「人を好きになるって、苦しいんやな」
 おもむろに、唐突に、なんの前触れもなく、その人は言った。あまりの脈絡のなさに、一瞬固まってしまうほど。手の中にあったマグカップを落とさずに済んで良かった。つい最近、買い替えたばかり。それも、おそろいで。おそろいなんて、子どもの頃散々片割れとこなして、もうこりごりとすら思っていたのに。気付くと、今隣にいるその人と物を揃えるのが楽しくなっていた。
 静かに息を吐いて、真っ暗な水面を見下ろす。鏡面のように、顔が映り込むことはない。ただ、ゆらゆらとカップの中で震えるだけ。その揺れを傾けるように一口含んでから、そっと座卓に置いた。かつ、り。陶器と木の板がぶつかる音がする。
 そうしてやっと、隣に視線を向けることができた。荒れ気味の両手で、しっかりとマグカップを包んでいる。はあ、あったか。そう聞こえてきそう。よく、この人がやる仕草だ。あたたかい飲み物を淹れたとき、いつもそうして手の平で熱を包み込んでいる。しばらく熱を感じてから、ようやく湯気を立てるマグカップに息を掛ける。それが、この人だ。
 しかし今日は、息を掛ける前に、その人の目は俺を捉えた。否が応とも視線が重なる。エアコンの乾いた空気の下で、かさり、絡む。
「なんのはなし、ですか」
「……ふ、」
 俺の質問には答えずに、その人は笑いの混じった吐息を漏らした。かといって、顔が綻んでいるかというと、そういうわけでもない。むしろ、困っているように見える。眉間にはうっすらと皺が刻まれているし、眉はハの字を描いている。細められた両目には、じんわりと切なさやら世知辛さが滲んでいた。
 なのに、口元だけは、笑みを携えている。
 不思議な顔だ。上半分と下半分で、随分と印象が違う。そういう、わかりにくくて曖昧な顔、しないでほしい。どう反応したらいいか、わからなくなる。
 喉を引き攣らせながら、どうにか空気を吸い込んだ。
「なん、すか……、その笑い方」
「ん? んん、笑えてへん?」
「口しか笑ってませんよ」
「……そう、かあ」
 笑ったつもりやったけど、上手くいかんもんやな。ぽそぽそと呟くようにその人は付け加えた。交わっていた視線は、向こうから逸らされる。
 ふ、つい先ほどの笑みに似た吐息が、コーヒーに掛かった。緩やかな弧を描いていた唇は、つんとほのかに尖る。けれどそれも一瞬で、すぐにやんわりとした曲線に戻った。
 色味も、厚みも淡い唇が、白い陶器に触れる。わずかばかり、マグカップは傾いて、一秒、二秒、小さくその人の喉仏が上下した。
 嫌な汗が背中を走る。何か言われる前に、話題を逸らしてしまおうか。いっそのこと、口を塞いでしまおうか。……そんな悪あがきが、この人に通じるわけがない。ぐ、と押しのけられて、いいから聞けと諫められるのが目に見えている。
 息苦しさを感じると同時に、その人はカップを置いた。悲しくも、凛とした瞳が、改めて俺を射抜く。
 はくり、唇が、動いた。
――わかればなし」
「いやです」
「まあ聞き」
「いやです……!」
「我儘言いなや。……ああいや、俺が言いたいのも我儘みたいなもんやし、今のなしな」
「ッきたさん!」
 声を荒げる俺とは対照的に、その人の声色は酷く落ち着いていた。普段とほとんど変わらない。震えも、掠れもしないとは。練習でもしていたんですか。いつか終わりはくるのだろう、そう決めつけて、何度もその身に沁み込ませるように反復していたとでも? あんまりだ。
 勢いに任せて肩を掴んだ。どうしてこんなこと言うんですか。俺、何かしましたか。なんで、別れるなんて言うんですか。いやだ、隣にいてほしい。ずっと俺のこと、見とってほしい。ぐちゃぐちゃと、それこそ我儘が頭の中を駆け巡る。
 ひゅ、吸い込んだ空気が、やけに刺々しく感じた。
「おれ、あんたのこと、ちゃんとすきです」
「ん」
「誰でもない、北さんが好きなんです」
「……ん」
「あんたじゃなきゃッ」
 もはやこれは「掴む」というより「縋る」だ。強引にこちらを向かせて、嫌だ嫌だと喚き散らした。指先が肩に食い込む。おかげで、肩のあたりに滅多にできないような皺が寄った。
 ン、曖昧な相槌とは異なる呻きが響く。あ、しまった、痛かった? ハッとするものの、どう力を加減したらいいかもわからない。混乱、甚だ。
 俺はこんなにもこの恋人に入れ込んでいたのか。
 理性の、まだ冷静な部分が、ぼんやりと今の有様を見下ろしていた。
「きたさん」
「……おん」
「いやや」
「すまんなあ」
「なんで、俺、いやです」
 別れるなんて。頭に浮かんだ言葉に、打ちひしがれそうになる。つん、と鼻の奥に痺れが走った。あわせて、目頭がちりちりと熱を持ち出す。泣きたくなんかないのに、目玉が水で満ちていく。一回でも瞬きしたら、零れてしまいそう。縋るの一言に、泣きながらと修飾はしたくない。だが、我慢すればするほど、涙腺は水を流し込んでくる。ああくそ、視界が歪んできた。すぐそばにいる愛おしい人の顔が滲む。
 きたさん。
 名前を呼ぼうとしたが、うまく発音できない。舌も回らなければ、息も絶え絶え。あまりの情けなさに、がっくりと首を垂れた。額が、かすかにその人の鎖骨に触れる。ついに瞬いてしまった瞼からは、ぱたぱたと水滴が落ちていった。それらの雫は、きちっと正座したその人の膝に沁み込んでいく。
「おれ、なにやらかしたんすか」
「なんも」
「なおします、あんたにだけはきらわれたない」
「嫌いになんかなってへんて」
「じゃあなんで別れるなんて、」
 別れるなんて。頭に浮かんだだけでゾッとした言葉を、音にしてしまった。自分の口から、声として絞り出してしまった。別れる。その言葉の意味が、全身にのしかかってくる。
 肩を掴んでいた手から、かくり、力が抜けた。ずるずると、北さんの腕を伝って床へと落ちていく。最後にその人の手の甲に指先が乗って、ようやく動きが止まる。……冷たい、な。その人の手は、自分のそれとは比べ物にならないくらい、冷えていた。冬だから? でも、暖房は効いている。室内は、十分すぎるくらいに暖かい。
 じゃあ、なぜ。
 愕然としながらも、一抹の胡乱に顔をあげれば、やはりその人は困った笑みを携えていた。
「俺がな、もう、あかんねん」
 ぽつりと言うと、北さんの右手は俺の指先をすり抜けた。すぐにその冷えた手は、俺の頬に触れる。昂ったせいで火照った顔には、その冷たさが気持ち良い。無意識に頬を寄せると、ふ、と笑みを孕んだ吐息がかかった。
「止めたい、て」
「え?」
「……どんなに辛かろうと走り続けるお前のこと、止めたい、て、思ってもうた」
 頬に触れている親指が、つ、と俺の目尻を撫でる。水が皮膚を擦れる感触。零れそうな涙を、あるいは滲み出てしまったソレを、拭ってくれたらしい。
「支えなあかんのに、立ち止まってまえて、言いそうになった」
 滔々と紡がれる音が鼓膜を震わす。耳鳴りはしない。頭痛もない。クリアに響いて、脳に届く。
 なのに、どうもその人が何を言っているか、理解できない。
 止めたいと、思った。立ち止まってしまえと、言いそうになった。俺、そんな、赤信号を渡るような真似、した?
 呆けたまま自分を顧みてみるものの、心当たりがない。この人が止めそうなこと、とは。嫌いなことならわかる。練習でやっていないことを、本番ですること。付け焼刃。でも、それは自分にとっては辛いことではない。むしろ、「やれそう」「やってみたい」と思ったことをやらずに過ごすほうが、自分には毒。この性分は、北さんだってよく知っている。止めようたって止められないと、理解しているはず。
 じゃあ、どれだ。辛いこと、とは。
 俺が辛くても、止められないこと、とは。
 ――そんなの、この世に一つしかない。
「お前にとって、バレーが唯一無二なのはよおわかっとお」
「……」
「それでも、身体壊しかけたり、窮屈そうなプレーを強いられたり、……がんばってんのに、成績残せへんて、悔しがったり」
「……、」
「そゆの、ずっと隣で見るん、しんどい」
 まさか、バレーとあんたを、天秤にかける日が来ようとは。
 はくり、生温い空気を噛むと、今度は向こうが項垂れた。俺の頬に触れていた手が、滑り落ちていく。咄嗟に掴んだ手は、まだ、冷たい。
 そういえば、手が冷たいときは緊張しているときだ、と、聞いたことがある。誰に聞いたのかはよく覚えていないが、……いや、あれは、えぇと、トレーナーだ。セッター経験者で、やけに顔面の整っている、あいつ。最終的に、「まあお前が緊張する日なんてないのかもしれないけどな」と鼻で笑ってきた、あの男だ。性格は悪いが、間違ったことは言わない。から、この手が冷たいイコール緊張しているというのも、本当のことなのだろう。
 北さん、緊張、してんのか。
 喋る素振りからは、とても、そうは見えないけれど。これほどまでに手が冷たくなるほど、思い詰めていた、のか。
 手を掴んだまま、丸い頭をぼんやりと見下ろす。手放したくはない。かといって、バレーボールだけは、譲れない。昔、言うたのにな。見ててくださいて。あれ、それは治が言うたんやっけ。どっちでもええか。北さん、もう、見るのしんどいて、言うてるんやし。そうか、しんどいんか。
 しんどい、かあ。
 ……自分がしんどいのは、いくらでも堪えようがあるけど、この人がそう思うのは、嫌やなあ。
「もう止めてまえて、何度も言いそうになって」
「あの、きたさん」
「もうあかんなあ、て」
「きたさん、」
「俺、お前の邪魔だけは、したないねん」
 俺のせいで、苦しい思いさせんのは、もっと、嫌やなあ。
「頼む、侑」
 ぎゅう、と冷たい手を握ると、きゅ、控えめに指先を握り返された。本当は、この手を離したくはない。そう、言っているかのよう。離したくはないが、離したほうが相手のためになるのでは。その疑念が纏わりついて、離れないのだろう。
 もし、俺が大人じゃなかったら。高校の頃のような強引さをまだ持っていたら。……苦しんでください、て、言えたのかもしれない。一緒に地獄を歩いてください、と、口説けたのかも、しれない。
「別れさせてほしい」
 一息にその人は吐き出した。相変わらず声は震えても掠れてもいない。ただ、代わりに、ぎゅうと握っている手が、かすかに震えていた。
 努力が報われるとは限らない。俺が、俺たちが相手にする「世界」という奴らも、同等かそれ以上の努力と善処を重ねているのだから当然だ。埋められないフィジカルな不利を覆すためには、正しい努力だけじゃ足りない。辛苦ばかりが付き纏う。それでも、俺はこの世界からまだ手を引くことはできない。し、引きたくもない。
 どんなに苦しもうとバレーを手放せない自分と、その苦しむ様をもう見ていられなくなったこの人。
 潮時、なのだ。
「……わかりました」
 もはや、そう答えるしかあるまい。
 断腸の思い、というほど、強い決心は必要なかった。背中を押したのは、仕方がないという諦念。おかげで、返事にはろくな感情を込められなかった。ひどく冷たい響きになったと思う。穏やかに言えたら良かったのに。そう思ったところで、発してしまった響きは返ってこない。
 終わった。終わってしまった。何年と続けてきて、これからも続くと思った関係が、予想外のところで絶えることになってしまった。
 今、この瞬間、握っている手を離したら、きっとこの人はそのまま姿を眩ますのだろう。根拠のない確信が胸を漂う。指先を握られていた感触が、遠のいた。次は、俺が手を離す番。
 別れを懇願された。その別れを、了承した。だから、ほら、手を離せ。……そう、頭は言い聞かせているのに、手には力が籠る一方。
 よろめくように、その人は顔を上げた。
「……あつむ、手」
「っ」
 いっそのこと、強引に振り払ってくれたら。他力本願な思考が掠める。だって、俺、別れたくない。北さんのこと、手放しなくない。わかったって言うたけど、ほんとは。でも、あんたを苦しませたくないなってのも、本音。
 みっともないが、割り切れない。
 あつむ。再び俺を呼びながら、その人はこてんと小首を傾げて見せた。はい、と言って、手を離すのが、大人。いや、こうやってあやされている時点で、大人とは言い難いか。
 ならばいっそ、悪あがきでもしてしまおうか。他力本願に続いて、不埒な欲が滲んでくる。
 ぎゅぅう、と、手を握る手に、いっそう力を込めた。
「っなあ、侑、」
「後生です」
「ぇ」
「情けないとか、わかった言うたのに、全然わかってへんとか、そういうん承知の上で、頼みが、あります」
「それは」
「別れないでほしい、て、は言いません」
 本当は言いたいけど。
 幼い我儘をぐっと飲み込んで、愛おしい人の、少しだけ潤んだ瞳を見やった。
――今日が終わるまでは、恋人でいてください」
 めいっぱい、苦しい思いをさせた分、いくらかだけでも、甘やかさせてください。
 返事を聞くより早く唇を寄せると、触れる直前に、ぎゅう、手を握り返してくれた。

◇◆◇◆

 やんわりと口付けてから、汗ばんだ肌を抱き起こした。肩口から肩甲骨、背骨へと移動して、脊椎の形を一つ一つ確かめるように撫で下ろしていく。既に何度か達している体には、あまりにもじれったい刺激なのだろう。ん、んっ、とかすかな喘ぎを漏らしながらその人は体をくねらせる。
「きもち、よさそ」
「んぅ……、きもちぃい」
 独り言のつもりで呟けば、熱に浮かされた声が返ってくる。素直すぎる反応に、つい頬が緩む。普段はもっと頑なに理性を張り巡らせているから、こんなふうに蕩けた声、滅多に聞かせてくれない。せいぜい、後ろで絶頂を迎えたあと、畳みかけるように最奥を穿つときくらい。あれはイイ。すっかり体は弛緩して、俺のされるがままに揺さぶられながら、ナカはちゅうちゅうと俺を締め付けてくれるから。まあ、体にも頭にも負担が大きいから、毎回はできないのだけれど。
 今回だって、やろうと思えばできた。ついさっき、ナカで達したばかり。そのまま奥を責め立ててしまおうかとも、思った。最後だからこそ、そういうセックスをするのも考えた。
 でも、どうせなら。ひたすらに甘やかに蕩けさせてみたいなと、思ったのだ。暴力的に犯すのではなく、ゆっくり、じんわりと熱を保たせて、二人でどこまで溶けて墜ちていくようなセックス。思い出すたびに、じん、と脳の奥が蕩けてしまうような、そういう痕跡を、この人に刻み付けたくなった。
「ぁ、ぁう、ん」
「ん~?」
 わざと唇を外すように口付けていると、その人の両手が俺の頭を包んだ。指先が、髪の毛の下に潜ってふわふわと波打つ。いけず、声としては聞こえてこないが、指先からそんな意志が伝わってきた。
「あつむぅ」
「はあい」
 舌ったらずに呼ばれてなお焦らせるほど、俺はこの人に厳しくはなれない。なんやかんや、言うことを聞いてしまうのだ。手の平の上で転がされるともいう。思うままに動かされるのを、癪に思ったのは、ほんのわずかな期間だけ。今日だって、別れたい、という言葉を俺が受け入れる格好になったぐらいだ。良いのだ、それで。この人が、満たされるのなら。
 ぱたんとその人が瞼を閉じるのに合わせて、ふわり、唇を重ね合わせた。薄いわりに、柔らかなソコ。いつまでも重ねていたくなる弾力。何度か食むように吸い付けば、とろりと目が緩んだ。それどころか、向こうから舌を差し出してくれる。実に積極的。いつもこうだったらいいのに。……嘘、性に控えめな普段があるからこそ、こういう積極性が映えるのだ。
「ん、」
「ぅ、ンん、んっ」
 鼻に抜ける声が堪らない。夢中になって俺に口付けてくるのも、可愛いったら。押されるままに体を倒していくと、どふ、背中がベッドに沈み込んだ。ぐしゃりと寄せた羽毛布団は、頭や肩の下敷きになる。あーあー、押し倒されてしまった。覆いかぶさられた、といっても良いのかも。うっすらと目を開ければ、キスに耽るその人がいる。熱が心地いい。この時間が、いつまでも続けばいいのに。
 背骨を辿っていた手は、ちょうど腰に辿りついた。ね、北さん。このキス終わったら、また、ナカを気持ちよくしても良いですか。そんな伺いを込めて、くるりと腰を撫ぜた。
「あっ……」
「お」
 と、ちゅぷっと唇が離れる。粘性の強い唾液がつうと垂れて、こちらの唇に落ちた。
「嫌やった?」
「ひ」
「北さん?」
「ぁ、やっ、そこ撫でんの、やめ」
「んん?」
 そこ、とは。腰のコト? つ、と指先で同じ辺りを撫でると、たちまち俺の上に乗った体がびくんと震えた。そのまま数秒強張っては、ひくんと震え、また力んではぴくぴくと震える。まるで達したかのよう。いや、これは達したのか? だが、腹が濡れるような感触はない。
「きたさーん?」
「ぁ、ァう、う~……」
 確かめるようにもう一度腰を撫でると、脱力した、だらしのない喘ぎが漏れだした。
 達したのはどうやら間違いない。この反応から察するに、後ろだけでイッたときに近い。腰、撫でられただけで、女の子イキ、か。今日のこの人、めちゃめちゃやらしい。やはり、最後だから? ……あかん、こういうの考えんの、やめよ。考えるとしても、日付が変わってから。今はまだ、恋人なのだから。
 俺の上に乗せたまま、じ、とその人の息が整うのを待つ。ついでに理性も戻ってきたらどうしよう。もうできへん、終わりにしよ、と言われたら困る。だって俺、一回しかイッてへんし。いざとなったら、……駄々を捏ねるか。もっとしたいもっとしたいて。この人の手の中で転がされるのが基本ではあるが、なんだかんだこの人も俺に甘い。ぐずぐずと縋って頼み込めば、たぶんもう一回くらいは許してくれる。きっと。
 天井を眺めながら、くったりとする身体の重さを噛み締めた。そっと目を閉じれば、その人の匂いが意識の中心に入り込む。この匂いも、好きだ。何の匂いかと聞かれても、「北さんの匂い」としか表現できないが、とにかく落ち着くのだ。すぅ、と吸い込むと、胸がぽかぽかと温かくなる。
 ああ、本当に、好きだ。
「……侑、眠いん?」
「え、眠ないすけど」
「ん、ならええわ。……つづき、しよ」
「……フッフ、喜んで」
 どうやら心配は杞憂で済んだらしい。一つ笑みを浮かべてから、ぐるんと体を反転させた。一瞬にして、北さんは俺の下に。ひしゃげた羽毛布団の上に、その人の淡い髪がぱさりと散った。
 目尻は赤い。涙目がち。火照った肌に手を乗せると、汗ばんでいるせいもあって、もったりと吸い付いてきた。その肌に引っ掛けるように手の平を這わせる。ず、ず、胸の中心からへそのほうへ、一度離してもう一度胸の真ん中に戻る。今度は、ず、ず、横に手の平を移動させる。
「んンッ」
「ふ、乳首、きもちいですか」
「ん」
 そのうちに、ぷくりと腫れた突起に引っかかった。腰を撫でられるだけで達してしまうくらいだ、ココもくりくりと責めたらイッてしまうのではないだろうか。むくりと首を擡げた悪戯心のままに、わざとらしく、その丸い突起を指で挟んだ。
「あ……」
 平常時より膨らんではいるものの、まだ柔らかい。指先に力を込めれば、簡単に潰れてしまうほど。北さんとしても、まだくすぐったいの域を出ないらしい。何度か摘まんでみるものの、ぽやんとした顔のまま俺の指先を眺めるだけ。
 じゃあ趣向を変えよう。摘まむのを止め、大きく両手を開いた。そのまま、北さんの胸の上に乗せる。すっぽり、とは言わないものの、それなりの面積は覆うことができた。そして、ゆっくり、やんわり、その人の胸を揉んでいく。
「ん、っふふ、くすぐった」
「えぇ、くすぐったいだけえ?」
「くすぐったい、だけ、ン、ふは、野郎の胸揉んだってなんも楽しないやろ」
「ん~、俺は楽しいです」
「ほんまに?」
「だって、北さんのおっぱいですよ」
「おっぱいて、こんな貧相な胸に」
「だって、たまーにココ、膨らみますし」
「ん、ふくら、む?」
 そう、膨らむんです。やわやわと左手では揉む動作を続けながら、そうっと右手の指をを乳輪との境に乗せた。皮膚の、薄い部分とそうでない部分をサリサリと指が行き来する。
「ちょうど、このへんから」
「……っふ、ん」
「ぷく、って、ふわって、大きくなるんです」
「んっ、ァくすぐった」
「ね、北さん、くすぐったい、だけ?」
「ぁ」
 掠れそうな声で問いかけながら、くるくると円を描くように突起の周囲をなぞる。指の腹だけで撫でたら、次は爪先で。乳輪との境目を掠めてみたり、突起の付け根をくすぐってみたり。徐々に存在を主張するように勃起しだしたソコにはあえて触れず、その周りとただひたすらに、責めたてていく。
「ァ、あ、ぁあ~……」
「ふふ、見て」
「ぇ」
「北さんのおっぱい、大きくなった」
 パ、とそれまで揉んでいた左手とあわせて乳輪をくすぐっていた右手を離した。再び蕩けだしたその人の視線が、自らの胸部に向けられる。
 片一方は、普段となんら変わらない、小さな丸。――もう一方、は。
「ぁ、うそ」
「なんなら、自分で触って、確かめみてくださいよ」
「へ、ぁやっ、あ、ァ」
「ほら、コリコリしてるでしょ」
「ぁ、あンっ、ァ」
 手を重ねるようにしてぶっくりと膨れて勃ちあがったソコに触れさせた。ささくれのある指先が、きゅうとその突起を摘まむ。もちろん、その程度で潰れるような硬さではない。芯があって、転がすように捏ねることができる。
 最初は、驚いて手を離してしまわないようにと俺の手も添えていたが、すぐにそれも必要がなくなった。くにくに、こりこりと、その人は自らの乳首を弄びだす。しばらくは、俺が勃たせた一方だけを、そのうちに、平らなままだったらもう一方にも手が伸びていく。
 さあ、俺がやったみたいに、上手におっぱいで気持ちよくなってください。
 じっとりと俺に見下ろされているのにも気付かずに、北さんはカリカリと自分の乳首を引っ掻き出す。くすぐったり、抉ったり、突起の切っ先に爪を食い込ませてみたり、これでもかと膨らみを引っ張ってみたり。あぅあぅと気持ちよさを示す嬌声をあげながら、乳首での自慰に耽っていく。
 えっちやなあ、俺も触りたいなあ。ちりちりと目の前の淫らな光景に理性を焼き切らせながら、猛りだしている自身に手を伸ばした。すっかり蕩けて涎を零す顔を見ていると、いっそう欲が掻き立てられる。泣いて善がっているのとほとんど変わらないその顔に、ぶっかけたい。もしくは、性感帯に成り代わった胸に白濁を塗りつけたい。
 指で何度か扱いただけで、すっかり陰茎は腹につくほどに反り返った。それどころか、もっとよがりたいとガマン汁を滲ませている。
「ふー……」
 深く息を吐き出して、じりじりと膝立ちで移動する。相変わらず乳首に夢中になっている北さんは、俺の不埒な行動には気付かない。いや、気付いたところで、ぽけ、と俺の反り返ったナニに見惚れるだけか。欲に溺れだしているのを思うと、かっぱりと口を開けて奉仕してくれる可能性だってある。
「ぁ、あー、ぁあ゛」
「きーたーさん、」
「ぅ?」
 適度ににじり寄ってから、張りつめた陰茎に手を添えた。腰を下ろしながら、熱棒を、ぐ、その人の胸に近付ける。膨れるどころか、弄りすぎて真っ赤に熟れた突起に、ぴたり、亀頭が触れた。
「ひゃ」
「ネ、俺のコレも、気持ちよくしてくれませんか」
「ぁ、アっ、ォあ」
「は、っはは、かった、乳首びんっびんやん」
「っあ、あ゛、あッ」
 切っ先を乳首にこすり付ければ、くに、ぐに、と不思議な弾力が伝ってくる。気持ちいいかと言われたらそうでもない。が、この人の膨らんだ乳首に擦りつけていると思うと、妙な昂揚感はある。さすがに変態が過ぎるだろうか。すり、ずり、と擦りつけながら、口が開きっぱなしになった北さんの顔を見やった。食い入るように、俺のペニスを見つめている。目が逸らせないと言わんばかり。ぼっと顔も発火したみたいに赤くなっている。この顔に、かけたい。ぶっかけたい、な。
 ごくり、唾を飲み下しながら、先っぽをその人の顔のほうに向けた。
「あ、やっ」
「……やっぱ、あかん?」
「ぅ、え」
「ぶっかけたい、なあ、て思たんです、けど」
「ぶ」
「ぶっかけ、たい」
「ぅ、その、それ、やったら、」
「お……?」
 よろよろと、北さんは腕を持ち上げた。おかげで、腫れあがった乳首がよく見える。……気にするべきは、そこじゃあないか。快感による気怠さで重たそうな腕は、うらりと宙を彷徨ってから、俺の腹を押した。下がれ、退け。たぶん、そういうことを指している。ぶっかけるのは、許されないらしい。仕方がないか、ダメならダメで構わないのだし。
 ため息になり切らない吐息を出しながら、ずるずると膝立ちのまま後退る。俺の下腹から、北さんの指先が、離れた。
 それと、ほぼ同時に。
「え」
「んッ……」
 する、と、その人の両脚が、俺の脚の間から抜け出した。その二本のおみ足は、胸につけるような格好て一度畳まれる。ついさっきまで俺に触れていた手は、その畳まれた脚の、膝裏に引っかかった。
 チリッ、頭の中で、何かが焼ける。
「こ、っちに、」
 喉を引き攣らせながら、その人は声を絞り出した。すっかり羞恥が滲んでいる。どこもかしこも、体中真っ赤にしながら、吐き出される、声。
 あわせて、ぱっくりと開いた下肢から、視線を逸らせなかった。
「いれて……、ほしぃ」
 俺に退けと腕を突っぱねたのは、脚を抱えるため。膝裏に手を添えたのは、その抱えた脚を、拡げる支えにするため。
 ふー、ふー、と荒くなった呼気が聞こえる。それは、腰を浮かせて、後孔を曝け出しているこの人の呼気? それも正しいが、この、荒い吐息は、自分のものでも、ある。
 ひく、と縁が震えた。数十分前まで自身を埋めていたのもあって、ぽっかりとまだ孔が開いている。ぬらりと淫靡に滑っているのは、この人が漏らしたカウパーと、解すときに流し込んだ相当量のローションの残滓のせい。今更潤滑剤を足す必要はないだろう。このままあてがっても、きっと、づるりとこの人は呑み込んでくれる。
 ぷ、ちゅ。口付けるようにして、切っ先を、熟れた蜜口に当てた。
「あ」
「ふ、」
「ァああっ、ア゛」
 ほら、見ろ。
 ほとんど力をかけていないのに、いとも簡単にココは雁首まで呑み込んだ。ぬっとりとした粘膜が、剥き出しの切っ先にひたひたと張り付いてくる。すっかり俺の形を覚えてくれたみたい。確かめるように浅いところを擦れば、縁にきゅうきゅうと締め付けられた。けれど、中は蕩けるように柔らかく、俺を包みこんでくれる。
 今日が終わって、明日になって、何年か経ったら、この人は俺ではない別のパートナーと出会うことになるのだろう。それは女かもしれないし、男かも、しれない。
 ……こんなふうにメスの悦を覚えた身体で、女を抱くことはできるのだろうか。何年かかけて、ゆっくりとこの快感を忘れられれば、まあありえない話でもない。
 じゃあ、相手が男の場合は? この人は、俺の知らないところで、俺の知らない男に、身体を許す、と。今みたいに、ぱっくりと切っ先を呑み込んだトロ顔を晒すのか。……反吐が出そう。この人のこんな淫らな様、誰にも知られたくない。俺だけのこの人であってほしい。……もう、そんな我儘を言うことは、できなくなる。
 ぐ、ぷ。ほんの数ミリ押し込んだところで、腰を止めた。前立腺にすら、届かない位置。
 ふる、と、抱えられていた脚が揺れた。
「ん、も、あつむぅ、焦らすんやめて」
「ヴえっ、あ、すんませ」
「はよ、おく、」
 ハッと我に返ると、性欲に溺れ切ったその人に、息も絶え絶えに強請られた。焦らしたつもりはない。少し、考え事をしていただけであって、……いや、この人にとっては焦らされたことにかわりはないか。
 少しだけ上体を倒して、その人に覆いかぶさるべく、横たわった体を挟む場所に両手をついた。
「おくまで、すね」
「んっ」
「……苦しかったら言うてくださいよ」
「い、から、はよ」
「あー……、急かさんといて、最後なんやし、ゆっくりしましょ」
「う、ゥ」
「ネ」
 ず、ぷ。じんわりと、かける圧を増やした。早く、早くと性急に求めてくるその人を遮って、わざと時間をかけて、自身を埋めていく。
 初めてしたときは、半分も入らへんかったなあ。顔面真っ青になって、それでも平気、平気て言い張るこの人のことを「何が平気や、好きな子泣かせる趣味ないわ」と叱りつけたっけ。
 そのうちに、慣れてきて、俺のほとんどを受け止めてくれるようになった。そのさらに奥がある、と、知っていたし、押し進めたいとこっちが性急になったこともある。けれど、この人の「こわい」の一言を前にしたら、強引になんてできなかった。
 ほんとうに、深いところまで咥え込むようになったのは、この一年の話。俺が根元まで穿ったことがないと気付いて、おろおろしながら「したいん?」と控えめに聞いてきたこの人、めっちゃ可愛かった。ちょうど、俺の、というか、俺の所属チームが良い結果を残せていないのもあって、俺の気を紛らわせようとしてくれたのかも。うわ、健気すぎん? やっぱ可愛えわあ。
「あっ」
「もう、ちょっと、」
「ァ」
 ぐ、っちゅん。根元まで捻じ込んだと同時に、切っ先は深いところの壁に沈んだ。腸壁は俺の形そのとおりにきゅうきゅうと程よく締め付けてくれる。これだけでも充分すぎるほどに良い。強引に抜き差しをしなくても満たされていく。
 ただ、受け入れている側もそうとは限らない。
「あっ、あ~……、ぁヴん」
「ん、今とんとんしますね」
「ひ、とん、とンして、おく、おくぅ」
 軽く息を整えてから、ぐ、と、体重をかけながら奥を突く。突くというほど激しくはないか、押す、とか、押し込む、とか、せいぜいそんなもん。
 無茶な圧に、肉が、骨が、悲鳴をあげる。それでも、この人は深いところを求めてきた。こちゅん、こちゅん、奥にめり込ませては、先っぽにちゅうっと吸い付かれる。
「ぉ、あヒ、ひギュッ……、ァヒ」
「っあ~……」
「ぁ、あつむ、ちゅぅ」
「んっ」
「きす、して」
 いつの間にか、膝を抱えていたはずの腕は俺の背に回っていた。ぐずぐずになった必死な顔で、息も絶え絶えに俺を求めてくる。俺もね、今、キスしたいなあって、思てたんです。相性ええわ、俺ら。
 くに、と鼻先をぶつけてから、ぽやっと半開きで固定されつつある唇に、甘く噛みついた。薄いソレを存分に吸って味わってから、ぬるりと舌を入れ込む。あまり長くはないその人の舌をくすぐってみたり、前歯や犬歯を撫でてみたり、そうそうこの人は上顎も弱いんだった。つ、と尖らせた舌先で撫でながら、ごりゅ、と下からは圧を掛ける。
 ひく、びく、押し潰した体が震えだす。もうすぐかな。俺もそろそろ、イッてしまいそう。ぐちゅ、ぬぢゅ、下劣な水音が、量を増していく。
「ふ、っふふ」
「なぁにわろてはるんですか」
「ん~、ふふ」
 おもむろに、組み敷いた体が、それまでとは異なる震えを見せた。半ば、朦朧としながら尋ねると、熱に浮かされたその人は、至極、幸せそうに、顔を綻ばせた。
――ええおもいで、もらえたなあて」
 それは、このセックスのこと? それとも、俺と付き合っていたこと、すべてをさして?
 後者だったら、いいなと、思う。