やっと巡ってきた金曜日。デートの約束を取り付けて、一週間と二日。イヌピーは舌打ち一つと昼飯一週間分で手を打ってくれた。たったそれだけで、三ツ谷との時間を作れるのなら、安いものである。
「……」
 いそいそと待ち合わせ場所に向かったものの、まだ三ツ谷の姿はなかった。ぐるりと見渡してみても、淡い色の髪はどこにもいない。
 早く来すぎたな。あからさまに浮かれている自分に気付かされて、ほうと息を吐いた。空気がほんのり白色を帯びて、じゅわりと冬の空気に馴染んでいく。
 ここ数日、急に冷えてしまった。先週までは、こんなコート着なくても良かったのに。
 ……コートを羽織られたら、三ツ谷の可愛い格好、ちゃんと見られないよな。冬って、損だ。ああ、でも、寒いという口実があれば、あの女と身を寄せられるかもしれない。俺が寒がりとよく知っているから、くっついても文句を言われることはないはず。
「さむ……」
 何はともあれ、早く、来ねえかな。
 ぶるりと体を震わせてから、近くにある柱に寄りかかった。コンクリートのそれは、当然冷えている。厚手のコート越しにも、じんわりと冷たさが伝ってきた。
 なんとかして、寒さを和らげられないだろうか。試しに、腕を組んでみた。目元に当たる冷たい空気も嫌だ。一旦、髪を解こうか。かといって、刺青が隠れるのも癪。
 気を紛らわせようと、ひとまず瞼を閉じた。視界が閉ざされると、雑踏の足音がよく聞こえる。革靴の音、ローファーの音。スニーカーの駆け足に、幼児用と思しきピコピコ音。カツカツコツコツ響くのは、ハイヒールのソレだろう。薄く瞼を持ち上げれば、パンプスを履いた足が通り過ぎていく。肌色が見えて、ぶるり、勝手に体が震えた。よくもまあこのクソ寒い中、肌を晒して歩けるものだ。
 地面に向いた視界は、たくさんの足が行き交っている。そのどれも、俺のそばで立ち止まることはない。忙しなくやってきては、慌ただしく通り過ぎていく。
「はやく、こねえかな」
 みつやに、あいたいな。
 寒さに負けて、また瞼が落ちそうになった。
 その寸前で、ぴたり。ブーツが立ち止まる。厚底で、踵はもっと高かった。あのヒールで踏みつけられたら、バキッと骨を折られてしまいそう。殺傷能力、数値にしたらいくらだろう。物騒なことを思い浮かべつつ、視線をゆったりと移動させていく。
 黒のロングブーツの上に、膝の骨がちょこんと見えた。肌色をしているけれど、さすがに生脚ではないだろう。なんとなく、一枚纏っているように見える。そんな作られた肌色は、太腿の半ばまで続いていた。背中側はコートの裾に覆われている。けれど、前側にあるのは短いスカートだけ。コートの前、閉めた方があったけえだろうに。まあ、眼福だから、晒して貰う分には構わないのだが。惜しげなく見せつけられる、寒々しくも眩しい太腿を、ぼんやりと眺めた。
―― おまたせ」
「エ」
 続けて聞こえた声に、バッと顔を持ち上げる。
 色付いた唇は、思ったよりも自分に近い位置にあった。
「……み、つや」
「おつかれ、早いね」
「まあ、ウン」
「仕事は?」
「いぬぴーに」
「ふぅん、良かったね」
 普段よりも鮮やかな唇が、くるくると動く。その度に、濡れたように艶めいた。色づいているのは唇だけじゃない。頬の上の方、あと、たぶん鼻先も。瞼にも色はついているけれど、色より輝きの方が目についた。細かな光が、たくさん乗っている。そのせいか、いつもより黒目が大きく見えた。あれ、いつもより睫毛も長いのかも。
 ちゃんと三ツ谷だ。三ツ谷だって、わかる化粧だ。でも、普段の三ツ谷と、違う。
 女の、色気を、纏っている。
「ワ」
 口から、感嘆がまろび出た。
 リブニットの襟ぐりは、横に大きく開いている。胸の方に開いていない分、上品だ。それでも、細い鎖骨は覗いている。つ、つつつ、視線を下げた先では、布地がはっきりと持ち上がっていた。う、エ、こいつ、こんなに胸、大きかったっけ。盛った? 薄着であれば判別もつくが、ニット越しだと判断しかねる。
 なんにせよ、デ、かい。
「おい」
「へ、……ヴッ」
 カッと目を見開くと同時に、ギュッと鼻を抓まれた。指二本しか使っていないのに、じりじりと痛む。握力の強さが切実に伝わって来た。
「鼻膨らましてんじゃねーよ、すけべ」
「すッ!?」
「女の体なんて見慣れてんだろ……」
 形の良い唇が、ムッと尖る。合わせて、抓まれていた鼻を弾かれた。咄嗟に押さえると、すれ違い様に三ツ谷の指先を掠める。ピンキーリングが、小さく輝いた。それ、自分で買ったの。それとも、誰かから貰った、やつ? 元カレだったら、ちょっと凹む。三ツ谷なら、そんなデリカシーの無い真似しないようにも思えるし、貧乏性故に気に入ったデザインなら平然と使い続けそうでもある。
 聞きたいことは、たくさんある。山ほど、ある。
 でも、それと同じくらい、このとびきり可愛い生き物を抱きしめたくて仕方がない。
 自分が正しくこいつの恋人であったなら、躊躇うことなくできるのに。デートっていう名目だし、ちょっとくらいなら許してもらえるだろうか。組んでいる腕の先、手首がひくんと疼く。ちょっとだけ、ほんの少しだけ、きゅっと手を引いて、一瞬トンと触れるハグくらいなら。
『先っぽだけ、ほど、信じちゃならねえ言葉はねえぞ』
 嬢に騙されて大人になった日、正道さんに説かれた台詞が頭を掠める。
 やめて、おこう。
 行き場を失った手は、それとなくコートのポケットに捻じ込んだ。
「だって」
「思ったより胸が大きいって?」
「……それもあるけど」
「ふ、あるんだ」
「あるだろ、どこに隠してたんだよ今まで」
「着る服でちょちょいとね」
 にやりと笑った三ツ谷は、リングの付いた方の手で胸元をトンと叩く。柔らかそうに沈む、ソコ。意図して確かめたわけでもないのに、本物なんだと悟ってしまった。
 どこからどう見ても、良い女だ。どうして今まで、こんな当たり前のことに気付かなかったのだろう。……目を、背けてきたからか。三ツ谷は俺の大事な妹分で、ダチで、仲間で、相棒だ。だから、うっかり劣情を抱くことはあっても、一線を越えちゃならない。そういうモンだと思って、生きてきた。
「三ツ谷」
「んー?」
 観念して、―― 好きだと言ってしまいたい。
 こてんと三ツ谷は首を傾げた。すまし顔は、俺だけを見つめてくれている。自分が、手を出されるなんて、露も思ってはいないのだろう。この男は自分に害を加えない。きっと三ツ谷は、俺をそういう対象として捉えている。今、好きだっていったら、この信頼を裏切ることになるのか。それは、ちょっと、な。
「……可愛いよ」
 結局日和って、在り来たりな言葉を吐いてしまった。
 ぴくり、三ツ谷の肩が震える。眉も、片方だけ動いた。でも、否定はされない。うるさいとも、言ってこない。好きと言うに言えない分、可愛いは存分に言おうかな。言わせて、もらおう、かな。
 変にネジの緩んだ頭のまま、口を開いた。
「可愛い」
「ん」
「すごく可愛い」
「どうも」
「めちゃくちゃ可愛い」
「……ありがと」
「ほんと、可愛い」
「っわかった、から」
 わかったって、何を? 三ツ谷が可愛いってこと? 悪いけど、三ツ谷が可愛いって事実をわかってもらうために言ってるんじゃない。三ツ谷が可愛くて仕方ないから可愛いって言ってるんだ。
 緩むじゃ済まねえな、ネジの何本か、絶対に外れてどこかに落としてしまっている。
―― かわいいよ、みつや」
 睦言を交わすように囁けば、ついに三ツ谷の顔が発火した。チークなんて目じゃないくらいに、肌の奥から血色が滲む。形の良い唇はわなわなと震え、長く上向きの睫毛も健気に震えだした。
 胸元を押さえていた手が、おろおろと持ち上がる。あ、引っ叩かれるかな。念のため歯を食いしばるが、その手の平は、ぺちりと弱弱しく俺の二の腕を叩くにとどまった。
「ッで! どこいくの! デートなんだろ今日!」
「ああ」
 そうだ、デートだった。
 ハッと我に返って、コートのポケットから携帯を取り出した。カコカコと操作して、店の連中に転送してもらったメールを呼び出す。下世話な本文が見えなくなるまで下ボタンを押し、青い写真だけを映し出した。
「水族館。ナイトアクアリウムってやってんだって」
「……王道みたいなとこいくね」
「嫌?」
「全然。デートなんだし、良いんじゃない?」
 画面を覗き込んだ後、三ツ谷は素っ気なく言い放つ。けれど、頬はまだ色付いたままだった。可愛い。また口先から飛び出そうになって、寸でのところで呑み込んだ。いくらなんでも、これ以上言おうものなら、レバーに拳を捻じ込まれる。どんなに可愛い色気を纏っていても、こいつは三ツ谷だ。その辺の女より、ずっと強くて逞しい。それだけ凛々しいからこそ、この可愛さは際立つんだろう。
「じゃあ」
「うん?」
 パチンと携帯を折りたたみ、ポケットの中に突っ込む。入れ替わるように、反対の手を外に出した。手袋のない指先が、初冬の空気を突っ切る。柱から背中を浮かせつつ、右手を三ツ谷に差し出した。
「ん」
「え」
「手」
「て、って、」
「デートだから」
「あ、そう」
「……だから、手」
「エッ」
 もう一度、示すように右手を出す。三ツ谷の上を向いていた睫毛が、ぱたんと下がり、またすぐに持ち上がる。俺の顔と、手の平とを、見比べるように視線が行き来した。
 俺がどういうつもりで手を差し出しているか、わからないわけではあるまい。かといって、深く理解を示しているようにも見えなかった。
 ああ、もう。早くもしびれを切らしてしまい、強引に三ツ谷の左手を掬い上げた。
「行こっか」
 何はともあれ、今日はデートだ。俺の大事な人との、デート。希望通り、三ツ谷は可愛い格好をしてくれている。俺のために、着飾ってきてくれたのだ。気分が、いい。
 ありのまま緩んだ笑みを向けると、何故か三ツ谷の喉からクゥンと高い悲鳴がした。

 残る行程は、三ツ谷を家まで送るだけ。
「おいしかったあ……」
「酒飲みたくなるな」
「おい、未成年」
「三ツ谷だって、飲みてえって顔してたじゃん」
「したけど。まあ、ほら、堂々と飲めるようになったらサ」
「ん、また行こうな」
 下調べもなく入ったバルは、たいそう三ツ谷のお気に召したらしい。夜の水族館も気に入ったみたいだったけれど、バルはそれ以上。二十歳になったら、また行こう。そう繰り返す三ツ谷の頬は、ノンアルコールしか飲んでいないはずなのに、ポッと火照っていた。
 それらしいスポットに出向いて、普段入らないところで飯を食って、……ただ「遊ぶ」よりかは「デート」らしかったのではないだろうか。
 あとは、こいつを送り届けるだけ。そこまで辿りついたら、今日のデートは終わってしまう。本当は、帰したくない。夜も、深夜も、なんなら朝まで一緒にいたい。だが、それを望める関係かというと、否。
 細やかな抵抗に、わざと夜道をゆっくり歩いた。
「ドラケン」
「んー」
「このあとはどうすんの」
「そりゃあ送ってくよ」
「駅まで?」
「まさか。家まで」
「デート、っぽい、ね」
「デートだからな」
 手を繋いだまま、ひょいと道を曲がる。バイクを停めているのはこの先だ。今日はちゃんと、ヘルメットも二つ持ってきた。
 家に送ったら終わり、とは思っていたけれど、実質バイクに乗ったら終わりみたいなもんだよな。歩きだと時間がかかる距離でも、バイクだったらあっという間だ。それに、今しているみたいな会話も、エンジン音に負けてしにくくなってしまう。
 ああ、くそ、愛機が見えてきた。気に入っている車体なのに、今日ばかりは恨めしい。
「どらけん」
「んー?」
「今日って、デートじゃん」
「そうだよ」
 ただでさえ遅い歩みが、いっそう鈍くなる。俺に気を遣っているのか、三ツ谷の歩幅も狭く・小さく・ゆっくりしたものになっていた。
「この際、だから、デートっぽいこと、言ってもいい?」
 そしてついに、足が、止まる。くんっと腕が突っ張った。咄嗟にこちらも足を止め、ぐるりと振り返る。ちょうど街灯の真下なのもあって、三ツ谷の顔が、よく見えた。
 崩れ一つないメイクの下から、じゅわりと赤色が滲んでいる。瞬きしていないのに、睫毛はふるりと揺れていた。食後に塗り直したリップは、確かな艶を帯びている。絡み合っている手が、ぎゅう、力んだ。
―― かえりたくない」
 静かな夜道に、甘い声が広がった。その音は、鼓膜にじんわりと熱を伝える。首筋から、どっと汗が噴き出した。熱された体温は頭の方へと上ってくる。
 俺、今、どんな顔してる。鼻、膨らんでないよな。頬、たるんでねえよな。口、にやけた線を、描いてはいないよなあ。
 必死に表情を取り繕って、繋いだ左手ごと、―― 三ツ谷の体を抱き寄せた。
「っあ」
 腕の中に閉じ込めると、ふわりと甘い香りがする。鼻につく香りではない。むしろ、心地がいいくらい。ほんの少しだけ腕の力を増やすと、三ツ谷の方から体をこちらに寄せてくれた。見目通りの、ふっくらとした二つがぶつかる。柔らかさが沈み込み、やがて騒がしい心音が伝ってきた。
 なんだよ、お前。俺のこと、眼中になかったんじゃねえの。それとも、今日になって、意識してくれたとでも言うのか。
 高揚を覚えながら、ことりと首を倒す。唇は、銀糸から覗く耳介に擦り寄った。
「なあ三ツ谷」
「な、に」
「さすがに、付き合ってない奴にはさ」
「んッ、ふ」
「手は、出せない」
「ぅ、ごめ、ン……、変なこと、いって、」
「だから」
 わざと吐息多めに囁くと、その度に腕の中にある体が悩ましげに跳ねた。
 本当に、可愛いな。化粧してもしなくても、色気のある服だろうとラフな格好だろうと、気取った所作も、カッコつけた言動も、不意打ちに恥じらうのだって、隙だらけなところさえも、全部可愛い。
「俺の、―― 恋人になってほしい」
 告げると同時に、名残惜しくも彼女の背中から手を退けた。代わりに、その両手でそっと三ツ谷の頬を包む。拳一つか、二つ分の距離を開けながら、そぉっと熱を放つ頭をこちらに向けさせた。
「そしたら、心置きなく引き留められるんだけど、どお?」
 丁寧に紡ぐと、涙を携えた瞳がうっとりと蕩けた。