早春

 ぎゅう、と、顔の中央を摘ままれた。呼吸ができなくなった鼻が、フガッと間抜けに音を鳴らす。苦しい、なにこれ、やめてや。寝返りを打って逃げようにも、すぐに追いつかれる。そしてまた、鼻を、ぎゅう。だから苦しいですって。
 うっすらと瞼を持ち上げると、はくはくと動く唇が見えた。薄っぺらいようで、ふっくらと弾力のあるそこ。つい愛おしくなって、いつも飽きることなく触れ続けてしまう。さて、その唇、何をしているのだろう。開いては尖るようにしながら閉じて、またぽっかり開いてはムッと閉じて。ええとこれは、何か喋っているのか。そう思ってよくよく耳を澄ますと、心地の良い声が聞こえてくる。寝ぼけた脳みそに、あつむ、あつむ、と俺の名前が響いた。決して高くはないその声に呼ばれると、それだけで胸がぽかぽかと温かくなってくる。
 もっと呼んでほしい。そしてできれば、鼻を摘まむんじゃなく、頭を撫でて欲しい。撫でてくれませんか、よしよしって。……いくら念じたところで、微睡んでいては伝わらない。そうして欲しいのなら、ちゃんと言葉にしなくては。と、なると、とろとろと夢現を彷徨っている意識を現実に引き上げなければならない。
 起きようか、どうしようか。
「んんぅぅうぇ」
「ほら、侑、起き」
「ぅぶう」
 意味を持たない声が、自分の口からもろもろと零れる。まるで幼児。ハタチまで一年を切っているというのにこのありさま。いやいや、寝起きやったら誰だったこんなもんちゃう? そんなことない? どうなん? わずかに考えてみるものの、すぐに傍らに立っている睡魔が思考の邪魔をしてきた。あかん、頭さっぱり回らん。まだ寝てたい。
 開けたばかりの瞼が、すっと閉じた。
「こら」
「ヴッ!」
 間髪おかずに、摘ままれる鼻。指先にしっかり力を入れて、ぎゅぅううという効果音が聞こえてきそう。うぅう苦しい。めっちゃ痛い。いたい、いたた、いたたたた。
 顔のパーツというパーツを真ん中に寄せながら目を開くと、すっかり呆れた顔をした北さんが見えた。
「炬燵で寝るな。寝るんやったら部屋で行き」
「んんん、」
 何度か瞬きをしてみるものの、微睡んだ意識はなかなか浮かんでこない。ぼんやりとあたたかい体。薄いながらも寒さを跳ね返してくれる布団。これで眠るなというほうが難しい。少し喉が渇いた感じもするが、たいした渇きではない。夏場のとにかくがばがばと水を飲みほしたいときに比べれば、なんのその。
 炬燵に入ったままごろりと転がり、天井を見上げた。その視界には、やはり北さんも入り込む。毛先を湿らせて、俺を見下ろすその人。どうやら風呂上がりらしい。いつもの白い頬も上気しているし、タオルを肩にかけているあたりからも明らか。寒い日が続いているせいで、最近タートルネックばかり着ているのだが、……久々の首筋だ、ヒジョーに眩しい。瑞々しい。北さん、肌白いから、きっとキスマークも映えるんやろなあ。首筋に、ほわりと浮かぶ赤。情事が香ってくる、朱。
 うわうわうわ、想像してもうた、めっちゃえっちや。
 ……そのくせ、自分がその痕をつけているところは、さっぱり浮かばないのだけれど。
 性欲はある。まだ十代、枯れて堪るか。けれど、この人と自分がどうこうなるのは、どうにも想像できない。好きなのは、確かだ。間違いない。めちゃめちゃ愛おしいし、大切にしたいし、今の自分にとって特別な存在だと思う。これまでは、唯一無二といえば治だったのだろうが、今や追随を許さないくらいにこの人が特別になっている。
 だが、下世話な妄想を重ねられるかは、別の話。あたかも聖域のように捉えているのかもしれない。俗っぽい、いわゆるセックスだとかオナニーだとかしているところを、どうにも想像できないのだ。したくないとも言う。清廉潔白を体現するかのような暮らしぶりを見てみろ。想像できたところで、背徳感に溺れるに決まっている。
 そりゃあ、この人が全身を真っ赤に染めて、羞恥に震えるところも知っている。深く口付けているうちに色っぽく蕩けるのだって、何度も見ている。けど、それは実体験。妄想じゃない。……一度やってしまえば、するすると思い描けるようになるのだろうか。ぐるぐると頭を悩ませたところで、結論は出てこない。キスマークがついている姿までは想像できるのだけれど。俺に押し倒されて、服ひんむかれて、ナニをドコソコにツッコまれて、そんで乱れる北さん。文字にはできる、ただ文字に起こすのがせいぜいで、ちっとも食指は反応しない。
 今、自分が北さんにできるのはキスだけ。痕を残さないキスなら、いくらでもできる。いくらでもしたい。触れるだけのキス、むちゅうと押し付けて互いの唇の感触を確かめるキス、わずかに開いている唇を吸い上げるキス、もっと深い、舌を絡めながら熱を分かち合うキス。全部やったことがあるし、これからもやりたいと滑らかに想像を展開できる。
 ここまでできんのに、なんでセックスするとこまで考えられへんのやろ。勃ちそうにすらならんて、どういうこと。
 ぼんやりと考えながら、その人に向かって両腕を伸ばした。
「ちゅーしてくれたら起きます」
「せえへんぞ」
「えぇえいけずうう」
 ぱしんと叩かれた腕は抗うことなく炬燵布団に沈んでいく。
 北さんは俺とちゅーしたくないんですか。そう詰め寄ったって、「したくない」と返されるのが目に見えている。それも、明らかに嘘とわかる顔をして言うのだ、この人は。めちゃめちゃキスしたいくせに。俺とちゅーすんの、堪らんくらい好きでしょ。にもかかわらず、この態度。最近は、キスしてくれるのを待っているのだと思うことにしている。自分からは体裁上できないから、俺からキスしてくるのを待っている、と。今日も、そういうことにしておこう。
 炬燵から出ない俺に対し北さんは一つ息を吐くと、ふらりと立ち上がった。台所にでも行くのだろう。踵を返し、わしわしとタオルで頭を拭きながら廊下に向かう。
 お、これでまた寝れる。……と、思うより早く、身体は炬燵から這い出した。それから、するりと音もなく風呂上がりの背中に近付く。気付いてる? 気付いていない? どっちでもええわ、気付いてないんやったら「隙あり」て言えば良いし、気付いてるんやったら「天邪鬼」と囁けばいい。
 長袖を着た腕を、ぐっと引き寄せた。
「ッ、」
 詰まる息。ぴくんと上下する肩。こっちを向かせて、距離を詰めると、鼻先がぶつかった。途端、その人の目が見開かれる。毛を逆立てた猫のよう。とはいえ、繰り出してくるのは引っ掻き攻撃でも、肉球パンチでもない。しいて言えば正論パンチ。……年を明けてからは、それすらもない。
 ふ、と唇に吐息を掛けると、めいっぱいに開かれていた瞼が、対照的にぎゅうと閉じられた。固く瞑りすぎて、睫毛が震えている。近すぎて定かじゃないが、涙も滲んでいるのかも。健気な素振り、ありがとうございます。大変に可愛らしいです。さらには、俺がキスしやすいように、頭は僅かに傾けてくれるときた。お気遣い、沁み入ります。最高です。まさにこれこそキス待ち顔。かわええなあ、ほんっとにかわええ。
 毎回のようにこんな顔をされてみろ。誰だって、「キスしてくれるのを待っている」と思ってしまう。
 接写を思わせる距離感を堪能していると、ぷるぷるとしていた睫毛が微かに上を向いた。キス、しないん。そろそろと、様子を窺うようにして瞼が開いていく。文字通り眼前に現れた瞳に、うっすら、胡乱が映っていた。
「ぁつ、む?」
「ふふ、ちゅーされると思いました?」
「……からかったんか」
「いやあ北さんかわええから」
「かわいくないわ、」
 続く音は「アホ」なのだろう。存外口が悪く、真顔でボケるこの人なら、「アタマの病院つれてったろか」と言うのもありうる。
 まあ、どちらでもいい。どうせ続きの音は飲み込んでしまうのだし。
 ぱちっと目を開ききったその人にとろりと微笑みかける。あわせて、柔らかなそこを塞いだ。ふにりとした感触が、じんわりと脳みそに伝わる。吸い付くようにまずは一回、わざとらしい音を立てて離れてから、今度は深く口付ける。頑なに唇を開けてくれないだとか、入れ込んだ舌を噛まれるだとか、そんな籠城の姿勢はゼロ。素直に受け止めて、内側の柔いところで感じ入ってくれる。
「っは、ァ」
「ふー……、ん」
「ぅ、ちょっ、待ッ」
「なんで」
「いきくるしい」
「死にはしませんて」
「苦しいのは嫌や」
「苦しいだけ? 気持ちよくはないんですか?」
「……苦しいもんは苦しい」
「……俺思うんですよ、」
「は?」
「付き合って、恋人同士て胸張れるようなったら、素直に気持ちよさだけ感じられんのやないかなーって」
 どうですか、付き合いません? 付き合ってないのに、なんて後ろめたさ忘れてちゅーできますよ。俺がしたいときだけやなくて、北さんがしたいな、てときも正々堂々強請れるようになりますよ。そりゃ、北さんからしてくれたらめっちゃ嬉しいけど、恥ずかしいて言うんやったら「ん」て言ってくれるだけで俺いくらでもちゅーしますんで。
 つらつらと、下手くそな口説き文句が浮かんでくる。これらすべてをぶつけようものなら、要約しろと一蹴されてしまう。浮かんだそれらを胃の中でぐるぐるとかき混ぜ、ダマがなくなったところで一塊に。
――付き合ってください」
 こつんと鼻先をぶつけたまま問いかけた。かすかな吐息が唇にかかる。腕を掴む手に、力が入った。いつも、これを言うときは緊張する。十二月から何度も何度も言っているというのに、慣れる気配ゼロ。もう二か月経つのだ、慣れたって良いだろう? いや、慣れるほど、この言葉を言いたくもないな。イコール、慣れてなおフラれ続けているということになってしまう。今回こそ、頼む、後生や。
 お前、何回転生するつもりなん。冷ややかな北さんの声が、頭の中に響いた。
 頭の中に、というだけで、目の前にいるその人は、一言も声を発してはいないのだけれど。
「……」
「無言やめてえ」
「黙りたくもなるわ」
 無言は肯定のサインと見なします。そう言えたらどれほど良かったことか。
 めちりと俺の唇を覆うように手を挟まれる。それから、ぐ、と突っぱねるような圧。そばにあるその人の目は、離れろと訴えてきた。健気に震える姿はもう跡形もない。ああ、無常。今回もその呪いが発動されてしまった。蕩けた北さんを我に返す魔法の呪文、それこそが「ツキアッテクダサイ」。
 もにょりと北さんの手の下で唇を波打たせるが、依然として突っぱねる姿勢は崩れない。文句を言おうにも、びちっと手を押し付けられているせいで、奇声にしかならないだろう。
 クエスト失敗。ザマアミロと指をさして笑うサムと、ヒィヒィ言いながら腹を抱えるスナと、生温かい目をするアラン君が過った。あの三人に、この現実を知られてはならない。絶対にだ。
 す、と北さんの腕から手を離し、一歩、二歩と距離を取れば、覆われていた口も解放される。しめしめとキスをしようものなら、何を言われることやら。ただ、泣きごとを言うくらいは、大目に見てほしい。
「もおおいい加減折れてくださいよ、こおんなちゅーしてんのに付き合ってないほうがおかしいですて!」
「こんなん屈するような既成事実とちゃうやろ」
「キスは好き同士でするもんて言うてたやんか!」
「まあ、お前んコト好きやしな」
「ならッ」
「けど、別れるの目に見えてる男と付き合う気はない」
「別れませんってぇえええ」
「せやったら断言できる根拠持って来い」
「~~今にあんたのことメロメロにしたるからな!?」
 覚えとけ。そう吐き捨てると共に、目ぇ覚めたな、風呂入って来いと淡々と返してくる北さんが恨めしい。ついさっきまで、俺にキスされて蕩けかけていたというのに、立ち直るの、早すぎやしないか。俺はなかなか慣れないまま過ごしているが、北さんはもう慣れてしまったとでも? ありうる、繰り返し告白されるうちに、当初のときめきを忘れてしまった可能性、大。
 けれど、ちゅーすると気持ちよさそうにうっとりするのも事実。もっと、こう、とろっとろにしたらいけるんちゃうか。北さんが屈する、もとい惚れてしまうような既成事実、他に何があるかな。……やっぱ、セックスとか、そういう方面になるんかな。どええハードル高ッ。
「おい百面相、風呂あがったら洗濯も頼むな」
「あれっ、今日洗濯の日ですっけ」
「おう。干すんは明日の朝やるから」
「俺たぶん終わるまで起きてるんで干しときますよ」
「待ってる間どうするつもりなん、炬燵入ったらお前寝てまうやろ」
「アッ」
「とりあえず、風呂入って来い」
「はあい」
 背中を押されるままに廊下に引き返す。ちらと台所に残る北さんを盗み見れば、いそいそと鍋の中身を移し始めるところだった。そぼろを纏った、かぼちゃ。好きと言ったわけではないが、よく食卓に並ぶメニュー。おそらく北さんのお気に入りなのだろう。美味いと言うことはないし、それを顔にすることもないせいで、北さん自身の好物はよくわからない。けど、あのかぼちゃは味なり作りやすさなりを気に入っているのだと思う。
 北さんが、きっちりしたことを好むのは知っているけれど、具体的にコレが好きってもんはわからんなあ。もっと主張してくれたら、貢物でも探してくんのに。
 その程度で靡くような人でもないのは、重々承知。それでもできることがあるならやりたい。なんでって、北さんのことが好きだから。好きな人に尽くしたいって、別におかしいこととちゃうやろ。
 ――あの宣戦布告の日から、何回キスをしても怒られなくなった。たぶん、愛しますんでと言った俺を尊重しているのだと思う。おもむろに引っ付いても勉強だとかの邪魔をしない限りは抵抗しないし、しつこいくらいに好きと囁いてもひっそりと悶えるだけで「黙れ」とは言ってこない。今回のように、息苦しいだとか、身体的に辛くならない限りは拒まないのだ。その代わりに、受容もしてくれない。どうやったらこの愛おしさが伝わるのだろう。あれこれ考えて、結局いちばん「好き」という感情を表しやすいキスばかりしている。表しやすくても、伝わらなければ意味がないと言うのに。
 北さんを、ガツンと揺さぶる何かをしたい。そう思いつつも、もう二月。ここで一つ、贈り物でもしてみようか。……気障やな、なんでもない日にプレゼントするて。相手が女やったらそういうなんでもないときのプレゼントでも喜ぶのかもしれへんけど、北さんやで。無駄遣いせんと、貯めといたらええのに、なんてしれっと言いそう。それになにより性に合わん。プレゼントを探す自分も気色悪いし、相手が欲しいとちっとも思ってないようなモン贈って自己満足できる質でもない。
 何をしよう、やっぱちゅーか。
 もやもやとした悩みを抱えたまま、風呂場へ向かった。

◇◆◇◇

 後悔。という言葉は好きじゃない。後ろ向きだし、あまりにも過去に執着しているふうで、むしろ嫌いな言葉。うじうじくよくよ、自分の行いを悔いる時点でイライラする。あの時こうしていればという思考自体がナンセンス。昔をいくら想っても、変えることはできないというのに。やるかやらないか迷うだなんて、意味がわからない。なぜ「やる」という可能性があるのに、「やらない」ほうを選ぶのか。一瞬でも進むのを躊躇ったら、即座に周囲に置いて行かれる。そんなの御免だ。どうせなら先頭を突っ走りたい。だから、いつだって、次々と現れる可能性を「可能」なものにして突き進んできた。
 そんな自分が、だ。
「う、ぉお、」
 まさか後悔することになろうとは。
 両手の中に佇むその塊を見下ろし、来た道を振り返り、とぼとぼと三歩ばかり進んでは、立ち止まって手の中を見つめる。俺らしくない。こんなの、俺じゃない。日本代表候補たるセッター・宮侑がこの様だなんて、どういう了見だ。
 買ってしまった。きゅ、と唇を噛み締めて、再び帰路を歩きだす。さあ、コレをあの人になんて説明しよう。なんて言い表したら、受け取ってくれるだろう。この際、当初の目的とは懸け離れた渡し方になったって良い。学校で、なんやかんやあって、渡されてしまった。一人一個持って帰ることと押し付けられて、そんで持ってきたんです。ふふ、どうしましょ。まったくの嘘を組み立てながら、すんと手元を見下ろした。
 ――紙袋に入った、淡い春色のブーケ。ハッピーバレンタインと書かれたカードの乗ったそれを、大学で貰って来たなんて言えようか、いや、言えるわけがない。もしそんなことを言おうものなら、どこの女子から貰ってきたのだと聞かれるに決まっている。チョコレートならまだしも、花束なんて。そんな気合い入ったモン貰うて、どういうことかわかってるんか。滔々と諫めてくるあの人が目に見える。と、なれば、学校で貰って来たなんて説明、できるわけがない。
 抱えている感触としては、おおよそバレーボール大。重さはこっちのほうが、ずしんとくる。慣れないせいで、いっそう重たく感じるのかも。実は鉢植えでしたと言われても納得してしまいそう。まあ、花束を作っているその場をずっと眺めていたから、鉢なんぞ使っていないのはわかっているのだけれど。それでも、その重さに足が鈍くなる。
 買って、しまった。
 こんなことなら、いつもと同じ道を通って帰れば良かった。時間があるからと寄り道しなければ良かった。視界に入ったガラスケースに意識を向けなければ良かった。ガーデニング男子、そんなんあるん? と立ち止まらなければ、良かった。次から次へとやりたくもない後悔が浮かんでくる。ああもう、どっかいけ、こんなにもやもやと陰鬱に考え込むのは性に合わない。気色悪い以外の何物でもない。買ってしまった事実は変えられないのだ、なんでもないことのように持って帰って、しれっとあの人に渡せばいい。……アカンアカンアカン、虫唾が走る、ンな気障な真似できるか。
 人とすれ違うたびに体が強張る。そして、手元に注目を浴びている感触を味わう。じろじろ見よって、見せモンとちゃうぞコラ。
 ほんまにもう、なんでこんなん買うてしもたんやろ。あの瞬間の自分の思考回路、一ミリたりとも理解できへん。
『何かお探しですか』
 あいつや、あの花屋の店員。あいつに話しかけらた辺りから、歯車が狂った。花屋にも男の店員ておるんやな。偏見に塗れた視線を向けられようとそいつはたじろぐこともなく、にこやかに続けた。
『季節柄、バレンタイン向けが多いんですけどね』
 その店員の言うとおり、店内は薄いピンクやらハートやらを意識した塊があちらこちらに置いてあった。生花もあれば造花もある。ここ最近はハーバリウムとかいうオイルに浸かった植物標本も売れているらしい。
 嫌味っ気のない説明を聞きながら店内を見渡し、純粋に感心してしまった。生花ともなれば、いずれ萎れて、枯れてしまう。鮮やかで瑞々しい様を楽しめるのはほんの一時。あとあと残ることもない、刹那的なソレに金をかけて贈るなんて。……贅沢だ。学生なんぞが手を出して良い領域ではない。働いて、自分で金を稼げるようになって、相手を養ってなお余裕があるレベルになったら、俺でもできるかもしれないような、やっぱりできないような。
 俺にはハードル高いわ。止めときます。何かを探しに来たわけではないけれど、そう言って店を出ようとした。
 出ようと、思った。
『いかがです、愛しい人に、フラワーギフト』
 足が止まる。動けと脳が指示しても、びくともしない。それどころか、くるりと店員のほうに目を向けてしまった。
 フラワーギフト。花のプレゼント。
『実際ントコどうなん、ヒかれません?』
『……正直、学生さんにはキツいかもしれませんね』
『でぇすよねぇえ』
『あはは、もうこの人しかいないって思ってて、それこそ結婚とか、』
『けっこん』
『考えてるなら、別でしょうけど』
『けっこん』
『はい、ケッコン』
 ケッコン。今度は頭の中で繰り返した。けっこん。ケッコン。血痕? ちゃうわ、結婚。
 そう、結婚。
 ――俺と、北さんが、結婚。
 電流が背骨を突き抜けた。びびび、と背筋が伸び、脳裏にあの人の顔が浮かぶ。
 待て待て、長い将来どうこうまで考えている北さんに指輪を贈ったって「俺に渡すもんやない」と突っぱねられるのが関の山。まずは今、この瞬間、どれだけ愛されているかを叩きつけるのが先だ。……そういう意味では、悪くない気がする。ふらわーぎふと。はなたば。ぶーけ。この俺が花を贈ったら、逆に信用されるのではないか。だって、俺、花を贈るような男には見えへんやろ。そんな奴が、大真面目に花買ってくるんやで。茶化さずに渡したら、あの北さんでもクラッとするんちゃう?
 プレゼントなんて自己満足と思っていた自分はどこへやら。すっかり、頭は、花を贈る脳みそに染まっていた。
 どのくらいの大きさにしよう。個人的には、片手で軽々と持てるサイズが良い。逃げんように、もう片方の手であの人のコト捕まえとけるし。そのサイズやと、いくらで作れるものなん? 今日のサイフの中身で足りるとええなあ。
 とりあえず、北さんの雰囲気言うから、見繕ってくれません? そんな意図を孕ませながら、店員のことをさっと見やった。
 目が合う。途端、に、とそいつは口角を持ち上げた。
『お兄さんカッコいいから、ゼッタイ、様になりますよ』
 僕が保証します。
 そんなん言われたら、調子乗るに決まってるやん。
 あれよあれよという間に花束は作られた。値段も払える範囲。花の色味は淡いが、凛とした大ぶりの花が並んでいるおかげで華やかさもある。取り扱い方についての説明もしてくれたのはサービスなのか、そもそも値段に含まれていることなのか。ピンク一色のそれをあの人が気に入るかはわからないが、バレンタインというのを伝えれば納得してくれそうな気もする。……個人的には、こういう淡い色、あの人に似合うと思う。いや、真っ赤も捨てがたいけど。あの白い肌が真っ赤に色づくのは堪らなく愛おしいし、薄くも柔らかな唇に紅を引かれたら色移りなど気にせずに齧り付く自信がある。赤いのでも、良かったかな。色気マシマシで、赤。……心臓に悪い、ピンクで充分。
 花屋の外に一歩出たところで、店員から手提げ袋に入った花束を受け取った。ありがとうございます、またお越しください。定型句を聞きながら、ぼんやりと考える。北さんの反応良かったら、また来よう。そうでもなかったら、これが最後。もし次があるなら、そのときこそ赤い花束にしてもらおかな。そうしよ。
 どーもと返して、今度は家に向かって一歩、二歩、三歩。
 早速、すれ違った女に視線を浴びせられた。学校帰りか、サボりなのか、セーラー服の女子高生にも見つめられる。これから買い物に行こうかという主婦、ランドセルを背負った小学生女児、杖をついた白髪の老婆。悉く、女という女に目を向けられる。なんでやねん。そんな花買うんが珍しいてか。……珍しいか、しかも俺みたいなただでさえ身長の高さで目を引く野郎が花を買ったとなれば、殊更。
 注目されるのは慣れている。けれど、普段浴びているのとは異なる色。花を買った男への、好奇の視線。
 やらかした。気付いたときにはもう遅い。花屋から随分と歩いてきてしまった。ここから引き換えして返品するよりは、家に帰ったほうが早いくらいの距離。いっそ走って帰ろうか。いや、花を持って走る男のほうが悲惨だ。コントか。
 心許なさを誤魔化そうと、手に提げていた紙袋を抱えてみたのはほんの三分前のこと。相変わらず人とすれ違うたびにざくざくと視線を浴びせられる。やっぱり抱えるのやめよかな。つか北さんになんて説明しよ。あの瞬間の自分や店員を責めたって、事態はなにも好転しない。同居人である愛おしいあの人に、この花についてなんて言い訳するか、考えなければ。
 ぎゅ、と唇を噛み締めると同時に、つい、背中が丸くなった。
「……侑?」
「ッへぁ!?」
 かと思えば、丸めたばかりの背中が仰け反る。たった三音、漢字にしてしまえば一文字で表されるソレに、ドドドドっと心臓が脈打った。まるで殴打されたかのよう。骨や肺が悲鳴をあげるのにあわせて呼吸も止まり、一瞬死に目を見た。
 家まではまだ何分かかかる。その間に言い訳を考えようと思ったのに、あんまりだ。確かにこれまでも、帰る途中で鉢合わせたことはあった。俺の部活がない日と、あの人がスーパーに行く日が重なったとき、それは発生する。ラッキー、北さんと一緒に居られる時間が増えた。いつもならばそう思うところ。今日だって、手元に花の塊がなければ、そう思っていたことだろう。
 ぎぎ、と、ぎこちない動きで振り返る。可動範囲は首から上のみ。それでも少し離れたところにいる北さんのことは捉えられる。コートを着て、蛍光イエローを思わせるエコバッグと小ぶりなレジ袋を提げた姿。そういや、今日はトイレ用洗剤と柔軟剤が安いと言っていた。お買い得品、無事買えたんですね。
 良かったですねえ。
「き、たさぁん、」
 和やかに言おうと思った言葉は、情けのない文字列にとってかわった。発音も大変に不格好。ダサいったら、もう。穴があったらい入りたい。むしろ、その穴にこの花をいれて埋めてしまいたい。
 そんな俺に違和感を持ったのか、北さんの眉間に皺が寄る。あっあっ、ちょっ、お願いですからもうしばらく俺の後ろ歩いてくれませんか。わっわっ、早足やめてえ、そんな急いで歩いて卵割れたらどうするんです、卵安いんは土曜日やて言うてたから買ってないのかもしれませんけど。ひぇええ、そんな真顔やめてください、体調は万全です、風邪引く気配もなければ花粉症発症する兆しもありません。
 ……ひゅっと息を呑むと、北さんは俺の隣にまでやってきていた。
「どした、腹でも痛いんか」
「いや、えと」
「……ん?」
「ォ、あ……、こぉれはです、ネ」
 そりゃあ見ますよね、俺が北さんだったとしても見ますもん。
 労わるような言葉を発した直後、北さんの目線は俺の手元に落ちた。蓋があるわけでもない袋の中は、簡単に覗き込むことができる。そうでなくても、袋からぱやぱやとはみ出ているくらいだ、何を持っているのか、一目瞭然。
 見られて、しまった。まだ全然、この花束の説明を思いついていないのに。口から出まかせ、できるだろうか。できたとしても、相手は北さん。正論パンチの使い手。下手なことを言ってしまえば最後、瀕死にまで追い詰められてしまう。かといって、素直に「北さんのこと想って買ってきました」とも言えない。なんでって、恥ずかしいからに決まっている。花やで、花。成人して社会人になって、自立した生活を送っているならまだしも、学生で北さんに飯やらなにやら面倒を見てもらっている身分で、花。まるで格好がつかない。
 きゅうと袋を抱きしめる。袋に沿って、花束が歪んだ。ちょんと乗ったバレンタインのカードが、存在を主張するように押し上げられる。金色の文字に、光が反射した。
「……母の日にはまだ早いで」
「よく見て、これカーネーションとちゃいますから」
 でかいのはバラ。あとガーベラ。真っ赤なカーネーションは一本もない。俺がよくわかっていないだけで、淡い色のそれは入っているのかもしれないが。
 第一、このキラッてしたカードに書いてある文字、北さん読んだでしょ。絶対、読みましたよね。その上で母の日てボケるんやめてください。俺がしどろもどろになるのを見込んでボケたって? そらどうもありがとう、おかげでぐるぐる頭抱えてたのどうでもよくなりましたわ。
 ぎりっと奥歯を噛み締めてから、のろのろと袋から花束を取り出した。しっかりとラッピングされてはいるおかげで、それだけでリボンが解けたり、包み紙が緩んだりする気配はない。セロハンをかさかさと揺らしながら、鳴らしながら、花束を構える。
「ドウゾ」
「明日は槍でも降るんか?」
「バレンタインに乗っかっただけですて」
「お前、こういうイベント事に興じる奴とちゃうやろ」
「たまにはええやん」
 季節感に富んだこと、してみたって。
 ぼそぼそと付け足せば、北さんは花束と俺とを交互に見やった。眉間から皺は消えているが、眉はすっかりハの字を描いている。どうしろと。そんな言葉が聞こえてきそう。どうするもなにも、受け取ってください。ここで「いらん」て言われたら、俺の心はばっきりと折れてしまう。……折れる前に、なんでですかて迫るか。北さんに渡したいて思って買ったんですから受け取ってください、て。それでも頑なに拒まれたら、折角だけれどこの花束はゴミ箱行き。店員さん、ごめん。
 ん、と、北さんの胸に花束を押し付けた。ひく、腕が震える。しかし、掴んではくれない。ああ、買い物袋持ってるせいか。花束に添えていたほうの手を、まずはレジ袋のほうに伸ばした。持ち手を軽く引っ張れば、すぐにそれは俺の手の中に移動する。ウやらワやら言う北さんのことは無視。続けてエコバッグも奪い取って、もう一度、淡いピンクのそれを差し出した。
 両手、空きましたね。あとは受け取るだけですよ。じぃっと見つめていると、ゆらりとその両腕が持ち上がった。肘で曲がって、花束の側面に触れようと手が開く。が、やはり触れてはくれない。きゅうと指が丸まって、セロハンを避けるように手が離れた。
 躊躇っている。ということは、要らないとまでは思っていない? 良かった。ドスドスと喧しい心臓が安堵する。どうせなら脈拍も下がってくれたらいいのに。声をかけられたときと変わらぬ速度で、胸は鳴っている。少しは落ち着き、あれこれ理由こねくり回さなくても、受け取ってくれそうなんやから。
 北さん、受け取って。この際、俺の愛おしさまでは受け取らんでもええから。お願いします。

「あいしています、うけとってください」

 ウワ、愛おしさごと差し出してもうた。
 びく、と北さんの肩が上下する。目が見開かれる。はく、と口が動いて、空気を飲み込んだ。しかし、言葉も声も零れてはこない。混乱、してはる。瞳の縁が、ぼやっと滲んだ。か細く息が漏れて、さっと耳が色づく。
 ふ、と、花束を持つ手が軽くなった。代わりに、北さんの両手が、セロハンごしにそれを支えている。
 もにゃり、頬が緩んだ。
「よし、帰りましょっ!」
 ココは外。とろとろに甘ったるい告白劇は一旦休憩。残りは家に帰ってからにしましょ。そんな意味を込めて、北さんの片手を掴んだ。そのまま顔を見ていたい気持ちもあるけれど、このまま見つめ合っていては疚しさが沸いてきてしまう。具体的にいうと、キスしたくて仕方なくなってしまう。ぶっちゃけ、既にちゅーしたくなってるけど。でもまだ我慢できる。うっかり外でちゅーして、秋の二の舞は真っ平御免。今なら外でのキスも許してくれそうな気もするが、念のため、だ。
 さ、帰ろ、帰ろ。帰りましょ。左手でエコバッグとレジ袋の取っ手をぎゅうと掴み、右手で北さんの左手首をぎゅうと掴み、家のほうへガッと大きく一歩踏み出した。
 ……しかし、右腕が突っ張る。
「ぅオッ!?」
「……」
「ちょっと、早く、人目浴び」 
 慌てて振り返ると、北さんは俺に腕を引かれたままそっぽを向いていた。花束を右腕でしっかり抱えて、ほんのりと下唇を噛み締めて、――頬から目元を、真っ赤に染めて。
 カッと顔に血が集まってきた。
「なんッつー顔してはるんですか!?」
「ちゃうねんコレは……、その」
「なぁにがちゃうんですかぁ!」
「ふっ、」
 どんなに否定しようとも、あんたが赤面していることに違いはない。ぽっと火照らせながら、伏し目がちになった睫毛が健気に揺れる。ここで北さんの手を離したら、迷うことなくこの人は顔を覆うのだろう。花束と、俺とに阻まれて、その顔は隠せずにいる。俯いて花束で顔を隠すこともできなくはないが、男が花で顔を隠すというのもなかなかインパクトがある。花を抱えて歩いてきた俺以上に、注目は浴びることだろう。
 ああもう、なんでここ外なん。北さんのその顔、誰に見られるかわからん。そういうの見せるのは、俺だけにしてくれません? 基本真顔、たまに笑うくらいのあんたがそんな顔したら、俺やなくてもクラッとしてまう。他の奴からの求愛に耳傾ける前に、俺の愛に取り合ってください。
「不意打ちは、あかん……」
 首筋まで真っ赤にして、北さんは声を絞り出した。蚊の鳴くようなそれは、どうにか俺の耳に届くという声量。車が通りかかっていたら、聞き逃していたのではないかとすら思う。
 掴んでいる手首も、いつの間にか熱くなっていた。もともと体温の高い俺が、熱いと感じるくらい。ちょうど太い血管の上に指があるせいもあって、俺に負けず劣らず脈が早打ちしているのも感じ取れた。
 あんた、ほんと、ほんっとに、俺んこと大好きですねェ!
「~~もおぉおお!!」
「わっ」
 衝動に任せて、腕を引き寄せた。前のめりになったその人が、たたらを踏む。買い物袋を持っていなかったら、この人の腰を抱けたのに。左手の中にあるそれを手放してしまおうかとも過るが、ぐっと堪えてその体を包むのは諦めた。
 だが、触れないつもりはない。
 よろけたせいで、いつもより低い位置にある頭。最近伸びて来た前髪。その向こうにある、つるりとした額。
 ――ふに、り。髪越しに、口付けた。
「いまは、これで我慢します。帰ったらちゃんとするんで」
 心の準備、よろしくお願いします。
 ぼそぼそと、北さんにだけ届くボリュームで囁くと、いっそうその人の顔は赤く色づいた。