秋口

「ただいまあ」
「おかえ」
 り、の音は飲み込んだ。音を発した本人ではなく、俺が。
「……おかえり」
 唇を離すと、恨めしそうに睨んでから言い直してくれた。律儀な人だと思う。そういう、きちっきちっとしたところに、心地よさを感じているのも事実だが。
 北さんの振り向きざまに、狙いを定めて、キス。このタイミングでやったのは三日ぶり。回数にすると、何回目だろう。結構な頻度でやってはいるが、毎日はしていない。そりゃあできることなら毎日やりたい。帰りましたて意味も込めて、やりたい。けれど、もし毎日やってしまったら、他のタイミングでキスできなくなってしまう。……そう、北さんと約束したから。
『一つ、キスは一日一回まで』
 夏の盛りに約束した三つは、この二月、一度も破っていない。まあ、破りかけたことはあるけれど。約束をしてしばらくは、二回目をしそうになるのもしょっちゅうだった。しゃーないやん、北さんの唇、ふわっとしてて気持ちええねん。そのたび「出ていく準備できたん?」て言われて、難を逃れ、またやらかしかけて、再び危機を乗り越える。そんな毎日。
 一日一回が身に付いたのは、九月も半ばを過ぎてからだったと思う。一日に一回だけ許してもらえるキス。ちなみに舌をいれるのもアリ。最初やったときは怒られたけれど、約束には入ってなかったと駄々をこねてアリにしてもらった。
 今日は不意打ちで触れるだけにしたし、昨日も弁当渡されたタイミングでちゅっとやったから深いキスは交わしていない。が、一昨日はがっつりやった。そりゃあもう、ぐっちゅりと。
 小難しそうな本を読んでいる北さんが、ふぅと頭をあげた瞬間に、ちゅう。わずかに唇が開いているのもあって、つるりと舌をいれることができた。そんで普段よりも長い時間、口付けていたと思う。開いていた本が閉じて、息が苦しいと北さんに胸を叩かれて、やっと離したくらいだったし。いやあ、口を離したときの北さんの顔、えっちやったなあ。離れる際に糸を引いた唾液が下唇に乗っかって、ぎゅうっと固く目を瞑っていたせいで涙が滲んでいて、いつもより息を荒げていた。わ、えっち。そう口走らなかった自分をよくやったと褒めてやりたい。声にしようもんなら、べちんと額を引っ叩かれていただろうし。
「今日の夕飯なんですか?」
「鮭のホイル焼きと小松菜の胡麻和え、あと里芋の煮っ転がし。もうできとるから、はよ手ぇ洗って来い」
「ふふ、はぁい」
 いつもの質問を投げかければ、むっとした表情はすぐに消えうせる。涼しげで、過度に感情の乗らない顔。ちゅーしてもあの顔のままやったら、もう飽きてたかもしれんなあ。むっとしたり、色っぽくなったり。色気のある顔は本当に堪らない。腹の底にどすっとくる。たまに勃ちそうになる。そうになる、てだけで、勃つとこまでいったことはないけど。俺以外にそんな顔見せたらあかんよ、て言いたくなる顔。めっちゃえっち。えろい。すけべ漂ってくる。
 ……そういう意味では、二つ目の約束は、破りそうになることなく守れている。
『二つ、家の外ではしないこと』
 蕩けかけた顔もやけど、キスする瞬間のぴくって肩震わすとこも、俺だけが知っていればいいと思う。ちゅーするときの北さんは、オレだけの北さんであってほしい。だからこそ、外でやりたいとは思わない。買い出しに付き合って一緒に出掛けることはあるが、そのときわざわざキスする気にはなれないのだ。ちゅーできるのは、家の中だけ。家に帰れば、ちゅーできる。そんな家での特別感も、外でキスする気にならない一つの要因かもしれない。
 居間に鞄を放って、洗面台に向かった。きゅっと捻った蛇口からは、すぐに冷たい水が流れ出て来る。今月頭まで残暑を思わせる暑さが続いていたが、ようやく秋がやってきたらしい。体感的にだが、年々夏が長く、秋が短くなっている気がする。オレの誕生日て、もっと涼しいと思ったんやけど。今年はなかなか暑かった。そりゃあ、盆明けのギラッギラに日差しが強くて、何もしていなくても汗が噴き出てくる暑さに比べたらマシ。だが、暑いもんは、暑い。暑かった。
 手首まで覆った泡を洗い流し、歯磨き用のコップを手に取った。若干デザインの違う、プラスチックコップ。毎日、朝晩、必ず使われている。いや、俺のほうは、合宿で留守にした期間があったから、必ずではないか。けれど、北さんのほうは、休みなく、使われているはず。
『三つ、――どちらかに恋人ができたら、止めること』
 おそらく、北さんに恋人はいない。いたら、この約束が発動してキスできなくなっているはずだ。隠しているという可能性は排除していい。あの北さんが、そんな裏切るようなことするもんか。
 そんで、俺にも恋人らしいものはいない。しいて言えば、毎日キスしている北さんが恋人みたいなもん。やっぱり俺は、北さんのコト好きなんちゃうかな。
 だが、そのわりにキス以外にしたいことが浮かばない。ウッ勃ちそうと思っても、ワッその顔えっろと思っても、セックスしたいにまでは繋がらない。あの日、北さんに指摘されたように、とにかくキスしたいだけ。好きだからそう思うのか、好奇心がそうさせているのか、未だに自分でも判断はついていない。もやもやと曖昧なまま、胸につっかかっている。
 ぺっと水を吐き出すのと一緒に、靄も吐き出せてしまえばいいのに。手の甲で口元を拭いつつ、コップを元の位置に戻した。
 居間に戻ると、ちょうど味噌汁の椀が置かれたところだった。あと足りないものと言えば、白飯のみ。飯は自分で好きな量よそうことにしている。わし、と茶碗を掴んで、台所に向かう。釜のボタンを押すと、ふわりと炊き立ての甘い匂いがした。はー、美味そう。今日はとびきり腹が減っているから、米だけでいくらでも食えそう。この釜、空にできるんちゃう? 秋に入ったせいか、食欲が止まらない。きっと治といい勝負。いや、あっちも食欲増してるか。それやと敵わんかもしれんな。
 明後日なことを考えながら、さくり、ふかふかの飯にしゃもじを刺した。
「なあ、侑」
「はい?」
 ひょいと茶碗によそいつつ、声のほうを見やる。もう一回と手元を見ないまま飯を足して、しゃもじを北さんに引き継いだ。すんなりと受け取ったその人も自分の茶碗に飯をよそう。俺の盛った量の半分。よりは多いか、三分の二程度。けど、俺は二杯目三杯目も食う。それを思うと、俺の半分も食ってない。よくもまあそれで体もつなあ、バレーやめた程度でそんな消費変わるんやろか。……変わったから、こうなったんか。
「明日のことなんやけど」
 そう言って、北さんは炊飯器の蓋を閉め、少量の水が入った器にしゃもじを置いた。
 明日。なにかあったかな。部活は別に休みではない。講義は昼前一つと、昼過ぎにもう一つ。いつもどおり、弁当は必要な日。あ、朝早いんかな。前にも、「明日弁当の準備できへんから、自分で済ましといて」て言われたことがある。きっとそれや。
 ちらりと北さんを見下ろすと、ちろり、薄い唇から舌が覗いた。わ、ちゅーしたい。いや、あかんて。
「晩飯、自分で済ましてくれへん」
「ばんめし……?」
 あたかも幼児のように、北さんの言葉を繰り返した。ばんめし。晩飯。夜の、ご飯。今、この時間に食う飯。を、自分で済ましてほしい、と。
 ぱちぱちと目を瞬かせてみるが、北さんのすまし顔は変わらない。訂正する様子もない。
「昼飯やなくて?」
「おう。弁当でもええんやったら、夜の分も作っとくけど」
「いや、えーと……」
 念のため確認してみるが、やはり明日準備してくれないのは晩飯らしい。半年とちょっとこの家で過ごして、初めてのことだ。これまでずっと、夕飯は北さんが作ってくれたから。たまに二人で外に食いに行くことはあった。部活ん先輩に捕まって、泣く泣く北さん手製の晩飯を食いっぱぐれたこともあった。……そんときはちゃんと連絡して、俺の分、ラップしてもらう。そんで朝、夜の分と一緒にがっつり食うのだ。できたて食いたかったなあ、あの鶏手羽。肉味噌炒め。でっかい豚の生姜焼き。それから餃子。餃子は本当に、焼いた直後を食べたかった。
 さておき、明日の夕飯は自分でどうにかしなければならないらしい。
 咀嚼して飲み込んだ途端、切なさが込み上げてきた。明日は北さんの飯が食えない。朝飯も弁当もあるけど、夜は、食えない。いやいや、どんだけ北さんこと頼りにしてんねん。北さんかて大学生、毎日夕飯作ってくれてたこれまでのほうがおかしかったんやて。
 すたすたと居間に戻る背中を、慌てて追いかけた。
「ダイジョブです、てきとーになんか、食うてきます」
「頼むわ。……悪いな、前日に。予定あったん忘れてて、」
「北さんでも忘れることあるんですね」
「そら人間やからな」
 お互い定位置に座ったところで、そっと両手を合わせた。イタダキマスと言ってから、早速鮭に箸を伸ばす。ほぐした身を口に運べば、ふわりとバターの香りがした。厚めに切られた玉ねぎもじんわり甘い。明日は、こういうあったかい飯は食えないのか。いや、外食すればあたたかい飯にはありつける。ただ、北さんが作ったというあたたかみは、ない。
 北さんのご飯食いたいなあ、今食ってるけど明日も食べたい。胃袋はがっちり掴まれている。それくらい、俺は北さんの作る飯を気に入っている。めっちゃ好き。いや、この場合、好きなんは北さん自身てことになるんかな。ああもう、わけわからん。
 ず、と味噌汁を啜ってから、正面に目を向けた。相変わらず箸の運び方は綺麗。胡麻和えの小鉢持つとこなんて、上品以外に表しようがない。大きく頬張ることはなく、口に運んだらよく噛んで、静かに飲み込む。形の良い唇は、滔々とその動作を繰り返す。ソコを思う存分に貪れたらどどれだけ満たされるだろう。……明日はがっつり舌いれよ。そうしよ。
「お前、今、物騒なこと考とるやろ」
「まさかあ、予定てなんやろなて思てただけですよ」
「よく言うわ」
「えへへ」
 誤魔化しやがったな、と目線が突き刺さるが、軽薄な笑みではじき返した。一日一回の楽しみくらい、好きにさせてください。ちゃんと約束の範囲内にしますから。
 そのまま笑みを貼り付けていれば、北さんはゆっくりと息を吐き出した。あからさまなため息。そんなふうに呆れられることをしたつもりはないのだが。それとも、明日のキスを警戒してのため息? なら嬉しい。意識してくれているということだし。もっと意識してほしい。そんで気持ち良くなってほしい。あわよくば、一日一回を三回くらいにしてもらえんかな。
 唇に意識を向けつつ、それとなく話題をずらした。
「そんで? 予定てなんなんすか」
「……学科ん同期飲み」
「北さん、酒飲めるん……?」
「好んでは飲まんけどな」
 ということは、飲めるということ。別におかしいことではない。俺が十九ということは、北さんはハタチ。酒も飲めるし、煙草も合法。しかし、どちらも想像がつかない。酒、煙草、それから賭博とは縁がなさそうに見える。いや、酒だけならアリか。ビールやら缶チューハイを飲むところは浮かばないが、日本酒をちびちびと飲むのは似合いそう。
 どういう飲み方をするのだろう。好んで飲まないと言うあたり、乾杯の一口だけというのも考えられる。それから、酔っぱらい方も気になる。あまり強くなくて、すぐにふらふらなったらかわええなあ。……まあ北さんやし、いつもと同じ調子で正論パンチ繰り出してくるのもありうる。アルコールで箍が外れて、素面ンとき以上の遠慮のなさでドスドスと痛いところ突いてくるかも。うわ、北さんらしい。実際のところ、どうなんやろ。怖いけれど、気になる。
 もし、酒に弱くて、記憶がおぼろげになるのだったら。二回、三回とキスをしても、許されるだろうか。好きと伝え直したら、好きと返してくれないだろうか。
 口いっぱいに白飯を詰めながら、じぃっと北さんを見つめた。
「お前はほんと頬袋に物詰めんの好きやな……」
「むぇ!? んなづもりはッ」
「飲み込んでから喋り」
「むづ、グ……、んンッ! そんなことないです!」
「そんな急いで食わんでも、勝手に盗る奴ここにはおらんで」
「……わかってます」
 むっと口を尖らせると、北さんの唇がふっと緩んだ。――その唇に乗っているのは、間違いなく好意。面倒は見てくれるけれど、恋人としての関係には至らない、好意。一日一回をここ二ヶ月続けてるのを思うと、キス自体の抵抗はない。唇を重ねても構わないのに、恋仲になれない好意とは。愛玩動物と同じラインに思えてくる。
 ヒト扱いしてほしい。できればコイビト扱いしてほしい。
 物足りなさを満たしたくて、また気づくと口いっぱいに飯を詰めてしまう。
「……あんま遅くはならんと思う」
「んぇ? それはぜんぜん。北さんにも付き合いあるでしょ」
「お前からそんな言葉聞ける日がくるとはな」
「そんなおかしいこと言いました?」
「いや、人を慮る心もあったんやなて」
「……俺かてココロのあるニンゲンですぅ」
「ふは、知っとるわ」
 そんな俺を、北さんは「一人飯が嫌で拗ねている」と捉えたらしい。留守番くらい、なんの不安もなくできますよ。保育園児じゃあるまいし。さみしいはさみしいけど、そこまで思いつめてるわけじゃない。
 頼むな、と念押しされるが、それも別に求めてはいない。だからそっちはええて。そんな申し訳ないなて思うんなら、明日はちゅー三回までしていいとか言うてください。
 調子乗るなと一蹴されるのが目に見えているから、あえて口にはしませんけれども。
 あーあー、明日の夕飯、どこで食おうかな。北さんがおらんのに家で食う案は却下。部活の連中に混ざって、定食屋かラーメン屋に行こ。付き合いが悪いとよく言われているからちょうどいい。どうやサム、俺の人間性、ポンコツやなくなったろ。つか、昔からポンコツとちゃうけどな。
 二回ばかり逃した里芋に箸を突き立てた。ぽいと口に放り込むとほっこり甘じょっぱい。たぶんこれは、冷めても美味い。
「なあ北さん、明日の弁当」
「里芋なら入れるで。もうわけてある」
 から、好きなだけ食い。
 ただ、この人の人間性と比べたらガラクタ同然なのだと思う。ここまで他人のこと見れへんもん。ほんまによく見てる。好きでもない奴に、ここまで世話焼けるか?
 北さん、俺んコト好きなんちゃうん。俺も北さんコトきっと好きやって。せやから付き合いましょうよ、そんでもっといっぱいちゅーさせて。
 ここまで思考を巡らせたところで、キスの先を想像できないという考えに思い至り、やっぱ好奇心なんかなと首を振る。わからん。ポンコツちゃうと思ったけど、自分の腹ん中すらマトモにわからんし、やっぱりポンコツなのかもしれん。
 難しい。頭が痛くなってくる。とりあえず、目の前の飯をちゃんと食うか。茶碗に残った三口分をかっ込んで、二杯目をよそうべく立ち上がった。

◆◇◆◆

 女心と秋の空。そう言われるくらいに移り変わりやすいこの時期の天気だが、今日は一日中晴れていた。見上げた夜空には月が浮かんでいる。雲に覆われることのないそれは、ぼんやりと柔らかな光を降らせていた。星こそ霞むものの、月はそれなりに見えるらしい。久々にお月様拝んでるなあ、こっちきてからちゃんと夜空眺めるの初めてかもしれん。
 窓際で呆けていると、ヴッと短い振動音がする。ハッとなって布団に放っていたスマホのホールドを解いた。パッとついた画面には2211の数字。新着メッセージ一件。……だが、北さんからの連絡ではない。高校のチームメイトであり、今も東京でバレーを続けている同級生。お前かーい、紛らわしいことすんなや。既読をつける気にもならず、そのまま画面の灯りを落とした。
 あまり遅くならないと言っていた。確かに一般的な大学生にとって、夜の十時は遅い時間ではない。ただ、北さんにとっては、どうだろう。いつも家にいる時間。風呂から上がって、寝る支度を整えだす時間。あの人なら、遅いと表現してもおかしくない。
 だが、依然として連絡はない。北さんでも、夜の十時は遅い時間やないんやな。一個賢くなった。
 結局落ち着かなくて、端末の画面を点けてしまう。部屋の電気は消したまま。けれど、スマホと開けた窓から入ってくる月明かりで十分なくらい明るい。夏の不快感が嘘のように、吹き込む風は心地良かった。
 ただ、切なさも、ひとしお。
「……はよ帰ってきて」
 そしたら、おかえりなさいて言いますんで。風邪を引いたときはあんなに言ってなるものかと思ったのに、今日はすんなりと口先から零れ落ちる。
 飯は食った。先輩オススメの定食屋。盛りが良くて、味もそこそこ。なにより懐に優しい。昼時はさらに安価になるらしい。今度弁当なしの日はここに来よう。そう思うくらいに良い店だった。……先輩やら、同期の連中にアレコレ詮索されなければ。
 彼女はいるのか、そりゃいるだろ、絶対年上、わかる社会人でもおかしくない、その彼女がいるからいつも付き合い悪いんだろ。どどどっと言葉を携えて襲ってきた連中に、「バレー以外でつるむ必要ないやろ」と言わなかったこと、誰でもいいから褒めてほしい。ぐっと飲み込んで、極力涼しげに、「彼女ちゃいますよ、下宿みたいなとこに住んでるだけ」と返しておいた。高校の先輩んとこに住まわせてもらってる、と言うつもりはまったくこれっぽっちも小指の爪の甘皮ほどもない。そんなん言うたら、絶対こいつら押しかけてくるやん。俺の城に客なんていらん。おかんと治はしゃーないとしても、他の連中を招いてたまるか。
 すると今度は、大家が美人なのかという話に転がる。なんやねんお前ら、そんなに女に餓えとんのか。なら俺んコト構ってないで、彼女作ったらええやんか。こんだけデカイ、しかもスポーツマン、需要がゼロなわけがない。
 そんななんやかんやを経て、どうにか帰宅したのはほんの一時間前のこと。わかってはいたが、灯りのついていない家に肩を落とした。まだ北さんは帰ってきていない。いやいや、それなら今度こそ「おかえり」と言える。夏のリベンジができる。
 自分に言い聞かせながら風呂を済ませて、今。
 何度見ても、北さんからの連絡は、ない。終電もまだ先。もしかすると、終電を逃さないかぎり連絡は来ないのかも。いやいや、一応と教えてもらった店は歩いて帰れないところでもない。マップアプリで見てみたら、軽く走るにはちょうどいい距離だった。常人なら歩くのはちょっと……と思う距離でも、あの北さんなら。終電なくなったから歩いてきたと、ケロッと言ってのけそう。ということは、終電を逃したって連絡は来ない?
『北さんがいない』
 気付くとメッセージを送信していた。送り先は、ついさっき紛らわしい真似をしてきた奴。そいつが夏場にアイコンをチューペットにした途端、治はパピコにしていた。ならばと北さんと食べよて買うてきたダッツ二個をアイコンにしたら、片割れから「北さんに甘えんな」とメッセージが飛んできた。ちゃんと自分で買いました、スーパーで一個税込み二〇三円を二つ、合計四〇六円。五百円玉使て買うてきました。そんな意味合いを返信して三分、おかんから「あんた、思いやり覚えたん?」と電話がかかってきた。揃いも揃って俺んコトなんやと思てんねんコラ。
 思い出したらアイスを食いたくなってきた。けれど、もう冷凍庫にはなかったはず。買いに行くほど食いたいかというと、まあそうでもない。我慢するか。ため息に近い吐息を放ったところで、ぽっと白い吹き出しが現れた。
『ついに捨てられた?』
 視界に入った瞬間、頬が引き攣った。んなわけあるかい、第一捨てられてんのやったらここから追い出されてお前んトコ押しかけてるわ。
 ムッとしながら画面に指を滑らせる。
『捨てられてないわアホ』
『そんときは呼んでね、北さんに縋るところ見たい』
『絶対呼ばん つか捨てられませんー、北さんめっちゃ優しいから!?』
『でも帰ってこないんでしょ 彼女んとこにでも泊まりに行ったんじゃない?』
『ないわ』
『なんで』
『あの人に彼女おらんし』
『わかんないよ、いるかもじゃん』
 それは、ない。なんでって、俺とちゅーしてくれるから。あの人、言うてたもん。恋人できたら止めるて。真面目で真摯な人が、平然とあの約束破るとは思えん。
『今日は飲み会行っただけ』
『なんだつまんね』
『どこがじゃボケ』
『じゃあ北さんの部屋にエロ本ないか探してきて』
『じゃあてなんやねん、するわけないやろ』
『まだ帰ってこないっしょ、へーきへーき』
『探さんて』
『みゃーつむの!ちょっといいとこ!見てみたい!』
『探さん言うとるやろが』
『なに、そんな暇なの?北さんいないんでしょ、好きにしたらいいじゃん 探してきてよ』
 しつこい、どんだけ俺に北さんの部屋漁らせようとしてんねん。探したところで、出てくるかわからんぞ。むしろ出てこないことも考えられる。逆に誰にも言えんようなえぐいもん出てきたらどないしよ。そのあと気まずいやん、俺が。誰かに言ってすっきりしたくても、北さんの性癖が表になると思うと言うのが躊躇われる。
『探したとしてもお前には売らん』
『けち』
『俺の心にそっとしまっとく』
『きも』
『きもないわ』
『おまえ実は北さんこと好きだよね』
『めっちゃ好き』
『きも』
『だからきもないわ』
『で、北さん帰ってきた?』
『まだ』
『そんなさみしーなら迎えに行っちゃえば』
「は」
 さみしないわ。そう入力して、送信する前に削除した。さみしいは、さみしい。だが、まさか角名に指摘されるとは思わなかった。言葉の綾として使ったのか、核心をつくつもりなのか。
 しかし迎え、とは。考えもしなかった。これで相手が女なら閃いたかもしれないが、北さん相手にその発想はなかった。
 一度画面から親指を離した。迎えに行ってみるか。でも北さん男やぞ、迎え行ったところで何しに来たんて一蹴される。頼むなと言われたのに、結局北さん北さんと縋るのもいかがなものか。行きたいような、行きたくないような。頭の中で逡巡する。
 俺が黙ったからか、角名はぽこぽことスタンプを貼り出した。ほとんど意味のないような画像が現れ、それまでのメッセージのやり取りを画面の外へ押し上げていく。ああもう、うるさい、ちょっと黙れや。音も鳴っていないのにそう思ってしまう。
 一つ息を吐いてから、滑らかな画面に指を走らせた。背中押してくれたらええな、と思うところがないわけではない。この男じゃ、茶化して終わりだろうけれど。一抹の期待を添えて、紙飛行機に見える水色を押した。
『迎え行ってもええんかな』
『えっまじ?どうせいくなら、俺を捨てないでぇ!?て泣きついてきてよ』
『誰がするか』
『してよ。北さんによしよしプレイしてもらいなって』
『するかハゲ』
 お前に期待した俺がアホやった。なんやねん、よしよしプレイて。んなことされたら、問答無用で惚れてまうやろ。甘やかされると弱いんやぞ。風邪引いたあの日の梅干し・ほっとレモン・のど飴のコンボ、めっちゃ効いたんやからな。ただでさえ弱いのに、急所にドッスリ突き刺さったわ。
 既読の二文字がつくと同時にトークを閉じた。なおもバイブで新着メッセージを知らせてくるがスルー。代わりに、これまで事務連絡というやりとりしかしていないトーク画面を開いた。最後の会話は五日前。『牛乳買ってきてください。金はあとでわたします。』後輩相手にですます調て。電話のときもあの人はそういう喋り方をするから、きっと癖なのだろう。
 意を決して、短文を送った。

『迎え行きます、準備しといてください』

 返事どころか、既読がつくのすら確認せずに立ち上がった。とりあえず、スマホを持っていけばいい。あと家の鍵。窓をしゃんと閉めて、急な階段を一段とばしで駆け下りた。


◆◆◇◆

 とは言ったものの。そもそも電車と徒歩で向かうこれは、「迎えに行く」と表して良いものなのだろうか。良い悪いは別にして、格好がつかないのは確かだ。迎えに行くと言うからには、車とか、せめてバイクとか、そういうモノで行くのが本来では。
 ガタガタと電車に揺られながら、ぱたぱたとコンクリートを蹴飛ばしながら思ったが、かといって後にも退けない。しいて思うことといえば、早いうちに免許取ろうというくらい。そういえば、夏休み中に合宿で免許取ったという奴がいたな。山形に行って、免許取るための講習を受け、温泉に入り、また講習を受け。……今度あいつに聞いとこう、そんで近いうちに取ろう。
 明後日なことを考えながらごちゃごちゃと騒がしい通りを進んでいると、目的の居酒屋が見えてきた。二時間だか三時間飲み放題のコースがある、学生でも入りやすいチェーン店。あの人には、似合わないなと思ってしまうようなタイプの店。
 駆け足気味の速度をぐっと落とした。急いできたと思われたくなくて、息を整える。車もバイクもないけれど、せめてこれくらいはカッコつけさせてほしい。
 ほお、と丸く息を吐き出した。
 すると、数メートル先にあるその店からぞろぞろと人が出てくる。ぱっと見学生、同年代。あ、北さんおるかな。ちょうど出てきてくれたら嬉しい。ゆったりとした足取りに結局アチェレランドがかかっていく。
「……ほんまに来たんか」
 とす、と、声が聞こえた。たちまち急いだ足がピタリと止まる。まったく、忙しないったら。さておき、あの人の声が聞こえた。雑音にかき消されたっておかしくないのに、すっと耳に届いたのだ。北さんの声、間違いない。この半年、毎日聞いている声。今朝まで聞いていた声。
 さあ、声の主はどこにいる? 重なりながら人が出てくるせいで、うまく見つけられない。半分以上が野郎、その中にぽつぽつと見える女子。人数は合わせてざっと三十人だろうか。この男女比で合コンなわけがない。教えられたとおり、学科とかの、同期飲み。丸く吐き出した息の分、安堵が胸に注がれた。ホッとする。北さんに彼女ができるとか、そういう心配はまだしなくて良さそうだ。できてしまったら、もうちゅーできなくなってしまう。それは嫌だ、まだしばらくはちゅーする関係でいたい。
 人だかりから距離をとったまま、丸い頭を探した。あれはちがう、これは女子、それほど襟足は短くない。これは呼んだほうが早いだろうか、向こうはきっと、俺のことをもう見つけている。なら来てもらったほうが早い。一八〇も身長があれば、見つけてもらうほうが楽なのも事実だし。
 愛しい名を呼ぶべく、す、と息を吸い込んだ。
「北くん!」
 ――しかし、吸い込んだ空気は喉元で塞き止められた。その人を見つけられたからではない。俺の代わりに、誰かかその名を呼んだ。高い声がしたのは、おそらくあの辺りから。うらりと視線を向ければ、小柄な女。それから、……探していた丸い頭。酒を飲んだのか、飲んでいないのか、いつもと変わらぬ顔つきのあの人が、女のそばにいる。
 誰、そいつ。そう思う一方で、ワ、かわええ子やな、とも思う。
「二次会行かないの?」
 北さんよりも頭半分ほど小さい体。ということは一六〇センチくらいか。北さんと比べてあんだけ小さいんやから結構小柄なんやろ、と思ったのだが女で一六〇もあれば小柄ではない。フツー。そもそもバレー部のずらりとでかい連中の中にいるから北さんが小さく見えるだけで、あの人も決して小柄ではない。確か一七五センチ。ニホンジンの平均より、いくらか高いはず。
 喉にひっかかった息をどうにか吐き出して二人を眺める。人混みの中、スポットライトが当たったかのようにやたらと明るく見えた。輝いて見えるともいう。俺の焦点が二人に定まっているからそう見えるのか、二人揃って穏やかな笑顔を浮かべているからか。
 あぁ、北さんが男に見える。いや男やけど。身長はもちろんのこと、女と比べたら肩幅はあるし、丸みを帯びてるのなんて頭の形だけ。喉仏はくっきり浮き出ていて、彼女に対して「すまんな」と断りを入れる手の指だって骨ばっている。どこからどう見ても、男。
 ……なんであの人を「かわいい」と思ったのだろう。一歩引いて見れば見るほど、「かわいい」と判断した自分の思考回路を疑いたくなる。その一方で、かわええかわええなんであの人あんなかわええのちゅーするしかないやん、と頭が悪そうに喚く自分もいる。いつもは凛として澄んでいる目が、キスをしているとたまに緩むのだ、とろん、と。その瞳を見るとつい二度目をしたくなってしまう。畳み掛けたくなってしまう。キスするたび、ひくんと震える肩もタイヘンにかわいい。舌をねじ込むキスのあと、そっと息を整える様もヒジョーにかわいい。でもいちばんは、あの蕩けた目だ。普段の綺麗な目が蕩けるギャップ。堪らん。その蕩けたとこに俺が映ってんの、めちゃめちゃ滾る。
「えっ、行かないの」
「待ってる奴がいるから」
「……もしかして例の?」
「そう、あいつ」
「甲斐甲斐しいねえ、センパイ」
「そんな大層なことはしてませんって」
「でも看病はしたんでしょ」
「まあ、した、けど……」
「甲斐甲斐しいじゃん、センパイ」
「その言い方やめて」
 思考の海に潜りかけた意識が、ずるりと引き揚げられる。聞き馴染んだ声と女声が交互に聞こえた。だが、違和感。しっくりこない。耳が音を拒否する。うまく、あの人の声を言葉として理解できない。
 北さんが、東京の言葉を、喋っている。それも割と流暢に。嘘やろあんた、俺とおるときと全然発音ちゃうやんか。トーキョーに魂売ってしもたんですか? 誰に教わったん、まさかその女とか言います? 彼女、おるやん。俺んコト裏切ったんですか。あんなにちゅーさせたくせに。恋人できたらやめるって、言うてたのに。
 くら、頭が揺れた。
「アカン」
 と、同時に、安堵を誘う声がした。あ、そう、この響き。これこそが北さんの声。東京の言葉喋るあんたは嫌だ。北さんは北さんなのだから、嫌も何もあったもんじゃないが、喋るなら俺と同じ響きのものであってほしい。じゃないと落ち着かないから。
 北さん、お願いします。東京の男としてはその女と付き合ったとしても、兵庫の北信介としては俺だけの人であってください。いや、東京の男・北信介なんて俺の理解を超えている。そんなん無理や、理解できない以前に理解したくない。なあ、北さん、頼むから東京のイントネーションやめてください。そんでいつもの、稲荷崎市のトーンでお願いします。
 懇願したところで、あの人の目が俺を捉えた。平生の、涼やかな瞳に、俺がいる。俺が、映っている。
「きたさん、」
 頼りない音がする。情けない色が滲む。格好良さには程遠い声が、漏れた。
「どしたの」
「アホが絶望面しとるから帰るわ」
「わ、久々に北くんの関西弁聞い、」
 一歩、北さんが女の隣から踏み出した。つま先が向いているのは俺のいるほう。あわせて、女の頭が北さんを追いかける。ついてくんなや、お前北さんのなんなん。彼女? それともただの友達? 後者であってくれと心底思う。前者だったら心が折れて立ち直れない。バレーしかできなくなる。そんなん元からか。
 夜風に吹かれて、明るい色の髪が靡いた。宙を踊ること一秒、二秒、三秒。風が凪ぐ代わりに、女の目に衝撃が差し込んだ。薄く色づいた唇も、わなわなと震える。この泥棒猫、という吹き出しをつけたくなったのは、ここだけの話にしておこう。
 ビッ、と。女の人差し指が、俺を向いた。
「噂をすれば!」
「ハ?」
 ……泥棒猫は冗談としても、誰よそいつくらいは言われるものだと思っていた。なにやら、北さんと親しげに話していたし。しかし、女は訝しむどころか興味津々と言わんばかりの視線を突き刺してくる。
 口を半開きにしたまま呆けているうちに、北さんは俺の隣にやってきた。ほのかに綻んだ口元のせいか、機嫌が良さそうに見える。もしかして、酔っているのかも。程よく酒の回った北さんは、いつもよりずっと陽気に見える。覚えておこう、ほろ酔いの北さんはふわふわ嬉しそうでめちゃめちゃかわええ、て。このままさらに酔っ払ったらどうなるかも気になるけど、こういう人目の多いところで酩酊してほしくもない。俺と二人きりのときだけ、曝け出してくれたらなと、思う。
「……かわええやろ、やらんからな」
「いや盗らないから。じゃまたね」
「おう、また明日」
 二人がそこまで言葉を交わしたところで、つい、と北さんに袖を引かれた。なんですか、そんな意味も込めて北さんを見やれば、ん、とだけ返される。ん、て何ですか。普段よりもなんだか言葉が足りない。これはやはり酔っ払っている。そんで、俺が思うよりも酔いが回っているのかもしれない。酒というやつの力は偉大だ、この人のかわいさを三割増しに見せてくれる。なにがかわええやろ、だ。かわええのはあんたのほう。
 つか、北さん、俺んコトに「かわええ」て思ってんの。ほんまに? 頭、おかしくなってません? 一八〇超えて四捨五入したら一九〇センチの大男はなにをどうやったってかわいくないと思うんです。それを言ったら、世間一般的な体格の成人男性を指してかわええかわええ連呼してしまう俺の脳みそもおかしいことになるが。でも北さんはかわいい。北さんからしたら俺もかわいいのか? 生意気とか厄介とかではなく、かわいいの範疇になると。じゃあ、かわいいとはどういう概念になるのだ。俺と北さんに共通するものなんてほとんどない。かわいい、とは。かわいいてなんやねん。考え込むほどゲシュタルト崩壊が進んでいく。
 くん、と。再び袖を引かれた。今来た駅の方に、北さんの意識は向いている。言外に、「帰るで」と聞こえた気がした。脳内でぐずぐずになった「かわいい」を塗り替えて、可読性の高い「かわいい」が降ってくる。ああもうなにこの人、問答無用の文句なしにかわええわ。北さんはかわいい。かわいいは北さん。もうそれでええやん。
 俺も意識を来た道に向けると、ゆっくりとした足取りで北さんは歩き出した。いつだったか、一緒に買い物に出掛けた時よりもペースは遅い。視界に入る後頭部、つむじの先からは、やはり上機嫌が漂っていた。そのうち鼻歌でも歌いだすのではないかというくらいに。そんなに嬉しいことがあったんですか。何があったのか教えてくれません? これまで、一緒に過ごしてきた中で、いちばん幸せを漂わせてる。これで気にするなというほうが無理な話。
 ……というか、悔しいのだ。俺の知らぬところで、勝手に多幸感を纏われるのが。どこの誰ともわからぬ奴に負けてしまったかの心地になる。
 大股で歩いて、北さんの隣に並んだ。
「ずいぶんとご機嫌ですね」
「そうか?」
「そーですよ」
「ふ、そうかもしれんなあ」
 いつにもまして、今日の北さんの口は緩い。ふにゃふにゃと唇を波打たせては、吐息混じりの笑い声を漏らす。今キスをしたら、とろとろと唾液を零してしまうに違いない。
「お前のこと、自慢できたから」
「へっ、俺?」
「ん」
 こっくんと深く頷いたその人は、相変わらずふわふわと柔らかな笑みを浮かべている。前を見る目だって、これでもかと優しい。
 そんな顔をしているのは、俺のことを、自慢できたから。嘘ぉ、北さんの中で俺そんなスゴイ人間やったん? バレーに関して言えばそうかもしれんけど、他の部分見たら口が滑ってもスゴイなんて出てきそうにないで。いや、バレーしとる俺んことを自慢してくれたんかな。それやったら、わからなくもないような。そうでもないような。
 じゃあ誰に自慢したんですか。さっきの女子にだけか、それともあの輪にいた大多数に対してか。ちなみに自慢の内容は。自分のことをこの人がどう評価しているのか、気になって仕方がない。よお知らん奴らにアホだのポンコツだのちょっと怖いだの言われたって気にならんし、付き合いの長いアランくんや治でもそれは変わらん。けど、北さんにどう思われているのかは、正直気になる。ポンコツて思われてるんなら脱したいし、格好悪いて思われてるんなら挽回したい。
 恐る恐る口を開いた。
「……さっきの人にしたんですか、その自慢、て」
「おう、あいつしかバレーわかるやつおらんし」
「へー、バレーやってた子なん?」
「いや、あいつん彼氏、強豪でバレーしてて、いろいろ教わっとるんやて。試合もよく見に行くて言うてたし」
「ほーん、それで俺んコト知ってるふうやったんですね」
「バレー以外ポンコツで、何度レンジん中で爆発起こしたかわからんし、洗濯機もしょっちゅうエラー起こしとる言うたら笑てたわ」
「さッ、最近は爆発させてませんよ!?」
「ふはは、使い方ちゃんと覚えてくれて良かったわ」
 あのまま頻発してたら、レンジ買い替えなあかんとこやったわ。そんな言葉のわりに、くふくふと楽しそうに言う。まるで、俺らが昔やらかした悪戯を懐かしそうに話すおかん。……いや、悪戯の類はいつも遠い目しながら話すな、ノスタルジーに浸るんは俺らの小っ恥ずかしい失態を語るときだけ。とりあえず、思い出話を始めるときのおかんに似てるのは確かだ。
 おかんと子どもやなくて、恋人同士になりたいんやけどなあ。こういう態度を見ていると、「恋愛対象にはならん」というのが紛うことなき事実であり、変えがたい現実に思えてくる。ちゅーさせてくれるのが一縷の希望。こんな些末なもんに縋る日がくるとは、去年の今頃は思いもしなかった。そもそも、北さんと一緒に暮らすというのが想定外。あのときこそ閃いた角名や即座に連絡した治に「余計なことを」と思っていたが、今はまあまあ感謝している。
 一緒に住んでるんやなあ。なりゆきでそうなったとはいえ、今好きな人と一緒に住んでいることにかわりはない。こんなん同棲やん。付き合ってないだけで。付き合ってなかったら同棲て言わん? 状態は同じなんやから、同棲でええやん。
 同棲。その二文字を浮かべたところで、ふと、疑問が過る。ちらりと横を歩く北さんを見やった。正面に視線を戻せば、駅の表示が見えてくる。もう二、三分も歩けば到着。この時間帯の電車は混んでいるだろうか。帰りのラッシュはもう過ぎている。おそらく座れるとは思う。電車の中で、揺られながら聞くか、家まで我慢してまったり聞くか。それとも、今、聞いてしまうか。
 堪え性のなさは、自分がいちばんわかっている。
「北さん、」
「ん?」
 ほらな。つるりと声が滑り落ちた。
「その、俺と住んでるとか、そういうんもあの人知ってるんです?」
「ああ、後輩と同居してるて前に話したコトあるから」
「……話した?」
「あかんかったか?」
「そなこと、ないです」
 が、あんた、それ人に言うたんですか。ほんまに?
 途端に歩みが鈍くなった。一歩、二歩と北さんが遠ざかる。三歩目に差し掛かったところで、北さんは振り返った。けれど、四歩目はそのまま進む。五歩。おおよそ三メートル。手を伸ばしても届かない距離。やっと、北さんが立ち止まった。
「ほら帰んで」
 周りが騒がしいからか、ほんの少しだけ声を張って言う。酔いが回ってなお、その色。凛としている。同じコートに立てたほんの一年足らずの頃が過る。怖かった。近寄らんとこと思っていた。でも、いざ手を伸ばしたらどこまでも自分のことを、俺らのことを誇らしく思ってくれていた、その人。その、声質。
「アー……」
 無性に愛おしさが込み上げてきた。どこまでもこの人は変わらない。というか、高校のころまでに作り上げた人間性が、その先の人生でどれだけ変わるのかという話。上辺はいくらでも取り繕えるが、根本は変わらないだろう。ただの後輩と、ちょっと怖い先輩。曰く自慢の後輩と、尊敬している先輩。そのあと居候という要素が加わって、一日一回のキスを許されるところまできた。
 そして、この人は、平然と俺のことを優先する。大学生で、さっきの女子に限らず付き合いだってあるだろうに。俺が言うのもなんだが、大学にちゃんとトモダチいます? あんたのその性格じゃ、とりあえずで群がってくるような奴もおらんでしょ? 頼んでもない迎えなんやから、突っぱねても良いのに。……そんなんされたらされたでダダこねそやな。角名の言うてたみたいに「捨てないで」てわざとらしく喚いたかも。いや、そこまではしない、してたまるか。帰りましょ、帰りましょうよおて手を引く程度。どっちにしろ、人目を引くな。
 侑、と。名前を呼ばれた。いつの間にか、北さんは俺のそばにいる。上目遣い、というのか、見上げられている、というのか。くっきりとした二重の下、大きな瞳に自分が映る。思ったより、情けない顔してないな。むしろ無表情に近い。
 なんかあったん。また北さんの声がする。もしかして、何かあったからここまで来たのでは。そんな思考が滲んできた。安心してや、なんもない。ただ、俺が寂しかっただけ。北さんがいない状況に耐えられなくなっただけ。
 おかしいな、朝早いからって起きたらもう北さんがいない、というのは平気なのに。帰ってくるのが遅い、思ってた以上に遅い、というのは堪える。いてもたってもいられなくなるくらいに、しんどい。これで彼女云々の不安がなかったら、もうちょい落ち着いていられたんやろか。
 この、関係を、はっきりさせたい。なあ、恋人になってください。好きなんです、こんなふうに思うなんて、好き以外に説明しようないでしょ。ちゅーしたいだけやない、一緒にいたいんです。置いていかれたくないんです。いやちがう、置いていきたくないんです。置いてかれんのはいい、追いつけばええもん。でも、あんたのこと置いてったら、そのまま追いかけきてはくれないかもしれないでしょ。来てや、一緒に。そばにいて。隣におって。
「あつむ?」
 角の取れた音がした。つ、と袖口を引かれた。愛しい顔が、俯いた俺を覗き込んだ。
 あ、約束、破ってしまう。
 ――過ぎったときにはもう遅い。
 右手の指先が頬に触れた。手のひらのくぼみは、その曲線に沿って形を整える。親指の爪先は、薄く色づいた下唇を捉えた。
 ふに、り。ひどく優しい感触がした。
「なに、して」
「キスしました」
「ここどこやと」
「外、すね」
「……前言うたよな、外でしたら」
「家から追い出す、でしょ」
 ちゃんと覚えてます。ついに破ってしまうなと、思いました。それでも止まらなかったんです。止めたくなかったんです。
 触れていたのはほんの一瞬。けれど、確かに重なった。柔らかく沈んだ。その感触の心地よさ、ちゃんと味わいました。あぁ、これで終わりか。追い出されたらどうしよ、北さんのことやからほんまに追い出すよな。いや、一週間くらいの猶予はくれそう。その間に家見つけろ、て。はーもー優しいんやから。
 でもこれで終わり。もっとやりたかった。し、すでにもう一回やりたくなっている。どうせやれなくなるのなら、二回三回とやってしまおうか。……北さんこと、困らせたくないな、我慢しよ。やめとこ。
 す、と頬から手を離す。と、遠ざかっていた雑踏が戻ってきた。たった今のやりとりに、さて何人が気づいたろう。ゼロではあるまい。ぱたんと瞼を閉じた途端、あちこちから囁く声がするから。今の見た、なにあれ、ここでやんなよ、邪魔、どっちも男じゃね、マジで、はじめてみた。見せもんとちゃうぞ、コラ。そう言って追い払いたい気もするが、すぐにその声は離れていく。
「それでも、今。キスしたかったんです」
 眼前にいるその人にだけ届く音量で、ぽつり、零した。あんたがキスしたそうな顔してたとか、あんなことされたらキスするしかないとか、理由を北さんに押し付けることはできない。俺が、北さんに、キスしたいと思ったから。外にいる、人目につく、そんなの知らんと蹴り飛ばして、キスをしたくなった。なぜって、あんたが愛おしくなったから。
 ただキスをしたいなんて好奇心ではない。
「あんたのこと、――好きなんです」
 この誠意、どこまで届くだろうか。約束を破った時点で、誠意として認めてくれないような気がする。気がするなんて曖昧なものではないか、間違いなく、認めてくれない。北さんの性格と信条思ったら、絶対無理。くそ、泣きそう。こんなんで泣きそうになるなんて思いもしなかった。バレーが絡んだって、そう出てくるもんじゃないのに。あのチームで、あの面子でコートに立てないと決まった直後すら、涙は零れなかった。叩き付けられた悔しさ、全部糧にして突っ走ってきた。そんな自分が、たった一人の男を相手に、こんなにも弱くなるなんて。……それこそ、考えもしなかった。
 ず、と鼻を啜った。閉じていた目を一層固く瞑って、滲みそうな涙を押し込んだ。過敏になった耳に、小さく息を吸う音が届いた。死刑宣告まで、あと何秒?
 細く息を押し出して、そろり、瞼を開いた。
 たちまち、視線がかち合う。真っ直ぐで、突き刺さるソレ。高校の頃、心底苦手だった、目。ここ半年を過ごして、もう怖くなくなったと思っていたが、それは思い違いだったらしい。
 空気の減った肺が、いっそう小さく押し潰されていく。
「それは」
 薄い唇が、酷に動く。
「その好意は、お前の将来に必要なん?」
「え、」
「今、必要だとしても。その先、三年後、五年後、十年後、……今したことを、後悔する可能性は?」
 ゼロではない。むしろ、高い。疑問符で終わった後に続く言葉が、ふっと浮かぶ。否が応とも顔が強張った。そんなことないと否定したいのに、できない。
 まあ、お前のことやから、後悔よりかは不要な経験値て扱い方になるのかもな。ふ、と吐息だけで笑ってから、北さんは付け足す。知らんでも困らんどころか、自分の成長には特段影響しない経験。影響しないということを学ぶための経験値と言うべきもの。北さん曰くの、不要な経験値。この好意は、不要? あまりにもバレーに傾倒しすぎたせいで、判断ができない。おそらく尊敬は許される。でも、恋慕は抱いてはいけない、と。
「お前がいちばん欲しい「結果」を得ようとするんなら」
 ぐるぐると思考を混乱させているうちに、北さんは次の情報を放ってくる。ちょっと待ってください、俺に考える間、くれませんか。一言物申そうと口を開くが、やけに乾いて音が出てこない。
 俺の欲しい「結果」。龍神を背負って、その司令塔として、世界の頂点を掴むこと。てっぺんに、居続ける、こと。

 その好意は不要やろ。

 頭を殴られた。重たい鈍器で、ガツンと。そんな心地。言葉の暴力とはよく言ったもんだ。物理的に与えられるダメージと、限りなく近い衝撃を与えてくれる。
 はくり、やはり声が出ない口を動かすと、ぶん殴ってきたその人は踵を返した。 
「帰るで。……次はないからな」
 その素振りに、先ほどまでの上機嫌さはない。だが、ずいぶんと見覚えのある背中だった。しゃんと背筋は伸びていて、目付きは「凛」という漢字をあてるのがふさわしい。
 家、追い出されんだけマシなんかな。ぼんやりと、頭の片隅に浮かぶ。
「……はい」
 ようやく舌に乗ったのは、消え入りそうな二文字だった。