また、ハズレを引いた。
 ハズレと断言してしまうのはおかしいか。自分との相性は、良くなかった。この表現の方が、それらしい。
 じんじんと確かな違和感を発している臀部にため息を吐きつつ、ごろりと寝返りを打った。うつ伏せから、横向きを経て、仰向けに。仰々しいライトの点いた天井を三秒ばかり眺めてから、怠い首を動かした。時計、時計はどこだろう。どこかの壁面にあったと思うのだが。首と目線だけで室内を見渡して、時計を探した。……ああ、あったあった。ひっそりと掛けられているソレは、時間を忘れて楽しんでください、と言わんばかりの地味さをしている。なんて見にくい時計盤なんだ。ぐ、と目元を力ませて、針が示す時刻を確かめた。
「ん、んん?」
 社会人になって数年、視力は落ちた。免許こそ裸眼で通るが、仕事中には眼鏡をかけている。この距離の時計を読むのも、できなくはない。が、あったほうが、ストレスないんだろうな。日常用の眼鏡も作ろうか。それかコンタクト。今度、眼科に行ったとき、相談しよう。
「ゲ」
 やっとの思いで確かめた時計は、この部屋に入ってから三時間弱を示していた。細かく言えば、二時間と四十五分。あと十五分以内に出なければ、延長料金を取られてしまう。
 一つ舌打ちをしてから、重怠い身体を起こした。
「くそ、ケツいってぇ……」
 立ち上がると、臀部のヒリつきが如実に感じられた。歩いても痛いし、脱ぎ捨てた衣服を拾おうと屈んでも痛い。鏡張りのシャワールームに入れば、猿かというくらいに真っ赤になった尻が見えた。
 あの野郎、ただ腰を振れば良いと思いやがって。パンパン音立てて満足か? そっちは満たされても、こっちは全然なんだよ。なんたって、こっちは一回もイッてないんだから。それに比べてオマエはどうだ? 何回無駄打ちしやがった?
 シャワーコックを捻ると、ざばりと水が降ってきた。冷たいソレを浴びたところで、不満はまるで流れてくれない。むしろ、ふつふつと沸き立つ一方。顔は良かった。筋骨隆々とまではいかないが、それなりに鍛えられた体をしていたのも悪くない。低めの声で誘われたときは、当たりだ、とすら思った。しかし、良くなかった。短小というわけでもないのに、さっぱり良くなかった。もはや自分は不感症なのでは? ……そんな馬鹿な、しばらく前は気持ち良い思いだってした。でなきゃ、アナルセックスになんか嵌るもんか。
 男を知り過ぎた弊害だったら、どうしよう。
「こんなんばっかだな……」
 どうも最近、誰とヤッても良くなれない。最後に気持ちよく後ろで達せたのはいつだったろう。まさか、生温いセックスじゃ、満足できなくなってしまったのか。過激なことでもしてみるか? 不埒な思考が過るが、尻の腫れぼったい痛みに顔を顰めているのを思うと、SMに手を出すのは絶対に違う。
 徐々にシャワーは熱を持ち始めた。温かさが皮膚に触れると、苛立ちを押しのけて倦怠感が寄り添ってくる。まずい、これじゃあ立ったまま寝そうだ。
 考えるのはあと。時間が来る前に、身支度を整えなくては。花の匂いがするシャンプーを頭にぶっかけて、べたつく髪を濯ぐ。体と顔も手早く洗ってから、やたらとふわふわとしたバスタオルに水分を吸わせた。かき集めておいた服を着てしまえば、とりあえず身支度は良し。忘れ物が無いかぐるりと見渡し、ベッドサイドに置かれていった諭吉の紙切れを引っ掴んだ。下手くそだったけど、景気は良いな。慣れた手つきで精算し、急ぎ足で部屋を出た。
 さっさと帰ろう。腹の底にある不満は、帰ってからいつもの玩具であやしてやればいい。どうせ明日は休みなんだ、ぐずぐずになったって、なにも問題はない。
 怠い割に足は滑らかに動き、ホテルの扉を潜った。
「ヴ」
 その瞬間、びゅん、と北風が吹く。いや、これはビル風か。まったく、早く暖かくなってほしいものだ。というか、ここ数年、寒波だ積雪だと寒さが増している気がする。ただでさえ歳を取って、代謝が下がっているというのに。野郎でこうなんだ、世の中の女性はさぞ冷えが身に染みることだろう。今度、実家に帰るときは、あったかいものを買っていこう。そうしよう。母親の趣味も妹の趣味も、大体把握している。
「んワッ」
 考え事をしていると、今度は厳めしいワゴン車に追い抜かれた。襟足が煽られ、首筋に冷気が滑り込む。咄嗟に肩を竦めたが、押し寄せてくる寒さは防げなかった。よし、首をあったかくできるのにしよう。決めた。またストール? と文句を言う末の妹が浮かぶが、ソレはソレ。あいつらが持ってないデザインのを選べばいいだけ。
 ず、鼻を啜ると、ずっと後ろの方から唸るようなエンジン音が聞こえてきた。このクソ寒い中、バイクかよ。そりゃあ、オレも昔は乗ったけど。若いなあ。逞しいなあ。ちらりと車道に向けると、そのタイミングでバイクが駆け抜けていった。
「……ん?」
 ふと、立ち止まる。オレを追い抜いたバイクも、数メートル先で止まった。赤信号というわけではない。だって、信号よりずっと手前だ。歩道に寄っているのを思うと、止まったのではなく停まったのだろう。もう一度鼻を啜りながら、そろり、歩みを再開する。近付いていくうちに、その男は肩越しにこちらを振り返った。
 ああ、道理で、見覚えがあるわけだ。
「ドラケンじゃん」
「お、やっぱ三ツ谷か」
「久しぶり。今帰り? 店、こんな遅くまでやってるっけ?」
「や、〆が合わなくて。すげーかかったんだよ、今日」
「あらら。お疲れさん」
 片足を地面につけているとはいえ、バイクに跨っている状態。なのに、ドラケンの目線はオレとそう変わらなかった。相変わらず、でかい図体しやがって。
 曖昧に笑って見せると、そいつはおもむろにヘルメットを差し出してきた。自分が被っていたものではない。後ろに備え付けていたものだ。
「ん」
「え?」
「帰るとこだろ? 乗ってけよ」
 とん、とヘルメットが胸に押し付けられる。咄嗟に受け取ると、今度はその手がタンデムを叩いた。乗れよ。身振りでも、そう訴えかけてくる。
 ……これが、ただの仕事帰りだったなら。喜んで「サンキュー」と跨っていたことだろう。けれど、今日は、今晩は、そうもいかない。なんたって、尻が痛い。パンパンと何度も腰を叩きつけられたせいで、ひりひりとした痛みを発している。これで、バイクに乗ろうものなら、悪化するのでは。バイクの振動を、舐めてはいけない。
「えぇ、っと」
「ンだよ、ヤなの」
「……寒そうだなって、バイクって結構顔痛くなるじゃん」
「オレはな。後ろならそうでもねえだろ」
「アー」
 試しに足掻いてみたものの、瞬く間に一蹴されてしまった。寒いは、言い訳にならない。というか、この男、寒いくらい我慢しろよ、歩いて帰るより断然はえーんだから、という顔をしてやがる。ご尤も。ソレは確かに、仰る通り。
 寄るところがある、は、きっと使えない。それを使うなら、寒いの前に言うべきだったな。だが、「こんな時間に?」と聞き返された気もする。結局駄目じゃねえか。
 さっさと帰りたい。帰って、熱の渦巻く腹を慰めたい。それは、確か。だが、バイクか。バイクかあ。煮え切らない顔をしているオレを、ドラケンは胡乱な顔で眺めてくる。本当に、こいつには厚意しかないのだろう。しかし、タイミングの悪いことに自分は尻が痛い。というか、欲求不満も迸っている。バイクの振動で心配すべきは痛みよりもこっちか? 乗っているだけで、誤射するとか、アヘるとかはないだろうが。……しない、よな。流石に、ナイ。ナイと思いたい。
「なあ、早く」
「ぅ」
「つーか、ココでじっとしてる方が寒くね?」
「それは、ウン、そう」
「なら、ほら」
 ぽん、と、再びドラケンの手はシートを叩いた。長い指が、黒地を叩く。爪先は整えられているが、無骨な印象をしている手。骨ばったこの手で舐られたら、どれほど気持ちが良いことだろう。……じゃないだろ、そうじゃない。なんでドラケンの手にまで欲情しているんだ。そりゃあ、イイ手をしているとは思うけれど。この指の長さなら、結構奥まで入るなあとか、考えている場合じゃない。
―― 三ツ谷」
 あ、ばか、その言い方は、ずるい。
 鼓膜に届いた低い声に、背筋が伸びる。オマエに、そういうに呼ばれてしまったら、オレにできる返事は一つしかない。
「ぅ、っす」
「乗れ」
「ぅ」
 乗りたくない、と脳みそは訴えてくるが、手はのろのろと頭にヘルメットを被せる。そろり、両脚はバイクのすぐ脇にまで近寄った。静かにシートに手を乗せると、懐かしい振動が伝ってくる。これが、尻に、響くのか。不安だ。不安でしかない。
 きゅ、無意識のうちに、下唇を噛みしめていた。
「……そんな、嫌?」
「嫌、って、いうか、その……、実は、」
「おう」
「いま、オレ、」
 口から出てくる声は、一つの単語を乗せるたびにつっかえる。臀部が痛い。腹の奥が、疼いている。だから、バイクには、乗りたくない。いっそのこと、ありのまま言ってしまおうか。下手に言い訳するより、マシかもしれない。こいつのことだ、指差してゲラゲラと笑ってくるかもしれないけれど、なら仕方ねえな、って諦めてくれるかもしれないし。
 はく、と空気を吸い込んだ。
「ケツが、痛く、って」
 ああ、言って、しまった。 
「え、もしかして痔? そりゃたしかに、乗れねえわけ」
「違うから!?」
 言ってしまったのに、墓穴も掘ってしまった。
 食い気味に否定したせいで、ドラケンはアァ? と声を上げながら顔を顰めていた。こいつがそんな顔をするの当然だ、尻が痛い原因でパッと浮かぶのなんて痔くらいのもん。せめて、腰が痛いと言えば良かったろうか。それなら、デスクワークのせいで済ませられる。ちゃんと運動しろよ、くらいの小言を受け止めて解散できたろう。やらかした。
 うんうんと呻いていると、今度は呆れかえったみたいなため息が聞こえてくる。実際、呆れているのだろう。いつまで経っても、オレがはっきりしないせいで。でも、言えないだろ。下手なセックスのせいで、ケツが痛いなんて。
 顔はカッカと火を噴きそうなくらい熱いのに、ずるりと鼻が垂れてきた。この寒空の下、いつまでも突っ立っているわけにもいくまい。
「う、うぅ」
 なんだか、面倒になってきた。寒いせいだろうか、あれこれ考えるのが億劫に思えてくる。これを一般的に自棄というのだろうか。寒いし、ケツは痛いし、ドラケンは諦めてくれないし。
 くそ、言ってやろうか、オマエのダチは、アナルセックスなんてアブノーマルなプレイに興じてケツを痛めたと。まったく良くなかったけどな!
「みーつやぁ」
 間延びした声に、びくりと肩が上下する。呆れも混じっているが、妙に柔らかさを持っている。ちら、と顔を上げると、思いのほか優しい顔をしていた。
「な、なに」
「その痛いのってさあ、五分十分も我慢できねー感じ?」
「ぅえ、どう、……どうだろう?」
「オレん家までなら、大体バイクで十分かかんない」
「え」
「……ちょっと飛ばせば五分かな」
「おいバイク屋」
「はは!」
 カラッと笑うそいつに、こっちが呆けてしまう。飛ばすんじゃない。むしろ、オレのケツを思うなら安全運転をしてくれ。そのほうが振動は少ないだろ。たぶん。
 口を半開きにしたままドラケンを見つめていると、視界の端で、色気のある手がまたタンデムシートを叩いた。
「その顔、なーんか鬱憤溜まってんだろ? 聞くから、ウチ来いよ」
 だから、ちょっとだけガンバって。
 そう言われて、無理とはもう断れなかった。