初冬
ただいま、と言っても、返事のない家。無視されたわけではない。現在時刻は二十二時四十分。あの人のことだ、風呂にでも入っているのだろう。
近頃、レポートだなんだと言って、寝る時間が遅い。俺の帰りが遅いからだとか、帰りを待ってくれているというわけじゃない。とりあえず、そう、言い聞かせている。この人に関することで調子に乗ったって、良いことはない。むしろざっざか墓穴を掘る一方なのだから。
脱いだ靴を揃えていると、二ヶ月ばかり前に突きつけられた言葉が脳内に鳴り響く。何度振り払っても、すぐに記憶の引き出しに帰ってくるあの言葉。
『その好意は不要やろ』
リフレインしすぎて、頭が割れてしまいそう。なんでそんなこと言うん。俺の好き嫌いなんやから、あんたに否定される筋合いない。そう思う一方で 、あの人の言うことはいつだって正しかったと思う自分もいる。好意は不要、それも一理あるのではないか。この先一生、あの人を好きでいるとは限らないし、愛おしさに疑問を持つ日だって来るのかもしれない。先を見通したうえで、この好意が必要か、否か。そう言われてしまえば、不要というのにも納得しそうになる。
ひたひたと廊下を歩くだけでため息が出てきた。季節は晩秋。もしくは冬。今年は異常なまでに冷えるのが早い。去年まで兵庫にいたからか、いっそう寒く感じられる。暖房のない廊下なんて言うまでもない。歩くたびギシギシと軋むせいで、心細さも増してきた。
そ、と居間を覗くが灯りはついていない。じゃあ、と台所に移動するも、電気こそついているがもぬけの殻。あの人の気配はない。おずおずと冷蔵庫を開くと、ぴしっとラップをかけられた器がいくつか並んでいた。平たい皿に入っているのは千切りキャベツとミニトマト、それから推定コロッケ。メンチカツかも。昨日帰ってきたとき、冷蔵庫と睨めっこしながら「キャベツ使いきらんと……」とぼやいていたし。そんで、小鉢には切り干し大根が入っていて、別の器には煮しめの残り。おかんが送りつけてきたレトルト惣菜もタッパーに入っているが、胃袋が求めているのは先に見つけた三つ。そこに飯と味噌汁が加われば文句はない。……嘘だ、正直に言うと、できたてのアツアツホカホカを食いたかった。冷蔵庫で冷やされたそれらじゃなく、あの人とこたつに座って食いたかった。
ここ最近、いつもこう。すれ違ってばかりいる。それは、俺の練習が増えているせいでもあり、あの人が勉強で慌ただしくしているせいもでもある。帰ったら大体、おかずは冷蔵庫の中。朝方は顔を合わせるけれど、一コマからぎっちりのあの人は早々に「いってきます」と出ていってしまう。弁当も、作ってもらえない日が増えた。
きゅう。腹から鳴き声。作ってくれるだけ、ありがたい、めちゃめちゃ助かる。自分に言い聞かせながら平皿を手にとった。
「……おかえり」
「った、だいま」
「あっためよか?」
「イエ、自分でやるんで、ダイジョブです」
「ん、わかった」
じゃあ片付けも頼むな、おやすみ。髪から雫を垂らしている癖に足音なく現れたその人は、くるりと踵を返した。そして、やはり足音を立てずに居間の奥へ消えて行く。居間に灯りがつくことはない。おそらく素通り。さすがに自室の電気はつけるのだろうが、台所からはその灯りを見ることはできない。
微かな物音、布擦れの音。それすらも届かなくなったところで、詰まった息がどっと溢れた。ほんの一言二言。些細な会話。なんてことのない内容。実家にいた頃、おかんとしょっちゅうやっていたような言葉のやりとり。なのに、緊張する。おかしい、夏くらいまではこんな会話、強張ることなくできたのに。まるで高校時代に戻ったかのよう。あの人の目に怯んでしまう。竦んでしまう。
他の小皿まで取り出す気になれなくて、ばたん、冷蔵庫の戸を閉めた。膝ががくりと折れ、力が抜ける。ぺたんと冷たい床に座り込んでしまった情けなさを噛み締めてから、ゴツン、額を閉めた冷蔵庫にぶつけた。
ほんの数か月、具体的に言えば二か月ほど前、――あの言葉を投げかけられる前だったら、無理にでも引き止めて唇を奪っていたことだろう。し、もし今キスをしたとしても、あの人は文句を言わないと思う。だって、あの人は言った。次はない、と。次は、ない。つまり、次をしでかさない限りは、しても、良い。解釈を誤ってはいないと思う。これまでどおり、夏からの習慣になったとおり、家の中でなら、一日一回までキスはしても許される。
「……できるかぼけぇ」
曲げた膝の間に鎮座した揚げ物に向かって、悪態を落とした。
あんなこと言われて、そのまま同じような生活をするほど無神経ではない。他人よりも薄情だと思うし、感情だとか気持ちだとかいう曖昧なものを丁寧に扱うのだって柄じゃない。けれど、デリカシーの全てを放棄しているわけでもない。
キスなんかできるか。
でも、めっちゃしたい。
ならしたらええやん。
できるか、この色ボケブタッ。
そのループだ。家に帰ると、この輪廻に巻き込まれてしまう。あまりの居心地の悪さに、胸は不調を訴える始末。この俺がコロッケないしメンチカツを眺めて胸焼け起こすてどういうこと? 美味そうて期待で胃袋が喚くとこやろ。
だらだらと部活にいる時間が増えているのは、この居心地の悪さもあるのかもしれない。なんせバレーはうまく回っている。不調どころか好調、居心地だって当然良い。
潮時なのだろうか。そういえば、大学の掲示板に寮生の募集ポスターが貼ってあった。新年度からの入寮について。申し込みだって間に合ってしまう。正真正銘の一人暮らしは難しくても、寮生活ならどうにかなるのではないか。俺レベルの生活力の奴だって、寮ならいる気がする。むしろいないわけがない。
かといって、北さんと関われなくなるのも、嫌だ。あの人の飯が食えない、顔も見れない、声も聞けない。そんな生活、もう考えられない。あれ、俺にとって北さんて必要なんちゃう? いや、想像できないてだけやしな、いざ離れてみたらそれはそれで過ごせてしまうかもしれんし。えぇえでも嫌や、北さんと一緒にいたい。そんであわよくばちゅーしたい。
再び、大きくため息を吐き出した。
……北さん、平気な顔しとったな。俺がこんなに悩んでること、知らんやろ。こんなふうに頭使う奴とすら思われてないのかもしれん。そりゃ、約束破って、後ろめたい思いしてるんは俺のほう。でも、あんた、繁華街のど真ん中でちゅーされたんやで。もっとこう、ゴミクズを見るような目ェしてもおかしくないやん。まあ、されたらめっちゃ凹むし絶望しそうやから、せんとってくれて良かったと思いますけど。
けどな! 言いたいことあるんやったら言うてくださいよ、お願いします。腹ん中に重たくてどろどろしたもん抱えたまま、表面上は平静そのもなんて後味悪いったら。北さん、あの俺がここまであんたのことに頭使てるんですよ、ちょっと、どうしてくれるんです。なあ北さん!
ガーッと当たり散らしたって、あの人相手じゃ分が悪い。殴り合いになってしまえば俺が圧勝するのだろうけれど、そんな勝ち方したいわけじゃない。
治は楽やったなあ、なんでも喧嘩できたし。銀も真っ直ぐやからあんま頭使わんかった。角名はめんどいけど、すぐにケロッとしとったし。アラン君なんか、いつだって先に折れてくれた。
どうしよ。どないしよ。どないしたらええんやろ。
答えを見つけられないまま、のそりと立ち上がり、皿をレンジに突っ込んだ。
生温くなったキャベツと、熟れたように柔らかくなったミニトマト、ぐったりと萎れた衣のメンチカツ。不満が立ち上ってもおかしくない並びにもかかわらず、嬉しそうに溜め込む胃袋が恨めしかった。
その翌日も、翌々日も、翌々々日も、冷蔵庫から取り出したおかずをレンジにかける。淡々とした気分で口にしては、腹がふくふくと幸せを滲ませる。美味いなあ、この飯が食えんようなるんは、やっぱり嫌やなあ。
そう考えはするものの、俺の日常は北さんと距離をあけたまま真っ直ぐに進んでいく。あの人の生活と、平行に流れていく。何一つ障害はなく、支障も見えてこない。北さんとの関係がどうなろうと、俺の日常に影響はしないらしい。それこそ、バレーにはまったく関わりがない。生じない。あの人のいない生活は考えたくないのに、いなくてもきっと生活できてしまうんだなと、思ってしまう。それはまるで、俺の人生にあの人の存在はあってもなくても構わない些末なものであると示すかのようで。
やめよ、これ以上、頭使いたない。
◆◇◆◆
十二月も半ばが過ぎ、ついに雪が降った。
こっちって、雪、積もるんやな。大混乱する電車やバスを眺めながらぼやくと、呆れ顔の自称・江戸っ子に「今年がおかしいだけ」と返された。確かに、去年春高で来たときは雪のゆの字もなかった気がする。白い塊を見た覚えもない。移動のバスも電車もスムーズで、こんなふうに困ることはなかった。
ははあ、今年はおかしいのか。びちゃびちゃの雪を踏みしめて、どうにか帰宅したのは二十三時五十分のこと。ぎりぎり日付が変わらなかったことを誇ればいいのか、四月からの東京生活でいちばん遅く帰ってしまったと嘆けばいいのか。
暗い居間に鞄を放り投げ、そのまま風呂に直行した。冷蔵庫が気にならないわけではないが、運行見合せに巻き込まれた都合、飯は済ませてきてしまった。その連絡をしたのは、夜の九時を過ぎてから。もう作ってしまったよな、と思って、「明日の朝食べますんで」とメッセージを送っておいた。だから、何事もなければ冷蔵庫の中に俺の分が入っているはず。今覗いたら、飯を食ったというのにさらに食いたくなってしまう。だって北さんが作ってくれたんやで、食いたくなるやん。
過食しそうに揺れる気持ちを流すべく、熱めのシャワーを頭から掛けた。まだ温かい湯船にも浸かって、またシャワーを頭からぶっかける。まだ余裕があるぞと主張する胃袋は無視して、台所には行かないと心に決めた。
がしがしと頭を拭いながら居間に戻った頃には、すっかり日付は変わっている。明日起きれるやろか。いや、起きなあかんわ。この調子じゃ、朝に電車動いとるとも思えんし。走っていくにしたって、あの路面じゃ足を滑らせるのが目に見えている。
はよ寝よ。
鞄を拾い上げ、廊下を進む。それから、廊下と同じくらいに冷えた階段に素足を乗せた。一日中空けていた部屋は、さぞかし冷えていることだろう。布団だって押入れに突っ込んだまま。寒い部屋、ひやりとした布団、一人寝。三つ目はさておき、前二つが並ぶと虚しさと侘びしさが込み上がってくる。折角風呂に入ってあったまったのに。すぐに温かくなるとわかっていても、抵抗感が顔を出す。
もう一段、段差を登った。布団に入ったとして、すんなりと寝られるだろうか。入ってしまえば、瞼を閉じておやすみ三秒かもしれない。数分も経てば、夢すら見ないくらいに寝入る気もする。けれど、足の裏からじわりと切なさが伝ってくる。ほんまに一人で寝るん、て。あの人んとこ行かんでええの、て。いや、今あの人と距離あるんやって、どう絡んだらええのかわからんし。つか行ったって気まずいだけやろ。それにもう北さん寝てはる。押しかけて無理やり起こそうもんなら、居心地の悪さが加速してしまう。
ひたひたと階段を登りきり、そっと部屋の戸を開けた。鞄を放り込んで、畳の上に一歩。予想と寸分違わず、冷えている。寒、と独り言が飛び出るくらいに冷え込んでいる。こんなんじゃ、押し入れに詰まっている布団は確かめるまでもない。
畳の上にある足が、ふわりと浮いた。それから、廊下の板に着地。さらに方向転換、登ってきたばかりの階段に足が向かう。
トットットッ、一定のテンポで階段を下る。トットットッ、同じ速さで心臓が脈打った。
俺、なにしてん。
そんなの決まっている、あの人のところに行こうとしているんだ。
なんでや、気まずなってもええんか。
これ以上、気まずくなることなんてあるもんか、どうせ気まずいんだったら乗り込んでしまっても一緒。第一、このまま平行線を描いて良いのか。良くない。嫌だ。前の距離に戻りたい。どうせ待っていたって状況は変わらないのだ、なら動くしかあるまい。好転するのか、悪化するのか、定かじゃないが、じっとしているよりはきっとベター。
居間の襖を開け、そこから大きく三歩。次の襖に指先を引っ掛けた。いつだってぴしゃりと閉められているそれ。くぐったのは、風邪を引いたあの日だけ。そういや、ノックてしたほうええんかな。でも襖叩いたってガタガタするだけやない? それノックになるん? むしろ不躾な感じせえへん? おそらく声を掛けるのが正解なのだろうけれど、寝ている人に向かって囁くことに意味を見いだせない。
考えるだけ、時間の無駄に思えてきた。喉につっかえそうな空気の塊を吐き出して、引手にかけた指に力を込めた。軋むことなく、襖は開く。薄暗い北さんの部屋の中が、見える。奥には机、それから本棚。襖に引っかからない位置に敷かれた布団。人の形に膨らんでおり、かすかに上下する。寝てる、な。起きてはいまい。そりゃそうだ。
布団を被ったその塊を眺めていると、切なさが凪いでいく。戻ろ、かな。ここまで来ておいて、この人を起こしたくないという思いが重さを増してきた。戻ろ戻ろ、そんで寒い部屋戻って、大人しく寝よう。
開けたばかりの襖を閉めるべく、ぐと力を込めた。
「――どうしたん」
「っ、」
閉まる、より前に、声が聞こえた。静かじゃなかったら、聞こえなかったかもしれない。それくらい、小さな声。ボリュームを落とした、控えめな声。夜中だから絞ったのか、夢現に浸って声量のコントロールが効かなかったのか。
反応に詰まっていると、少し離れたところから、冷蔵庫のヴーンという呻りが聞こえた。けれど、寝息は聞こえてこない。潜められたせいで、呼吸は希薄になっている。起きて、いる。あ、なんだ、北さん、まだ、起きてる。
「寒いな、て」
思ったら、来てしまいました。すんません、我慢できなくて。弁明がぽこぽこと浮かんでは、舌に乗る前に弾けて消える。どれを言ったって、正当性は示せない。そもそもここに来た、もっともらしい理由なんてないのだ。ただ寒くて、寂しくなって、そうしたら北さんが恋しくなった。それだけ。だからこそ、言えない。言えるものか。情けないし、みっともない。なによりも、カッコ悪い。
「体温高い奴がなに言うとんねん、布団入ったらすぐあったかくなるやろ」
「……それでも、寒いの、嫌で」
襖の縁を指でなぞる。上から下へ、三十センチばかり滑らせたところで、指先でぎゅうと掴んだ。視線も下がりそうになるが、どうにか堪えて布団に横たわるその人を見つめる。
別に北さんの部屋だって暖かいわけじゃない。暖房を切ってしばらく経っているようだし、冷えた居間や廊下と体感温度は変わらない。唯一、暖かそうなところと言えば、その人の入る布団の中だが、一緒に寝るだなんて甚だ烏滸がましい。口先では寒いと主張しているが、切なさを紛らわせられればそれで良いのだ。北さんの近くに居させてくれれば、満足。
何拍か置いたところで、深く息を吐き出す音がした。ため息の音だ。
ぎくりと心臓が震える。ええから部屋戻り、この天気やし明日も早いんやろ。頭の中で、北さんの声が合成される。そ、すね。すんません。遅くに迷惑かけました。きっと自分は、ぽつぽつと返して踵を返すのだ。光景が浮かぶ。指先が、力んだ。
「そこ」
「え」
しかし、現実に響いたのは、いまいち明確でない指示語。
一つ瞬きをしていると、北さんはゆるりと起き上がった。小玉電球すらついていない室内。見えるのは、影だけ。どんな顔をしているかなんて、さっぱりわからない。呆れているのかもしれない。嫌気を感じているのかも、しれない。
少なくとも、その人の声を聞き漏らさないようにしよう。しっかりと襖に捕まって、耳を澄ました。
「布団、そこから出し」
「……ええの」
「ええもなにも、お前ここで寝たくて来たんとちゃうの」
「そらまあ、そです、けど」
途切れ途切れに返すと、影から腕が伸びた。指先の辺りが何かを掴む。きゅ、と下に引く動作。ほぼ同時に、カチリ、スイッチの切り替わる音がした。途端、視界が白く染まる。わ、眩しい。目を細めれば、すぐに眉間に皺を寄せて目を眩ませている北さんが見えた。
「ん、そこの押入れ」
「ほんまに? ええの?」
「くどい。……何もすんなよ、それなら構わん」
「フラグやん」
「アホ、冗談言うてないではよ敷き」
相変わらず顔をしかめながら、北さんは布団から這い出た。それまで自分が寝ていた布団をずるずると引き摺り、もう一枚敷けるだけの広さを確保する。ぽっかりと空いて見える一畳ほどのスペース。よろよろと押し入れに向かいながら北さんを盗み見れば、布団の中に戻ったところだった。身じろぎをしながらこちらに背中を向け、落ち着くところを見つけたところで大人しくなる。
一応、布団同士がくっつかんようにしたほうええよな。そう思って敷布団の位置を決めるが、毛布、布団と掛けてしまえばどうやったって端は重なってしまう。パッと見、敷布団もくっついているかのよう。いやいや、ちゃんと隙間ありますよ。ありますからね。何もすんなて言われたせいか、そんな些細なことすら気になってしまう。
もう一度ちらり、北さんを見やった。しかし反応はない。布団が重なっていることにすら、気付いていないのか。あるいは、気にも留めていないのか。俺ばかり、気にしてる。しばらく前のアレを引き摺っているのは、本当に俺だけらしい。なら、外でキスしたの、あんなに咎めんでもええやん。……あれは、俺を思いやっての言動。わかっている、言語としての意味合いも、この人の意図もよく理解できている。ただ、感情として受け止められてない。だから引き摺ってんねん。くそ。
「電気、消しますよ」
頷くのも確認せずに、カチリ、カチリ、二回ばかり電気紐を引っ張った。ぼんやりしたオレンジが室内を照らす。先ほどは、これすらもついていなかった。少し明るいほうが、自分としては落ち着くのだけれど、北さんは真っ暗派なんかな。小さく息を吐いてから、もう一度紐を引っ張った。
すん、と、視界が奪われる。手探りで布団の裾を掴み、ひんやりとしたそこに体を滑りこませた。頭まで布団を被ると足がはみ出る。足先に余裕を持たせると肩が出る。布団を斜め気味にしたり、むしろ自分が布団に対して斜めになってみたり、あまりやりたくはないけれど体を丸くしてみたり。慣れない布団に試行錯誤しながら落ち着く体勢を探す。
そのうちに、冷たかった布団はほのかに温もりを纏いだす。見つめた先には北さん、の後頭部と思しき塊。やはり、小玉電球はつけておけば良かった。北さんのこと、よう見えんし。……見てどうすんねん。何もすんなて言われたやん。北さんが言うたからには、その言葉以上の意味はない。
じぃ、と、俺に背を向けているだろうその人を眺めた。夏もこんなやったなあ。あの時はもう少し布団と布団が離れていたし、寒いどころか暑かった。そのさらに前、風邪をひいたときは、逆にもっと近かったように思う。手が届く距離におったもん。布団は重なってたし、枕の位置も、俺の様子を看るためか近かった。なにより、こっちを向いて寝ていた。
二つ返事で、同居をさせてくれた。
ぶっ倒れたら、優しく看病してくれた。
普通は拒否するような我儘も、条件つきで許してくれた。
どんなに気まずい距離間が空いてしまっても、飯はちゃんと作ってくれた。
タダイマと言ったら、オカエリと返ってくる生活。この人の傍にいるのは、心地いい。なのに、今はわだかまりを作ってしまって、一方的に居心地の悪さを噛みながら過ごしている。それを、どうにかしたいと、思う。なんで? 北さんおらんでも、たぶん俺暮らしていけるで。他の一人暮らししてる連中と、然程変わらん生活、送れるて。……けれど、北さんの傍にいることに、こだわってしまう。譲りたくない。
その理由、とは。
――難しいものではない。むしろ単純なはず。それこそ、北さんに、ややこしく引っ掻き回されているだけなのでは。
「北さん、寒い」
「……寒いわけあるか」
「寒い」
「少しは我慢せぇ」
そのうちあったかくなるやろ。ぽつりと投げかけると、ぽたりと返ってくる。寝たふりをしてしまえば良いものを、きちんと答えてくれる真摯さに付け入りたくなってしまう。
「さむい」
「ええから、はよ寝ろ」
「……そっち、行ってもええ?」
「あかん」
「なんもしませんから」
「あかん言うてるやろ」
今度こそ、追い出されてしまうかもしれない。でも、あの日と同じように、今日も止まれる気がしない。
のそりと布団から起き上がった。布擦れの音で、俺が起きたということ、北さんだって気付いたはず。けれど、逃げる気配はない。布団の中に、籠城するでもない。
変化と言えば、ほんの少しだけ背中を丸くしたくらい。なんだか見覚えがあるな、夏の、クーラーのついた居間で寝た日がフラッシュバックする。タオルケットを頭まで被って、羞恥に身を縮ませていた、夏の夜のこと。なあ、今あんた、どんな顔してるん。あかんて言うとおり、厳めしい顔してはるんですか。確かめさせて。
ず、と。手始めに腕を潜らせた。僅かに塊が強張る。でも抵抗はしない。本当に嫌なら、抵抗してや。俺のことなんか、怖くもなんともないでしょ。
続いて見るからに一人用の布団に、上体を滑り込ませる。後から敷いた布団よりも、中はずっと温かい。そう、このぬくもりが欲しかった。すぐに足も潜らせて、自分のよりわずかに短く細いソレに絡ませる。
「ッおい」
やっと聞こえてきた、反抗の声。残念、遅い。声をはねのけるようにして、腕を差し込む。ちょうど腰の辺り。ぐ、と抱き寄せて、顔はその人の肩口に埋めた。すんと鼻を鳴らせば、自分と同じシャンプーの匂いがする。石鹸も、柔軟剤も同じ。だが、決定的に自分とは異なる匂い。嗅いでいると、なんだか安心感に包まれる。北さんの、匂い。ほんの少しだけ心臓も高鳴るが、安らぎも感じる。
抱きしめる腕に力を込めると、一回り小さい体がぽかぽかと火照ってきた。子どもみたい。なんて言ったら、お前が言うなと呆れられることだろう。
「北さん、あんな、きいて」
甘えるような口調でうなじに擦り寄ると、ん、と鼻にかかった声がする。わ、もう一回聞きたい。だが、その前に言いたいこと、言ってしまわなくては。だらだらとひっつき続けていれば、北さんのことだ、ふっと我に返る瞬間がやってくる。そしたら、俺の敗北は確定だ。白旗を揚げなければならない。動揺しているうちに、畳みかけなければ。
声量はいらない。囁きで十分。吐息・九対声・一でも、届くに違いない。どうか、この人の芯に響きますように。伝わりますように。
しっかりと体を抱きしめて、静かに、説いた。
「俺、ちゃんと北さんのこと、好きです」
抱き寄せた体が、なんだか心許なく思える。記憶の中ではもっとしっかりしていた気がするのだが。高校時代の現役の選手だったときはもちろんだが、キスをする仲になってから試しにと引き寄せた腰は、こんなに細くはなかった。というか、もう少し、肉がついている感触だった。なのに今触れている体は、覚えているそれよりずっと平坦で、硬くて、言いたくはないが細い。
「そもそも好きじゃなかったら、ちゅーしたいなんて思わんし」
つ、と手のひらを滑らせた。親指が掠めた肋は、やけに浮いている。寝間着越しにしては、骨の感覚が明らかすぎるのでは? いや、寝転がっているならこんなものか。
違和感を抱えながら、胃があるだろう部分の上をそっと撫でた。ぺたんと平ら。肋よりは凹んでいるだろうか。熟語をあてるとしたら、貧相。こっちは口走った瞬間に白い眼を向けられそう。
「未来んことはわかりませんけど、今は好きて思うし、この先も一緒にいてほしいて思う」
なあ、あんた俺の分の飯は毎晩作ってくれてるけど、自分はちゃんと食うてるん。今晩なに食うたの。冷蔵庫に入ってるやろう俺の分じゃなく、自分が食べたモノ、教えてや。簡素に済ませたらあかんよ、ちゃんと食わんと。マクドで買い食いしそうになるたび、家でちゃんとした飯を食えて言うてたの、北さんやんか。
勉強勉強て忙しいんはわかるけど、俺の飯作るだけの時間はあるんでしょ。一緒に自分の分も作って、食ったらええやん。一人で食うのが嫌というのなら、あるいは一人では食う気にならんていうのなら、俺これまでみたいに早く帰ってきますから。
体壊したら、あかんよ。あんた一人の体と思ったら大間違い。……なんて言えるほどの身分じゃないのはわかってる。けれど、一緒に住んでいる以上、心配するくらいはさせてほしい。
「好きです。嫌やった言うてください。気持ち悪いとか、思てるんやったら、もう言わん」
――好きな人のこと、想わせてほしい。
「……やっぱ無理や、言いたい。すきです、」
「もう止め」
「言い足りません」
「ええから止めぇや」
「嫌ですか? 好きて言われんの」
「……嫌や、ない」
「ならええやん」
「よぉないわ」
俺の声と同じくらい、北さんの声は小さい。ただ、俺と違って、震えている。声が、喉が、肩が、抱きしめているその体が、泣き出しそうに震えている。泣くくらい、嫌なん? 嫌やないて言うたやん。なんで泣くん。俺こういう空気読むの、あんま得意やないんですよ。紛らわしいこと、できればせんといてほしい。
ず、と鼻を啜る音に、胸が締め付けられた。だから、泣かないで、くれません、
「――勘違い、しそぉになる、」
か。
て、え。
一拍おいて、意味を飲みこむ。飲み込もうとした。けれど、上手く飲み下せない。舌の上で転び、喉につっかえ、食道の壁にいちいちぶつかりながら腹の中へと向かっていく。
勘違い、て、何。
まだ言葉の塊は胃に辿り着いていない。意味を理解しきれてはいない。けれど、俺の告白がこの人の心の底に届かなかったのはわかる。どうやったら伝わんの。俺んコト、嫌いやないんでしょ。好きなんでしょ。なのに、なのに。
カッと頭に血が上った。衝動のままに体が跳ね起き、抱きしめていた体の胸倉を掴まえる。それから膝立ちになって、腕の力だけでその人をも起き上がらせた。暗く冷めた空間に、あたたかかった体を、引きずり出した。
「ほんとに俺はッ」
叫んだ。と、同時に、北さんはぐしゃりと俺の胸に指先を引っ掛ける。薄い布越しに、その人のささやかな力みを感じた。簡単に振り払えてしまうくらいの、些末な力。その程度の抵抗で、俺をどうにかできると思ってるん?
俯いたその頭に、今度は何を言おう。何を言ったら、この人は俺の愛しさを聞いてくれるんだ。受けとめろとは言わない、聞いてくれ。バレーボールに偏り過ぎたこの脳みそで、どうにか考え抜いた恋心を、否定しないでくれ。
「俺はやっぱり、お前の人生に、将来に、「俺」は不要やと思う」
「こンの強情ッ……!?」
本当ならば、者、までその人の頭に叩き付けるはずだった。だが、的を外す。暗がりの中、ふっとその姿が消える。胸倉を掴んでいたのに、その手の中にいない。
ハ?
「なのになんでそんなこというん」
すぐそば、鎖骨の真ん中の、ちょっと下あたり。じん、と音が響いた。
恐る恐る、視線を真下に落とす。あった。丸い頭が、きゅ、と俺に引っ付いている。控えめに服を掴んで、額を押し付けるようにして、くっついている。
「へ?」
ぱん、と憤りが弾けた。ここで弾けたのが堪忍袋だったのなら、今すぐにこの体を押し倒して暴いていたのかもしれない。だが、あくまで弾けたのは憤り。ふつふつと腹の中であぶくを立てていた激情も、すんと凪いで波紋一つ作らない。
俺、今、抱き付かれてる? 北さんが、ぎゅ、て、抱き付いて、きてる?
「~~ッ!?」
状況を理解すると、途端に顔が火を噴いた。暗くて良かった。茹で立ての蛸を思わせるくらいに真っ赤に染まっている自信がある。暗いところにいて、本当に良かった。
ドッドッドと騒ぎ出す心臓に息苦しさを覚える。口から出てきそうとはまさにこのこと。驚いた。びっくりした。いや、驚いているしびっくりしている。まだその衝撃は収まらない。なんでひっついてるんですか、抱き付いてるんですか。あんた、俺の感情否定してたでしょう。にもかからわず、その態度とはどういう心づもりでいらっしゃるのでございましょうか。
深呼吸を二回ばかりしてから、そぉっと、肩に、腰に、腕を回した。そろそろと腰を落として、布団に座り込んでも、まだその人は俺から離れない。もう一度、深呼吸。心臓の高鳴りは、落ち着く兆しが見えない。
くそ、胸の中で悪態をついて、一秒二秒、七秒まで数えた。ど、落ち着いた? まだ。ああ、そう。
「いつかおまえは、間違いなく俺から離れていく。なら、最初から夢なんか見せんなや」
「なん、すか、それ。俺があんたのこと、捨てるみたいな」
「そうするとき、いつ来たっておかしない」
そんなの、わからんやろ。捨てること前提で、話を進めんでください。つか、あんたが俺から離れていく可能性だってあるでしょ。未来のことなんて、誰もわからない。だからこそ、その未来で悔いないよう、今を一歩一歩、進んでいくんでしょ。
まずは、今。この瞬間に何をするか。それが、大事なんやと、思うんです。俺は。
「もし、そうだとしても、……今、「好き」て伝えん理由にはなりません」
指先にいっそう力を込める北さんを見下ろしつつ、負けませんよと抱きしめる腕に力を込めた。やっぱ、痩せたな、この人。俺のせいなんかな。気にしてたの、俺だけや、なかったんやな。
「好きです」
「やめぇや」
「すきです」
「くどい」
「すき、です」
「ちょっと黙れ、」
頭回らんようなってしまう。
消え入りそうな声が鎖骨に響く。この人のこんなに弱ったところを見るの、初めてだ。いや、弱っていると言うのはふさわしくない。腹の底を、晒してくれているだけだ。強いとか、弱いとか、そういうものではない。
けれど、頭が回らないというのならちょうど良い。脳みそ空っぽにして、俺の今からいうこと、すとんと素直に受け止めてください。ね。
「つきあってください」
「……嫌や」
「なんで」
「なんでも」
「お得意の正論パンチはどうしたんですかぁ?」
「頭回らん言うたやろ、さっぱり思いつかん」
ぐり、と頭を振るようにして額を押し付けられた。甘えられているみたいで、正直、めちゃめちゃ可愛い。これこそ可愛いだ。これまでの比じゃない。あの北さんに、この俺が縋られているだなんて。言葉のやりとりだけ見れば、俺が縋っている側だけれど、それはそれ。
こんな人に、惚れないでいられるわけがない。
丸い頭にそっと顎を乗せた。髪をちゃんと乾かさないせいもあって、北さんの髪はどこかふわりとしている。唇の辺りまで埋められるくらいに、柔らかい。
どうせだし、と旋毛にキスを落とした。
「なんで、嫌なんですか」
「しつこい男は嫌われるで」
「北さんに嫌われんかったらええもん」
「……ずるいわアホ」
「なんでや」
「お前を嫌いになんて、なれるわけない」
どすり、胸に矢を突き立てられた。北さん、今の、爆弾発言ですよ。爆弾で吹っ飛ばした矢を、ぶっ刺した、てやつだ。間違いない。俺もう致命傷負ってるわ、救いようがないくらいに重体。せやから、一緒に地獄に行きましょうよ。二人で行ったら、怖いもんなしやて。
「なら付き合ってくださいよ」
「嫌や」
「ほんま強情やな」
好き同士なのに、なぜそこまで粘るのか。そんなに将来が怖いとでも? 積み重ねを尊び、経過を重んじるこの人でも、未来を恐れることがあるなんて。今できることは次もできる。できるようになったからには、次もその次も失敗しない。ひたすらにスキルを獲得していくあんたが、未来に自信を持てないだなんて。
……違うな、自分だけで完結しないから、怖いのだ。自信を持てないのだ。まして、その場の閃きと勢いで、時に三段飛ばしで階段を駆けのぼる「宮侑」が相手だ。北さんであっても、手綱を握り続けることは難しい。
ああ、俺だから、この人はこんなに未来に臆病なのか。
自分の性分は、きっと変えられない。絶対にこの人を手放さないと言うのは、あまりにも無責任。
じゃあどうする? ……今、この時点での誠意を見せるしか、やれることはない。俺にとって、あんたは大多数のうちの一人じゃあない。「北信介」は、特別な個人である。そう、わからせるしかない。
抱きしめていた手をそろそろと動かし、その人の耳の裏に触れた。そして、俯き気味の顔を、くと上に向ける。抵抗なく、素直にその人は顔をあげた。表情は読めない。なんせ、この部屋は暗いから。どんな顔してるんかな、困った顔やろか、泣きそうな顔かも。笑ってはおらんやろなあ。明るくないのがもったいない。北さんの色んな顔、見てみたいのに。ああでも、明るかったら俺の百面相もばっちり見られてしまうんやった。悩ましい限り。
静かに息を吐いてから、こつん、額を重ねた。びく、と腕の中にある体が揺れる。ああもう、かわええなあ。
「北さん、覚悟してください」
「なんのはなし……?」
「決まってますやん」
俺に、めいっぱい愛される覚悟、してください。
強引にでも頷いてもらうべく、かつ、一回目の愛を訴えるべく、臆病な唇に優しく口付けた。