真夏
ただいま、と言えば、おかえりと大抵帰ってくる生活。
それは、盆明けからも変わらない。実家に帰って、治と軽く喧嘩して、おかんに「迷惑かけてないか」と注意され、「迷惑かけてないわけない」と治に鼻で笑われ、また軽く喧嘩して。そんで大都会・トーキョーに帰った日も、同じだった。ただいま、おかえり。半年足らずですっかり耳に馴染んだ音が飛び込んでくる。
『エッ』
……正直、予想外だった。なんであんたがここにいる。敬語も礼儀もブン投げて口を滑らせなかったコト、誰か褒めて欲しい。
そりゃあ帰省する日は揃えた。だが、帰ってくる日まで一緒だと思わなかったのだ。なんならこの人よりも自分が先に東京に戻ると思っていた。なぜかって、俺にはバレーが、部活の練習があるから。けれど、北さんにそれはない。とすれば、俺みたいに二日三日の帰省ではなく、もっとゆっくりしてくるはず。
今回は、俺が先に帰って、あとから北さんが帰ってくる。そうに違いない。じゃあ、俺があの人に「おかえり」というチャンスもやってくるのでは? ちょっとびっくりした顔して、「ただいま」っていう北さんの顔、見れるかもしれない。
期待していたのに。めっちゃわくわくして帰ってきたのに。
どうして「おかえり」と聞こえてくるんだ。
『……いつ帰ってきたんですか』
『今朝。朝いちばん、ではないけど、まあ昼前にはついたな』
『なら言うてくださいよ、したら一緒ので帰ったのに』
『……もっとゆっくりしてくるもんと思てたから』
『それこっちの台詞ですて。北さんこそ、のんびりしてきたら良かったのに』
『俺はバイトあるからな』
『俺だって練習あるんですぅ』
自主練ですけど。
盆明け数日は自主練期間で、参加は絶対ではない。先月の終わり頃だったか、北さんにそう言ったのは覚えている。北さんもその俺の言葉を覚えていて、だからこそ「自主練期間なら、東京じゃなく地元で過ごすのだろう」と考えたらしい。いやいや、考えてもみてください、体育館でボール触って練習できるんですよ。そんな時間をこの俺がスルーするわけないでしょ。治を巻き込んで何か企んでるもんだと思っていた? アレとセットにするの、そろそろやめましょ。もう違うチームにおるんやし。
『……次からは、意思疎通、ちゃんとしましょうね』
『せやな、そうしよか』
約束するように提案すると、こくりと北さんは頷いた。これで次、おそらく正月の帰省はすれ違わずに済む。この調子だと、同じ日に帰って同じ日に戻ってくるということになりそうだ。北さんに「おかえり」って言う機会、あるんかな。俺が大学卒業するまでこの家住まわしてもらえるんなら、ないことはないと思うけど。
すい、と。いつの間にか立ち上がった北さんが、俺の横を抜けていった。行き先は台所。冷蔵庫を開けて、麦茶の入った容器を取り出す。まだ、色の薄い、ソレ。帰って来ていちばんに作ったのだろうが、まだ完全には出きってないらしい。
『なあ、麦茶、薄いのでもええ?』
俺が、先に帰ってきていたら、その台詞も言えたんかな。
返事を待たずに、北さんはガラスのコップに注ぎだした。氷はなし。それこそ、作っている最中なのかも。
『北さん』
『どした』
俺な、言いたかったんですよ。めちゃくちゃ。絶対言えるわ、って確信もしてたんですよ。鞄も下ろさずに、北さんの横に立った。
二つのコップは、早くも水滴を纏いはじめる。
『……おかえり』
ひらがな四文字、四つの音を舌に乗せた。明らかに帰ってきたのは俺のほう。でも北さんだって、今日この家に帰ってきたんでしょ。だったら言うてもええやんか。おかえり、て。
俺にしては小さい声。けれど、北さんの耳にはちゃんと届いたらしい。
まあるく、その目が見開かれた。さらには顔面に「まさか、お前に言われる日が来るとは」と浮かび上がる。そう、その顔が見たかった。できれば、もっと驚きの純度が高い顔が良かったけれど、こうなってしまっては仕方あるまい。
いつも「おかえり」と言うのは北さんのほう。「おかえり」と言われたこと、きっとない。少なくとも、俺は一度も言ったことがない。あいさつはちゃんとすること、と言っている北さんに、俺が唯一言えずにいた言葉。それが、「おかえり」だ。
イマサラ感は拭えない。あとから帰ってきた奴が、何アホなこと言うとるん。そう言われるのも覚悟の上。それでも、言いたかったのだ。
ぱちり、見開かれた目が、瞬いた。返事は、まだない。あいさつはちゃんとせえって言うてたやん、変なタイミングになってしまいましたけど、「おかえり」言うたんですから「ただいま」て返してくださいよ。
必死にその目を見つめ返すが、二度目の瞬きをされるだけ。……だんだんに、居心地が悪くなってきた。本当に、ねえ、なんか言うてください。びっくりする以外の反応をください。こんなに念じているのに、またもや瞬きではぐらかされる。
あかん、心折れそう。
じぃっと見つめてくる視線に耐えられなくなって、ふい、目を逸らした。
途端、ふ、と息を吐く音。笑みを孕んだ、吐息の音。
『ただいま』
外、暑かったやろ。お茶でも飲んで休み。そしたら、ちゃんと、その荷物片付けや。
これを言ったのがおかんだったら、きっと後ろの小言だけ聞いて捻くれた返事をしていたことだろう。だがどういうことか、北さんに言われたとなると、胸のうちがほっこりとあたたかくなる。外からはミンミンと蝉がやかましく鳴いているし、さんさんと降り注ぐ日差しは強すぎて頭がクラクラしてくる。そんな鬱陶しい熱とは、まったく違う、心地よさ。
なんで北さん相手にしたら、こんなんなるんやろ。世話んなってるから? 胃袋がっちりつかまれとるから?
首筋に汗が伝う感触を味わいながら、薄い麦茶を受け取った。
それが、つい、三日前のこと。
ガラッと玄関を開けた。これが昼間なら、直接日があたらないというだけで天国に思える。けれど日が沈んだ今はどこも同じだ。むしっと暑い。朝も夜も関係なく暑い。窓を開けようと、熱中症の危険指数は下がる余地なし。とにかく、暑い。
手洗い、うがい、と思いながらも、真っ先に居間の襖を開いた。
「あぁあ涼しい!」
「おう、おかえり」
「ただいま! 今日のお夕飯なんですか!」
「焼き茄子。あと鶏肉焼いたやつ」
「辛味噌の!?」
「それ」
「ィヨッシャァア!」
「ほら、手ぇ洗って来い」
「ハァイ!」
まるで小学生。暑さのあまり、脳みそがアホになっている。試合中じゃあるまいし、少し、落ち着け。言い聞かせはするものの、鶏肉の香ばしい匂いを嗅いでるとふわふわと浮足立ってしまう。
盗み見るようにちゃぶ台に目を向けると、タレの絡んだ鶏肉がつやつやと輝いていた。下に敷いているのは、千切りキャベツと薄くスライスされたキュウリ。隣の皿にはもっふりと鰹節がかかった焼き茄子が置いてあって、よくあるステンレスのボウルには大きく切られたトマトが入っている。
並んでいる夏野菜の多くは、一昨日北さんの実家から送られてきたものだ。それも、北さんのばあちゃん直筆の手紙付きで。「侑くんと仲良くな」という一文で締めくくられていた。えへへ、仲良くですって。緩んだ顔をしてそう言えば、小学生かと一蹴された。
居間の隅に鞄を置いて、洗面台に近いほうの襖を開けた。
「あっづぁ……」
むっとした、夏の熱気が纏わりついて来る。一階でこれじゃあ、二階の自室はどうなっていることやら。考えるまでもないか、昨日も一昨日も、その前の日も、今日が命日になるのではないかというくらいに暑かったのだから。どうしてこの家には居間にしかクーラーがないのだろう。これまで必要に迫られなかったからか。そうか。
手を洗い、ついでに顔を洗い、べたつく首も拭ってしまう。ああ、すっきりした。ほぅっと息を吐くが、そのそばから汗は滲み出てくる。
今日こそ、二階のあの部屋で寝たら死ぬのではないだろうか。窓を開けたって涼風が吹き込んでくることはない。この暑さじゃ、扇風機を回したって逆効果。むしろ、梅雨明けから今まで、よく干からびずに過ごせたものだ。いつ熱中症で死んだっておかしくない気温だというのに。
北さんは、暑くないのだろうか。廊下を引き返して居間に入ると、きちんと正座して俺を待ってくれていた。その顔は、涼しげ。汗の気配もない。いや、飯作ってる最中はそれなりに暑いはず。台所はそこまで日が当たらないとはいえ、冷房の風が届くわけではない。ガスコンロだし、冷蔵庫もあるし。
後ろ手で襖を閉め、定位置となった水色の座布団の上に膝をつく。いつもなら、座るか否かというタイミングで箸を持ち、イタダキマスと叫んでいるところ。
けれど今日は、膝立ちのまま北さんを見つめてしまった。
涼やかさを携えた顔が、こちらを向く。目が、合う。いただきますを言おうと合掌したその人と、視線が交わる。
「どうした?」
「北さんって、暑いの平気な人ですっけ」
「平気……?」
唐突にお前は何を言い出すんだ。北さんの眉間に、小さな皺ができる。微かな不審も滲んだ。
「普通やと、思う」
「バテたりとか」
「あんまない。……お前も夏バテとは無縁そうやな」
「飯食わんかったらバレーできんようなってしまいますからね」
おずおずと座ると、訝しむ視線もついてくる。あの侑が、まだ箸を持っていないなんて。そんな副音声が聞こえてきそうだ。
俺だって、いつもいつもがっついて飯を食うわけじゃない。かといって、品良く飯を食っているわけでもないが。この家にいるのは俺と北さんの二人だけ。毎日のようにおかずを取り合ってきた片割れはいない。落ち着いて食ったって、困ることはなにもないのだ。にもかかわらず、あれこれと慌ただしく口に詰めてしまう。
……それもこれも、北さんの作る飯がウマいせいだ。うわ、これウマい。ワッこっちもウマい。そうやってもづもづと頬張り咀嚼し、飲み込んだそばから次を頬袋に詰め込んでしまう。めっちゃウマい。そりゃあ、一緒に住んでいる贔屓目もあるのかもしれない。野菜の切り方はスライサーを出さないかぎり大雑把だし、味付けだって豪快なことはしょっちゅうだ。それでも、ウマいもんはウマいと思ってしまう。だってウマいもん。
今日の飯もウマそうだ。特に辛味噌で焼いた鶏肉は「また食いたい」とリクエストしたもの。あったかいうちに、いちばんウマいうちに、食いたい。
かちゃりと箸を持って、両手を合わせた。いただきます。落ち着いて言ったの、いつぶりだろう。後を追うように北さんも呟き、箸が味噌汁の椀に浸かった。
どんなに暑くても、熱い味噌汁を嫌に思うことはない。むしろないと物足りないくらい。なんでやろ。ウマいからか。冷房の効いた部屋にいるせいもあるのかもしれない。
本当に、居間は涼しい。極力、この空間で過ごしたい。灼熱地獄としか思えないあの部屋には、行きたくない。いっそここで寝てしまおうか。布団を取りに行く数分さえ耐えればいいのだし。冷房の効いた居間でおやすみ。ええなあ。けど、家主を差し置いてそんなことしたらまずい気もする。
ず、と味噌汁を飲んだ。
「で?」
「んぇ?」
それから大ぶりなわかめを啜る。明らかに一口大ではないサイズ。やはり、北さんの包丁捌きは雑だ。
目線を飯からもたげると、その人は小さく一口、飯を口に入れたところだった。何度か噛んで、こくん、喉仏が上下する。食べているときは喋らない。品が良いというか、育ちが良いというか。本当にこの人は、綺麗な食べ方をする。
ハンバーガーとか、食ったことあるんかな。今度、一緒行ってみたい。マクドとか、モスとか。モスのほうがいいかもしれない。このちっちゃい口を目一杯大きく開けるとこ、見られるだろうし。
「今度は何企んでるん?」
「企むて! メッソーもない!」
「なら滅相もないて顔して言え」
あれ、顔に出てたか。
誤魔化しも兼ねてへらっと笑えば、さらに胡散臭いとねめつけられた。企むなんて、仰々しいことはしていない。北さんのこと、考えてただけですよ。ジャンクフード好きじゃなさそうとか、料理の雑さは男っぽいとか。
涼しいとこで寝たいけど、居候の俺だけ居間で寝るのもなあ、とか。
前二つはさておき、三つ目はお互いにとっても大切なことと思う。夏バテしなくたって、暑さにそこそこ耐性があったって、近頃のイジョーキショー様の前じゃレベル5でラスボスに挑むようなもの。防具ナシで溶岩島の覇竜に挑むようなもの。……後者は角名がやってたな、あいつの唐突な縛りプレイなんなんやろ。ドMか。
少なくとも俺はそんな性癖持ち合わせていない。し、北さんもたぶんそう。心頭滅却すればなんとやら? 現代っ子にそんなん適用されるわけないやろ。
行儀悪く、箸先で宙に小さな円を描く。一つ、二つ、重ねて描いたところで、北さんと目を合わせた。
「夏の間だけでも、居間で寝れんかなあって」
ぱちくり、と。北さんは真顔のまま瞬きをする。驚いてというよりは、思考をまとめるため。毎日毎日顔を合わせているおかげもあって、この仏頂面にも怯まなくなってきた。小言を言おうとしているのか、単に考え事をしているだけかの区別もつく。何を言われるのかとビビって、いちいち背筋を伸ばすことも減った。
言葉を待つ間にトマトを口に放り込んだ。
「二階、そんな暑いん?」
「一回寝てみます? 干からびますよ」
「まだ未練あるからやめとくわ」
「ふふ、そーしてください。つか北さん部屋は? 暑くないんですか」
「んー……、耐えれんほどでもないな」
「ほんまに? 実は苦行並とか言いませんよね」
「真冬の滝行よりはマシやろ」
「罰ゲームやん!?」
「熱湯風呂よりもキツくないと思う」
さっきから比べるものがおかしくないか。俺が苦行と言ってしまったから乗っかってくれたのかもしれないが、それにしたって真冬の滝行と熱湯風呂って。あまりにも両極端。涼しい顔してはいるけれど、その実、暑さに頭がやられてしまったのではないだろうか。
もう一つトマトを放り込むと、北さんの箸先も伸びきた。一口でぱくりと食べられるサイズ。けれど、半分かじって少し噛んでから、残りを食べる。その動作に、疲労感はない。どこまでもいつもどおり。見慣れた動き。頭がおかしくなっているとは思えない。というか、おかしくなっていたらこんなふうに晩飯を作ってはくれないはず。
そっと息を吐いてから、窺うように口を開いた。
「暑いは暑いんですよね」
「そら夏やしな」
「俺もですね、ここ二、三日、暑くて死にそうなんですよ」
「ソレ、さっきも聞いたわ」
「そこで提案です」
「ここで寝たいて?」
「熱中症で死んでしまうよりええと思いません?」
北さんだって、嫌でしょ、俺が起きてこないと思ったら二階でくたばってた、なんて。俺も嫌です。逆パターンも遠慮したいところ。
この真昼の猛暑と熱帯夜を生きて乗り切るには、クーラーの力を頼るのが一番。むしろこのご時世、頼っていない家のほうが少ないと思う。涼しいところで、布団並べて、命の危機に怯えることなくひと夏を過ごしましょ。過ごさせてください。電気代がかかるっていうなら、俺もバイトするんで。夏休みやし、なんかあるやろ、短期バイトとか。
「どうでしょ」
「ええよ」
「……へ?」
「なんやその顔、涼しいとこで寝たいんやろ」
「そ、ですけど。電気代とか言われるかなて」
「死ぬより高いもんないわ。……ええよ、好きに使て」
ふ、と、北さんの唇が弧を描いた。どきりと心臓が弾む。箸で摘まんだ鶏肉は、ぼたっと茶碗に落ちた。ぴかぴかゴハンの上に着地、じわ、と味噌ダレの色が飯にうつる。
今度は、こっちが目を瞬かせる番。こんなりすんなり「ええよ」と言われるとは思わなかった。代わりにアレしろコレしろ言われると思ったのだが、拍子抜けだ。
そういえば、風邪を引いたとき、それから治った頃に言われたな。悪くなる前に言え、と。大事になったらアカンから、と。ありがとうおかん! ふざけて言うて頭はたかれたなあ。なんやかんや、北さんは俺の体調に気を使ってくれる。曰く、預かったからには責任もって世話せなアカン、と。俺は橋の下から拾ってきた犬猫ですか。
本当に北さんは人が良い。おかんや治に色々頼まれたからって、忠実にやらなくても構わないだろうに。ちゃんと、してる。
「じゃあきまりですね!」
落ち着かなさを吹き飛ばしたくて、わざとパキッと、溌剌に言い放った。
◆◇◆◆
やはり二階は暑く、そして息苦しかった。少しでも和らげたくて窓を開けてみたものの、効果はゼロ。文字通り無駄な足掻きで終わった。あんなところで寝たら、今日こそ息を引き取ったに違いない。
トットット、と布団を抱えながら階段を下る。なかなかの急勾配、四月の頃だったら絶対に足を踏み外していたことだろう。あれから四か月半。目をつぶっても動ける、という域には至っていないが、大分この家にも慣れてきた。薄暗い廊下も不安なく歩ける。
居間の前まで来たところで、足先を襖に引っ掛けた。足で開けるなんて、はしたない? 手がふさがってるんやからしゃーないやん。
少し屈みながら敷居をまたいで、ちらりとクーラーを見やった。どの辺がいちばん涼しいだろうか。ストーブと違って、真ん前より少し離れたところのほうが冷気が当たる。どのへんがええかな。いつもちゃぶ台おいてるあたりか、いやそれより北さんの部屋寄りのがええかな。つか、北さんにも聞かな。冷気独り占めすな、て怒られたら堪らん。
とりあえず、居間の隅に布団を置いた。
「北さあん、布団どこ敷いたらええ?」
それからくるり、入ってきたほうを振り返る。開けっ放しの襖、二階よりはマシだが居間よりはムッとする廊下、その先にある台所。そこまで視界に収めたところで、冷蔵庫を開けた北さんと目が合った。手には一リットルのピッチャー。まだ中身は透明で、上のほうに麦茶のパックが浮いている。
「好きなとこに敷いたらええやん」
「そんなこと言うたら冷気独り占めしますよ」
にやりと言えば、北さんは首を傾げた。ピッチャーを冷蔵庫にしまいながら、頭上に疑問符を浮かべる。あれ、北さんて冷房の風、苦手な人でしたっけ。聞いてませんよ、俺。そういうことなら、遠慮なくいちばん涼しいところに布団敷きますけど。
ばたんと閉まる音に続いて、素足がひたりと床を擦る。途中でカチン、台所の灯りのスイッチが押されて、ひたりひたひた、また歩く音。濡れているせいで、いつもにもましてつるんと丸い頭が傍にやってきた。この家にドライヤーはない。買う予定も、ないらしい。それならせめて拭いたらどうですか、俺はちゃんと拭きましたよ。まだ毛先のほう、濡れてますけど。
「侑」
「はい」
「俺、ここで寝ぇへんよ」
そう言うと、ついと北さんは俺から視線をうつした。そのまま自室に向かっていく。通り過ぎる際、ふわりとシャンプーの匂いが掠めた。するとくらり、頭が揺れる。ぽたり、揺れる視界に垂れる雫を捉えた。襟足から落ちたものだ。その雫は床に落ちることなく、肩にかかったタオルに吸い込まれる。
深爪気味の手が、襖にかかった。
あれ、このまま行ったら、北さん居間で寝ぇへんのとちゃう? まさに今、言うてたやろ、「俺、ここで寝ぇへんよ」て。それでええの。ええわけあるかい。なんで居間で寝るって、熱中症なりたくないからやろ。それは俺のことでもあるし、北さんのことでもある。あかんて、そっちの部屋、暑いでしょ。何考えてるんですか。
咄嗟に、腕が伸びた。
「ッは?」
ガッと肩を掴んで、強引にこちらを振り向かせた。その衝撃もあってか、襖は三センチばかり開いている。かといって、熱気が流れ込んでくる感じはしない。逆に、こちらの冷気が向こうに入り込んでいるのかも。
「なんやねん」
「え、と」
「俺んことやったら気にせんでええよ、冷房の、ああいう風、苦手なだけやし」
あ、そうやったんですか。初耳でしたわ。なら、俺この辺の、いちばん風当たるとこに布団敷きますね。
と、手放しに喜ぶほど、俺はアホやない。
「いや、いやいやいや、」
「いやいやうっさいわ、離し」
「嫌です」
北さん、なあ北さん。あんたなに言うてんの。明らかに居間で寝る流れやったやろ。
ちゃぶ台も座布団も寄せてある。棚はあるけど、最初から壁際。布団を二組並べるくらいなんてことはない。冷房の風がキライというんなら、直接当たらんとこに寝たらええやん。わざわざ蒸し暑い部屋に籠る意味がわからない。そうやって何を極めようとしているんですか、死ぬかもしれない暑さを我慢した先に何があるんですか。極楽浄土に行くとでも? 齢二十にして行くとこじゃあない。
「クーラー効いてる部屋が隣にあるんですよ、なんでそっち行くん!?」
「言うたやん、冷房の風苦手て」
「そんなん言うたかて絶対こっちのが快適ですよ!?」
「寒い」
「女子かッ!? いや、この際どーでもええわ、居間で寝ましょおよお」
「お前はそうしたらええ。けど、俺は、」
「アカンッ」
「なんでや」
なんで、だと。
はくり、ぱくり、餌を待つ鯉のように口だけが開閉する。確かにこの世に冷房の風が苦手という新人類が存在することは知っている。うちのおかんもそうやし。けど、イコール暑いところで平気というわけではない。暑いは暑いのだ。なら北さんも同じはず。昨日どうにかなったから、一昨日平気だったから、今日も大丈夫という保証はない。むしろ、体力を蝕んでいる分、今日のほうが危ないのではないか。
冷房が、苦手。ああそうですか、それはそれ、これはこれ。死んだら元も子もない。今日からしばらく、まさに熱帯夜の時期の間は我慢してください。万が一が起きたら、どないせえて。
「俺起きたら北さん死んでるとか堪らんもん!」
「勝手に殺すなや」
「死ぬ前、最後に顔合わせるんが俺でええの!?」
「せやから殺すな」
がっしりと、北さんの両肩を掴んだ。部屋に行くなんて、言わないでくれ。もし行くと言うのなら、居間との境の襖、開けっ放しにしてほしい。冷房の効率が下がる? 知るかそんなん。
「死ぬまでいかんとしてもですよ、熱中症で具合悪なったら」
「ならん」
「とは限りません」
俺は既に二階で命の危機に瀕しているというのに、北さんは経験していないのだろうか。寝ながら足が攣るとか、枕元にスポドリ置いといて良かったと心底思うとか。多少一階のほうが涼しいとはいえ、まったくないわけがない。
考えただけでゾッとする。俺が走りに外に出るころ起きてくるはずの北さんが、まだ部屋から出てこなくて。いつものコース走って帰って来てなお、いない。そろそろと襖を開けると布団に膨らみ。勝手にどっか行ってしまったわけやなかった、よかったと安心するのも束の間で、どん底に突き落とされるなんて。
「一緒に寝ましょうよお……」
折角冷房つけるんだから。
嫌なことを考えたせいか、やけに口調が幼くなってしまった。情けない、とも言う。俺をよく知っている連中が聞いたら、明日は雹が降る雪が降る、いやいや槍が降ると騒ぎ出すに違いない。俺だって終始強気で生きてるわけとちゃうからな。たまには凹むことくらいあるわ。
ぱたん、北さんの目が伏せられた。それから一つ、ため息の吐く音。うっすらと開いた唇は、そのまま声を出した。
「侑、手、離し」
「そのまま部屋に引きこもりません?」
「布団、取ってくるくらいさせえや。それとも、」
すぐに瞼は持ち上がる。よく威圧感を放ってくる瞳に、自分の意気地のない顔が映り込んだ。ワ、ひどい顔。
「――布団も一緒がええの?」
うわあ、ひどい、顔。
絶対に顔、真っ赤になった。賭けても良い。それくらい、顔が熱くなった。冷房の効きが、一瞬で落ちたかのよう。
「そんなことッ」
「俺も布団まで一緒は嫌や」
ほら、離し。淡々とした言葉を浴びせられ、ふらりとよろめきながら手を離した。すぐに北さんは襖を開けて布団を取り出しに行く。
ぺたり、左手で頬を押さえた。ぴとり、右手は額に当てる。どっと汗が噴き出した感触は、錯覚ではあるまい。居間の冷えた空気を目一杯取り込んでみるが、すぐに顔の冷却には至らない。いっそ、冷気が直接当たる位置に立っていようか。いや、それなら冷凍庫から保冷剤を持ち出してくるほうが早く冷やせる。
力が、抜けた。北さんでも、あんな冗談言うんやな。俺、ほんまに小学生の子どもと思われてんのとちゃうやろか。ガキやないもん! ってムキになるちびっ子と同レベル。悔しい、もっと色んなことできるわ。大人っぽいこと、できますから。
例えばと聞かれると、なんやろなと思ってしまうのが、我ながら情けない。
「……なにしてん、はよ布団敷け」
「はーあーい」
すぐに布団を持って戻ってきた北さんは、先ほど俺がやったように、足で襖を閉めた。北さんでも、そういうことするんやな。俺をあんなふうにからかってくるくらいなんやから、それくらいはしてもおかしくないか。
顔の火照りそのままに、ゆっくり立ち上がった。この辺に敷いて良いですか。もっとそっち寄れ、風当たってしまう。ほんまに冷房嫌いなんですねぇ、北さん肉ないからなあ。落ちた筋肉はそう簡単に帰って来んからな、覚悟しとき。ちょこちょこと会話をしても、ポッと灯った熱は下がらない。一緒の布団。その五文字が、脳みそにびったりとくっついてしまったせいだ。
一緒の布団。
いっしょの布団。
「電気消しますよ」
「ん、おやすみ」
「おやすみなさい」
カチン、カチンと紐を二回引っ張った。オレンジ色の電球がぼんやり残ったところで、俺も横になる。瞼を閉じれば、クーラーの稼働音がよく聞こえた。
いっしょのふとん。
また顔が熱くなってきた。飯を食っていたときよりも、少しだけ設定温度を高くしているが、そのままで良かったかもしれない。どうせ冷気を浴びるのはほぼ俺なのだし。けれど、いまさらリモコンをいじったら、「これ以上冷やすのか」と北さんに睨まれそう。二階の部屋で寝るよりは、ずっと涼しいんやし、我慢、我慢。
寝返りを打って、細く瞼を開けた。見えるのは北さんの後頭部、それも上のほうだけ。下半分はタオルケットを被ってしまっている。この調子だと、足先もキッチリ被っているのだろう。冷房の風、ほんまに嫌なんやな。これでしんどいんやったら、スーパーの野菜売り場とか地獄やない? めっちゃ震えてそう。夏の暑いうちについてったら見れるかな。よっしゃ、ついってたろ、そうしよお。
いっしょの、ふとん。
アカン、目ぇ冴えて来た。それほどまでに一緒の布団のダメージがでかい。北さん、お願いです。俺のこと、誑かさないでください。存外俺はピュアみたいなんで。北さんと一緒の布団と考えるだけで、頭がくらくらしてくる。寝転がっているのに、眩暈がする。
でも、北さん、一緒は嫌やて言うてたな。嫌なんか。ちょっと、ショック。俺は別に、構わんのやけど。
……待て待て待て、なんで俺北さんと一緒の布団で構わんの。野郎同士が一組の布団で一緒に寝たら狭くて堪らんわ。違う、そこじゃない、狭い広いじゃない。違和感なく、気色悪いと思うことすらなく、一緒の布団に入ってるとこ想像できるてどういうこと。北さんこと、ほんまにおかんと思ってるん? まさか。つか、この年になっておかんと寝たいて思わんわ。
北さんと、一緒の、布団。
ええ、どないしよ、嫌やない。むしろ、これは、その。
「ッ、」
やめよ、これ以上、考えるのはまずい。開けたらアカン扉、開いてしまう。俺はノーマル俺はノーマル。
そう、言い聞かせながらも、北さんから目を逸らせない。じいっと、その後ろ姿を見つめてしまう。髪はまだ濡れている。タオルケットの下にある襟足も、しっとりと水気を含んでいることだろう。その奥のうなじは、さらりとなめらかだ。きっと汗を纏うことなく、清らかなまま、そこにある。
唾を、ごくり、飲み込んだ。
「侑」
「ッヘァっはい!?」
びくり、自分の体が大きく揺れる。周りが静かだったせいもあり、やけに返事が大きく響いた。まずい、まさか心の中を読まれてたのでは。これまで何度も心中を見透かされてきた。今回だって、ありえないことではない。何アホなこと考えてるん、ホームシックで人肌恋しくなったか。そう言われる、近い未来。数分、数秒後。
体が強張った。
「……見すぎや、はよ寝ろ」
きまり悪そうな、か細い、声。構えていたのとは、まったく違う内容。
呆けていると、きゅうと北さんは体を縮めた。足を折りたたんで、背中を丸くする。
「き、たさん」
口から零れた。寝ろと言われたのだし、寝たほうが良い。そんなのわかっている。けれど、呼びかけずにいられなかった。
北さん、なんですか、その声、仕草。俺がガン見していることを諫めようというのなら、普段通りの淡々とした声のほうが響く。体を丸める必要だってない。諫言なら、凛とした態度で言ってくれ。そんな態度じゃ、別物に思えてしまう。
俺の視線に気づいて、じぃっと向けられるソレに、照れた、みたいな。そんな素振りに、思えてしまう。
やっぱりクーラーの温度、変えなければ良かった。もしくは下げるくらいでちょうど良かった気もする。あまりにも暑くて、熱くて、寝られる気がしない。カッカ、カッカと、顔が発火しそう。心臓も喧しい。足先から頭のてっぺんまで、熱い血がぎゅるぎゅると巡る。
「なあ、北さん」
そっと、布団から起き上がった。静かに、北さんに手を伸ばす。手だけじゃないか、膝をついてずりずりと身体ごと移動している。一メートルと十数センチあった距離は、すぐに縮まった。右手が、北さんの頭の横に沈む。左手は、すっぽりと体を覆っているタオルケットを掴んだ。
僅かな抵抗を感じる。なにすんねん、風に当たりたくないて言うたやろ、ええからお前もはよ寝ろ。頭の中に、靄がかかりながら響く。いつもの北さんだったら、こういうことを言いそうだな、という妄想として鳴っている。けれど、目の前にいるその人が何かを喋る気配はない。丸まって、だんまりを決めて、迫ってくる俺を必死に意識の外に追いやっている。
「なあ、」
もう一度、呼びかけた。すると、じり、その人が動く。三秒数えたところで、タオルケットの端から顔を出した。といっても、目の辺りだけ。鼻から下はふわりとしたタオル生地を被っている。
薄暗い中、その人の目が俺を捉えた。見慣れた、くっきりと開かれた目付きではない。おそるおそる、と修飾されそうな動作。この人も、こんなふうに萎縮することがあるのか。
可愛い。漠然と、そう思った。その可愛い顔、できれば全部見たい。隠れているところも、見せてほしい。ぼんやりと視線を絡めながら、くんっと左手を引いた。
空調の音をBGMにして口元まで現れる。厚くはない、むしろ薄い唇。目を奪われていると、ふるり、その唇が震えた。緊張している? それとも恐怖しているか。あるいは、期待、とか。
期待だったら、どうしよう。
「ぁ、つむ、」
ああ、もう期待にしか思えない。ぐっと距離を詰めると、一瞬だけ北さんはたじろいだ。目線も、ゆらり、左右へ泳ぐ。こっち見てください、目の前にこんな良い男がおるんですよ。顔的にはせいぜい中の上かもしれんけど、バレーのセッターやらせたら右に出る奴はそうおらん。飽きさせん自信もありますから。
鼻先がぶつかった。これほど近づいたの、風邪を引いたときぶりだ。あのときも、鼻先がぶつかった。でも、目線はあのときと逆だ。俺がじぃっと見つめて、北さんが泳がせる。じれったい、早くこっちを見ろ。
「北さん」
「っぅ」
やっと、こっち見た。集中していないと、ピンボケしそうな距離。睫毛の一本一本まで、よく見える。……というのは誇張のしすぎか、明るいところだったらそこまで見えたのだろうけれど、オレンジの小玉電球じゃ瞳の形で精一杯。機会があったら、明るいところでこの顔を拝んでみたいものだ。
ふ、と、顔が緩んだ。
その瞬間、北さんが、目を瞑る。
これ知ってる。キス待ち顔、ってやつ。そんなんされたら、もうするしかないやん。ああもうなんなんこの人、可愛いがすぎる。
――唇を、重ねた。
「ん」
でも、足りない。睫毛が震えるのを間近に感じたって、鼻にかかった声を聞いたって、物足りなく思えてしまう。俺はこんなにも貪欲だったのか。俺が執着し続けるものなんて、バレーだけだと思っていたが、そうでもなかったらしい。でも北さんか、北さん。ダークホースやな。高校の頃の自分に言ったって、到底信じないだろう。
角度を変えながら押し付ける。圧を掛けては緩めて、またぎゅうと押し付けて、離して。その都度、健気に震えるのだから堪らない。煽ってんの。駆け引きなんてよお知らんから、流されてしまいますよ。
す、と引いたところで、北さんの口が開いた。息を吸おうとしたのだろう。開いたといっても、ほんの数ミリ。でも、それだけあれば十分。
すぐさま重ね直して、できたばかりの隙間から舌を捻じ込んだ。
「ンッ!」
再び、鼻にかかった声がする。鼓膜が震えたとたん、腹の底から熱が込み上げてきた。この人の一挙一動、すべてが心臓に突き刺さる。野郎の呻き声を聞いて、萎えるどころか昂るだなんて。開けたらアカンて思てたのになあ、完全に扉、開いてしまったわ。
名残惜しさを抱きながらも、押し付ける力を緩める。離れる寸前まで、もったりと唇がついてきた。唾液がついたせいなのか、単に北さんの唇が見た目よりふっくらしていたせいなのか。
はあ。どちらともなく零れた息は、じっとりと濡れて、熱を孕んでいた。
「なに、してん」
「……ちゅー、しました」
「なんで」
「したくなったから?」
「お前はそうでもこっちは」
したくない、って。そんなまさか。浅い呼吸をする北さんを見下ろしながら、首を傾げた。
「北さんも、ちゅーしたいて顔、してました」
「してへん」
「してましたよ」
「してへんわ」
「いやいや、してましたて」
「してへんて!」
「しーてまーしたあ」
なんなら確かめてみましょか。ぐ、っと離れたばかりの距離を詰めると、その人はぎゅうと目をつむった。ほら、そういう顔する。キスしたくないんやったら、俺のこと突き飛ばすでしょ。抵抗できないくらい、委縮しているって? だったら、涙の粒が零れるくらいするんとちゃうの。
ちゅーしてほしいって顔、してる。
べろ、と唇と舐めると、ひくんと肩が揺れた。一拍空けて、瞑っていた目がおそるおそる開く。不慣れが滲み出ていて、初心っぽくて、可愛い。おかしいな、俺の好みはこんなおぼこい子と違たはずなんやけど。大人の、なんでも知ってます~てお姉さんをでろっでろに懐柔させるのがいちばんクる。やらしい動画も、そんなんばっか見てしまうし。
……まあ、北さんも普段シュッとしてる。表情が崩れることも滅多にない。そんな人が、こうして俺の下で健気に震えているというのは、欲にクる。
もう一回、キスしたい。
再び、顔を近付けた。
「あかん!?」
「ムぐ」
だがしかし、三度目の正直というやつか、仏の顔も三度までというやつか、抵抗の手が入った。俺の唇を覆うように、北さんの手のひらが押し当てられている。
仕方なしに、縮めかけた距離を戻した。
「あかんて、」
「なんで、嫌なん?」
確認するように目を合わせると、ふいっと逸らされた。すんません、照れてるふうにしか見えないんですけれど、実際問題どうなんですか。
見つめ続けていれば、観念したのか北さんの視線が戻ってきた。交わる、絡む。また、ちゅーしたくなってきた。ここで顔近付けたらまずいよな。でも、キスしたい。
わずかに下唇を噛んで、欲を堪えた。
「……こういうんは、好き同士でするもんやろ」
俺らみたいな間柄で、するもんやない。蚊の鳴くような声で、北さんは言う。
俺ら、みたいな、とは。高校の部活の、先輩後輩。大学に入ってからは、家主と居候。これらは北さんの言うところの好き同士の間柄ではないらしい。
なら、何やったらええの? ――そんなん、決まってる。
「好きです」
流暢に、その四文字が舌に乗った。
「寝言は寝て言え」
「寝ぼけてません」
断言してから、両手で北さんの頬を包んだ。目、逸らさないでくださいね。念じながら、こつんと額をぶつける。あわせて鼻先もぶつかった。けれど、唇は触れていない。ちゅーしたい。でも、もうひと押ししてから。
俺はね、あなたのこと、好きです。たぶん、北さんも俺んコト、好きやろ。
吐息を鮮明に感じる位置で、北さんにだけ聞こえる音量で、囁いた。
「俺、北さんこと、好きです」
だから、キスをしたいと思った。
顔を火照らせたその人の唇に触れたいと、心底思ったのだ。
「好きです」
酷く近い距離で、もう一度囁く。途端、その人の黒目の縁が滲んだ。ぼやけて見える。ピントがあわないせいでそう見えるのだろうか。その人が動揺しているせいかもしれない。北さんでも、こんなふうにびっくりすること、あるんやなあ。いや、恋人でもなんでもない奴にキスされたら、誰だってびっくりするか。それも二回。うち一回は舌も入れる深いやつ。
ああ、俺、北さんとちゅーしてしもうた。
でも、まだ足りない。もっとしたい。薄っぺらなようで、柔らかいその唇に触れたい。自分のソレを押し付けて、北さんの熱を感じたい。
だから、もう一回キスしていいですか。そんな副音声を込めながら、好意を舌に乗せる。ちゃんと声になったり、吐息ばかりになったり、どうにか掠れた音になったり。
好き同士なら、キスしていいんでしょ。俺は北さんのコト好きです。ちゅーしたいなって思うくらいなのだ、好きじゃないわけない。で、北さんもあんな反応したということは、十中八九俺のコト好きでしょ。ほら、好き同士。キス、してもいいでしょう?
「すき、」
唇が、ほんの薄皮一枚分、ぶつかる。もうひと押し。そしたらきっと、しゃーないなって、言うてくれる。
ぱたん、北さんの瞼が閉じた。ほんとその顔ずるいわあ。ちゅうしたくなるやん。もうしてるようなもんやけど。いやいや、ぎゅうって押し付けたいんです。あわよくばもっと深くて濃いちゅうをしたいんです。してしまおうか。北さん、なんも言わんし。
してしまえ。
ぐ、と、重心を移した。
「……で?」
「え?」
移そうと、した。
北さんの吐息が、唇に直接触れる。夏の暑さと、その暑さに中てられた熱っぽい呼気。くらり、頭が揺れる。揺れた衝動のまま、口付けてしまいたい。
しかし、どうもそれはできなかった。どうしてかって。見開かれたその人の目があまりにも――あまりにも冷ややかだったから。
「そんで、どうしろと」
「どう……?」
ここは俺も好き・北さんも好きで大団円となるところではないのか。じっと真っ直ぐに見つめてくる瞳に、もう動揺はない。アレッ、この人、俺んコト好きなんちゃうん。纏っていた初々しさの名残すらない。考えていること、全部お見通しみたいな目付き。その目に何度見透かされてきたことか。なんでバレんねん。そう思ったの、両手の指を使ったって数えきれない。
ほんの十数秒前まで見ていた光景は、蜃気楼の幻だったのだろうか。ここクーラー効いてるはずなんやけど、おかしいな。
呆けていると、とんと胸を押された。口にされなくてもわかる、離れろということだ。離れたくない、ちゅーしたい、強引にやってしまおうか。……やめとこ、冷静になった北さん相手にすんのはしんどい。下手なコトしでかして、追い出されたら堪らんし。
微かに触れていた唇が離れた。北さんの頬を包んでいた手も離して、すとん、ちょうど布団と布団の間に座り込んだ。あわせて北さんも起き上がる。それからカチリ、カチ、深爪気味の指先が電気の紐を引っ張った。たちまち蛍光灯の白が降り注ぐ。日焼けを知らない北さんの肌が、いっそう白く見えた。
「どう、って」
「好きて言うたら、キスしてもええと思ったんやろうけど、」
「違うんですか」
「……そもそもお前、ほんまに俺んコト好きなん?」
淡々とした調子と相まって、その人の清らかさが増していく。キスだとか、そんな戯れとは無縁。まさに、穢れを知らない白。穢してはならない白。どこの神様や。
やってはいけないことをしてしまったのではないか。そんな考えが脳裏を掠める。だが、すぐに思考から追い出した。キスした直後、この人はいじらしい反応をしていたろう? 健気に震えていた姿は、神様なんて神聖なものではない。照れるし、火照るし、突然のことに戸惑いもする、俺と学年一個しか違わない人間だ。
「今言うたでしょ、北さんこと好きですて」
「それを信じられへんて言うてんねん」
「ハァア?」
「ぱっと閃いたこと口走ったようにしか見えん」
「そりゃっ、いま思いついて言うたことですけど……、好きは好きです!」
きちっと布団の上で正座した北さんに、前のめり気味で言い返した。しかし、凛とした態度は崩れない。ハラタツな、さっきはあんなに動揺しとったのに。
正論がお得意なのは知っているし、俺の思考をこれでもかと的確に読み取ることができるのもわかっている。けど、俺の感情そのものを否定すんの、やめてもらえます? 北さんのコトが好き。そう思ったのは確か。なのに、なんで本当は北さんのこと好きじゃないみたいに扱われなあかんのですか。
ギッと真っ直ぐに見つめれば、表情の薄いその人も真っ向から視線を突き刺してくる。うわ、怖ッ。高校の頃だったら、そう思って逃げたかもしれない。だが、今は逃げようなんて思わない。だって俺、間違ったこと言うたと思ってへんもん。
「俺には」
静かに唇が動いた。ついさっき、重ねたばかりの唇。薄いように見えて、実はふっくらと柔らかなソコ。ふざけたこと言うたら、また塞いでしまえ。
心に決めたところで、その小さな口から続きの言葉が発せられた。
「好きとかそんなん置いといて、ただ、好奇心でキスしたいだけに見える」
好奇心。
言われたばかりの言葉を、口の中で反芻した。好奇心て何。珍しいもん見て、興味を持つこと。いや、そんな辞書的な意味思い出したいわけちゃうわ。
好奇心。俺が、北さんに好奇心でキスをしたくなった? 確かに、北さんにしては珍しい素振りしましたけど。ぎゅって縮こまる姿見て、無性に触れたくなったんですけど。あれ、これは好奇心のせいなんか。未知のものを見て、もっと見たいと思って近付いて、て? いやいや、まだ納得できんわ。してたまるか。
眉間に皺を寄せたまま考え込んでいると、北さんがぽつりと零した。
「一緒の布団だとか、アホな冗談言うた俺も悪かったと思ってる」
「ッあ! それ、それはほんまアカンかった!」
「あんなん言うてしまったから、お前も俺も変に意識して、お互い柄にもないような反応して、……その物珍しさに背中押されてキスまでしてしまった。それだけや、好きとかそんなん関係ない」
「ぐ、ぅ……、っつか自分で言うた冗談に照れるて、」
「喧しい、言うてから俺も後悔したわ」
慣れないことは、するもんじゃない。良い教訓になった。そう言わんばかりに、北さんは深いため息を吐く。
好奇心のせい。物珍しさに中てられたせい。普段しないようなことをしてしまったがために、二人で妙な空気を作り出してしまったせい。なるほど、さきほどの二度のキスと、三度目と思ったキス未遂まではその路線が正しそうに思えて来た。
だが。
思考を区切って、北さんの唇をちらりと盗み見た。柔らかかった。沈み込んだ後、吸い付くみたいに俺の唇とくっついていた。漏れる吐息だとか、鼻を抜ける声だとか、……唇から伝ってくる熱感だとか。頭から離れない。あわよくばもう一度。いや、一度じゃきっと満足できない。何度でも、飽きるまでその唇を堪能したい。こう思うのは、なんでですか。
「……北さん、けど俺、好きは好きやと思うんですよ」
「まだ言うか」
「もっかいちゅーしたい、好きやなかったらこんなん思わんて」
「感触にハマったせいちゃう?」
「……なら責任取ってください」
「なんの責任や、お前からしてきたんやろが」
「せやけど、北さんとちゅーした感触が忘れられへん!」
「……ほらみろ、感触にハマっただけやん」
「んぐぅッ、それでもええからちゅーさしてください!」
「嫌や、断る」
「無慈悲ッ」
「どこがや。好きでもなんでもない奴とキスするほうがおかしいやろ」
「北さんは俺んコト嫌いなんですか!」
「嫌いやないけど、恋愛対象にはならん」
ですよね! 叫ぶように返すと、今何時やと思てんねんと冷ややかな視線が返ってきた。ちらりと時計を見やると、一時近くをさしている。大学生の自分たちからすれば、そこまで遅い時間ではない。かといって騒ぐ時間帯でもない。きゅっと口を閉じると、再び北さんはため息を吐き出した。
「要は誰かとキスしたいんやろ? なら、ええ人作ったらええやん」
「北さんがええ、ちゃんと好きですからぁ」
「どこがちゃんとしてんねん」
そりゃ北さんに比べたら何もかもちゃんとしていない自信がある。いや、バレーに関しては俺もちゃんとしてるか。でもそれくらい。日常的なコトはほぼ北さん頼り。今、追い出されてしまったら、路頭に迷うこと間違いなし。数日は角名あたりの世話になるとしても、他に大都会で頼る当てなどない。
追い出されないためにも、北さんの言うことを聞いておいたほうがいい。そう思う自分もいる。けれど、キスした俺を完全に拒まないこの人に付け入りたい自分もいる。意思決定の天秤はどちらの言うことを飲むのか。……現状、後者の自分のほうが優勢だ。
触れるだけのキスと、舌を絡めるキス。両方しでかしたというのに、北さんの態度は変わらない。自分にも非があるから仕方がない、というスタンスだ。そして今、涼し気な顔に呆れを滲ませている。どんなメンタルしてんねん。ネタでもないのに、好きじゃない奴とキスして、平気な顔してるて。拒否するほどじゃない? 俺にやったらされても平気やったて? なら、これからもちゅーする仲になる可能性もあると思うんです。
「ちゅーしたい……」
「しつこい男は嫌われんで」
「北さんに嫌われんのは困る」
「なら、」
「でもしたいもんはしたい」
北さんと、キスが、したい。この際、好きだ嫌いだという感情を確かめるのは後にしよう。今、この時点で、俺がしたいと思うこと。それは「北さんとキスすること」。これだけは確かだ。好奇心のせい、感触の気持ちよさにはまったせい。プラス、もしかすると俺が北さんのことを好きなせい。これらの理由から、俺は北さんとキスしたい。
「キス、て」
「好き同士がするもんなんでしょ。でもそれは北さんの持論や。俺みたいに、好奇心でキスする奴らもおる、絶対」
「……俺の意志は無視か」
「心の底から俺とキスすんのが嫌て言うなら、その気持ちも尊重します」
ケド、そこまで嫌やと思てないでしょ。
もう二回キスしてしまったんやから、三回も四回もそう変わらんて。なんとも思わんのやったら、減るもんでもないし。セフレならぬ、キスフレ。なってみませんか。
にじり寄りながら畳みかける。正座した膝の上にある手をきゅっと握ると、思いのほか指先が冷たかった。寝姿勢ならそこまで冷気は気にならないが、座った高さだとちょうど風の通り道になる。冷房の風、嫌いて言うてたのに悪いことしたかな。寒い思いさせてたらすんません。クーラーを消した途端、灼熱が襲ってくる季節を思うと、そこまで寒くはないと思うけど。
「だめですか」
念押しするように、北さんの顔を覗き込んだ。凛とした目付きに、わずかに寄った眉。それから、きゅっと結ばれた唇。ああ、やっぱ、この口に触れたい。齧り付きたい。割り開いて、中を蹂躙したい。
ちゅー、したい。
「……みっつ」
と、北さんの唇が微かに動いた。その隙間すら塞ぎたくて心が疼くが、必死に欲を押し殺す。ぎゅうううと腹の奥底に沈めて、耳を澄ました。
「三つ、約束できるなら」
「してもええの!」
「おう。代わりに、破ったら追い出すからな」
「え」
「嫌なら別に」
「します、しますします、守ります絶対!」
「言うたな、絶対守れよ」
あ、これ振りや。俺たぶん守れんかもしれん。ふっとふざけた自分が過るが、それを口にしてしまったら最後、折角の約束すら取り付けてくれなくなるかもしれない。思うままに喋ろうとする舌をくっと歯に引っ掛け、言葉にするのを堪えた。
約束、三つ。それを守りさえすれば、北さんとキスできる。さっきみたいに、ちゅーできる。
背筋がしゃんと伸びた。気付くと自分も正座している。北さんの指先に絡んでいた手は、自分の膝の上で丸く握られていた。なんだかデジャブ。治と喧嘩して、おかんにこっぴどく叱られて、もう喧嘩するなと言いつけられたとき、こんな姿勢をしたような、しなかったような。ガキみたいやな。もう十八歳。もう二か月もすれば十九になる。成人こそしていないが、大人といっても支障のない年。なのに、この人の前じゃ子ども同然。たった一つしか年変わらんのに。
ぴ、と。北さんの人差し指が立てられた。その瞬間、明後日に飛んでいた意識が戻ってくる。約束、三つ。守れば、キスしてもいい。
ガキ、つーか、犬みたいやな。
ぽつりと浮かんだところで、心地の良い声が鼓膜を震わした。
「――一つ、」