八月三日。その日は、言われたとおり、フロントに立っていた。自前の開襟ではないシャツに、ストレートの黒いズボン、そこに指定のベストとネクタイを合わせて、どかりといつもの椅子に腰かける。体格のせいか、髪型のせいか、あるいは刺青のせいか、やってくる客のどいつにも、自分が未成年だと悟られたことはない。せいぜい、出勤してきた連中に「ガキが働いてんじゃねえ」とケラケラ笑われる程度だ。その文句は、正道さんに言ってくれ。ため息を吐きつつ、いつものように案内をして過ごした。
 それでも、ふと、頭の隅に浮かぶことがある。
 ……俺の知らぬ間に、三ツ谷にカレシができていた、らしい。
「ぐあ~、ごめんごめんケン君、代わるよお」
「あ、ウッス」
 ようやくその現実を受け止めたところで、本来のフロント担当者が出勤してきた。ハッとして時計を見やれば、短針は数字の八を指している。正道さんに頼まれた通りの時間だ。のろりと立ち上がり、ハシモトさんと場所を代わる。ついでに窮屈な首元に指をかけ、ネクタイの結び目を緩めた。
「頼んどいてなんだけどさ、今日、予定ダイジョーブだったん?」
「え」
 とりあえず着替えようと、養親に与えられた靴の底を鳴らしたところで、ハシモトさんに呼び止められた。肩越しに振り返れば、人畜無害そうな顔がカウンターから覗いている。
「ほら、祭りあるだろ、近所で。友達とか彼女とかと約束してなかったかなーと思って」
「……まあ、断ったんで」
「ゲ、マジ!? うわ、悪いことした、店長にボーナスつけてって言っとくわ」
 こう見えて、ハシモトさんって、やり手なんだっけ。それなら、バイト代も期待できるかもしれない。作り笑顔と共に「どうも」と返して、部屋の方へと歩みを戻した。
 八時、八時か。寝るにはまだ早すぎる。かといって、今から祭りに行く気にもなれない。その辺流して、時間を潰そうか。今からなら、流しがてら花火も見れるかもしれない。
 わざとらしい喘ぎ声のする部屋の前をいくつか通り過ぎて、自室のドアノブに手を掛けた。
『カレシと出かける予定だから』
 扉を開けた途端、あの日聞いた声が頭に響く。
 そうか、今日あいつは、カレシとデートをしているのか。武蔵祭りに行く、とまで言っていなかったが、今日を選んだからには行っているのだろう。パーも告るみたいだし、三ツ谷も俺の知らない男と遊んでいる。結局マイキーは、場地とエマを巻き込んで野次馬するって言ってたな。……そう思うと、武蔵神社方面に行こうという気は、萎んでいった。
 祭りがあると、どうしたって道は混む。サツも増える。バイクなら掻い潜って走ることもできるけど、今日はあっちに行くのは止めよう。
 ベストだけ脱いだところで、備え付けの鏡と目が合った。着替えよう、と、思ったけれど、どうせ今日は、見知った顔に会うことはない。なら、このままでも良いか。夏用のカーディガンだけ羽織って、愛機の鍵を引っ掴んだ。

 エンジン音を聞くと、心が沸き立つ。その一方で、落ち着かせてもくれる。相反するようだが、俺にとってはどちらも正しい。ゼファーと走りに行けば、鬱屈も、過度な興奮も治してくれるのだ。
 数日ぶりに動かした愛機は、やっぱり体に馴染む。流しているうちに、頭に纏わりつく憂鬱も和らいできた。三ツ谷に、カレシができた。それ自体は、悪いことじゃない。なにより、あの三ツ谷が良しとした男だ。変なヤツなわけがない。
 頭が冴えるにつれて、自然とハンドルは家の方へと切っていた。そろそろ深夜に差し掛かる時間だ。今帰れば、すっきり眠れる気がする。
 うん、心の中で頷いて、十字路を曲がった。
「……ん?」
 車通りは多くない。閑散とした通りを歩いているヤツなんて、くたびれたサラリーマンくらいのもん。
 そう、思ったのに、進行方向に細身の女が歩いていた。ライトに照らされた脚が、やけに白く見える。生脚をたっぷりと晒しているらしい。こんな時間、これだけ人通りの少ない道を一人歩きなんて、ちょっと危ないんじゃねえの。厄介な事件、起きないと良いけど。
 考えている間に、女との距離は近付いていく。間もなく、その痩身を追い抜いた。
「あ」
 視界の端に、俯き気味な横顔が掠める。明るい髪色には、なんだか見覚えがあった。垂れた目尻も、やけに頭に残る。
 ゆったりと速度を落とし、対向車が来ないのを良いことに、ぐるりと向きを反転させた。徐行、よりは速いくらいで、追い抜いた女のところに引き返す。
「……三ツ谷?」
「えっ」
 その女は、思ったとおり、三ツ谷だった。
 数日前見たよりも、毛先がやけに長い。真夏の生温い風に煽られて、細い銀糸がふわりと靡いた。あわせて、ひらひらしたカーディガンだとか、短いスカートの裾が躍る。
 もう一度バイクの向きを直して、とんっと縁石に足をついた。
「ど、どらけん?」
「よう。髪長いから、わかんなかった」
「あ、うん。ウィッグ、つけてる、から」
「へえ、いいじゃん長いのも」
「ど、どうも……」
 自然と腕が伸び、鎖骨の下まである毛先を指に絡めとった。ああ、確かに、素の三ツ谷の髪と質感が違う。ベリーショートも似合うけど、これくらいの長さも似合うんだな、こいつ。ショートヘアしか見たことがなかっただけに、新鮮だ。
 と、三ツ谷の唇が、むにゃりと波打つ。あ、断りなく触ったの、まずかったかな。嫌だったら、あからさまに顔を顰めるか、手を叩き落とすか、しただろう。とりあえず今は、どちらもされていない。……だからといって、やっていいってコトでも、ない。一旦、謝ろう。綺麗な色味をした唇を眺めつつ、髪で遊んでいた手をそっと離した。
「っあのさ!」
「うぉ、なに」
 その、瞬間。三ツ谷が勢いよく顔を上げる。離したはずの手は、何故かほっそりとした指に捕まった。
 ちょうど真上に街灯があるせいで、ぽっと色付いた頬がよく見える。照れているのか? いや、コレは、違う。だって、瞼にも淡い色が乗っているし、睫毛は普段以上に長くて上を向いている。綺麗な色と思った唇は、じゅわっとした桃色をしていた。
 化粧、している。あの三ツ谷が、化粧をしている。……それも、そうか。今日はカレシと出かけると言っていた。メイクして、ひらひらふわふわの服を着て、髪までお洒落を施して、とびきり可愛い格好をしていたって、何もおかしくはない。
「へん、かな、このカッコ」
 なのに、三ツ谷の声は、不安で満ちていた。
 カレシに、何か言われたのかな。夏だというのに冷たい指先を、そっと握り返した。
「いや、―― 可愛いよ」
「ッ」
 努めて真摯に伝えると、華奢さを演出した肩がぴくんと跳ねる。服って、すげえな。これまで、三ツ谷の体が薄いなんて思ったことなかったのに、今日は妙に庇護欲を煽られる。それとも、こっちが素で、俺らといる時の方が演出された格好なのだろうか。
 どちらにせよ、俺の大事な、そりゃあもう大事な妹分であることに、違いはない。嫌な思いをしたっていうんなら、そのカレシの横っ面、蹴っ飛ばしてやらねえと。
 でも、三ツ谷だしな、もう蹴っ飛ばしてきた帰り道だったりして。あ、だからこんな夜道に一人で歩いていたのか?
 指先は握ったまま、そぉっと三ツ谷の顔を覗き込んだ。
「なにか、あった?」
「え、あ、いやその、」
「うん」
 ふらり、甘ったるい瞳が不安そうに泳ぐ。チークを置いたさらに下から、じんわりと血色が滲み始めた。艶のある唇は、ほんの少しだけ内側に巻き込まれる。
 晒された素足、その、太腿のあたりが、もじりと擦り合わせられた。
 冴えた頭が、ピンと閃く。……正直、閃きたくなかった。けれど、この顔つきと、所作には見覚えがある。性の匂いで満ちた、あの家で、毎日のように眺めているから、自分はよく知っていた。
 あ、今日、こいつ、ヤッたんだ。
 腹の奥底で、得体の知れない感情が沸騰する。ぼこり、こぼり、煮えたそれは、次々と泡を立て始めた。
「……」
 俺の知らない男に、この体は抱かれた。気付いた途端、頭にカッと血が上る。俺の、大事な女に、手ぇ出してんじゃねえよ。自分の立場を棚に上げて、顔も見たこともない三ツ谷の彼氏に呪いを飛ばす。
 つーか、ヤッといて、この時間に歩いて帰らせるって、なに。そこは送って行けよ。でなきゃ、今晩は泊めて、明るくなってから帰せよ。それとも、出すもん出した多幸感に包まれて眠りこけているところ、こっそり三ツ谷が抜け出してきたのか?
 なんに、せよ、この可愛い姿をした女に、一人夜道を歩かせる道理は、ない。
 一つ息を吐き出してから、静かに絡めていた手を解いた。
「ぁ」
 たちまち、女のか細い声がする。つぅと視線を向けると、真っ赤に染まった三ツ谷と、目が合った。小さく開いた唇が、目に焼き付く。綺麗な色味のはずなのに、毒々しいものに見えてきた。加えて、蠱惑的な魅力を放っている。喰らい、たい。かぶりつきたい。存分に、ぬかるんだナカを堪能したい。
 込み上げてくる激情に苛まれながら、首にかけていたヘルメットを取った。
「ん」
「へ」
「送ってく」
 取っ払ったソレは、そのまま三ツ谷の胸元に押し付ける。平らだと思っていたソコは、確かに歪んだ。大きくは、ない。が、ちゃんとある。今日の服だと、よくわかった。
 三ツ谷のことなら、なんだって知ってると思ってた。思い込んで、いた。でも、今は違う。俺の知らないことばかりだ。これじゃあ、マイキーのことをシスコンと笑えない。
「や、でも」
「いいから」
「大丈夫だよ、ひとりで、かえれる」
「……この時間にンな格好で歩かせられっか」
 三ツ谷が大丈夫でも、俺が大丈夫じゃない。事後と思しき気怠さを纏った女を、放っておけるか。
 早く受け取れという念を込めて、さらに強く、ヘルメットを押し付けた。つい、胸の膨らみに、意識が向く。……見たら、駄目だ。掻き抱きたくなってしまう。
 じいと色づいた目元を睨むと、ようやく三ツ谷の手は、ヘルメットを受け取った。しかし、なかなか後ろには乗ってくれない。居心地悪そうに、突っ立ったまま。ミニスカートから伸びた脚を、もじりと擦り合わせていた。
 あー、そうか、そうだな。その丈で跨ったら、まあ、見えるわな。
 生唾を飲み込みそうになって、誤魔化しがてら羽織っているカーディガンから腕を抜いた。
「ん、良いように使って」
「え、あっ」
 その黒い布地を、強引に押し付ける。しばし三ツ谷を見つめていると、そいつはおずおずと頭にヘルメットを乗せた。緩慢な動きで、カーディガンにも袖を通す。俺がゆったりと着れるサイズだ、三ツ谷が着たら、さぞ大きいことだろう。それこそ、今日のミニスカートを覆い隠しても余るくらいには。案の定、前のボタンを閉めたソレは、膝丈スカート然としていた。これなら、まあ、乗ってもナカは見えないはず。
 悶々としているうちに、三ツ谷はそっと縁石に足を掛けた。気配が、ぐっと近づく。熱が寄って、ふんわりと甘い香りが漂った。今日は香水までつけているらしい。はは、もしかして、下着もバチバチにキマっていたりして。不埒が過ると同時に、小ぶりな膝が俺を挟んだ。腰には、体温が触れる。
 このまま、俺の家に連れ込んでしまおうか。
 欲に屈しそうになりながら、神宮前を目指して走り始めた。交差点が近付く度、どうしようかと迷いが浮かぶ。今なら自分の家にも向かえる。次の曲がり角でも間に合う。最悪、どこそこで曲がれば、あの部屋に連れ込める。
 俺ン家、来てくんねえかなあ。
「どらけん、」
「ッ」
 ふと、背中にこつんと頭がぶつかる。名前も、呼ばれた気がした。
 ちょうど赤信号に差し掛かったのもあって、機体を穏やかに減速させる。片足が、緩く地面に伸びた。とん、靴底で、確かにアスファルトを踏みしめる。
 まだ、信号は、変わりそうにない。
 意を決して、肩越しに振り返った。
「呼ん、だ?」
「うん」
 背後にある頭が傾いて、ヘルメットの鍔から戸惑い気味な瞳が覗く。やっぱりその目元は、ポッと色付いていた。
「あ、りがと、ね」
 助かった。ぽそぽそと三ツ谷は言うと、またヘルメットを俺の背中に当てるようにして俯いてしまう。
 なんで、俺、こいつのカレシじゃないんだろ。俺だったら、もっと、もっと。
 ……宇田川町に戻りたい欲を今度こそ叩き潰し、三ツ谷の住むアパートへと愛機を走らせた。

 締め作業をしていたハシモトさんは、俺を見るなりハッと喜色を浮かべた。
「ケン君、童貞卒業した?」
 続けて浴びせられたソレに、すんと顔から表情が削げ落ちる。言っちゃ悪いが、とっくに卒業済だ。小坊のとき、当時店にいたキャストに襲われている。皆まで言わずに突っ立っていると、勘違いしたハシモトさんは、おめでとうとコーラを奢ってくれた。
 何も、めでたくは、ない。
 そりゃあ、ヤりたかったけれど、我慢したのだ。可愛い格好のあいつを押し倒したかったし、生脚を割り開いて痕だってつけてしまいたかった。でも、俺は、堪えたのである。
 だって、妹分に欲情するなんて、最悪だろ。

 それから間もなく、件のカレシと別れたと聞いて、不意に悦んだ自分に嫌気がさした。