春陽
桜が見える。
爪の手入れをしている最中に、初めて気付いた。大学への通学路に桜並木があるなとは思っていたが、まさか家からも見えるとは。窓から頭を出すようにして見下ろしながら、ほお、とため息を吐いた。
去年の今頃は、こんなふうに部屋から外を見下ろすこともしなかった。生活に慣れようと必死だったのかもしれない。……北さんとの生活、てだけで緊張してたしな。
風が吹くと満開を過ぎたそれらが花びらを散らす。世間はこれを桜吹雪と言うのだろう。並木の下を歩いているときは鬱陶しくて仕方がないが、こうして上から眺める分には綺麗なもんだ。
とん、やすりについた粉を払った。すると、トントンと階段を上ってくる音がする。ちら、と扉のほうに目を向ければ、とんとんとん、とノックが三回響いた。
「はーぁい」
「入るで」
返事を待たずに扉が開く。ひょいと顔を出した北さんの手には、きちっと畳まれたタオルケットとシーツ。今朝方、北さんが剥ぎ取っていったものだ。洗濯機回すから寄越せ、と。起こしに来てくれたん、北さん大好き、ちゅーしてえ。なんて戯言も一緒に差し出したが、結局北さんが持って行ったのはタオルケットとシーツだけ。俺の愛までは剥ぎ取るどころか、受け取ってすらくれなかった。
「もう乾いたんすか」
「おう、天気もええし、風もあるしな」
ほら、と差し出されたそれらを受け取ると、ふんわりとお日様の匂いがした。ふわふわのほわほわ、気分も穏やかになっていく。これくらい北さんもゆるふわでええのに。ガードが固すぎる。たまにとろっと緩むけど、基本かっちりと固められている。この防壁の融点は何度なんだか。
そりゃあ、なかなか落ちないからこそ、余計にハマってる面もないことはない。手ごわい奴を相手にするほうが燃えるように、だ。絶対に屈しないなんて煽りがついていたら一入。跪かせたくなる。揺らがない、膝を折らない、仮に片膝をついても、目は抵抗で爛々。……めちゃめちゃ燃えるやん、これを落としたら俺かっこええぞて闘争心掻き立てられてしまう。これが俺の性分、北さんになんと言われようと、この根本が変わることはないだろう。やりたいと思ったら止まらないし、止まれない。突き進む以外の選択肢・ナシ。
ということで、あんたが俺の愛を受け止めてくれるまで諦めませんよ。手始めに、試合見に来ませんか、そんでガツーンと惚れ直してみませんか。今度、黒鷲旗ありますし、プチ帰省がてらいかがでしょう。……どのタイミングで誘うか、悩ましい限り。今おもむろに言ってしまうか、飯時まで待つか、日を改めるか。
「布団ももうええやろ」
と、くるくる考えているうちに、北さんのつま先がベランダを向いた。ちょうど南向きのベランダ。たっぷりの光をこの部屋に届けてくれる。その陽射しを浴びて、北さんの髪が薄く透き通った。まるで金色、俺の髪とおそろいですね。きらきら輝くその色、悪くないでしょ。
ああ、綺麗だ。
過ると同時に、カラカラと窓の開く音がした。
「あ!?」
「なんやねん」
「俺の仕事!」
とられてまう。ハッして北さんに駆け寄った。俺の仕事。布団を干して、そんで取り込むこと。子供の手伝いでしかないが、こうやってちまちまと奪わないと、北さんが家事のすべてをやってしまう。それはいくらなんでもナイでしょ。家事は分担するもの、でないといつか負担になって夫婦生活に支障が出る。どこかで聞いた話をまるまる信じているわけではないが、こういうところからもアピールしなくては。今のところ、小学生の「お手伝いやりたい」と変わらぬ内容であっても、だ。
ばたばたとベランダに行けば、北さんは知るかと言わんばかりに布団の片方を掴んでいた。あぁあしかもそれ俺の布団やん、自分のことすら自分でやらんでいいて、実家よりも甘やかされてんのとちゃう? おかんに見られたら白い目向けられてしまう。そんであのババア、北さんに言うんやで。もっと扱き使ってええよ、あの図体有効活用せんともったいない、米くらいは買うて来れるから、て。
「ん」
「えっアッはい!」
渋い顔をしたおかんの顔が霧散すると同時に、ぼふ、と差し出された布団を受け取った。干す前に比べて、ずっと体積を増やしたそれ。シーツよりも、ずっと色濃くお日様の匂いがする。うわっふわふわのもふもふや、めっちゃこの上転がりたい。頭の中に小学一年生が現れる。きゃらきゃらと笑うそいつが飛び跳ねると、留め具をかけていないランドセルがぱたぱたと揺れた。
うるさい、すっ込め、今に中身ぶちまけるぞ。そんな悪態は過ぎらない。どころか、くらり、幼い欲望に負けて体が動く。
もそもそもと、陽のあたる位置に布団を敷いた。先ほど北さんから受け取ったばかりのシーツもばさりと広げる。風を浴びて膨らんだソレが、すっと穏やかに布団にかぶさった。それから、きゅ、と端を布団の下に折り込む。枕側、両横、足元のほう。皺を伸ばしながらセットを終えると、そのシーツの白に影が映った。
「……寝るにはまだ早ないか」
「北さん、昼寝て知ってます?」
「お前、昼寝なんかできるん?」
「たまにはしますよ」
「あぁ、講義受けながらか」
「そおぉおなんです、三コマなんか腹も膨れてるから眠くて眠くてめっちゃ昼寝はかど……、」
「授業料は大事にせえよ」
「っ最近は! 最近は寝てませんて! ほんまに!」
寝てませんから!
念を押すように言うと、北さんは敷いたばかりの布団をひょいと跨いだ。部屋の、影になっているところに一旦布団を起き、それから三つ折りに畳み直す。俺の言葉に耳を傾けている様子は、ない。ちょっと聞いて、ほんとに年明けらへんからは授業ンときも寝てませんから。ちゃんと話聞いてノート取ってますから。
ねえ北さん。聞いてや。
四つん這いでその背に近寄り、つい、とカットソーの裾を引っ張った。
「なんやねん」
すぐに北さんは首を捻り、俺の目をじぃっと見つめてくる。すっかり暖かくなったおかげで、先月と比べると随分と薄着。昼間でもその白い首を拝めるようになったのはヒジョーにありがたい。一方で、俺以外のオトコの目にも留まるんやなと思うと、もう少し隠していてほしいような気もする。シュッとした細身の服を着ているせいで、体の線もくっきりとわかる。うっかり朝風呂に入った日なんか濡れた髪そのままに大学に行ってしまうし、男女問わず誑かしてません? 本当に気が気じゃない。
もう一度、つい、と裾を引っ張ると、襟首がずれて背中が見えた。日に焼けていない、白い肌。首以上に、滑らかな、そこ。
「侑?」
「アー……」
布団はすぐそばに敷いてある。まだ昼間。けれどお互い休みで講義も部活もバイトもない。二人きり。聞こえてくるものは、風の通る音と、木々の擦れる音と、たまに幼児の遊ぶ高い声。
そっと裾を離し、今度はその人の手首を掴んだ。ぐるりと指が一周して、なおかつ指が余る太さ。別に北さんの腕が細いわけじゃない、俺の手が大きいだけ、俺の指が、長いだけ。
「おい、あつ」
む、まで響く前に。すんませんと零した。声になるかならないかの音量、これが世に言うウィスパーボイス。
膝立ちになれば、キスするのには困らない。唇をかすめ取ると、目を瞑り損ねた北さんの肩が揺れた。これでもかと見開かれた瞳には、きっと俺が映っている。俺しか、映っていない。今、この瞬間、俺は北さんを独り占めしているのか。堪らんなあ、誰にだって公平公正なこの人を、バレー一辺倒な俺が独占しているなんて。
「っは、」
「ん」
一呼吸分離れて、またすぐに口付けた。ただ先ほどより深さが違う。かぷりと柔らかな唇を甘噛みして、波打っている結び目を舌で撫でる。辿る。突く。中に入れてと、伺いを立てる。……北さんの瞼が落ちる代わりに、その口はわずかに開いた。おそらく、数ミリ。けれど、それだけあれば十分。するりと舌を入れ込んで、歯列を越え、その奥で縮こまっている熱を捕まえた。
「ゥ、ンぅ」
鼻を抜ける声が悩ましい。ふつふつと脳みそが煮え立ってきそう。盛るつもりはないのだが、こんな反応をされたら俺だって思うところがある。そばに布団、部屋の中に二人、そのまま寝入っても風邪をひくような気温ではない。つらつらと冷静に状況を告げてくるのは、脳みそのどの部位なのだろう。
空いていた片手で腰を引き寄せながら、どふり。敷いたばかりの布団に、その体を押し倒した。
「っふ、ぁ?」
「……、」
ぽかんと呆ける北さんの唇に、ぽったりと唾液が落ちる。春の朗らかな日差しを浴びながらも、唇が艶めく。奥にある赤が乱れた熱を香らせてくる。蕩けた瞳を見ていると加虐心が芽生えてきそう。放蕩したくなってくる。
こんなに上手くいくなんて。今日の世界は俺に随分と優しい。ついに俺の愛が報われた? それとも、帳尻合わせのどんでん返しが待っている? 前者に傾いて調子に乗りそうな自分の手綱をぎちっと握って、静かに口を開いた。
「北さん、無防備すぎません?」
「そら、お前相手に身構える必要ないからな」
「今、俺に組み敷かれてるて状況踏まえてなお、そのお考えに変わりはありませんか?」
「……そらまあ、押し倒されるとは思わんかったけど」
けど? 布団を背にしながらも、北さんは淡々と喋る。ほんのりと頬を色づかせているくせに、理性はしっかり保っているなんて。つーか、理性しっかりしてんのに、あんなちゅーできるって、北さんの肝の据わり方どうなってるん。それとも、俺が毎日毎日キスを浴びせたおかげ? 体は蕩けても心は譲らない、とでも言うつもりか。そんなん嫌や、心もください。心身丸ごと北さんが欲しい。
腫れた唇にむしゃぶりつきたい。続きを待たずにキスしてしまおうか。してしまえ。
そっと、北さんの顔の横に、手をついた。たっぷりの春の陽と空気を含んだ布団が、まったりと沈む。ちら、と北さんの目が俺の手を追いかけた。けれど、すぐにその視線は戻ってくる。距離を詰め出した俺の目に、向けられる。
ず、と。北さんの首が傾いた。
「お前、俺で勃つん?」
「ヘッ」
間抜けな声と同時に、体がぎくりと震えた。中途半端に近付いた体制のまま、凍り付く。
勃つん・立つん・たつん。水滴が落ちるように、その言葉を反芻した。たちまち、背筋が冷える。そんなことがあるわけがない。と、言い返したいところだが、どこかが充血している気配もない。自分の体のことだ、自分がいちばんわかっている。テンパって、勃っていることに気付いていない、なんてわけでもない。
その人の言う通り、あんなキスをして、こうやって愛しい人を押し倒しているにもかかわらず、……ソコはしゅんと萎れていた。
「なんでやあ!?」
「俺に言うな」
「どぇえ、なんっ……、ええ、ええええ」
喚きながらも体を起こし、北さんを跨ぐようにして膝立ちになった。そして、目視。免許合宿で散々言われたとおり、人の言葉やミラーだけを信じずに、この目で確認する。と、普段と何一つ変わらない下肢が見えた。テントを張るどころか、膨らんでもないし、感覚として大きくなりそうな予兆もない。ぺたんと平ら、そこにナニがある以上、まるで平らというわけでもないのだろうが、興奮を覚えている様子は一切感じない。
こんなにすぐに帳尻合わせをしなくたって。神を呪いたくなってくる。それとも、北さんと付き合うてところまで至っていないのに、暴挙にでた天罰というやつか。と、なれば北さんが「ええよ、付き合おか」て言ってくれさえすれば、俺のオレはすっと立ち上がるのではないだろうか。……どうやろ、なんか思った以上に繊細みたいやしな。思い返せば、どんなに切羽詰った状況であっても、サムやおかんの足音を聞いただけで萎んでいた。部屋に入るとか、声をかけられてもいないのに、だ。公衆面前での羞恥プレイに興奮したいとは思わないが、あの図太さは羨ましい。くそっ、試合じゃいくらでも図太くやれんのに。
盛大なため息を吐きながら、ふらり、北さんの上から退いた。それからすぐに、布団に寝転がる。冬に、北さんの布団に潜委込んだときとほぼ同じ距離。たいした労力もかけずに、その体を抱きしめることができる。うわあん北さん、慰めてぇ。きゅ、と北さんの服を握って、ぐりぐりと額を押し付けた。
「っはーもうなんでなん、この役立たずぅ……」
「……つまるところ、俺への好意なんてそんなもんなんやろ」
「いやいやいやめちゃめちゃ好きですからね、そりゃもうえっろいちゅーしたいなてくらいに」
「それだけやろ」
「……性欲が全てとは限りません」
「難儀な脳みそやな」
「俺もそう思います」
ああもう、ここにきて自信がなくなってきた。俺、北さんコト好きやろ? 好き、そりゃあもう好き。四六時中一緒に居たって苦じゃないし、北さんが他の連中にとろとろと心と体を許すと思ったら嫉妬で狂いそうなくらいには、好き。
ただ、勃たない。えろいと思うのに、無反応を貫き通す。泌尿器科にでも言ったほうええんやろか。いやでもオナニーはできたな、エロ動画見てふつーに勃ったわ。なら、なんで北さん相手に勃たへんの、意味がわからん。やっぱり、セックスするところまで想像できない状況にあるからだろうか。妄想に耽るのはあまり好きではないのが、大真面目に北さんとえっちするトコ、シミュレーションしてみよかな。難解なこのムスコのために、一肌脱ぐしかあるまい。そしていつか北さんをひん剥きたい。……いつになるんやろ。頭痛くなってきた。
もう一度ため息を吐くと、どんよりとした空気を洗い流すかのように南風が通り抜けた。そばにある体温と相まって、カビの生えそうなテンションがゆるゆるとほどけていく。
北さんが、俺のコト好きて受け止めてくれたら、俺もほっとして反応するかもしれない。そうだ。そういうことにしておこう。
そっと傍にある顔を見やれば、ちょうど欠伸を噛み殺しているところだった。口は閉じたままで堪えているが、目尻に涙が滲む。
と、北さんが俺の視線に気づいた。たちまち、居心地が悪そうに口を尖らせる。欠伸を飲み込んだ、間抜けな顔を見られた、と。頬には「見せ物とちゃうぞ」とありありと書いてある。北さんて、実は表情豊かですよね。高校のときは気付かなかったわ。それとも一緒に暮らしだしたからこそ、微妙な表情も読み取れるようになったんかな。どちらにせよ、ムッとした北さんがかわええことにかわりはない。そんな顔されたら、またちゅーしたくなる。しかし、勃起はしない。俺の体、ほんまにどうなってんねん。
「見るなや」
「あてっ」
ぴんっと額を弾かれるが、それ以上の抗議はない。ひっつくこと自体は、許されている。あの北さんが、ここまで俺のこと受け止めてくれているなんて。今の欠伸みたいに、隙も見せてくるようになった。完璧と思っていた人は完璧じゃなくて、俺と同じ、長所も短所もある人間で、ひたすらに、愛おしい。
「なあ北さん」
「ん?」
「黒鷲旗、見に来ません?」
「見に来いて?」
「はい。最近、俺の情けないとこばっか見られてるから、かっこいいとこ見てもらおと思って」
どうでしょう。なんの脈絡もなしに誘ってしまったとは思う。だが、好きだなと思ったら口を開いてしまったのだ。好きな人に、かっこええとこ、見てもらいたいやん。まして、こんなだるんだるんに緩んで間抜けでしょーもないトコばっか、普段見られているとなったら。
「……すまんな、もうバイトいれてもうた」
「えぇそんなあ!」
「しゃーないやん、連休は稼ぎ時なんやから」
「エッ、北さんのバイト先てサービス業やったん」
「おう、定食屋やし」
「……どこですか? 行きたい」
「来んな」
「ぅえぇえええひッど!」
教えてくれなくても良いから試合見に来て。試合見に来てくれないのなら、バイト先教えて。ぐりぐりと再びひっついて額を押し付けて主張をするが、行かない・教えない以上の返答は得られない。いけず。そんな意地悪するんでしたら、ちゅーしますよ。素直に試合見に行くとか、バイト先教えるとかしてくれたとしても、「ありがとう」てちゅーしますけど。
もそもそと体をずらして頭の位置を揃えた。目も、鼻も、口も、無理をせずに向かい合う位置。まずはと鼻先をぶつけた。
「見にきてくださいよお」
「せやからもう予定あるんやって。また今度な」
「……ぜったいですよ」
「おう。ほら、はよ退き。飯の仕度せな」
「え、もうですか」
「弁当の仕込みもしたいし」
それにしたって早くないか。まだ三時前、お天道様は傾き始めたところだが、夕方というには早すぎる。弁当のおかずも作るとなると、それだけ時間が要るのか。なら、手伝ってみようかな。包丁を持とうとした瞬間おかんにそっと諫められるし、野菜の皮むきをしようとピーラー掴んだ途端治に奪われるような俺やけど、できることあります? ああ、ない。そうですか。
自問自答はさておき、北さんが台所に立つのはいつもなら四時半を過ぎてから。六時くらいにぱたっと始めて、六時半には完成している、なんてことも少なくない。そんなに手の込んだものを作ってくれるのか、それとも早めに準備してしまおうという北さんらしい発想か。
もし、北さんが許してくれるのなら、一時間くらい、俺にくれへんかな。
「……ソレ今すぐ始めないとまずいですか?」
「いや、そーでもない」
良かった。けろっとした顔で発せられた言葉を聞くと、自分の頬がもにゃもにゃと緩む感触がする。間違いなく、今の自分は顔面いっぱいに幸せを浮かべている。自信がある。だって、北さんもむにゃむにゃと唇を緩めかけている。多幸感に中てられて、とろっと緩みそうになっている。その顔、めっちゃ好き。ほどけそうな唇を、ちゅっと啄んだ。
「ちょっと昼寝でもしませんか?」
大丈夫、何もしませんから。つーか、どうせ俺への警戒心なんてないんでしょう? 逆に北さんが俺にどうこうする心配もない。なんせ、キスすらしてこないくらいだ。その先に手を出すとは思えない。それに、これだけ引っ付こうと、キスをしていようと、北さんと俺は恋人じゃない。それがひっかかっているうちは、北さんからアプローチを仕掛けてくることはないのだろう。してくれてもええんやけどな。こっちとしては、いつだって大歓迎。
さておき、腰を抱きながらにこにことしていれば、北さんがぱたんと目を閉じた。キスを待っている、というわけではない。昼寝しましょ、の誘いを受けてくれた証拠だ。
ふっふ、もう一度唇に触れてから、俺も瞼を閉じた。
春の陽気に包まれて、体も心もぽかぽかする。陽が落ちるとまだ冷えるから、それより前には起きれたらいいな。きっと寝すぎることはないだろう。
体内にあった空気を静かに吐き出すと、つるつると意識の糸が睡魔に巻き取られていった。
――こんなんなまごろしや。
意識が途切れる前に何か聞こえたが、その意味を理解することはできなかった。
◇◆◇◇
結果として、あの人が黒鷲旗を見に来なかったのは、正解だったと言えよう。
惨敗も惨敗。惜敗なんて言う奴もいるし、そう評価する奴のほうがきっとこの世には多い。だが、俺にとっては惨敗だ。一セット取っていようと、敗者であることにかわりはない。し、思うようなプレーもできなかった。この敗北で得たことをあげるとすれば、ぶっつけ本番はできないことのほうが多い、ということくらい。一抹でも奢ってしまえば、スパイカーの百パーセントを引き出せない。散々に乱されて、それでも努めて献身的なトスをあげて、……そうやって最初はセットを取った。しかし、その後、続かなかった。
このポンコツ。明らかなミスが頭から離れない。チームメイトの調子を読めていなかった、コートの状況を把握する余裕を欠いていた、その瞬間の最善を尽くせなかった。
あれから一週間、日の出前に目が覚める。まだ暗くて、空が白く濁ってすらいない時間帯に起きてしまう。日付が変わってしばらくしてから布団に入る日々を思うと、睡眠時間は足りていないだろう。しかし、眠ることを拒否するように目覚めてしまうのだ。あれをやらなければ、これをやらなければ、……きっとやりたいことが溢れているせい。
暗い室内で上体を起こし、ぐっと背伸びをした。布団から出ることを躊躇うような気温の時期は、とっくに通りすぎている。素足を畳に乗せて三歩。カーテンを開けると、深い紺の空が広がっていた。今日もこの時間に起きてしまった。土曜日で、講義はなく、部活もオフ。体を休めるための、オフ。けれど、目が覚めてしまった。オフの目的を思えば、もう一寝入りすべきなのかもしれない。そう思って肩越しに布団を見やった。……戻る気、なれへんわ。
とりあえず走りに行こう。今日はボールを触れない日だから、多少長く走ったって問題あるまい。ぐちゃぐちゃと考える気力がなくなるところまで、走ってこよう。
手早く着替えて、急な階段を駆け下りた。
そして戻ったのは午前十時三十分。つい大学に行ってしまったのがまずかった。
体育館に顔を出すと、自主練と称してボールを触っている奴らがいたのだ。先輩数名に同輩二人。示し合わせて来たわけではなく、オフであっても落ち着かないという理由でやってきたという。お前もかよ、コーチに知れたら大目玉だな。けらけらと笑っていたが、どいつもこいつも目はあの敗北の悔しさで爛々としているときた。あんなの見たら、ボールを触ってしまうに決まってる。結局、体育館を使う予定だった女バレが来るまで体を動かしてしまった。
朝飯、完全に食いっぱぐれたな。思い返せば、夕飯も簡単に済ませてギリギリまで体育館にいた。というか、今週北さんと飯食ったっけ? 朝は大抵入れ違い。走って戻ってくる頃には、もう北さんはゴチソウサマしていた。夜は顔を合わせてすらいない。外で食って帰りますと毎日のように連絡していたし。いや、一回くらいは夜に会ったような気がする。冷蔵庫からおかずを取り出して、のろのろ食って、弁当箱と一緒に洗って片付けて。そんなときに、寝間着で歯ブラシを咥えた北さんのことを、見たような。……あれ、見てへん? どうだったか、記憶がおぼろげではっきりしない。
ああ、北さんに会いたいな。一緒に住んでるくせに何を言っている、少なくとも毎朝オハヨウのやりとりはしているだろうが。そういうんじゃなく、ちゃんと顔合わせて、飯食って、とろとろ一緒に過ごして。……そういうことをしたいという意味での、会いたい。一方で、バレーに触れる時間を削りたくない自分もいる。何で一日は二十四時間しかないのだろう。七十二時間くらいあったっていいのに。
北さん、今日バイト言うてたな。いつも九時過ぎには家出ていくから、あの家に帰っても「おかえり」の声は返ってこないのだろう。今日の朝飯、何やったんかな。なんにせよ、冷蔵庫の中に突っ込まれているのは間違いない。むなしくなってきた、もうちょいうろつこうか。けど、その前に一旦着替えたい。着替えて、そんで、トレセンぽいとこ行ってみようか。
ぐるぐると考えつつ、ポケットから家の鍵を取り出した。
――ガラリ、家主不在の玄関が、勝手に開く。
「へ」
「あ」
正しくは、家主不在と「思い込んでいた」玄関、だったらしい。
少し見下ろす高さに、つるんと丸い頭があった。重たそうな瞼が、ぐ、と持ち上げられる。あ音を発した小さい唇は、ぽっかりと開いたまま固まった。
「た、だいま」
「……おかえり」
まさか会えるなんて。とっくにバイトに出て行ったもんだと思っていたのに。面食らったままたどたどしく言うと、するりと北さんの顔から驚きが抜けて行った。代わりに、色のない視線が向けられる。普段の無表情よりも、ずっと冷たい。これは怒っているな、ぴんと勘が働いた。小言か説教か、される気がする。オーバーワークて知ってるか・練習量を増やして体壊したら元も子もない・自己満足したいんやったら止めへんけど、お前の満足に繋がる練習なのか、ちゃんと考えてやれよ。浴びせられるとしたらこの辺だろうか。「今」落ち着かない自分のための行動が、「この先」も自分のためになるか、よく考えろ。なにかにつけてこの人に言われてきた。どんなにカッコよくたって、リスクが高いのならタイミングを計ってやれ。今一番有効な攻撃がどれか、わからないわけではないのだろう? 諭すような言葉にしょっちゅう心臓は怯えていたし、稲荷崎のバレー部を離れた今でもドキッとする。いくら俺のためを思って言っているのであっても、だ。ガキだなと、心底思う。
「……、」
北さんの口が開いた。さあ何が飛んでくる。正論は時として癇に障る。心が酷薄に悲鳴をあげる。突っぱねたくもなるけれど、もしそうしてしまったら顔を合わせづらくなってしまう。会いたいなと思ったそばから、天邪鬼な行動をしてなるものか。何を言われても、その通りです反省してます、でもストレスは溜まってるんでべったべたに甘やかしてくださいで乗り切ろう。
よし、決めた。腹を括って、ごくりと唾を飲み込んだ。
しかし、当の北さんはなかなか声を発しない。まるで言葉を選んでいるかのよう。思ったコト言っていいのに、それで大体正しいし。それとも、北さんなりに俺のプライドが傷つかないように気遣ってくれているのか。えぇえそれはそれで嬉しいけど、真っ直ぐ言うてくれたほうが自分のためになるんで、どうか、思いのたけを、お願いします。
……かといって、オブラートに包むことなく行いを悔い改めよと言われるのもしんどいな。ほどよい塩梅で何卒何卒。
「ちゃんと、」
ハイ。ぽつりと零された言葉に、内心で返事をする。きゅ、と両手を体の前で組んで、細々と動く北さんの口を、じ、と見つめた。
「――飯、食うてるん?」
「はい?」
つい、聞き返してしまった。
おかしい、言われると思っていたのと、大分違う。バレーとか、練習とか、そっちのこと言われると思ったのに。というか、できてない部分・すべきじゃない部分を指摘されるものだと思っていたが、まさかの疑問形。俺の返答を求めるかの口ぶり。それも、俺が自分の行いを見つめ直すための問いではなく、正真正銘北さんが確認するための伺い。えっ、そっち?
ほけ、と口を半開きにして呆けてから、今一度、ここ一週間の飯を思い起こす。片割れほどの拘りがないから、三日前、四日前に何を食ったのかまでは詳細に思い出せないだろうが……、いや待て昨日も何食ったか覚えてないな。今朝はまだ食ってない。昨晩は、うろ覚え。その前の昼は北さんに持たされた弁当で、昨日の朝は急いでいたから一口二口で済ませたような。で、その前の夜は。昼は。朝は。ぐるっと記憶を遡ってみるものの、昼飯は弁当食った、という程度しか出てこない。本当に自分は夕飯に何を食ったんだ。家で食ったのは一回だけ、それ以外は外食? いや店に入った覚えはない、ええと、たしか、うわっバレーしてたことしか思い出せへん。
えっ、俺この一週間、何食うて生きてたん? 何か食うてたとは思うけど、さっぱり思い出せへん。
愕然とすると同時に、正面から深いため息が吐き出された。かと思うと、腹がきゅるるると呻き出す。腹が減った。そりゃあそうだ、朝飯を食っていないのだから。夜も何を食ったのか覚えていないくらいだ、大した熱量は摂取していないに違いない。腹が、減った。久々にこんな感覚を味わっている気がする。久々といっても、黒鷲旗の前だから一週間とそこそこしか経っていないが。
バレーに意識が傾くと、睡眠はいくらでも削れた。自慰する回数もがっくり減る。なんなら抜かずにしばらく過ごせるくらい。その上で、食欲も無視できるとは。自分の人生の頂点にバレーが君臨しているのはわかっていたが、人間を辞めてしまえるくらいの統治力を持っているとは知らなかった。
自分で自分に引いてしまう。うわっ気持ち悪ッ。今、北さんに言われなかったら、もう一週間二週間はこんな生活を続けていた気がする。そんで、メンタルだけで立ちいかなくなって、体を壊す、と。冷静に考えられる今ならわかる。恐ろしいことをやらかすところだった。
「あの、」
「ん?」
「朝飯って、俺の分もあります……?」
「冷蔵庫ン中入れといた」
そっと尋ねると、呆れた顔をしながらも北さんは優しい返事をしてくれる。手間をかけさせて、ほんとにすんません。明日からは、ちゃんと一緒に朝飯食いますから。その前に晩飯か。崩れたリズムを取り戻そう。
胸をなでおろしながら、北さんが出られるよう道をあけた。バイトですよね。いつもよりちょっと遅い出発ということは、帰ってくるのも遅くなるのかもしれない。じゃあ、晩飯、俺だけで済ませたほうが良いですか。北さんが良ければ、待っていたいんですけど。遅くに帰って来たところに「飯作って」と負担を掛けたいわけではない。「一緒に」食えたらそれでいいのだ、外食でも良いし、……これでほんのちょっとでも炊事能力があったら、自分で何かしたんですけど。台所が事故現場になるのが目に見えていると、どうも「俺が作っときますね」とは言えない。
どうしよ。きゅ、と下唇を噛み締めた。
「……侑」
「はい?」
すると、一歩だけ玄関から外に出た北さんが、俺の顔を覗き込んできた。ぐ、と距離が縮まり、とくんと心臓が跳ねる。キスされる? なんて、どうしようもない空想が駆け巡った。それはない。北さんからキスされるとしたら、それはきっと俺と北さんが結ばれたとき。そんな将来は来るのだろうか。いや、杞憂だ。来るに決まっている。なぜなら、俺が意地になってこの人のことを口説くから。
トコトコと駆けるように脈打つ心臓の音を数えていれば、薄い唇がはくりと開いた。
「今日部活は?」
「オフです」
「……ならちょっとついてこい」
「え、北さんこれからバイトですよね?」
「おう、せやからついてこい」
「……はぁ?」
バイトだからついてこい、とは。俺にそのバイト先を受けろということか? そんな馬鹿な、北さんが詳しい説明もなしにそんなことを誘ってくるわけがない。
首を傾げていると、北さんはおもむろに携帯を取り出した。慣れた手付きで番号を呼び出す。ちら、と盗み見れば、漢字三文字がだだだんと並んでいた。三文字目が「屋」であるあたり、何かの店だと思う。もしかしてバイト先? 何の店だろう、飲食店か飲み屋か。夜中に帰ることはないから、飲み屋ではないか。いや待て、いつだったか、定食屋でバイトしていたと言っていたような気がする。確か。おそらく。あまりにも記憶が虚ろ。
くるくると思考回路に電気を流しているうちに、北さんは耳に電話を当てた。
「ちゃんとした飯、食わせたるわ」
そう言ったところで相手が出たのか、その人の意識が俺から退ける。
ちゃんと、した、飯。とは。
胡乱に見つめたところで、一体全体どういうことですかと裾を引いたところで、北さんは答えを教えてくれない。ただ視線で、「いいからついて来い」と語るばかり。
できることなら今すぐにでも腹を膨らませたいのだけれど、それを許してはもらえないらしい。北さんの手間暇かけて作った飯、食いたかったのに。いやまあ帰ってきてから食ってもいいか。今から外で食ったって、腹いっぱいになるわけではあるまい。冷蔵庫に眠らせてくれているそれらも、自分ならきっと平らげられる。
そう割り切って、姿勢よく歩き出す北さんの背中を追いかけた。
◇◇◆◇
歩くこと、十分。十五分には届かない距離。自転車を使えばほんの数分。それには及ばなくとも、自分のいつものペースで歩けば十分だって切るかもしれない。
意外と北さんは、ゆっくりと歩く。背筋の伸ばしてせかせか歩きそうな印象があるし、高校の頃はそうやって俺らの前を歩いていた。だが、いざこの人と暮らしてみたら、こう。もしかすると、あの歩き方は外行き用の歩き方なのかもしれない。とろくさい、高校入ってすぐくらいの自分が見たらそう思うことだろう。けれど、今はこんな些細なギャップにすらくらくらする。
愛しさと空腹感で頭がいっぱいになった頃、その店についた。紺色の暖簾がかかっており、それを潜るとガラガラ仰々しい音を立てる引き戸。こんな定食屋、地元にちょいちょいあったな。けど、バイトを雇うというより身内で切り盛りしているイメージがある。基本、身内。どうしても都合がつかない・あるいは回避しようのない繁忙期だけ、短期で人を雇う。そんな、印章。となると、この店は人を雇えるくらいに儲かっているのだろうか。だったら、入り口の扉、スッと開くように直したら良いのでは。
「すんません、遅くなりました」
ごちゃごちゃと思慮の浅い考えが浮かんでは、萎びれて朽ちていく。
――が、先に店内に入った北さんの声を聞いた途端、その朽ちて塵になった山が吹き飛んでいった。
「わ」
外観と打って変わって、中は非常に新しくきれい。そして広い。大改装されたエキチカの、小綺麗な飲食店、がイメージに近いだろうか。あの立て付けの悪い扉ですら、趣深いものに思えてくる。こんな近所に、こんな店があったとは。
あんぐりと口を開けていると、北さんはさかさかと店の奥へと入って行く。ちょっと、どこ行くんですか、俺どうしたらええの。声を掛けようと息を吸い込んだところで、北さんの背中は推定厨房のほうへと消えてしまった。
代わりに恰幅の良いオバチャンが現れる。俺を見つけて、一度北さんが入っていったほうを見て、また、俺を見る。
にんまり。そんな擬態語をつけたくなる笑みを向けられた。
「いらっしゃい、アツム君」
「どう、も……?」
なんで名前知ってんねん。一瞬突っ込みそうになるが、いつぞやの女子大生のように北さんが喋ったのだろう。一体、なんて言っているのやら。さすがに好きな人だとか、キスをする間柄とは説明していないと思うのだが。……俺としては言ってくれて構わない。がんがん言ってほしい。それで北さんに変な虫がつかないのなら。
おばちゃんは年季の入ったカウンターから出てくると、そのまま端にある椅子を引いた。どうぞと朗らかに言われてしまえば、座るしかない。
おずおずと椅子に腰かけると、颯爽とおばちゃんは席から離れていく。そっと視線で追いかければ、「お茶・お水はセルフ」と書かれた張り紙が目に入った。それから、ポットがこぽぽぽとお湯を吐き出す音。セルフ、とは。思いっきりおばちゃんにやってもらっている。それとも、何かしらの特別扱いをされているのか。
セルフせるふセルフと脳内に帯を走らせていると、戻ってきたおばちゃんにお茶を差し出された。熱いから気を付けてね。そう言うおばちゃんの持つ盆には、まだ三つの湯呑が乗っている。一杯で十分ですけど? 過ったところで、おばちゃんは別の席に座る三人にお茶を持って行った。セルフ、とは。少なくとも、この店はセルフちゃうやろ。張り紙の意味、絶対にない。
忠告通りに熱いお茶を啜って、もう一度店内をぐるりと見やる。ここが、北さんのバイト先。意外と思う自分もいれば、ばあちゃん子な北さんらしいなと思う自分もいる。ぱっと見の印象なら、塾講師とか家庭教師とかしてそうなのに。……家庭教師、て響きはまずいな。一対一で北さんに勉強教えてもらえるなんて。最高以外になんて表せと。俺なら問題が解けるたびにキスをせがんでいる。成績が上がったら舌入れるちゅーしてもらう。まあ、実際教えてもらうとなったら、がっちりぱっきり扱かれるのだろう。そして、キスどころじゃないくらいに脳みそが疲れ果てるのだ。目に見える。そんな疲労困憊な自分を癒して、と、ちゅーを強請る、俺。やっぱり目に見える。
そんな妄想はさておき、北さんはここで何をしているのだろう。接客のほうか、あるいは厨房のほうか。家でもそれなりに料理しているのを思うと厨房な気もするが、あの雑な包丁捌き的には接客もアリ。エプロンつけてんのかな。さっきのおばちゃんは割烹着だった。まさか、北さんも割烹着? うわっ似合う。……口を滑らせたら、白けた目を向けられてしまいそう。でも、似合うは似合う。惚れた贔屓目抜きに、似合うと思う。
奥から出てきてくれないだろうか。割烹着姿、見せてください。エプロンでも良い。家だとエプロンをつけずに台所に立っているから、それはそれで新鮮。来い来い。来い。ず、とお茶を啜りながら、よれた暖簾の向こうを睨んだ。
来い。さあ来い。
来い。
来いッ。
「……その顔やめえや」
「きたさぁん!」
散々念じたところで、暖簾が揺れた。現れた愛しい人が、大きな四角い盆を手に現れる。割烹着ではない。が、紺色のエプロンはつけている。胸に店の名前がプリントされたソレ。これはこれできゅんとする。もはや、北さんならなんでもときめいてしまうのではないだろうか。だって。
「だって北さんかわええから」
「かわいくない」
「かわええもん」
「お前、その図体で「もん」はナイ」
「……とか言いながら、かわええなコイツて思ってたり?」
「しない」
「酷ッ!」
北さんが断言すると同時に、盆がカウンターに乗っかった。たゆんと椀に入った味噌汁が揺れる。縁ぎりぎりにまで水面が押し寄せるが、味噌汁が零れた様子はない。小さく切られたわかめと油揚げは、しばらく余韻を引き摺ってうらうらと椀の仲を泳いでいた。
その味噌汁の隣には、大ぶりな茶碗によそわれた白飯。中央の小皿にはお新香。奥の平皿には肉野菜炒めがどっかりと乗り、小鉢にはおからの何かががさっと入っている。美味そう。と、思う。漂ってくる匂いは、食欲を煽ってくる。たぶん、美味い。食わなくてもわかる。これは、美味いと。
ただ、俺の胃袋が全力で求めているかと聞かれると、微妙なところ。
「……これは、」
「飯」
「そら見たらわかりますよ」
「ちゃんとした飯、食わせたるて言うたやろ」
「言われました、けど」
できることなら、北さんの作った飯が食いたかった。レンジで温め直すので構わない。北さんが、俺のために作ってくれた飯を食いたかった。そりゃあ、定食屋で食う飯のが世間一般的には美味いのかもしれない。栄養のバランスだって、とれている。だが、俺にとって、今いちばん食いたかったのは北さんが作ってくれた飯。連れてきてもらったところ悪いが、コレじゃない。食べたとしても、果たして満足できるだろうか。……とてもできる気がしない。
割り箸を掴むことなく見つめていれば、北さんが小さく息を吐いた。伏し目がちになりながら、その手は箸立てに伸びる。一膳、割り箸を引き抜いて、ぱきり。小気味のいい音を立てながら、割り箸がちょうど真ん中で割れた。そのまま、割った箸を差し出される……、かと思いきや、その箸先はサッと一口分の肉野菜炒めを掴む。えっそっち? ん、てぶっきらぼうに箸を差し出してくるところやないんですか。
ほけ、と微かに口を開けて呆けていると、ぱちり、北さんの視線に射抜かれた。ほぼ同時に、北さんの左手が俺の顎に添えられる。親指が、下唇に触れた。
へ。
「ええからはよ食え」
「むギュっ!?」
疑問符が浮かぶや否や、箸先が口に捻じ込まれた。食う準備ができていなかった口が、肉と野菜でいっぱいになる。慌てて口の中を広げれば、次を捻じ込むべく箸が奔走。待って、待って北さんそれさっきよりも量増えてません、
「ぶぎゅぅ」
あれ、俺実はハムスターとかそういう生き物やったかな。頬がこれでもかと膨らんでいる。まだ若干余裕はあるが、……いやありますけど、さらに詰めようとするのやめてください。つか、これ北さんから「あーん」されたてことになるんとちゃう? なるよな。うわっ、初めてのあーんがこんな雑にこなされてしまうなんて。もっと甘ったるい雰囲気であーんしてほしかった。今度強請ったらしてくれるかな。してくれると信じますよ。
ひとまず、さらに俺の口に詰め込もうとする北さんの右手を止めるべく、ぎゅうと手首を掴んだ。それから、ぱんぱんに詰まった肉野菜炒めをぎゅむりと噛み締める。
「……んん?」
頬から移動させながら、もきゅもきゅと詰め込まれた肉野菜炒めを咀嚼していく。コンソメとか中華風とかではなく、和風だしぽい味。なんの調味料を使っているのかはわからないが、やけに舌に馴染む。とはいえ、実家でおかんが作っていたびしゃびしゃな野菜炒めとは違う。この一年と少々の期間で幾度となく食べた味。
北さんが、作った、飯の味がする……?
何度かに分けて肉野菜炒めを飲み下すと、北さんは無言で箸の持ち手側を差し出してきた。呼応するように、何も言わずに箸を受け取る。自然と目線が盆に乗った器に落ちた。
味噌汁に箸先をつけ、静かに一口。これもよく知った出汁の味。わかめも油揚げも玉ねぎも、繋がってはないが味には心当たりがある。もう一度肉野菜炒めを口に放り込み、白飯を目一杯に詰め込む。むつむつとソレを繰り返したところで、おからを一口。じゅわりと舌に乗る甘辛さも知っている。食べたことがある。
なにこれ。北さんの作った飯と同じ味がする。まさか今さっき奥に行った隙に作ってきたのか。まさか、北さんの手際じゃこんなすぐに出てくるわけがない。たぶん、電話したときに何か言って、すぐに出せるようにしてもらっていたのだ。
それにしたって、ここまで同じ味がするとはどういうことだ。ほんの一、二年バイトした程度でレシピを覚えてしまった? 北さんならできなくもないだろうが……、いや、台所に立つあの手つきから察するにたった一、二年眺めた程度で覚えられるとは思えない。仮に分量は覚えられても、手順までは追いつくまい。
あれこれ考えはするものの、口に飯を突っ込むたびに「北さんの飯の味がする」に思考が引き戻される。美味い。めっちゃ美味い。ここが定食屋なのを思うと、北さんの飯は俺の贔屓目なしに美味いということで間違ってはいないということになる。北さんだって、下ごしらえの雑さに目を瞑れば、金をとれるだけのものなのでは。やたらと具が大きいとはいえ、ほぼ毎日食えている自分はなんて贅沢者なんだ。まったくもって、最近ちゃんと北さんの飯を食っていなかったのが悔やまれる。
定食屋と同じ味がするから北さんの飯を褒めてるわけとちゃいますからね。北さんの飯美味いなって思う根拠を見つけた気分になってるだけですよ。ここで食う前から美味いと思ってましたし、おかんの飯とは別の意味、恋しい味になってますからね。
「ふぅ」
淡々と咀嚼しているうちに、茶碗の中が空になってしまった。もう少し食いたい。だが、おかわり自由とはどこにも書いていない。別料金? だとしたら、頼まないほうが良いのか。でも食いたい。自分で払うから食わしてくれないか。ちら、と店内を動き回る北さんを盗み見た。注文を取って、セルフという張り紙を無視して新たに入ってきた客にお茶を出して、しばらく奥のほうに引っ込んでいたかと思うと生姜焼き定食を二つ持ってテーブルに向かう。あれも美味そう。でも、それより前に持ってきていた鯖の味噌煮も美味そう。鶏の照り焼きやら唐揚げやらは言うまでもない。全部食いたい。ほんの小一時間前まで空腹を忘れていたのが嘘みたいに食欲がわいてくる。
「おかわりいる?」
「ハイッ!?」
と、おもむろに話しかけられた。北さんに意識を集中させていただけに、びくりと肩が震える。そうだった、ここの店員は北さんだけじゃないんだった。このおばちゃんを忘れてはいけない。
ぐるんと首を正面に向けると、相変わらずにんまりと笑みを浮かべたおばちゃんと目が合った。いります、とか細い声を絞り出せば、はいはいと軽やかな返事と共に茶碗とお椀が回収されていった。味噌汁ももらえるのか。手持無沙汰にカリポリ漬物を齧っていると、すぐにおばちゃんは戻ってくる。特に量は指定しなかったが、大盛気味の白飯。よくわかっていらっしゃる。
「どーも」
受け取って、さっそく大きく一口、飯を頬張った。
そして感じる、視線。目線だけ持ち上げると、にこにことしたおばちゃんの姿。カウンターの内側にある椅子に腰かけたらしく、先ほどよりも少しばかり低い位置に頭がある。だから、こんなにも視線を感じたのか。無視して食い進めたいところだが、何か話したがっている気配もする。話しかけるべきか、向こうから話しかけてこないかぎり黙っているべきか。
「ふふ」
「……なん、すか」
「良い食べっぷりだと思って」
「まあ、運動部なんで」
「みたいね。北君から聞いてる」
ああ、話しかけてしまった。知ったことではないとスルーできる自分はどこへ行ってしまったのか。このおばちゃんが北さんさんの知り合いじゃなかったら、その妙に薄情な自分が発揮されていたに違いない。一方、北さんのことになると、自分はだいぶ人間味を帯びる。バレーに並んで、感情がむき出しになるというか、興味関心が沸くというか。どんなに他愛のない内容だったとしても、あの人のことならなんだって知りたいと思ってしまう。たとえ、週に数回の一日数時間しかいないバイト先での様子だったとしても、だ。
食べる速度をあげながら、潜め気味の声に耳をそばだてた。
「君の居候が決まって、北君、すっごく慌てたのよ」
「……え?」
「飯、どうしようって。深刻な顔して相談してきたの」
慌てただって? 意外な言葉にもごもご口を動かしながら顔をあげた。カウンターに頬杖をついたおばちゃんは、懐かしそうに言う。
家のことのほとんどはできる自信があるけれど、食事だけは不安。まっとうなもの、作れない。これまでは自分一人だったから、多少粗末でも気にしなかった。だが、これからはそうも言ってはいられない。一緒に暮らすことになった後輩はスポーツマン。体が資本。そんな奴に、居候しても良いなんて豪語してしまった。飯、作れないのに。どうしよう。自分でも作れるもの。あるいは、基本的なコト、教えてくれませんか。
そう、あの人は頭を下げたという。ごくりと飲み込んで、お茶を二口。んなわけあるか。と出てきそうなのを飲み込んで、別の言葉を吐き出した。
「あの人フツーに作ってましたよ」
「ほんと? なら良かった。君が来ること決まって、二週間くらいで色々叩き込んだのよ」
「うっそお、気付かんかった」
「北君も北君で、君には気付かれたくないって必死だったみたいよ?」
同じものしか作れないって気付かれないよう、少しずつレパートリー増やしてあげたんだけど、上手くいったみたいで良かったわあ。
ふふ、と笑いを零しながら、その人は肩を震わす。残り少なくなった肉野菜炒めをまとめて口に詰めて、おばちゃんの言ったことと一緒くたに咀嚼していく。何でもできると思っていた北さんにも、苦手なことがあったとは。突貫工事で取って付けた料理スキル、俺には見破れませんでした。てっきり、一年自炊して身に付けたものだと。
つーか、待て、その前に、だ。なあ、おばちゃん、今言うたよな。「君には気付かれたくなって必死だった」て。俺に、知られないように北さんが一生懸命になってたことを、こんなぺろっと簡単にバラして良いんですか。そこは、一緒になって黙っておくところとちゃうん?
ごくんと口の中身を飲み込んでから、最後に味噌汁を流し込んだ。胃が満たされる。ほっこりと自分の体温を感じる。指先の間隔も鮮明になったところで、おばちゃんと目を合わせた。
「なんで、教えてくれたんですか。北さんが俺に知られんように必死になってたの、見てたんですよね」
「まあね。でも北君に倒れられちゃ困るから」
「たおれる?」
「そ。結構溜め込むタイプみたいでね。去年、……もう一昨年か。バイト始めてすぐくらいに風邪引いて寝込んだのよ。ただでさえ環境変わって疲れやすい時期なのに無理したみたいで。そのあともちょいちょい無理して体壊してねえ」
一昨年、バイトを始めてすぐということは、北さんがちらっと喋っていた季節外れのインフルエンザのことだろうか。それは俺も聞いていたからわかる。が、そのあとも体を壊した、とは。高校の頃は風邪と無縁、体調管理を徹底していたはずのあの人が、そんなに頻繁に風邪やらなにやら拗らせていたなんて。正直、信じられない。かといって、このおばちゃんが嘘を言っているふうにも見えない。
「君が来てからは元気そうだけど、またいつ倒れるかわからないし」
にこにことしていた顔に、初めて苦笑が混じった。こんな顔をさせるくらいに、北さんは体調不良を繰り返していた、と。やはり信じられないが、俺が来るまで悲惨な食生活を送っていたと思うと辻褄があわないこともない。冬頃に、あまり家で飯を食わんかった時期、ひどく北さんはやつれていた。秋から冬という、肥えるしかない期間に、痩せたのだ。心労もあったのかもしれないが、俺の分さえ作っておけばいいなんて言って、自分はテキトーに済ませていた可能性。ないことも、ない。というか、このおばちゃんの話から察するに、そういう過ごし方をしていたので間違いない。
なんやねん、あの人。飯はちゃんと食えって言っておきながら、自分が食ってないて。俺おらんかったら、あんたもっと散々な体調になってたんとちゃう? ちゃんと食わないと体を壊す。実体験からの真剣な助言。なるほど、よくわかりました。今後気をつけます。どんなにバレーで切羽詰っても、飯と睡眠は大事にします。だから北さんもね、自分のことも大事にしてください。あの調子じゃ、飯どころか睡眠まで削って勉強してたっておかしない。世話してもらう一方じゃなく、俺も、北さんコト、気ぃつけてみよう、そうしよ。
「よろしくね。こんな店だけど、北君のことは頼りにしてるの」
静かに言うおばちゃんに、こっくんと頷き返した。
「ありがとうございます、俺も気ィつけます」
「……なに話してるん?」
タイミングよく北さんがやってくる。俺の前にある盆を見て、こっそりと安堵のため息を吐いた。ちゃんと食ったな、よしよし。そんな副音声が聞こえてきそう。いやいや、あんたもちゃんと食ってくださいね。この一週間だって、北さんがちゃんと飯食ってるのか、俺にはわからないわけだし。あとで腰でも抱いてみようか。風呂入ってるところに殴りこんでもいい。……さすがに後者は怒られるか。真顔で出ていけと言われてしまう。意外と平然な顔して、「寒い、用ないならはよ閉め」と言いそうな気もするが。平気な顔されてもショックやなあ、キャーッとは言わなくて良いから恥じらいを目一杯携えた反応をしてほしい。
それとなく、おばちゃんのほうを見やった。ぱちんと目があう。視線で、「今の話、内緒にしましょうね」と伝えてみた。届いたろうか。この年頃のおばちゃんは、空気をあえて読まずにブッ込んでくることがある。内緒にしようって、フリと違いますからね。ほんとに、今話したこと黙っておきましょうね。俺に気付かれたと羞恥で全身を真っ赤に染める姿はそれはそれで可愛い。めっちゃ可愛い。うわっ、可愛いな。でも、これをきっかけにしばらく避けられては堪ったもんじゃない。
言わないで、くださいよ。念押しするように目線で語り掛けると、おばちゃんはふふっと吐息で笑った。
「他愛のない話よ」
「はあ」
無表情なりに、北さんの目は解せぬと訴えてくる。ただ、雄弁なのは視線だけ。言葉にはしない。これ幸い。言ってくれなければ、わかりません。そう貫ける。
へらっと笑ってみせれば、今度はため息らしいため息を吐き出してお盆に手を掛けた。が、それより早く、おばちゃんが盆を持ち上げる。片付けはやっとくから。話すことあるんなら済ませちゃいなさい。まるでそう言われたかのよう。
さっさと厨房のほうへとおばちゃんは去っていく。店内に残ったのは、カウンター席に座る俺と、三人組の客と、お一人様と、俺の隣に立つ北さん。
「……北さん」
「ん?」
ぽつりと呼びかけると、そっけない返事をされる。これを冷たいと思っていたのが、遠い昔のことのよう。回転いすを回して北さんのほうを向くと、いつもと視線の高さが違って、少し新鮮。見上げるものといえば、三色のボールと、トスを待つスパイカー。でも、北さんのことなら、見上げるのも悪くない。そういえば、キスするのも、この人の顔をあげさせてするのが多いな。たまに覗き込んでちゅっと奪うこともあるが、こうやって見上げる体勢からキスをするのは、……数えるどころか、初めてかもしれない。
北さんの、両耳を包むように、手を添えた。ハッとしたその人は、ぎくりと体を強張らせる。怯えないでください。外でキスされるの、あんたは嫌なのかもしれない。けど、俺はそんなに悪い物には思えないんです。俺の将来に支障が出る。それ、ほんと? 試してみないことにはわからない。し、もし支障が出たところで、大した問題ではない。むしろ障壁が大きいほど燃えるというもの。
背筋を伸ばした。包んだ頭をそっと引き寄せた。愛しいその人は、健気にも瞼を閉じてくれた。
――ふわ、り。
唇の、柔らかな感触。
「ありがとう、元気、でました」
ちゃんとした飯、食わせてくれて。俺のために、自分でも飯作れるよう努力してくれて。自分の体よりも、俺のこと気にかけてくれて、ありがとう。
今、この瞬間から、俺ももっと、あんたのこと、大事にします。
ウィスパーボイスで口説き伝えると、じわり、その人の頬に紅が差した。
ああ、こんな顔してバイトさせんの嫌やなあ。持って帰りたい。その欲望はぐっと腹のそこに押し込んで、席から立ち上がった。