終
ドン、と、テーブルにビールグラスが置かれた。いや、これは叩きつけられるといった方が正しい。傍にある小鉢が、浮いたように見えたほど。それとなく、お通しが飛び出してないか確かめてしまう。大丈夫そう、かな。これも代金に入っているのだ、零して無駄にはしたくない。まあ、オレの胃袋に入るわけではないから、そこまで気にする必要はないのだが。
「アイツがくるなんて聞いてない!?」
「言ってないからね」
八戒の悲痛の叫びは、柚葉によって淡々と流された。あ、これおいしい。綺麗な箸使いで和え物を口に運んでいる。柚葉がおいしいと言ったのだ、美味いに違いない。いそいそと、自分もグラスから箸に持ち替える。鮮やかな大葉が散らされたささみを、一口分掬い上げた。きゅむ、と頬張ると、爽やかな梅の香り。あ、美味いワ。この味、覚えておこう。きっと、あいつも好きなはず。どうにか、再現できないかな。くるくる頭を働かせながら、小さくもう一口食んだ。
それと合わせて、ぐったりと項垂れる弟分を眺める。今日もよく旋毛が見える。箸を持っていなかったら、また突いていたことだろう。口を動かしながら、そろりと隣に視線を移した。
「マジで言わなかったんだ」
「言わないよ、言ったら絶対意識して硬くなる」
「一理ある。結構八戒って、ランウェイの外のこと見てるよな」
「……それは、八割方オマエを探してるせい」
「あれ、そうなの」
そうだよ。相変わらず淡々と言い返す柚葉の顔には「気付いていなかったのか」と書いてある。言われてみれば、八戒と目があうことが多かったような、そうでもないような。距離があるせいで、どうも目が合ったという確証が得られないのだ。なるほど、あれは目が合っていたのか。今度は手でも振り返してみようか。浮かんだ冗談は、声にはせず心の奥にしまい込んだ。
「今日だって、三ツ谷を探したからあの兄貴を見つけたようなもんだろうし」
「うぅううなんで我が物顔でタカちゃんの横にいたわけ、アイツ……」
「我が物顔はしてなくねえ?」
「してなかった。アレはどう見ても、オレの弟は素晴らしいだろうって顔」
「あはは、ほんとそう。八戒出てきたときのドヤ顔面白かったな」
「あぁあああやめてよ、そういう、……兄貴のそういう話!」
八戒が勢いよく顔をあげる。しかし、その持ち上げられた顔は両手で覆い隠されていて、表情は見えない。まあ、こいつのことだ、羞恥心でいっぱいという顔をしているのだろう。その証拠に、髪の隙間から覗く耳が真っ赤になっている。
そうこうしているうちに、頼んでいた皿が届いた。刺身盛り合わせと豆腐サラダと出汁巻卵。順にオレ、柚葉、八戒が頼んだものだ。柚葉がサラダを取り分けているうちに、八戒はさっそく出汁巻卵を一切れ頬張っていた。育ちがでるなあ。小さく喉で笑いつつ、醤油の小皿をそれぞれの前に置いた。
「あ! すっごくすっごくすっごく気になってたんだけどさ!」
「ん?」
と、八戒が噛みつくように喋り出す。そのくせ、視線はテーブルに向かっていた。気になるメニューでも思い出したのだろうか。やっぱり、明太子入りの出汁巻卵にすれば良かったとか。
気にも留めずに醤油皿を置いた手を引いた。……いや、引こうとした、だ。
八戒の指が、ビ、とオレの右手を差す。指先にあるのは薬指。
淡く、シルバーが輝いていた。
「その指輪どうしたの」
「……まあ、ちょっと」
「絶対ちょっとじゃないじゃん!」
はぐらかそうと曖昧に笑って見せると、八戒は今度は天井を仰ぎ見た。上を向いたり下を向いたり、忙しい奴だな、オマエは。
ちょっとじゃない、と言われれば、ちょっとではない。自分としても、ちょっとなんて言葉で片付けられるものではなかった。しかし、その重大さを人に言うのも憚られる。断じて、後ろめたいからではない。オレと、あの男のことを、ありきたりにカテゴライズされたくないからだ。無理やり、既存の枠組みに嵌められたくはない。しかも、他人の価値観で。
そ、と視線を自らの薬指、その付け根に向ける。軽く手を傾けると、その動きに合わせて淡く光を反射した。ギラギラと主張しすぎないシンプルさ、オレは気に入っている。あの男の希望により、装飾は全てリングの内側に施されることになった。そんな厄介な加工を頼むのか、とも思ったが、見えないところでも手を抜かない様相は嫌いじゃない。
リングを眺めているうちに、つい、口元が緩んだ。
「ほらほらほらほら、幸せの絶頂ですって顔してる」
「ん? んん、まあ、ウン。いいもん貰ったなと思ってる」
「……あのさ、」
「どした、神妙な顔して」
ようやく手を引っ込めて、膝の上に乗せた。テーブルがあるおかげで、リングを撫でているのには気付かれまい。……どうだろう、八戒は気付かなくとも、柚葉にはバレているかもしれない。サラダを持った器を差し出してきながら、かなり引いた顔をしている。困ったな、オレ今、どんな顔してるんだろ。
ああ、愛してるって顔、してるんだっけ。
「……まさか、兄貴からじゃねえよな」
ぽと、と落とされた言葉に、目を瞬かせる。弟の見当はずれな台詞に、柚葉は一拍固まった。二拍目には、怪訝な顔を八戒に向けている。オマエの目は節穴か。横顔からでも、そう言いたいのが伝わってきた。
「あっはは、ないない、大寿君とはそんなんじゃないよ」
「ほっ、ほんとに、それほんとに信じて良いの!?」
「……まあ、三ツ谷のそんなんじゃないは信用ならないから」
「ええ?」
あれ、ありえないって顔をしていたくせに、八戒のフリには乗っかるの。柚葉の煽りを受けて、八戒はいっそう慌てだす。考え直してくれ、アイツがどういうヘキを持っているのか知っているのか。知らないよ、知る気もないし。うっかり知ってしまったら、その弱みを利用していい物件紹介して貰おうかな。不動産もいろいろやってるんだろ、大寿って。でも、不動産のことは林田組を使いたいんだよなあ。一番、オレの我儘に付き合ってくれるし。
すっかり顔を青くした八戒は、よろりと立ち上がった。チョット・ベンジョ。片言で言い残し、ふらふらと通路の奥へと消えていく。大丈夫だろうか。気がかりではあるが、下手に手を貸して「兄貴は止めてよ!」なんて見当はずれな説得を続けられたくもない。そうだな、十分経っても戻って来なかったら、様子を見に行くことにしよう。そうしよう。
鮮やかなサーモンをぽいと口に放り込んだ。脂が乗っていて、舌の上でとろりと溶ける。ビールも良いけど、日本酒も飲みたいな。まだグラスに半分は残っているのに、次の一杯に思いを馳せてしまう。
「結局、」
「ん?」
ぷすりと視線が刺さる。顔を上げると、斜め前で柚葉が頬杖をついていた。しかも半目になっている。それでも、目が小さく見えないのが不思議だ。カラコンを入れているわけでもないのに。
「あのバイク屋と、付き合ってんじゃん」
そういうことだろ、そのリング。頬杖が解かれ、左手の人差し指が、ピ、とオレを指差す。人のこと、指差すんじゃないよ。それ以前に、食卓に肘をつくんじゃありません。昔、ルナやマナに言って聞かせたっけ。……一緒になって、夕飯を食っていたあの男にも、教えたなあ、コレ。
ただ憧れていた日の思い出が、ふわり、浮かんで来る。
「オレとドラケンは、」
今でも、オレはあの男に憧れているし、焦がれている。とびきり信頼しているし、気の置けない友人であることは間違いない。それはそれとして、格好はつけたいし、アイツにとって、良い男でありたいと思う。
あと、恋してるし、―― 愛してる。