残夏

 しゃく、と、ソーダ味の冷菓を齧った。蜩の声も大分少なくなってきたとはいえ、まだ暑い。夕暮れ時でもこの気温。すれ違った小学生は、まだ袖のないシャツを着ている。衣替えまで、あと半月。昼と夜の長さもほぼ半分。なのに、こんなにも暑いなんて。年々夏が長くなっているような気もしてくる。そのくせ、冬は唐突に雪が積もるくらいに冷えるのだから不思議なもんだ。
 しゃくり、再び、冷菓を齧る。暑さの山は通り過ぎたものの、アイスを溶かすには十分な気温。ぼんやりしていたら、あっという間に溶けて、手がべたべたになってしまう。平たい棒から落ちてしまわぬようにだけ気を付けて、大きく二口、三口で残った氷を口に入れた。
「……もう食ったんか」
「溶けるよりはええかなと思いまして」
「まあな」
 ぽん、と落ち着いた声が飛んでくる。あわせて視線を向けると、互いの手にそれぞれ提げられたレジ袋がぶつかって、がさりと音を立てた。俺の左手に一つ、北さんの右手にもう一つ。調味料やペットボトルは俺の持っているほうに、洗剤の詰め替え用は北さんの持っているほうに入っている。本当は、重たい物全部、俺が持つほうの袋に入れようと思ったのだが、「袋裂けるからやめろ」と言われて諦めた。確かにな、ビニール袋の耐久なんてたかが知れている。
 まあ、そこまでか弱いような扱いをしなくていい、という含みもあったのだろうけど。北さんだって、男だ。俺ほどではないとはいえ、力はある。固く閉じている瓶だって難なく開けられるし、十キロの米袋だって涼しい顔して持ってくる。女・子どものような扱いなんて、しなくていい。
 わかってはいるが、つい、手を出してしまう。俺が俺がと、主張してしまう。だって、少しでも役に立ちたい。俺にできて、この人にできないことなんて、数えるくらいしかないのだから。
 はく、と、その人もアイスを齧った。真っ白い直方体のソレは、昔からあるバニラアイス。舐めるように食べるということもなければ、大きく咥えるわけでもない。さり、ざり、と少しずつ齧り取って、冷を味わっている。
 一瞬、白が唇に乗った。ぺったりと、薄くも赤いソコを塗り替える。だが、すぐにちろりと舌が現れ、その白は拭われてしまった。本来の唇の色が露わになる。舐めたせいもあって、少しだけ艶がついた。うるりとした唇。触れれば、もったりと沈みこむソコ。
 キス、したい、なあ。
 じぃ、と見つめているうちに、北さんはバニラアイスに口付けた。三分の二ほどになった大きさの角に、かぷり、齧りつく。それから、つ、と口が離れていくものだと思ったのだが、口に触れている状態でその人は動きを止めた。垂れてきたのだろうか。いや、だったら動きを止めずに舌で追いかけているはず。
 ちろ、と、北さんの目がこちらを向いた。ちょうど上目遣い。睫毛がぱちりと開かれる。……だが、目はどこか冷めている。呆れを、含んでいる。
 う、ちゅ、とようやく北さんはアイスから口を離した。上下の唇を巻き込むようにして、ついたアイスを拭う。その瞳は、据わった、まま。
「侑」
「はい?」
「ガン見すんな」
「……さぁっせぇーん」
 あ、そういうこと。指摘されると同時にぱっと首の向きを正面に戻した。これで舐めるように食べていたら、魅入るような食い方やめてぇと文句も言えたところだが、この食べ方はそこまでやらしくない。艶めかしくもない。
 北さんのことが好きで、欲情すらする自分だからこそ、魅入ってしまうのだ。いや、バニラアイスというのもよろしくない。アレが過ってしまう。精通直後の中学生のように、回路が繋がってしまう自分が憎い。前までは、こんなに多感じゃなかったというのに。この人が風邪をひいた日から、いちいち欲を掻き毟られる。
 ああ、キスをしたい。アイスで冷えているだろう唇にかぶりつきたい。舌を捻じ込んで蹂躙して、真っ赤に蕩けさせてしまいたい。キスに夢中になっているうちに、アイスは溶けるだろうし、ぼったりと地面に落ちてしまうかも。あーあー、もったいない。そう言って、北さんの手についた白を舌で拭う。……さすがに妄想が過ぎる。深く考えるのはやめよう。やめるんだ。
 込み上げてくる浅ましい欲に目線を泳がせていると、隣からため息が聞こえてきた。嘘やろ、いつも思うけどなんでこの人、俺の内心、ほいほい読めんねん。俺、そんなにわかりやすい? わかりやすいからバレるのか。あぁああ恥っずかし!
 バッと勢いよく北さんのほうを見ると、呆れ切った目線を返された。吹き出しをつけるとすれば「しょーもないことしな」。さんざんおかんに言われた台詞だが、今の北さんには非常に似合うと思う。
 ごくり、唾を飲み込んだ。それからじとり、背中に冷や汗が走る。ひたりと貼り付く視線を躱せない。きゅ、と下唇を噛み締めれば、さくり、北さんの口がさらに一口アイスを齧った。
 浮き出た喉仏が、こくん、上下する。
「したいならすればええやん、」
 キス。
 終わりの二文字は、唇の動きで添えられた。音にはなっていない。なのに、頭にがんがんと響く。
 ふつふつと、顔に熱が集まってきた。心臓も喧しく騒ぎ出す。人目につくところだから、と、キスの二文字を音にするのを控えたのだろう。けれど、それにしたって、だ。俺、あんたのコト好きなんですよ。めちゃめちゃ好きなんですよ。キスしたいなとか、セックスしたいなって思うくらいに、好きなんです。そんな奴相手に、口パクでぞくっとする言葉伝えるのやめて。自制が効かなくなってしまいそう。
 唇を塞ぎたいという衝動はぐっと我慢。ひゅ、と取り込もうとして詰まった息を一旦吐き出して、大きく深呼吸し直した。
 キス。したい。でも、しない。なぜ? 外だから? 違う。決めたんだ。北さんが熱を出して、その勢いで一悶着があって、さらに何度目かの告白をしたあの日に。北さんが、俺との関係について、ちゃんと考えると言ってくれた日に。
 頭に纏わりつく熱を、ため息にくっつけて吐き出した。
「……北さんからお返事貰うまでは、我慢するって決めたんです」
 キス、するの。今度はこっちが口パクで言葉を添える。
 北さんの目が、わずかに見開かれた。お前、我慢なんてできたんか。もしくは、お前が自分から我慢すると決めたとは。どちらかというと、後者のほうが北さんの表情のニュアンスに近いかもしれない。言いたいことはわかります、「やりたい」と決めたら即座に動き出すような俺が、じっと堪えるのを選んだのだから。
 俺にだって思うところはあるんです。キスで畳みかけて、どうにかなる相手だったらキスをしていた。でも、北さんはそうじゃないでしょ?
「あんたが色々考えてんのに、邪魔すんの悪いし」
「……殊勝になったな」
「北さんが相手ですからね」
 これまでの、わらわらと群がってきた女どもとは格が違う。大多数のうちの一人ではなく、大多数のなかの、ただ一人。ちゃんと考えると言ってくれたのだ、その考えがまとまるまで待つくらいはする。
 通りがかったコンビニのゴミ箱にアイスの棒を突っ込むと、慌ただしく北さんも残ったバニラアイスを頬張った。口の端に白を乗せながら、北さんの腕がこちらに伸びる。言ってくれたら捨てるのに。けど、不意に距離が近付くのは嬉しい。少し首を傾けたおかげで、その人のうなじがよく見えた。伸びていた襟足はしばらく前に切りそろえられ、すっかりその首筋を太陽に晒している。真っ白というよりかは、いくらか日に焼けた肌。汗ばんでいて、触れたらじっとりとしていることだろう。……目が、チカチカしてきた。純白というほどの白さではないのに眩しくて仕方ない。
 それとなく、目線を逸らした。コンビニの、ガラスの向こうに目を向ける。雑誌を立ち読みしている女子高生が二人。この時間には、もう学校は終わっているのか。部活がなければ、まあこんなもんか。ぼんやりと眺めていると、二人のうちの片方が顔をあげた。ぱち、と目があう。うわ、めんど。眉間に皺ができそうなのをどうにか堪え、へらっと笑っておいた。
「帰るで」
「はあい」
 自分の顔面は、まあ普通。よりは若干偏差値高いかな、というあたりだと思っている。決してイケメンだとか、美形だとかの枠には入らない。全日本候補のバレーボーラーで、双子というスペックのおかげで、なんやかんやもてはやされているだけ。だが、ああやって軽い笑みを貼り付けるだけで、ふわっと顔を赤らめてもらえるのをを思うと、もうちょい偏差値高いんかなとも思えてくる。北さん的にはどうですか、俺の顔。かっこいいと思います? そう尋ねたときに返ってくるのはきっとこう。
 人好きのする顔はしてるんやない?
「お前、人好きのする顔してるんやから勘違いさせるようなことやめえ」
「……え?」
 ふと、脳内の音声と、現実の音声がダブった。一字一句一致したわけではない。だが、部分一致はしている。
 ぱちくりと、目が瞬いた。それから、ぴた、と足が止まる。勘違い、させるようなこと。今、笑って見せたことですか。あんなんで勘違いするような女、今時いませんて。それとも北さんは勘違いしてくれるって? きゅるきゅると疑問符を頭に走らせている間にも、北さんは家に向かってすたすたと進んでしまう。わっ、待って待って、置いて行かないでくださいよ。
「北さんは」
「なんや」
「俺に、あんなふうにニコッてされたら、ドキッてします?」
 ととっと小走りになって、早歩き気味の北さんに並んだ。俺が追いついても、いつもより歩くペースは速い。おかしい、いつもはもっと、ゆったり歩いているのに。まるで、さっきのコンビニから早く離れたがっているかのよう。……願望がフィルターになっているからそう見えるのか、あながち間違っていないのか。
 じ、と見下ろすと、北さんは、ちら、と目線を擡げた。先ほど、まじまじと見つめてしまったときと似た目付き。けれど、さっきのそれとはわずかに色が違う。これも、俺の色眼鏡のせい? そのせいで、嫉妬しているかのように、見えてしまっているのか?
 ゆら、と北さんの目線が逸れた。車道側を向いて、数秒。歩む速度が落ち着いていくのに合わせて、のろのろと視線が戻ってくる。俺に、もう一度向けられる。
「……するやろな」
「っほんまに!?」
「好きな相手にそんな顔されたら、誰だってどきっとするやろ」
 当たり前のことを聞くな。そんな顔をして北さんは吐き捨てる。
 そうですね、確かに当たり前のことかもしれません。ただあの、北さん。結構、でかい爆弾を落としたこと、わかってます? そういうこと、しれっと言うのやめてください。心臓に悪い。どくんと大きく震えた心臓の痛いこと痛いこと。
 ウッ、胸が苦しい。そんなボケとともに蹲ったって、AED取ってくるから大人しくしときと言い返されるに決まっている。それもぽんぽんと頭を撫でながら。これで頭を撫でてこなかったら冗談か本気か区別がつかないのだろうが、頭ぽんぽんやで、ぽんぽん。絆されるわ、それだけで胸の痛みもとろっと治る。逆に、そんなふうに甘やかしてくれることが嬉しすぎて死にそうにはなるかも。他人に頭を撫でられることなどほとんどないだけに、この人がおもむろに撫でてくるのはなかなか胸にクる。
 北さん、俺も好きです。そうがばりと抱き付いたら、よしよしと頭撫でてもらえるんかな。動物を撫でまわすような手つきでなら、撫でてもらえそうな気がする。
 ……いや、ちゃうねん。俺が北さんに撫でられるのめっちゃ好きとか、そういうことを話したいわけとちゃう。
 つきつきとビビる胸を押さえながら、そっと口を開く。
「……北さんにとって、俺が「好きな人」なんは間違いないんですよね」
「まあな」
「でも、恋人になるかってのは」
「……すまん、まだ結論でてへん」
「そ、すか」
「悪い」
 悪くはないです。急かしてるのはコッチなわけですし。取り繕おうと口を開くが、早く返事がほしいのも、事実。恋人になるか、ならないか。せめてそこだけははっきりさせたい。
 俺が北さんのことを好きなのは確か、北さんも俺のことを好きでいてくれるのも間違いない。ただ、付き合うかは、この人の都合により保留中。スキとスキが掛け合わさったのだから、恋人でええやんと思う自分だっている。でもそれはあくまで俺の都合。北さんのことをさっぱり考慮していない。付き合うからには、両方が納得していないと意味がないだろう?
 答えが出ていない、というのにほっと安堵しつつ、ぐしゃりと歪んだシャツを直した。フラれてはいない、まだ、若干の希望はある。大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせながら、細く息を吐き出していく。
「そりゃあ、できることなら早く返事ほしいんですけど」
「……」
「……いっぱいいっぱい悩んで決めてください。そんだけ真面目に考えてくれてるてことでしょ?」
 俺の、コト。あの北さんが、ひと月も決めかねているのだ。なんやかんや葛藤しているのは間違いない。このままずるずると先延ばしのなあなあにされることもありえなくはないが、誠実な北さんがそれを選ぶとも考えにくい。恋人になってしまうか、ならないと腹を括るか。選ぶとすれば、この二つのどちらか。
「恋人にしてくれるんやったら、これまでみたいにちゅーします。なれへんときは、もうしません」
「潔いな」
「ずるずる引き摺れば良いってもんでもないですし」
 そのあたりは割り切っている。嫌だというのなら、俺は諦めるしかない。この一年で数えきれなくらいにキスをして、ここ半年で事あるごとに告白して、今、ちゃんと考えるというところまでたどり着いた。ここで「ちゃんと」考えて出した答えなら、今後覆ることもあるまい。北さん、何気に頑固やし。こうと決めたことは譲らない、意地っ張りなところもあるし。
 とっ、と一歩大きく踏み出した。隣を歩いてた北さんの、一歩か、二歩分、前に進む。必然的に、視界から北さんはいなくなった。けれど、すぐ斜め後ろにいるという気配は感じる。正しくは、気配ではなくがさがさと揺れるレジ袋の音、だが。
 恋人にならない。そう決められたら、それを受け止めるまで。でも、俺が大学いる間はあの家に住まわせてくださいね。もうキスもしないし、うっかりとろとろになった北さんをぱっくり食い散らかすのもしないんで。次があるなら、誠実に接します。どんなに欲のままに迫られたって、……どう、やろ、ちゅーしてならまだしも、えっちしてって言われたら考える。うわ、意志薄弱。
 ざ、と風が街路樹を揺らした。背中側から、涼しさを含んだ風が通り抜ける。こういう風が吹くと、どことなく秋が香ってくる。いつになったら涼しくなるんだろうか。夏のぎりっとした暑さも嫌いじゃないが、秋の過ごしやすい気候も気に入っている。自分が生まれた頃なんて、殊更。
「……正直、」
「んえ?」
 ぽつり、小さな声が風に運ばれてきた。かたん、と踵を鳴らして、立ち止まる。肩越しに、後ろを振り返った。
 風に煽られながら、真っ直ぐな目が向けられる。腕を伸ばしたって届かない距離。数歩引き返さなければ、あの人の揺れる髪には触れられないだろう。
 どうかしました。尋ねようとしたところで、一際強く、風が吹いた。う、埃も混じっていたせいか咄嗟に目を細めてしまう。声も、風に負けて発せなかった。
「これだけ焦らしてたら、お前のほうから音ぇあげるんやろなって」
 ただ、風向きのおかげで、その人の声はよく聞こえた。失敬な、と言いたくなるような内容の台詞が、しっかりと耳に届いた。
 北さんの足は止まったまま。風が落ち着いても動かない。無表情のような、困ったような、……泣き出してしまいそうな、そんな顔をして、立ちすくんでいる。
「……俺とのこと考えてくれてたんとちゃうの」
「考えとおよ。せやけど、なかなか腹括られへんから」
 ちゃんと考える言うたのに、もう一か月も経ってもうた。ふ、瞼が伏せられ、北さんの唇が自嘲気味に弧を描く。
 腹を括る、てどっちの意味で? 聞こうかと口を開くが、聞いてしまうのが怖い気もする。北さんのタイミングで聞かされたのなら、まだ、飲み込める。だが、俺の都合で聞いてしまったら、「聞かなきゃ良かった」という思いが残るのでは。後悔は、したくない。この人に関しては、随分と自分は臆病になってしまう。
 そういえば、この人もそうやったな。俺のことになると、めちゃめちゃ、臆病になる。あの凛々しさが鳴りを潜めて、不甲斐なくなってしまう。
 バレーだけを好きでいたときには、なかった感覚。うわ、俺、人間ぽい。いや、最初から人間なんやけど、……知らない感覚に、感情に、ハタチ目前にして出会ってしまったかのような心地。
 はく、と空を食んだ。
「そもそもな」
 と、一つ息を吐いた北さんが、瞼を持ち上げた。その表情には、依然として複数の感情が入り混じっている。なんで、そんな複雑な顔するん。もしかして俺フラれる? 断るんやったら、そんな切ない顔、しないでください。思ってもないこと言うのやめて、なんて叫びそうになるでしょ。
「ボーナスステージやと思っとった」
「……なにをですか」
「お前との、生活」
 ひたり、北さんの足が一歩、前に出た。
「短かったら半年、長くても四年。そんな期限付きのボーナスステージ」
 ぱたり、もう一方の足も地面を蹴る。北さんの足で二歩分、俺との距離が縮まった。それでもまだ、手は届かない。伸ばしても、触れられる距離ではない。どうしても触れたいというのなら、こっちから近付けばいいだろうに。脳内にそう呆れる自分もいるし、北さんのほうに近付けと脚に指示を送っている自分もいる。けれど、この両脚はコンクリートに触れたままぴくりともしない。
 せいぜいできることと言えば、喉を震わすことくらい。あ、声は出せるのか。つかさっきも出てたしな、喋れたし。体は妙に強張っているけれど、喋ることは、できる。
 掠れそうな声が、零れた。
「つか、そのボーナスステージてなんすか」
「そのまま。特にペナルティもなく、利を得られる時間」
「……利、ていうほどのモンあります? 俺が言うのもなんですけど、「俺」を住まわせるんすよ」
「ふは、利しかないわ」
 そこでやっと、北さんは顔を綻ばせた。解読の難しい顔をされるより、ずっと良い。そういう顔をしてくれると、俺の肩からも力が抜ける。ど、左手に提げているレジ袋の重さが返ってきた。
 それにしても、利しかない、とは。そう言いきれるだけのコトを、俺は北さんにできているのだろうか。家のことは、言われたとおりにしかできない。掃除なんかは北さんのほうが得意。料理はお互い得意ではないけれど、練習しただけあって北さんのがレベルは上。洗濯機を回すだけなら俺にもできるが、引っ越してきたばかりの頃は洗剤を大量投入して叱られたっけ。生活スキル、身に付いてるんかな。稲荷崎に居た頃よりは、マシになっていると思う。でも、今すぐに自立できるかと聞かれれば……、微妙なところ。
 そんな、俺を住まわせることでの、「利」とは。
 ひたひたと静かに北さんはこちらに歩み寄ってくる。俺の正面、一メートルあるか、ないか。そこまできて、ぴたり、足を止めた。ここなら腕、届くかな。一歩踏み出しながら手を伸ばせば、簡単にその体を腕の中に閉じ込められる。まあ、抵抗されたり、躱されたりする可能性もあるから、簡単と言い切るべきではないのかもしれないけれど。
 緩やかに、北さんは笑みを携えている。その、顔、好き、です。ときり、心臓が高鳴った。寿命が縮むような衝撃ではなく、胸にじんわりとした熱を与えてくれる、高鳴り。
 空いている右手が、うらり、持ち上がった。
 しかし、それより先に、北さんの左腕が浮く。真っ直ぐに、いや、少しだけ斜めの角度をつけて、こちらに伸ばされる。
 ふわ、り。俺の頬に、その人の指先が、触れた。

「ずっと好きやってんもん」

 きり、とした眉が、ハの字を描く。ゆるりと目は細められ、愛おしさをたっぷり込めて、北さんは首を傾けた。
「い、いつ、から……?」
「ん? んー……」
 頬に触れているのは人差し指、中指、それから薬指の三本。それらの、指の、腹。返事をしそびれて固まっていると、つ、とその三点が頬を滑った。顎のほうに、伝い落ちていく。ほんの薄皮一枚を擦って、つ、つつ、と滑り、……熱が離れた。
「高校の、頃から」
 その瞬間、北さんの目が伏せられる。
「最初はとんでもなく自分中心な奴やなって思たけど、蓋開けてみたらとにかくバレーには真摯」
 それはきっと、俺が一年の頃のこと。高校に入って、バレー部に入部して、ぎらぎらとしていた頃のこと。セッターとしてのプライドは高かったし、下手くそへの態度も横柄だった。……横柄だったと、今は思う。俺のトスで決められないスパイカーなんてポンコツ。試合に出られない奴にあげるトスはない。勝つために必要なトスなら、どんなトスだってあげる。そう、勝つために、必要ならば。
 だからこそ、一年の頃は、この人が一目置かれているのが理解できなかった。技術面はせいぜい中の下。練習は投げ出さないし、きちんと最後までやる姿勢はあるけれど、そんなん当然のこと。当たり前のコト、当たり前にできてるだけで、なんでそんなに評価されとんの。本当に、あの頃は意味が分からなかった。
「基礎を怠ることもない、手を抜くことだってない」
 けど、その当たり前を、当たり前にこなすことが難しいらしいと気付いたのは、それからすぐのこと。あの人がやれていることが「フツー」と思っていただけに、衝撃だった。
 アレ、フツーちゃうの。咄嗟に片割れに尋ねて、ドン引きされたのも覚えている。
『あんな直向きにコツコツカツカツ、タスクこなせる人そうおらんで。めっちゃ怖いわぁ、いっそ尊敬する。あの人に逆らったらアカン。おかんに謀反起こすようなもん』
 確か、こんなことを言っていたはず。どええ、あの人そんなすごい人なん。ちょっと練習が丁寧で、たまに目付きがスゴくて、しょっちゅう口から飛び出る正論パンチで相手をコテンパンにのしているだけの人とちゃうんか。……いや、これだけ並べたらめちゃめちゃ恐ろしいな。俺も逆らうの、やめとこ。
「いきなり本番でやらかすこともあったけど、それは「できる」「やれる」て自信があったからやってたんやろ?」
 そんなふうにして、あの人に逆らうのをやめたのだけれど、あの判断は間違っていなかったと思う。おかげで、風邪引いたときも悪化はしなかった。拗らせる前に治って、部活にもすぐに出られたし。
 試合だって、何度あの人に立て直して貰ったことか。二年の頃は、火力こそあれど、調子にムラがあった。やれる、と思って突き進んでいるのだから、調子が悪いなんて自覚がないこともあって。だからか、ぱた、と崩れたらそのままセットを取られる寸前まで追い上げられるのもしょっちゅうだった。
 それを食い止めてくれるのは、いつだって北さん。エースの一本や、ワンブロックのドシャット、スーパーレシーブにも助けられた。だけど、いちばんは、この人。
 黒の一番、チームキャプテン。
「その自信は、毎日の反復と、その継続と、直向きなまでの丁寧さで培ったもの」
 この人がコートに立ったのは、数える程度。この人が三年、俺が二年だった一年足らずの、何回か。同じ空間でバレーをしていた期間と思えば、二年にはなるのか。その短い期間で、この人にここまで評価されていたなんて。
 どや、俺の後輩、すごいやろ。あの言葉は、この評価があったからこそ、言ってくれたのだろう。
「……あんなん目の当たりにしたら、」
 ふる、と睫毛が震えた。ほぼ同時に風が吹き抜けて、その人の髪を揺らす。
 俺が思うより、ずっと前から、この人に愛されていた。そして今も、愛してもらっている。この人にとって、俺は誇りなのだろう。
――惚れてもおかしないやろ?」
 なら、俺も、誇っていいですか。あんたに、ここまで愛されていること、俺も誇っていいですか。
 顔が熱くて仕方がない。真夏の名残のせいでも、直射日光のせいでもなく、すぐそばに立つこの人の眩さのせい。これほど丁寧に愛してもらっているのに、「好き」というたった二文字で済ませてしまうところだった。北さんも、俺のコト好きでしょ、なんて軽々しい言葉で、整理箱に突っ込んでしまうところだった。
 北さん、そういうことは、もっと早くに言ってください。俺に直接、言ってください。俺らスタメンは知らんのに、他のベンチメンバーは知っている北さんの顔、そういえばいっぱいありましたよね。コートに立ち続けるくらい頑張ったのに、なんで俺にはあの笑顔向けてくれなかったんですか。今、吐露してくれたみたいに愛おしく思ってくれてたこと、どうして言ってくれなかったんですか。
 教えてくれたら、俺だって、もっと早いうちから真摯に向き合っていたのに。
 ……いや、北さんのせいにするのは良くない。見逃した、俺の、敗因。そう、敗因だ。最初から、負け試合だったのだ。なのに、北さんは「ボーナスステージ」を用意してくれた。あんたにとってだけじゃない、俺にとってもこの生活はボーナスステージだ。
 もう、逃したく、ない。
 割り切る? 諦める? 止めだ、止め。この人の想い全部、俺が受けとめたい。他の誰かに渡す? ふざけるな、全部、全部、俺が貰うんだ。
 北さんの愛が、欲しい。
「そんな憧憬すら抱いとった相手と、また一緒に過ごせるて……。ボーナスステージとしか言いようがない」
「なあ」
「ん?」
「すんません」
「なんでお前が謝んねん。……あぁ、さすがに重かったか、まあこんな年の若造が抱えるにしては、」
「その重さ」
 気付けば、口が動いていた。早口気味に、単語を連ねる。自嘲した顔なんか見たくない。卑下して俯くなんてもってのほか。胸張って、背筋伸ばして、きちっと前を向いて、そんで、俺の背中、支えてください。
 ぺたり、北さんの頬に触れた。俯きかけた顔を、強引に俺のほうへ向ける。車が通る道、学生が歩く道、どこで誰が見ているかわからない。だが、構うもんか。この人に、こんなにも愛してもらっているのに、答えないほうがふざけている。
 距離を詰め、こつり、額を重ねた。
「全部、俺にください」
 左手も空いていたら、その体を抱きしめることができたのに。買い物帰りという状況のせいで、何だか決まらない。かといって、カッコつけて告白を後回しにしたくもない。今、この瞬間に、何をするか。それが重要。今を逃したら、もう次はない。くったりと諦めきったこの人を、再びその気にさせるの、絶対に苦労する。もちろん、そうなったらそうなったで、口説き落とすつもりでいるのだけれど。
 半ば睨み付けるようにして、見開かれた瞳を射抜いた。
「そんなん聞かされて、手放すような腑抜けとちゃうわ」
「っは? 手放すて、……この先お前から手放されるかもしれへんのに、それに怯えて過ごせて言うんか?」
「今決めました、今わかりました、今、腹、括りました」
 あんたが未来を恐れていることは重々承知。捨てられる可能性がゼロじゃないのに、付き合うなんて真っ平御免。だったら最初から付き合わないほうがいい。あんたのそういう思考回路は知っている。言い返してくる声が震えているのだって、その恐怖のせい。わかっている。
 でもね、未来って、不確定なんですよ。逆をいれば、俺だってあんたに見放される可能性はある。この先、俺は何年バレーを続けられるかわからない。十年、二十年と携わるのかもしれないし、不慮の事故で、明日にもボールを操る自由を失ってしまうのかも。先のことはわからない。
 この先に待っている未来が、絶望に染まっているのか、あるいは希望で満ちているのか、誰にもわかりはしない。
 どうせわからないのだ、明るいほうを夢見たって、罰当たりませんよ。
 つ、と鼻の先がぶつかった。北さんの瞳、開いた瞳孔まで、よく見える。
「俺はあんたのこと、一生手放しません」
 唇に吐息がかかった。まるで触れているかのよう。いや。ほんの薄皮一枚分くらいは、触れているのかも。口を動かすのに、抵抗のない距離。
 じわり。北さんの目が潤んだ。近いせいで、水で満ちていくのがよくわかる。このままでは、決壊してしまうのではないか。それくらい、黒目も白目も潤んで、縁が滲んでいく。
「そんなこと、」
「信じてください」
「っ」
「今はまだ、信じるに足る男やない。そう思うのもわかります。でも信じてください」
 俺は、腹を括った。あんたのこと、手放さないと、心に誓った。この決意を反故にしようものなら、末代まで祟ってくれて構いません。まあ、この先もあんたといると決めたから、俺の血は俺で途絶えてしまうわけだが。まあ、それはそれ。もし、どこの馬の骨ともわからない女と不貞に働いたら、丑の刻参りでもなんでもしてくれたらいい。甘んじて、その呪い受けとめます。
 ふ、と頬を緩めてから、ちゅっとリップ音を鳴らした。触れるだけのバードキス。このタイミングでキスするのは、軽薄に見えたかも。でもこれだけ近くにいるんですよ、ちゅうしたくなるに決まってるじゃないですか。
 ああ、一回やったらもう一回やりたくなる。歯止めが効かなくなってしまう。お返事貰うまではキスしないと言っていたはずなのに、この様。……大目に見てくれ、なんたって、一生の愛を誓っているところなのだから。
 そう、一生の、愛だ。
「あんたの愛、ぜんぶぜんぶ俺にください」
 その瞳から、雫が零れた。透明なソレは、瞬く間に頬を滑って、地面に落ちる。すぐに次の粒も作られ、頬に涙の線を描いていく。ああ、綺麗やな。泣き顔に興奮するような性癖は持ち合わせてはいない。特に、苦しかったり、辛かったりを理由にした泣き顔。あれはいけない。極力、見たくない。まして愛しい人が辛苦に浸っている顔なんて、言うまでもない。だが、こういう泣き顔は、別。瞳に光が満ちて、期待と希望を見出した瞬間、溢れる涙。これがいわゆる嬉し泣き。
 こういう泣き顔を見るのは、二度目。初めては、高校の頃。この人が、初めてユニフォームを手渡された、瞬間。あの顔も、しばらく脳裏に焼き付いて離れなかったな。あの北さんが、こんな顔するなんて、と。
 きっと、この顔も忘れられないだろう。
 ぼうっと魅入ってから、静かに唇を重ねた。ゆっくりと、柔らかさを感じ入る。ついさっきのバードキスではわからなかったが、思った以上に熱っぽい。カッカと火を噴きそうなくらい、熱を孕んでいる。唇でこれなら、他の部分はもっと火照っているのでは。そう言えば、触れている頬からも熱を感じる。俺の手よりも高い体温なんて、相当だ。
 この数分の間に、のぼせてしまったのか。名残惜しくも、唇を離した。ふ、わりと上皮から感触が遠のく。
 様子をみれるようにと言う意味も込めて、拳一つ分、空間を作った。
 ――わ、顔、真っ赤。
 はくり、ぱくり、まるで餌を求める金魚のように、その人は口の開閉を繰り返す。今までも赤面を見ることはあった。羞恥に苛まれての赤面もあれば、熱に浮かされてのそれもある。だが、こんな風に、耳と、頬をぼっと色づかせているのは、初めて見た。外で見ているから、はじめてに見えるのだろうか。太陽光のもと、顔から火を噴く、その人。
 めっちゃ、かわええ。
 涙を流している瞬間は、綺麗だと思った。だが今度は、可愛い。とにかく、可愛い。ぎゅうと抱きしめて閉じ込めて、蕩けるまで愛を説きたいくらいに、可愛い。
 それでいて、愛おしい。
 自然と、開けたはずの距離が縮まった。
「あ、ほか、」
「アホちゃうわ、真面目も真面目大真面目です」
「ちゃうわ、あほ」
 じりじりと縮まっていく最中、北さんの掠れた声がする。驚いて、上手く舌が回っていない、声。つたない。可愛い。あかん、もう、なに見ても、なに聞いても可愛くてしゃーない。何この人。
 大事にしよう。絶対だ。

「そんなん全部、くれたる」

 口付ける瞬間に、堪らない声が、響いた。





 この愛が報われるなんて、思ってもみなかった。
 墓まで、連れていくものだと、ずっと思っていたのに。
 ああ、なんてことだ。まさかの事態。どうしたらいい?
 もう、――嬉しくて、死んでしまいそう。