、北さんのほうは朝と違って布団にすっぽりと包まっているわけではない。首から上はしっかり布団から出ている。けれど、ぱっと見、朝よりも暑そうに見えた。熱が上がってきているのかもしれない。辛そうだな、変わってやれたら良いのに。そしたら、北さんのことだ、看病してくれるに違いない。あぁ、でもバレーができなくなるのは困る。たった一日であっても、ボールに触れないのは嫌だ。やっぱり身代わりにはなれない。
 ということで、早く治ればいい。そ、と北さんの額を指で触れた。汗で貼り付いた前髪を払ってやる。春先、俺の部屋で寝転んだときよりも少し伸びた前髪。襟足も、あの頃よりはいくらか長い。そろそろ散髪しにいかなあかんな、と、ついこの間、風呂上がりにぼやいていた。この人は髪切るとき、かなりバッサリ短くする。それこそ、高校生に見えるくらいに。あれはあれでかわええなあと思う。まるで自分より年下のようで。まあ、口開いたらいつものこの人なんやけど。
「ん、ぅ……」
「あ」
 しまった、起こしたか。
 申し訳なさもにじみ出るが、調子を聞けるのはありがたい。額にある手を滑らせて、火照った頬に触れた。ただいま、帰ってきましたよ、欲しいものありますか、薬飲みましたか、具合はどうですか、まだまだしんどそうに見えますけど。ぷかぷかと浮かんでくる疑問、どれから尋ねようかと頭を巡らす。
 と、右手に熱が擦れた。
 ぴたり、思考が止まる。あれこれ浮かんでいた言葉が宙吊りのまま固まった。
「ん……、ンン」
「あー……」
 かわええな。くどいくらいに込み上げてくるその言葉を、喉の奥へと飲み込んだ。声にして、我に返られたら困る。もったいない。
 俺の手の、肌触りか、温度か、とにかく北さんが気に入る何かがあったのだろう。寝ぼけ眼のまま、俺の手に頬ずりをしてくる。最初は首だけ、頭だけ。それからのったりと寝返りを打って、俺の手を枕代わりにしてくる。少し重たい。これが北さんじゃなかったら、やめろと頭を退けていたことだろう。この人なら、まあいいかと思える。さすがに血の巡りが悪くなって来たら考えるが、まだ数分は大丈夫。
 じぃっと見つめていると、もそもそと布団の中が蠢いた。起きるか? とも思うが、北さんの意識がはっきりするのには、まだまだかかりそう。ぼんやり目を開けてみたり、ぱったり閉じてみたり。睡魔でとろっとろになっているこの人を拝める日がやってくるとは。風邪のせいで意識が蕩けているというのもあるのかもしれない。まったく、可愛いったら。普段の寝起きもこんな感じなのだろうか。風邪が治った頃、そっと部屋を覗いてみるのも悪くない。俺の足音を聞いて、ゆっくり一日のスタートを切る北さん。いざ襖を開けたら、その瞬間にカッと目覚めてしまいそう。でも、一回くらいなら、やってみる価値はある、気がする。
 髪やら耳やらに埋もれた指先を、こしょりと動かした。北さんの頭が乗っかっているせいで、動かせるのは文字通り「かろうじて」。けれど、この人には十分なくらいにくすぐったかったらしい。口元がもにゃりと緩む。熱に魘されている中に、一抹の安堵が浮かぶ。良かった、ぼんやりと微笑めるくらいの体調なんですね。
 もちろん、大丈夫じゃないのに大丈夫と言ってほしいわけではない。でも、朝より少しでもよくなっていたら、こっちもほっとする。北さん的には、どんな感覚なんですか。まだ起きたときより変わらないくらいに体は重いのか、熱があがってしんどさが増しているのか、それでも朝の得体のしれない具合の悪さを抱えているときよりは、楽になったのか。
 念じることは、一つ。
「はやくよくなってくださいね」
 掠れ切った、ほとんど音になっていない声を漏らすと、北さんの睫毛がひくんと震えた。
 ついに起きたようだ。震えが止まるのに合わせて、瞼が持ち上げられていく。一見すると、いつもどおりの重たそうな二重瞼。だが、瞳の焦点は定まっていない。きっと寝起きのせい。いや、風邪を引いているせいかも。
「……?」
「ただいまあ」
「ぉかえり……」
 北さんが俺を認識するより早く、口からまろい声が出た。呼応するように、北さんもすっかり角の取れた声を漏らす。頭、絶対に回っていないだろうなという声色。ただいまと言ったら、おかえりと言う。染みついた習慣のおかげで、そう言ったのだろう。だって北さんの顔、見てみ? ぽやっとしてる。普段の、輪郭すらシャープに見せる雰囲気はどこにもない。朝方以上に意識は朦朧。……つまりそれだけ悪化しているということか? 待て待て、帰ったら飲むようにと薬剤師に言われたとおりに薬は飲ませた。たぶんきっとおそらく、タイミングよく熱がピークに差し掛かったところだったんだ。頼む、そうであってくれ。
「あつむ?」
 ざわりと胸中が騒いだところで、北さんに緩く呼びかけられた。意識のピントが定まってきたのかも。それだと良い、単に寝ぼけていたせいで済む。
 ず、と下敷きにされていた手を引き抜いて、ぺたんと額の上に乗せた。日暮れ時とはいえ、真夏に全力疾走してきた直後。指先まで血が巡って、いつも以上に熱を孕んでいる。しかし、それでも北さんの額のほうが熱く感じる。悪化していると言うべきか、治そうと体が必死になっていると言うべきか。
 なんにせよ、熱があがっていることにかわりはない。一旦、体温を計ろうか。確か、机の上に体温計は置いていたような。ちら、と北さんの机に目を向けた。教科書数冊、やたらと分厚い資料集、ノートパソコン。それから、百均製のペン立て。あった、ペンやら定規やらと一緒に体温計も立ててある。
 す、と額から手を離した。あわせて、片膝を立てる。
「ぁ、やぁ」
「っへ、どしました?」
「まって」
 ほぼ、同時に、離した手を掴まれた。指先と言うのがふさわしいか。中指と薬指の爪らへん。きゅ、と控えめな力で引かれた。
 咄嗟に視線を下ろせば、北さんの指先が俺のそこに引っかかっている。自分のとは打って変わって、深爪気味なうえにささくれのできた指先。あかぎれこそはしていないが、手入れをしていないのは明らか。冬場なんてもっと悲惨だ。粉を吹くくらいに乾燥している。見かねてハンドクリームを構えたが、食器洗うからと逃げられたなあ。
 立てた膝を、また布団に戻した。浮かせた手も、北さんの顔の傍につく。頑張って腕を伸ばさなくても良い位置。楽な高さになったせいか、もう一方の手も伸びて来た。両手の指先で、俺の薬指、中指、人差し指の三本を摘まむ。
「どうしました?」
「あつむ」
「気持ち悪いとか、喉乾いたとか、」
「ぁつ、む」
「してほしいことあったら、教えてください」
「ぅ」
「うん?」
 もし自分が、もっと気配りやら気遣いに長けた人間だったなら、わざわざ北さんを喋らせなくても良かったのだろう。だが、現実は、言ってもらわないと何をしたらいいかよくわからない。なんだか辛そう、なんだしんどそう、あ、熱そうだから氷枕準備してみようか。自分で閃けるのなんてその程度。
 蕩けながら俺の名を呼ぶ北さんをじぃっと見つめた。そのうちに、指先を握られる力がほんの少しだけ増したような心地がする。何か、言おうとしているのかも。あれこれ尋ねたくなるのをぐっと堪えて、ひたり、上下の唇を閉じた。自分の声が鳴らなくなるだけで、室内はしんとする。静まり返った室内に、ぼぉっと響く呼吸音。指先から伝わる心音。それから体温。
 乾いた唇が、そろり、開いた。

「ちゅぅして」

 ぱちん。
 スイッチが切れた。
 感覚のスイッチが、オフに切り替わる。目の前が真っ白に染まった。静けさのなかに佇んでいた生命活動の音もどこへやら。指先を掴まれている感触すら消えうせる。
 今この人は、なんと言った。ちゅうしてだって? あの北さんが、そんなこと言うものか。俺からは幾度となくキスはしてきたが、北さんからしてもらったことは一度たりともない。好きだと思われている自負はある、キスすると気持ちよさそうに緩むのだって知っている。でも、それをこの人から強請られたことなど、ないのだ。これから先も、北さんが「キスして」なんて言うことはなく、実際にキスするのも俺からだけなものだと、思っていた。
 今だって、そう思って、いる。
 にもかかわらず、北さんが、俺にキスを強請るだって? ありえない。あるはずがない。少なくとも、キスを許されているだけの関係のうちは、考えれない。これで晴れて恋人同士になれたのなら話は別だが、まだその域には至っていないのだ。ちゅうしてなんて、言われるわけがない。あの北さんが、言うはずがないのだ。
 ついに耳までおかしくなったか。どの程度の空耳になったら、耳鼻科に行けばいいのだろうか。それとも頭のほう? 脳神経、内科か、外科か。どっちや、わからん。けど、ここは大都会トーキョー。病院なんて、いくらでも探しようがある。
 ゆっくりと、息を吸い込んだ。それから細く長く吐き出していく。盗み見るようにして北さんを窺うと、依然として黒目を滲ませながらこちらを見つめていた。ウッかわええ。その潤んだ瞳は、間違いなく熱が出ているせい。しんどそうやな、一方ではそう思う。けれど他方では、目ぇうるうるの北さんかわええと思う自分もいる。そうだ、こんな姿を前にしているから幻聴を聞いてしまったのだ。そうに違いない。
 もう一度深呼吸をしてから、首をかしげて見せた。
「すんません、今、なんて?」
「ちゅうして」
 ――あ、今、俺、顔引き攣った。
 動かそうと思ってないのに、頬骨の辺りの皮膚が震える感触。唇は緩やかな弧から、いびつな線に形を変える。
 指先に触れている体温が戻ってきた。北さんの呼吸音もちゃんと耳に届く。視界を奪った白い霧も晴れ、北さんの部屋を映し出す。感覚は戻った。今ならどんな言葉でも間違いなく聞き取れるし、意味を理解できる。大丈夫、この人が「ちゅうして」と強請るなんて妄想、もうしない。よし、もう一回だけ、聞いてみよう。
 ヒュッとか細く、息を吸い込んだ。
「な、なんて……?」
「きす」
「ひ、」
「してほしぃ……」
 きす、して。きすして。キスして。くるくると頭の中を走らせる。確かに北さんはそう言った。潤んだ瞳、火照った頬、汗が滲む肌を携えて、間違いなく、言った。「キスして」と。そんなわけあるかと一蹴したいが、既に二度、蹴飛ばしている。三度目のこれも幻聴の類として処理してしまうか。そうしたい。けれど、この耳は、この頭は、確かに北さんが「きすして」と言ったと主張する。
 まさか。そのひらがな三文字を掛け巡らせながら、口内に溜まった唾を飲み込んだ。
「ちょっ、何言うてるんですか、お気を確かに」
「きすしてほしい」
「あきませんて!?」
「……いけず」
「~~ッングゥウゥウウ」
 いっそこれは夢なのでは。そう思いそうになる言葉が飛んでくる。
 あの北さんが、あの、北さんが! 俺にキスを強請っているだなんて! リンゴーンと脳内にベルが響く。イメージはノートルダム大聖堂。荘厳なベルの音が、わんわんと頭のなかで鳴り響く。その響きに合わせて、頭が揺れた。あまりのことに、意識が飛んでしまいそうになる。
 顔が熱くなってきた。そういえば今夏やったわ。今日は比較的穏やかな暑さだが、それでも真夏日だか猛暑日は記録している。暑い熱い、あつい。顔から火が出そう。空いているほうの手で目元をべちんと多い、天井を仰ぎ見た。あわせて半開きにした口から、生温い空気を取り込む。自分の体内にある、もっと湿ってずっと熱い空気と入れ替える。本当は冷蔵庫や冷凍庫に閉じ込められている空気と交換したいところ。けれど、きゅっと指を掴まれている状態で台所まで走るわけにもいかない。
 体温より低いだけマシ。そう言い聞かせて、クールダウンしようと深い呼吸を繰り返す。
「ンちゅ」
「ぅワッ!?」
 しかし、この人はそれを許してはくれなかった。
 指先に落とされる、濡れた感触。リップ音を率いてきたそれに、大きく肩が上下した。ぎょっとしながら目を見開けば、否が応にも毒々しい光景が視界に入る。グロテスクとか、気色悪いという意味じゃない。落ち着こうとしている俺の目には毒、という意味。
 だって、北さんが、俺の中指に吸い付いているのだ。ほんの指先、爪先だけ、北さんの唇に挟まれている。ふにりと柔らかなソコ。その奥でちろりと皮膚をくすぐってくる舌。
「ぅむ、ちゅ、ム」
「ひぇ、」
「はぁっ、ぁ……ん」
「き、北さぁん、もおやめてぇえ」
 ヘェやらヒィやら、情けない吐息を堪えられない。それもこれも、うっとりとしながら俺の手を握り、指先に口付けてくる北さんのせい。なんやねん、その恍惚とした顔。はじめて見たわ。熱に浮かされているにしたって、極端すぎません? 熱と暑さで頭おかしくなってしまったんとちゃう? 風邪治ったとき、絶対今してること後悔しますよ。あんたのことだ、我に返ったとき、冷静さを取り戻したとき、「やってしまった」て思うに決まってる。
 わなわなと震える唇を一度噛み締めてから、もう一度唾液をごくりと飲み込む。正直に言えば、このまま見ていたい。とろっとろになって俺に縋ってくるこの人を、満たされるまで堪能したい。もう堪らないとこの人が焦れてぐずっぐずに崩れかけたところで唇を奪ってやりたい。そしたら、どれほどこの人は蕩けてくれるのだろう。既に上がっている息を思うと、あっという間に酸欠になってしまうのが目に見える。苦しくなって、今よりももっと顔を赤くして、頭がどんどん回らなくなって、俺にすべてを預けてくる。俺の好きに、できてしまう。
 いや、いやいやいや。びっくりするほどうっとりしてはるけど、この人病人。風邪引いてる、歴とした病人。手ぇ出すなんて、卑劣な真似できるか。せめてそういうのは治ってから。治ってから、やらしいちゅー、する。いっぱいする。最初から蕩けているこの人も可愛くて堪らんけど、鋼の理性を携えたこの人を陥落させるのだって高揚するに決まってる。だから、今は我慢。ガマン、する。
 ちゅ、と吸い付かれた感触に絆されつつ、くんっと手を引いた。引っ込めた。熱く濡れたソコが遠ざかる。ついでに、北さんの手もぱたり、布団に落ちた。
「そのへんで、ネッやめときましょ」
「ちゅう」
「風邪治ったら」
「してくれへんの」
「治ったら! ……します」
「いま」
「今はしません」
「なんで」
「なんでてそんなん」
「うつるから?」
「わかっとるやないですか!?」
 とことん声は軟らかい。正論パンチを繰り出してくる発音とは大違い。本当に、これがあの北さんだって言うのか。信じがたい思いもあるが、目の前でぽやっとした顔をしているのは確かに北さん。俺の世界で、愛おしい人間ナンバー・ワンに輝いている人。凛々しい姿も好き、しゃんと伸びた背中も好き、屈託なく笑うところも好きだし、不意打ちの愛に赤面するのもめっちゃ好き。今の、熱で欲に振り切った幼さ全開の有様だって、愛おしく思う。
 ああ、これでこの人が風邪を引いていなければ。躊躇うことなくその薄くも柔らかな唇を塞いでいるのに。隙間なくくっついて、かっかと熱を発する口内を蹂躙したというのに。
 ……そもそも、風邪をひいて熱に溺れていなければ、この人がこんなふうに蕩けることはなかったのかもしれない。そう思うと、「次」のない、貴重なモノに思えてくる。えぇえちゅーくらいなら、してもええかなあ、したいなあ、めっちゃしたい。ぱく、と唇にかぶりついてしまいたい。普段の五割増しを思わせる熱さの粘膜を味わって、失神するまで舐ってみたい。
 キスしたい。でも病人。こんだけ誘ってきてるんやから、ちょっとくらい大丈夫やって。アホか、俺まで風邪引いたらどうすんねん。そんときはそんときやろ。困るわそんなん、共倒れして良いコトあるか。一回ちゅーしたくらいでうつるほど、俺ヤワやった? そーでもないと思うけど、万が一。万が一にビビってんのか。誰がビビるか。ならできるよな、キス、北さんとえっろいキス、できるよな。で、でき、でき……、できるか!? ビビリ。うっさい。へたれ。黙れ。ポンコツ。それは知っとる。
 ぐらぐらと脳内の天秤が揺れる。比較的、欲に忠実な俺のわりに頑張っている。やるな、理性。理性でも欲でもない自分が、天秤を眺めて感心する。
 ぎゅぅうと指先を握り込みながら、細く、早く、息を吐き出した。
 視線の先には、む、と唇を尖らせた愛しい人。うっすら眉間に皺を寄せつつ、熱っぽい目線を突き刺してくる、その人。
「……」
「そんな顔してもしません」
「どしても?」
「どうしても」
 しません。言い聞かせるように続けた。じりじりと、理性のほうに天秤が傾いていく。しない、少なくとも今日はしない。ここでキスしたら、ずるいだろ。北さんも、俺も、今日のこの日をずっと恨むことになる。酒の勢いで過ちをしでかしたら、似たような心地を味わえるのかも。やってしまった、やっぱりしなければ良かった。そう、後悔するのが目に見える。やらない後悔より、やる後悔派ではあるが、今回ばかりは別。やらないほうが後悔しないに決まっている。
 いいんだ、今日しなくったって。いずれ、それこそ近いうちに、この人の風邪さえ治ってしまえばできることなんだから。わざわざ、弱った北さんに付け入る必要はないし、流される道理もない。
 しません。もう一度、今度は自分にも説くように、呟いた。
 だが、しかし。
「あつむ」
 たった一言で、決意が揺らぐ。
「あつむ、」
 畳みかけるような第二射撃。空気を過分に含んだ音で鼓膜が震える。いなしきれず、固めた思考の地盤が緩んだ。
「あつ、む、」
 声になんて、なっていない。ほぼ吐息。唇だって、ろくに動いていない。せいぜい、む、の音を作ろうとして唇がきゅむと閉じる程度。
 潤んだ瞳。染まった目元。汗ばんだ額に、束になる毛先。ほんの数ミリだけ開いている口の奥には、深い赤が潜んでいる。
「侑、」
 目の奥が、焼けた気がした。
「あぁあぁああもお!」
 せめてもの抵抗と声をあげた。
 けれど、さっぱり状況は好転しない。秤の皿は、反対側にカタンッと揺れた。
 だすん、両手を布団についた。北さんの頭の右側と、左側。それぞれに着地。ほぅっと息を吐き出した唇に目が留まる。触れたい。塞ぎたい。齧り付きたい。
 元気になったら、覚えとけよ。
 一睨みしてから、ごつんと額を重ねた。自分よりも高い体温が伝ってくる。やっぱり、見立てたとおり、朝よりちょっと熱い。俺とアホな問答してる場合じゃない。大人しく「おかえり」だけ残して寝たら良かったのに。いや、寝かしてやったら良かった、か。ずるずると話しかけてしまった俺も悪い。
 ふ、と軽く息を吐いてから、――ほんの薄皮一枚分、唇を重ね合わせた。
「……これで、我慢してください」
 一秒どころか、その十分の一、〇・一秒程度の接触。バードキスと呼ぶのもおこがましいくらいの、軽い、軽い、キス。ちゃんと、北さんが「ほしい」て言ったもの、あげましたよ。
 これでもかと近い距離で、北さんの瞳を見つめた。あまりの近さに、ピンボケしそう。それでも、どうにか焦点を合わせる。過分な涙で滲んだ黒目を、じぃと見つめる。……しまった、キスしてすぐに、離れたら良かった。見つめていたら、またちゅーしたくなってきた。あかんあかん、一回したんやから今日はもう終わり。回数制限ないんやから、もう何回かやっても一緒? それはそれ。この状況で何度もやったら、止まらなくなる。止まれなくなる。北さんのこと、水の中にいるわけでもないの、溺れさせてしまう。
 俺の愛に、溺れてくれるのなら、万々歳ではあるのだが。
「っふふ、」
「……なぁあに笑てるんですかあ」
 そのうちに、北さんの目が細められた。あわせて、唇に笑みを伴った吐息がぶつかる。至極、幸せそうな、顔。俺とキスができたの、そんなに嬉しかったんですか。ほんまに俺とちゅーすんの好きですね。なんなら、北さんからしてくれても良いんですよお。もちろん、風邪が治ってからの話ですけど。
 ちょん。顎のあたりに、熱が触れた。北さんの指先だ。それから、その人のもう一方の手が、そっと俺の右耳を包む。覆う。指の腹で、耳殻をくすぐってくる。
「ん~、んー……、」
「ちょっと、くすぐったい、」
「ふはは」
「ふははて」
 感情を隠すことなく曝け出してくる。屈託のない眩しい笑顔、といよりかは、気の抜けた、不意に浮かんだ笑顔。つられてこっちの頬も緩んでしまう。
 今日だけで、何度、この人のことを可愛いと思えばいいのだろう。可愛い以外の語彙がほしい。けれど、くどくアレコレこの人を表すより、「可愛い」で済ませたい気もする。あーあー、今日はもうおしまいなんやて。これ以上に北さんのことを見つめていたら、本当に歯止めが効かなってしまう。ぎゅ、と一度目を瞑ってから、布団に立てた手に力を込めた。
「え」
 ところが、ぐ、と、距離が詰まる。起き上がろうとしているのに。いや、しているだけ。まだ、腕は曲がったまま。伸ばしていない。かといって、曲げる角度を急にしても、いない。にもかかわらず、北さんの顔が近くにある。いっそう、近くに、ある。
 なんで?
 さっと思考を巡らせたところで、顎にあったはずの指先が移動しているのに気付いた。移動先は、俺のうなじ。襟足に指を通しながら北さんの手が添えられている。それから、耳のあたりにあった手も、位置どりを変えていた。こっちの場所は、俺の後頭部。旋毛よりは下、頭蓋骨の丸みに沿って、北さんの左手が触れている。
 あれ、俺、北さんに捕まってる? 頭、しっかり抱えられてるよな?
「ちょっと、ちょ、ちょちょッ」
 咄嗟に喚くも、北さんはふわりと微笑むだけ。ワ、幸せそうなおかお。
 重力の力も借りて、北さんが俺の頭を引き寄せる。ず、と、鼻先が擦れた。ぐ、と、額がぶつかる。
「ん」
「む!」
 あっという間に、唇が、沈んだ。柔らかなそこに、ふにゅりと落ちる。先ほどの薄皮一枚とは打って変わって、肉の柔らかさを感じる。ぱたんと目を閉じた北さんは、まるで眠っているのかのよう。けれど、ちゅ、ちゅる、と控えめに俺の唇を吸ってくるあたり、眠ってなどいない。
 ここで、口を開けたら。隙間を作ったら。……北さんから舌、入れてくれるのかもしれない。かもじゃない、これは、入れてくる。絶対だ。そんな、初めて北さんからされたキスがディープキスて。しかも風邪で朦朧としているタイミングだなんて。嬉しいような悔しいような、ずばり、やってしまった感。そして、やってしまい、たい、感。
 腕をあげているのがしんどくなってきたのか、ゆっくり、北さんの体が横を向く。あわせて、俺の体も、横向きに転がった。ぎりぎり布団の上、仰向けになろうと転がれば、間違いなく畳に落ちる。そんな位置。そろりと足を伸ばしてバランスをとってはみるが、さらに北さんは転がろうとしてくる。えっわっ。動揺に合わせて、すぐに背中が畳に着地。それから、覆いかぶさるみたいに、北さんの体が乗る。俺の上に、北さんが、いる。しかも、唇を重ね合わせた状態で。
 カッと頭に血が上った。積極的、と喜ぶ余裕なんてない。風邪引いただけで、北さんこんなふうになってしまうなんて。良いこと覚えた。違う、そうじゃない。気をつけねばならない、だ。そう、気をつけなければ。なし崩しに何かが起きる気がする。何かって? そりゃあ、その、あれだ。
 せっく、す。
「~~ッ!?」
 文字にした瞬間、思考に火花が散った。頑なに唇を引き結びながら、ごくり、喉仏を上下させる。せっくす、これまで考えられなかったソレ。考えようにも、脳みそがフリーズしてしまっていた、その行為。ついにやってしまうのか。でも、俺らまだ付き合ってないし。好き同士なのはわかってるけど、北さん、俺のコト恋人として見てくれないし。つか、そんなんしてええの。なあ北さん、正気ですか。正気やないよな、普段やらんコト、目一杯してますもん。ぎゅむぎゅむ唇を重ねてきたり、とんとんと舌先で突いてきたり、緩く膝を立てた俺の脚に、その、あの、押し付けて、きていた、り。
 待って、なあ、この感触、心当たりあるんやけど。この、太腿の付け根らへんに当たる、そこはかとない、硬さ。
 きたさん、たってる?
「くち」
「ひゃいッ!?」
「あけ」
「あけません!」
「あけて」
「俺まで倒れたら困るでしょお!?」
 ぱ、と口が離れたかと思えば、熱と欲に塗れた声を浴びせられる。真正面か受け止めると、圧力がすごい。押し寄せてくる色気に、頭がおかしくなってしまいそう。ぞわりと背骨が震えた。走った電流は、脳みそに達して多幸感の回路に辿り着く。おかしくなるというか、バカになる。北さんのことしか、考えられなくなる。アレ、それでもいい気がしてきた。北さんことさえ考えられれば、それでええんちゃう?
 ……本当に北さんのことを思うなら、流されるべきじゃない。何度も何度も、自分に言い聞かせていただろう? この人は病人。風邪をひいている。汗をかいたほうが早く治るなんてよく言うけれど、それと性行為を直結するのはいかがなものか。めちゃめちゃ汗かくけど。夏だし余計に。けど、だめやろ。逆に体力使いすぎて、この人はぶっ倒れてしまう。夏バテの痩せ気味なこの人の体がもつとは、到底思えない。
 俺が、ちゃんと、しなければ。
 あの理性の塊たる北さんが、この有様なのだ。熱で前後不覚に陥って、欲に足を取られている。素面に戻ったとき頭抱えそうやなあ。なんてことを、て。……案外、けろっとしてるかも。仕方ないやろ、あんときはそれしか考えられなかったんやから、て。うわ、ぽい。しれっとした顔をして、爆弾を放り投げてくる北さん。あーあー、目に見える。
「っふ、」
「ヘッ」
「ン」
 明後日に向かって現実逃避をしていた意識が、ヒュンッと引き戻される。眼前にある、切なげな顔。けれど、その顔はすぐに沈んだ。俺の、肩口あたりに、沈む。右じゃなく左なのは、一応俺の利き腕を気にしたからなのだろうか。いや、この北さんにそんな余裕があるとはとても思えない。おそらく、偶然。あるいは無意識、無意識で気遣ってくれるって、めちゃめちゃ嬉しいな。あぁあ北さん好きです好き、大好き。
 じゃ、ない。明後日を通り越して盆明けらへんを見つめ出した意識を引き寄せた。
「ふ、ぁっ」
「き、北さぁん?」
「ァ、んン……」
 ぐり、と北さんは顔を押し付けてくる。あわせて、腰も、揺れる。俺の脚の付け根らへんに跨ったその体。重いか重くないかで言ったら、そりゃ重い。痩せ気味とはいえ、成人男性一人分の体重だ。軽いわけがない。ただ、その重さを無視できるくらいの衝撃も襲ってきている。
 例えば、情欲の乗った声。俺のシャツに吸わせて濁った音にしたり、息を吸い込もうと身じろぎするタイミングで、ムッと立ち上ってみたり。それから、風邪と欲で火照った体。服越しでも火傷してしまいそう。直接触ったら、爛れてしまうのでは。どろどろに溶けてしまうのでは。俺なのか、北さんなのか、境が曖昧になって、一つになってしまったりして。極め付けが、濛々と部屋に立ち込める色気。いつの間に香炉を焚いたんですか。頭クラクラして、堪ったもんじゃない。酒を飲んだことはまだないけれど、きっと酩酊したらこんな感覚なのだろう。
 喘ぎを鼻に引っ掛けながら、ゆるゆると、北さんは腰を振る。擦りつけてくる。
「あつむ」
「は、い」
 不意に名前を呼ばれた。から、つい、返事をしてしまう。だが、これは俺を呼んだのだろうか。自慰に夢中になっているのを見ると、少し不安になってしまう。
 夢か、なにかと、勘違いしてはいないだろうか。あの侑が、居残り練をしないで帰ってくるわけがない。こんな時間にここにいることなんて、まずありえない。だからこれは、自分にとって都合のいい夢なんだ、と。そう思ったからこそ、キスも強請ってきたし、こうやってとろとろの自慰に耽っている。……まさか、と思考から振り払おうと試みるが、なかなかその考えは消え去ってくれない。
 体調不良で心細いところに、なんでもホイホイ言うことを聞く構えを示した俺が現れた。いつもの北さんなら、裏があるなと疑ってかかるところだけれど、熱で知覚が鈍っている今、なら。夢幻と思い込んでとろとろに乱れたとしても、おかしくはない、か? 納得できないこともない。
 きゅ、と、北さんの両手が俺のシャツを握った。布が引っ張られて、いくつも皺ができる。ここで肩を抱いたら、どんな反応をするだろう。ハッとする? 我に返る? イマサラだ、ここまで昂ってしまったら、抜いてしまうまで冷静になどなれない。
 そっと、背中に手を伸ばした。小指から、ゆっくり背骨に触れていく。手のひら全体が背中に触れたところで、もう一方の手を腰に添えた。うらうらと、悶えるあたりを、ぼんやりと撫でてやる。
「ぁ」
 ぽたり、濡れた一声。ほぼ同時に、熱を孕んだ体がひくんと震えた。達した? いや、さすがにそれはないだろう。どっふりと脱力した様子はない。まだ、緊張が続いている。イキかけた、というのがきっと正しい。
 俺に触れられただけで、こんなになってしまうんですが。
 腹の底から、ぐわり、じわり、何かが込み上げてくる。
「あつ、む」
「っ、」
「あつむぅ、」
 ああ、今度は、ちゃんと呼ばれている。俺を呼ぼうとして、この人は名前を呼んでくれている。求めて、くれている。
 抱く腕に、ほんの少しだけ力を込めた。すると、その圧に抗うように、北さんが起き上がろうとする。くっついていたほうが良くないですか。そんな不埒な考えが過るが、ぺたりと俺の胸に手をついて、その人は体を起こしていく。仕方ない、腕の中に閉じ込めてしまいたいところだが、下手に抗って我に返られるのも困る。
 背中にあった手を、腰まで落とす。と、健気に体を震わしながら、北さんが上体を起こした。ちょうど馬乗りの姿勢。騎乗位とも、いう。
 服、邪魔。素肌を晒してくれていたら、さぞかし絶景なことだろう。
――もっと、さわって」
 訂正、充分、絶景だ。
 ぐ、と腹の力だけで起き上がる。その微かな揺れで、くらり、北さんの体が傾いた。後ろに倒れる形。このまま倒れては、畳に倒れ込んでしまう。折角傍に布団があるのだ、そっちのほうが柔らかくてイイでしょ?
 するりと腕を滑らせて軌道を修正。無事、とっふん、と北さんの体が布団に沈んだ。上半身は、ひしゃげた羽毛布団に、下半身はシーツを敷いた敷布団に、落ちる。このままじゃ、色々汚れてしまいそう。まあ、どうせ汗を吸ったシーツやタオルケットは取り換えなければならない。なら、掛布団さえ汚さないよう気をつければいいか。
 覆いかぶさりながらも、右手は服の下に潜り込む。寝間着を着ていてくれて良かった、ウエストがゴムなおかげで、簡単に手を入れられる。
「ん」
「ふぁ、あ」
「ァ……、んんっ」
 半開きで固定されつつあった唇にかぶりつく。ああ、やってしまった。ついにやらかした。明日寝込むのは俺のほうかもしれない。二人で倒れるなんて、あんまりだ。知り合いに見られたら、散々バカにされるに違いない。わかっていても、もう、後には退けない。
 いつもなら口の奥にベロは逃げる。あまり奥まで入ってくるなと、唇は閉じ気味にされてしまう。けれど、今日は対照的。自ら舌を伸ばしてくるし、もっと深くと口を開けてくれる。据え膳食わぬは男の恥。悪化したら、共倒れしたら、そのとき考えよう。
「北さん」
「んッ」
 ぢゅ、と水音を立てて離れると、つぅ、と銀糸が伝った。すぐに途切れて、唾液が北さんの唇に乗る。充血したみたいに、腫れた唇。荒れているところに唾液を刷り込んだからか、単に深く口付けたせいか、あるいはその両方か。もはや、風邪で熱に浮かされているのか、欲情して火照っているのか、定かじゃない。
 ……俺にも、とっくに移っているのかも。頭の奥が熱くて、やけにぼーっとする。ただただ、この人を貪りたい一心。
「すんません、」
「ふぁ、あっ、ァ?」
 それでも、なけなしの理性は残っていたらしい。再び口付けながら、ぽつりと謝る。動転しているあんたを襲うこと、許してほしいと、口にする。
「本番は、しません。抜くだけで我慢します」
「ぁ」
「だから、覚えてても、怒らんでくださいね」
 お願いしますよ。

◇◇◆◇

 きゅ、と、水道を止めた。指先についた水をぴぴっと払う。手の平に、あのどろりとべたついた感触は、もう残っていない。はあ、と、深く息を吐き出した。
 あの後、気を失った北さんを転がすように着替えさせ、あたふたと汚れたそれぞれを取り換えた。念のためと水で濯いでから洗濯機を稼働。先ほど干してきたのを見る限り、情事もどきの跡は欠片も残っていなかった。ほっと胸を撫でおろし、跡形も残らなかったことへの口惜しさを振り払う。これで、いい。あとは北さんが覚えているかどうかというだけ。覚えていたら、それなりに弁解して迫る。ここまでしたんだから、もう諦めましょ、と。いくらなんでも、セフレ染みた関係を提案してはこないだろう。……変なところでサバサバしとるからな、しれっと言ってこないでほしい。で、さっぱり記憶になかったら、「何もなかった」という体で過ごす。そうしよう。
 しかし、まあ、なんというか、えろかった。思い出すだけで、熱がよみがえってくる。まさかあんなに乱れるとは思わないだろう。前も後ろもぐずっぐず。そういう体質なんだろうと思う事にしたが、冷静になってみれば、自分で弄っていると言う可能性だってゼロではない。時間と程度さえ加減すれば、後ろ弄っても蕩け切ったまましばらく過ごす、なんてことはないのかもしれないし。もし、後ろで自慰をしているとしたら、いつからやっているのだろう。もともと、そういう性癖だったのか、それとも俺を意識するにつれて、ああいうことをするようになったのか。
 なんにせよ、自慰の延長で留めた俺のことを褒めて欲しい。あのまま一線を越えずに、ぐっと堪えた俺は国民栄誉賞級によくやったと思う。
 俺ってほら、こう見えても純情派やから。
 冗談はさておき、夕飯はどうしよう。北さんの分はどうにでもなる。おかゆが良いと言われたら買ってきたレトルトを温めればいいし、うどんが良いと言われたら冷凍うどんと麺つゆの出番。卵やらネギを入れられたらなお良いのだろうけれど、きっと俺には卵が限界。ネギを切ろうものなら北さんの包丁さばき以上に悲惨な物体を生み出す自信がある。
 問題は自分の分だ。さっぱり考えていなかった。カップ麺とかあるんかな。あったらそれを貰えばいいし、なかったら近所のコンビニまで走ろう。
 ひとまず、きょと、と上段の棚を覗き込んだ。
 すると、廊下に、気配。
「……、」
「あ、おはよおございます」
「はよ」
 視線を向ければ、案の定、北さんの姿。どことなく体は重そうだが、意識ははっきりしている。声も蕩けてはいない。ついでに言えば、掠れてもいない。結構、喘いでいたから心配だったのだが……、普段の声が聞けて良かった。
 ふにゃりと微笑んで見せれば、北さんはうらりと視線を泳がせた。これはどっちだろう、先ほどの行為を覚えていて、気まずくなっているのか。それとも、風邪をひいて寝込んでしまっていたということ自体に後ろめたさを感じているのか。さすがに面と向かっては聞けない。
 まあ、話しているうちにどちらかはっきりするか。ぱきっと割り切って、あたかも何事もなかったかのように口を開いた。
「調子どうですか?」
「悪くはない」
「フフ、良かったあ。なんか食えます? 色々買ってきたんですよお」
 冷蔵庫の前にあるレジ袋を拾い上げると、北さんはひたひた素足で近寄ってくる。家の中でも、比較的この人は裸足になることが少ない。畳の上なら靴下を履いているし、板の間に立つときはほぼスリッパを装備。それこそ、台所にいるときは必ず履いている。珍しい。そう言えば、家に帰ってきたとき、玄関でスリッパ引っ掛けていかなかったもんな。そりゃあ履いているわけがない。取りに行こうとすれば、必ずこの台所の前を通るわけだし。で、通りがかったら俺がいるし。
 半透明な袋の中身が見えるよう、取っ手を持ってガバリと広げた。重なっていたレトルトのパックが、がさり、崩れる。けれど、おかげで何が入っているのかよく見えた。見事なまでに、それぞれのパックの品名が見える角度。うわ、俺、天才。いや、袋広げる天才てなんやねん。
 おかゆはあわせて三種類。白粥、卵粥、それから紅鮭粥。ラインナップには梅粥もあったが、冷蔵庫に梅干しが入っていたなと思って、そっちはやめた。それから、カラフルなゼリーがいくつか。冷蔵庫に突っ込もうと思って、入らなくて止めたそれら。どうにかプリンは冷蔵庫に捻じ込んだのだが、思いのほか食い物が詰まっていて入りきらなかったのだ。常温保存がきくタイプのものではあるが、このままぬるいゼリー食うのはないよなあ。あとでちゃんと冷蔵庫に突っ込もう。その他細々あるが、飯代わりになりそうなのは、そんなところ。
 さ、どれにしますか。これで冷凍うどんを所望されたら少し切ない。まあ、うどんが良いと言われたって「ならお粥はもしものときのためにとっておきましょうね」と言い返すのだろうけれど。
 唇に笑みを貼り付けて北さんの返事を待つ。わずかに俯いて、袋の中身をじっくり見るその人。そこまでまじまじと見るほど物は入っていませんよ、と茶々をいれたくなるがぐっと我慢。どれにしようか、と悩んでくれているのかもしれないし。なんやかんや、北さんの言葉を待つこの時間も、これはこれで嫌いじゃないし。ゆっくりと時間が流れている感じが心地いいなんて、少し前の自分だったら思いもしなかったことだろう。とりあえず、この沈黙は辛くない。穏やかに構えていられる。
 ふと北さんが顔をあげた。すん、と真一文字を描く唇。目もどことなく輝きが失せる。あ、コレ呆れたときの顔や。俺がアホなこと考えているときに、図星をついてくるあの顔。えっ俺、何かしでかしましたか。買い物してきただけですよ。それも、北さんを思って。
 しびび、と体に緊張を走らせると、のったりと北さんの口が開く。乾燥気味の唇が小さく隙間を作り、その奥に潜む赤が垣間見えた。
「……言うとけば良かったな、レトルトのおかゆとかあるて」
「え」
「そこの棚、一番下」
 ぴし、と北さんの指先が、食器棚の下を指す。曇りガラスはなく、扉を開けないかぎり中を見ることはできない。そういえば、この段を開いたことはないな。そっと屈んで、取っ手に指先を掛けた。軽く手前に引けば、がこ、と磁石の外れる感触がする。キィイなんて蝶番の音を聞きながら開いていけば、百均製と思われる四角いカゴが三つ、四つ。そしてその中に詰まっている、パウチにケースにカップにボトル。
「……よりどりみどりじゃないですかあ」
「そら非常食やからな」
 いや、これ非常食の範疇超えてません? そう突っ込みたくなるレベルで、そこには種々様々な保存食、もといインスタント食品が詰まっていた。カップ麺だけで何個あるんだ、お湯を入れるだけのフリーズドライスープもいくつかあるし、俺が買ってきたのと同じレトルトのお粥も入っている。水のペットボトル数本のそばにはゼリー飲料とカロメが箱で置いてある。こんなんあるって、俺聞いてません。いつの間に買うてきたんですか。まさか、俺が来る前から? 賞味期限切れとかないですよね。北さんに限ってそれはないか。ちゃんと把握して、どれはいつまでに食えばいいか、管理しているに違いない。
 一番手前にある袋麺をを引っ張り出す。醤油と書かれたそれの賞味期限はまだまだずっと先。ということは一体、いつ買ったんだ。それとも、こういうインスタントって意味わからんくらいに賞味期限が長いんだったか。ひとまず、俺はコレを食おう。煮卵あるし、自分の分ならネギが連なっていようと構わない。他に冷蔵庫の中見て、乗せられそうなものを乗せて食えば良い。決めた。その一つを掴んだまま、うらりと立ち上がった。
 待てよ、買ってきたお粥もここの中に入れておけばいいのか。そんで先に入っているほうを温めれば、順序としても悪くない。ちら、とレジ袋の中を見て、すぐにしゃがみ込んだ。
「しまわなくてもええよ」
「へ? どうせなら前買ってたの食うほうが」
「折角お前が買うてきたんやし」
「……そゆこと言う」
「照れんなや、こっちまで恥ずかしくなるやろ」
「あ~、俺、恥ずかしくて真っ赤になる北さんこと見たいなあ~、めっちゃ見たいですぅ」
「アホなこと言いなや」
 そう吐き捨てた北さんは、ひょいとしゃがんでいる俺の手元からレジ袋を奪った。それからとん、とんと台所にレトルトパウチとゼリーを並べていく。すべて出し切ったところでで、器用にレジ袋を畳みだした。縦に細長く折って、それから三角、三角、三角。テキトーに丸めて終わりではなく、こうやって畳むところ、几帳面な北さんらしいと思う。
 のろのろと立ち上がって、そっぽを向いた北さんに歩み寄った。斜め後ろ辺りに立って、じり、と顔を覗き込む。が、ふい、と北さんはまたそっぽを向いた。いやいや、顔見せてくださいよ。角度を変えながらその人に迫るも、北さんも同じように角度を変える。なかなかその顔を拝むことができない。ただ、ほんのりと染まった耳と頬が見えるだけ。
 正面から見たい。ぎゅうとひっついて、抱きしめて、強引に覗き込んでしまいたい。そう思う一方で、ささやかなやりとりが楽しくもある。
「顔見せてください」
「見るだけならこんな必要ないて」
「近くで見たい」
「散々見とるやろ」
「……そーでもないですて」
 何を馬鹿なことを言っている。やっとこちらを見た北さんの目は、滔々とそう語り掛けて来た。まったくそのとおり、幾度となく近いところから北さんの顔は見ている。でももっと見たい。今の北さんの顔だってよく見たいし、この先もそう。だから見せてください。
 へへ、と頬を緩ませれば、じわじわと北さんの目尻が染まっていく。あんたも俺の顔、好きですよね。だって近くによるとポット顔を赤らめるし。単に距離に照れているだけ? なんにせよ可愛いことにかわりはない。その可愛らしいとこ、もっともっと見せてください。
 静かに北さんの腰に腕を回した。後ろから抱き付く体勢。へその辺りで指を組めばホールド完了。……このタイミングでキスしたら、怒られてしまうかな。まだ風邪が治っていないのに、不衛生なことをするんじゃない、と。
「き、」
「き?」
 ぴったりとくっつきながら逡巡していると、むっとしていた北さんの口が横広に動いた。何でしょうと首を傾げると、もごもご口ごもる。珍しい、北さんが言い淀むなんて。何時間か前までのとろっとろな状態ならまだしも――あの状態はあの状態で、思ったことをすぐに声に漏らしていたが――大分、正気を取り戻しているのに。
 斜め後ろから覗き込む姿勢のままじぃっと見つめていると、うらり、北さんの視線が泳ぐ。俺とは正反対の方向に逃げてから、下方を彷徨い、一瞬こちらに向いたかと思えばまた離れていく。そんなに言いにくいことなんですか。北さんでも言いにくいこと、ってナニ?
 ほけ、と口を半開きにしたまま、北さんの言葉を待つ。一つ、二つと時間を数えながら、まじまじ北さんを見つめた。三つ四つ五つと辿り着いたところで、おずおず目線が返ってくる。六つ、まだこっちを見ている。七つ、わずかに黒目がぶれた。逸らしたくなってきたらしい。八つ九つ。それでもどうにか耐えて、俺を、見つめている。
 十。たっぷり十秒経ったところで、北さんの口が、再び開いた。
「きのう、だって」
「ッ」
 ぎくり、体が強張った。きのう。昨日、とは。昨日と言ったら昨日だ。今日の前の日のこと。朝、走って帰って来ても北さんが起きてこなかった日。部屋に入ってみたら、見事に夏風邪でぐったりしていた日。「大丈夫」という強がりを押し切って、看病もどきに励んだ日。……熱に浮かされたこの人に、迫られた、日。
 覚えている、のか。あの出来事を。インパクトは大きい出来事だ、別に覚えていたって不思議じゃない。えっ、覚えてるんですか。あの、素面の北さんが知ったら卒倒しそうなアレを。ソレやコレを。ほんまに?
「ごつ、て、デコあわせて熱測っとったやろ」
「……へ?」
「は?」
「は、っていや……、え?」
 それだけ? うっかり口が滑りそうになる。確かに、ちょっと失礼と断りを入れてから、額を重ねた。体温計を出せばいいのに、感覚に頼って北さんの熱を測った。あの距離は近かった。鼻先がぶつかるくらいだ、あれを近いと言わずして何を近いと言えばいいのだ。……キスはゼロ距離だし、その論で言っても近いの区分には入れそうだけど。
 妙な緊張を腹に抱えたまま、北さんのことを見つめた。ほんの少し、一ミリか二ミリ程度、その人は唇を噛む。目元は依然として赤い。……イマサラですけど、この赤みは俺に抱き付かれているからこその照れのせいなんですよね。昨日ひぃひぃ言った名残ではないんですよね。
「そっ、……それだけ?」
 結局、口からぼたりと零れた。聞いてしまった。たちまち、北さんの瞳に胡乱が映る。
「それだけ、て、……おい何があった」
「いや、その、」
 今度はこちらが目を逸らす番。抱き付いた姿勢のまま、ぐりんと首を捻った。ぴったりとくっついているせいで、頬のあたりに北さんの髪の感触がする。それから、じぃっと睨んでくる視線。向き合って立っている状態でもざくざくと心臓を抉ってくる視線だ、この距離から突き刺されると痛くて痛くて仕方がない。
 何があった、何をした。自分の意識が朦朧としている中、お前は一体何をしでかしたんだ。これでもかと瞳が雄弁に語りかけてくる。いつも、この目に根負けして白状してしまうのだが、果たして今回のアレは言うべきか、誤魔化すべきか。ありのままに言ったら、北さんなんて反応するかな。ひたすらに羞恥に苛まれる程度で済むのならいいけれど、もし絶望してしまったら。こっちもショックだ。そんなに俺とえっちなことしたくなかったって言うんですか。……そりゃあ、恋人になることすら拒んでいるくらいだ、やりたくないと言っても不思議じゃない。けど、俺のコト好きなんでしょ。めちゃめちゃ好きなんでしょ。俺も北さんのこと好きですし、イイじゃないですか。色んなことしたい。つか昨日のアレのせいで、あんたに勃つようになってしまったんですからね。これまでどんなに頭を捻ったって想像できなかったのに。
 本当に、昨日のあんたは、やらしくて、強引で、可愛かった。
 脳みその奥に痴態が過る。ふつり、顔が熱くなってきた。その俺を見たからか、北さんの視線に「まさか」という感情が乗っかる。まずいな、北さんの頭が回りだす。その前になんとかしなければ。なんとかって、なにをしたらいいんだ。あぁあもう、口から出まかせ言ってしまえ!
 ぎゅ、と腰を抱く手に力を入れながら、チロ、と北さんに目線を戻した。
「ちゅーした、こと、とか」
「は」
「舌いれるような、ちゅーをですね、」
「した、と」
「何回か」
「なんかいか?」
「……はい、数えてないので、回数までは覚えてませんけど」
「覚えてないくらい何回もやったん?」
「……」
 だって、あんたからちゅーしてきたんですよ。数える余裕なんてあるわけないでしょうが。もちろん、途中からは俺からちゅーすることもありましたけど、そもそものきっかけは北さんからなんですからね。
 そう畳みかけたいところだが、返される反応が読めないせいで言うのは躊躇われる。どうでもいい相手やったら言うてまうんやろな。けど北さんやもん。大事にしたい人やから、アレコレ頭使って、どうにかつなぎとめようと必死なんです。この先ずっと、隣にいてもらうためにはどうしたら、って考えてるんですよ。
「と、いうか、ですね」
 視線を逸らしたいの堪えて、か細く続ける。
「北さんこそ、覚えてないんですか。あんなとろっとろになっとったのに」
「っまさか、」
「それに、北さんからもしてしてって、」
「言うてたと」
「まあ、ハイ」
「俺からねだった、と」
「あんな顔されたら、したくもなりますってえ」
「……よくもまあ病人とキスしようと思ったな、不衛生とか思うやろ、フツー」
「だ、だって北さんからッ! ……北さんから、ちゅーしてぇって、言われたら、」
 してまうて。口ごもりながら、尻切れ蜻蛉気味に言葉を絞り出した。
 す、と北さんの顔から胡乱が消える。まっさらな無表情。真顔とも言う。そんなわけないと思いつつ、この期に及んで俺が嘘を吐くとも思えない。自分も失態を犯してしまったらしい、と、目の当たりにしている顔。俺だったら「やってしまった」といっそ笑えて来るところだが、北さんは真顔になるらしい。
「俺、愛されてるんやなって、めっちゃ嬉しかったんですよ」
「……」
「北さんは、俺らの関係に名前つけたないのかもしれません。でも、俺は、」
「つけたい、つけたない以前に、つける必要がないやろ」
「あります。俺は、俺の恋人はあんたなんやって、胸張って言いたい」
「言えるようになってどうすんねん。後々、やっぱいらんかったって」
「なるかどうかなんて、そりゃわかりませんよ。未来の話ですもん」
「おまえ……」
「前も言いましたよね、先のことは別として、「今」あんたに好きって言わん理由にはならんて」
「そうやった?」
「とぼけるん、やめて。……今、この瞬間、確かに俺は北さんことが好きです。ずっと隣にいてほしいても思う。」
「今は、な」
「ええ、今は。でも未来なんて、誰にもわかりませんよ。俺があんたをフる可能性もあるし、あんたが俺を切り捨てる可能性だってある。先のことなんて、だーれもわかりません」
「……わからへんから、怖いんやろ」
「怖くても、俺のコト、好きなのは事実デショ?」
 意識朦朧としている中、俺のことを求めてくるくらいなんだから。これで好きじゃないわけがない。し、好きは好きだと以前言われている。未来の得体が知れないなんて当然のこと。先のことがわからないから、今できることをするんだ。今、抱いている恋情に素直になったって、罰は当たりませんよ。
 ついさっきまで、北さんの目線に萎縮していたのが嘘のように、つるつると言葉が流れ出てくる。口から出まかせの一種なのかも。だが、出まかせと言うほど、無責任なつもりもない。少なくとも、今日の言葉の責任はとるつもりでいる。八月の、真夏の、あとほんの二日で、甲子園が始まろうという時分。その時点で、北信介という人間のことを愛おしく思っていることへの責任は、とる。
 だからね、北さん、お願いします。
「付き合ってください」
 我ながら、狡い迫り方だ。昨日のこと、北さんが一言一句・懇切丁寧に説明できるくらいに覚えているのなら、こういうふうに畳みかけようと思っていた。あんな痴態を晒すくらいに、俺のことを好きなんでしょう、と。けれど、実際の北さんは昨日のことなんて覚えていない。俺が口を滑らせたせいで、「そんなことをしてしまったのか」と唖然としている状態。となれば、いくら北さんから誘ってきたのが事実であっても、非があるのは俺のほう。真っ当な判断をしなかった、俺が悪い。
 熱に浮かされたときの妄言で、愛されてるなんて思い上がるな。そう返されたっておかしくない。俺がこうして何度目かの告白をするに至ったのは、北さんの記憶にない失態を目の当たりにしたせいでもあるし。じゃあ、その件は差し引きましょう。昨日のあのやりとり、抜きにして考えます。……そうしたって、あんた、俺のこと、好きでしょう? 俺だって、北さんこと好き。しかも、性欲別にして、好き。
「俺の、――恋人になってください」
 傍に耳があるのを良いことに、北さんにだけ届く声量で囁いた。あんたにさえ届けばいいのだから、この音量で十分。
 ぐ、と北さんの喉が鳴った。その顔には、どんな表情が浮かんでいるのか。また懲りずに言ってと呆れているのか、雰囲気に流されて頬を染めているのか、いつになったら諦めるんだと懊悩しているのか。
 ほんの少しだけ背中を丸めて、北さんの肩に顎を置いた。息を詰まらせた顔を、じ、と横目で見つめる。横からじゃ、上手く感情を読み取れない。ただでさえ、感情の機微には疎いと言うのに。こういう告白は、やはり面と向かってやるべきだったか。いや、これまでは真正面からぶつけてきたんだ。趣向を変えてみたって、構わないだろ。
 北さんの睫毛が、静かに下を向いた。目を伏せて、止まっていた呼吸をゆっくり取り戻す。抱きしめているおかげで、体内に空気が取り込まれていくのが、如実に伝って来た。吸って、吐いて、たっぷり吸い込んで、深く吐き出して。
 最後に浅く、息を吸った。
「考え、させてほしい」
「……考える時間、これまでもいっぱいあったデショ」
「あれは考えることから「逃げる」時間」
 逃げる。その人の口から発せられた単語を、自分の中で反芻する。北さんでも、逃げるなんて言うことあるんやな。逃げる逃げない以前に、行くべき道を進むことしか考えてないと思っていた。
 逃げる、そうか、この人は今まで逃げていたのか。俺との関係について考えることから。だから、頑なに突っぱねていたし、いくら好きと言われても、好きと思っても、その先の関係まで結びつけはしなかった、と。
 す、と、北さんの瞳が視線を流してくる。こちらに向かって、さらりと流れてくる。よく浴びている、突き刺さる感触とは全く別物。ひやりと自分の皮膚をくすぐってくる。嫌な冷たさはない。
「腹括る、そんでちゃんと考える。から、少し、時間がほしい」
 心地の良い視線に、貫かれる。
「成り行きとか、そういうのやなく、ちゃんと考える」
 真摯を込めた声色に、心が震える。
「お前との関係について、ちゃんと考えるから」
 時間がほしい。

 ああ、やっと、スタートラインに立ったのか。
 そう理解すると同時に、こくんと頷いていた。